旧唐書
『易経』に曰く、「天文を観て以て時の変を察す」と。是の故に古の哲王は、垂象を法として化を施し、庶徴を考へて理を致し、以て人時に授け、以て物紀を考へ、其の徳を修めて以て其の度に順ひ、其の過を改めて以て其の災を慎み、危きを去りて安きに就き、禍を転じて福と為す者なり。夫れ其の五緯七紀の名数、中官外官の位次、凌歴犯守の主る所、飛流彗孛の応ずる所は、前史に載する備はりたり。
武徳年中、薛頤・庾儉等相次いで太史令と為る。各占候に善くするも、而して発明する所無し。貞観初、将仕郎直太史李淳風始めて上言す、霊台候儀は是れ後魏の遺範にして、法制疎略、占歩を為すに難しと。太宗因りて淳風に令して渾儀を改造せしめ、銅を鋳て之を為し、七年に至りて造成す。淳風因りて『法象志』七巻を撰し、以て前代渾儀得失の差を論ず。語は『淳風伝』に在り。其の造る所の渾儀は、太宗凝暉閣に置きて以て測候に用ゐしむるを令す。既に宮中に在り、尋にして其の所在を失ふ。玄宗開元九年、太史頻りに日蝕効を奏せず。詔して沙門一行に新暦を改造せしむ。一行奏して云く、「今暦を創め元を立たんと欲すれば、須らく黄道の進退を知るべし。太史令に請ひて星度を測候せしむ」と。有司云く、「承前唯だ赤道に依りて推歩し、官に黄道遊儀無く、由て測候す無し」と。時に率府兵曹梁令瓚、麗正書院に於て待制す。因りて遊儀の木様を造る。甚だ精密なり。一行乃ち上言して曰く、「黄道遊儀は、古其の術有りて其の器無し。黄道天に随ひて運動するを以て、常儀を以て之を格するに難く、故に昔人潜思するも皆能はざるなり。今梁令瓚此の図を創造し、日道月交、自然に契合せざる莫し。既に推歩に於て尤も要なり。望くは就きて書院に更に銅鉄を以て之を為し、庶くは星度を考験し、差舛有ること無からしむ」と。之に従ふ。十三年に至りて造成す。又上疏して曰く、
『舜典』に按ずるに云く、「璿樞玉衡に在りて、以て七政を斉す」と。説者は其の転運する者を樞と為し、正を持する者を衡と為すを取り、皆玉を以て之を為し、以て七政の変を斉し、其の盈縮進退、得失政の在る所を知る、即ち古の太史渾天儀なりと為す。周室衰微してより、疇人職を喪ひ、其の制度遺象、伝ふる者莫し。漢興り、丞相張蒼首めて律暦の学を創す。武帝に至り、詔して司馬遷等に漢暦を更に造らしむ。乃ち東西を定め、晷儀を立て、漏刻を下し、以て二十八宿相距の星度を追ひ、古と同からず。故に唐都天部を分ち、洛下閎運算して暦を転じ、今の赤道暦星度は則ち其の遺法なり。後漢永元中、左中郎将賈逵奏言して曰く、「臣前に傅安等の黄道を以て日月を度するを上る。弦望多く近し。史官一に赤道を以て之を度す。天と合せず、一日以上に差るに至る。願はくは太史官の日月宿簿及び星度課を請ひ、待詔星官と考校せしめん」と。奏可。典星待詔姚崇等十二人に問ふ。皆曰く、『星図に規法有り。日月実に黄道に従ふ。官其の器無く、施行するを知らず』と。甘露二年、大司農丞耿寿昌奏し、円儀を以て日月の行を度し、天運を考験す。日月赤道を行く、牽牛・東井に至れば、日は一度を行き、月は十五度を行く。婁・角に至れば、日は一度を行き、月は十三度を行く。此れ前代の共に知る所なり」と。是の歳永元四載なり。明年、始めて詔して太史に黄道銅儀を造らしむ。冬至、日斗十九度四分度の一に在り。赤道と定差二度。史官以て日月弦望を校す。密近と雖も、而して望日と為さず。儀、黄道と度運転し、候ひ難し。是を以て少しく其の事を終ふ。其の後劉洪黄道渾儀に因り、以て月行出入の遅速を考ふ。而して後の暦を理むる者其の法を遵はず、更に赤道に従ひて文を命じ、以て賈逵の言ふ所を験す。差謬益甚だし。此れ暦を理むる者の大惑なり。今の霊台鉄儀は、後魏明元時都匠解蘭の造る所。規制朴略、度刻均しからず。赤道動かず、乃ち膠柱の如し。