卷八十五
唐臨
唐臨は、京兆長安の人であり、周の内史唐瑾の孫である。その先祖は北海から関中に移住した。伯父の令則は、開皇の末年に左庶子となり、太子楊勇に諂って事えた罪で誅殺された。唐臨は若い頃、兄の皎とともに良い名声があった。武徳初年、隠太子(李建成)が兵を総べて東征した時、唐臨は軍中に赴き王世充を平定する策を献じ、太子は彼を典書坊に直させ、まもなく右衛率府鎧曹参軍を授けられた。宮殿(東宮)が廃されると、外任で万泉県丞となった。県に軽い罪の囚人が十数人おり、春の末に時雨が降った時、唐臨は県令に彼らを出獄させるよう請うたが、県令は許さなかった。唐臨は言った。「明公がもし疑われるならば、私が自らその罪を引き受けましょう。」県令がそこで休暇を取ると、唐臨は囚人を召集してことごとく帰宅させ耕作させ、彼らと約束して、期日には獄に戻るよう命じた。囚人らは皆、恩恵を感じ、期日には全員が集まって獄に赴いた。唐臨はこれによって名を知られるようになった。
再び侍御史に遷り、嶺外に使いとして赴き、交州刺史李道彦らが申し立てた冤罪の囚人三千余人を審理した。累進して黄門侍郎に転じ、銀青光禄大夫を加えられた。倹約で欲が少なく、邸宅を造営せず、衣服や器物は簡素で、人に対して寛大であった。かつて弔問に行こうとし、家童に家から白い衫を取って来るよう命じたが、家童は誤って別の衣を持って来てしまい、恐れて進めなかった。唐臨は察して事情を知り、呼び寄せて言った。「今日は気が逆らって、哀哭するのに適さない。先ほど白衫を取って来いと言ったが、やめておけ。」またかつて人に薬を煎じさせたが、調製を誤った。こっそりとその理由を知り、言った。「陰気が重い日は薬を服用すべきでない。すぐに捨てよ。」ついにその過失を表立って言わず、その寛恕ぶりはこのようなものであった。
高宗が即位すると、吏部侍郎を検校した。その年、大理卿に遷った。高宗がかつて獄中の囚人の数を唐臨に問うたところ、唐臨の返答は詔に応えて意にかなった。帝は喜んで言った。「朕が昔東宮にいた時、卿は既に朕に仕え、朕が大位を継いでからは、卿はまた近職に居た。昔からの付き合いで任を委ねたいと思い、故に卿にこの任を授けた。しかし国にとって肝要なのは刑法にあり、法が厳しすぎれば人を傷つけ、法が寛容すぎれば罪を見逃す。必ず中道をとって、朕の意にかなうようにせよ。」高宗はまたかつて自ら死囚を録問し、前任の卿が裁断した者は号泣して冤罪を叫んだが、唐臨が裁断した者はただ黙っていた。帝は怪しんで様子を問うと、囚人は言った。「罪は確かに自ら犯したものであり、唐卿の裁断は冤罪や不当なものではないので、あきらめたのです。」帝はしばらく嘆息して言った。「獄を司る者はこのようであるべきではないか!」
臣が聞くに、国家の大典は賞罰にあり、古の聖王はただ刑罰を慎んだ。『虞書』に言う。「罪に疑いあれば軽くし、功に疑いあれば重くし、罪なき者を殺すよりは、むしろ常法を失うに任せよ。」『周礼』に言う。「平国を刑するには中典を用い、乱国を刑するには重典を用いる。」天下が太平であるならば、堯や舜の法典を用いるべきである。近ごろ有司は重法を行うことが多く、勲功を叙するには必ず厳しく削り、罪を論ずるには重い科条に従おうと務める。これは前人を憎悪するのではなく、ただ自らの身の計らいをしたいだけである。今、蕭齢の事を議するに、軽重があり、重ければ流刑か死刑、軽ければ除名を請うている。齢が大藩を委任され、贓罪が狼藉であることを考えると、情状を酌んで事を取れば、死に余る罪がある。しかし既に詳議に付された以上、結局は法に近づけねばならない。ひそかに思うに、事を議する群官は、刑を議する本来の意を十分に理解していない。律には八議があり、いずれも『周礼』の旧文に依拠し、その者が衆臣と異なることを憐れみ、特に議法を設けたのである。礼によれば、王族は人目につかぬ所で刑するのは、親族を議するためであり、刑は大夫に上らないのは、貴人を議するためである。その親貴を重んじ、刑を緩めようと議するのは、その賢能を嫉んで深い法に陥れようとするためではない。今、既に議を許しておきながら重刑を加えるのは、堯や舜に反するものであり、万代の法とすることはできない。
