旧唐書 志第二十五 輿服

旧唐書

志第二十五 輿服

昔し黄帝は車服を造り、これが遮蔽となす。上古は簡素質朴にして、等威は未だ立てず。而して三皇五帝の君は、互いに沿襲せず、乃ち正朔を改め、服色を易え、車には輿と輅の別あり、服には裘と冕の差あり、文をこれに染繢をもってし、飾りをこれに絺繡をもってす。華蟲は物を象り、龍火は形を分つ。ここにおいて典章興る。周は夷王より削弱し、諸侯は恣にす。孔翬の羽毛を窮めても、以てその侈りを供うるに足らず。随和の掌握を極めても、以てその華を慊かしむるに足らず。すなわち皮弁革舄の容は、珠履鷸冠の玩に非ず。秦に至り戦国を誅し、旧儀を斟酌す。すなわち鹵簿・金根・大駕・法駕あり、千乗万騎を備え、『舜典』『周官』と異なる。漢氏これに因る。号して乗輿三駕とす。儀衛の盛は、比隆するもの無し。東京の帝王は、博雅にして古を好む。明帝始めて儒者に令して『曲臺』の説を考せしめ、『周官』五輅六冕の文、山龍藻火の数に依り、法服を創む。制作有りと雖も、竟に寝して行わず。輿駕は金根に乗ずるのみ。服は則ち袞冕、冠は則ち通天。その後御する所は、多く袍服に従う。事は前志に具わる。而して裘冕の服は、歴代行わず。後魏・北齊は、輿服奇詭なり。隋氏一統に至り、始めて旧儀を復す。

隋の制、車に四等あり。亙幰・通幰・軺車・輅車なり。初め五品以上は偏幰車に乗ずる制とす。その後その美しからざるを嫌い、停めて用いず、以て亙車を以てこれに代う。三品以上は通幰車、則ち青壁。一品は軺車、油幰朱網。唯だ輅車一等のみ、勅を聴きて始めて乗ずるを得。馬珂は、一品以下九子、四品七子、五品五子。

衣裳に常服・公服・朝服・祭服の四等の制あり。

平巾幘、牛角箄簪、紫衫、白袍・靴、起梁帯。五品已上は、金玉鈿飾、犀を以て簪と為す。是れを常服と為し、武官は尽くこれを服す。六品已下は、衫を緋とす。大仗陪立に至りては、五品已上及び親侍は両襠縢蛇を加え、その勲侍は両襠を去る。

弁冠、朱衣裳、素裳革帯、烏皮履、是れを公服と為す。その弁は通用して烏漆紗を以てこれを為し、象牙を以て簪導と為す。五品已上も、亦た鹿胎を以て弁と為し、犀を以て簪導と為す者あり。玉琪の飾りを加う。一品九琪、二品八琪、三品七琪、四品六琪。三品は兼ねて紛・鞶囊あり、革帯の後に佩し、其の上に玉珮一を加う。鞶囊は、二品以上金縷、三品以上銀縷、五品以上䌽縷。文官は尋常内に入り及び本司に在りて常にこれを服す。

親王は、遠遊三梁冠、金附蟬、犀簪導、白筆。三師三公・太子三師三少・尚書秘書二省・九寺・四監・太子三寺・諸郡県関市・親王文学・籓王嗣王・公侯は、進賢冠。三品以上三梁、五品以上両梁、犀簪導。九品以上一梁、牛角簪導。門下・内書・殿内三省、諸衛府、長秋監、太子左右庶子・内坊・諸率、宮門内坊、親王府都尉、府鎮防戍九品以上、散官一品已下は、武弁幘。侍中・中書令は、貂蟬を加え、紫綬を佩す。散官は、白筆。御史・司隷二臺は、法冠(獬豸冠)。謁者臺大夫以下は、高山冠。並びに絳紗単衣、白紗内単、皁領・褾・襈・裾、白練裙襦、絳蔽膝、革帯、金飾鈎䚢、方心曲領、紳帯、玉鏢金飾剣(亦た通用して金鏢)、山玄玉佩、綬、韈、烏皮舄。是れを朝服と為す。玉佩、纁朱綬、二玉環を施す。三品以上は緑綬、四品・五品は青綬。二品以下は玉環を去り、六品以下は剣・珮・綬を去る。八品以下は、冠より白筆を去り、衣より内単及び曲領・蔽膝を省き、烏皮履を著す。五品は紛・鞶囊を加う。その綬纁朱の者は、四䌽を用う。赤・紅・縹・紺紅。朱質、纁文織、長さ一丈八尺、二百四十首、闊さ九寸。緑綬は四䌽を用う。緑・紫・黄・朱紅。緑質、長さ一丈八尺、二百四十首、闊さ九寸。紫綬は四䌽を用う。紫・黄・赤・紅。紫質、長さ一丈六尺、一百八十首、闊さ八寸。青綬は三䌽を用う。白・青・紅。青質、長さ一丈四尺、一百四十首、闊さ七寸。

玄衣纁裳冕にして旒ある者は、是れを祭服と為す。綬・珮・剣は各々朝服の数に依る。その章は七品以下に逢い、二を降って差と為し、六品以下は章無し。

文武の官は皆笏を執る。五品以上は、角牙を以てこれを為し、六品以下は、竹木を以てす。

是の時、内外の群官、文物序あり、僕禦は道を清め、車服は以て庸を為す。ここにおいて貴賤士庶、較然として殊異す。越王侗、東都に於いて位を嗣ぎ、詔を下して停廃す。これより以後、浸くに以て章ならず、以て亡に至る。

唐の制、天子の車輿に玉輅・金輅・象輅・革輅・木輅あり、是れを五輅と為す。耕根車・安車・四望車、已上八等、並びに服乗の用に供す。その外に指南車・記里鼓車・白鷺車・鸞旗車・辟悪車・軒車・豹尾車・羊車・黄鉞車あり。豹尾・黄鉞の二車は、武徳中には無く、貞観已後より加う。その黄鉞は、天宝元年の制に改めて金鉞と為す。属車十二乗、並びに儀仗の用と為す。大駕行幸すれば、則ち前後に分ち、鹵簿の内に施す。若し大陳設すれば、則ち左右に分ち、儀衛の内に施す。

玉輅は、青質、玉を以て諸末を飾る。重輿、左に青龍、右に白虎、金鳳翅、虡文の鳥獣を画き、黄屋左纛。金鳳一は軾前に在り、十二鑾は衡に在り、正に県ぐ鑾の数は、皆その副輅及び耕根は則ち八。二鈴は軾に在り、龍輈の前に鄣塵を設け、青蓋黄裏、繡飾、博山鏡子、羽を樹て、輪は皆朱班重牙。左に旗を建つること十有二旒、皆升龍を画き、その長さ地に曳く。右に闟戟を載す、長さ四尺、広さ三尺、黻文。旗首の金龍頭、結綬及び鈴綏を銜む。蒼龍を駕し、金鍐方釳、翟尾五焦を挿し、鏤錫、鞶纓十有二就。錫は、馬の当顱、金を鏤きてこれを為す。鞶纓鞍は皆五䌽を以てこれを飾る。就は成なり、一匝を一就と為す。祭祀・納後には則ちこれを供す。