黄道を置かず、進退準無し。此れ赤道月行に拠りて以て入暦の遅速を験す。多き者は或は十七度に至り、少き者は僅かに十度を出づ。以て天象を上稽し、人時を敬授するに足らず。近く秘閣郎中李淳風『法象志』を著し、黄道渾儀の法を備載す。玉衡旋規を以てし、別に日道を帯し、傍らに二百四十九交を列ね、以て月游を携ふ。用法頗る雑なり。其の術竟に寝す。臣伏して恩旨を承け、更に遊儀を造り、黄道を運行せしめ、以て列舎の変を追はしむ。二分の中に因りて以て黄道を立て、軫・奎の間に交はり、二至の陟降各二十四度。黄道の内に、又白道月環を施し、以て陰陽朓朒の数を究め、動に天運に合し、簡にして従ひ易く、以て器を製し象を垂れ、永く不朽に伝ふるに足れり。
是に於て玄宗親しく銘を製し、之を霊台に置きて以て星度を考ふ。其の二十八宿及び中外官古経と同からざる者、凡そ数十条。又詔して一行と梁令瓚及び諸術士に更に渾天儀を造らしむ。銅を鋳て円天の象を為し、上に列宿赤道及び周天の度数を具ふ。水を注ぎて輪を激し、其の自転を令す。一日一夜、天一周を転ず。又別に二輪を置きて天外に絡み、日月を綴りて、運行を得しむ。天西に一幣を転ずる毎に、日は東に一度を行き、月は十三度十九分度の七を行く。凡そ二十九転有餘にして日月会し、三百六十五転にして日行匝る。仍て木櫃を置きて以て地平と為し、儀を半ば地下に在らしめ、晦明朔望、遅速準有り。又二木人を地平の上に立て、前に鐘鼓を置きて以て辰刻を候はしむ。每一刻自然に鼓を撃ち、毎辰則ち自然に鐘を撞く。皆櫃の中に各輪軸を施し、鉤鍵交錯し、関鎖相持つ。既に天道と合同し、当時共に其の妙を称す。鋳成り、之を命して「水運渾天俯視図」と曰ひ、武成殿前に置きて以て百僚に示す。幾も無くして銅鉄漸く澁み、自転すること能はず。遂に集賢院に収置し、復た行用せず。
今遊儀の制度及び測る所の星度の異同を録し、開元十二年諸州に使を分遣して測る所の日晷の長短、李淳風・僧一行の定むる所の十二次分野、武徳已来の交蝕及び五星の祥変を、篇に著す。
黄道遊儀規尺寸
旋枢双環:外一丈四尺六寸一分、豎八分、厚三分、直径四尺五寸九分、即ち古の所謂旋儀なり。南北斜に両極し、上下規に循りて各三十四度、両面各周天の度数を画す。一面釘を加へ、並びに銀を以て飾り、東西運転して渾天遊儀の如くせしむ。中旋枢軸両極首内に至る。孔径大さ二度半、長さ旋環の径と斉し、並びに古尺四分を以て度と為す。
玉衡望筒:長さ四尺五寸八分、広さ一寸二分、厚さ一寸、孔径六分、古玉を以て之を飾る。玉衡、衡軸中に施し、旋運して正を持し、以て七曜及び列星の闊狭を窺ふ。外方内円、孔径一度半、周日輪なり。
陽経双環:外径一丈七尺三寸、内径一丈四尺六寸四分、幅四寸、厚さ四分、直径五尺四寸四分、子午線に設置する。左右に八本の柱で固定し、両面に周天の度数を描き、一面には釘を打ち、銀で装飾する。半ば地上に出で、半ば地下に入れ、双環の間に枢軸と玉衡望筒を挟み、旋環の中に置く。
陰緯単環:外径・内径・幅・厚さ・周径は全て陽経に準じ、陽経と互いに半ば噛み合い、内外ともに揃う。上面を天とし、以下を地とし、陽環を横に周り、これを陰渾という。上面に二つの境界を設け、内外に周天百刻を記す。上面に御製の銘序及び書を刻み、全て金で文字とする。
天頂単環:外径一丈七尺三寸、縦幅八分、厚さ三分、直径五尺四寸四分。中国の人々の天頂に当たり、東西は卯酉の中間に当たり、やや南に寄せ、日の出入りが見えるようにし、陽経・陰緯と固定し、殻が黄身を包むようにする。南へ赤道より三十六度、黄道より十二度、北極より五十五度、南北の平面より各九十一度強を去る。
