舊五代史

僭偽列傳三: 王建 孟知祥

王建

王建は陳州項城の人である。唐末、忠武軍に名を隷す。秦宗権が蔡州を拠点とし、重賞を懸けて募ったところ、王建は初めて行伍の間より抜擢され軍候に補せられた。広明年中、黄巣が長安ちょうあんを陥落させ、僖宗はしょくに幸す。時に梁祖(朱全忠)は巣の将となり、衆を率いて襄州・鄧州を攻め、宗権は小校の鹿晏宏を遣わし監軍の楊復光に従って師を率いてこれを攻撃させたが、王建もこれに加わった。この年、復光は京師を救援に入り、翌年賊を破って京城を奪回した。初め、復光は忠武軍八千人を以て八都を立てたが、晏宏と王建は各々一都の校であった。復光が死ぬと、晏宏は八都を率いて行在を迎え扈従し、山南に至り、金州・商州等の諸郡県を攻め掠め、兵数万を得て、興元に進み逼った。節度使牛叢は城を棄てて去ったので、晏宏は自ら留後と為り、王建らを属郡の刺史としたが、赴任を許さなかった。やがて晏宏は正式に節旄を授けられたが、部下が己を謀ることを恐れ、多く忍虐を行ったため、これにより部衆は心を離した。王建は別将の韓建と親しく、晏宏はますます二建を猜疑し、厚く遇するふりをして臥内に引き入れた。二建は恐れ、夜に城に登り守塀の者を慰め、月下に共に向かうべき所を謀り、王建は韓建に謂って曰く、「僕射(晏宏)の甘言厚徳は、我らを疑っているのである。禍難遠からず、早く利を択んで行くべきである」と。韓は曰く、「善し」と。ここに三千人を率いて行在に趨り、僖宗はこれを嘉し、巨万の賜物を与えた。その兵を五都に分け、なお旧校を以てこれを主とさせた。即ち晋暉・李師泰・張造と二建であり、これにより随駕五都と号し、田令孜は皆これを仮子として録した。僖宗が宮に還ると、王建らは分かれて神策軍を典し、皆遥かに刺史を領した。

光啓初年、僖宗に従って再び興元に幸し、令孜は逼迫を恐れ、西川監軍を求めたので、楊復恭が代わって観軍容使となった。王建らは平素より令孜に厚遇されていたため、復恭は己に附かぬことを恐れ、五将を郡守として出し、王建を壁州刺史とした。天子が京に還ると、復恭は楊守亮をして興元を鎮めさせたが、特に王建が己を侵すことを畏れ、しばしばこれを召した。王建はその郡に安んぜず、ここに溪洞の豪猾を招き合わし、衆八千を得て、閬州を寇し、これを陥落させ、さらに利州を攻め、刺史の王珙は城を棄てて去った。王建は二郡を播掠し、至る所で殺掠を行い、守亮はこれを制することができなかった。東川節度使の顧彦朗は、初めに関輔で賊を破った時に王建と互いに消息を通じ、常に人を遣わして労問し、貨幣や軍食を分かち与えてこれを給したため、王建は梓州・遂州を侵さなかった。西川節度使の陳敬瑄はその膠固を憂え、監軍の田令孜に謀って曰く、「王八(王建)は我が子である。彼に他心はなく、山南で賊を為すは、実に進退帰する所なきが故である。我が咫尺の書を馳せれば、坐して麾下に置くことができる」と。即ち飛書を以て王建を招いた。王建は大いに喜び、使者を遣わして彦朗に謂って曰く、「監軍阿父(令孜)が信を遣わして招かれた。僕は成都に詣でて阿父に省み、陳太師(敬瑄)に依って一大郡を得たいと願う。これが我が願いである」と。即ち梓州に至り彦朗に会い、家族を東川に寄留させ、精甲三千を選んで成都に向かった。鹿頭に至った時、ある者が敬瑄に謂って曰く、「王建は今の劇賊であり、鴟の如く視、狼の如く顧み、専ら人の国邑を謀る。もし彼が即時に至れば、公は何をもってこれを処するのか。彼の雄心は終に人の下に居らぬ。公が将校として遇せば、これ虎を養って自ら患いを遺すことになる」と。敬瑄は恐れ、ここに人を遣わして王建を止め、急いで城守を修めた。王建は怒り、ここに漢州を拠り、軽兵を率いて成都に至った。敬瑄はこれを譲って曰く、「何を為す者か、我が疆理を犯すとは」と。王建の軍吏が報じて曰く、「閬州司徒しと(王建)は先に東川に寄寓し、軍容太師(令孜)の使者が継いで召された。今また拒絶されるのは何故か。司徒は轅を改めて東するを惜しまず、北して太師に省みに来たのに、反って拒絶される。顧みて梓州(彦朗)がまた嫌間を相い、我が何の心ぞと謂うことを慮るが故である。我を使わして来報せしめ、且つ漢州に寄食せんと欲するのみ。公は再び疑うなかれ」と。時に光啓三年である。十日余り経つと、王建は東川の衆を尽く取り、梯衝を設けて成都を攻めたが、三日で落とせず退き、再び漢州を保った。一月余りして、大いに蜀土を掠め、彭州に進み逼り、百道を以てこれを攻めた。敬瑄は兵を出して来援したので、王建は包囲を解き、兵を放って大いに掠め、十一州皆その毒に罹り、民は聊生すべからざるに至った。

