舊唐書

巻035

巻035

舊唐書

原文舊唐書

卷三十五

原文卷三十五

志第十五 天文上

原文志第十五 天文上

『易経』に曰く、「天文を観て以て時の変を察す」と。是の故に古の哲王は、垂象を法として化を施し、庶徴を考へて理を致し、以て人時に授け、以て物紀を考へ、其の徳を修めて以て其の度に順ひ、其の過を改めて以て其の災を慎み、危きを去りて安きに就き、禍を転じて福と為す者なり。夫れ其の五緯七紀の名数、中官外官の位次、凌歴犯守の主る所、飛流彗孛の応ずる所は、前史に載する備はりたり。

原文《易》曰:「觀乎天文以察時變。」是故古之哲王,法垂象以施化,考庶徵以致理,以授人時,以考物紀,修其德以順其度,改其過以慎其災,去危而就安,轉禍而為福者也。夫其五緯七紀之名數,中官外官之位次,淩歷犯守之所主,飛流彗孛之所應,前史載之備矣。

武徳年中、薛頤・庾儉等相次いで太史令と為る。各占候に善くするも、而して発明する所無し。貞観初、将仕郎直太史李淳風始めて上言す、霊台候儀は是れ後魏の遺範にして、法制疎略、占歩を為すに難しと。太宗因りて淳風に令して渾儀を改造せしめ、銅を鋳て之を為し、七年に至りて造成す。淳風因りて『法象志』七巻を撰し、以て前代渾儀得失の差を論ず。語は『淳風伝』に在り。其の造る所の渾儀は、太宗凝暉閣に置きて以て測候に用ゐしむるを令す。既に宮中に在り、尋にして其の所在を失ふ。玄宗開元九年、太史頻りに日蝕効を奏せず。詔して沙門一行に新暦を改造せしむ。一行奏して云く、「今暦を創め元を立たんと欲すれば、須らく黄道の進退を知るべし。太史令に請ひて星度を測候せしむ」と。有司云く、「承前唯だ赤道に依りて推歩し、官に黄道遊儀無く、由て測候す無し」と。時に率府兵曹梁令瓚、麗正書院に於て待制す。因りて遊儀の木様を造る。甚だ精密なり。一行乃ち上言して曰く、「黄道遊儀は、古其の術有りて其の器無し。黄道天に随ひて運動するを以て、常儀を以て之を格するに難く、故に昔人潜思するも皆能はざるなり。今梁令瓚此の図を創造し、日道月交、自然に契合せざる莫し。既に推歩に於て尤も要なり。望くは就きて書院に更に銅鉄を以て之を為し、庶くは星度を考験し、差舛有ること無からしむ」と。之に従ふ。十三年に至りて造成す。又上疏して曰く、

原文武德年中,薛頤、庾儉等相次為太史令,雖各善於占候,而無所發明。貞觀初,將仕郎直太史李淳風始上言靈臺候儀是後魏遺範,法制疏略,難為占步。太宗因令淳風改造渾儀,鑄銅為之,至七年造成。淳風因撰《法象志》七卷,以論前代渾儀得失之差,語在《淳風傳》。其所造渾儀,太宗令置於凝暉閣以用測候,既在宮中,尋而失其所在。玄宗開元九年,太史頻奏日蝕不效,詔沙門一行改造新曆。一行奏云:「今欲創曆立元,須知黃道進退,請太史令測候星度。」有司云:「承前唯依赤道推步,官無黃道遊儀,無由測候。」時率府兵曹梁令瓚待制於麗正書院,因造遊儀木樣,甚為精密。一行乃上言曰:「黃道游儀,古有其術而無其器。以黃道隨天運動,難用常儀格之,故昔人潛思皆不能得。今梁令瓚創造此圖,日道月交,莫不自然契合,既于推步尤要,望就書院更以銅鐵為之,庶得考驗星度,無有差舛。」從之,至十三年造成。又上疏曰:

『舜典』に按ずるに云く、「璿樞玉衡に在りて、以て七政を斉す」と。説者は其の転運する者を樞と為し、正を持する者を衡と為すを取り、皆玉を以て之を為し、以て七政の変を斉し、其の盈縮進退、得失政の在る所を知る、即ち古の太史渾天儀なりと為す。周室衰微してより、疇人職を喪ひ、其の制度遺象、伝ふる者莫し。漢興り、丞相張蒼首めて律暦の学を創す。武帝に至り、詔して司馬遷等に漢暦を更に造らしむ。乃ち東西を定め、晷き儀を立て、漏刻を下し、以て二十八宿相距の星度を追ひ、古と同からず。故に唐都天部を分ち、洛下閎運算して暦を転じ、今の赤道暦星度は則ち其の遺法なり。後漢永元中、左中郎将賈逵奏言して曰く、「臣前に傅安等の黄道を以て日月を度するを上る。弦望多く近し。史官一に赤道を以て之を度す。天と合せず、一日以上に差るに至る。願はくは太史官の日月宿簿及び星度課を請ひ、待詔星官と考校せしめん」と。奏可。典星待詔姚崇等十二人に問ふ。皆曰く、『星図に規法有り。日月実に黄道に従ふ。官其の器無く、施行するを知らず』と。甘露二年、大司農丞耿寿昌奏し、円儀を以て日月の行を度し、天運を考験す。日月赤道を行く、牽牛・東井に至れば、日は一度を行き、月は十五度を行く。婁・角に至れば、日は一度を行き、月は十三度を行く。此れ前代の共に知る所なり」と。是の歳永元四載なり。明年、始めて詔して太史に黄道銅儀を造らしむ。冬至、日斗十九度四分度の一に在り。赤道と定差二度。史官以て日月弦望を校す。密近と雖も、而して望日と為さず。儀、黄道と度運転し、候ひ難し。是を以て少しく其の事を終ふ。其の後劉洪黄道渾儀に因り、以て月行出入の遅速を考ふ。而して後の暦を理むる者其の法を遵はず、更に赤道に従ひて文を命じ、以て賈逵の言ふ所を験す。差謬益甚だし。此れ暦を理むる者の大惑なり。今の霊台鉄儀は、後魏明元時都匠解蘭の造る所。規制朴略、度刻均しからず。赤道動かず、乃ち膠柱の如し。黄道を置かず、進退準無し。此れ赤道月行に拠りて以て入暦の遅速を験す。多き者は或は十七度に至り、少き者は僅かに十度を出づ。以て天象を上稽し、人時を敬授するに足らず。近く秘閣郎中李淳風『法象志』を著し、黄道渾儀の法を備載す。玉衡旋規を以てし、別に日道を帯し、傍らに二百四十九交を列ね、以て月游を携ふ。用法頗る雑なり。其の術竟に寝す。臣伏して恩旨を承け、更に遊儀を造り、黄道を運行せしめ、以て列舎の変を追はしむ。二分の中に因りて以て黄道を立て、軫・奎の間に交はり、二至の陟降各二十四度。黄道の内に、又白道月環を施し、以て陰陽朓朒の数を究め、動に天運に合し、簡にして従ひ易く、以て器を製し象を垂れ、永く不朽に伝ふるに足れり。