赤道単環:外径一丈四尺五寸九分、横幅八分、厚さ三分、直径四尺九寸。赤道とは、天の中に当たり、二十八宿の列位である。その原型は、後魏の解蘭が造ったものである。双規を備えていたが、運動できなかった。臣が今造るものは、上に周天星度を列記し、天に随って転運させ、なお穴を穿ち、穴に随って退交し、誤りがないようにする。即ち、古の秋分の日が角五度に在ったのが、今は軫十三度に在り、冬至の日が牽牛初度に在ったのが、今は斗十度に在ることを知る。差に従って退くことを想定し、故に穴を設けるのである。傍らは卯酉の南に在り、上は天頂より三十六度を去って横に置く。
黄道単環:外径一丈五尺四寸一分、横幅八分、厚さ四分、直径四尺八寸四分。日の運行する所、故に黄道と名付く。古人は其事を知りながら、遂に其の器が無く、太陽の陟降が積年に差を生じた。月及び五星も亦、日度に随って出入りし、規制は准的を知らず、斟酌して率と為し、疎闊尤も多し。臣今此の環を創置し、赤道環の内に置き、なお開合して転運に随わせ、四十八度を出入りし、而して極めて両方を画き、東西に周天度数を列記し、南北に百刻を列記し、日を見て時を知り、誤り無からしめる。上に三百六十策を列記し、用卦と相准え、穴を穿ちて赤道と相交わす。
白道月環:外径一丈五尺一寸五分、横幅八分、厚さ三分、直径四尺七寸六分。月の運行には迂曲遅疾があり、日の運行の緩急と相反する。古に其の器無く、今黄道環の内に創置し、黄道に就いて交合と為し、六十度を出入りし、以て毎夜の行度を測る。上に周天度数を画き、一穴を穿ち、移交会を擬し、並びに銅鉄を以て之を為す。
李淳風の『法象志』に此の日月両環が有り、旋儀環の上にあると説く。既に玉衡を用いる以上、玉衡の内に別に一尺の望筒を安ずるを得ず。運用既に難く、其の器已に澀む。
游儀の四柱、龍各高さ四尺七寸。水槽・山各高さ一尺七寸五分。槽長六尺九寸、高さ幅各四寸。水池深さ一寸、幅一寸五分。龍は雲雨を興す能あり、故に以て柱を飾る。柱は四維に在り、龍の下に山雲有り、俱に水準槽の上に在り、並びに銅を以て之を為す。
游儀初めて成る、太史の測る所の二十八宿等と『経』との同異状:
角二星、十二度;赤道黄道の度は古と同し。旧『経』は去極九十一度、今は則ち九十三度半。『星経』に云く「角は去極九十一度、距星正に赤道に当たり、其の黄道は赤道の南に在り、角の中を経ず」と。今測るに角は赤道の南二度半に在り、黄道復た角の中を経る、即ち天象と符合す。
亢四星、九度。旧は去極八十九度、今は九十一度半。氐四星、十六度。旧は去極九十四度、今は九十八度。房四星、五度。旧は去極百八度、今は百十度半。心三星、五度。旧は去極百八度、今は百十一度。尾九星、十八度。旧は去極百二十度、一に云う百四十一度、今は百二十四度。箕四星、十一度。旧は去極百十八度、今は百二十度。南斗六星、二十六度。旧は去極百十六度、今は百十九度。牽牛六星、八度。旧は去極百六度、今は百四度。須女四星、十二度。旧は去極百度、今は百一度。虚二星、十度。旧は去極百四度、今は百一度。北星は旧図は虚宿に入る、今測るに須女九度に在り。危三星、十七度。旧は去極九十七度、今は九十七度。北星は旧図は危宿に入る、今測るに虚六度半に在り。室二星、十六度。旧は去極八十五度、今は八十三度。東壁二星、九度。旧は去極八十六度、今は八十四度。