高宗はその上奏に従い、蕭齢はついに嶺外への流罪を得た。
まもなく刑部尚書に遷り、金紫光禄大夫を加えられ、さらに兵部、度支、吏部の三尚書を歴任した。顕慶四年、事に坐して潮州刺史に貶せられた。任地で死去、六十歳。撰した『冥報記』二巻は、世に広く流行した。
兄の皎は、武徳初年に秦王府記室となり、太宗に従って征討し、専ら書檄を掌り、深く親しく遇された。貞観年間、累進して吏部侍郎に転じた。これ以前は、選集に制限がなく、到着次第に官職を補ったが、時勢が次第に太平になり、選人がやや多くなったので、皎は初めて冬の初めに一時的に大集し、春の末に終えることを請うた。これは今日まで行われている。益州長史に歴遷した。死去し、太常卿を追贈された。
紹はまもなく左台侍御史に遷り、太常博士を兼ねた。中宗が自ら南郊で祭祀を行おうとした時、国子祭酒祝欽明らが皇后を亜献とするよう旨に迎合し、紹は博士蒋欽緒とともに固く争って不可とした。また、則天武后の父母の二陵にそれぞれ守戸五百人を置き、武三思とその子崇訓の墓にそれぞれ守戸六十人を置いた。武氏の外戚が昭陵の礼と同じであり、三思らがさらに親王の制を超えていることを以て、また上疏して切に諫めた。当時はどちらも従われなかったが、深く議者に称賛された。睿宗が即位すると、またしばしば時政の損益を陳べ、累進して給事中に転じ、なおも礼儀事を掌った。
張文瓘
張文瓘は、貝州武城の人である。大業末年に家を魏州の昌楽に移した。文瓘は幼くして孤となり、母と兄に仕えて孝友で知られた。貞観初年、明経に挙げられ、并州参軍に補せられた。当時、英国公李勣が長史であり、深く礼遇した。累進して水部員外郎となった。当時、兄の文琮が戸部侍郎であり、旧制では兄弟がともに台閣に居ることを許さなかったので、遂に外任で雲陽県令となった。龍朔年間、累進して東西台舎人、参知政事を授けられた。まもなく東台侍郎、同東西台三品に遷り、左史事を兼ねて掌った。
時に初めて蓬萊・上陽・合璧等の宮を造り、又四夷を征討し、廐馬は万匹有り、倉庫漸く虚し。文瓘因りて進み諫めて曰く、「人力は惜しまざるべからず、百姓は養わざるべからず、之を養うに逸を以てすれば則ち富みて康らかに、之を使うに労を以てすれば則ち怨みて叛く。秦皇・漢武、広く四夷に事を為し、多く宮室を造り、土崩瓦解せしめ、戸口半減せしむ。臣聞く、化を未だ乱れざるに製し、邦を未だ危うからざるに保つ、人常に懐うこと無し、仁有るに懐う。陛下未だ乱れざる前に製せずして、安んぞ既に危うき後に救わんや。百姓其の弊に堪えず、必ず禍難を構えん、殷鑒遠からず、近く隋朝に在り。臣願わくは稍々之を安撫し、怨みを生ぜしむること無からしめん」と。上深く其の言を納れ、是に於て廐馬数千匹を節減し、文瓘に繒錦百段を賜う。
兄文琮、貞観中に持書侍御史と為る。三遷して毫州刺史と為り、政を為すに清簡にして、百姓之に安んず。永徽初め、表を上りて『太宗文皇帝頌』を献じ、優製して褒美し、絹百匹を賜い、征ねて戸部侍郎に拝す。従母弟房遺愛、罪を以て房州刺史に貶授せらる、文琮詩を作りて祖餞す。及び遺愛誅せらる、是に坐して出でて建州刺史と為る。州境素より淫祀を尚び、社稷を修めず。文琮教書を下して曰く、「春秋二社は、蓋し農を本と為す、惟だ此の州のみ、廃して立てず。礼典既に闕け、風俗何をか観ん。近年已来、田多く熟せず、抑も先農を祭らざるに致せるか。