原文按《舜典》云:「在璿樞玉衡,以齊七政。」說者以為取其轉運者為樞,持正者為衡,皆以玉為之,用齊七政之變,知其盈縮進退,得失政之所在,即古太史渾天儀也。自周室衰微,疇人喪職,其制度遺象,莫有傳者。漢興,丞相張蒼首創律曆之學。至武帝詔司馬遷等更造漢曆,乃定東西、立晷儀、下漏刻,以追二十八宿相距星度,與古不同。故唐都分天部,洛下閎運算轉曆,今赤道曆星度,則其遺法也。後漢永元中,左中郎將賈逵奏言:「臣前上傅安等用黃道度日月,弦望多近。史官壹以赤道度之,不與天合,至差一日以上。願請太史官日月宿簿及星度課,與待詔星官考校。」奏可。問典星待詔姚崇等十二人,皆曰:『星圖有規法,日月實從黃道,官無其器,不知施行。』甘露二年,大司農丞耿壽昌奏,以圓儀度日月行,考驗天運。日月行赤道,至牽牛、東井,日行一度,月行十五度;至婁、角,日行一度,月行十三度,此前代所共知也。」是歲永元四載也。明年,始詔太史造黃道銅儀。冬至,日在斗十九度四分度之一,與赤道定差二度。史官以校日月弦望,雖密近,而不為望日。儀,黃道與度運轉,難候,是以少終其事。其後劉洪因黃道渾儀,以考月行出入遲速。而後代理曆者不遵其法,更從赤道命文,以驗賈逵所言,差謬益甚,此理曆者之大惑也。今靈臺鐵儀,後魏明元時都匠解蘭所造,規制樸略,度刻不均,赤道不動,乃如膠柱,不置黃道,進退無准。此據赤道月行以驗入曆遲速,多者或至十七度,少者僅出十度,不足以上稽天象,敬授人時。近秘閣郎中李淳風著《法象志》,備載黃道渾儀法,以玉衡旋規,別帶日道,傍列二百四十九交,以攜月游,用法頗雜,其術竟寢。臣伏承恩旨,更造遊儀,使黃道運行,以追列舍之變,因二分之中以立黃道,交於軫、奎之間,二至陟降各二十四度。黃道之內,又施白道月環,用究陰陽朓朒之數,動合天運,簡而易從,足以製器垂象,永傳不朽。

是に於て玄宗親しく銘を製し、之を霊台に置きて以て星度を考ふ。其の二十八宿及び中外官古経と同からざる者、凡そ数十条。又詔して一行と梁令瓚及び諸術士に更に渾天儀を造らしむ。銅を鋳て円天の象を為し、上に列宿赤道及び周天の度数を具ふ。水を注ぎて輪を激し、其の自転を令す。一日一夜、天一周を転ず。又別に二輪を置きて天外に絡み、日月を綴りて、運行を得しむ。天西に一幣を転ずる毎に、日は東に一度を行き、月は十三度十九分度の七を行く。凡そ二十九転有餘にして日月会し、三百六十五転にして日行匝る。仍て木櫃を置きて以て地平と為し、儀を半ば地下に在らしめ、晦明朔望、遅速準有り。又二木人を地平の上に立て、前に鐘鼓を置きて以て辰刻を候はしむ。每一刻自然に鼓を撃ち、毎辰則ち自然に鐘を撞く。皆櫃の中に各輪軸を施し、鉤鍵交錯し、関鎖相持つ。既に天道と合同し、当時共に其の妙を称す。鋳成り、之を命して「水運渾天俯視図」と曰ひ、武成殿前に置きて以て百僚に示す。幾も無くして銅鉄漸く澁み、自転すること能はず。遂に集賢院に収置し、復た行用せず。

原文於是玄宗親為製銘,置之於靈臺以考星度。其二十八宿及中外官與古經不同者,凡數十條。又詔一行與梁令瓚及諸術士更造渾天儀,鑄銅為圓天之象,上具列宿赤道及周天度數。注水激輪,令其自轉,一日一夜,天轉一周。又別置二輪絡在天外,綴以日月,令得運行。每天西轉一幣,日東行一度,月行十三度十九分度之七,凡二十九轉有餘而日月會,三百六十五轉而日行匝。仍置木櫃以為地平,令儀半在地下,晦明朔望,遲速有准。又立二木人于地平之上,前置鐘鼓以候辰刻,每一刻自然擊鼓,每辰則自然撞鐘。皆于櫃中各施輪軸,鉤鍵交錯,關鎖相持。既與天道合同,當時共稱其妙。鑄成,命之曰「水運渾天俯視圖」,置於武成殿前以示百僚。無幾而銅鐵漸澀,不能自轉,遂收置於集賢院,不復行用。

今遊儀の制度及び測る所の星度の異同を録し、開元十二年諸州に使を分遣して測る所の日晷の長短、李淳風・僧一行の定むる所の十二次分野、武徳已来の交蝕及び五星の祥変を、篇に著す。

原文今錄遊儀制度及所測星度異同,開元十二年分遣使諸州所測日晷長短,李淳風、僧一行所定十二次分野,武德已來交蝕及五星祥變,著於篇。

黄道遊儀規尺寸

原文黃道遊儀規尺寸

旋枢双環:外一丈四尺六寸一分、豎八分、厚三分、直径四尺五寸九分、即ち古の所謂旋儀なり。南北斜に両極し、上下規に循りて各三十四度、両面各周天の度数を画す。一面釘を加へ、並びに銀を以て飾り、東西運転して渾天遊儀の如くせしむ。中旋枢軸両極首内に至る。孔径大さ二度半、長さ旋環の径と斉し、並びに古尺四分を以て度と為す。

原文旋樞雙環:外一丈四尺六寸一分,豎八分,厚三分,直徑四尺五寸九分,即古所謂旋儀也。南北斜兩極,上下循規各三十四度,兩面各畫周天度數。一面加釘,並用銀飾,使東西運轉如渾天遊儀。中旋樞軸至兩極首內,孔徑大兩度半,長與旋環徑齊,並用古尺四分為度。

