旧唐書
唐臨
唐臨は、京兆長安の人であり、周の内史唐瑾の孫である。その先祖は北海から関中に移住した。伯父の令則は、開皇の末年に左庶子となり、太子楊勇に諂って事えた罪で誅殺された。唐臨は若い頃、兄の皎とともに良い名声があった。武徳初年、隠太子(李建成)が兵を総べて東征した時、唐臨は軍中に赴き王世充を平定する策を献じ、太子は彼を典書坊に直させ、まもなく右衛率府鎧曹参軍を授けられた。宮殿(東宮)が廃されると、外任で万泉県丞となった。県に軽い罪の囚人が十数人おり、春の末に時雨が降った時、唐臨は県令に彼らを出獄させるよう請うたが、県令は許さなかった。唐臨は言った。「明公がもし疑われるならば、私が自らその罪を引き受けましょう。」県令がそこで休暇を取ると、唐臨は囚人を召集してことごとく帰宅させ耕作させ、彼らと約束して、期日には獄に戻るよう命じた。囚人らは皆、恩恵を感じ、期日には全員が集まって獄に赴いた。唐臨はこれによって名を知られるようになった。
再び侍御史に遷り、嶺外に使いとして赴き、交州刺史李道彦らが申し立てた冤罪の囚人三千余人を審理した。累進して黄門侍郎に転じ、銀青光禄大夫を加えられた。倹約で欲が少なく、邸宅を造営せず、衣服や器物は簡素で、人に対して寛大であった。かつて弔問に行こうとし、家童に家から白い衫を取って来るよう命じたが、家童は誤って別の衣を持って来てしまい、恐れて進めなかった。唐臨は察して事情を知り、呼び寄せて言った。「今日は気が逆らって、哀哭するのに適さない。先ほど白衫を取って来いと言ったが、やめておけ。」またかつて人に薬を煎じさせたが、調製を誤った。こっそりとその理由を知り、言った。「陰気が重い日は薬を服用すべきでない。すぐに捨てよ。」ついにその過失を表立って言わず、その寛恕ぶりはこのようなものであった。
高宗が即位すると、吏部侍郎を検校した。その年、大理卿に遷った。高宗がかつて獄中の囚人の数を唐臨に問うたところ、唐臨の返答は詔に応えて意にかなった。帝は喜んで言った。「朕が昔東宮にいた時、卿は既に朕に仕え、朕が大位を継いでからは、卿はまた近職に居た。昔からの付き合いで任を委ねたいと思い、故に卿にこの任を授けた。しかし国にとって肝要なのは刑法にあり、法が厳しすぎれば人を傷つけ、法が寛容すぎれば罪を見逃す。必ず中道をとって、朕の意にかなうようにせよ。」高宗はまたかつて自ら死囚を録問し、前任の卿が裁断した者は号泣して冤罪を叫んだが、唐臨が裁断した者はただ黙っていた。帝は怪しんで様子を問うと、囚人は言った。「罪は確かに自ら犯したものであり、唐卿の裁断は冤罪や不当なものではないので、あきらめたのです。」帝はしばらく嘆息して言った。「獄を司る者はこのようであるべきではないか!」
臣が聞くに、国家の大典は賞罰にあり、古の聖王はただ刑罰を慎んだ。『虞書』に言う。「罪に疑いあれば軽くし、功に疑いあれば重くし、罪なき者を殺すよりは、むしろ常法を失うに任せよ。」『周礼』に言う。「平国を刑するには中典を用い、乱国を刑するには重典を用いる。」天下が太平であるならば、堯や舜の法典を用いるべきである。近ごろ有司は重法を行うことが多く、勲功を叙するには必ず厳しく削り、罪を論ずるには重い科条に従おうと務める。これは前人を憎悪するのではなく、ただ自らの身の計らいをしたいだけである。今、蕭齢の事を議するに、軽重があり、重ければ流刑か死刑、軽ければ除名を請うている。齢が大藩を委任され、贓罪が狼藉であることを考えると、情状を酌んで事を取れば、死に余る罪がある。しかし既に詳議に付された以上、結局は法に近づけねばならない。ひそかに思うに、事を議する群官は、刑を議する本来の意を十分に理解していない。律には八議があり、いずれも『周礼』の旧文に依拠し、その者が衆臣と異なることを憐れみ、特に議法を設けたのである。礼によれば、王族は人目につかぬ所で刑するのは、親族を議するためであり、刑は大夫に上らないのは、貴人を議するためである。その親貴を重んじ、刑を緩めようと議するのは、その賢能を嫉んで深い法に陥れようとするためではない。今、既に議を許しておきながら重刑を加えるのは、堯や舜に反するものであり、万代の法とすることはできない。
