旧唐書 本紀第九 玄宗下

旧唐書

本紀第九 玄宗下

開元二十五年

開元二十五年春正月壬午、制を下す。「朕は猥りに休運を集め、哲王に多く謝す。然れども哀矜の情、小大必ず慎む。寰宇に臨むより以来、黎烝を子育す。未だ嘗て極刑を行い、大獄を起こさず。上玄降りて鑒み、祥瑞を以て応ず。平邦の典に協わんと思い、之を仁寿の域に致さんとす。今より死刑を犯す者有らば、十悪の罪を除き、宜しく中書門下に令して法官と共に犯したる軽重を詳らかにし、状を具えて奏聞せしむべし。徳を崇び歯を尚ぶは、三代の丕義なり。風を敦くし俗を勧むるは、五教の先なる所なり。其れ曾て五品已上の清資官に任じ礼を以て職を去りし者は、所司名を録して奏せよ。老疾にて厘務に堪えざる者は致仕を与えよ。道士・女冠は宜しく宗正寺に隷せしめ、僧尼は祠部に令して検校せしむべし。百司は旬節毎に休假し、並びに須らく曹司に入るに及ばず、勝地を遊び楽しむに任せよ。中外に宣示し、朕が意を知らしめよ。」癸卯、道士尹愔を諫議大夫・集賢学士兼知史館事と為す。

二月、新羅王金興光卒す。其の子承慶位を嗣ぐ。賛善大夫邢璹を遣わし鴻臚少卿を摂せしめ、往きて吊祭し、冊立す。壬子、宗正丞一員を加う。戊午、江淮の運を罷め、河北の運を停む。癸酉、張守珪契丹の余衆を㮈祿山に破り、殺獲甚だ衆し。

三月乙卯、河西節度使崔希逸涼州より南に衆を率い吐蕃の界に二千余里入る。己亥、希逸青海西の郎佐素文子觜に至り、賊と相遇い、大いに之を破り、二千余級を斬首す。

夏四月庚戌、陳・許・豫・寿の四州に稻田を開く。辛酉、監察御史周子諒上書して旨に忤う。殿庭に㩧き、朝堂に於て杖を決し之を死す。甲子、尚書右丞相張九齢曾て子諒を薦引せしを以て、左授して荊州長史と為す。乙丑、皇太子瑛・鄂王瑤・光王琚並びに廃して庶人と為す。太子妃の兄駙馬都尉薛鏽を長流して瀼州にし、藍田驛に至りて死を賜う。

六月壬戌、熒惑房を犯し、心星に至りて度を越えて過ぐ。秋七月己卯、大理少卿徐岵奏す。「天下今歳死刑を断ずること五十八、幾くんか刑措に致らんとす。鳥寺の獄に巣くう。」上特ちに功を元輔に推し、庚辰、李林甫を封じて晋国公と為し、牛仙客を封じて豳国公と為す。己卯、諸陵廟並びに宗正寺に隷せしむるを敕す。其の宗正寺の官員、今より並びに宗枝を以て之を為す。

九月壬申、新たに定めたる『令』・『式』・『格』及び『事類』一百三十巻を天下に頒つ。

冬十月、今年より毎年立春の日に東郊に於て春を迎え、其の夏及び秋冬は常の如くせしむるを制す。十二月の朔日に正殿に於て朝を受け、時令を読む。

十一月壬申、温泉宮に幸す。丁丑、開府儀同三司・広平郡公宋けい薨ず。

十二月丙午、恵妃武氏薨ず。貞順皇后と追謚し、敬陵に葬る。吐蕃其の大臣属盧論莽藏を使わして来朝貢せしむ。

開元二十六年

二十六年春正月乙亥、工部尚書牛仙客を侍中と為す。丁丑、親しく東郊に於て気を迎え、青帝を祀る。天下の繋囚、死罪は嶺南に流し、余は並びに放免するを制す。鎮兵部に還す。京兆府新たに開きたる稻田、並びに貧人に散給す。百官に勲絹を賜う。長安・万年の両県各に本銭一千貫を与え、利を収めて馹に供し、仍ち雑馹に付す。天下の州県、毎郷に一学を置き、仍ち師資を択び、其の教授せしむ。諸郷貢は毎年国子監に就かしめて先師に謁せしめ、明経に口試を加う。内外八品已下及び草沢に博学文辞の士有らば、各本司本州に委ねて聞薦せしむ。

二月辛卯、李林甫を以て隴右節度使を遥領せしむ。甲辰、大寒食に雞卵を以て相饋送するを禁ず。庚申、貞順皇后を敬陵に葬る。乙卯、牛仙客を以て河東道節度使を遥領せしむ。辛酉、仙州を廃し、其の属県を分かち許・汝等州に隷せしむ。

三月己巳朔(一日)、秘書省の校書・正字の官員を減ず。丙子(八日)、星孛(彗星)が紫微垣中に現れ、斗魁(北斗七星の柄)を歴て十餘日、陰雲のため見えず。己酉(誤記か。三月に己酉はない)、河南・洛陽の両県もまた本銭一千貫を借り、利を収めて人吏の課役に充てる。癸未(十五日)、京兆地震す。吐蕃、河西を寇す。左散騎常侍崔希逸これを撃破す。鄯州都督杜希望また新羅城を攻め抜く。制してその城を以て威戎軍と為す。夏四月己亥朔(一日)、始めて太常卿韋絳に時令を宣政殿で読ませ、百僚は殿上に列坐してこれを聴く。五月乙酉(十八日)、李林甫を以て遥かに河西節度使を領せしめ、兼ねて梁州事を判ず。庚寅(二十三日)、咸宜公主の宅に幸す。

六月庚子(四日)、忠王璵を立てて皇太子と為す。

秋七月己巳(四日)、皇太子を冊立し、大赦天下し、常赦の免れざる者も皆赦除す。内外の文武官及び五品以上で父の後を継ぐ者各勲一転を賜う。忠王府の官及び侍講は一階を加う。賜酺三日。庚辰(十五日)、越州を分けて明州を置く。

九月丙申朔(一日)、日蝕あり。庚子(五日)、旧六胡州の地に宥州を置く。益州長史王昱、兵を率いて吐蕃の安戎城を攻む。賊に拠られ、官軍大敗し、昱は甲を棄てて遁走し、兵士死者数千人。

冬十月戊寅(十四日)、温泉宮に幸す。是歳、渤海靺鞨王の大武藝死す。その子欽茂嗣立す。使いを遣わして弔祭し、冊立す。その冬、両京に行宮を建て、殿宇各千餘間を造る。潤州刺史齊浣、伊婁河を揚州の南瓜洲浦に開く。左右羽林軍を析いて左右龍武軍を置き、左右萬騎営をこれに隷属せしむ。

開元二十七年

二十七年春正月乙巳(十二日)、大雪。

二月己巳(六日)、尊号を加えて開元聖文神武皇帝と為し、大赦天下し、常赦の免れざる者も皆赦除す。開元以来の諸色の痕瘕人(前科者等)は皆従って洗滌(赦免)す。左降官は量って近処に移す。百姓は今年の租税を免ず。三品以上は爵一級を賜い、四品以上は一階を加う。宗廟の薦饗は、今より以後並びに宗子を用う。賜酺五日。