玉衡望筒:長さ四尺五寸八分、広さ一寸二分、厚さ一寸、孔径六分、古玉を以て之を飾る。玉衡、衡軸中に施し、旋運して正を持し、以て七曜及び列星の闊狭を窺ふ。外方内円、孔径一度半、周日輪なり。

原文玉衡望筒:長四尺五寸八分,廣一寸二分,厚一寸,孔徑六分,古用玉飾之。玉衡,衡施於軸中,旋運持正,用窺七曜及列星之闊狹,外方內圓,孔徑一度半,周日輪也。

陽経双環:外径一丈七尺三寸、内径一丈四尺六寸四分、幅四寸、厚さ四分、直径五尺四寸四分、子午線に設置する。左右に八本の柱で固定し、両面に周天の度数を描き、一面には釘を打ち、銀で装飾する。半ば地上に出で、半ば地下に入れ、双環の間に枢軸と玉衡望筒を挟み、旋環の中に置く。

原文陽經雙環:外一丈七尺三寸,內一丈四尺六寸四分,廣四寸,厚四分,直徑五尺四寸四分,置於子午。左右用八柱相固,兩面畫周天度數,一面加釘,並銀飾之。半出地上,半入地下,雙間挾樞軸及玉衡望筒,旋環於中也。

陰緯単環:外径・内径・幅・厚さ・周径は全て陽経に準じ、陽経と互いに半ば噛み合い、内外ともに揃う。上面を天とし、以下を地とし、陽環を横に周り、これを陰渾という。上面に二つの境界を設け、内外に周天百刻を記す。上面に御製の銘序及び書を刻み、全て金で文字とする。

原文陰緯單環:外內廣厚周徑,皆准陽經,與陽經相銜各半,內外俱齊。面平上為天,以下為地,橫周陽環,謂之陰渾也。面上為兩界,內外為周天百刻。平上御製銘序及書,並金為字。

天頂単環:外径一丈七尺三寸、縦幅八分、厚さ三分、直径五尺四寸四分。中国の人々の天頂に当たり、東西は卯酉の中間に当たり、やや南に寄せ、日の出入りが見えるようにし、陽経・陰緯と固定し、殻が黄身を包むようにする。南へ赤道より三十六度、黄道より十二度、北極より五十五度、南北の平面より各九十一度強を去る。

原文天頂單環:外一丈七尺三寸,豎廣八分,厚三分,直徑五尺四寸四分。當中國人頂之上,東西當卯酉之中,稍南,使見日出入,令與陽經、陰緯相固,如殼之裹黃。南去赤道三十六度,去黃道十二度,去北極五十五度,去南北平各九十一度強。

赤道単環:外径一丈四尺五寸九分、横幅八分、厚さ三分、直径四尺九寸。赤道とは、天の中に当たり、二十八宿の列位である。その原型は、後魏の解蘭が造ったものである。双規を備えていたが、運動できなかった。臣が今造るものは、上に周天星度を列記し、天に随って転運させ、なお穴を穿ち、穴に随って退交し、誤りがないようにする。即ち、古の秋分の日が角五度に在ったのが、今は軫十三度に在り、冬至の日が牽牛初度に在ったのが、今は斗十度に在ることを知る。差に従って退くことを想定し、故に穴を設けるのである。傍らは卯酉の南に在り、上は天頂より三十六度を去って横に置く。

原文赤道單環:外一丈四尺五寸九分,橫八分,厚三分,直徑四尺九寸。赤道者,當天之中,二十八宿之列位也。其本,後魏解蘭所造也。因著雙規,不能運動。臣今所造者,上列周天星度,使轉運隨天,仍度穿一穴,隨穴退交,不有差謬。即知古者秋分,日在角五度,今在軫十三度;冬至,日在牽牛初,今在斗十度。擬隨差卻退,故置穴也。傍在卯酉之南,上去天頂三十六度而橫置之。

黄道単環:外径一丈五尺四寸一分、横幅八分、厚さ四分、直径四尺八寸四分。日の運行する所、故に黄道と名付く。古人は其事を知りながら、遂に其の器が無く、太陽の陟降が積年に差を生じた。月及び五星も亦、日度に随って出入りし、規制は准的を知らず、斟酌して率と為し、疎闊尤も多し。臣今此の環を創置し、赤道環の内に置き、なお開合して転運に随わせ、四十八度を出入りし、而して極めて両方を画き、東西に周天度数を列記し、南北に百刻を列記し、日を見て時を知り、誤り無からしめる。上に三百六十策を列記し、用卦と相准え、穴を穿ちて赤道と相交わす。

原文黃道單環:外一丈五尺四寸一分,橫八分,厚四分,直徑四尺八寸四分。日之所行,故名黃道。古人知有其事,竟無其器,遂使太陽陟降,積歲有差。月及五星,亦隨日度出入,規制不知准的,斟量為率,疏闊尤多。臣今創置此環,置於赤道環內,仍開合使隨轉運,出入四十八度,而極畫兩方,東西列周天度數,南北列百刻,使見日知時,不有差謬。上列三百六十策,與用卦相准,度穿一穴,與赤道相交。

白道月環:外径一丈五尺一寸五分、横幅八分、厚さ三分、直径四尺七寸六分。月の運行には迂曲遅疾があり、日の運行の緩急と相反する。古に其の器無く、今黄道環の内に創置し、黄道に就いて交合と為し、六十度を出入りし、以て毎夜の行度を測る。上に周天度数を画き、一穴を穿ち、移交会を擬し、並びに銅鉄を以て之を為す。

原文白道月環:外一丈五尺一寸五分,橫度八分,厚三分,直徑四尺七寸六分。月行有迂曲遲疾,與日行緩急相反。古無其器,今創置於黃道環內,使就黃道為交合,出入六十度,以測每夜行度。上畫周天度數,穿一穴,擬移交會,並用銅鐵為之。

李淳風の『法象志』に此の日月両環が有り、旋儀環の上にあると説く。既に玉衡を用いる以上、玉衡の内に別に一尺の望筒を安ずるを得ず。運用既に難く、其の器已に澀む。

原文李淳風《法象志》說有此日月兩環,在旋儀環上。既用玉衡,不得遂於玉衡內別安一尺望筒。運用既難,其器已澀。

游儀の四柱、龍各高さ四尺七寸。水槽・山各高さ一尺七寸五分。槽長六尺九寸、高さ幅各四寸。水池深さ一寸、幅一寸五分。龍は雲雨を興す能あり、故に以て柱を飾る。柱は四維に在り、龍の下に山雲有り、俱に水準槽の上に在り、並びに銅を以て之を為す。

