舊唐書

巻085

巻085

舊唐書

原文舊唐書

卷八十五

原文卷八十五

列傳第三十五 唐臨 張文瓘 徐有功| previous = 劉仁軌 郝處俊 裴行儉| next = 高宗中宗諸子| theme = 歷史| type = 史書

原文列傳第三十五 唐臨 張文瓘 徐有功| previous = 劉仁軌 郝處俊 裴行儉| next = 高宗中宗諸子| theme = 歷史| type = 史書

唐臨

原文唐臨

唐臨は、京兆長安ちょうあんの人であり、周の内史唐瑾の孫である。その先祖は北海から関中に移住した。伯父の令則は、開皇の末年に左庶子となり、太子楊勇に諂って事えた罪で誅殺された。唐臨は若い頃、兄の皎とともに良い名声があった。武徳初年、隠太子(李建成)が兵を総べて東征した時、唐臨は軍中に赴き王世充を平定する策を献じ、太子は彼を典書坊に直させ、まもなく右衛率府鎧曹参そうしん軍を授けられた。宮殿(東宮)が廃されると、外任で万泉県丞となった。県に軽い罪の囚人が十数人おり、春の末に時雨が降った時、唐臨は県令に彼らを出獄させるよう請うたが、県令は許さなかった。唐臨は言った。「明公がもし疑われるならば、私が自らその罪を引き受けましょう。」県令がそこで休暇を取ると、唐臨は囚人を召集してことごとく帰宅させ耕作させ、彼らと約束して、期日には獄に戻るよう命じた。囚人らは皆、恩恵を感じ、期日には全員が集まって獄に赴いた。唐臨はこれによって名を知られるようになった。

原文唐臨,京兆長安人,周內史瑾孫也。其先自北海徙關中。伯父令則,開皇末為左庶子,坐諂事太子勇誅死。臨少與兄皎俱有令名。武德初,隱太子總兵東征,臨詣軍獻平王世充之策,太子引直典書坊,尋授右衛率府鎧曹參軍。宮殿廢,出為萬泉丞。縣有輕囚十數人,會春暮時雨,臨白令請出之,令不許。臨曰:“明公若有所疑,臨請自當其罪。”令因請假,臨召囚悉令歸家耕種,與之約,令歸係所。囚等皆感恩貸,至時畢集詣獄,臨因是知名。

再び侍御史に遷り、嶺外に使いとして赴き、交州刺史李道彦らが申し立てた冤罪の囚人三千余人を審理した。累進して黄門侍郎に転じ、銀青光禄大夫を加えられた。倹約で欲が少なく、邸宅を造営せず、衣服や器物は簡素で、人に対して寛大であった。かつて弔問に行こうとし、家童に家から白い衫を取って来るよう命じたが、家童は誤って別の衣を持って来てしまい、恐れて進めなかった。唐臨は察して事情を知り、呼び寄せて言った。「今日は気が逆らって、哀哭するのに適さない。先ほど白衫を取って来いと言ったが、やめておけ。」またかつて人に薬を煎じさせたが、調製を誤った。こっそりとその理由を知り、言った。「陰気が重い日は薬を服用すべきでない。すぐに捨てよ。」ついにその過失を表立って言わず、その寛恕ぶりはこのようなものであった。

原文再遷侍御史,奉使嶺外,按交州刺史李道彥等申叩冤係三千餘人。累轉黃門侍郎,加銀青光祿大夫。儉薄寡欲,不治第宅,服用簡素,寬於待物。嚐欲吊喪,令家童自歸家取白衫,家僮誤將餘衣,懼未敢進。臨察知之,使召謂曰:“今日氣逆,不宜哀泣,向取白衫,且止之也。”又嚐令人煮藥,失製。潛知其故,謂曰:“陰暗不宜服藥,宜即棄之。”竟不揚言其過,其寬恕如此。

高宗が即位すると、吏部侍郎を検校した。その年、大理卿に遷った。高宗がかつて獄中の囚人の数を唐臨に問うたところ、唐臨の返答は詔に応えて意にかなった。帝は喜んで言った。「朕が昔東宮にいた時、卿は既に朕に仕え、朕が大位を継いでからは、卿はまた近職に居た。昔からの付き合いで任を委ねたいと思い、故に卿にこの任を授けた。しかし国にとって肝要なのは刑法にあり、法が厳しすぎれば人を傷つけ、法が寛容すぎれば罪を見逃す。必ず中道をとって、朕の意にかなうようにせよ。」高宗はまたかつて自ら死囚を録問し、前任の卿が裁断した者は号泣して冤罪を叫んだが、唐臨が裁断した者はただ黙っていた。帝は怪しんで様子を問うと、囚人は言った。「罪は確かに自ら犯したものであり、唐卿の裁断は冤罪や不当なものではないので、あきらめたのです。」帝はしばらく嘆息して言った。「獄を司る者はこのようであるべきではないか!」

