旧唐書 ◎高宗中宗諸子

旧唐書

◎高宗中宗諸子

○燕王忠・原王孝・澤王上金・許王素節・孝敬皇帝弘(裴居道附)・章懷太子賢(賢の子邠王守礼)・懿德太子重潤・庶人重福・節湣太子重俊・殤帝重茂

高宗諸子

高宗に八人の男子あり:則天順聖皇后は中宗・えい宗及び孝敬皇帝弘・章懷太子賢を生み、後宮の劉氏は燕王忠を生み、鄭氏は原王孝を生み、楊氏は澤王上金を生み、蕭淑妃は許王素節を生む。

燕王 忠

燕王忠、字は正本、高宗の長子なり。高宗が初めて東宮に入りし時に忠が生まれ、弘教殿にて宮僚を宴す。太宗宮に幸し、顧みて宮臣に謂ひて曰く、「頃来王業稍く可なり、酒食無きに非ず、而して卿等の宴会を唐突するは、朕初めて此の孫有り、故に相就きて楽しみを為すのみ」と。太宗酒酣にして舞ひ起こし、以て群臣に属す、在位是に於て遍く舞ひ、日を尽くして罷み、物を賜ふこと差有り。

貞観二十年、陳王に封ぜらる。永徽元年、雍州牧を拝す。時に王皇后子無く、其の舅中書令柳奭、後に説きて忠を立てて皇太子と為さんことを謀り、忠の母賤しきを以て、其の己に親しむを冀ひ、後然りとす。奭は尚書右僕射褚遂良・侍中韓瑗と共に諷し、太尉長孫無忌・右僕射于志寧等と、固く忠を立てて儲后と為さんことを請ふ、高宗之を許す。三年、忠を立てて皇太子と為し、天下に大赦し、五品已上にして子父の後を為す者に勲一級を賜ふ。六年、元服を加へ、大辟罪已下並びに一等を降ずる制を下し、大酺三日す。其の年、王皇后廃せられ、武昭儀の生める皇子弘年三歳。礼部尚書許敬宗旨に希ひて上疏して曰く、「伏惟ふに陛下は千古を憲章し、萬邦を含育し、爰に聖慈を立て、天下に母儀す。既にして皇后子を生み、少陽に処るべし。塗山に出づ、是れ吾が君の胤と謂ふべし;夙に胎教を聞く、宜しく問豎の心を展ぶべし。乃ち復た孽を為して宗を奪ひ、藩邸に降り居らしむ、是れ前星の彩を匿はしめ、瑤嶽の峰を韜めしむるなり。臣愚誠を以てし、窃かに未だ曉らざる所なり。且つ今の守器は、素より皇嫡に非ず、永徽爰に始まり、国本未だ生ぜず、権に彗星を引き、越えて明両に升る。近くは元妃載誕し、正胤神に降り、重光日融け、爝暉息むべし。安んぞ以て此の傍統を茲にし、温文を叨り据ゑんや?国に諍臣有り、孰か其の責を逃れん!窃かに惟ふに息姑の克譲は、以て思斉すべく;劉強の藩を守るは、宜しく往軌を遵ふべし。太伯の跡を追ふ、亦た休ならずや?延陵の武を踵ぐ、故に常に安し。寧んぞ枝幹を反植し、久しく位を天庭に易へ;衣裳を倒襲し、震位に方に違はしめんや?蠢爾たる黎庶、誰にか心を係がん?後昆に裕を垂れ、将に何を以てか美を播かん?」と。高宗之に従ふ。顕慶元年、忠を廃して梁王と為し、梁州都督を授け、実封二千戸・物二万段・甲第一区を賜ふ。其の年、房州刺史に転ず。

忠年漸く長大し、常に自ら安からざるを恐れ、或ひは私に婦人の服を衣て、以て刺客に備ふ。又た数たび妖夢有り、常に自ら占卜す。事発し、五年、庶人に廃し、黔州に徙り居し、承乾の故宅に囚ふ。麟徳元年、又た忠が西台侍御上官儀・宦者王伏勝と謀反を謀りしと誣ひ、流所に於て死を賜ふ、年二十二、子無し。儀等誅せらる。明年、皇太子弘表を上りて収葬せんことを請ひ、之を許す。神龍初、燕王を追封し、太尉・揚州大都督を贈る。

原王 孝

原王孝、高宗の第二子なり。永徽元年、許王に封ぜらる。三年、并州都督を拝す。顕慶三年、累ねて遂州刺史を除く。麟徳元年薨じ、益州大都督を贈り、諡して悼と曰ふ。神龍初、原王・司徒・益州大都督を追贈す。