原文游儀四柱,龍各高四尺七寸。水槽、山各高一尺七寸五分。槽長六尺九寸,高廣各四寸。水池深一寸,廣一寸五分。龍者能興雲雨,故以飾柱。柱在四維,龍下有山雲,俱在水準槽上,並銅為之。

游儀初めて成る、太史の測る所の二十八宿等と『経』との同異状:

原文游儀初成,太史所測二十八宿等與《經》同異狀:

角二星、十二度;赤道黄道の度は古と同し。旧『経』は去極九十一度、今は則ち九十三度半。『星経』に云く「角は去極九十一度、距星正に赤道に当たり、其の黄道は赤道の南に在り、角の中を経ず」と。今測るに角は赤道の南二度半に在り、黄道復た角の中を経る、即ち天象と符合す。

原文角二星,十二度;赤道黃道度與古同。舊《經》去極九十一度,今則九十三度半。《星經》云:「角去極九十一度,距星正當赤道,其黃道在赤道南,不經角中。」今測角在赤道南二度半,黃道復經角中,即與天象符合。

亢四星、九度。旧は去極八十九度、今は九十一度半。氐四星、十六度。旧は去極九十四度、今は九十八度。房四星、五度。旧は去極百八度、今は百十度半。心三星、五度。旧は去極百八度、今は百十一度。尾九星、十八度。旧は去極百二十度、一に云う百四十一度、今は百二十四度。箕四星、十一度。旧は去極百十八度、今は百二十度。南斗六星、二十六度。旧は去極百十六度、今は百十九度。牽牛六星、八度。旧は去極百六度、今は百四度。須女四星、十二度。旧は去極百度、今は百一度。虚二星、十度。旧は去極百四度、今は百一度。北星は旧図は虚宿に入る、今測るに須女九度に在り。危三星、十七度。旧は去極九十七度、今は九十七度。北星は旧図は危宿に入る、今測るに虚六度半に在り。室二星、十六度。旧は去極八十五度、今は八十三度。東壁二星、九度。旧は去極八十六度、今は八十四度。

原文亢四星,九度。舊去極八十九度,今九十一度半。氐四星,十六度。舊去極九十四度,今九十八度。房四星,五度。舊去極一百八度,今一百一十度半。心三星,五度。舊去極一百八度,今一百一十一度。尾九星,十八度。舊去極一百二十度,一云一百四十一度,今一百二十四度。箕四星,十一度。舊去極一百一十八度,今一百二十度。南斗六星,二十六度。舊去極一百一十六度,今一百一十九度。牽牛六星,八度。舊去極一百六度,今一百四度。須女四星,十二度。舊去極一百度,今一百一度。虛二星,十度。舊去極一百四度,今一百一度。北星舊圖入虛宿,今測在須女九度。危三星,十七度。舊去極九十七度,今九十七度。北星舊圖入危宿,今測在虛六度半。室二星,十六度。舊去極八十五度,今八十三度。東壁二星,九度。舊去極八十六度,今八十四度。

奎十六星、十六度。旧は去極七十六度、一に云う七十度、今は七十三度。東壁九度、奎十六度、此れ奎西の大星を距と為すを誤り、即ち壁の二度を損じ、奎に二度を加う。今西南の大星を距と取り、即ち奎・壁各本度を失わず。婁三星、十三度。旧は去極八十度、今は七十七度。胃三星、十四度。昴七星、十一度。旧は去極七十四度、今は七十二度。畢八星、十七度。旧は去極七十八度、今は七十六度。觜觿三度、旧は去極八十四度、今は八十二度。畢の赤道は黄道の度と同し。觜の赤道は二度、黄道は三度。其の二宿俱に黄道の斜虚に当たる。畢は十六度有り、尚赤道の度と同し。觜は総て二度、黄道は一度を損加す、此れ即ち前に承りて誤り有り。今測るに畢は十七度半有り、觜觿は半度、並びに天に依りて正す。参十星、旧は去極九十四度、今は九十二度。東井八星、三十三度。旧は去極七十度、今は六十八度。輿鬼五星、旧は去極六十八度、今古同し。柳八星、十五度。旧は去極七十七度、一に云う七十九度、今は八十度半。柳は、合用するに西頭の第三星を距と為すべし、比来第四星を取り誤る、今第三星に依りて正と為す。七星十度、旧は去極九十一度、一に云う九十三度、今は九十三度半。張六星、十八度。旧は去極九十七度、今は百度。張六星、中央の四星は硃鳥の嗉と為し、外の二星は翼と為す。比来膺前を距と取らず、翼星を取り誤り、即ち張に二度半を加え、七星は二度半を欠く。今本『経』に依りて定と為す。

原文奎十六星,十六度。舊去極七十六度,一云七十度,今七十三度。東壁九度,奎十六度,此錯以奎西大星為距,即損壁二度,加奎二度,今取西南大星為距,即奎、壁各不失本度。婁三星,十三度。舊去極八十度,今七十七度。胃三星,十四度。昴七星,十一度。舊去極七十四度,今七十二度。畢八星,十七度。舊去極七十八度,今七十六度。觜觿三度,舊去極八十四度,今八十二度。畢赤道與黃道度同。觜赤道二度,黃道三度。其二宿俱當黃道斜虛。畢有十六度,尚與赤道度同。觜總二度,黃道損加一度,此即承前有誤。今測畢有十七度半,觜觿半度,並依天正。參十星,舊去極九十四度,今九十二度。東井八星,三十三度。舊去極七十度,今六十八度。輿鬼五星,舊去極六十八度,今古同也。柳八星,十五度。舊去極七十七度,一云七十九度,今八十度半。柳,合用西頭第三星為距,比來錯取第四星,今依第三星為正。七星十度,舊去極九十一度,一云九十三度,今九十三度半。張六星,十八度。舊去極九十七度,今一百度。張六星,中央四星為硃鳥嗉,外二星為翼。比來不取膺前為距,錯取翼星,即張加二度半,七星欠二度半。今依本《經》為定。