原文高宗即位,檢校吏部侍郎。其年,遷大理卿。高宗嚐問臨在獄係囚之數,臨對詔稱旨。帝喜曰:“朕昔在東宮,卿已事朕,朕承大位,卿又居近職,以疇昔相委,故授卿此任。然為國之要,在於刑法,法急則人殘,法寬則失罪,務令折中,稱朕意焉。”高宗又嚐親錄死囚,前卿所斷者號叫稱冤,臨所入者獨無言。帝怪問狀,囚曰:“罪實自犯,唐卿所斷,既非冤濫,所以絕意耳。” 帝歎息良久曰:“為獄者不當如此耶!”

臣が聞くに、国家の大典は賞罰にあり、古の聖王はただ刑罰を慎んだ。『虞書』に言う。「罪に疑いあれば軽くし、功に疑いあれば重くし、罪なき者を殺すよりは、むしろ常法を失うに任せよ。」『周礼』に言う。「平国を刑するには中典を用い、乱国を刑するには重典を用いる。」天下が太平であるならば、堯や舜の法典を用いるべきである。近ごろ有司は重法を行うことが多く、勲功を叙するには必ず厳しく削り、罪を論ずるには重い科条に従おうと務める。これは前人を憎悪するのではなく、ただ自らの身の計らいをしたいだけである。今、蕭齢の事を議するに、軽重があり、重ければ流刑か死刑、軽ければ除名を請うている。齢が大藩を委任され、贓罪が狼藉であることを考えると、情状を酌んで事を取れば、死に余る罪がある。しかし既に詳議に付された以上、結局は法に近づけねばならない。ひそかに思うに、事を議する群官は、刑を議する本来の意を十分に理解していない。律には八議があり、いずれも『周礼』の旧文に依拠し、その者が衆臣と異なることを憐れみ、特に議法を設けたのである。礼によれば、王族は人目につかぬ所で刑するのは、親族を議するためであり、刑は大夫に上らないのは、貴人を議するためである。その親貴を重んじ、刑を緩めようと議するのは、その賢能を嫉んで深い法に陥れようとするためではない。今、既に議を許しておきながら重刑を加えるのは、堯や舜に反するものであり、万代の法とすることはできない。

原文臣聞國家大典,在於賞刑,古先聖王,惟刑是釁。《虞書》曰:“罪疑惟輕,功疑惟重,與其殺弗辜,寧失弗經。”《周禮》:“刑平國用中典,刑亂國用重典。 ”天下太平,應用堯、舜之典。比來有司多行重法,敘勳必須刻削,論罪務從重科,非是憎惡前人,止欲自為身計。今議蕭齡之事,有輕有重,重者流死,輕者請除名。以齡之受委大藩,贓罪狼籍,原情取事,死有餘辜。然既遣詳議,終須近法。竊惟議事群官,未盡識議刑本意。律有八議,並依《周禮》舊文,矜其異於眾臣,所以特製議法。禮:王族刑於隱者,所以議親;刑不上大夫,所以議貴。知重其親貴,議欲緩刑,非為嫉其賢能,謀致深法。今既許議,而加重刑,是與堯、舜相反,不可為萬代法。

高宗はその上奏に従い、蕭齢はついに嶺外への流罪を得た。

原文高宗從其奏,齡之竟得流於嶺外。

まもなく刑部尚書に遷り、金紫光禄大夫を加えられ、さらに兵部、度支、吏部の三尚書を歴任した。顕慶四年、事に坐して潮州刺史に貶せられた。任地で死去、六十歳。撰した『冥報記』二巻は、世に広く流行した。

原文尋遷刑部尚書,加金紫光祿大夫,復曆兵部、度支、吏部三尚書。顯慶四年,坐事,貶為潮州刺史。卒官,年六十。所撰《冥報記》二卷,大行於世。

兄の皎は、武徳初年に秦王府記室となり、太宗に従って征討し、専ら書檄を掌り、深く親しく遇された。貞観年間、累進して吏部侍郎に転じた。これ以前は、選集に制限がなく、到着次第に官職を補ったが、時勢が次第に太平になり、選人がやや多くなったので、皎は初めて冬の初めに一時的に大集し、春の末に終えることを請うた。これは今日まで行われている。益州長史に歴遷した。死去し、太常卿を追贈された。

原文兄皎,武德初為秦府記室,從太宗征討,專掌書檄,深見親待。貞觀中,累轉吏部侍郎。先是,選集無限,隨到補職,時漸太平,選人稍眾,皎始請以冬初一時大集,終季春而畢,至今行之。曆遷益州長史。卒,贈太常卿。