金輅は、赤質、金を以て諸末を飾る。余は玉輅と同じ。赤昚を駕す。郷射・祀還・飲至には則ちこれを供す。

象輅は、黄質、象を以て諸末を飾る。余は玉輅と同じ。黄駵を駕す。行道には則ちこれを供す。

革輅は、白い質地で、革で覆い、その他は玉輅と同じ、白駱を駕し、巡狩・臨兵事に供する。

木輅は、黒い質地で、漆を塗り、その他は玉輅と同じ、黒駵を駕し、畋獵に供する。

五輅の蓋、旌旗の質地及び鞶纓は、皆輅の色に従い、蓋の裏は皆黄色を用いる。その鏤錫は、五輅同じ。

耕根車は、青い質地で、蓋は三重、その他は玉輅と同じ、耕籍に供する。

安車は、金で飾り、輿を重ね、壁は曲がり、衡に八鑾あり、紫油纁、朱裏、通幰、朱絲の絡網、朱鞶纓、朱覆閤朆、貝絡、赤駵を駕し、臨幸に供する。

四望車は、制は犢車と同じ、金で飾る。衡に八鑾あり、青油纁、朱裏、通幰、朱絲の絡網、拜陵・臨吊に供する。

高宗は輅に乗ることを好まず、大礼がある毎に、輦を御して往来した。則天以後に至って、遂に常と為す。玄宗はまた輦が礼に適わずとし、また廃して用いず。開元十一年冬、南郊に事有らんとし、輅に乗って往き、礼畢、騎乗して還る。此より行幸及び郊祀等の事、遠近を問わず、皆儀衛の内に騎乗す。その五輅及び腰輿の類は、但だ鹵簿に陳するのみ。

皇后の車には重翟・厭翟・翟車・安車・四望車・金根車の六等有り。

重翟車は、青質、諸末を金飾し、輪に朱を画き、金根車牙、その箱は重翟羽を以て飾り、青油纁、朱裏通幰、紫帷を繡し、朱絲の絡網、紫の絡帶を繡し、衡に八鑾、鏤錫、鞶纓十二就、金鍐方釳、翟尾を插し、朱絲(*朱を以て作り、馬纓の如くして小さく、馬勒に著け、両耳と両鑣に在り)、蒼龍を駕し、受冊・従祀・享廟に供する。厭翟は、赤質、諸末を金飾し、輪に朱牙を画き、その箱は次翟羽を以て飾り、紫油纁、朱裏通幰、紅錦帷、朱絲の絡網、紅錦の絡帶、余は重翟車の如し。赤昚を駕し、采桑に供する。翟車は、黄質、諸末を金飾し、輪に朱牙を画き、その車側は翟羽を以て飾り、黃油纁、黃裏通幰、白紅錦帷、朱絲の絡網、白紅錦の絡帶、余は重翟の如し。黃昚を駕し、歸寧に供する。諸鞶纓の色は、皆車質に従う。安車は、赤質、金飾、紫通幰朱裏。四馬を駕し、臨幸及び吊に供する。四望車は、朱質、紫油通幰、油畫の絡帶。拜陵・臨吊に供する。金根車は、朱質、紫油通幰、油畫の絡帶、朱絲の網。常行に供する。

皇太子の車輅には、金輅・軺車・四望車有り。

金輅は、赤質、諸末を金飾し、重較、箱に虡文の鳥獣を画き、黄屋、伏鹿軾、龍輈、金鳳一つ軾に在り、前に鄣塵を設け、朱蓋黃裏、輪に朱牙を画き、左に旗九旒を建て、右に闟戟を載せ、旗首は金龍頭、結綬及び鈴綏を銜む。赤昚四を駕し、衡に八鑾、軾に二鈴、金鍐方釳、翟尾五焦を插し、鏤錫、鞶纓九就。従祀享・正冬大朝・納妃に供する。軺車は、諸末を金飾し、紫幰幟朱裏、一馬を駕す。五日常服及び朝享宮臣・出入行道に供する。四望車は、諸末を金飾し、紫油纁、通幰朱裏、朱絲の絡網、一馬を駕す。吊臨に供する。

王公已下の車輅は、親王及び武職一品は、象飾の輅。自餘及び二品・三品は、革輅。四品は、木輅。五品は、軺車。

象輅は、象を以て諸末を飾り、朱班輪、衡に八鑾、左に旗を建て、旗に龍を画き、一升一降。右に闟戟を載す。革輅は、革を以て諸末を飾り、左に旃を建つ(通帛を以て旃と為す、余は象輅と同じ)。木輅は、漆を以て之を飾り、余は革輅と同じ。軺車は、曲壁、青通幰。諸輅は皆朱質朱蓋、朱旗旃。一品は九旒、二品は八旒、三品は七旒、四品は六旒、その鞶纓の就数は皆此に准ず。

内命婦の夫人は厭翟車に乗り、嬪は翟車に乗り、婕妤已下は安車に乗り、各二馬を駕す。外命婦・公主・王妃は厭翟車に乗り、二馬を駕す。自餘の一品は白銅飾の犢車に乗り、青通幰、朱裏油纁、朱絲の絡網、牛を以て駕す。二品已下は油纁・絡網を去り、四品は青偏幰。

有唐已来、三公已下の車輅は、皆太僕官が造り貯め掌る。若し制を受けて冊命を行い及び二時の巡陵・婚葬する時は之を給す。此より後は、皆騎馬のみ。

唐の制度において、天子の衣服には、大裘の冕・袞冕・鷩冕・毳冕・繡冕・玄冕・通天冠・武弁・黒介幘・白紗帽・平巾幘・白帢があり、合わせて十二等である。

大裘冕は、旒がなく、幅八寸、長さ一尺六寸、玄色の裘に纁色の裏をつけ、以下広狭はこれを基準とする。金で飾り、玉の簪導があり、組を以て纓とし、色はその綬と同じである。裘は黒い羔の皮で作り、玄色の領・褾・襟の縁とする。朱色の裳、白紗の中単、皁色の領、青色の褾・襈・裾、革帯、玉の鈎・䚢、大帯(素帯に朱裏、外側は紺色、上部は朱、下部は緑、紐は組を用いる)、蔽漆は裳に従う。鹿盧の玉具剣、火珠の鏢首。白玉の双珮、玄組の双大綬、六彩、玄・黄・赤・白・縹・緑、純玄を地とし、長さ二丈四尺、五百首、幅一尺。小双綬は長さ二尺一寸、色は大綬と同じで首数はその半分、間に三つの玉環を施す。朱色の韈、赤色の舄。天神地祇を祀る時にこれを着用する。

袞冕は、金で飾り、白珠十二旒を垂らし、組を以て纓とし、色はその綬と同じ、黈纊を耳に充て、玉の簪導がある。玄衣、纁裳、十二章(八章は衣にあり、日・月・星・龍・山・華蟲・火・宗彝;四章は裳にあり、藻・粉米・黼・黻、衣の褾・領は升龍とし、織成で作る)、各六等、龍・山以下、毎章一行、十二。白紗の中単、黼領、青色の褾・襈・裾、黻(龍・山・火の三章を繡い、他は上と同じ)。革帯・大帯・剣・珮・綬は上と同じ。舄に金飾を加える。諸祭祀及び宗廟・上将を派遣・征伐より還り・飲至・践阼・元服を加う・后を納る・若しくは元日に朝を受ける時は、これを着用する。