夏四月丁丑(十五日)、洮州を廃して蘭州に隷属せしめ、臨州を改めて洮州と為す。乙酉(二十三日)、太子少傅竇𤥟を開府儀同三司と為し、吏部尚書李暠を太子少傅と為す。丁酉(五日)、侍中牛仙客を兵部尚書兼侍中と為す。兵部尚書兼中書令李林甫を吏部尚書と為し、旧に依り兼ねて中書令たり。東宮の内侍を以て内侍省に隷属せしめて署と為す。

五月癸卯(十一日)、龍武軍の官員を置く。先に、鄎國公主の子薛諗がその党の李談・崔洽・石如山とともに京城で人を殺し、或いはその財を利し、或いはその志に違えば、即ち白日に椎殺し、煮て食らう。その夏事発し、皆京兆府門で決殺す。諗は国親を以て瀼州に流し、城東の駅で死を賜う。

六月甲戌(十三日)、内常侍牛仙童、贓に坐し、決殺す。幽州節度使・兼御史大夫張守珪、賄を以て括州刺史に貶ぜらる。太子太師・徐國公蕭すう、嘗て仙童に賂したるを以て、左授して青州刺史と為す。

秋七月辛丑(十一日)、熒惑(火星)南斗を犯す。北庭都護蓋嘉運、軽騎を以て碎葉城において突騎施を襲い破り、蘇祿を殺し、威西陲に震う。

八月、吐蕃、白草・安人等を寇す。甲申(二十五日)、制して孔宣父を追贈して文宣王と為し、顏回を兗國公と為し、余の十哲は皆侯と為し、夾坐す。後嗣の褒聖侯を改封して文宣公と為す。

九月、皇太子、名を紹と改む。汴州刺史齊浣、汴河の下流を開くことを請う。虹県より淮陰北に至り淮に合わしむ。時を逾えて功畢る。沙を棄てて旧路を壅ぎ、行者これを弊す。尋いで新河の水勢淙急にして、遂に填塞す。前刑部尚書致仕の崔隱甫卒す。

冬十月、明堂を改作せんとす。偽りに官が小児を取って明堂の下に埋め、厭勝と為すと言う。村野の童兒は山谷に隠れ、都城騒然として、皆兵至ると言う。上これを悪み、主客郎中王佶を遣わして東都及び諸州に往きて百姓を宣慰せしむ。久しくして定まる。冬十月、東都明堂の上層を毀ち、下層を改拆して乾元殿と為す。戊戌(十日)、温泉宮に幸す。辛丑(十三日)、温泉宮より至る。

十二月、東都副留守・太子賓客崔沔卒す。益州司馬章仇兼瓊を以て権剣南節度等使とす。是歳、蓋嘉運大いに突騎施の衆を破り、其の王吐火仙を擒え、京師に送る。

開元二十八年

二十八年春正月、両京の路及び城中の苑内に果樹を植う。癸巳、温泉宮に幸す。庚子、温泉宮より至る。壬寅、望日に勤政楼に御し群臣を宴し、連夜灯を焼き、大雪に会して罷む。因りて命じて自今常に二月の望日の夜を以て之を行わしむ。

三月丁亥朔、日蝕有り。壬子、権判益州長史章仇兼瓊、吐蕃の安戎城を抜き、兵を分けて之を鎮守す。

夏五月乙未、太子少師韓休・太子少傅李暠卒す。

六月、懐州刺史・信安王禕を太子少師とす。庚寅、太子賓客李尚隠卒す。

秋七月壬寅、宣皇帝の陵を追尊して名を建初と曰い、光皇帝の陵を名を啓運と曰い、仍って官員を置く。

九月、魏州刺史盧暉、通済渠を開き、石灰窠より水を引き州城に至りて西し、却って魏橋に注がしむ。九月庚寅、皇孫俶等十九人を封じて郡王とす。

冬十月甲子、温泉宮に幸す。辛巳、温泉宮より至る。乙酉夜、東都新殿後の仏光寺災有り。吐蕃安戎城を寇す。

十一月、牛仙客、遥かに兼ぬる朔方・河東節度使を停む。

十二月乙卯、突騎施の酋長莫賀達干、衆を率いて内属す。己未、礼部尚書杜暹卒す。是歳、金城公主薨じ、吐蕃使いを遣わし来たり喪を告ぐ。其の時頻りに歳豊稔なり、京師の米斛二百に満たず、天下乂安にして、万里を行くも兵刃を挟まず。

開元二十九年

二十九年春正月丁丑、両京・諸州に各玄元皇帝廟を置き並びに崇玄学を置き、生徒を置き、『老子』・『荘子』・『列子』・『文子』を習わしめ、毎年明経の例に準じて試験する制を下す。内外の官に伯叔兄弟子侄に刺史・県令に堪えしむる者あれば、所司自ら保薦せしむ。九品已下の清資官の客舎・邸店・車坊を置くこと及び士庶の厚葬を禁ず。

三月、吐蕃・突厥各使いを遣わし来朝す。丙午、風霾有り、日色影無し。夏四月庚戌朔。丙辰、太原の裴伷先を以て工部尚書とす。韋虚心卒す。親王已下及び内外の官に各銭を賜い宴楽せしむ。壬午、左右金吾大将軍裴寛を以て太原尹・北都留守とす。

秋七月乙卯、洛水漲ぎ溢れ、天津橋及び上陽宮の仗舎を毀つ。洛・渭の間、廬舎壊れ、溺死者千余人。突厥の登利可汗死す。北州刺史王斛斯を幽州節度使とす。幽州節度副使安禄山を営州刺史とし、平廬軍節度副使を充て、両番・渤海・黒水四府経略使を押さしむ。

九月、大雨雪が降り、稲禾が倒れ折れ、また霖雨が一月余り続き、道途は阻滯した。この秋、河北の博州・洺州など二十四州が雨水が農作物を害したと上言し、御史中丞張倚を命じて東都及び河北へ赴き賑恤させた。壬申、興慶門に臨み、明『四子』の人姚子産・元載らを試した。冬十月丙申、温泉宮に行幸した。戊戌、大理卿崔翹ら八人を分遣して諸道へ赴き官吏を黜陟させた。

十一月庚戌、司空・邠王守礼が薨去した。辛酉、温泉宮より還御した。己巳、雨木冰が降り、凝寒凍冽で、数日間解けなかった。辛未、太尉・寧王憲が薨去し、謚を譲皇帝とし、惠陵に葬った。

十二月丁酉、吐蕃が入寇し、廓州達化県及び振武軍石堡城を陥落させ、節度使蓋嘉運は守ることができなかった。女国国王趙曳夫及び佛逝国国王・日南国国王がその子を遣わして来朝し献上した。