翼宿二十二星、十八度。旧来は極より九十七度、今は一百三度。軫宿四星、十七度。旧来は極より九十八度、今は一百度。文昌、旧来は二星が鬼宿に、四星が井宿に在りしが、今は四星が柳宿に、一星が鬼宿に、一星が井宿に在る。北斗、魁の第一星は旧来は星宿一度に在りしが、今は張宿十三度に在る。第二星は旧来は張宿二度に在りしが、今は張宿十二度半に在る。第三星は旧来は翼宿二度に在りしが、今は翼宿十三度に在る。第四星は旧来は翼宿八度に在りしが、今は翼宿十七度太に在る。第五星は旧来は軫宿八度に在りしが、今は軫宿十度半に在る。第六星は旧来は角宿七度に在りしが、今は角宿四度少に在る。第七星は旧来は亢宿四度に在りしが、今は角宿十二度少に在る。天関、旧来は黄道の南四度に在りしが、今は黄道に当たる。天江、旧来は黄道の外に在りしが、今は黄道に当たる。天囷、旧来は赤道の外に在りしが、今は赤道に当たる。三臺:上臺は旧来は井宿に在りしが、今測れば柳宿に在る。中臺は旧来は星宿に在りしが、今は張宿に在る。建星、旧来は黄道の北半度に去りしが、今は四度半。天苑、旧来は昴宿・畢宿に在りしが、今は胃宿・昴宿に在る。王良、旧来は五星が壁宿に在りしが、今は四星が奎宿に、一星が壁宿の外に在る。屏、旧来は觜宿に在りしが、今は畢宿に在る。雲雨、旧来は黄道の外に在りしが、今は黄道の内七度に在る。雷電、旧来は赤道の外五度に在りしが、今は赤道の内二度に在る。霹靂、旧来は五星並びに赤道の外四度に在りしが、今は四星が赤道の内に、一星が外に在る。土公吏、旧来は赤道の外に在りしが、今は赤道の内六度に在る。虚梁、旧来は黄道の内四度に在る。外屏、旧来は黄道の外三度に在りしが、今は黄道に当たる。八魁、旧来は九星並びに室宿に在りしが、今は五星が壁宿に、四星が室宿に在る。長垣、旧来は黄道に当たりしが、今は黄道の北五度に在る。軍井、『経』に准えば、玉井の東南二度半に在る。天槨、旧来は黄道の北に在りしが、今は黄道に当たる。天高、旧来は黄道の外に在りしが、今は黄道に当たる。狗国、旧来は黄道の外に在りしが、今は黄道に当たる。羅堰、旧来は黄道に当たりしが、今は黄道の北に在る。

原文翼二十二星,十八度。舊去極九十七度,今一百三度。軫四星,十七度。舊去極九十八度,今一百度。文昌,舊二星在鬼,四星在井;今四星在柳,一星在鬼,一星在井。北斗,魁第一星舊在七星一度,今在張十三度。第二星舊在張二度,今在張十二度半。第三星舊在翼二度,今在翼十三度。第四星舊在翼八度,今在翼十七度太。第五星舊在軫八度,今在軫十度半。第六星舊在角七度,今在角四度少。第七星舊在亢四度,今在角十二度少。天關,舊在黃道南四度,今當黃道。天江,舊在黃道外,今當黃道。天囷,舊在赤道外,今當赤道。三臺:上臺舊在井,今測在柳;中臺舊在七星,今在張。建星,舊去黃道北半度,今四度半。天苑,舊在昴、畢,今在胃、昴。王良,舊五星在壁,今四星在奎,一星在壁外。屏,舊在觜,今在畢宿。雲雨,舊在黃道外,今在黃道內七度。雷電,舊在赤道外五度,今在赤道內二度。霹靂,舊五星並在赤道外四度,今四星在赤道內,一星在外。土公吏,舊在赤道外,今在赤道內六度。虛梁,舊在黃道內四度。外屏,舊在黃道外三度,今當黃道。八魁,舊九星並在室,今五星在壁,四星在室。長垣,舊當黃道,今在黃道北五度。軍井,准《經》,在玉井東南二度半。天槨,舊在黃道北,今當黃道。天高,舊在黃道外,今當黃道。狗國,舊在黃道外,今當黃道。羅堰,舊當黃道,今在黃道北。

黄道は、春分の日に赤道と奎宿五度太で交わり、秋分の日に軫宿十四度少で交わる。冬至の日には斗宿十度に在り、赤道より南二十四度に去る。夏至の日には井宿十三度少に在り、赤道より北二十四度に去る。その赤道は天の中を帯び、列宿の度を分つに用いる。黄道は斜めに運行し、日月の運行を明らかにする。その冬至の点は、洛下閎が牛宿の初めに起し、張衡らが斗宿の度に遷した。これは毎年の差動により旧次の度に及ばないからである。

原文黃道,春分之日與赤道交於奎五度太;秋分之日交於軫十四度少;冬至之日於斗十度,去赤道南二十四度;夏至之日于井十三度少,去赤道北二十四度。其赤道帶天之中,用分列宿之度;黃道斜運,以明日月之行。其冬至,洛下閎起于牛初,張衡等遷於斗度,由每歲差分不及舊次也。

日晷:『周礼』大司徒しとの職に常に「土圭の法をもって土深を測り、日景を正し、地中を求む。日東に在れば則ち景は夕に多く風あり、日西に在れば則ち景は朝に多く陰あり。日至の景尺五寸、これを地中と謂う。天地の合する所、四時の交わる所、風雨の会する所、陰陽の和する所なり。然らば則ち百物は阜安にして、乃ち王国を建つ。」とある。鄭氏は「凡そ日景は地に於いて、千里にして一寸を差す」とし、「景尺有五寸なる者は、南に日下を戴くこと一万五千里、地と星辰とが四游して三万里の中に升降する。是を以てこれを半ばにして、地の中を得るなり」と為す。鄭司農は云う、「土圭の長さ尺有五寸、夏至の日に八尺の表を立て、その景が適に土圭と等しきを、地中と謂う。今の潁川陽城が然り。

原文日晷:《周禮》大司徒,常「以土圭之法測土深,正日景,以求地中。日東則景夕多風,日西則景朝多陰。日至之景尺五寸,謂之地中,天地之所合也,四時之所交也,風雨之所會也,陰陽之所合也。然則百物阜安,乃建王國焉。」鄭氏以為「凡日景於地,千里而差一寸。」「景尺有五寸者,南戴日下萬五千里,地與星辰四游升降於三萬里之中,是以半之,得地之中焉。」鄭司農云:「土圭之長尺有五寸,以夏至之日立八尺之表,其景適與土圭等,謂之地中。今潁川陽城為然。