鷩冕は、服七章(三章は衣にあり、華蟲・火・宗彝;四章は裳にあり、藻・粉米・黼・黻)、他は袞冕と同じ。有事で遠方の主を祀る時にこれを着用する。

毳冕は、服五章(三章は衣にあり、宗彝・藻・粉米;二章は裳にあり、黼・黻)、他は鷩冕と同じ。海嶽を祭る時にこれを着用する。

繡冕は、服三章(一章は衣にあり、粉米;二章は裳にあり、黼・黻)、他は毳冕と同じ、社稷・帝社を祭る時にこれを着用する。

玄冕は、服(衣に章なく、裳に黼一章を刺繍する)、他は繡冕と同じ。蠟祭で百神を祀り・朝日夕月の時にこれを着用する。

通天冠は、金の博山を加え、附蟬十二首、珠翠を施し、黒介幘、髪纓に翠綏、玉若しくは犀の簪導。絳紗の裏、白紗の中単、領、褾(織成で飾る)、朱色の領・褾・裾、白い裙襦(これも裙衫である)。絳紗の蔽漆、白い仮帯、方心曲領。その革帯・珮・剣・綬・韈・舄は上と同じ。若し未だ元服を加えざれば、則ち双童髻、空頂の黒介幘、双玉導、宝飾を加う。諸祭より還り及び冬至朔日に朝を受け・臨軒して王公を拝し・元会・冬会の時にこれを着用する。武弁は、金の附蟬、平巾幘(他は前の服と同じ)、講武・出征・四時の蒐狩・大射・禡・類・宜社・賞祖・罰社・纂厳の時にこれを着用する。弁服(弁は粗皮を用いる)、十二の琪(琪は白玉珠で作る)、玉の簪導、絳紗の衣、素の裳、革帯、白玉の双珮、鞶囊、小綬、白い韈、烏皮の履。朔日に朝を受ける時にこれを着用する。黒介幘、白紗の単衣、白い裙襦、革帯、素の韈、烏皮の履。陵を拝する時にこれを着用する。白紗帽、これも烏紗である。白い裙襦(これも裙衫である)、白い韈、烏皮の履。朝を視て訟を聴き及び賓客に宴見する時にこれを着用する。平巾幘(金宝で飾る)、導簪冠文皆玉を以てし、紫の褶(これも白褶)、白袴、玉具装、真珠の宝細帯。馬に乗る時にこれを着用する。白帢、大臣の喪に臨む時にこれを着用する。

太宗はまた翼善冠を制定し、朔日・望日に朝を視る時、常服及び帛練の裙襦を通じてこれを着用した。若し袴褶を着用する時は、また平巾幘と通用した。令に著す。その常服は、赤黄の袍衫、折上頭巾、九環帯、六合靴、皆魏・周より起こり、戎事に便であった。貞観以後より、元日・冬至に朝を受け及び大祭祀でなければ、皆常服のみであった。

顕慶元年九月、太尉長孫無忌が修礼官らと共に上奏して言うには:

臣下の長孫無忌・于志寧・許敬宗らが謹んで按ずるに、『礼記』郊特牲に云う、「周の始めて郊祀を行うは、冬至の日を以てす」と。「袞服を被りて天に象り、冕を戴き藻十有二旒、則ち天の数なり」と。而して此の二つの礼は、共に周の郊祀を説くが、袞と大裘とは、事乃ち異なる有り。『礼記』月令を按ずるに、「孟冬、天子始めて裘を着す」と。明らかに寒さを防ぐを以てし、理として暑さに当たるに非ず。若し啓蟄に穀を祈り、冬至に天に報ずる行事に裘を服するは、義として通允に帰す。季夏に気を迎え、龍現れて雩を行うに至っては、炎熾方に隆んなるに、如何にして服すべきか。謹んで歴代を尋ぬれば、唯だ袞章を服し、『礼記』郊特牲の義旨と相協う。周遷の『輿服志』を按ずるに云う、漢の明帝永平二年、『周官』・『礼記』を采りて制し、始めて天地を祀る服を制し、天子十二章を備うと。沈約の『宋書』志に云う、「魏・晋の天を郊祀するも、亦皆袞を服す」と。又王智深の『宋紀』に曰く、「明帝の制に云う、大冕純玉藻・玄衣・黄裳を以て天地を郊祀す」と。後魏・周・斉より隋氏に至るまで、其の礼令を勘へれば、祭服悉く同じ。斯れ則ち百王の通典にして、炎涼妨げ無く、復た礼経と事乖舛せず。今請う、故実に憲章し、天地を郊祀するには皆袞冕を服し、其の大裘は停むるを請い、仍って礼令を改めん。又『新礼』を検するに、皇帝社稷を祭るに繡冕を服し、四旒、三章。日月を祭るに玄冕を服し、三旒、衣に章無し。謹んで按ずるに、令文は是れ四品五品の服なり、此れ則ち三公の亜献は皆袞衣を服し、孤卿の助祭は毳及び鷩を服す。斯れ乃ち乗輿の章数、大夫と同じくし、君少なく臣多く、殊に不可なり。『周礼』に拠れば云う、「昊天上帝を祀れば則ち大裘を服して冕し、五帝も亦之の如し。先王を享ければ則ち袞冕し、先公を享ければ則ち鷩冕し、四望山川を祀れば則ち毳冕し、社稷五祀を祭れば則ち絺冕し、諸の小祀には則ち玄冕す」と。又云う、「公侯伯子男孤卿大夫の服は、袞冕以下、皆王の服の如し」と。是を以て『三礼義宗』に、遂に二つの解釈有り。一に云う、公卿大夫助祭の日、著する所の服は、王より一等降る。又云う、悉く王と同じ。其の折衷を求めれば、俱に未だ通允せず。但し名位同じからず、礼も亦数異なり。天子は十二を以て節と為し、義は天に法るに在り、豈に四旒三章有りて、翻って御服と為らんや。若し諸臣助祭に、冕王と同じからば、便ち是れ貴賤分無く、君臣別れず。若し其れ王より一等降らば、則ち王玄冕を著するの時、群臣次いで爵弁を服し、既に天子を屈し、又公卿を貶す。『周礼』の此の文は、久しく施用せず。亦た祭祀に尸侑を立て、君親臣子に拝し、覆巢に硩蔟の官を設け、去曈に蟈氏の職を置くが如く、唯だ周代に施し、事通行せず。是を以て漢・魏以来、下り隋代に至るまで、相承する旧事、唯だ袞冕を用う。今『新礼』に親しく日月を祭るに、仍って五品の服を服す。事に臨み施行するに、極めて穩便ならず。請う、歴代の故実に遵い、諸祭並びに袞冕を用いん。

詔して之を可とす。

無忌等又た奏して曰く、「皇帝諸臣及び五服親の為に挙哀するは、礼に依り素服を著す。今令に雲白帢を用うるは、礼令乗舛し、須らく一塗に帰すべし。且つ白帢は近代に出で、事古を稽ふるに非ず、令文に著すと雖も、行用すべからず。請う素服に改め従ひ、以て礼文に会せん」。詔して之に従ふ。是より鷩冕已下、乗輿更に之を服せず、白帢遂に廃れ、而して令文因循し、竟に改削せず。