澤王 上金

澤王上金、高宗の第三子なり。永徽元年、杞王に封ぜらる。三年、遥かに益州大都督を授く。乾封元年、累ねて転じて寿州刺史と為り、罪有りて官を免ぜられ、封邑を削り、仍って澧州に安置せらる。上金既に則天の悪む所と為り、所司旨に希ひ、罪失を求索して以て之を奏す、故に此の黜有り。永隆二年二月、則天抗表を矯ひて杞王上金・鄱陽王素節に許し同朝集の例に預からしめ、義陽・宣城二公主は母蕭氏の譴を獲たるに縁り、夫に従ひ外官に在り、官職を授けんことを請ふ。上金を以て沔州刺史と為し、素節を岳州刺史と為し、仍って朝集に預からず。嗣聖元年、上金・素節、義陽・宣城二公主哀に赴くことを聴す。文明元年、上金畢王に封ぜられ、素節葛王に封ぜらる。又た上金の封を改めて澤王・蘇州刺史と為し、素節許王・隆州刺史と為す。垂拱元年、陳州刺史に改む。永昌元年、太子左衛率を授け、出でて随州刺史と為る。載初元年、武承嗣酷吏周興を使ひて上金・素節の謀反を誣告せしめ、都に召し至らしめ、御史台に係ぐ。舒州刺史・許王素節は都城南驛に於て殺さるを見、因りて其の支党を害す。上金恐懼し、自縊して死す。子義珍・義玫・義璋・義環・義瑾・義遂の七人並びに配流して顯州にて死す。神龍初、上金の官爵を追復し、庶子義珣を嗣澤王に封ず。

先づ是に、義珣は嶺外に竄け、傭保の間に匿る。及んで紹封すること幾も無く、人有りて義珣は上金の子に非ず、假冒して爵を襲ふと告ぐ。義珣自ら明らかにすること能はず、復た嶺外に流さる。開元初、素節の子璆を嗣澤王に封じ、上金の後を継がしむ。十二年、玉真公主表を上りて称す、義珣実は上金の遺胤なり、嗣許王瓘の兄弟其の封爵を利し、謀り構へて之を廃すと。今上是に由りて璆の王爵を削り、復た義珣を召して嗣澤王と為し、率更令を拝す。此に因りて、諸宗室本宗に非ざる襲爵は、中興已後に継ぎて嗣王と為る者は、皆な宗に帰するを令し、其の爵邑を削るなり。

許王 素節

許王素節は、高宗の第四子である。六歳の時、永徽二年に雍王に封ぜられ、まもなく雍州牧を授けられた。素節は一日に古詩賦五百余言を誦することができ、学十徐斉聃に師事し、精勤して倦まず、高宗はこれを甚だ愛した。また岐州刺史に転じた。十二歳の時、郇王に改封された。

初め、則天が未だ皇后でない時、素節の母蕭淑妃と寵を争い、互いに讒毀し合った。六年、則天が皇后に立てられた後、淑妃はついに則天に讒毀され、幽閉されて辱めを受け殺された。素節は特に讒嫉を受け、申州刺史として出された。乾封初年、勅を下して曰く、「素節は既に旧疾あり、入朝するを須いざるべし」と。しかるに素節は実は疾無し。素節は自ら久しく朝覲に背いたことを以て、遂に『忠孝論』を著して意を表したが、詞多くは載せず。時に王府倉曹参軍張柬之が使いに因り密かにこの論を封じて進上したところ、則天これを見て、ますます悦ばず、贓賄の罪を誣いて、鄱陽郡王に降封し、なお袁州に安置した。儀鳳二年、終身禁錮とし、また岳州に改めて安置した。永隆元年、岳州刺史に転じ、後に葛王に改封された。則天が称制すると、また許王に進封され、累ねて舒州刺史を除かれた。天授年中、上金と共に誣告され、都に追赴した。州を発するに臨み、遭喪して哭する者あるを聞き、左右に謂いて曰く、「病死は何由かして得べく、更に何ぞ哭するを須いんや」と。都城南の龍門駅に至り、縊り殺され、年四十三、則天は庶人の礼を以て葬ることを命じた。中宗即位し、許王を追封し、開府儀同三司・許州刺史を贈り、なお礼を以て改葬し、乾陵に陪した。

素節が殺された時、子の瑛・琬・璣・瑒ら九人は皆則天に殺され、ただ少子の琳・瓘・璆・欽古は年小なるを以て、特に長く雷州に禁することを命じた。神龍初年、瓘を嗣許王に封じた。開元初年、琳を嗣越王に封じ、以て越王貞の後を紹がしめた。璆を嗣澤王に封じ、以て伯父澤王上金の後を継がしめた。琳は、官は右監門将軍に至り、卒した。瓘は、開元十一年に衛尉卿となった。伯上金の男が承襲することを得ざるを抑えたことを以て、弟の璆をこれに継がせ、たちまち瓘を譴って鄂州別駕とした。ここにおいて詔を下してその外継を絶ち、乃ち故澤王上金の男義珣を嗣澤王とし、江王禕を信安郡王とし、嗣蜀王褕を広漢郡王とし、嗣密王徹を濮陽郡王とし、嗣曹王臻を済国公とし、嗣趙王琚を中山郡王とし、武陽郡王継宗を澧国公とした。瓘は累ねて邠州刺史・秘書監・守太子詹事に遷った。璆は性仁厚謹願にして、家に居て邕睦、朝廷これを重んじた。天宝六載に卒し、蜀郡大都督を贈られた。瓘は晩年に子あり、璆の子益を嗣がせた。及び卒した時、解・需の二子あり、皆幼孺なり。十一載、益は許王を襲封した。十四載、解は楊銛の女を娶り、乃ち許王を襲封した。璆は初め嗣澤王たりしが、郢国公・宗王卿同正員に降り、特に褒信郡王に封ぜられた。『龍池皇徳頌』を進め、宗正卿・光禄卿・殿中監に遷った。天宝初年、重ねて宗正卿を拝し、金紫光禄大夫を加えられた。璆は弟に友にして聡敏、善を聞けば驚くが如く、宗子の中に一善あれば、薦め抜かざるは無く、故に宗枝で省闥に居る者は、多くは璆の挙げたる所なり。九載に卒し、江陵大都督を贈られた。