天宝元年

天宝元年春正月丁未朔、天下に大赦し、元号を改め、常赦では赦されない罪もことごとく赦免した。百姓の負欠する租税及び諸色のものはすべて免除した。前資官及び白身人で儒學に博通し、文辞秀逸及び軍謀武藝に優れる者は、所在の役所が名簿を具して推薦することとした。京の文武官で刺史に堪えうる才幹のある者は、それぞれ封状をして自ら挙げるよう命じた。黄鉞を金鉞に改めた。内外官にそれぞれ勲二転を賜った。甲寅、陳王府参軍田同秀が上言した。「玄元皇帝が丹鳳門の通衢に降臨して現れ、霊符を賜ることは尹喜の故宅にあると告げられた。」上は使者を函谷の故関尹喜臺の西に遣わして発掘させて得たので、大寧坊に玄元廟を置いた。陝郡太守李齊物が先に三門を鑿っていたが、辛未、渠が完成して放流した。

二月丁亥、上は尊号を開元天宝聖文神武皇帝と加えた。辛卯、新廟において親しく玄元皇帝を享祀した。甲午、親しく太廟を享祀した。丙申、南郊において天地を合祭した。天下の囚徒について制を下し、罪の軽重を問わずすべて釈放した。流人は近処に移し、左降官は資に依って叙用し、身死して貶所にある者は量を加えて追贈した。枉法贓十五疋を絞に当たるとしたが、今二十疋に加えた。莊子を南華真人と号し、文子を通玄真人と号し、列子を沖虚真人と号し、庚桑子を洞虚真人と号した。その四子の著書を真経に改めた。崇玄学に博士・助教を各一員置き、学生は百人とした。桃林県を霊宝県に改めた。侍中を左相に改め、中書令を右相に改め、左右丞相は旧に従って僕射とし、また黄門侍郎を門下侍郎に改めた。東都を東京とし、北都を北京とし、天下の諸州を郡に改め、刺史を太守に改めた。陝州河北県を平陸県に改めた。老幼に版授し、文武官三品已上は一爵を加え、四品已下は一階を加えた。庚子、平盧節度使安祿山が驃騎大將軍に進階した。夏六月庚寅、武功山の水が暴漲し、人の廬舍を壊し、数百人が溺死した。秋七月癸卯朔、日蝕があった。辛未、左相・豳国公牛仙客が卒した。

八月丁丑、刑部尚書・兼御史大夫李適之を左相とした。丁亥、突厥の阿布思及び默啜可汗の孫・登利可汗の女が相率いてその党属を率いて来降した。壬辰、吏部尚書兼右相李林甫に尚書左僕射を加え、左相李適之に兵部尚書を兼ねさせ、左僕射裴耀卿を尚書右僕射とした。

九月辛卯、上は花萼楼に臨み、宮女を出して毗伽可汗の妻可登及び男女らを宴し、賞賜は数えきれなかった。丙寅、天下の県名で不安定及び重名する一百一十箇所を改めた。両京の玄元廟を太上玄元皇帝宮に改め、天下もこれに準じた。

冬十月丁酉、温泉宮に行幸した。辛丑、驪山を会昌山に改め、なお秦の坑儒の場所に祠宇を立て、遭難した諸儒を祀った。新たに成った長生殿を集霊臺と名付け、天神を祀った。

十一月己巳、温泉宮より還御した。この年、陝郡太守韋堅に命じて滻水を引き、望春亭の東に広運潭を開鑿させ、河・渭を通じさせた。京兆尹韓朝宗はまた渭水を分けて金光門より入れ、西市の両衙に潭を置き、材木を貯えさせた。この冬は氷がなかった。

この年、天下の郡府は三百六十二、県は一千五百二十八、郷は一万六千八百二十九であった。戸部が計帳を進め、今年管轄する戸は八百五十二万五千七百六十三、口は四千八百九十万九千八百であった。

天宝二年

二年春正月丙辰、玄元皇帝を追尊して大聖祖玄元皇帝とし、両京の崇玄学を崇玄館に改め、博士を学士とした。

三月壬子、親しく玄元廟を祀り尊号を冊立した。制を下して聖祖玄元皇帝の父である周の上御史大夫敬を追尊して先天太上皇とし、母の益寿氏を先天太后と号し、なお譙郡の本郷に廟を置いた。咎繇を尊んで徳明皇帝とした。西京の玄元廟を太清宮に改め、東京を太微宮とし、天下の諸郡を紫極宮に改めた。韋堅が広運潭の開鑿を完工し、舟艦を盛大に陳列した。丙寅、上は広運楼に行幸してこれを見物し、即日還宮した。夏六月甲戌の夜、雷が東京の応天門観を震い災いが起こり、延焼して左・右延福門に至り、一日経っても消えなかった。

七月癸丑、致仕した礼部尚書王丘が卒した。丙辰、尚書右僕射裴耀卿が薨去した。

九月、太子少保崔琳卒す。辛酉、譙郡紫極宮を太清宮と改む。

冬十月戊辰、太子太保・信安王禕卒す。戊寅、溫泉宮に幸す。

十一月乙卯、溫泉宮より至る。

十二月己亥、東京應天門を乾元門と改む。戊申、溫泉宮に幸す。丙辰、溫泉宮より至る。十二月乙酉、太子賓客賀知章、道士となることを請ひて郷に還るを度す。是の冬雪なし。

天寶三載

三載正月丙辰朔、年を改めて載とす。見禁の囚徒を赦す。庚子、左右相已下を遣はし、賀知章を長樂坡に祖別し、上詩を賦して之に贈る。壬寅、溫泉宮に幸す。

二月己巳、京に還る。丁丑、讓皇帝の男琳を嗣寧王と封じ、故邠王守禮の男承寧を嗣邠王とし、讓帝の男璹を嗣申王とし、惠宣太子の男珍を嗣岐王とし、員を嗣薛王とす。庚寅、皇太子紹、名を亨と改む。是の月、河南尹裴敦復卒す。閏月辛亥、星有りて月の如く、東南に墜つ。墜ちて後聲有り。京師に官棖を遣はして人の肝を捕へ天狗を祭らしむとの訛言有り。人相恐れ、畿縣特に甚だしく、使を發して之を安んず。

三月庚午、武威郡言上す:番禾縣天寶山に醴泉湧き出で、嶺石瑞麰と化す。遠近の貧乏者取りて食を給すと。番禾を天寶縣と改む。癸酉、制す:天下の見禁囚徒、死罪は流に降し、流已下は並びに之を原す。

夏四月、南海太守劉巨鱗、海賊吳令光を撃破し、永嘉郡平ぐ。敕す:兩京・天下の州郡、官物を取りて金銅の天尊及び佛各一軀を鑄し、開元觀・開元寺に送らしむ。

五月戊寅、長安令柳升、贓に坐し、朝堂に於て決殺せらる。

秋八月丙午、九姓拔悉密葉護、突厥烏蘇米施可汗を攻め殺し、首を京師に傳ふ。庚申、内外の文武官六品已下、今より已後、赴任の後、載を計へて終に滿二百日已上なるは、其の考を成すを許す。

冬十月癸巳、溫泉宮に幸す。丁未、史國を來威國と改む。

十一月癸卯、京に還る。癸丑、每載舊に依りて正月十四日・十五日・十六日を取り、坊市の門を開き燈を燃すことを常式と為す。玉真公主先づ女道士と為り、號及び實封を譲り、名を賜ひて持盈と曰ふ。