開元十一年冬、玄宗将に南郊に事有らんとす、中書令張説又た奏して称す、「令に准へば、皇帝昊天上帝を祭るに、大裘の冕を服す、事『周礼』に出で、其の質を取るなり。永徽二年、高宗親しく南郊を享して之を用う。明慶年礼を修し、袞冕に改用す、事『礼記』郊特牲に出で、其の文を取るなり。則天以来之を用う。若し古制に遵はば、則ち大裘を用うべく、若し時に便なれば、則ち袞冕を美と為す」。司に命じて二冕を造り進呈せしむ、上大裘の樸略なるを以てし、冕又旒無く、既に寒暑に通用すべからず、乃ち廃して之を用いず。是より元正朝会は礼令に依り袞冕及び通天冠を用い、大祭祀は『礼記』郊特牲に依り亦袞冕を用う。自余諸服は、令文に在ると雖も、復た施用せず。十七年、五陵に朝拝するも、但だ素服のみ。朔・望の常朝も、亦常服を用い、其の翼善冠も亦廃す。

『武德令』に、皇太子の衣服に、袞冕・具服遠遊三梁冠・公服遠遊冠・烏紗帽・平巾幘の五等有り。貞観已後、又た弁服・進德冠の制を加ふ。

袞冕は、白珠九旒、組を以て纓と為し、色其の綬の如く、青纊耳に充し、犀簪導す。玄衣、纁裳、九章(五章衣に在り、龍・山・華蟲・火・宗彝。四章裳に在り、藻・粉米、黼・黻。織成を以て之を為す)。白紗中単、黼領、青褾・襈・裾。革帯、金鈎䚢、大帯(素帯朱裏、亦朱緑を以て紕し、皆組を用ふ)。黻(裳の色に随ひ、火・山の二章なり)。玉具剣、金宝に飾る。玉鏢首。瑜玉双珮、朱組双大綬、四䌽、赤・白・縹・紺、純朱質、長一丈八尺、三百二十首、広九寸(小双綬長二尺六寸、色大綬と同じくして首其の半、二玉環を施す)。朱韈赤舄(舄に金飾を加ふ)。侍従し皇帝祭祀及び廟に謁し、元服を加へ、妃を納るれば則ち之を服す。

具服遠遊三梁冠は、金附蟬九首を加へ、珠翠を施し、黒介幘、髪纓翠綏、犀簪導す。絳紗袍、白紗中単、皁領・褾・襈・裙、白裙襦、白仮帯、方心曲領、絳紗蔽膝。其の革帯・剣・珮・綬・韈・舄は上と同じ。後に白韈・黒舄に改用す。未だ冠せざれば則ち双単髻、空頂黒介幘、双玉導、宝飾を加ふ。廟に謁し宮に還り、元日冬至朔日朝に入り、釈奠すれば則ち之を服す。公服遠遊冠(簪導以下並びに前に同じ)、絳紗単衣、白裙襦、革帯、金鈎䚢、仮帯、方心、紛、鞶囊(長六尺四寸、広二寸四分、色大綬と同じ)、白韈、烏皮履。五日の常服・元日冬至朝を受くるに則ち之を服す。平巾幘は、紫褶、白袴、宝細起梁帯。馬に乗ずれば則ち之を服す。弁服(弁は鹿皮を以て之を為す)、犀簪導、組纓、玉琪九、絳紗衣、素裳、革帯、鞶囊、小綬、双珮、白韈、烏皮履。朔望及び事を視るに則ち兼ねて之を服す。進德冠は、九琪、金飾を加へ、其の常服及び白練裙襦通じて之を著す。若し袴褶を服せば、則ち平巾幘と通じて著す。

永徽已後より、唯だ袞冕・具服・公服のみを服す。若し馬に乗じて袴褶すれば、則ち進德冠を著し、自余並びに廃す。若し宴服・常服は、紫衫袍諸王と同じ。

開元二十六年、粛宗が皇太子に昇り、冊を受けるに当たり、太常が撰した儀注に絳紗袍を服するという文があった。

太子は皇帝の称するものと同じであると考え、上表して敢えて当たることを辞し、これを改めることを請うた。

玄宗は百官に詳議させた。

尚書左丞相裴耀卿・太子太師蕭すうらが奏して言う、「謹んで『衣服令』を按ずるに、皇太子の具服には、遠遊冠(三梁、金附蟬九首を加え、珠翠を施す)、黒介幘、髪纓綏、犀簪導、絳紗袍、白紗中単、皁領・褾・襈、白裙襦、方心曲領、絳紗蔽膝、革帯、剣、珮、綬などがあり、廟に謁して宮に還る時、元日・冬至・朔日の入朝、釈奠の時にこれを服する。

その絳紗袍は冠衣の内の一物の数であり、裙襦・剣・珮などと別異はない。

貴賤の差、尊卑の異なるに至っては、則ち冠が首飾りとして、名制に殊があり、並びに珠旒及び裳の䌽章の数、多少に別があり、外は事毎に差異を為すことはできない。

また上下通服し、名制が同じものもあり、礼重ければ則ち具服し、礼軽ければ則ち省に従う。

今、至敬の情により、未だ敢えてせざる所あり、衣服は減省すべからず、称謂は須らく更に名を変うべし。

望むらくは、撰する儀注、絳紗袍を以て称と為さず、但だ具服と称するならば、則ち尊卑に差があり、謙光徳を成す」と。

議が奏上され、手勅を以て朱明服と改め、所司に下して行用せしめた。

諸文官で七品以上で朝服を着用する者は、白筆を簪に挿す。武官及び爵位を持つ者は挿さない。諸舄履は全て烏色とし、舄は重ねた皮底、履は単層の皮底とする(別に色を注記するものは、この色を用いない)。諸勲官及び爵位を持ち職事官に任じる者(散官・散号将軍は職事官と同じ)は、正衣を本来の服とし、それ以外は各々職事に従って服を着る。諸致仕及び理をもって官を去り、召されて謁見する者は、皆前官の従省服を着る。平巾幘に簪と箄導を挿し、冠支を付け、五品以上は紫の褶、六品以下は緋の褶とし、両襠と縢虵を加え、共に白袴、起梁帯とする(五品以上は金玉を雑鈿し、六品以下は金飾を隠起する)。鞾は、武官及び衛官が大仗に陪立する時にこれを服する。若し文官が乗馬する時も、通じてこれを服し、両襠縢虵を除く。諸視品府佐は、武弁に平巾幘を着ける。国官は、進賢一梁冠に黒介幘、簪導を着ける。その服は各々正品に準ずる(その流外官も、正品流外の例に依る)。参朝する時はこれを服する。若し府公に謁見する時は、府佐は平巾黒幘、国官は黒介幘とし、皆白紗単衣、烏皮履を着ける。