孝敬皇帝 弘

孝敬皇帝弘は、高宗の第五子である。永徽四年、代王に封ぜられた。顕慶元年、皇太子に立てられ、大赦して改元した。弘は嘗て率更令郭瑜に『春秋左氏伝』を受けたが、楚子商臣の事に至り、巻を廃して歎じて曰く、「此の事は臣子の忍びて聞く所に非ず、経籍は聖人の垂訓なり、何故に此れを書くや」と。瑜対えて曰く、「孔子『春秋』を修むるに、義は褒貶を薦め、故に善悪必ず書す。善を褒めて以て代に示し、悪を貶して以て後を誡む、故に商臣の悪をして、千載に顕わしむ」と。太子曰く、「唯だ口に道うべからずのみならず、故にまた耳も忍びて聞かず、請う余の書を改めて読まん」と。瑜再拝して賀して曰く、「裏名勝母、曾子入らず;邑号朝歌、墨子車を回す。殿下誠に孝は冥に資し、睿情は天に発す、凶悖の跡、視聴に黜く。徳音に循奉し、実に深く慶躍す。臣聞く、上を安んじ人を理むるは、礼に善きは莫しと、礼に非ざれば以て天地の神に事うること無く、礼に非ざれば以て君臣の位を弁ずること無きを、故に先王重んず。孔子曰く、『礼を学ばざれば、以て立つこと無し』と。請う『春秋』を停めて『礼記』を読まん」と。太子これに従った。龍朔元年、中書令・太子賓客許敬宗、侍中兼太子右庶子許圉師、中書侍郎上官儀、太子中舎人楊思儉らを命じて文思殿に於いて古今の文集を博采し、その英詞麗句を摘み、類を以て相従え、五百巻を勒し、名づけて『瑶山玉彩』と曰い、表を上った。制して物三万段を賜い、敬宗以下に級を加え、帛を賜うこと差あり。総章元年二月、親しく司成館に釈菜し、因りて請うて顔回に太子少師を、曾参に太子少保を贈らんことを、高宗並びにこれに従った。

時に勅あり、辺遼の軍人逃亡して限内に首せず及び更に逃亡する者有らば、身並びに斬に処し、家口は官に没すと。太子上表して諫めて曰く、「窃に聞く、所司は背軍の人を以て、身久しく出でず、家口皆官に没すべく擬すと。亦た限外に出首し、未だ断罪せられず、諸州に囚禁せられ、人数甚だ多し。或いは臨時に病に遇い、軍伍に及ばず、茲に縁りて怖懼し、遂に即ち逃亡す;或いは樵采に因り、賊に抄掠せられ;或いは海を渡り来去し、滄波に漂没し;或いは深く賊庭に入り、傷殺せらるる有り。軍法厳重にして、皆須らく相傔うべし。若し傔に及ばず、及び戦に因らざるに亡すれば、即ち同隊の人、兼ねて罪有るべし。遂に故無く死失する有り、多く逃と注す。軍旅の中、勘当に暇無く、直ちに隊司の通状に拠り、将に真の逃と作さんとし、家口令を総べて官に没せんとす、情を論ずれば実に哀湣すべし。『書』に曰く、『其れ不辜を殺すに与るよりは、寧ろ不経を失え』と。伏して願わくは逃亡の家、其の配没を免れしめん」と。制してこれに従った。

咸亨二年、駕は東都に幸し、太子を京師に留めて国を監せしめた。時に大旱に属し、関中饑乏し、廓下の兵士の糧を取って視ることを令したところ、榆の皮蓬の実を食する者あるを見、乃ち家令らに各々米を与えて足らしむることを令した。この時戴至徳・張文瓘は左庶子を兼ね、右庶子蕭徳昭と共に輔弼たり、太子は多く疾病し、庶政は皆至徳らに決せられた。時に義陽・宣城二公主は母の罪に坐して、掖庭に幽せられ、太子これを見て驚惻し、遽に奏請して出降せしめんことを令した。また同州沙苑の地を分けて貧人に借すことを請うた。詔して並びにこれを許した。また東都に召し詣らせ、右衛将軍裴居道の女を妃として納れた。所司白雁を以て贄とすべしと奏す、適た会に苑中白雁を獲たるに、高宗喜んで曰く、「漢は朱雁を獲て、遂に楽府と為す;今白雁を獲て、婚贄と為すを得たり。彼の礼は但だ謡頌を成すのみ、此の礼は便ち人倫に首す、異代相望みて、我に慚徳無し」と。裴氏は甚だ婦礼有り、高宗嘗て侍臣に謂いて曰く、「東宮の内政、吾憂い無し」と。