子の之奇は、調露年間に給事中となり、かつて章懐太子の僚属であったことに坐して辺境に流された。文明元年、括蒼県令に起用されたが、徐敬業とともに乱を起こして誅殺された。

原文子之奇,調露中為給事中,坐嚐為章懷太子僚屬徙邊。文明元年,起為括蒼令,與徐敬業作亂伏誅。

唐臨の孫の紹は、博学で『三礼』に詳しかった。神龍年間に太常博士となった。景龍二年、韋庶人(韋后)が上言した。「妃、公主および命婦、宮官の葬日の鼓吹支給を請う。」中宗は特別に詔を下してこれを許した。紹は上疏して諫めて言った。「ひそかに聞くに、鼓吹の楽は本来、軍容のためのものである。昔、黄帝が涿鹿で功を立て、警衛とした。故に鼓曲に『霊夔吼』、『雕鶚争』、『石墜崖』、『壮士怒』の類があり、昔から功臣が礼を備える時、ちょうどこれを用いることができた。丈夫が四方に功を立てれば、恩寵を加えて賜うのである。たとえ天地を郊祀するような、誠に重い儀礼であっても、ただ宮懸があるだけで、本来は鼓吹の根拠はない。故に軍楽でさえ、まだ神祇にはふさわしくないことを知る。鉦鼓の音が、どうして閨閫(女性の居室)に接することができようか。式に準ずれば、公主、王妃以下の葬礼には、ただ団扇、方扇、彩帷、錦鄣の色があるのみである。これに鼓吹を加えることは、歴代未聞である。また令に準ずれば、五品官の婚礼・葬礼には、元来鼓吹はなく、ただ京官五品が、四品の鼓吹を借りて儀とすることができる。今、特に五品以上の母・妻に給するというが、五品官自身には給する制限がない。これは班秩(官位)が本来夫子(夫または父)によるのに、儀飾がかえってそれを超えることになる。事が順序に合わず、定制とすることが難しく、義理を参酌して考えるに、常に行うことはできない。前の勅を停止し、各々常典に依ることを請う。」疏が奏上されたが、採用されなかった。

原文臨孫紹,博學,善《三禮》。神龍中為太常博士。景龍二年,韋庶人上言:“自妃、主及命婦、宮官,葬日請給鼓吹。”中宗特製許之。紹上疏諫曰:“竊聞鼓吹之樂,本為軍容。昔黃帝涿鹿有功,以為警衛。故〓鼓曲有《靈夔吼》、《雕鶚爭》、《石墜崖》、《壯士怒》之類,自昔功臣備禮,適得用之。丈夫有四方之功,以恩加寵錫。假如郊天祀地,誠是重儀,惟有宮懸,本無案據。故知軍樂所備,尚不洽於神祇;鉦鼓之音,豈能接於閨閫。準式,公主、王妃已下葬禮,惟有團扇、方扇、彩帷、錦鄣之色。加之鼓吹,曆代未聞。又準令,五品官婚葬,元無鼓吹,惟京官五品,得借四品鼓吹為儀。令特給五品以上母妻,五品官則不當給限,便是班秩本因夫子,儀飾乃復過之。事非倫次,難為定制,參詳義理,不可常行。請停前敕,各依常典。”疏奏不納。

紹はまもなく左台侍御史に遷り、太常博士を兼ねた。中宗が自ら南郊で祭祀を行おうとした時、国子祭酒祝欽明らが皇后を亜献とするよう旨に迎合し、紹は博士蒋欽緒とともに固く争って不可とした。また、則天武后の父母の二陵にそれぞれ守戸五百人を置き、武三思とその子崇訓の墓にそれぞれ守戸六十人を置いた。武氏の外戚が昭陵の礼と同じであり、三思らがさらに親王の制を超えていることを以て、また上疏して切に諫めた。当時はどちらも従われなかったが、深く議者に称賛された。睿宗が即位すると、またしばしば時政の損益を陳べ、累進して給事中に転じ、なおも礼儀事を掌った。

原文紹尋遷左台侍御史,兼太常博士。中宗將親拜南郊,國子祭酒祝欽明等希旨皇后為亞獻,紹與博士蔣欽緒固爭以為不可。又則天父母二陵各置守戶五百人,武三思及子崇訓墓各置守戶六十人。以武氏外戚乃與昭陵禮同,三思等復逾親王之製,又上疏切諫。當時雖皆不從,深為議者所美。睿宗即位,又數陳時政損益,累轉給事中,仍知禮儀事。

張文瓘

原文張文瓘

張文瓘は、貝州武城の人である。大業末年に家を魏州の昌楽に移した。文瓘は幼くして孤となり、母と兄に仕えて孝友で知られた。貞観初年、明経に挙げられ、并へい州参軍に補せられた。当時、英国公李勣が長史であり、深く礼遇した。累進して水部員外郎となった。当時、兄の文琮が戸部侍郎であり、旧制では兄弟がともに台閣に居ることを許さなかったので、遂に外任で雲陽県令となった。龍朔年間、累進して東西台舎人、参知政事を授けられた。まもなく東台侍郎、同東西台三品に遷り、左史事を兼ねて掌った。