諸流外官の行署は、三品以上は黒介幘、絳公服(緋で作り、制は絳紗単衣と同じ)とし、方心、革帯、鈎䚢、仮帯、韈、烏皮履を着ける。九品以上は絳褠衣(制は絳公服と同じで、袖は狭く、形は直ちに溝の如く、垂れない)とし、方心・仮帯を除き、残りは絳公服と同じとする。その行署でない者、太常寺の謁者・卜博士・医助教・祝史・賛引、鴻臚寺の掌儀・諸典書・典学、内侍省の内典引、太子門下坊の典儀・内坊の導客舎人・諸賛者、王公以下の舎人、公主の謁者等は、各々行署に準じ、品に依って服を着ける。それ以外及び民で雑掌に任じ官品のない者は、皆平巾幘、緋衫、大口袴とする。朝集して事に従う時はこれを服する。諸典謁は、武弁に絳公服とする。その斎郎は、介幘に褠衣とする。それ以外の品子で雑掌に任じる者は、皆平巾幘、緋衫、大口袴とする。朝集して事に従う時はこれを服する。黒介幘、簪導、深衣、青褾・領、革帯、烏皮履とする。未冠ならば双童髻、空頂黒介幘とし、革帯を除く。国子・太学・四門学生が参見する時はこれを服する。書算学生・州県学生は、烏紗帽、白裙襦、青領とする。諸外官が表を拝し詔を受ける時は皆これを服する(本品に朝服がない者はこれを服する)。その他の公事及び初上は、並びに公服とする。諸州の大中正は、進賢一梁冠、絳紗公服とし、若し本品がある者は、本品に依って参朝の服を着ける。諸州県の佐史・郷正・里正・岳瀆の祝史・斎郎は、並びに介幘、絳褠衣とする。平巾幘、緋褶、大口袴、紫附褠は、尚食局の主食・典膳局の主食・太官署食官署の掌膳がこれを服する。平巾緑幘、青布袴は、尚食局の主膳・典膳局の典食・太官署食官署の供膳がこれを服する。平巾五辮髻、青袴褶、青耳屩は、羊車の小史がこれを服する。総角髻、青袴褶は、漏刻生・漏童がこれを服する。

龍朔二年九月戊寅、司礼少常伯孫茂道が奏上して称した、「諸臣の九章服は、君臣の冕服、章数は雖も異なるも、龍を飾り袞と名づけ、尊卑相乱る。望むらくは諸臣の九章衣は雲及び麟を以て龍に代え、山を升めて上と為し、仍って冕を改めん」。当時紛議定まらず。儀鳳年間、太常博士蘇知機又上表し、公卿以下の冕服を以て、別に節文を立てんことを請う。勅を下して有司に詳議せしむ。崇文館学士校書郎楊炯、奏議して曰く。

古、太昊庖犧氏は、仰いでは象を観、俯しては法を察し、書契を造りて文籍生ず。次に黄帝軒轅氏は、長じて敦敏、成りて聰明、衣裳を垂れて天下理まる。その後数たび五徳遷り、君は一姓に非ず。国を体し野を経、邦を建て都を設け、文質は再びして復する所以、正朔は三たびして改まる所以なり。夫れ正朔を改むるとは、夏後氏は寅を建て、殷人は丑を建て、周人は子を建つと謂う。日に月を系ぎ、月に時を系ぎ、時に年を系ぐに至りては、此れ則ち三王相襲の道なり。夫れ服色を易うるとは、夏後氏は黒を尚び、殷人は白を尚び、周人は赤を尚ぶと謂う。山・龍・華虫・宗彝・藻・火・粉米・黼・黻に至りては、此れ又百代知るべきの道なり。謹んで按ずるに《虞書》に曰く、「予古人之象を観んと欲す、日・月・星辰・山・龍・華虫は絵を作し、宗彝・藻・火・粉米・黼・黻は絺繡す」と。此れに由りて言えば、則ち其の由来する所尚しきかな。

夫れ日月星辰は、明光下土を照らすなり。山は、雲雨を布散し、聖王の沢下人に沾うに象るなり。龍は、変化方無く、聖王の機に応じて教えを布くに象るなり。華虫は、雉なり、身に五采を被り、聖王の体文明を兼ぬるに象るなり。宗彝は、武蜼なり、剛猛を以て物を制し、聖王の神武乱を定むるに象るなり。藻は、水に逐いて上下し、聖王の代に随いて応ずるに象るなり。火は、陶冶烹飪し、聖王の至徳日々に新たなるに象るなり。米は、人の恃りて生くる所、聖王の物の頼む所に象るなり。黼は能く断割し、聖王の事に臨みて能く決するに象るなり。黻は、両己相背き、君臣の可否相済くに象るなり。逮う周氏有りて、乃ち日月星辰を以て旌旗の飾りと為し、又龍を山に登し、火を宗彝に登す。ここにおいて袞冕を制して以て先王を祀るなり。九章は、陽数に法るなり。龍を首章と為すは、袞は巻なり、龍徳は神異、応変潜見し、聖王の深沈遠智、神化を巻舒するを表すなり。又鷩冕を制して以て先公を祭るなり。鷩は雉なり、耿介の志有り、公の賢才有りて能く耿介の節を守るを表すなり。又毳冕を制して以て四望を祭るなり。四望は、嶽瀆の神なり。武蜼は、山林に生ず、其の象を明らかにすなり。絺冕を制して以て社稷を祭るなり。社稷は、土穀の神なり。粉米是れに由りて成る、其の功を象るなり。又玄冕を制して以て群小祀を祭るなり。百神形を異にし、遍く擬し難し、但だ黻の相背き名を異にするを取るなり。夫れ周公の多才を以てする故に、化定まりて礼を制し、功成りて楽を作す。夫れ孔宣の将聖を以てする故に、夏の時を行い、周の冕を服す。先王の法服は、乃ち此れより自ら出ず。天下の能事は、又是れに於いて畢わるなり。

今表状に「大明冕十二章を制し、乗輿之を服せんことを請う」と。謹んで按ずるに、日月星辰は、既に旌旗に施せり。龍武山火は、又古を踰えず。而るに雲麟鳳は四霊の名有り、玄亀は負図の応有り、雲は紀官の号有り、水は感徳の祥有り、此れ蓋し別に休徴を表すも、終には比象を踰ゆる無し。然らば則ち皇王命を受くれば、天地興に符し、仰ぎ観れば則ち璧合珠連し、俯して察すれば則ち銀黄玉紫す。尽く南宫の粉壁も、其の形状を写すに足らず。罄く東観の鉛黄も、其の名実を紀するに以て無し。固より法服に畢く陳ぶべからず。雲は、龍に従うの気なり。水は、藻の自ら生ずる所なり。又別に章目を為すを仮らず。此れ蓋し不経の甚だしきなり。

また「鸞冕八章、三公之れを服す」とある。鸞は太平の瑞なり、三公の徳に非ず。鷹鸇は鷙鳥なり、適に祥刑の職を辨ずるに可し。熊羆は猛獣なり、適に武臣の力を旌ぐるに可し。また藻を水草と称し、法象する所無し、張衡の賦に「蒂倒茄於藻井、披江葩之狎獵」と云うを引き、蓮花を謂い、其の文采を取る。夫れ茄は蓮なり、若し蓮花を以て藻に代えんには、古を変えて今に従わんとす、既に草木の名を知らず、亦た文章の意に達せず。此れ又た経に甚だしからざるなり。

また「毳冕六章、三品之れを服す」とある。按ずるに此れ王者四望を祀るに服するの名なり。今三品乃ち王の毳冕に同じくするを得て、而るに三公は王の袞名に同じくするを得ず。豈に唯だ衣裳を顛倒するのみならんや、抑も亦た自ら相矛盾す。此れ又た経に甚だしからざるなり。