上元二年、太子は帝に従って合璧宮に幸し、まもなく薨じた。年二十四。詔して曰く、「皇太子弘は、生まれながらにして質実を知り、幾微を察する性質を育む。直城に趨りて賀し、肅敬は三朝に著しく、中寢に問安し、仁孝は四海に聞こえる。琰圭を手にししより、沈痾身に嬰り、ただ耀掌の珍を顧み、特に鍾心の念を切にし、その痊復を庶い、以て鴻名を禅えんとす。腠理微和するに及び、将に位を遜らんとす。而るに弘は天資仁厚、孝心純確、既に朕の命を承け、掩いて言わず、これにより感結し、旧疾増甚す。億兆の係る所、方に下武の基を崇めんとす。五福徴無く、俄かに上賓の駕に遷る。昔、周文の至愛、遂に慶を九齢に延ぶ。朕の不慈、遽に千古に永訣す。天性の重き、追懐哽咽す。宜しく往命を申し、以て尊名を加うべし。夫れ諡は行の跡なり。号は事の表なり。慈恵愛親を孝と曰い、死して君を忘れざるを敬と曰う。諡して孝敬皇帝とす」と。その年、緱氏県景山の恭陵に葬る。制度は一に天子の礼に準じ、百官は権に従い三十六日の降服を製す。高宗親ら《睿徳紀》を製し、併せて自らこれを石に書し、陵側に樹つ。初め、恭陵を営築せんとし、功費巨億、万姓役に厭い、呼嗟道に満ち、遂に乱れて磚瓦を投じて散ず。

太子に子無し。長寿年中、詔して楚王(諱)をしてその後を継がしむ。中宗践祚し、詔して太廟に祔し、号して義宗と曰い、また妃裴氏を追贈して哀皇后とす。景雲元年、中書令姚元之・吏部尚書宋けい奏言す、「礼に準うれば、大行皇帝山陵の事終わり、即ち廟に祔すべし。その太廟第七室には、先に皇昆義宗孝敬皇帝・哀皇后裴氏の神主を祔せり。伏して惟うに、義宗は未だ大位に登らず、崩後追尊され、神龍の初に至り、乃ち特令して升祔せしむ。《春秋》の義に、国君即位未だ年を逾えざる者は、昭穆を列すべからず。また古えは祖宗各別に廟を立てし。孝敬皇帝恭陵既に洛州に在り、東都に別に義宗の廟を立て、孝敬皇帝・哀皇后の神主を遷祔し、有司をして時を以て享祭せしめば、則ち先旨に違わず、また古訓に協い、人神允穆し、進退宜しきを得ん。此の神主は、夾室に入れて安置せんことを望む。伏願わくは陛下礼を以て恩を断たんことを」。詔してこれに従う。開元六年、有司上言す、「孝敬皇帝今別廟将に建たんとし、亨祔期有り。礼に準うれば、更に義宗を以て廟号とすべからず。本諡孝敬を以て廟称とせんことを請う」。ここに於て始めて義宗の号を停む。

附 裴居道

裴居道は、絳州聞喜の人、隋の兵部侍郎鏡民の孫なり。父は熙載、貞観中に尚書左丞と為る。居道は女を以て太子妃と為し、則天の時、歴位して納言・内史・太子少保、翼国公に封ぜらる。載初元年春、酷吏に陥れられ、獄に下りて死す。

章懐太子賢

章懐太子賢は、字は明允、高宗の第六子なり。永徽六年、潞王に封ぜらる。顕慶元年、岐州刺史に遷授せらる。その年、雍州牧・幽州都督を加う。時に始めて出閣し、容止端雅、深く高宗の嗟賞する所と為る。高宗嘗て司空李勣に謂ひて曰く、「此の児は已に《尚書》・《礼記》・《論語》を読み得、古詩賦を誦すること復た十余篇、暫く経て領覧し、遂に即ち忘れず。我曾て《論語》を読ましむるに、『賢賢易色』に至りて、遂に再三覆誦す。我何を為してか此の如くなるやと問へば、乃ち言ふ、性此の言を愛すと。方に夙成の聡敏、天性に出づるを知る」と。龍朔元年、沛王に徙封せられ、揚州都督・左武衛大将軍を兼ね、雍州牧は旧の如し。二年、揚州大都督を加う。麟徳二年、右衛大将軍を加う。咸亨三年、名を徳と改め、雍王に徙封せられ、涼州大都督を授けられ、雍州牧・右衛大将軍は旧の如く、実封一千戸を食む。上元元年、また旧名の賢に依る。