奎十六星、十六度。旧は去極七十六度、一に云う七十度、今は七十三度。東壁九度、奎十六度、此れ奎西の大星を距と為すを誤り、即ち壁の二度を損じ、奎に二度を加う。今西南の大星を距と取り、即ち奎・壁各本度を失わず。婁三星、十三度。旧は去極八十度、今は七十七度。胃三星、十四度。昴七星、十一度。旧は去極七十四度、今は七十二度。畢八星、十七度。旧は去極七十八度、今は七十六度。觜觿三度、旧は去極八十四度、今は八十二度。畢の赤道は黄道の度と同し。觜の赤道は二度、黄道は三度。其の二宿俱に黄道の斜虚に当たる。畢は十六度有り、尚赤道の度と同し。觜は総て二度、黄道は一度を損加す、此れ即ち前に承りて誤り有り。今測るに畢は十七度半有り、觜觿は半度、並びに天に依りて正す。参十星、旧は去極九十四度、今は九十二度。東井八星、三十三度。旧は去極七十度、今は六十八度。輿鬼五星、旧は去極六十八度、今古同し。柳八星、十五度。旧は去極七十七度、一に云う七十九度、今は八十度半。柳は、合用するに西頭の第三星を距と為すべし、比来第四星を取り誤る、今第三星に依りて正と為す。七星十度、旧は去極九十一度、一に云う九十三度、今は九十三度半。張六星、十八度。旧は去極九十七度、今は百度。張六星、中央の四星は硃鳥の嗉と為し、外の二星は翼と為す。比来膺前を距と取らず、翼星を取り誤り、即ち張に二度半を加え、七星は二度半を欠く。今本『経』に依りて定と為す。
翼宿二十二星、十八度。旧来は極より九十七度、今は一百三度。軫宿四星、十七度。旧来は極より九十八度、今は一百度。文昌、旧来は二星が鬼宿に、四星が井宿に在りしが、今は四星が柳宿に、一星が鬼宿に、一星が井宿に在る。北斗、魁の第一星は旧来は星宿一度に在りしが、今は張宿十三度に在る。第二星は旧来は張宿二度に在りしが、今は張宿十二度半に在る。第三星は旧来は翼宿二度に在りしが、今は翼宿十三度に在る。第四星は旧来は翼宿八度に在りしが、今は翼宿十七度太に在る。第五星は旧来は軫宿八度に在りしが、今は軫宿十度半に在る。第六星は旧来は角宿七度に在りしが、今は角宿四度少に在る。第七星は旧来は亢宿四度に在りしが、今は角宿十二度少に在る。天関、旧来は黄道の南四度に在りしが、今は黄道に当たる。天江、旧来は黄道の外に在りしが、今は黄道に当たる。天囷、旧来は赤道の外に在りしが、今は赤道に当たる。三臺:上臺は旧来は井宿に在りしが、今測れば柳宿に在る。中臺は旧来は星宿に在りしが、今は張宿に在る。建星、旧来は黄道の北半度に去りしが、今は四度半。天苑、旧来は昴宿・畢宿に在りしが、今は胃宿・昴宿に在る。王良、旧来は五星が壁宿に在りしが、今は四星が奎宿に、一星が壁宿の外に在る。屏、旧来は觜宿に在りしが、今は畢宿に在る。雲雨、旧来は黄道の外に在りしが、今は黄道の内七度に在る。雷電、旧来は赤道の外五度に在りしが、今は赤道の内二度に在る。霹靂、旧来は五星並びに赤道の外四度に在りしが、今は四星が赤道の内に、一星が外に在る。土公吏、旧来は赤道の外に在りしが、今は赤道の内六度に在る。虚梁、旧来は黄道の内四度に在る。外屏、旧来は黄道の外三度に在りしが、今は黄道に当たる。八魁、旧来は九星並びに室宿に在りしが、今は五星が壁宿に、四星が室宿に在る。長垣、旧来は黄道に当たりしが、今は黄道の北五度に在る。軍井、『経』に准えば、玉井の東南二度半に在る。天槨、旧来は黄道の北に在りしが、今は黄道に当たる。天高、旧来は黄道の外に在りしが、今は黄道に当たる。狗国、旧来は黄道の外に在りしが、今は黄道に当たる。羅堰、旧来は黄道に当たりしが、今は黄道の北に在る。
黄道は、春分の日に赤道と奎宿五度太で交わり、秋分の日に軫宿十四度少で交わる。冬至の日には斗宿十度に在り、赤道より南二十四度に去る。夏至の日には井宿十三度少に在り、赤道より北二十四度に去る。その赤道は天の中を帯び、列宿の度を分つに用いる。黄道は斜めに運行し、日月の運行を明らかにする。その冬至の点は、洛下閎が牛宿の初めに起し、張衡らが斗宿の度に遷した。これは毎年の差動により旧次の度に及ばないからである。