また「黼冕四章、五品之れを服す」とある。之を古に考うれば、則ち其の名無し。之を今に験すれば、則ち章首に非ず。此れ又た経に甚だしからざるなり。

若し夫れ礼は唯だ俗に従うを以てとすれば、則ち命を制と為し、令を詔と為すは、乃ち秦皇の故事、猶以て今に適すべし。若し乃ち義は時に随うを取れば、則ち出でて警と称し、入りて蹕と称すは、乃ち漢国の旧儀、猶以て代に行わるべし。亦た何ぞ周公の軌物を変え、宣尼の法度を改むるに取らんや。

是れによりて竟に知機の請う所を寢す。

景龍二年七月、皇太子将に親しく国学に釈奠せんとし、有司儀注を草し、従臣をして皆馬に乗り衣冠を著けしむ。太子左庶子劉子玄議を進めて曰く。

古は大夫已上皆車に乗り、而して馬を以て騑服と為す。魏・晋已降、隋代に迄るまで、朝士又牛車を駕す。歴代の経史、具に其の事有り、一二に言う可からず。李広の北征に至りては、鞍を解きて憩息し、馬援の南伐に至りては、鞍に拠りて顧眄す。斯れ則ち鞍馬の設けは、軍旅に行われ、戎服の乗ずる所、便習を貴ぶなり。案ずるに江左に官尚書郎に至りて輒ち軽く馬に乗れば、則ち御史の弾する所と為る。又た顔延之の官を罷めたる後、馬に騎りて閭里に出入するを好み、当代其の放誕を称す。此れ則ち専車軾に憑り、右に朝衣を擐き、単馬鞍に禦し、宜しく褻服に従うべし。之を近古に求めれば、灼然たる明験なり。

皇家運を撫でてより、沿革時に随う。陵廟巡幸、王公冊命に至りては、則ち盛服冠履し、彼の輅車に乗る。其の士庶に衣冠親迎する者有れば、亦た時に服箱を以て充馭と為す。他の事に在りては、復た車に乗ること無く、貴賤の行う所、通じて鞍馬のみ。臣伏して見るに、比者鑾輿出幸し、法駕首途するに、左右の侍臣皆朝服を以て馬に乗る。夫れ冠履して出づるは、止む可く車に配して行うべく、今車に乗るは即ち停まり、而して冠履易えず、唯だ其の一を知りて其の二を知らざるを謂う可し。何となれば、褒衣博帯、革履高冠は、本より馬上に施す所に非ず、自ら車中の服なり。必ずや韈して鐙に升り、跣して鞍に乗らんには、惟だ古道に師せざるのみならず、亦た自ら今俗を驚かすを取らん。之を折中に求めれば、進退す可き無し。且つ長裙広袖、襜如たり翼如たり、珮を鳴らし組を紆らし、鏘鏘たり弈弈たり、風塵の内に馳驟し、旌棨の間に出入し、儻や馬驚逸有らば、人顛墜に従わんとし、遂に属車の右に、履を遺して収めず、清道の傍に、驂を絓けて相続かしめ、固より以て行路に嗤わるるを受けて、威儀を損なわん。

今議者皆秘閣に《梁武南郊図》有り、衣冠して馬に乗る者多しと云う。此れ則ち近代の故事、其の文無しと謂うを得ず。臣此の図は後人の為す所、当時の撰ぶる所に非ざるを案ず。且つ観るに当今古今の図画有る者多し。張僧繇の《群公二疏を祖す》を画くに、而して兵士芒屩を著くる者有り。閻立本の《昭君匈奴に入る》を画くに、而して婦人帷帽を著くる者有り。夫れ芒屩は水郷に出で、京華の所有に非ず。帷帽は隋代に創り、漢宮の作る所に非ず。議者豈に此の二画を征して故実と為すべきや。斯れに由りて言えば、則ち《梁武南郊の図》は、義此れに同じ。又た伝に称う、義は惟だ俗に因るを以てとし、礼は情に縁るを貴ぶと。殷の輅周の冕、規模一ならず。秦の冠漢の珮、用捨恆ならず。況んや我が国家道は百王を軼し、功は万古に高し。事便ならざる有れば、変通に資る。其の馬に乗り衣冠するは、窃かに宜しく省廃に従うべしと謂う。臣此の異議、其の来ること久し。日暇あらず、未だ及ばず榷揚せず。今殿下親しく歯胄に従い、将に国学に臨まんとす。凡そ衣冠して馬に乗る者は、皆此の行を憚る。所以に輒ち狂言を進め、用て鄙見を申す。

皇太子手令を付し外に宣行せしめ、仍って令に編入し、以て恆式と為す。

宴服は蓋し古の褻服なり、今亦た之を常服と謂う。江南は則ち巾褐裙襨を以てし、北朝は則ち戎夷の制を雑う。爰に北齊に至り、長帽短靴、合袴襖子有り、朱紫玄黄、各おの好む所に任す。君上を謁見し、省寺に出入するも、元正大会に非ざれば、一切通用す。高氏諸帝は常に緋袍を服す。隋代の帝王貴臣は多く黄文綾袍、烏紗帽、九環帯、烏皮六合靴を服す。百官の常服は匹庶と同じく、皆黄袍を著け、殿省に出入す。天子の朝服も亦た之の如く、惟だ帯に十三環を加えて以て差異と為す。蓋し便事に取るなり。其の烏紗帽は漸く廃れ、貴賤通じて折上巾を服す。其の制は周武帝建德年の造る所なり。晋公宇文護始めて袍に下襴を加うるを命ず。大業元年に及び、よう帝始めて詔し吏部尚書牛弘・工部尚書宇文愷・兼内史侍郎虞世基・給事郎許善心・儀曹郎袁朗等に古則を憲章し、衣冠を創造せしめ、天子より胥吏に逮るまで、章服皆等差有らしむ。始めて五品以上に令し、通じて朱紫を服せしむ。是の後師旅務め殷く、車駕多く行幸し、百官行従す。袴褶を服すと雖も、軍間に便ならず。六年、復た詔して駕に従い遠くに渉る者は、文武官等皆戎衣せしむ。貴賤異等、五色を雑用す。五品已上は通じて紫袍を著け、六品已下は兼ねて緋緑を用う。胥吏は青を以てし、庶人は白を以てし、屠商は皁を以てし、士卒は黄を以てす。

武德の初め、隋の旧制に因り、天子の宴服もまた常服と名づけ、ただ黄袍及び衫を用い、後に次第に赤黄を用いるに至り、遂に士庶が赤黄を以て衣服の雑飾とすることを禁じた。四年八月に勅して、「三品以上は、大科紬綾及び羅、その色は紫、飾りに玉を用いる。五品以上は、小科紬綾及び羅、その色は朱、飾りに金を用いる。六品以上は、絲布を服し、雑小綾、交梭、雙紃、その色は黄。六品、七品は銀で飾る。八品、九品は鍮石。流外及び庶人は紬、絁、布を服し、その色は通用して黄。飾りに銅鉄を用いる。」と。五品以上は象笏を執る。三品以下は前挫後直、五品以上は前挫後屈。唐が有って以来、一例として上円下方、曾て分別せず。六品以下は、竹木を執って笏と為し、上挫下方。その折上巾、烏皮六合靴は、貴賤通用す。貞観四年にまた制し、三品以上は紫を服し、五品以下は緋を服し、六品、七品は緑を服し、八品、九品は青を以て服し、帯は鍮石。婦人は夫の色に従う。令有りと雖も、仍お黄を通著するを許す。五年八月に勅し、七品以上は、亀甲雙巨十花綾を服し、その色は緑。九品以上は、絲布及び雑小綾を服し、その色は青。十一月、諸衛の将軍に紫袍を賜い、錦を以て褾袖と為す。八年五月、太宗初めて翼善冠を服し、貴臣は進徳冠を服す。