謹んで『南越志』に按ずるに、「宋の元嘉年中、南征して林邑に至り、五月に表を立ててこれを望むに、日は表の北に在り、影は表の南に居る。交州の日影は北に三寸を覚え、林邑は九寸一分を覚ゆ。所謂、北戸を開いて日に向うなり」と。交州は、大略洛陽らくようを去ること九千余里、蓋し水陸曲折にして、圭表の度る所を論ずるに非ず。ただ直に実を考うれば、その五千里か。開元十二年、詔して太史に交州にて景を測らしむ。夏至の影、表の南に長さ三寸三分、元嘉年中に測った所と大同なり。然らば則ち陽城より南に距り、直路をして弦に応ぜしめ、日下に至らしむれば、蓋し五千里を盈たざるべし。測影の使者大相元太云う、「交州にて極を望むに、才に地より出づること二十余度。八月に海の中より南に望むに老人星殊に高し。老人星の下、環星燦然として、その明大なる者甚だ衆し。図に載せざる所にして、その名を弁ずる莫し。大率南極を去ること二十度以上、その星皆見ゆ。乃ち古の渾天家が常に地中に没し、伏して見えざる所と為す所なり」と。又た貞観年中、史官の載する所に按ずるに、鉄勒・回紇部は薛延陀の北に在り、京師を去ること六千九百里。又た骨利幹有りて回紇の北方瀚海の北に居り、草多く百薬、地は名馬を出し、駿なる者は数百里を行く。北は又た大海に距り、昼長くして夕短し、日没したる後、天色正に曛たりて、一羊の胛を煮て才に熟するに、而して東方已に曙る。蓋し日の出入する所に近きが故なり。凡そこの二事は、皆書契の未だ載せざる所なり。開元十二年、太史監南宮説、河南の平地を択び、水準の繩を以てし、八尺の表を樹てて以てこれを引度す。始め滑州白馬県よりし、北至の晷、尺有五寸七分。滑州の臺表より南に一百九十八里百七十九步行きて、汴州浚儀の古臺表を得、夏至の影長さ一尺五寸微強。又た浚儀より南に百六十七里二百八十一步行きて、許州扶溝県の表を得、夏至の影長さ一尺四寸四分。又た扶溝より南に一百六十里百十步行きて、豫よ州上蔡武津の表に至り、夏至の影長さ一尺三寸六分半。大率五百二十六里二百七十歩にして、影差二寸余り。而るに先儒は王畿千里にして影一寸移ると為すは、又た乖舛にして同じからず。

原文謹按《南越志》:「宋元嘉中,南征林邑,以五月立表望之,日在表北,影居表南。交州日影覺北三寸,林邑覺九寸一分,所謂開北戶以向日也。」交州,大略去洛九千餘里,蓋水陸曲折,非論圭表所度,惟直考實,其五千乎!開元十二年,詔太史交州測景,夏至影表南長三寸三分,與元嘉中所測大同。然則距陽城而南,使直路應弦,至於日下,蓋不盈五千里也。測影使者大相元太云:「交州望極,才出地二十餘度。以八月自海中南望老人星殊高。老人星下,環星燦然,其明大者甚眾,圖所不載,莫辨其名。大率去南極二十度以上,其星皆見。乃古渾天家以為常沒地中,伏而不見之所也。」又按貞觀中,史官所載鐵勒、回紇部在薛延陀之北,去京師六千九百里。又有骨利幹居回紇北方瀚海之北,草多百藥,地出名馬,駿者行數百里。北又距大海,晝長而夕短,既日沒後,天色正曛,煮一羊胛才熟,而東方已曙。蓋近日出入之所云。凡此二事,皆書契所未載也。開元十二年,太史監南宮說擇河南平地,以水準繩,樹八尺之表而以引度之。始自滑州白馬縣,北至之晷,尺有五寸七分。自滑州臺表南行一百九十八里百七十九步,得汴州浚儀古臺表,夏至影長一尺五寸微強。又自浚儀而南百六十七里二百八十一步,得許州扶溝縣表,夏至影長一尺四寸四分。又自扶溝而南一百六十里百一十步,至豫州上蔡武津表,夏至影長一尺三寸六分半。大率五百二十六里二百七十步,影差二寸有餘。而先儒以為王畿千里,影移一寸,又乖舛而不同矣。

今、句股の図を以てこれを校うるに、陽城の北至の晷、一尺四寸八分弱。冬至の晷、一丈二尺七寸一分半。春秋分、その長さ五尺四寸三分。覆矩を以て斜めに視れば、北極出地三十四度四分。凡そ度分は皆十分を法とす。滑臺の表よりこれを視れば、高さ三十五度三分。陽城より九分差う。浚儀の表よりこれを視れば、高さ三十四度八分。陽城より四分差う。武津の表よりこれを視れば、高さ三十三度八分。陽城より九分差う。秒分稍々盈縮有りと雖ども、目を以て校うるに、大率五百二十六里二百七十歩にして北極一度半を差し、三百五十一里八十歩にして一度を差す。枢極の遠近同じからざれば、則ち黄道の軌景固より随って遷変す。

原文今以句股圖校之,陽城北至之晷,一尺四寸八分弱;冬至之晷,一丈二尺七寸一分半;春秋分,其長五尺四寸三分。以覆矩斜視,北極出地三十四度四分。凡度分皆以十分為法。自滑臺表視之,高三十五度三分。差陽城九分。自浚儀表視之,高三十四度八分。差陽城四分。自武津表視之,高三十三度八分。差陽城九分。雖秒分稍有盈縮,雖以目校,然大率五百二十六里二百七十步而北極差一度半,三百五十一里八十步而差一度。樞極之遠近不同,則黃道之軌景固隨而遷變矣。