原文張文瓘,貝州武城人。大業末徙家魏州之昌樂。瓘幼孤,事母兄以孝友聞。貞觀初,舉明經,補并州參軍。時英國公李勣為長史,深禮之。累遷水部員外郎。時兄文琮為戶部侍郎,舊制兄弟不許並居台閣,遂出為雲陽令。龍朔年,累授東西台舍人、參知政事。尋遷東台侍郎、同東西台三品,兼知左史事。

時に初めて蓬萊・上陽・合璧等の宮を造り、又四夷を征討し、廐馬は万匹有り、倉庫漸く虚し。文瓘因りて進み諫めて曰く、「人力は惜しまざるべからず、百姓は養わざるべからず、之を養うに逸を以てすれば則ち富みて康らかに、之を使うに労を以てすれば則ち怨みて叛く。秦皇・漢武、広く四夷に事を為し、多く宮室を造り、土崩瓦解せしめ、戸口半減せしむ。臣聞く、化を未だ乱れざるに製し、邦を未だ危うからざるに保つ、人常に懐うこと無し、仁有るに懐う。陛下未だ乱れざる前に製せずして、安んぞ既に危うき後に救わんや。百姓其の弊に堪えず、必ず禍難を構えん、殷鑒遠からず、近く隋朝に在り。臣願わくは稍々之を安撫し、怨みを生ぜしむること無からしめん」と。上深く其の言を納れ、是に於て廐馬数千匹を節減し、文瓘に繒錦百段を賜う。

原文時初造蓬萊、上陽、合璧等宮,又征討四夷,廄馬有萬匹,倉庫漸虛。文瓘因進諫曰:“人力不可不惜,百姓不可不養,養之逸則富以康,使之勞則怨以叛。秦皇、漢武,廣事四夷,多造宮室,使士崩瓦解,戶口減半。臣聞製化於未亂,保邦於未危,人罔常懷,懷於有仁。陛下不製於未亂之前,安能救於既危之後?百姓不堪其弊,必構禍難,殷鑒不遠,近在隋朝。臣願稍安撫之,無使生怨。”上深納其言,於是節減廄馬數千匹,賜文瓘繒錦百段。

文瓘は性厳正にして、諸司の奏議、多く糾駁する所有り、高宗甚だ之を委ねる。或る時臥疾して家に在り、朝廷毎に大事有れば、上必ず諸の宰臣に問いて曰く、「文瓘と議せずや」と。奏して未だならざるを云えば、則ち遣わして共に之を籌らしむ。奏して已に議せりと云えば、皆報えて之に従う可しとす。其の後、新羅外に叛き、高宗将に兵を発して討ち除かんとす。時に文瓘疾病して家に在り、乃ち輿疾して請い見え、奏して曰く、「比来吐蕃辺を犯し、兵は寇境に屯し、新羅は未だ即ち順わざるも、師は内侵せず。若し東西倶に征討に事あらば、臣恐らくは百姓其の弊に堪えざらん。請う兵を息め徳を修めて以て百姓を安んぜん」と。高宗之に従う。儀鳳二年に卒す、年七十三、幽州都督ととくを贈られ、諡して懿と曰う。其の経事せる孝敬皇帝に以って、特勅して恭陵に陪葬せしむ。四子:潜・沛はい・洽・渉。中宗の時、潜は官魏州刺史に至り、沛は同州刺史、洽は衛尉卿、渉は殿中監。父子兄弟五人皆三品官に至り、時に之を「万石張家」と謂う。及び韋温等誅せらるるの際、渉は乱兵に殺さる。

原文文瓘性嚴正,諸司奏議,多所糾駁,高宗甚委之。或時臥疾在家,朝廷每有大事,上必問諸宰臣曰:“與文瓘議未?”奏雲未者,則遣共籌之。奏雲已議者,皆報可從之。其後,新羅外叛,高宗將發兵討除。時文瓘疾病在家,乃輿疾請見,奏曰:“比為吐蕃犯邊,兵屯寇境,新羅雖未即順,師不內侵。若東西俱事征討,臣恐百姓不堪其弊。請息兵修德以安百姓。”高宗從之。儀鳳二年卒,年七十三,贈幽州都督,諡曰懿。以其經事孝敬皇帝,特敕陪葬恭陵。四子:潛、沛、洽、涉。中宗時,潛官至魏州刺史,沛同州刺史,洽衛尉卿,涉殿中監。父子兄弟五人皆至三品官,時人謂之“萬石張家”。及韋溫等被誅之際,涉為亂兵所殺。