十二月甲午、新豐縣を分ちて會昌縣を置く。甲寅、親しく九宮貴神を東郊に祀る。禮畢りて、天下に大赦す。百姓十八已上を中男と為し、二十三已上を丁と成す。每歲の庸調、八月より征を起し、九月に延ぶることを可とす。詔して天下の民間に家ごとに『孝經』一本を藏せしむ。

天寶四載

四載の春三月甲申、勤政樓にて群臣を宴す。壬申、外孫の獨孤氏の女を封じて靜樂公主と為し、契丹の松漠都督李懷節に出降す。外孫の楊氏の女を封じて宜芳公主と為し、奚の饒樂都督李延寵に出降す。

秋八月甲辰、太真妃楊氏を冊して貴妃と為す。是の月、河南の睢陽、淮陽、譙等八郡大水。

九月、契丹及び奚の酋長各公主を殺し、部落を挙げて叛く。隴右節度使皇甫惟明、吐蕃と石堡城に戦い、官軍利あらず、副將褚直廉等之に死す。

冬十月、單于都護府に金河縣を置き、安北都護府に陰山縣を置く。丁酉、溫泉宮に幸す。壬子、會昌縣を以て同京縣と為す。

十二月戊戌、京に還る。

天寶五載

五載春正月癸酉、刑部尚書韋堅、括蒼太守に貶さる。隴右節度使皇甫惟明、播川太守に貶さる。尋いで黔中にて死を決せらる。乙亥、大小縣令を敕し、並びに畿官吏の三選に準じ聽集せしむ。《禮記月令》を改めて《時令》と為す。中岳を封じて中天王と為し、南岳を司天王と為し、北岳を安天王と為す。天下の山水、名稱或いは同じくし、義且つ經に合わず、多く里諺に因る。宜しく所司をして各圖籍に據り改定せしむべし。丙子、禮部尚書席豫、左丞崔翹、御史中丞王鉷等七人を遣わし、天下を行き分ち、官吏を黜陟す。夏四月庚寅、左相、渭源伯李適之、太子少保と為り、政事を知るを罷む。丁酉、門下侍郎陳希烈、中書門下平章事を同じくす。五月庚申、今後每に旬節の休假に至りては、中書門下の文武百僚、朝に入るを須いず、外官、衙集を須いざることを敕す。癸卯、郡縣の差丁白直課錢を停む。

六月、三伏の内に宰相をして辰時に還宅せしむことを敕す。秋七月丙子、韋堅、李林甫の構うる所と為り、臨封郡に配流し、死を賜う。堅の妹皇太子妃、離を聽す。堅の外甥嗣薛王員、夷陵郡別駕に貶さる。女婿巴陵太守盧幼臨、長く合浦郡に流さる。太子少保李適之、宜春太守に貶さる。任に到り、藥を飲みて死す。

八月、戶部侍郎郭虛己を以て御史大夫、劍南節度使と為す。

九月壬子、太清宮に於いて石を刻み李林甫、陳希烈の像と為し、聖容の側に侍せしむ。冬十月丁酉、溫泉宮に幸す。臨淄郡を改めて濟南郡と為す。

十一月己巳、京に還る。

十二月辛未、贊善大夫杜有鄰、著作郎王曾、左驍衛兵曹柳勣等、李林甫の構うる所と為り、並びに獄に下り死す。

天寶六載

六載正月辛巳朔、北海太守李邕、淄川太守裴敦復並びに事王曾、柳勣に連なり、使いを遣わし就きて之を殺す。丁亥、親しく太廟を享す。戊子、親しく圜丘を祀る。禮畢きて、大赦天下し、絞、斬の刑を除き、但だ重杖を決するのみ。京城に三皇、五帝の廟を置き、時に享祭す。其の章懷、節愍、惠莊、惠文、惠宣等の太子は、宜しく隱太子、懿德太子と同一廟と為すべし。每日の立仗食及び庭に仗を設くるは、此の後並びに宜しく停廢すべし。五岳既に王に封ぜられたれば、四瀆當に公位を升るべく、河瀆を封じて靈源公と為し、濟瀆を清源公と為し、江瀆を廣源公と為し、淮瀆を長源公と為す。

三月戊戌、南海太守彭果贓に坐し、杖を決せられ、長く溱溪郡に流さる。路に於いて死す。

夏四月戊午、門下侍郎陳希烈を左相兼兵部尚書とす。癸酉、軍器監を復置す。五月より雨なく秋七月に至る。乙酉、旱のため、宰相・臺寺・府縣に命じて囚人を録し、死罪は杖を決して配流し、徒罪以下は特して免ず。庚寅雨降り始む。

冬十月戊申、溫泉宮に幸す、華清宮と改む。

十一月乙亥、戶部侍郎楊慎矜及び兄の少府少監慎餘と弟の洛陽令慎名、並びに李林甫及び御史中丞王鉷に構へられ、獄に下りて死す。

十二月丙辰、工部尚書陸景融卒す。壬戌、京に還る。

天寶七載

七載春正月己卯、禮部尚書席豫卒す。己亥、韋絳奏す、御案褥袱帷等紫を去り赤黄を用ふるを望むと、之に從ふ。

三月乙酉、大同殿の柱に玉芝を産す、神光殿を照らす有り。群臣、皇帝の尊號を加へて開元天寶聖文神武應道と曰ふを請ふ、之を許す。

夏四月辛丑、高力士を以て驃騎大將軍とす。

五月壬午、上興慶宮に御し、徽號の冊を受け、天下に大赦し、百姓は来載の租庸を免ず。三皇以前の帝王は、京城に廟を置き、時に祭を致す。其の歴代帝王の肇跡の處に祠守なき者は、所在各一廟を置く。忠臣・義士・孝婦・烈女の德行彌高き者も、亦祠宇を置きて祭を致す。酺を賜ふこと三日。

六月、范陽節度使安祿山に實封及び鐵券を賜ふ。秋八月己亥朔、千秋節を天長節と改む。壬子、萬年縣を咸寧縣と改む。

冬十月庚午、華清宮に幸す、貴妃の姉二人を封じて韓國・虢國夫人とす。

十二月戊戌、玄元皇帝華清宮の朝元閣に見ゆるを言ふ、乃ち降聖閣と改む。會昌縣を昭應縣と改め、會昌山を昭應山と改む。山神を封じて玄德公とし、仍祠宇を立つ。辛酉、京に還る。