王建の軍勢は日増しに盛んとなり、再び成都を攻めたので、敬瑄はこれを患い、顧彦朗もまた己を侵されることを恐れた。昭宗が即位すると、彦朗は表を上って王建の罪を雪ぎ、大臣を択んで蜀帥とし、敬瑄を他鎮に移すことを請うた。ここに詔して宰臣の韋昭度をして蜀を鎮めさせ、以て敬瑄に代えようとした。敬瑄は交代を受けず、天子は怒り、顧彦朗・楊守亮に命じてこれを討たせた。時に昭度は王建を牙内都校とし、その部兵を董せしめた。(《鑒戒錄》に云う、昭度は部兵を行府に置く。)王師が功無きに及んで、王建は昭度に謂って曰く、「相公は数万の衆を興し、賊を討って効無く、餉運は交々相属さず。近頃遷洛以来、藩鎮相いぜいみ、朝廷は姑息に暇あらず。蛮方を事とするに労師するよりは、従ってこれを赦し、且つ兵威を以て中原を靖んずるに如かず。これ国の本なり。相公何ぞ朝覲に帰り、主上とこれを画さざる」と。昭度は疑いを抱いて未だ決せず。ある日、王建は密かに軍士に命じて行府の門外で昭度の親吏を擒え、臠切って食わせた。王建は徐に昭度に啓いて曰く、「蓋し軍士の食乏しきが故に、以てここに至るか」と。昭度は大いに懼れ、ここに符節を王建に留め与え、即日東還した。剣門を出るや、王建は即ち兵を厳しくして門を守り、東師を納れなかった。一月余りして、王建は西川管内八州を攻め、至る所で響応し、遂に急いで成都を攻めた。田令孜は城に登り王建に謂って曰く、「老夫と八哥(王建)は相厚く、太師(敬瑄)も久しく知聞している。何の嫌恨があって、かくの如く我を困らすこと甚だしいのか」と。王建は曰く、「軍容父子の恩、心何ぞ敢て忘れんや。但だ天子が兵柄を付し給うは、太師が朝廷より孤絶されたが故である。苟くも太師が心を悉くして図を改められば、何の福かこれに如かん」と。又曰く、「我は八哥と軍中で款を通わさんと欲する。如何」と。王建は曰く、「父子の義、何ぞ嫌うことがあろう」と。この夜、令孜は蜀帥の符印を携えて王建の軍中に入り、王建に授けた。王建は泣いて謝して曰く、「太師の初心は過ぎて、以て今日相い戾るに至った。既に此の推心あれば、一切旧の如し」と。翌日、敬瑄は関を啓いて王建を迎え、蜀帥を以てこれを譲った。王建は乃ち自ら留後を称し、表を上ってその事を陳じた。明年の春、制を以て検校太傅・成都尹・西川節度副大使知節度事・管内観察処置・雲南八国招撫等使を授けられた。時に龍紀元年である。敬瑄を雅州に移して安置し、なおその子を刺史とした。既に行くと、王建は人に命じてこれを路で殺させた。令孜はなお旧の如く監軍事であった。数ヶ月後、ある者が令孜が鳳翔と書問を通じていると告げたので、獄に下して餓死させた。(《蜀梼杌》に云う、「敬瑄は廃処して雅州に置き、その子を刺史とした。既に行くと、王建は三江にて殺すことを遣わした。令孜はなおその軍を監し、復た令孜が陰に鳳翔に附くを以て、獄に下して餓死させた。)