兄文琮、貞観中に持書侍御史と為る。三遷して毫州刺史と為り、政を為すに清簡にして、百姓之に安んず。永徽初め、表を上りて『太宗文皇帝頌』を献じ、優製して褒美し、絹百匹を賜い、征ねて戸部侍郎に拝す。従母弟房遺愛、罪を以て房州刺史に貶授せらる、文琮詩を作りて祖餞す。及び遺愛誅せらる、是に坐して出でて建州刺史と為る。州境素より淫祀を尚び、社稷を修めず。文琮教書を下して曰く、「春秋二社は、蓋し農を本と為す、惟だ此の州のみ、廃して立てず。礼典既に闕け、風俗何をか観ん。近年已来、田多く熟せず、抑も先農を祭らざるに致せるか。神は敬に在り、何を以て福を邀えん」と。是に於て其の節限条製を示す、百姓欣びて之を行う。尋いで卒す。文集二十巻。子戩、官江州刺史に至り、『喪儀纂要』七巻を撰し、時に行わる。戩の弟錫、則天の時に鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事と為る。是に先立ち、姉の子李嶠政事を知り、錫官を拝し、而して嶠相を罷めて出でて国子祭酒と為り、舅甥相代わりて相と為り、時に人之を栄しむ。錫は鄭杲と倶に天官選事を知り、贓に坐し、則天将に之を斬りて以て徇らんとす、臨刑にして特に之を赦す。中宗の時、累遷して工部尚書、兼ねて国史を修め、尋いで令して東都に留守せしむ。中宗崩じ、韋庶人朝に臨み、詔して錫と刑部尚書裴談を並びに同中書門下三品とす。旬日、出でて絳州刺史と為る。累ねて平原郡公に封ぜられ、年老を以て致仕して卒す。

原文兄文琮,貞觀中為持書侍御史。三遷毫州刺史,為政清簡,百姓安之。永徽初,表獻《太宗文皇帝頌》,優製褒美,賜絹百匹,征拜戶部侍郎。從母弟房遺愛以罪貶授房州刺史,文琮作詩祖餞。及遺愛誅,坐是出為建州刺史。州境素尚淫祀,不修社稷。文琮下教書曰:“春秋二社,蓋本為農,惟獨此州,廢而不立。禮典既闕,風俗何觀?近年已來,田多不熟,抑不祭先農所致乎!神在於敬,何以邀福?”於是示其節限條製,百姓欣而行之。尋卒。文集二十卷。子戩,官至江州刺史,撰《喪儀纂要》七卷,行於時。戩弟錫,則天時為鳳閣侍郎、同鳳閣鸞台平章事。先是,姊子李嶠知政事,錫拜官,而嶠罷相出為國子祭酒,舅甥相代為相,時人榮之。錫與鄭杲俱知天官選事,坐贓,則天將斬之以徇,臨刑而特赦之。中宗時,累遷工部尚書,兼修國史,尋令於東都留守。中宗崩,韋庶人臨朝,詔錫與刑部尚書裴談並同中書門下三品。旬日,出為絳州刺史。累封平原郡公,以年老致仕而卒。

文琮の従父弟文収、隋の内史舍人虔威の子なり。尤も音律を善くし、嘗て蕭吉の『楽譜』を覧て、未だ甚だ詳悉ならずと以為い、更に群言及び歴代の沿革を博采し、竹を裁ちて十二律と為し之を吹き、旋宮の義を備うるに尽くす。時に太宗将に礼楽を創製せんとし、文収を太常に召し、令して少卿祖孝孫と参定して雅楽せしむ。太楽に古鍾十二有り、近代惟だ其の七を用い、余り五有り、俗に啞鍾と号し、能く通ずる者莫し。文収律を吹きて之を調べ、声皆響徹し、時に人咸く其の妙に服す。尋いで協律郎を授く。十一年、文収表を上りて太楽を厘正せんことを請う、上侍臣に謂いて曰く、「楽は本より人に縁る、人和すれば則ち楽和す。隋煬帝の末年に至るは、天下喪乱し、縦令音律を改張すとも、其の終に和諧せざるを知る。若し四海事無く、百姓安楽ならば、音律自然に調和し、更改を藉りず」と。竟に其の請に依らず。十四年、景雲見え、河水清し、文収『朱雁天馬』の義を采り、『景雲河清』の楽を製し、名づけて「燕楽」と曰い、之を管弦に奏し、楽の首と為り、今元会第一奏する者は是なり。咸亨元年、遷りて太子率更令、官に卒す。『新楽書』十二巻を撰す。