上元二年、孝敬皇帝薨ず。その年六月、皇太子に立てられ、天下に大赦し、尋ねて監国を令す。賢は処事明審、時論に称せらる。儀鳳元年、手勅を以てこれを褒めて曰く、「皇太子賢は頃より監国し、政要に心を留む。撫字の道は、既に哀矜に尽くし、刑綱の施す所は、務めて審察に存す。加うるに聴覧の余暇、専ら墳典に精を致す。往聖の遺編、咸く壺奥を窺ひ、先王の策府、備く菁華を討つ。善を好むこと載せて彰はれ、貞をなすこと斯に在り。家国の寄せ、深く懐ふ所に副ふ。物五百段を賜ふべし」と。賢はまた当時の学者太子左庶子張大安・洗馬劉訥言・洛州司戸格希玄・学士許叔牙成玄一史蔵諸周宝寧等を招集し、范曄の《後漢書》に注し、表を上ぐ。物三万段を賜ひ、仍ってその書を秘閣に付す。

時に正議大夫明崇儼は符劾の術を以て則天に任使せられ、密かに「英王は状太宗に類す」と称す。また宮人潜かに議して云く「賢は后の姉韓國夫人の生める所なり」と。賢もまた自ら疑懼す。則天はまた嘗て賢の為に《少陽政範》及び《孝子伝》を撰びて以てこれを賜ひ、仍って数たび書を作りて以て賢を責譲す。賢ますます自ら安からず。調露二年、崇儼は盗に殺さる。則天は賢の為す所を疑ふ。俄かに人をしてその陰謀の事を発せしめ、詔して中書侍郎薛元超・黄門侍郎裴炎・御史大夫高智周をして法官と推鞫せしむ。東宮馬坊に於て皂甲数百領を捜得す。乃ち賢を廃して庶人と為し、別所に幽す。永淳二年、巴州に遷す。文明元年、則天朝に臨み、左金吾将軍丘神勣をして巴州に往きて賢の宅を検校せしめ、以て外虞に備へしむ。神勣遂に別室に閉ぢ、自殺を逼令す。年三十二。則天は顕福門に於て哀を挙げ、神勣を貶して疊州刺史と為し、賢を追封して雍王とす。神龍初、司徒を追贈し、仍って使いを遣はしてその喪柩を迎へ、乾陵に陪葬せしむ。睿宗践祚し、また皇太子を追贈し、諡して章懐と曰ふ。三子有り、光順・守礼・守義。

光順は、大授中に安楽郡王に封ぜられ、尋ねて誅せらる。守義は、文明年に犍為郡王に封ぜらる。垂拱四年、永安郡王に徙封せられ、病卒す。

守禮は本名を光仁といい、垂拱初年に名を改めて守禮とし、太子洗馬を授けられ、嗣雍王に封ぜられた。時に中宗は房陵に遷され、睿宗は帝位に在りながらも朝謁を絶ち、諸武は革命の計を賛成し、宗枝を深く嫉んだ。守禮は父が罪を得たため、睿宗の諸子と共に宮中に処し、凡そ十余年庭院を出なかった。聖暦元年に至り、睿宗が皇嗣より相王に封ぜられ、外邸に出ることを許された。睿宗の諸子五人は皆郡王に封ぜられ、守禮と始めて外に居を定めた。神龍元年、中宗が位を継ぎ、守禮に光禄卿同正員を授けた。神龍年中、遺詔により邠王に進封され、実封五百戸を賜った。景雲二年、光禄卿を帯び、幽州刺史を兼ね、左金吾衛大将軍に転じ、単于大都護を遥領した。先天二年、司空に遷った。開元初年、虢・隴・襄・晋・滑の六州刺史を歴任し、奏事及び大事にあらざるは、皆上佐に州事を知らしめた。時に寧・申・岐・薛・邠の諸王が同じく刺史となり、皆首僚を選んで綱紀を執らしめた。源乾曜・袁嘉祚・潘好禮は皆邠府長史兼州佐となり、守禮はただ弋猟・伎楽・飲謔に耽るのみであった。九年以後、諸王は皆京師に徴還された。

賢の子 邠王 守禮

守禮は外枝として王となり、才識は猥りに下り、特に岐・薛に及ばず。寵嬖多く、風教を修めず、男女六十余人あり、男に中才なく、女に貞称を負わず、守禮はこれを居ながらにして自若たり、高歌し鼓を撃つ。常に数千貫の銭債を帯び、或いはこれを諫むる者ありて曰く、「王の年漸く高く、家累甚だ衆し、須らく愛惜有るべし」と。守禮曰く、「豈に天子の兄にして人に葬られざるあらんや」と。諸王内宴に因りてこれを言い、歓笑と為す。時に陰を積みて累日、守禮諸王に白して曰く、「晴れんと欲す」と。果たして晴る。陽を愆らして旬に渉り、守禮曰く、「即ち雨あらん」と。果たして連澍す。岐王等これを奏し、云く、「邠哥に術あり」と。守禮曰く、「臣に術無し。則天の時に章懷の遷謫に因り、臣宮中に幽閉せられ十余年、毎歳勅杖数頓を被り、瘢痕甚だ厚きを見る。雨せんと欲すれば、臣の脊上即ち沈悶し、晴れんと欲すれば、即ち軽健なり、臣これを以て知る、術有るに非ざるなり」と。涕泗襟に沾い、玄宗も亦憫然たり。二十九年に薨じ、年七十余、太尉を贈られた。