龍朔二年、司礼少常伯孫茂道が奏称して、「旧令は六品、七品は緑を著け、八品、九品は青を著く。深青は紫に乱る、卑品の服すべきに非ず。望むらくは八品、九品をして碧を著けしむることを請う。朝参の処では、兼ねて黄を服するを聴す。」と。これに従う。総章元年、初めて一切黄を著くるを許さず。上元元年八月にまた制して、「一品以下は手巾、算袋を帯し、仍お刀子、礪石を佩く、武官で帯せんと欲する者はこれを聴す。文武三品以上は紫を服し、金玉帯。四品は深緋を服し、五品は浅緋を服し、並びに金帯。六品は深緑を服し、七品は浅緑を服し、並びに銀帯。八品は深青を服し、九品は浅青を服し、並びに鍮石帯。庶人は並びに銅鉄帯。」と。文明元年七月甲寅に詔して、「旗幟は皆金色に従い、紫を以て飾り、雑文を画す。八品以下で旧服する者は、並びに改めて碧と為す。京の文官五品以上、六品以下、七品清官は、毎日入朝するに、常服袴褶。諸州県の長官が公衙に在るも、亦これを准ず。」と。景雲中にまた制し、令して上元の故事に依らしむ、一品以下は手巾、算袋を帯し、その刀子、礪石等は佩けざるを許す。武官五品以上は䪓韘七事を佩く。七とは佩刀、刀子、礪石、契苾真、噦厥、針筒、火石袋等を謂う。開元の初めに至り復たこれを罷む。則天天授二年二月、朝集使刺史に繡袍を賜い、各その背上に八字の銘を繡成す。長寿三年四月、勅して岳牧に金字銀字銘袍を賜う。延載元年五月、則天内より緋紫単羅銘襟背衫を出だし、文武三品以上に賜う。左右監門衛将軍等は対師子を以て飾り、左右衛は麒麟を以て飾り、左右武威衛は対虎を以て飾り、左右豹韜衛は豹を以て飾り、左右鷹揚衛は鷹を以て飾り、左右玉鈐衛は対鶻を以て飾り、左右金吾衛は対豸を以て飾り、諸王は盤龍及び鹿を以て飾り、宰相は鳳池を以て飾り、尚書は対雁を以て飾る。

武德以来、初めて巾子有り、文官名流は、上平頭小様の者。則天朝、貴臣に内賜して高頭巾子、武家諸王様と称す。中宗景龍四年三月、内宴に因り宰臣以下に内様巾子を賜う。開元以来、文官士伍多くは紫皁官絁を以て頭巾、平頭巾子と為し、相効いて雅制と為す。玄宗開元十九年十月、供奉官及び諸司長官に羅頭巾及び官様巾子を賜い、今に至るまでこれを服す。

天宝十載五月、諸衛の旗幡隊仗を改め、先ず緋色を用い、並びに赤黄色を用い、以て土徳に符す。

高祖武徳元年九月、銀菟符を銀魚符に改む。高宗永徽二年五月、開府儀同三司及び京官文武職事四品、五品に、並びに随身魚を給す。咸亨三年五月、五品以上に新魚袋を賜い、並びに銀を以て飾る。三品以上に各金装刀子、礪石一具を賜う。垂拱二年正月、諸州都督刺史は、並びに京官に准じて魚袋を帯す。天授元年九月、内外の佩く所の魚を改めて並びに亀と作す。久視元年十月、職事三品以上の亀袋は、宜しく金飾を用うべく、四品は銀飾を用い、五品は銅飾を用う。上守下行は、皆官給に従う。神龍元年二月、内外官五品以上は旧に依り魚袋を佩く。六月、郡王、嗣王は特許して金魚袋を佩く。景龍三年八月、特進に魚を佩かしむ。散職が魚を佩くは、ここに始まる。武德以来、皆正員で闕官を帯びて始めて魚袋を佩き、員外、判試、検校は則天、中宗の後より始めてこれ有り、皆魚を佩かず。正員官と雖も佩くを得るとも、亦去任及び致仕すれば即ち魚袋を解き去る。開元九年に至り、張嘉貞が中書令と為り、諸の致仕する者に終身魚を佩くことを許すことを奏し、以て栄寵と為す。理を以て去任するも、亦魚袋を佩くを聴す。この後恩制にて緋紫を賜賞するは、例として魚袋を兼ね、これを章服と謂い、これに因り魚袋を佩き、朱紫を服する者衆し。

梁の制に雲う、袴褶は、近代戎に従うに服し、今纘厳すれば則ち文武百官皆これを服す。車駕親しく戎するは、則ち袴を縛って舒散せず。中官は紫褶、外官は絳褶、舄は皮を用う。冠衣朱を服する者は、紫衣は赤舄を用い、烏衣は烏舄を用う。唯だ褶服は靴を以てす。靴は胡履なり、事に便なるを取り、戎服に施す。

旧制、乗輿の案褥、床褥、床帷は、皆紫を以て飾りと為す。天宝六載、礼儀使太常卿韋糸舀が奏請して禦袍の色に依り、赤黄を以て飾りと為す。これに従う。

『武徳令』:皇后の服に褘衣、鞠衣、鈿釵礼衣の三等有り。

褘衣は、首飾り花十二樹、並びに両博鬢、その衣は深青を以て織成し之を為し、文は翬翟の形(素質、五色、十二等)。素紗中単、黼領、羅縠の褾、襈(褾、襈は皆朱色を用う)、蔽膝(裳の色に随い、緅を以て領と為し、翟を以て章と為し、三等)、大帯(衣の色に随い、朱裏、其の外を紕し、上は朱錦を以てし、下は緑錦を以てし、紐約は青組を用う)、青衣を以てし、革帯、青韈、舄(舄に金飾を加う)、白玉双珮、玄組双大綬(章䌽の尺寸は乗輿と同じ)。冊を受け、祭を助け、朝会諸の大事には則ちこれを服す。鞠衣(黄羅を以て之を為す。その蔽膝、大帯及び衣革帯、舄は衣の色に随う。余は褘衣と同じ、唯だ雉無きのみ)、親しく蠶するには則ちこれを服す。鈿釵礼衣は、十二鈿、服は通用して雑色、制は上と同じ、唯だ雉及び珮綬無し(舄を去り、履を加う)、宴見して賓客するには則ちこれを服す。