高宗はその上奏に従い、蕭齢はついに嶺外への流罪を得た。
まもなく刑部尚書に遷り、金紫光禄大夫を加えられ、さらに兵部、度支、吏部の三尚書を歴任した。顕慶四年、事に坐して潮州刺史に貶せられた。任地で死去、六十歳。撰した『冥報記』二巻は、世に広く流行した。
兄の皎は、武徳初年に秦王府記室となり、太宗に従って征討し、専ら書檄を掌り、深く親しく遇された。貞観年間、累進して吏部侍郎に転じた。これ以前は、選集に制限がなく、到着次第に官職を補ったが、時勢が次第に太平になり、選人がやや多くなったので、皎は初めて冬の初めに一時的に大集し、春の末に終えることを請うた。これは今日まで行われている。益州長史に歴遷した。死去し、太常卿を追贈された。
子の之奇は、調露年間に給事中となり、かつて章懐太子の僚属であったことに坐して辺境に流された。文明元年、括蒼県令に起用されたが、徐敬業とともに乱を起こして誅殺された。
唐臨の孫の紹は、博学で『三礼』に詳しかった。神龍年間に太常博士となった。景龍二年、韋庶人(韋后)が上言した。「妃、公主および命婦、宮官の葬日の鼓吹支給を請う。」中宗は特別に詔を下してこれを許した。紹は上疏して諫めて言った。「ひそかに聞くに、鼓吹の楽は本来、軍容のためのものである。昔、黄帝が涿鹿で功を立て、警衛とした。故に鼓曲に『霊夔吼』、『雕鶚争』、『石墜崖』、『壮士怒』の類があり、昔から功臣が礼を備える時、ちょうどこれを用いることができた。丈夫が四方に功を立てれば、恩寵を加えて賜うのである。たとえ天地を郊祀するような、誠に重い儀礼であっても、ただ宮懸があるだけで、本来は鼓吹の根拠はない。故に軍楽でさえ、まだ神祇にはふさわしくないことを知る。鉦鼓の音が、どうして閨閫(女性の居室)に接することができようか。式に準ずれば、公主、王妃以下の葬礼には、ただ団扇、方扇、彩帷、錦鄣の色があるのみである。これに鼓吹を加えることは、歴代未聞である。また令に準ずれば、五品官の婚礼・葬礼には、元来鼓吹はなく、ただ京官五品が、四品の鼓吹を借りて儀とすることができる。今、特に五品以上の母・妻に給するというが、五品官自身には給する制限がない。これは班秩(官位)が本来夫子(夫または父)によるのに、儀飾がかえってそれを超えることになる。事が順序に合わず、定制とすることが難しく、義理を参酌して考えるに、常に行うことはできない。前の勅を停止し、各々常典に依ることを請う。」疏が奏上されたが、採用されなかった。
紹はまもなく左台侍御史に遷り、太常博士を兼ねた。中宗が自ら南郊で祭祀を行おうとした時、国子祭酒祝欽明らが皇后を亜献とするよう旨に迎合し、紹は博士蒋欽緒とともに固く争って不可とした。また、則天武后の父母の二陵にそれぞれ守戸五百人を置き、武三思とその子崇訓の墓にそれぞれ守戸六十人を置いた。武氏の外戚が昭陵の礼と同じであり、三思らがさらに親王の制を超えていることを以て、また上疏して切に諫めた。当時はどちらも従われなかったが、深く議者に称賛された。睿宗が即位すると、またしばしば時政の損益を陳べ、累進して給事中に転じ、なおも礼儀事を掌った。
張文瓘