天寶八載

八載春正月甲申、京官に絹を賜ひ、春時の游賞に備ふ。

二月戊申、百官を左藏庫に引きて錢幣を縱觀せしめ、絹を賜ひて歸る。

三月、朔方節度使張齊丘が中受降城の北に横塞城を築く。

夏四月、咸寧太守趙奉璋が決杖して死し、著作郎韋子春が端溪尉に貶せらる。李林甫これを陥れたるなり。華清宮の観風楼に幸す。

五月辛巳、開遠門外に振旅亭を作る。戊子、南海太守劉巨鱗が贓罪に坐し、決死せらる。

六月、大同殿また玉芝一莖を産す。隴右節度使哥舒翰、吐蕃の石堡城を攻め、これを抜く。

閏月己丑、石堡城を改めて神武軍と為す。剣南索磨川に新たに都護府を置く。宜しく保寧を以て名とすべし。丙寅、上親しく太清宮に謁し、聖祖玄元皇帝の尊号を冊して聖祖大道玄元皇帝と為す。高祖、太宗、高宗、中宗、えい宗の五帝、皆「大聖皇帝」の字を加う。太穆、文徳、則天、和思、昭皇后、皆「順聖皇后」の字を加う。群臣、皇帝の尊号を上りて開元天地大宝聖文神武応道皇帝と為す。丁卯、上含元殿に御し冊を受け、天下に大赦す。自今以後、毎に禘祫に至りては、並びに太清宮聖祖の前に於いて昭穆を序す。初め、太白山人李渾、太白山金星洞に帝福寿玉版石記有りと言う。これを求め得て、乃ち太白山を封じて神応公と為し、金星洞を嘉祥公と為し、管する所の華陽県を貞符県と為す。戊辰、太子太師・徐国公蕭嵩薨ず。丁亥、南衙の立仗馬は宜しく停め、進馬官を省く。秋八月戊子、郡別駕は宜しく停め、下郡に長史を置く。

冬十月丙寅、華清宮に幸す。

十一月丁巳、御史中丞楊釗の荘に幸す。

天宝九載

九載春正月庚寅朔、歳次と始めを同じくし、華清宮に於いて朝を受く。己亥、京に還る。庚戌、群臣西嶽の封禅を請う。これに従う。

二月壬午、御史中丞宋渾が贓及び奸に坐し、高要郡に長流せらる。

三月庚戌、匭使を改めて献納と為す。辛亥、西嶽廟災有り。時に久しく旱し、制して西嶽の封禅を停む。

夏五月庚寅、旱の故に囚徒を録す。乙卯、安祿山進みて東平郡王に封ぜらる。節度使の王に封ぜらるるは、此より始まる。

秋七月己亥、国子監に広文館を置き、生徒を領して進士の業を為さしむ。

九月乙卯、処士崔昌『五行応運歴』を上る。国家周・漢を承くに合うを以てし、周・隋の二王後と為すに合わざるを廃せんことを請う。

冬十一月庚寅、華清宮に幸す。己丑、制す。自今より告献太清宮及び太廟を朝献と改め、巡陵を朝拝と改め、告宗廟を奏と改め、天地享祀の文を昭告より昭薦と改む。告は下に臨むの義あるを以ての故なり。辛卯、楊国忠の亭子に幸す。辛丑、周武王・漢高祖の廟を京城に立て、司に官吏を置く。

十二月乙亥、京師に還る。

天寶十載

十載春正月乙酉朔。壬辰、太清宮に朝獻す。癸巳、太廟に朝饗す。甲午、南郊に事有り、天地を合祭し、禮畢りて、天下に大赦す。太廟に內官を置き、諸陵廟の灑掃を供す。己亥、傳國寶を改めて承天大寶と為す。丁未、李林甫安北副大都護・朔方節度使を領く。庚戌、大風、陜郡の運船火を失ひ、米船二百餘隻を燒き、死する者五百計。癸丑、嗣吳王祇等十三人を分遣して岳瀆海鎮を祭らしむ。

二月丁巳、安祿山雲中太守・河東節度使を兼ぬ。

夏四月、劍南節度使鮮於仲通兵六萬を將ひて雲南を討ち、雲南王閣羅鳳と瀘川に戰ひ、官軍大敗し、瀘水に死する者勝げて數ふ可からず。五月丁亥、諸衛の幡旗緋色なる者を改めて赤黄と為し、以て土運に符す。

秋八月乙卯、廣陵郡大風、潮水船數千艘を覆す。丙辰、京城武庫災有り、器械四十七萬事を燒く。是の秋、霖雨旬を積み、墻屋多く壞れ、西京尤甚し。

冬十月辛亥、華清宮に幸す。

十一月乙未、楊國忠の宅に幸す。丙午、兵部侍郎・兼御史中丞楊國忠劍南節度使を兼領す。

天寶十一載

十一載春正月辛亥、京師に還る。

二月癸酉、惡錢を禁じ、官好錢を出だして以て之に易ふ。既にして商旅便ならず、國忠に訴ふ。乃ち之を止む。

三月、朔方節度副使・奉信王阿布思安祿山と共に契丹を討つ。布思祿山と協はず、乃ち其の部下を率ひて叛き漠北に歸す。丙午、制す、今後每月の朔望に、宜しく太廟に薦食せしむべし、每室一牙盤、仍て五日に一度室門を開き灑掃す。吏部を改めて文部と為し、兵部を武部と為し、刑部を憲部と為す。其の部内諸司に部字有る者並びに改む。將作大匠・少匠を大・少二監と為す。

夏四月、御史大夫兼京兆尹王鉷死を賜ふ。弟銲兇人邢縡と謀逆を為せるに坐す故なり。楊國忠京兆尹を兼ぬ。

五月戊申、慶王琮薨ず。靖德太子を贈る。

六月戊子、東京大風、樹を拔き屋を發す。

八月己丑、左蔵庫に幸し、群臣に帛を賜うこと差有り。

九月甲寅、諸衛士を改めて武士と為す。

冬十月戊寅、華清宮に幸す。

十一月乙卯、尚書左僕射兼右相・晋国公李林甫、行在所に薨ず。庚申、御史大夫兼蜀郡長史楊国忠を右相兼文部尚書と為す。

十二月甲戌、楊国忠、両京の選人の銓日において留放を便ちに定め、長名無からしむるを奏請す。己亥、京に還る。

天宝十二載

十二載春正月壬子、楊国忠、尚書省に於いて官を注し、注し訖りて、都堂に於いて左相及び諸司の長官と対して名を唱う。

二月庚辰、選人鄭懟等二十余人、国忠の銓注滞り無きを以て、勤政殿下に斎を設け、尚書省門に碑を立つ。癸未、故右相李林甫の在身官爵を追削し、男将作監岫・宗党李復道等五十人皆流貶す。国忠、林甫が叛胡阿布思と陰に結ぶを誣奏せる故なり。夏五月乙酉、魏・周・隋を以て旧に依り三恪及び二王の後と為し、復た韓・介・酅等の公を封ず。辛亥、太廟諸陵署、旧に依り太常寺に隷す。

七月壬子、天下の斉人、郷貢するを得ず、須らく国子学生を補して然る後に貢挙すべし。八月、京城霖雨し、米貴し、太倉米十万石を出し、価を減じて貧人に糶すことを令す。仍て中書門下をして京兆・大理に就き囚徒を疏決せしむ。

九月己亥朔、隴右節度使・涼国公哥舒翰、西平郡王に進封せられ、実封五百戸を食む。

冬十月戊申、華清宮に幸す。京城の丁戸一万三千人を和雇して興慶宮の墻を築き、楼観を起す。十二月に至り、横塞城を改めて天徳軍と為す。庚寅、行従官憲部尚書張筠等、上尊号を開元天地大宝聖文神武孝徳証道皇帝と為すことを請う。

天宝十三載

十三載春正月丁酉朔、上華清宮の観風楼に御し、朝賀を受く。己亥、安慶緒、行在に俘を献ず。帝禁中に引見し、賞賜巨万す。乙巳、安禄山に尚書左僕射を加え、実封千戸・奴婢十房・荘宅各一区を賜う。又閑廄・五坊・宮苑・隴右群牧都使を加え、武部侍郎吉温を以て副と為す。丙午、京に還る。