皇太子妃の礼服は、首飾りに花九樹(小花は大花の数に同じく、両博鬢にも並べる)、褕翟(青織成で作り、文様は揺翟の形、青地に五色、九等である)を着る。素紗の中単、黼領、羅縠の褾・襈(褾・襈はともに朱を用いる)、蔽膝(裳の色に従い、緅を領縁とし、揺翟を章とし、二等である)、大帯(衣の色に従い、裏は朱、外側を紕で縁取り、上は朱錦、下は緑錦、組は青組を用いる)を着け、青衣を以てし、革帯、青の韈・舄(舄に金飾を加える)、瑜玉の珮、紅朱の双大綬(章䌽の尺寸は皇太子と同じ)を着ける。冊を受けるとき、助祭、朝会などの大事にはこれを服する。鞠衣(黄羅で作り、その蔽膝・大帯及び衣の革帯は衣の色に従う。その他は褕翟と同じく、ただ雉がない)は、蠶に従うときこれを服する。鈿釵礼衣、九鈿、服は雑色を通用し、制は上と同じく、ただ雉及び珮・綬がない(舄を除き、履を加える)、宴見や賓客に接するときこれを服する。

内外の命婦の礼服は花釵(両博鬢に施し、宝鈿で飾る)、翟衣は青地(羅で作り、雉を刺繍し、衣及び裳に編次し、重ねて九等とする)を着る。第一品は花鈿九樹(宝鈿は花の数に準ずる、以下これに準ずる)、翟九等。第二品は花鈿八樹、翟八等。第三品は花鈿七樹、翟七等。第四品は花鈿六樹、翟六等。第五品は花鈿五樹、翟五等。ともに素紗の中単、黼領、朱の褾・襈も羅縠を通用する。蔽膝は、裳の色に従い、緅を領縁とし、文繡を加え、重ねた雉を章とし二事、一品以下は皆同じである。大帯は、衣の色に従い、外側を緋とし、上は朱錦、下は緑錦、紐は青組と同じ。青衣、革帯、青の韈・舄、珮、綬。内命婦は冊を受けるとき、蠶に従うとき、朝会にはこれを服する。その外命婦は嫁ぐとき及び冊を受けるとき、蠶に従うとき、大朝会にもこれに準ずる。鈿釵礼衣は、雑色を通用し、制は上と同じく、ただ雉及び珮綬がない。舄を除き、履を加える。第一品は九鈿、第二品は八鈿、第三品は七鈿、第四品は六鈿、第五品は五鈿。内命婦は尋常の参見、外命婦は朝参・辞見及び礼会にはこれを服する。六尚・宝林・御女・采女・女官などの服は、礼衣は雑色を通用し、制は上と同じく、ただ首飾りがない。七品以上は、大事があるときこれを服し、尋常の供奉には公服を着る。公服は中単・蔽膝・大帯を除く。九品以上は、大事及び尋常の供奉には、ともに公服を着る。東宮はこれに準ずる。女史は半袖の裙襦を着る。諸公主・王妃の珮綬は同じく、諸王の県主・内命婦は品に準ずる。外命婦五品以上は、皆夫・子に準ずる。すなわち夫・子によるのでなく別に邑号を加えられた者も、品に準ずる。婦人の宴服は、令に準じて各々夫の色に依り、上は下を兼ねることができ、下は上を僭ることはできない。すでに公庭にいないが、風俗は奢侈で、格令に依らず、綺羅錦繡を、好みに従って用いる。上は宮掖より、下は匹庶に至るまで、互いに模倣し、貴賤の別がない。

武徳・貞観の時、宮人で騎馬する者は、斉・隋の旧制に依り、多く羃䍦を着けた。戎夷に発するとはいえ、全身を障蔽し、途上で覗かれることを欲しなかった。王公の家も、この制と同じであった。永徽の後は、皆帷帽を用い、裙を頸まで垂らし、次第に浅露となった。まもなく詔を下して禁断したが、初めは一時的に止んだが、やがてまた元に戻った。咸亨二年にまた詔を下して曰く、「百官の家口は、皆士流に預かる。衢路の間にあって、どうして全く障蔽なくしてよいものか。近ごろ多く帷帽を着け、遂に羃䍦を棄て、かつて車に乗らず、別に簷子に坐す。互いに模倣し、次第に風俗となり、過度に軽率で、礼容を深く失う。前者はすでに漸次改めるよう命じたが、聞くところによるとまだ止んでいない。また命婦の朝謁は、あるいは車を馳せ駕し、禁門に入ってからも、粛敬を損なうことがある。これらはともに儀式に背き、理をもって禁断すべきである。今より以後、再びこのようなことがないようにせよ」。則天の後、帷帽が大いに流行し、羃䍦は次第に廃れた。中宗が即位すると、宮禁は寛弛し、公私の婦人は、再び冪䍦の制がなくなった。開元の初め、従駕する宮人で騎馬する者は、皆胡帽を着け、美しく化粧して顔を露わにし、再び障蔽しなくなった。士庶の家もまた互いに模倣し、帷帽の制は、全く行用されなくなった。やがてまた髻を露わにして馳騁し、あるいは丈夫の衣服靴衫を着ける者があり、尊卑内外の別が、これで一貫してしまった。

奚車は、契丹の塞外で用いられ、開元・天宝の中頃に漸次京城に至った。兜籠は、巴蜀の婦人の用いるもので、今、乾元以来、蕃将が多く朝廷に勲功を立て、兜籠は担うのに容易なため、京城では奚車・兜籠が車輿に代わった。

武徳以来、婦人が履を着けるのは、規制も重く、また線靴があった。開元以来、婦人は例として線鞋を着け、軽妙で事に便であることを取り、侍児は履を着ける。臧獲の賤伍たる者は皆襴衫を服する。太常楽は胡曲を尚び、貴人の御饌は、尽く胡食を供し、士女は皆競って胡服を衣とし、故に范陽の羯胡の乱があり、その兆しは好尚に遠くあった。

太極元年、左司郎中唐紹が上疏して曰く、

臣が聞くところによれば、王公以下、送終の明器等の物は、甲令に具わって標し、品秩の高下に従い、それぞれ節文がある。孔子は曰く、明器とは、物を備えて用いることができず、芻霊を善とし、俑を作る者は仁ならずと。伝に曰く、俑とは、面目や機発があり、生人に似ているものを謂う。これを以て葬れば、殉に将するに殆く、故に仁ならずと言うのである。近ごろ王公百官は、競って厚葬をなし、偶人の像馬は、生けるが如くに彫飾し、徒らに路人を眩耀するのみで、本来心より礼を致すためではない。更に互いに扇ぎ慕い、産を破り資を傾け、風俗として流行し、遂に下は士庶にまで及んだ。もし禁制がなければ、奢侈は日増しになるであろう。諸王公以下に対し、送葬の明器は、皆令式に依り、ともに墓所に陳べ、衢路を行ってはならないことを望む。

また士庶の親迎の儀は、諸々の礼に備わって弁え、宗廟を承け、舅姑に事えるためであり、当に須らく昏を以て期とし、詰朝に謁見すべきである。往時、下俚の庸鄙な者が、時に障車をなし、その酒食を邀えて、戯楽とした。近ごろこの風は転じて盛んとなり、上は王公に及び、広く音楽を奏し、多く徒侶を集め、道路を遮り擁して、留滞して時を淹め、財物を邀え致し、動けば万計を逾える。遂に障車の礼貺をして、聘財よりも過ぎさせ、歌舞喧嘩は、助感とは甚だ異なる。すなわち名教を損ない、実に風猷を蠹し、礼経に違紊するので、須らく節制を加うべきである。婚姻の家で障車をする者を、ともに須らく禁断することを望み請う。その犯す者有れば、廕ある家は犯名教の例に準じて簿に附し、廕なき人は杖六十を決し、なお各々本罪を科する。