張文瓘は、貝州武城の人である。大業末年に家を魏州の昌楽に移した。文瓘は幼くして孤となり、母と兄に仕えて孝友で知られた。貞観初年、明経に挙げられ、并州参軍に補せられた。当時、英国公李勣が長史であり、深く礼遇した。累進して水部員外郎となった。当時、兄の文琮が戸部侍郎であり、旧制では兄弟がともに台閣に居ることを許さなかったので、遂に外任で雲陽県令となった。龍朔年間、累進して東西台舎人、参知政事を授けられた。まもなく東台侍郎、同東西台三品に遷り、左史事を兼ねて掌った。
時に初めて蓬萊・上陽・合璧等の宮を造り、又四夷を征討し、廐馬は万匹有り、倉庫漸く虚し。文瓘因りて進み諫めて曰く、「人力は惜しまざるべからず、百姓は養わざるべからず、之を養うに逸を以てすれば則ち富みて康らかに、之を使うに労を以てすれば則ち怨みて叛く。秦皇・漢武、広く四夷に事を為し、多く宮室を造り、土崩瓦解せしめ、戸口半減せしむ。臣聞く、化を未だ乱れざるに製し、邦を未だ危うからざるに保つ、人常に懐うこと無し、仁有るに懐う。陛下未だ乱れざる前に製せずして、安んぞ既に危うき後に救わんや。百姓其の弊に堪えず、必ず禍難を構えん、殷鑒遠からず、近く隋朝に在り。臣願わくは稍々之を安撫し、怨みを生ぜしむること無からしめん」と。上深く其の言を納れ、是に於て廐馬数千匹を節減し、文瓘に繒錦百段を賜う。
文瓘は性厳正にして、諸司の奏議、多く糾駁する所有り、高宗甚だ之を委ねる。或る時臥疾して家に在り、朝廷毎に大事有れば、上必ず諸の宰臣に問いて曰く、「文瓘と議せずや」と。奏して未だならざるを云えば、則ち遣わして共に之を籌らしむ。奏して已に議せりと云えば、皆報えて之に従う可しとす。其の後、新羅外に叛き、高宗将に兵を発して討ち除かんとす。時に文瓘疾病して家に在り、乃ち輿疾して請い見え、奏して曰く、「比来吐蕃辺を犯し、兵は寇境に屯し、新羅は未だ即ち順わざるも、師は内侵せず。若し東西倶に征討に事あらば、臣恐らくは百姓其の弊に堪えざらん。請う兵を息め徳を修めて以て百姓を安んぜん」と。高宗之に従う。儀鳳二年に卒す、年七十三、幽州都督を贈られ、諡して懿と曰う。其の経事せる孝敬皇帝に以って、特勅して恭陵に陪葬せしむ。四子:潜・沛・洽・渉。中宗の時、潜は官魏州刺史に至り、沛は同州刺史、洽は衛尉卿、渉は殿中監。父子兄弟五人皆三品官に至り、時に之を「万石張家」と謂う。及び韋温等誅せらるるの際、渉は乱兵に殺さる。
兄文琮、貞観中に持書侍御史と為る。三遷して毫州刺史と為り、政を為すに清簡にして、百姓之に安んず。永徽初め、表を上りて『太宗文皇帝頌』を献じ、優製して褒美し、絹百匹を賜い、征ねて戸部侍郎に拝す。従母弟房遺愛、罪を以て房州刺史に貶授せらる、文琮詩を作りて祖餞す。及び遺愛誅せらる、是に坐して出でて建州刺史と為る。州境素より淫祀を尚び、社稷を修めず。文琮教書を下して曰く、「春秋二社は、蓋し農を本と為す、惟だ此の州のみ、廃して立てず。礼典既に闕け、風俗何をか観ん。近年已来、田多く熟せず、抑も先農を祭らざるに致せるか。神は敬に在り、何を以て福を邀えん」と。是に於て其の節限条製を示す、百姓欣びて之を行う。尋いで卒す。文集二十巻。子戩、官江州刺史に至り、『喪儀纂要』七巻を撰し、時に行わる。戩の弟錫、則天の時に鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事と為る。是に先立ち、姉の子李嶠政事を知り、錫官を拝し、而して嶠相を罷めて出でて国子祭酒と為り、舅甥相代わりて相と為り、時に人之を栄しむ。錫は鄭杲と倶に天官選事を知り、贓に坐し、則天将に之を斬りて以て徇らんとす、臨刑にして特に之を赦す。中宗の時、累遷して工部尚書、兼ねて国史を修め、尋いで令して東都に留守せしむ。中宗崩じ、韋庶人朝に臨み、詔して錫と刑部尚書裴談を並びに同中書門下三品とす。旬日、出でて絳州刺史と為る。累ねて平原郡公に封ぜられ、年老を以て致仕して卒す。