建雄は猜疑心が強く機略に富み、その意図は常に測り難く、蜀の地を有するに及び、更に東川を窺うことを欲したが、また彦朗とは婚姻の旧誼があるため、未だ実行に移さなかった。会うこと彦朗が卒し、弟の彦暉が代わって梓州の帥となると、交情は次第に疎遠となった。李茂貞はその隙に乗じ、密かに彦暉を誘い、これにより茂貞と連盟し、関所の徴税や辺境の官吏の間で、蜀人と得失を争った。大順の末、建は軍を出して梓州を攻め、彦暉は鳳翔に救援を求めた。李茂貞が軍を出してこれを援け、建は即座に包囲を解き、ここより秦・川の交わりは悪化すること数年に及んだ。後に建は大いに蜀軍を起こし、利州において岐・梓の兵を破り、彦暉は恐れて和を乞い、岐人との絶交を請うたので、これを許した。景福の中、山南の軍が東川を寇すと、彦暉は建に救援を求め、建は出兵してこれに赴き、大いに興元の軍勢を破った。軍が帰還するに及び、建は虚に乗じて急襲し梓州を陥とし、彦暉を捕らえて成都に置き、遂に両川を併有し、ここより軍鋒はますます盛んとなった。天復の初め、李茂貞・韓全誨が車駕を劫して鳳翔に遷し、梁祖が包囲攻撃すること数年に及んだ。建は外には汴と修好し、茂貞の罪状を指弾しながら、また密かに茂貞と間使を往来させ、且つ堅壁して和することなかれと言い、出師して救援に赴くことを約し、これに因って諸軍を分命して興元を攻め取らせた。梁祖が包囲を解くに及ぶまでに、茂貞の山南諸州は全て建の所有となり、自ら守将を置いた。茂貞が翼を垂れ、天子が雒陽に遷ると、建は更に茂貞の秦・隴等の州を攻め、茂貞は弱体化して守ることができなかった。或る者が建に鳳翔を取るべきを勧めたが、建は言う、「この言は失策である。吾が得たる所は既に多く、岐下を更に増やすを俟たず。茂貞は常才ではあるが、然れども名望は宿素であり、朱公と力を争うには足らず、境を守るには余りある。韓生の所謂、入っては扞蔽となり、出ては席藉となるがこれである。適宜に援けてこれを固め、吾が盾鹵とすべきのみ。」と。梁祖が強いて禅譲を謀ろうとするに及び、建は諸藩と共に興復を謀り、乃ちその将康晏に命じて兵三万を率い鳳翔に会せしめ、数度にわたり汴将王重師と戦うも、利あらずして還った。趙匡凝が荊・襄を失うと、弟の匡明はその幹を以て蜀に奔り、建はこれにより夔・峽・忠・万等の州を得た。梁祖が開国するに及び、蜀人は建に劉備の故事を行わんことを請うた。建は成都において自ら帝位に即き、元号を永平と改めた。五年、元号を通正と改む。この年の冬、元号を天漢と改め、また光天と改む。在位十二年、年七十二。子の衍が嗣ぐ。

建の幼子 衍

衍は、建の幼子である。建が卒すと、衍が偽位を襲い、元号を乾德と改めた。六年十二月、明年を咸康と改むと定めた。秋九月、衍はその母・徐妃を奉じて共に青城山に遊び、上清宮に駐った。時に宮人は皆道服を衣、金蓮花の冠を頂き、衣には雲霞を画き、望むに神仙の若く、宴に侍するに及び、酒酣に至れば、皆冠を免じて退き、則ちその髻は髽然たり。また怡神亭を構え、佞臣の韓昭等を狎客とし、婦人を交え、以て荒宴を恣にし、或いは旦より暮に至り、燭を継いだ。偽の嘉王宗寿が宴に侍し、因って社稷国政を言上し、言を発すれば涕を流し、再三に及んだ。同宴の佞臣潘在迎等は並びに衍に奏して云う、「嘉王は酒悲を好む。」と。因って翻って諧謔を恣にし、笑いを取って罷む。ここより忠正の臣は舌を結ぶこととなった。