二月癸酉、上親しく太清宮に朝献し、玄元皇帝の尊号を上りて大聖祖高上大広道金闕玄元天皇大帝と曰う。甲戌、親しく太廟を饗し、高祖の謚を上りて神堯大聖大光孝皇帝と曰い、太宗の謚を太宗文武大聖大孝皇帝と曰い、高宗の謚を高宗天皇大聖大弘孝皇帝と曰い、中宗の謚を中宗太和大聖大昭孝皇帝と曰い、睿宗の謚を睿宗玄真大聖大興孝皇帝と曰う。乙亥、興慶殿に御して徽号を受け、礼畢りて、天下に大赦す。左降官父母の憂に遭う者は、帰を放つ。献陵等五署を改めて台と為し、令・丞各一階を升す。文武三品已上は爵一級を賜い、四品已下は一階を加う。酺を三日賜う。戊寅、右相兼文部尚書楊国忠、司空を守り、余は故の如し。甲申、司空楊国忠冊を受けしに、天黄土を雨し、朝服に沾う。禄山、前後契丹を討ちて立功せる将士跳蕩等を奏し、超えて三資せんことを請い、告身仍て好く写すことを望む。ここに於いて超授して将軍と為す者五百余人、中郎将と為す者二千余人。

三月丁酉、太常卿張垍、盧溪郡司馬に貶さる。垍の兄憲部尚書均、建安太守に貶さる。丙午、躍龍殿門に御し楽を張りて群臣に宴し、右相に絹一千五百疋・彩羅三百疋・彩綾五百疋を賜い、左相に絹三百疋・彩羅綾各五十疋を賜い、余の三品は八十疋、四品五品は六十疋、六品七品は四十疋を賜い、極めて歓びて罷む。壬戌、勤政楼に御し大酺す。北庭都護程千里、阿布思を生擒して楼下に献ず。これを朱雀街に斬る。乙丑、左羽林上将軍封常清、権て北庭都護・伊西節度使と為す。万春公主、楊朏に降嫁す。

夏五月、熒惑が心宿に留まること五十余日。

六月乙丑朔、日蝕あり、鉤の如く尽きず。侍御史・劍南留後李宓、兵を率いて雲南蠻を西洱河に撃つ。糧尽き軍旋るも、馬足橋に陥ち、閣羅鳳に擒えられ、挙軍皆没す。濟陽郡を廃し、その領する五縣を東平郡に隷す。

秋八月丁亥、久雨により、左相・許國公陳希烈を太子太師と為し、知政事を罷む。文部侍郎韋見素を武部尚書・同中書門下平章事と為す。この秋、霖雨六十余日積もり、京城の垣屋頽壊殆ど尽き、物価暴騰し、人多く食を欠く。太倉米一百萬石を出し、十場を開きて賤糶し貧民を済す。東都の瀍・洛暴漲し、一十九坊を漂没す。上、勤政楼に御し四科制挙人を試す。策の外に詩賦各一首を加う。制挙に詩賦を加うるは、これより始まる。冬十月壬寅、華清宮に幸す。河東太守韋陟を桂嶺尉に貶し、武部侍郎吉溫を澧陽郡長史に貶す。乙巳、開府儀同三司・畢國公竇𤥟薨ず。戊午、京に還る。

その載、戸部、今年見管の州縣戸口を計う。管郡総三百二十一、縣一千五百三十八、郷一萬六千八百二十九。戸九百六十一萬九千二百五十四、三百八十八萬六千五百四は課せず、五百三十萬一千四十四は課す。口五千二百八十八萬四百八十八、四千五百二十一萬八千四百八十は課せず、七百六十六萬二千八百は課す。

天寶十四載

十四載春三月丙寅、群臣を勤政楼に宴し、『九部楽』を奏す。上、詩を賦し柏梁体に斅う。癸未、給事中裴士淹等を遣わし河南・河北・淮南等道を巡撫せしむ。

八月壬辰、上、親しく囚徒を録す。

冬十月壬辰、華清宮に幸す。甲午、『御注老子』並びに『義疏』を天下に頒つ。

十一月戊午朔、始寧太守羅希奭、張博濟を停止して決杖し死せしむ。吉溫、獄にて自縊す。丙寅、范陽節度使安祿山、蕃・漢の兵十余萬を率い、幽州より南に向かい闕を詣で、楊國忠を誅するを名とし、先ず太原尹楊光翽を博陵郡に殺す。壬申、行在所に聞く。癸酉、郭子儀を霊武太守・朔方節度使と為す。封常清、安西より入奏し、行在所に至る。甲戌、常清を范陽・平盧節度使・兼御史大夫と為し、兵三萬を募りて逆胡を御せしむ。戊寅、京に還る。羽林大將軍王承業を太原尹と為し、衛尉卿張介然を陳留太守・河南節度採訪使と為し、金吾將軍程千里を潞州長史と為し、並びに賊を討たしむ。甲申、京兆牧・榮王琬を元帥と為し、高仙芝を副えしめ、京城に召募し、天武軍と号す。その眾十万。丙戌、高仙芝等進軍す。上、勤政楼に御し之を送る。

十二月丙戌朔、祿山、霊昌郡にて河を渡る。辛卯、陳留郡を陥とし、張介然を殺す。甲午、滎陽けいよう郡を陥とし、太守崔無詖を殺す。丙申、封常清、賊と成皋罌子穀に戦い、官軍敗績し、常清は陝郡に奔る。丁酉、祿山、東京を陥とし、留守李憕・中丞盧奕・判官蔣清を殺す。時に高仙芝は陝郡を鎮むるも、城を棄て西に潼関を保つ。常山太守顏杲卿、長史袁履謙・賈深等と賊将李欽湊を殺し、賊将何千年・高邈を執りて京師に送る。辛丑、詔して皇太子に兵を統べ東討せしむ。永王璘を山南節度使と為し、江陵長史源洧を副えしむ。潁王璬を劍南節度使と為し、蜀郡長史崔圓を副えしむ。二王は閤を出でず。丙午、封常清・高仙芝を潼関に斬る。哥舒翰を太子先鋒兵馬元帥と為し、河・隴の兵募を領して潼関を守り以て之を拒がしむ。辛亥、榮王琬薨ず。靖恭太子を贈る。

天寶十五載

十五載春正月乙卯、宣政殿に御し朝を受く。その日、祿山、東京にて僭号す。庚申、李光弼を雲中太守・河東節度使と為す。壬戌、賊将蔡希德、常山郡を陥とし、太守顏杲卿・長史袁履謙を執り、民吏萬余を殺し、城中流血す。甲子、哥舒翰、位を進めて尚書左僕射・同中書門下平章事と為す。乙丑、賊将安慶緒、潼関を犯すも、哥舒翰之を撃退す。乙巳、平原太守顏真卿に戸部侍郎を加え、城を守るを奨む。