文琮の従父弟文収、隋の内史舍人虔威の子なり。尤も音律を善くし、嘗て蕭吉の『楽譜』を覧て、未だ甚だ詳悉ならずと以為い、更に群言及び歴代の沿革を博采し、竹を裁ちて十二律と為し之を吹き、旋宮の義を備うるに尽くす。時に太宗将に礼楽を創製せんとし、文収を太常に召し、令して少卿祖孝孫と参定して雅楽せしむ。太楽に古鍾十二有り、近代惟だ其の七を用い、余り五有り、俗に啞鍾と号し、能く通ずる者莫し。文収律を吹きて之を調べ、声皆響徹し、時に人咸く其の妙に服す。尋いで協律郎を授く。十一年、文収表を上りて太楽を厘正せんことを請う、上侍臣に謂いて曰く、「楽は本より人に縁る、人和すれば則ち楽和す。隋煬帝の末年に至るは、天下喪乱し、縦令音律を改張すとも、其の終に和諧せざるを知る。若し四海事無く、百姓安楽ならば、音律自然に調和し、更改を藉りず」と。竟に其の請に依らず。十四年、景雲見え、河水清し、文収『朱雁天馬』の義を采り、『景雲河清』の楽を製し、名づけて「燕楽」と曰い、之を管弦に奏し、楽の首と為り、今元会第一奏する者は是なり。咸亨元年、遷りて太子率更令、官に卒す。『新楽書』十二巻を撰す。
徐有功
徐有功は、国子博士文遠の孫なり。明経に挙げられ、累転して蒲州司法参軍、紹封して東莞男と為る。政を為すに寛仁にして、杖罰を行わず。吏人は其の恩信に感じ、遞相約して曰く、「若し徐司法の杖に犯す者有らば、衆必ず之を斥罰せん」と。由りて人争いて命を用い、終に代満に至るまで、一人を戮せず。載初元年、累遷して司刑丞と為る。時に酷吏周興・来俊臣・丘神勣・王弘義等、無辜を構陷し、皆極法に抵り、公卿震恐し、敢えて正言する者莫し。有功独り平恕を存し、詔を下して大理に付する者、有功皆議して之を出し、前後数十百家を済活す。常に殿庭に於て曲直を論奏し、則天厲色して之を詰む、左右悚栗せざる莫し、有功神色撓まず、之を争うこと弥切なり。尋いで転じて秋官員外郎、転じて郎中と為る。俄にして鳳閣侍郎任知古・冬官尚書裴行本等七人、構陷せられて当に死すべし、則天公卿に謂いて曰く、「古人は殺を以て殺を止む、我今恩を以て殺を止む。就きて群公に知古等を乞い、再生を賜い、各官を授け、来効を申さしめんと佇つ」と。俊臣・張知默等又抗表して大法を申さんことを請う、則天之を許さず。俊臣乃ち独り行本を引き、重ねて前罪を験し、奏して曰く、「行本潜かに悖逆を行い、張知蹇と廬陵王の反せざるを告ぐるは実ならず、罪当に斬に処すべし」と。有功駁奏して曰く、「俊臣は明主再生の賜に乖き、聖人恩信の道を虧く。臣と為るは雖も悪を嫉むべし、然れども君に事うるは必ず其の美を順うべし」と。行本竟に以て死を免る。道州刺史李仁褒及び弟の榆次令長沙、又唐奉一に構えられ、高宗の末に私に吉凶を議し、李氏を復さんことを謀り、将に之を誅せんとす。有功又固く之を争うも、能く得ず。秋官侍郎周興有功を奏して曰く、「臣両漢の故事を聞く、下に附き上を罔くする者は腰斬し、面欺する者も亦斬す。又『礼』に云う、言を析き律を破る者は殺すと。有功故に反囚を出だし、罪当に赦すべからず、請う其の罪を推按せん」と。則天雖も係問を許さず、然れども竟に坐して免官す。久しくして起りて左台侍御史と為り、則天特く之を褒異す。時に遠近有功の職を授かるを聞き、皆欣然として相賀す。