時に中国は多事であり、衍は以て自安を得た。唐の荘宗が梁を平らげ、使者を遣わして蜀に告捷すると、蜀人は恟懼し、礼を致して復命し、「大蜀国主、書を致して上る大唐皇帝に」と称し、言葉の道理は稍々抗うところがあり、荘宗はこれを容れることができず、客省使李厳を遣わして報聘させ、且つ宮中の珍玩を市わんとしたが、蜀人は皆禁じて出さなかった。衍は既に沖呆であり、軍国の政は、皆人に委ねた。王宗弼という者あり、六軍使となり、外任を総べ、宋光嗣という者あり、枢密使となり、内任を総べた。李厳が蜀に至るに及び、光嗣等は曲宴を設け、因って中国の近事を言うと、厳もまた近事を引き以てこれを折り、語は厳伝にある。光嗣等は厳の弁対を聞き、畏れてこれを奇とした。李厳が使節として還り、荘宗に奏して曰く、「王衍は呆童に過ぎず、宗弼等がその兵権を総べ、ただ家財を益すのみで民事を恤れず、君臣上下、ただ窮奢を務む。その旧勲故老は棄てて任ぜず、蛮蜓蜑の人は痛み深く瘡痏の如し。臣の料るに、大兵一たび臨めば、風を見て瓦解すべし。」と。荘宗は深くこれを然りとし、遂に兵を蒐め馬を括り、蜀を平らげるの志を有した。唐師の未だ起こらざる時、偽の東川節度使宋承葆が衍に計を献じて云う、「唐国は兵強く、早く謀り為さざれば、後将に焉くにか救わん。請う、嘉州に於いて江沿いに戦艦五百艘を造り、水軍五千を募り、江を下り峽を出で、臣は東師を以て襄・鄧より出で、水陸俱に進み、東北の辺に沿い、厳兵して険に拠らん。南師は江陵より出で、利あれば則ち進取し、然らずば退きて硤口を保たん。また三蜀のぎょう壮三万を選び、急ぎ岐・雍を攻め、東は河・潼を拠り、北は契丹を招き、美利を以て啖い、見る可き有れば則ち進み、然らずば散関を拠り以て吾が圉を固めん。事たとえ捷たずとも、亦た敵人の心を攻むるなり。」と。衍は従わなかった。