日晷:『周礼』大司徒の職に常に「土圭の法をもって土深を測り、日景を正し、地中を求む。日東に在れば則ち景は夕に多く風あり、日西に在れば則ち景は朝に多く陰あり。日至の景尺五寸、これを地中と謂う。天地の合する所、四時の交わる所、風雨の会する所、陰陽の和する所なり。然らば則ち百物は阜安にして、乃ち王国を建つ。」とある。鄭氏は「凡そ日景は地に於いて、千里にして一寸を差す」とし、「景尺有五寸なる者は、南に日下を戴くこと一万五千里、地と星辰とが四游して三万里の中に升降する。是を以てこれを半ばにして、地の中を得るなり」と為す。鄭司農は云う、「土圭の長さ尺有五寸、夏至の日に八尺の表を立て、その景が適に土圭と等しきを、地中と謂う。今の潁川陽城が然り。
謹んで『南越志』に按ずるに、「宋の元嘉年中、南征して林邑に至り、五月に表を立ててこれを望むに、日は表の北に在り、影は表の南に居る。交州の日影は北に三寸を覚え、林邑は九寸一分を覚ゆ。所謂、北戸を開いて日に向うなり」と。交州は、大略洛陽を去ること九千余里、蓋し水陸曲折にして、圭表の度る所を論ずるに非ず。ただ直に実を考うれば、その五千里か。開元十二年、詔して太史に交州にて景を測らしむ。夏至の影、表の南に長さ三寸三分、元嘉年中に測った所と大同なり。然らば則ち陽城より南に距り、直路をして弦に応ぜしめ、日下に至らしむれば、蓋し五千里を盈たざるべし。測影の使者大相元太云う、「交州にて極を望むに、才に地より出づること二十余度。八月に海の中より南に望むに老人星殊に高し。老人星の下、環星燦然として、その明大なる者甚だ衆し。図に載せざる所にして、その名を弁ずる莫し。大率南極を去ること二十度以上、その星皆見ゆ。乃ち古の渾天家が常に地中に没し、伏して見えざる所と為す所なり」と。又た貞観年中、史官の載する所に按ずるに、鉄勒・回紇部は薛延陀の北に在り、京師を去ること六千九百里。又た骨利幹有りて回紇の北方瀚海の北に居り、草多く百薬、地は名馬を出し、駿なる者は数百里を行く。北は又た大海に距り、昼長くして夕短し、日没したる後、天色正に曛たりて、一羊の胛を煮て才に熟するに、而して東方已に曙る。蓋し日の出入する所に近きが故なり。凡そこの二事は、皆書契の未だ載せざる所なり。開元十二年、太史監南宮説、河南の平地を択び、水準の繩を以てし、八尺の表を樹てて以てこれを引度す。始め滑州白馬県よりし、北至の晷、尺有五寸七分。滑州の臺表より南に一百九十八里百七十九步行きて、汴州浚儀の古臺表を得、夏至の影長さ一尺五寸微強。又た浚儀より南に百六十七里二百八十一步行きて、許州扶溝県の表を得、夏至の影長さ一尺四寸四分。又た扶溝より南に一百六十里百十步行きて、豫州上蔡武津の表に至り、夏至の影長さ一尺三寸六分半。大率五百二十六里二百七十歩にして、影差二寸余り。而るに先儒は王畿千里にして影一寸移ると為すは、又た乖舛にして同じからず。
今、句股の図を以てこれを校うるに、陽城の北至の晷、一尺四寸八分弱。冬至の晷、一丈二尺七寸一分半。春秋分、その長さ五尺四寸三分。覆矩を以て斜めに視れば、北極出地三十四度四分。凡そ度分は皆十分を法とす。滑臺の表よりこれを視れば、高さ三十五度三分。陽城より九分差う。浚儀の表よりこれを視れば、高さ三十四度八分。陽城より四分差う。武津の表よりこれを視れば、高さ三十三度八分。陽城より九分差う。秒分稍々盈縮有りと雖ども、目を以て校うるに、大率五百二十六里二百七十歩にして北極一度半を差し、三百五十一里八十歩にして一度を差す。枢極の遠近同じからざれば、則ち黄道の軌景固より随って遷変す。