二月丙戌、李光弼・郭子儀、兵を将いて東に井陘を出で、賊将史思明と戦い、大いに之を破り、郡縣十余を進み取る。丙辰、工部尚書安思順を誅す。

三月壬午朔、河東節度使李光弼を御史大夫・范陽節度使と為す。乙酉、平原太守顏真卿を河北採訪使と為す。己亥、常山郡を平山郡と改め、房山縣を平山縣と改め、鹿泉縣を獲鹿縣と改め、鹿成縣を束鹿縣と改む。

夏四月丙午、贊善大夫來瑱を潁川太守・招討使と為す。

五月戊午、南陽太守魯炅が賊将武令珣と滍水のほとりで戦い、官軍は大敗し、賊に捕らえられ、賊は我が南陽に侵攻した。詔して嗣虢王巨に藍田より出師して南陽を救援せしむ。

六月癸未朔、顔真卿が賊将袁知泰を堂邑で破り、北海太守賀蘭進明が信都を収める。庚寅、哥舒翰が兵八万を率いて賊将崔乾祐と霊宝西原で戦い、官軍は大敗し、死者は十の六七に及ぶ。この日、李光弼が賊将史思明と常山東嘉山で戦い、これを大破し、斬獲は数万に及ぶ。辛卯、哥舒翰が潼関に至り、その帳下の火抜帰仁に左右数十騎で捕らえられ賊に降る。関門は守られず、京師は大いに駭き、河東・華陰・上洛等の郡は皆城を棄てて逃走す。甲午、蜀に幸せんと謀り、乃ち親征の詔を下す。仗下りて、従う士庶は恐れ駭き、路に奔走す。乙未、未明に延秋門より出で、微雨に濡れ、扈従するは唯だ宰相楊国忠・韋見素・内侍高力士及び太子、親王、妃主・皇孫以下多く従うこと及ばず。平明に便橋を渡る。国忠は橋を断たんとす。上曰く「後来の者、何を以てか能く済わん」と。命じてこれを緩む。辰の時、咸陽望賢驛に至り置頓す。官吏は駭散し、再び儲供なし。上は宮門の樹下に憩い、亭午に未だ食を進めず。俄かに父老の鋋を献ずる者有り。上これに謂いて曰く「如何にして飯を得ん」と。ここに於いて百姓相継いで食を献ず。俄にまた尚食御膳を持ち至る。上は従官に頒給して後に食す。この夕、金城県に次ぐ。官吏は既に遁れ、魏方進の男允をして招誘せしむ。俄かに智蔵寺の僧の芻粟を進むるを得、行従漸く給す。丙辰、馬嵬驛に次ぐ。諸衛の軍頓して進まず。龍武大将軍陳玄礼奏して曰く「逆胡は闕を指し、国忠を誅するを名とす。然れども中外の群情、嫌怨無きにしも非ず。今、国歩艱阻し、乗輿震蕩す。陛下は群情に徇い、社稷の大計の為に、国忠の徒を法に置くべし」と。時に吐蕃の使者二十一人、国忠を遮り驛門に告訴す。衆呼して曰く「楊国忠、蕃人と連なりて謀逆す」と。兵士、驛を囲むこと四重。楊国忠・魏方進一族を誅するに及び、兵猶未だ解けず。上、高力士をしてこれを詰ましむ。回奏して曰く「諸将、既に国忠を誅し、貴妃の宮中に在るを以て、人情恐懼す」と。上即ち力士に命じて貴妃に自尽を賜う。玄礼等、上に見えて罪を請う。命じてこれを釈す。丁酉、将に馬嵬驛を発せんとす。朝臣は唯だ韋見素一人のみ。乃ち見素の子、京兆府司録諤を御史中丞と為し、置頓使を充てしむ。その向かう所を議す。軍士或いは河・隴を言い、或いは霊武・太原を言い、或いは京に還るを便と為すを言う。韋諤曰く「京に還るには、須らく賊を捍ぐの備え有るべし。兵馬未だ集まらず、恐らく万全に非ざるべし。姑く扶風に幸するに如かず。徐にその向かう所を図らん」と。上、衆に詢う。皆以って然りと為す。行くに及び、百姓路を遮り皇太子の留まることを乞い、力を戮して賊を破り、京城を収復せんことを願う。因って太子を留む。戊戌、扶風県に次ぐ。己亥、扶風郡に次ぐ。軍士各々去就を懐き、皆醜言を出だす。陳玄礼制す能わず。時に益州より春彩十万匹を貢す。上悉くこれを庭に置くことを命じ、諸将を召して諭して曰く「卿等は国家の功臣、力を陳すること久し。朕の優獎、常に亦軽からず。逆胡恩に背く。事須らく回避す。甚だ卿等の父母妻子に別るるを得ざるを知る。朕も亦九廟に親辞するに及ばず」と。言発して涕流る。又曰く「朕須らく蜀に幸すべし。路険狭し。人若し多く往かば、恐らく供承に難からん。今この彩有り。卿等即ち宜しく分取し、各々去就を図れ。朕自ら子弟中官相従う有り。便ち卿等と訣別せん」と。衆皆俯伏して涕泣し曰く「死生、願わくは陛下に従わん」と。上曰く「去住、卿に任す」と。ここより悖乱の言稍々息む。庚子、司勲郎中・剣南節度留後崔円を蜀郡長史・剣南節度副大使と為す。潁王璬を剣南節度大使と為す。監察御史宋若思を御史中丞と為し置頓使を充て、韋諤を巡閣道使に充て、並びに先発を令す。辛丑、扶風郡を発つ。この夕、陳倉に次ぐ。壬寅、散関に次ぐ。部下を分けて六軍と為す。潁王璬先行し、寿王瑁等分ちて六軍を統べ、前後左右相次ぐ。丙午、河池郡に次ぐ。崔円奏す、剣南は歳稔み民安んじ、儲供欠くこと無しと。上大いに悦び、円に中書侍郎・同中書門下平章事を授け、蜀郡長史・剣南節度は故の如し。以前華州刺史魏犀を梁州長史と為す。

秋七月癸丑朔。壬戌、益昌県に次ぎ、吉柏江を渡る。双魚舟を夾みて躍る有り。議する者龍と為す。甲子、普安郡に次ぐ。憲部侍郎房琯後より至る。上と語り甚だ悦ぶ。即日に吏部尚書・同中書門下平章事に拝す。丁卯、詔して皇太子諱を以て天下兵馬元帥と為し、朔方・河東・河北・平盧等の節度兵馬を都統し、両京を収復せしむ。永王璘を江陵府都督と為し、山南東路・黔中・江南西路等の節度大使を統べしむ。盛王琦を広陵郡大都督と為し、江南東路・淮南・河南等路の節度大使を統べしむ。豊王珙を武威郡都督と為し、河西・隴右・安西・北庭等路の節度大使を領せしむ。初め、京師賊に陥ち、車駕倉皇に出幸す。人の知る所の向かう所無く、衆心震駭す。この詔を聞くに及び、遠近相慶し、皆興復に効忠せんことを思う。庚午、巴西郡に次ぐ。太守崔渙奉迎す。即日に渙を門下侍郎・同中書門下平章事と為す。韋見素を左相と為す。庚辰、車駕蜀郡に至る。扈従の官吏軍士到る者一千三百人、宮女二十四人のみ。