原文文琮從父弟文收,隋內史舍人虔威子也。尤善音律,嚐覽蕭吉《樂譜》,以為未甚詳悉,更博采群言及曆代沿革,裁竹為十二律吹之,備盡旋宮之義。時太宗將創製禮樂,召文收於太常,令與少卿祖孝孫參定雅樂。太樂有古鍾十二,近代惟用其七,餘有五,俗號啞鍾,莫能通者。文收吹律調之,聲皆響徹,時人咸服其妙。尋授協律郎。十一年,文收表請厘正太樂,上謂侍臣曰:“樂本緣人,人和則樂和。至如隋煬帝末年,天下喪亂,縱令改張音律,知其終不和諧。若使四海無事,百姓安樂,音律自然調和,不藉更改。”竟不依其請。十四年,景雲見,河水清,文收采《朱雁天馬》之義,製《景雲河清》樂,名曰“燕樂”,奏之管弦,為樂之首,今元會第一奏者是也。咸亨元年,遷太子率更令,卒官。撰《新樂書》十二卷。

徐有功

原文徐有功

徐有功は、国子博士文遠の孫なり。明経に挙げられ、累転して蒲州司法参軍、紹封して東莞男と為る。政を為すに寛仁にして、杖罰を行わず。吏人は其の恩信に感じ、遞相約して曰く、「若し徐司法の杖に犯す者有らば、衆必ず之を斥罰せん」と。由りて人争いて命を用い、終に代満に至るまで、一人を戮せず。載初元年、累遷して司刑丞と為る。時に酷吏周興・来俊臣・丘神勣・王弘義等、無辜を構陷し、皆極法に抵り、公卿震恐し、敢えて正言する者莫し。有功独り平恕を存し、詔を下して大理に付する者、有功皆議して之を出し、前後数十百家を済活す。常に殿庭に於て曲直を論奏し、則天厲色して之を詰む、左右悚栗せざる莫し、有功神色撓まず、之を争うこと弥切なり。尋いで転じて秋官員外郎、転じて郎中と為る。俄にして鳳閣侍郎任知古・冬官尚書裴行本等七人、構陷せられて当に死すべし、則天公卿に謂いて曰く、「古人は殺を以て殺を止む、我今恩を以て殺を止む。就きて群公に知古等を乞い、再生を賜い、各官を授け、来効を申さしめんと佇つ」と。俊臣・張知默等又抗表して大法を申さんことを請う、則天之を許さず。俊臣乃ち独り行本を引き、重ねて前罪を験し、奏して曰く、「行本潜かに悖逆を行い、張知蹇と廬陵王の反せざるを告ぐるは実ならず、罪当に斬に処すべし」と。有功駁奏して曰く、「俊臣は明主再生の賜に乖き、聖人恩信の道を虧く。臣と為るは雖も悪を嫉むべし、然れども君に事うるは必ず其の美を順うべし」と。行本竟に以て死を免る。道州刺史李仁褒及び弟の榆次令長沙、又唐奉一に構えられ、高宗の末に私に吉凶を議し、李氏を復さんことを謀り、将に之を誅せんとす。有功又固く之を争うも、能く得ず。秋官侍郎周興有功を奏して曰く、「臣両漢の故事を聞く、下に附き上を罔くする者は腰斬し、面欺する者も亦斬す。又『礼』に云う、言を析き律を破る者は殺すと。有功故に反囚を出だし、罪当に赦すべからず、請う其の罪を推按せん」と。則天雖も係問を許さず、然れども竟に坐して免官す。久しくして起りて左台侍御史と為り、則天特く之を褒異す。時に遠近有功の職を授かるを聞き、皆欣然として相賀す。

原文徐有功,國子博士文遠孫也。舉明經,累轉蒲州司法參軍,紹封東莞男。為政寬仁,不行杖罰。吏人感其恩信,遞相約曰:“若犯徐司法杖者,眾必斥罰之。”由是人爭用命,終於代滿,不戮一人。載初元年,累遷司刑丞。時酷吏周興、來俊臣、丘神勣、王弘義等構陷無辜,皆抵極法,公卿震恐,莫敢正言。有功獨存平恕,詔下大理者,有功皆議出之,前後濟活數十百家。常於殿庭論奏曲直,則天厲色詰之,左右莫不悚栗,有功神色不撓,爭之彌切。尋轉秋官員外郎,轉郎中。俄而鳳閣侍郎任知古、冬官尚書裴行本等七人被構陷當死,則天謂公卿曰:“古人以殺止殺,我今以恩止殺。就群公乞知古等,賜以再生,各授以官,佇申來效。”俊臣、張知默等又抗表請申大法,則天不許之。俊臣乃獨引行本,重驗前罪,奏曰:“行本潛行悖逆,告張知蹇與廬陵王反不實,罪當處斬。”有功駁奏曰:“俊臣乖明主再生之賜,虧聖人恩信之道。為臣雖當嫉惡,然事君必將順其美。”行本竟以免死。道州刺史李仁褒及弟榆次令長沙,又為唐奉一所構,高宗末私議吉凶,謀復李氏,將誅之。有功又固爭之,不能得。秋官侍郎周興奏有功曰:“臣聞兩漢故事,附下罔上者腰斬,麵欺者亦斬。又《禮》云:析言破律者殺。有功故出反囚,罪當不赦,請推按其罪。”則天雖不許係問,然竟坐免官。久之,起為左台侍御史,則天特褒異之。時遠近聞有功授職,皆欣然相賀。