子 承宏

子承宏は、開元初年に広武郡王に封ぜられ、秘書員外監を歴任し、又宗正卿同正員となった。広徳元年、吐蕃が上都を凌犯し、乗輿は陝に幸す。蕃・渾の衆城に入り、吐蕃の宰相馬重英は承宏を立てて帝と為し、於可封・霍環等を宰相と為し、百余りを補署す。旬余日にして賊退き、郭子儀衆を率いて城に入り、承宏を行在に送る。上これを責めず、虢州に止まる。尋ねて死す。承寧は、天宝初年に率更令同正員を授けられ、邠王を嗣いだ。承寀は、至徳二載に煌郡王に封ぜられ、開府儀同三司を加えられた。仆固懐恩と回紇に使して和親し、因りて其の女を納れて妃と為し、毗伽公主と冊された。回紇勲を著し、承寀は甚だ恩寵に遇う。乾元元年六月卒し、司空を贈られた。

唐の法、嗣郡王は但だ四品階を加え、親王の子は例として緋を著す。開元中、張九齢中書令と為り、奏請して寧・薛王の男並びに紫を賜い、邠王の三男は紫を衣、余り二十人は緋を衣し、官も亦六局郎を越えず、王府の掾属は仍り員外に置く。十五載、扈従して巴蜀に至り、例に依りて紫を著す。

中宗の諸子

中宗四男:章庶人は懿徳太子重潤を生み、後宮は庶人重福・節湣太子重俊・殤帝重茂を生む。

懿徳太子 重潤

懿徳太子重潤は、中宗の長子なり。本名は重照、則天の諱を避くるを以て、故に改む。開耀二年、中宗皇太子と為り、重潤を東宮内殿に生む、高宗甚だ悦ぶ。月満つるに及び、天下に大赦し、元を改めて永淳と為す。是の歳、皇太孫に立て、府を開き官属を置く。中宗房州に遷るに及び、其の府坐して廃す。聖暦初、中宗皇太子と為り、邵王に封ぜらる。大足元年、人の構うる所と為り、其の妹永泰郡主・婿魏王武延基等と竊かに張易之兄弟の何ぞ恣に宮中に入るを得るを議し、則天杖殺を令す、時に年十九。重潤は風神俊朗、早く孝友を以て知られ、既に死す其の罪に非ざれば、大いに当時に悼惜せらる。中宗即位し、皇太子を追贈し、諡して懿徳と曰い、乾陵に陪葬す。仍りて国子監丞裴粹の亡女を聘して冥婚と為し、之と合葬す。又永泰郡主を贈って公主と為し、礼を備えて改葬せしめ、仍りて其の墓を陵と号す。

庶人 重福

庶人重福は、中宗の第二子なり。初め唐昌王に封ぜられ、聖暦三年、平恩王に徙封さる。長安四年、譙王に進封され、国子祭酒・左散騎常侍を歴遷す。神龍初、韋庶人の譖る所と為り、張易之兄弟と潜かに重潤の罪を構成せりと云い、是れによりて左授せられ濮州員外刺史と為り、均州に転じ、司防守し、視事を許さず。景龍三年、中宗親しく南郊に祀り、天下に大赦し、流人は並びに放還さる。重福は京師に帰るを得ず、尤も深く鬱怏し、上表して自ら陳べて曰く、「臣聞く、功同じくして賞異なれば則ち労臣疑い、罪均しくして刑殊なれば則ち百姓惑うと。伏して惟うに陛下は徳造化に侔し、明は日月に斉しく、恩は飛鳥に及び、恵は走獣に加わる。近くは柴を焚き礼を展べ、郊祀して上玄す、万物は愷悌の仁に沾い、六合は曠蕩の沢を承く。事軽重無く、咸く赦除す。蒼生並びに赦除を得るに、赤子偏くに擯棄を加う、皇天平分の道、固より此くの如きか。天下の人、聞く者は臣が為に涕を流す。況んや陛下の慈念、豈に臣の恓惶を湣しまざらんや。伏して望む、臣が罪愆を捨て、臣の朝謁を許さんことを。儻や一たび雲陛を仰ぎ、再び聖顔を睹んことを得ば、九泉に没すと雖も、実に万足たり。重ねて荒徼に投ずるも、亦甘心する所なり」と。表奏して報いず。