徐有功嘗て上疏して天官・秋官及び朝堂三司理匭使の過失を論じ、その要旨は次の如くである。「陛下即位以来、海内の職員は一定し、而して天下の選人は漸く多し。選掌の曹は用捨公平ならず、補擬は次第に乖き、囑請公行し、顔面を憚るる無し。遂に囂謗をして路に満ち、怨讟をして朝に盈たしめ、浸として常と為し、殊に愧憚無し。又往くは唐朝の季年に属し、時に逆節多し、鞫訊結断し、刑獄至って厳なり。革命以来、載祀遽かに積もれども、余風未だ殄らず、用法猶深し。今推鞫する者は猶酷法を行い、妄りに劾断す。臣即ち按験し、奏してこれを劾し、其の枉状を獲ば、請う即ち法に付して断罪し、亦禄を奪い考を貶し、以て其の徳を慚じしめん。其三司の表を受け及び匭を理めて冤を申す使は、速やかに与奪せずして、致して擁塞せしめ、理有りて申さざる者は、亦望む前の如く準じて弾奏し、考を貶し禄を奪わん。臣昔法司に処し、縁りて擢用を蒙る。臣上以て至造に答うる無く、願わくは法を執りて以て恩に酬いん。詭随を縦にせず、強禦を避けず、猛く噬い鷙く撃つは、是れ臣の分なり。如し允納を蒙らば、請う勅を降して施行せしめ、庶幾くは旬時を越えず、亦以て残を除き弊を革め、刑措用いられず、天下幸甚ならん。」
後に潤州刺史竇孝諶の妻龐氏が奴に誣告せられ、夜に解いて福を祈ると云う。則天は給事中薛季昶に命じてこれを鞫せしむ。季昶は鍛練して其の罪を成し、龐氏は斬に坐すべし。有功独り其の無罪を明らかにす。而して季昶等は返って有功を陥れて悪逆に党援すとし、奏して法に付す。法司刑を結して棄市に当たる。有功方に事を視るに、令史涙を垂れて以て告ぐ。有功曰く、「豈に吾独り死し、而して諸人長く死せざらんや」と。乃ち徐ろに起ちて帰る。則天奏を覧て、有功を召して詰めて曰く、「卿比に獄を断ずるに、失出すこと何ぞ多き」と。対えて曰く、「失出すは臣下の小過、生を好むは聖人の大徳なり。願わくは陛下大徳を弘めよ、則ち天下幸甚ならん」と。則天黙然たり。ここに於いて龐氏は死を減ぜられ、嶺表に流さる。有功は名を除かれて庶人と為る。尋いで起たせられて左司郎中と為り、累遷して司刑少卿に至る。有功親しむ所の者に謂いて曰く、「今身大理と為り、人命の懸かる所、必ずや旨に順い詭辞を以て苟免を求めんとせず」と。故に前後獄官と為り、諫奏して枉て誅せられんとする者、三たび死を断ぜらるるを経れども、志を執して渝らず。酷吏是れより由りて少しく衰う。時に人漢の于定国・張釈之に比す。或いは曰く、「若し獄官皆然らば、刑措何ぞ遠からん」と。久しくして転じて司僕少卿と為る。長安二年卒す。年六十二。司刑卿を贈らる。
中宗即位し、制して曰く、「忠正の臣は、昔より尚ぶ所、褒贈の典は旧章の重んずる所なり。故に大理卿徐有功を贈る。節操貞勁、器懐亮直、古人の志業に徇い、実に一代の賢良、彼の刑書を司り、深く敬慎を存す。周興・来俊臣等は性惟だ残酷、務めとして誅夷に在り、其の情に順わざれば、立ちどころに誣害を加う。有功卓然として法を守り、死すと雖も移らず、屈撓の心無く、忠烈の議有り。其の執断する当たり、並びに平反に遇う。定国・釈之、何を以てか此れに加えん。朕惟新に庶政し、前跡を追想す。其人既に歿すと雖も、其の徳称す可し。往を追い終を贈り、此の泉壌を慰めん。可なり越州刺史を贈り、仍ち使を遣わして家に就きて弔祭せしめ、物百段を賜い、一子に官を授けよ」と。今上践祚し、竇孝諶の子希瑊等、請う身の官爵を以て有功の子惀に譲り、以て旧恩に報いんと。惀是れより由りて太子司議郎・恭陵令より累遷して申王府司馬に至り、卒す。
【論賛】
史臣曰く、文法は理具の大なる者、故に舜は皋陶を命じて士と為し、昌言誡敕し、勤亦至りたり。蓋し人命の懸かる所、一たび其の平を失えば、冤復たす可からず、聖王の疚心する所以なり。徐有功の如きは、法を守り、文瓘の刑を議するは、時に哲王に属し、以て理を奪う可し。賊后の鼎を遷すの際、酷吏の羅織するの辰に当たり、徐有功独り群邪に抗し、持平して撓まず、此れ以て難と為す所なり。釈之・定国に比すれば、徐又之に過ぐ。希瑊の爵を譲りて恩に酬うるは、遺愛の知る可きなり。
賛して曰く、訟を聴くは惟だ明、法を執るは惟だ平。二者或いは爽かば、人何を以てか生くん。猗なるかな徐公、獬豸の精。世皆紛濁すと雖も、吾が清きを改めず。