これをもって基準とし、推し量って比べると、朗州で影を測ったところ、夏至の影の長さは七寸七分、冬至の影の長さは一丈五寸三分、春秋分の影の長さは四尺三寸七分半であった。図を用いて測ると、定気の影の長さは四尺四寸七分となる。図を斜めに見ると、北極の出地は二十九度半である。陽城との差は五度二分である。蔚州横野軍で影を測ると、夏至の影の長さは二尺二寸九分、冬至の影の長さは一丈五尺八寸九分、春秋分の影の長さは六尺四寸四分半であった。図を用いて測ると、定気の影の長さは六尺六寸三分半となる。図を斜めに見ると、北極の出地は四十度である。陽城との差は五度二分である。南北の差は凡そ十度半、その直線距離は三千六百八十里九十歩である。陽城から朗州までは、一千八百二十六里百九十六歩、陽城から蔚州横野軍までは、一千八百六十一里二百一十四歩である。北至(冬至)の影の差は一尺五寸三分、陽城から朗州までは七寸二分の差、陽城から横野軍までは八寸の差である。南至(夏至)の影の差は五尺三寸六分である。陽城から朗州までは二尺一寸八分の差、陽城から横野軍までは三尺一寸八分の差である。概して夏至は南方との差が少なく、冬至は北方との差が多い。また図を用いて安南を校合すると、太陽は天頂より北に二度四分、北極の高度は二十度四分、冬至の影の長さは七尺九寸四分、定春秋分の影の長さは二尺九寸三分である。陽城との差は十四度三分、その直線距離は五千二十三里である。林邑国に至ると、太陽は天頂より北に六度六分強、北極の高度は十七度四分、周囲三十五度の範囲で常に見えて隠れない。冬至の影の長さは六尺九寸、その直線距離は六千一百一十二里である。仮に陽城より北へ、鉄勒の地まで同じく十七度四分の差があるとすれば、林邑と等しいことになり、すると五月には太陽は天頂より南二十七度四分、北極の高度は五十二度、周囲百四度の範囲で常に見えて隠れない。北至(冬至)の影は四尺一寸三分、南至(夏至)の影は二丈九尺十寸六分である。定春秋分の影の長さは九尺八寸七分である。北方では太陽が没する地平線はわずか十五度余りで、黄昏には亥(北西)の真西に沈み、明け方には丑(北東)の真東に現れる。里数で推し量ると、すでに回紇の北にあり、また南は洛陽から九千八百一十里離れているので、五月の極めて昼の長い日には、その夕方も常に明るいであろう。そうすると骨利幹はなおその南にあることになる。また先儒は、南の太陽の真下の地点から一万五千里を勾股とし、斜めに陽城を射る線を弦として、円周と直径の比率を考証して天の度数を推し量り、一千四百六里二十四歩余りに当たるとした。今、日影を測ると、陽城から五千余里離れており、すでに太陽の真下の地点より南に位置しているので、一度の広さは皆、三分の二を去るべきであり、南北両極の間の距離はわずか八万余里、その直径は五万余里と計算される。宇宙の広さが、果たしてこのようなものであろうか。それでは王蕃の伝えた説は、管をもって天を窺い、ひさごをもって海を測るようなものである。古人が勾股の術を頼りとしたのは、それが近い事象において証拠があるからである。ただ、目視では遠くを見ることができず、微細な差が次第に生じ、その差が積もり積もって、ついに術と食い違うことを知らなかったのである。人が大きな湖に遊ぶとき、広さ百里に満たなくても、朝夕に日月が湖中から出入りするのを見る。そして巨大な海に浮かぶとき、幾千万里も離れているのに、なお日月が朝にその中から出て、夕にその中に入るのを見る。もし朝夕の際に、重差の法を設けてこれを望めば、必ずや大小同じ術を用いても区別できなくなるであろう。

原文自此為率,推之比歲朗州測影,夏至長七寸七分,冬至長一丈五寸三分,春秋分四尺三寸七分半。以圖測之,定氣長四尺四寸七分。按圖斜視,北極出地二十九度半。差陽城五度二分。蔚州橫野軍測影,夏至長二尺二寸九分,冬至長一丈五尺八寸九分,春秋分長六尺四寸四分半。以圖測之,定氣六尺六寸三分半。按圖斜視,北極出地四十度。差陽城五度二分。凡南北之差十度半,其徑三千六百八十里九十步。自陽城至朗州,一千八百二十六里百九十六步,自陽城至蔚州橫野軍,一千八百六十一里二百一十四步。北至之晷,差一尺五寸三分,自陽城至朗州,差七寸二分,自陽城至橫野軍,差八寸。南至之晷,差五尺三寸六分。自陽城至朗州,差二尺一寸八分,自陽城至橫野軍,差三尺一寸八分。率夏至與南方差步,冬至與北方差多。又以圖校安南,日在天頂北二度四分,北極高二十度四分,冬至影長七尺九寸四分,定春秋分影長二尺九寸三分。差陽城十四度三分,其徑五千二十三里。至林邑國,日在天頂北六度六分強,北極之高十七度四分,周圓三十五度,常見不隱。冬至影長六尺九寸,其徑六千一百一十二里。假令距陽城而北,至鐵勒之地亦十七度四分,合與林邑與等,則五月日在天頂南二十七度四分,北極之高五十二度,周圓一百四度,常見不隱。北至之齕四尺一寸三分,南至之齕二丈九就十寸六分。定春秋分影長九尺八寸七分。北方其沒地才十五度餘,昏伏於亥之正西,晨見於醜之正東,以里數推之,已在回紇之北,又南距洛陽九千八百一十里,則五月極長之日,其夕常明,然則骨利幹猶在其南矣。又先儒以南戴日下萬五千里為句股,斜射陽城為弦,考周徑之率以揆天度,當一千四百六里二十四步有餘。今測日影,距陽城五千餘里,已居戴日之南,則一度之廣,皆宜三分去二,計南北極相去才八萬餘里,其徑五萬餘里,宇宙之廣,豈若是乎?然則王蕃所傳,蓋以管窺天,以蠡測海之義也。古人所以恃句股之術,謂其有征於近事。顧未知目視不能遠,浸成微分之差,其差不已,遂與術錯。如人游於大湖,廣不盈百里,而睹日月朝夕出入湖中。及其浮於巨海,不知幾千萬里,猶睹日月朝出其中,夕入其中。若於朝夕之際,俱設重差而望之,必將小大同術而不可分矣。

横の関係が既にあるならば、縦の関係も同様であるべきである。仮に二本の標竿を立て、南北に十里離し、その高さを共に数十里としたとする。もし松明を南の標竿の頂上に置き、その下に八尺の木を立てれば、影はできないはずである。試みに南の標竿の下から、北の標竿の頂上を仰ぎ見ると、必ずや微細な差が積もり積もって、次第に南の標竿と一致するようになるであろう。標竿の頂上が一致すれば、その上に松明を置いても、やはり影はできないはずである。また松明を北の標竿の頂上に置き、その下に八尺の木を立てれば、影はできないはずである。試みに北の標竿の下から、南の標竿の頂上を仰ぎ見ると、また微細な差が積もり積もって、次第に北の標竿と一致するようになるであろう。標竿の頂上が一致すれば、その上に松明を置いても、やはり影はできないはずである。さらに二本の標竿の間、それぞれ五里ずつ離れた地点に、更に八尺の木を立てて仰ぎ見ると、標竿の頂上が環状に屈曲して互いに会うであろう。もし松明を両方の標竿の頂上に置けば、皆影はできないはずである。数十里の高さと十里の広さがあれば、斜めに射す影と仰ぎ見ることは変わらない。今、その影の差を求めて遠近高低を推し量ろうとしても、まだ知ることができないのである。ましてや、測り知れない中で天球一周の積算された里数を考察することなど、どうして確実にできようか。仮に学者が二十里の高さに基づいて勾股の術を立てたとしても、その所以を知ることはできない。ましてや八尺の木などにおいてなおさらである。そもそも人が圭表の影を測る意図は、天地の和気を調節し宣べ、万物の宜しきを助け成すことにあり、星辰の運行する周径にあるのではない。歴数を重んじる意図は、人時に敬って授け、天象を恭しく順うことにあり、渾天説や蓋天説の是非にあるのではない。もしも見聞の及ばないところで根拠のない話を述べるならば、君子は疑わしいことは保留して断定せず、仲尼(孔子)は言葉を慎んで論じないのである。ところが或る者はそれぞれ伝えられた器具を固守して天體を述べ、渾天の元気は数によって測ることができ、天の大いなる象は運算によって窺うことができると言い、結局は六家の説が互いに矛盾し合うことになった。今、真に蓋天説とすれば、南方の度数は次第に狭くなる。渾天説とすれば、北方の極点は次第に高くなる。この二つの点について、渾天・蓋天の両家はまだその説を通じさせる方法を持っていない。これによって観れば、王仲任(王充)や葛稚川(葛洪)の徒が、異同の弁別に小さなことにこだわったことが、人倫の教化に何の益があったというのか。