韋庶人の朝に臨むに及び、遽かに左屯衛大将軍趙承恩に兵五百人を以て就き均州に重福を守衛せしむ。俄かに韋氏誅せられ伏し、睿宗即位し、又集州刺史に転ず。未だ行かず、洛陽の人張霊均、重福に進みて計りて曰く、「大王は地嫡長に居り、自ら合して継ぎて天子と為るべし。相王は韋氏を討平する功有りと雖も、安んぞ次を越えて大位に居らんや。昔漢諸呂を誅し、猶お代王を迎えしが、今東都の百官士庶、皆王の来るを願う。王若し潜かに行き直ちに洛陽に詣らば、亦是れ天上より落つるに従う。人を遣わし留守を襲殺せしめ、即ち兵を擁して西は陝州を拠り、東は河北を下らば、此れ天下図る可し」と。初め、景龍三年、鄭愔吏部侍郎より出でて江州司馬と為り、便道にて重福に詣り陰に相結托す。是に至り又霊均と通じて動静を伝え、亦密かに使を遣わし重福を勧めて逆を構え、預りて重福を推尊して天子と為し、温王重茂を皇太弟と為し、自ら署して左丞相と為す。重福乃ち家臣王道を遣わし先ず東都に赴かしめ、潜かに勇敢の士を募り、重福遽かに均州より詐りて駅に乗りて霊均と継ぎて進む。

王道が最初に東都に至ると、間もなくその謀が漏れた者がおり、洛州司馬の崔日知がその党数十人を捕獲した。経が重福の到来を聞くと、王道らは兵を率いて重福に従い、直ちに左右の屯営の兵を奪って乱を起こし、天津橋に至らんとした時には、従う者は既に数百人に及び、皆が武器を持ち、その威勢を助けた。侍御史の李邕は先に左掖門に赴き、門を閉ざして守るよう命じた。また右屯営に至り号令して云うには、「重福は先帝の子ではあるが、既に先帝に罪を得ており、今、故なく城に入るのは、必ず乱を起こすものである。君らは皆聖朝に委質しており、誠節を尽くし、功を立て事を成し、富貴を取るべきである」と。しばらくして、重福は果たして右屯営を奪おうと来たが、堅く壁を守って動かず、営中から矢が雨のように射られた。そこで直ちに大臣掖門に向かい、留守を取ろうとしたが、門が閉ざされているのに遇い、遂に火を放って城門を焼いた。左屯営の兵もまた来てこれを脅かし、重福は窮地に陥ったと察し、上東門から逃れ出て、山谷の間に隠れた。翌日、東都留守の裴談らが大いに兵を出して捜索し、重福は窮迫して、自ら漕河に投身して死に、屍を三日間磔にした。時に年三十一。

詔して曰く、「集州刺史譙王重福は、幼い時より凶頑であり、成長してからは険詖である。幸いにも先聖の体を託され、かつて巨逆と通交した。子でありながら子たらず、自ら天に絶つ。国あり家ありながら、代に容れられない。かつてはあまりにも忍びず、長く幽縶させた。大行皇帝が晏駕して以来、韋氏が臨朝し、屠滅をほしいままにしようとし、特に防衛を加えた。天が成命を下し、朕の身に集まるに及んで、永く猶子の情を懐き、先親の義に協わんことを庶幾した。そこで僚属を開置し、刺史の任を隆くし、その悛改を冀い、恩栄に頼らんとした。しかし詿誤する徒があり、狂狡が未だ息まず。便ち即ち私に均州を出て、詐って駅騎に乗り、都下に至り、遂にその謀を逞しくした。先ず屯兵を犯し、次いで左掖を焼き、計窮まり力屈し、河に投じて斃れた。人は共に棄てるとはいえ、邦には常刑があり、我は慈しまずというわけではない、爾自ら咎を招いたのである。かつその故を聞き、懐に惻みがある。昔、劉長が既に歿し、楚英が遂に殞ちた時、礼をもって収葬し、旧章に従った。法を屈して恩を申し、宜しく旧寵に仍うべきである。三品の礼をもって葬ることを得る」と。

節湣太子 重俊

節湣太子重俊は、中宗の第三子である。聖暦元年、義興郡王に封ぜられた。長安年間、累ねて衛尉員外少卿を授けられた。神龍初年、衛王に封ぜられ、洛州牧に拝され、実封千戸を賜い、間もなく左衛大將軍に遷り、兼ねて遙授で揚州大都督となった。二年秋、皇太子に立てられた。重俊の性格は明果ではあったが、賢い師傅がおらず、事を行うのに不法が多い。間もなく秘書監の楊敫、太常卿の武崇訓を並べて太子賓客とした。敫らは皆、主婿で年少であり、ただ蹴鞠の猥戲をもって重俊に取って狎れるのみで、竟に調護の意がなかった。左庶子の姚珽は数たび上疏して諫諍し、右庶子の平貞慎はまた『孝経議』『養徳伝』を献じて諷したが、重俊は皆これを優に納れた。