八月癸未朔、蜀都府衙に御し、詔を宣べて曰く「朕薄徳を以て、神器を嗣守し、毎に乾乾惕厲し、生霊を勤念す。一物その所を失うも、己を罪するを忘れず。聿来四紀、人亦小康す。心を人に推し、物を疑わず。而るに奸臣兇豎、義を棄て恩に背き、黎元を割剝し、区夏を擾乱す。皆朕の不明の過ちなり。今巴蜀を巡撫し、師徒を訓厲し、仍って太子諸王に令して重鎮に兵を蒐め、兇醜を誅夷し、以て昊穹に謝せしむ。群臣と与に理道を重ねて弘めんことを思う。大いに天下を赦すべし」と。癸巳、霊武の使至り、始めて皇太子の即位を知る。丁酉、上、霊武の冊を用いて上皇と称し、詔を称して誥とす。己亥、上皇軒に臨みて粛宗を冊す。宰臣韋見素・房琯をして霊武に使いせしめ、冊命して曰く「朕太上皇と称す。軍国の大事は先ず皇帝の処分を取り、後に朕に奏して知らしむ。両京を克復するを俟ち、朕当に神を姑射に怡し、大庭に偃息せん」と。

翌年九月、郭子儀が両京を収復す。十月、粛宗は中使啖廷瑤を遣わして蜀に入り奉迎す。丁卯、上皇蜀郡を発つ。十一月丙申、鳳翔郡に次ぐ。粛宗は精騎三千を遣わして扶風に至り迎衛す。十二月丙午、粛宗は法駕を具えて咸陽の望賢驛に至り迎奉す。上皇は宮の南楼に御し、粛宗は楼下に拝慶し、嗚咽流涕して自勝えず、上皇のために徒歩して轡を控え、上皇は背を撫でてこれを止め、即ち騎馬して前導す。丁未、京師に至り、文武百僚・京城の士庶は道を夾みて歓呼し、流涕せざるはなし。即日、大明宮の含元殿に御し、百僚を見、上皇自ら撫問す。人々感咽す。時に太廟は賊に焚かれたるを以て、神主を大内の長安殿に権移し、上皇は廟を謁して罪を請い、遂に興慶宮に幸す。三載二月、粛宗と群臣と上皇の尊号を奉りて太上至道聖皇帝と曰う。乾元三年七月丁未、西内の甘露殿に移幸す。時に閹宦李輔国、粛宗を離間す、故に西内に移居す。高力士・陳玄礼等は遷謫せられ、上皇次第に自ら懌しまず。

上元二年四月甲寅、神龍殿に崩ず、時に年七十八。群臣上謚して至道大聖大明孝皇帝と曰い、廟号を玄宗とす。初め、上皇は親しく五陵を拝し、橋陵に至り、金粟山の崗に龍盤鳳翥の勢い有るを見、また先塋に近し、侍臣に謂いて曰く、「吾が千秋の後は宜しく此地に葬るべし、先陵を奉じて、孝敬を忘れざるを得ん」と。是に至り、先旨を追奉して以て寝園を創め、広徳元年三月辛酉を以て泰陵に葬る。

【論】

史臣曰く、孔子は「王者は必ず世にして後に仁なり」と称す。李氏は武后の国を移してより三十余年、朝廷に正人罕にして、附麗するは無非険輩なり。苞苴を持して請謁し、奔走すること権門;鷹犬を效して飛馳し、中傷すること端士。以て王室を断喪し、宗枝を屠害するに致る。骨鯁の大臣、屡に誣陷に遭い、文を舞う酷吏、坐して顕栄を致す。礼儀復た興行無く、刑政は犬馬に壊れ、端揆は阿党の語を出だし、冕旒は和事の名有り、朋比風を成し、廉恥都て尽きぬ。

我が開元の天下を有するや、之を糾うに典刑を以てし、之を明らかにするに礼楽を以てし、之を愛するに慈儉を以てし、之を律するに軌儀を以てす。前朝の徼幸の臣を黜し、其の奸を杜つ;後庭の珠翠の玩を焚き、其の奢を戒む;女楽を禁じて宮嬪を出だし、其の教を明らかにす;酺賞を賜いて哇淫を放ち、其の荒を懼る;友于を叙して骨肉を敦くし、其の俗を厚くす;兵を蒐して帥を責め、軍法を明らかにす;朝集して最を計り、吏能を校す。廟堂の上、経済の才に非ざる無く;表著の中、皆論思の士を得たり。而して又旁らに宏碩を求め、道芸文を講ず。昌言嘉謨、日に献納に聞こえ;長轡遠馭、志は升平に在り。貞観の風、一朝に復振す。斯の時に於いて、烽燧驚かず、華戎軌を同じくす。西蕃の君長、縄橋を越えて競って玉関に款し;北狄の酋渠、毳幕を捐てて争って雁塞に趨る。象郡・炎州の玩、雞林・鯷海の珍、象胥に結轡せざる莫く、典属に駢羅す。丹墀の下に膜拜し、立仗の前に夷歌す、冠帯百蠻、車書萬里と謂うべし。天子乃ち雲臺の義を覧、泥金の札を草し、然る後に日観を封じ、云亭を禅し、穆清に道を訪い、玄牝に神を怡し、民と休息し、比屋封ず可し。時に垂髫の倪、皆礼譲を知り;戴白の老、兵戈を識らず。虜は月に乗じて辺を犯す敢えず、士は弓を彎げて怨を報ずる敢えず。「康哉」の頌、八紘に溢る。所謂「世にして後に仁」、開元に見る者なり。年三紀を逾え、太平と謂うべし。

於戲!国に賢臣無ければ、聖も亦理め難し;山に猛虎有れば、獣敢えて窺わず。人を得る者は昌え、信に虚語ならず。昔斉の桓公は行い禽獣に同じくして、もって霸主の名を失わず;梁の武帝は静かに桑門に比して、竟に台城の酷に被る。蓋し管仲を得れば則ち淫ももって霸を害せず、硃異を任ずれば則ち善ももって亡を救わず。開元の初、賢臣国に当たり、四門倶に穆く、百度唯だ貞く、而して釈・老の流、頗る無為を以て請見す。上乃ち清浄を務め、事は薰修に留連し、軒後の文に留連し、伯陽の説を舞詠す、稍々勤倦に移ると雖も、亦未だ怠荒に至らず。俄にして朝野怨咨し、政刑紕繆す、何ぞや?人の用い方の失なり。天宝已還より、小人の道長し。山に朽壊有るが如く、大と雖も必ず虧け;木に蠹虫有れば、其の栄え易く落つ。百口百心の讒諂を以て、両目両耳の聰明を蔽う、苟も鉄腸石心に非ざれば、安んぞ惑わざらんや!而して献可替否、姚・宋の言を聞かず;賢を妬み功を害する、甫・忠の奏有るのみ。豪猾これに因りて睥睨し、明哲是に於いて巻懐す、故に禄山の徒、其の偽を行なうを得たり。厲階の作、天より降るに匪ず、謀りの臧らざる、前功倶に棄つ。惜しいかな!

贊して曰く、開元図を握り、永く前車を鑒とす。景気融朗、昏氛滌除す。政才勤倦、妖廷除に集る。先民の言、「初め有らざるは莫し」。