これをもって基準とし、推し量って比べると、朗州で影を測ったところ、夏至の影の長さは七寸七分、冬至の影の長さは一丈五寸三分、春秋分の影の長さは四尺三寸七分半であった。図を用いて測ると、定気の影の長さは四尺四寸七分となる。図を斜めに見ると、北極の出地は二十九度半である。陽城との差は五度二分である。蔚州横野軍で影を測ると、夏至の影の長さは二尺二寸九分、冬至の影の長さは一丈五尺八寸九分、春秋分の影の長さは六尺四寸四分半であった。図を用いて測ると、定気の影の長さは六尺六寸三分半となる。図を斜めに見ると、北極の出地は四十度である。陽城との差は五度二分である。南北の差は凡そ十度半、その直線距離は三千六百八十里九十歩である。陽城から朗州までは、一千八百二十六里百九十六歩、陽城から蔚州横野軍までは、一千八百六十一里二百一十四歩である。北至(冬至)の影の差は一尺五寸三分、陽城から朗州までは七寸二分の差、陽城から横野軍までは八寸の差である。南至(夏至)の影の差は五尺三寸六分である。陽城から朗州までは二尺一寸八分の差、陽城から横野軍までは三尺一寸八分の差である。概して夏至は南方との差が少なく、冬至は北方との差が多い。また図を用いて安南を校合すると、太陽は天頂より北に二度四分、北極の高度は二十度四分、冬至の影の長さは七尺九寸四分、定春秋分の影の長さは二尺九寸三分である。陽城との差は十四度三分、その直線距離は五千二十三里である。林邑国に至ると、太陽は天頂より北に六度六分強、北極の高度は十七度四分、周囲三十五度の範囲で常に見えて隠れない。冬至の影の長さは六尺九寸、その直線距離は六千一百一十二里である。仮に陽城より北へ、鉄勒の地まで同じく十七度四分の差があるとすれば、林邑と等しいことになり、すると五月には太陽は天頂より南二十七度四分、北極の高度は五十二度、周囲百四度の範囲で常に見えて隠れない。北至(冬至)の影は四尺一寸三分、南至(夏至)の影は二丈九尺十寸六分である。定春秋分の影の長さは九尺八寸七分である。北方では太陽が没する地平線はわずか十五度余りで、黄昏には亥(北西)の真西に沈み、明け方には丑(北東)の真東に現れる。里数で推し量ると、すでに回紇の北にあり、また南は洛陽から九千八百一十里離れているので、五月の極めて昼の長い日には、その夕方も常に明るいであろう。そうすると骨利幹はなおその南にあることになる。また先儒は、南の太陽の真下の地点から一万五千里を勾股とし、斜めに陽城を射る線を弦として、円周と直径の比率を考証して天の度数を推し量り、一千四百六里二十四歩余りに当たるとした。今、日影を測ると、陽城から五千余里離れており、すでに太陽の真下の地点より南に位置しているので、一度の広さは皆、三分の二を去るべきであり、南北両極の間の距離はわずか八万余里、その直径は五万余里と計算される。宇宙の広さが、果たしてこのようなものであろうか。それでは王蕃の伝えた説は、管をもって天を窺い、ひさごをもって海を測るようなものである。古人が勾股の術を頼りとしたのは、それが近い事象において証拠があるからである。ただ、目視では遠くを見ることができず、微細な差が次第に生じ、その差が積もり積もって、ついに術と食い違うことを知らなかったのである。人が大きな湖に遊ぶとき、広さ百里に満たなくても、朝夕に日月が湖中から出入りするのを見る。そして巨大な海に浮かぶとき、幾千万里も離れているのに、なお日月が朝にその中から出て、夕にその中に入るのを見る。もし朝夕の際に、重差の法を設けてこれを望めば、必ずや大小同じ術を用いても区別できなくなるであろう。
横の関係が既にあるならば、縦の関係も同様であるべきである。仮に二本の標竿を立て、南北に十里離し、その高さを共に数十里としたとする。もし松明を南の標竿の頂上に置き、その下に八尺の木を立てれば、影はできないはずである。試みに南の標竿の下から、北の標竿の頂上を仰ぎ見ると、必ずや微細な差が積もり積もって、次第に南の標竿と一致するようになるであろう。標竿の頂上が一致すれば、その上に松明を置いても、やはり影はできないはずである。また松明を北の標竿の頂上に置き、その下に八尺の木を立てれば、影はできないはずである。