徐有功嘗て上疏して天官・秋官及び朝堂三司理匭使の過失を論じ、その要旨は次の如くである。「陛下即位以来、海内の職員は一定し、而して天下の選人は漸く多し。選掌の曹は用捨公平ならず、補擬は次第に乖き、囑請公行し、顔面を憚るる無し。遂に囂謗をして路に満ち、怨讟をして朝に盈たしめ、浸として常と為し、殊に愧憚無し。又往くは唐朝の季年に属し、時に逆節多し、鞫訊結断し、刑獄至って厳なり。革命以来、載祀遽かに積もれども、余風未だ殄らず、用法猶深し。今推鞫する者は猶酷法を行い、妄りに劾断す。臣即ち按験し、奏してこれを劾し、其の枉状を獲ば、請う即ち法に付して断罪し、亦禄を奪い考を貶し、以て其の徳を慚じしめん。其三司の表を受け及び匭を理めて冤を申す使は、速やかに与奪せずして、致して擁塞せしめ、理有りて申さざる者は、亦望む前の如く準じて弾奏し、考を貶し禄を奪わん。臣昔法司に処し、縁りて擢用を蒙る。臣上以て至造に答うる無く、願わくは法を執りて以て恩に酬いん。詭随を縦にせず、強禦を避けず、猛く噬ぜいい鷙く撃つは、是れ臣の分なり。如し允納を蒙らば、請う勅を降して施行せしめ、庶幾くは旬時を越えず、亦以て残を除き弊を革め、刑措用いられず、天下幸甚ならん。」

原文有功嚐上疏論天官、秋官及朝堂三司理匭使愆失,其略曰:“陛下即位已來,海內職員一定,而天下選人漸多。掌選之曹用舍不平,補擬乖次,囑請公行,顏麵罔懼。遂使囂謗滿路,怨讟盈朝,浸以為常,殊無愧憚。又往屬唐朝季年,時多逆節,鞫訊結斷,刑獄至嚴。革命以來,載祀遽積,餘風未殄,用法猶深。今推鞫者猶行酷法,妄劾斷。臣即按驗,奏而劾之,獲其枉狀,請即付法斷罪,亦奪祿貶考,以慚其德。其三司受表及理匭申冤使,不速與奪,致令擁塞,有理不為申者,亦望準前彈奏,貶考奪祿。臣昔處法司,緣蒙擢用,臣無以上答至造,願以執法酬恩。無縱詭隨,不避強禦,猛噬鷙擊,是臣之分。如蒙允納,請降敕施行,庶不越旬時,亦可以除殘革弊,刑措不用,天下幸甚。”

後に潤州刺史竇孝諶の妻龐氏が奴に誣告せられ、夜に解いて福を祈ると云う。則天は給事中薛季昶に命じてこれを鞫せしむ。季昶は鍛練して其の罪を成し、龐氏は斬に坐すべし。有功独り其の無罪を明らかにす。而して季昶等は返って有功を陥れて悪逆に党援すとし、奏して法に付す。法司刑を結して棄市に当たる。有功方に事を視るに、令史涙を垂れて以て告ぐ。有功曰く、「豈に吾独り死し、而して諸人長く死せざらんや」と。乃ち徐ろに起ちて帰る。則天奏を覧て、有功を召して詰めて曰く、「卿比に獄を断ずるに、失出すこと何ぞ多き」と。対えて曰く、「失出すは臣下の小過、生を好むは聖人の大徳なり。願わくは陛下大徳を弘めよ、則ち天下幸甚ならん」と。則天黙然たり。ここに於いて龐氏は死を減ぜられ、嶺表に流さる。有功は名を除かれて庶人と為る。尋いで起たせられて左司郎中と為り、累遷して司刑少卿に至る。有功親しむ所の者に謂いて曰く、「今身大理と為り、人命の懸かる所、必ずや旨に順い詭辞を以て苟免を求めんとせず」と。故に前後獄官と為り、諫奏して枉て誅せられんとする者、三たび死を断ぜらるるを経れども、志を執して渝らず。酷吏是れより由りて少しく衰う。時に人漢の于定国・張釈之に比す。或いは曰く、「若し獄官皆然らば、刑措何ぞ遠からん」と。久しくして転じて司僕少卿と為る。長安二年卒す。年六十二。司刑卿を贈らる。