時に武三思は中宮に寵幸を得て、重俊を深く忌んだ。三思の子の崇訓は安楽公主に尚し、常に公主に重俊を凌忽するよう教え、その韋氏の生みでないことを以て、常にこれを奴と呼んだ。ある者は公主に勧めて重俊を廃して王とし、自ら皇太女に立つよう請わせ、重俊は忿恨に堪えなかった。三年七月、左羽林大将軍の李多祚、右羽林将軍の李思衝、李承況、獨孤禕之、沙吒忠義らを率い、詔を矯って左右羽林兵及び千騎三百余人を発し、三思及び崇訓をその第で殺し、並びに党与十余人を殺した。また左金吾大将軍の成王千里に命じて兵を分かち宮城の諸門を守らせ、自ら兵を率いて肅章門に向かい、関を斬って入り、韋庶人及び安楽公主の所在を求めた。また昭容の上官氏が素より三思と奸通していたので、閤を叩いてこれを索めた。韋庶人及び公主は急いで帝を擁して玄武門楼に馳せ赴き、左羽林将軍の劉仁景らを召し、留軍の飛騎及び百余りを率いて楼下に列して守らせた。間もなく多祚らの兵が至り、玄武門楼を突こうとしたが、宿衛の者がこれを拒んだ。進むことができなかった。帝は檻に据えて多祚らの将いる千騎に呼びかけ、これに謂って曰く、「汝らは皆我が爪牙である、何故作逆するのか。もし帰順するならば、多祚らを斬れ、汝らに富貴を与えよう」と。ここにおいて千騎の王歡喜らが戈を倒し、多祚及び李承況、獨孤禕之、沙吒忠義らを楼下で斬り、余党は遂に潰散した。重俊は既に敗れ、その属百余騎を率いて肅章門に向かい、終南山に奔った。帝は長上果毅の趙思慎に命じて軽騎を率いてこれを追わせた。重俊は雩県西十余里に至り、騎は従うことができず、ただ従奴数人だけとなった。日暮れに会い林下で憩うと、左右の者に殺された。詔を下して今、朝に梟首し、またこれを太廟に献じ、並びに三思、崇訓の屍柩を祭らせた。

睿宗が即位し、詔を下して曰く、「朕聞く、曾氏の孝は、慈親が疑聴に惑う。趙虜の族は、明主が哀しんで望思す、と。歴考前聞、率由旧典。重俊は大行の子、元良として器を守る。往時に構間に罹り、讒嫉に困う。鈇鉞を顧みず、軽々しく甲兵を盗み、この誅夷有り、悲惋せざるは無し。今、四凶咸く服し、十起何ぞ追わん。方に赤軍の冤を申し、以て黄泉の痛を紡がんとす。皇太子を贈ることを得る」と。諡して節湣と曰い、定陵に陪葬した。一子の宗暉は、開元初年に湖陽郡王に封ぜられた。初め、重俊が害された時、宮府の僚吏で近づく者なく、永和丞の甯嘉勖が衣を解いて重俊の首を裹み号哭した。時に人はこれを義とした。宗楚客がこれを聞いて大いに怒り、収めて制獄に付し、平興丞に貶し、間もなく卒した。睿宗が践祚し、詔を下して曰く、「寧嘉勖は能く名節を重んじ、事は欒・向に高し。幽塗已に往くも、生氣凛然たり。静かに忠義を言い、追いて褒寵を存す。永和県令を贈ることを得る」と。宗暉は、天宝年間に衛尉員外卿となった。十一載、王鉷が反し、宗暉は宅を鉷に売ったことを以て、涪川郡長史に貶され、量移して盧陽長史となった。至徳元年、行在所に追い赴き、特進・鴻臚卿を授けられた。宗暉に他に才なく、外族の親として、恩顧を受けて転じて隆んとなった。太常員外卿で卒した。

殤皇帝 重茂

殤皇帝重茂は、中宗の第四子である。聖暦三年、北海王に封ぜられた。神龍初年、進んで温王に封ぜられ、右衛大將軍を授けられ、兼ねて遙領で并州大都督となったが、出閤しなかった。景龍四年、中宗が崩じ、韋庶人が重茂を立てて帝とし、自ら臨朝して称制した。韋氏が敗れるに及んで、重茂は遂に位を遜り、叔父の相王に譲り、別所に退居した。景雲二年、襄王に改封され、集州に遷され、中郎将に命じて兵五百人を率いて守衛させた。開元二年、房州刺史に転じた。間もなく薨じ、時に年十七、諡して殤皇帝と曰い、武功の西原に葬られた。

【論】

史臣曰く、前代、嬖婦孽子をもって国を破り家を亡ぼす者は多かったが、しかし大帝・孝和の甚だしきには及ばない。高宗八子、二王は早世し、武后に斃された者は四人。章懷は母子の愛、穎悟の賢があっても、なお虎口を免れず、況んや燕・澤・素節の異腹の胤においてをや。覆載胡ぞ心ある、茲の鴆毒を産む、悲しいかな。孝和は母囂、婦傲、女暴にして、群魅の中に身を置くが如く、安んぞその終吉を保たんや。天将に昏氛を滌蕩せんとす、重茂の能く支えるところではない。

讚して曰く、父子は天性、嬖は能く正を害す。宜臼・申生、翻って令ならず。唐年は徳を鈞しくし、章懷最も仁なり。凶母は明を畏れ、身を以て楽を取る。