神は敬に在り、何を以て福を邀えん」と。是に於て其の節限条製を示す、百姓欣びて之を行う。尋いで卒す。文集二十巻。子戩、官江州刺史に至り、『喪儀纂要』七巻を撰し、時に行わる。戩の弟錫、則天の時に鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事と為る。是に先立ち、姉の子李嶠政事を知り、錫官を拝し、而して嶠相を罷めて出でて国子祭酒と為り、舅甥相代わりて相と為り、時に人之を栄しむ。錫は鄭杲と倶に天官選事を知り、贓に坐し、則天将に之を斬りて以て徇らんとす、臨刑にして特に之を赦す。中宗の時、累遷して工部尚書、兼ねて国史を修め、尋いで令して東都に留守せしむ。中宗崩じ、韋庶人朝に臨み、詔して錫と刑部尚書裴談を並びに同中書門下三品とす。旬日、出でて絳州刺史と為る。累ねて平原郡公に封ぜられ、年老を以て致仕して卒す。
徐有功
徐有功嘗て上疏して天官・秋官及び朝堂三司理匭使の過失を論じ、その要旨は次の如くである。「陛下即位以来、海内の職員は一定し、而して天下の選人は漸く多し。選掌の曹は用捨公平ならず、補擬は次第に乖き、囑請公行し、顔面を憚るる無し。遂に囂謗をして路に満ち、怨讟をして朝に盈たしめ、浸として常と為し、殊に愧憚無し。又往くは唐朝の季年に属し、時に逆節多し、鞫訊結断し、刑獄至って厳なり。革命以来、載祀遽かに積もれども、余風未だ殄らず、用法猶深し。今推鞫する者は猶酷法を行い、妄りに劾断す。臣即ち按験し、奏してこれを劾し、其の枉状を獲ば、請う即ち法に付して断罪し、亦禄を奪い考を貶し、以て其の徳を慚じしめん。其三司の表を受け及び匭を理めて冤を申す使は、速やかに与奪せずして、致して擁塞せしめ、理有りて申さざる者は、亦望む前の如く準じて弾奏し、考を貶し禄を奪わん。臣昔法司に処し、縁りて擢用を蒙る。臣上以て至造に答うる無く、願わくは法を執りて以て恩に酬いん。詭随を縦にせず、強禦を避けず、猛く噬い鷙く撃つは、是れ臣の分なり。如し允納を蒙らば、請う勅を降して施行せしめ、庶幾くは旬時を越えず、亦以て残を除き弊を革め、刑措用いられず、天下幸甚ならん。」
中宗即位し、制して曰く、「忠正の臣は、昔より尚ぶ所、褒贈の典は旧章の重んずる所なり。故に大理卿徐有功を贈る。節操貞勁、器懐亮直、古人の志業に徇い、実に一代の賢良、彼の刑書を司り、深く敬慎を存す。周興・来俊臣等は性惟だ残酷、務めとして誅夷に在り、其の情に順わざれば、立ちどころに誣害を加う。有功卓然として法を守り、死すと雖も移らず、屈撓の心無く、忠烈の議有り。其の執断する当たり、並びに平反に遇う。定国・釈之、何を以てか此れに加えん。朕惟新に庶政し、前跡を追想す。其人既に歿すと雖も、其の徳称す可し。往を追い終を贈り、此の泉壌を慰めん。可なり越州刺史を贈り、仍ち使を遣わして家に就きて弔祭せしめ、物百段を賜い、一子に官を授けよ」と。今上践祚し、竇孝諶の子希瑊等、請う身の官爵を以て有功の子惀に譲り、以て旧恩に報いんと。惀是れより由りて太子司議郎・恭陵令より累遷して申王府司馬に至り、卒す。
【論賛】
史臣曰く、文法は理具の大なる者、故に舜は皋陶を命じて士と為し、昌言誡敕し、勤亦至りたり。蓋し人命の懸かる所、一たび其の平を失えば、冤復たす可からず、聖王の疚心する所以なり。徐有功の如きは、法を守り、文瓘の刑を議するは、時に哲王に属し、以て理を奪う可し。賊后の鼎を遷すの際、酷吏の羅織するの辰に当たり、徐有功独り群邪に抗し、持平して撓まず、此れ以て難と為す所なり。釈之・定国に比すれば、徐又之に過ぐ。希瑊の爵を譲りて恩に酬うるは、遺愛の知る可きなり。
賛して曰く、訟を聴くは惟だ明、法を執るは惟だ平。二者或いは爽かば、人何を以てか生くん。猗なるかな徐公、獬豸の精。世皆紛濁すと雖も、吾が清きを改めず。