試みに北の標竿の下から、南の標竿の頂上を仰ぎ見ると、また微細な差が積もり積もって、次第に北の標竿と一致するようになるであろう。標竿の頂上が一致すれば、その上に松明を置いても、やはり影はできないはずである。さらに二本の標竿の間、それぞれ五里ずつ離れた地点に、更に八尺の木を立てて仰ぎ見ると、標竿の頂上が環状に屈曲して互いに会うであろう。もし松明を両方の標竿の頂上に置けば、皆影はできないはずである。数十里の高さと十里の広さがあれば、斜めに射す影と仰ぎ見ることは変わらない。今、その影の差を求めて遠近高低を推し量ろうとしても、まだ知ることができないのである。ましてや、測り知れない中で天球一周の積算された里数を考察することなど、どうして確実にできようか。仮に学者が二十里の高さに基づいて勾股の術を立てたとしても、その所以を知ることはできない。ましてや八尺の木などにおいてなおさらである。そもそも人が圭表の影を測る意図は、天地の和気を調節し宣べ、万物の宜しきを助け成すことにあり、星辰の運行する周径にあるのではない。歴数を重んじる意図は、人時に敬って授け、天象を恭しく順うことにあり、渾天説や蓋天説の是非にあるのではない。もしも見聞の及ばないところで根拠のない話を述べるならば、君子は疑わしいことは保留して断定せず、仲尼(孔子)は言葉を慎んで論じないのである。ところが或る者はそれぞれ伝えられた器具を固守して天體を述べ、渾天の元気は数によって測ることができ、天の大いなる象は運算によって窺うことができると言い、結局は六家の説が互いに矛盾し合うことになった。今、真に蓋天説とすれば、南方の度数は次第に狭くなる。渾天説とすれば、北方の極点は次第に高くなる。この二つの点について、渾天・蓋天の両家はまだその説を通じさせる方法を持っていない。これによって観れば、王仲任(王充)や葛稚川(葛洪)の徒が、異同の弁別に小さなことにこだわったことが、人倫の教化に何の益があったというのか。
また、凡そ日影の差は、冬夏至で異なり、南北でも異なるが、先儒は一律に里数で均そうとしたため、事実を失っている。沙門一行は『大衍図』を修めるに当たり、更に『覆矩図』を作り、丹穴から幽都の地に至るまで、凡そ二十四の図を以て、日蝕の分数を考証し、夜の漏刻の短長を知った。今、諸州で測った影の尺寸を左に載せる。
林邑国は、北極の高度十七度四分。冬至の日影は表の北六尺九寸。定春秋分の日影は表の北二尺八寸五分、夏至の日影は表の南五寸七分。安南都護府は、北極の高度二十六度六分。冬至の日影は表の北七尺九寸四分。定春秋分の日影は表の北二尺九寸三分、夏至の日影は表の南三寸三分。朗州武陵県は、北極の高度二十九度五分。冬至の日影は表の北一丈五寸三分。定春秋分の日影は表の北四尺三寸七分半、夏至の日影は表の北七寸七分。襄州は、恒に春分の日影は表の北四尺八寸。蔡州上蔡県武津館は、北極の高度三十三度八分。冬至の日影は表の北一丈二尺三寸八分。定春秋分の日影は表の北五尺二寸八分、夏至の日影は表の北一尺三寸六分半。許州扶溝は、北極の高度三十四度三分。冬至の日影は表の北一丈二尺五寸三分。定春秋分の日影は表の北五尺三寸七分、夏至の日影は表の北一尺四寸四分。汴州浚儀太嶽臺は、北極の高度三十四度八分。冬至の日影は表の北一丈二尺八寸五分。定春秋分の日影は表の北五尺五寸、夏至の日影は表の北一尺五寸三分。滑州白馬は、北極の高度三十五度三分。冬至の日影は表の北一丈三尺。定春秋分の日影は表の北五尺三寸六分、夏至の日影は表の北一尺五寸七分。太原府は、恒に春分の日影は表の北六尺。蔚州横野軍は、北極の高度四十度。冬至の日影は表の北一丈五尺八寸九分。定春秋分の日影は表の北六尺六寸三分、夏至の日影は表の北二尺二寸九分。