原文後潤州刺史竇孝諶妻龐氏為奴誣告,雲夜解祈福,則天令給事中薛季昶鞫之。季昶鍛練成其罪,龐氏當坐斬。有功獨明其無罪。而季昶等返陷有功黨援惡逆,奏付法,法司結刑當棄市。有功方視事,令史垂泣以告,有功曰:“豈吾獨死,而諸人長不死耶?”乃徐起而歸。則天覽奏,召有功詰之曰:“卿比斷獄,失出何多?”對曰:“失出,臣下之小過;好生,聖人之大德。願陛下弘大德,則天下幸甚。”則天默然。於是龐氏減死,流於嶺表,有功除名為庶人。尋起為左司郎中,累遷司刑少卿。有功謂所親曰:“今身為大理,人命所懸,必不能順旨詭辭以求苟免。”故前後為獄官,以諫奏枉誅者,三經斷死,而執誌不渝,酷吏由是少衰,時人比漢之於、張焉。或曰:“若獄官皆然,刑措何遠。”久之,轉司仆少卿。長安二年卒,年六十二,贈司刑卿。

中宗即位し、制して曰く、「忠正の臣は、昔より尚ぶ所、褒贈の典は旧章の重んずる所なり。故に大理卿徐有功を贈る。節操貞勁、器懐亮直、古人の志業に徇い、実に一代の賢良、彼の刑書を司り、深く敬慎を存す。周興・来俊臣等は性惟だ残酷、務めとして誅夷に在り、其の情に順わざれば、立ちどころに誣害を加う。有功卓然として法を守り、死すと雖も移らず、屈撓の心無く、忠烈の議有り。其の執断する当たり、並びに平反に遇う。定国・釈之、何を以てか此れに加えん。朕惟新に庶政し、前跡を追想す。其人既に歿すと雖も、其の徳称す可し。往を追い終を贈り、此の泉壌を慰めん。可なり越州刺史を贈り、仍ち使を遣わして家に就きて弔祭せしめ、物百段を賜い、一子に官を授けよ」と。今上践祚し、竇孝諶の子希瑊等、請う身の官爵を以て有功の子惀に譲り、以て旧恩に報いんと。惀是れより由りて太子司議郎・恭陵令より累遷して申王府司馬に至り、卒す。

原文中宗即位,製曰:“忠正之臣,自昔攸尚;褒贈之典,舊章所重。故贈大理卿徐有功,節操貞勁,器懷亮直,徇古人之誌業,實一代之賢良,司彼刑書,深存敬慎。周興、來俊臣等性惟殘酷,務在誅夷,不順其情,立加誣害。有功卓然守法,雖死不移,無屈撓之心,有忠烈之議。當其執斷,並遇平反,定國、釋之,何以加此。朕惟新庶政,追想前跡,其人既歿,其德可稱。追往贈終,慰茲泉壤。可贈越州刺史,仍遣使就家吊祭,賜物百段,授一子官。”今上踐祚,竇孝諶之子希瑊等請以身之官爵讓有功子惀,以報舊恩。惀由是自太子司議郎、恭陵令累遷申王府司馬,卒。

【論賛】

原文【論贊】

史臣曰く、文法は理具の大なる者、故に舜は皋陶を命じて士と為し、昌言誡敕し、勤亦至りたり。蓋し人命の懸かる所、一たび其の平を失えば、冤復たす可からず、聖王の疚心する所以なり。徐有功の如きは、法を守り、文瓘の刑を議するは、時に哲王に属し、以て理を奪う可し。賊后の鼎を遷すの際、酷吏の羅織するの辰に当たり、徐有功独り群邪に抗し、持平して撓まず、此れ以て難と為す所なり。釈之・定国に比すれば、徐又之に過ぐ。希瑊の爵を譲りて恩に酬うるは、遺愛の知る可きなり。

原文史臣曰:文法,理具之大者,故舜命皋陶為士,昌言誡敕,勤亦至焉。蓋人命所懸,一失其平,冤不可復,聖王所以疚心也。如臨之守法,文瓘之議刑,時屬哲王,可以理奪。當賊後遷鼎之際,酷吏羅織之辰,徐有功獨抗群邪,持平不撓,此所以為難也。比釋之、定國,徐又過之。希瑊讓爵酬恩,可知遺愛。

賛して曰く、訟を聴くは惟だ明、法を執るは惟だ平。二者或いは爽かば、人何を以てか生くん。猗なるかな徐公、獬豸の精。世皆紛濁すと雖も、吾が清きを改めず。

原文讚曰:聽訟惟明,持法惟平。二者或爽,人何以生?猗歟徐公,獬豸之精。世皆紛濁,不改吾清。