原文夫橫既有之,縱亦宜然。假令設兩表,南北相距十里,其崇皆數十里,若置火炬于南表之端,而植八尺之木於其下,則當無影。試從南表之下,仰望北表之端,必將積微分之差,漸與南表參合。表首參合,則置炬於其上,亦當無影矣。又置火炬於北表之端,而植八尺之木於其下,則當無影。試從北表之下,仰望南表之端,又將積微分之差,漸與北表參合。表首參合,則置炬於其上,亦當無影矣。復於二表之間,相距各五里,更植八尺之木,仰而望之,則表首環屈而相會。若置火炬於兩表之端,皆當無影。夫數十里之高與十里之廣,然則斜射之影與仰望不殊。今欲求其影差以推遠近高下,猶尚不可知也;而況稽周天積裏之數於不測之中,又可必乎!假令學者因二十里之高以立句股之術,尚不知其所以然,況八尺之木乎!原人所以步圭景之意,將欲節宣和氣,輔相物宜,而不在於辰次之周徑;其所以重歷數之意,將欲敬授人時,欽若乾象,而不在於渾、蓋之是非。若乃述無稽之談於視聽之所不及,則君子闕疑而不質,仲尼慎言而不論也。而或者各守所傳之器以述天體,謂渾元可任數而測,大象可運算而窺,終以六家之說,迭為矛盾。今誠以為蓋天,則南方之度漸狹;以為渾天,則北方之極浸高。此二者,又渾、蓋之家未能有以通其說也。由是而觀,則王仲任、葛稚川之徒,區區于異同之辨,何益人倫之化哉!

また、凡そ日影の差は、冬夏至で異なり、南北でも異なるが、先儒は一律に里数で均そうとしたため、事実を失っている。沙門一行は『大衍図』を修めるに当たり、更に『覆矩図』を作り、丹穴から幽都の地に至るまで、凡そ二十四の図を以て、日蝕の分数を考証し、夜の漏刻の短長を知った。今、諸州で測った影の尺寸を左に載せる。

原文又凡日晷差,冬夏至不同,南北亦異,而先儒一以里數齊之,喪其事實。沙門一行因修《大衍圖》,更為《覆矩圖》,自丹穴以暨幽都之地,凡為圖二十四,以考日蝕之分數,知夜漏之短長。今載諸州測景尺寸如左:

林邑国は、北極の高度十七度四分。冬至の日影は表の北六尺九寸。定春秋分の日影は表の北二尺八寸五分、夏至の日影は表の南五寸七分。安南都護府は、北極の高度二十六度六分。冬至の日影は表の北七尺九寸四分。定春秋分の日影は表の北二尺九寸三分、夏至の日影は表の南三寸三分。朗州武陵県は、北極の高度二十九度五分。冬至の日影は表の北一丈五寸三分。定春秋分の日影は表の北四尺三寸七分半、夏至の日影は表の北七寸七分。襄州は、恒に春分の日影は表の北四尺八寸。蔡州上蔡県武津館は、北極の高度三十三度八分。冬至の日影は表の北一丈二尺三寸八分。定春秋分の日影は表の北五尺二寸八分、夏至の日影は表の北一尺三寸六分半。許州扶溝は、北極の高度三十四度三分。冬至の日影は表の北一丈二尺五寸三分。定春秋分の日影は表の北五尺三寸七分、夏至の日影は表の北一尺四寸四分。汴州浚儀太嶽臺は、北極の高度三十四度八分。冬至の日影は表の北一丈二尺八寸五分。定春秋分の日影は表の北五尺五寸、夏至の日影は表の北一尺五寸三分。滑州白馬は、北極の高度三十五度三分。冬至の日影は表の北一丈三尺。定春秋分の日影は表の北五尺三寸六分、夏至の日影は表の北一尺五寸七分。太原府は、恒に春分の日影は表の北六尺。蔚州横野軍は、北極の高度四十度。冬至の日影は表の北一丈五尺八寸九分。定春秋分の日影は表の北六尺六寸三分、夏至の日影は表の北二尺二寸九分。

原文林邑國,北極高十七度四分。冬至影在表北六尺九寸。定春秋分影在表北二尺八寸五分,夏至影在表南五寸七分。安南都護府,北極高二十六度六分。冬至影在表北七尺九寸四分。定春秋分影在表北二尺九寸三分,夏至影在表南三寸三分。朗州武陵縣,北極高二十九度五分。冬至影在表北一丈五寸三分。定春秋分影在表北四尺三寸七分半,夏至影在表北七寸七分。襄州。恆春分影在表北四尺八寸。蔡州上蔡縣武津館,北極高三十三度八分。冬至影在表北一丈二尺三寸八分。定春秋分影在表北五尺二寸八分,夏至影在表北一尺三寸六分半。許州扶溝,北極高三十四度三分。冬至影在表北一丈二尺五寸三分。定春秋分影在表北五尺三寸七分,夏至影在表北一尺四寸四分。汴州浚儀太嶽臺,北極高三十四度八分。冬至影在表北一丈二尺八寸五分。定春秋分影在表北五尺五寸,夏至影在表北一尺五寸三分。滑州白馬,北極高三十五度三分。冬至影在表北一丈三尺。定春秋分影在表北五尺三寸六分,夏至影在表北一尺五寸七分。太原府。恆春分影在表北六尺。蔚州橫野軍,北極高四十度。冬至影在表北一丈五尺八寸九分。定春秋分影在表北六尺六寸三分,夏至影在表北二尺二寸九分。