唐の同光三年九月十日、荘宗は蜀を討つ制を下し、興聖宮使魏王継岌を都統とし、枢密使郭崇韜を行営都招討に任じた。その月十八日、魏王は闕下の諸軍を統率して洛陽らくようを出発した。十一月二十一日、魏王は徳陽に至ると、王衍より『近く将校と謀りて国に帰らんとす。偽枢密使宋光嗣・景潤澄、南北院宣徽使李周輅・欧陽晃の四人は異謀を以て人心を惑わし、臣各すでに処斬し、今首級を送納す』との報があった。この日、王衍は上表して曰く、『臣衍が先人王建は、久しく坤維(蜀地)に在り、先朝の寵沢を受け、一たび土宇を開きてより将に四十年。頃者、梁の孽(朱全忠)災を興し、洪図(天下)版蕩す。逆を助くるべからず、遂に乃ち権に従い、衆情に勉いて徇い、三旬(三十年)に止めて王たり。固より已むを得ざる所にして、帰する所未だ有らず。臣輒すなわち鎡基(基業)を紹ぎ、且く生聚(人民)を安んず。臣衍誠に惶懼恐縮す。伏して惟うに、皇帝陛下は堯・舜の業を嗣ぎ、湯・武の師をる。寰区を廓定し、兇逆を削平し、梯航(遠国の使者)すでに集まり、文軌混同す。臣方に改図を議し、便ち期してまことを納れんとす。遽かに王師の致討するを聞き、実に驚危を抱く。今すなわち千里の封疆をり、尽く王土と為さんことを冀い、万家の臣妾、皆皇恩をかんことを冀う。必ず当に輿櫬(棺を車に載せる)して降を乞い、荊を負いて命を請わん。伏して惟うに、皇帝陛下は照臨のみわざめぐらし、覆幬おおいかくすの仁を施し、別に哀矜を示し、以て反側(動揺する者)を安んぜられんことを。もし墳塋(先祖の墓)にして祀りを得ば、実に存没(生きている者も死んだ者も)して帰する所を知らん。臣恩を望みて虔祷するの至りに任せず。乙酉年十一月日、臣王衍上表す』と。その月二十七日、魏王は成都北五里の升仙橋に至る。偽百官は橋下に班列し、王衍は行輿(腰輿)に乗って至り、素衣に白馬、羊を牽き、草索を以て首に係ぎ、面縛して璧をふくみ、輿櫬(棺を車に載せる)を後ろにす。魏王は下馬してその璧を受け、崇韜はその縛を解き、及びその櫬をく。王衍は偽百官を率いて東北に向かって舞蹈し謝恩す。礼畢りて拝す。魏王・崇韜・李嚴皆答拝す。二十八日、王師は成都に入る。師を起こしてより蜀城に入るまで、凡そ七十五日。(案:以下原本残闕。『欧陽史』に拠れば、同光四年、王衍は秦川駅に行き至り、荘宗は伶人景進の計を用い、宦者向延嗣を遣わしてその族を誅す。天成二年、王衍を順正公に封じ、諸侯の礼を以て葬る。『五代史補』:王建が許下に在りし時、尤も不逞にて、嘗て事に坐して徒(徒刑)に遭う。但だ杖痕無きのみ。及び蜀を拠るに及び、馬涓をして従事と為すを得たり。涓は詆訐そしるを好む。建は譏られんことを恐れ、因りて問うて曰く、『窃かに外議を聞く、吾が嘗て徒刑に遭えりと。之あるか』と。涓対えて曰く、『之あり』と。建は杖痕無きを恃み、且つ衆に対するに因り、背を袒いて以て涓に示し曰く、『請う、足下試みに見よ。杖責に遭いて肌肉かくの如き者有りや』と。涓その詐りを知り、乃ち背を撫でて嘆じて曰く、『大奇なり、当時何の処にか此の好膏薬を得たる』と。賓佐皆色を失う。而して涓晏然たり。王建の僭号するや、惟だ翰林学士最も恩顧を承く。侍臣或いはその礼過ぐるを諫む。建曰く、『蓋し汝輩未だ之を見ざるなり。且つ吾が神策軍に在りし時、内門の魚鑰を主り、唐朝諸帝の翰林学士を待つを見るに、交友と雖も若かず。今我が恩顧、当時に比すれば纔かに百分の一のみ。何を以て過当と謂うや』と。論者多く之を称す。杜光庭は長安の人、『九経』の挙に応じて第せず。時に長安に潘尊師と号する者有り、道術甚だ高く、僖宗の重んずる所。光庭素より希慕する所、数えその門に遊ぶ。僖宗の蜀に幸するに当たり、蜀中の道門の牢落(衰微)なるを観、名士を得て以て之を主張せんことを思う。駕回り、潘尊師を詔して両街に使いしめ、その可き者を求めしむ。尊師奏して曰く、『臣両街の衆を観るに、道聴途説、一時の俊は即ちこれ有れども、掌教の士に至りては、恐らく未だ聖旨に応ずるに合わず。臣科場中に『九経』杜光庭を識る。その人性簡にして気清く、量寛にして識遠し。且つ風塵に困し、名利を脱屣せんことを思うこと久し。臣の愚思うに、光庭に非ざれば不可なり』と。僖宗詔して之を問う。一見して大いに悦び、遂に披戴(道士となる)せしめ、なお紫衣を賜い、号して広成先生と曰う。即日馳驛して之を遣わす。及び王建蜀を拠るに及び、之を待つこと愈厚く、又号して天師と為す。光庭嘗て『道』『徳』二経の註する者多けれども、皆未だ能くその旨を演暢せず。因りて『広成義』八十巻を著し、他の術もこれに称す。識者多く之を称す。)

孟知祥

孟知祥、字は保裔、邢州龍岡の人なり。祖父は察、父は道、世々郡校と為る。伯父方立は、邢洺節度使に終わり、従父遷は、位は澤潞節度使に至る。知祥は後唐荘宗同光三年に、西川節度副大使を授かり、節度事を知る。天成年中、安重誨権を専らにし事を用う。知祥は荘宗の旧識にして、方に大藩を拠るを以て、久しくして制し難からんことを慮り、潜かに之を図らんと欲す。是の時、客省使李嚴は嘗て蜀に使いし、その利柄を洞く知るに因り、謀を重誨に献じ、請うて己を以て西川監軍と為し、こいねがわくは方略をならい、以て知祥を制せんと。朝廷之を可とす。及び李嚴蜀に至るや、知祥は延接甚だ至れり。おもむろに李嚴に謂いて曰く、『都監は前に因りて使を奉じ、兵を請うて蜀を伐ち、遂に東・西両川をして俱に破滅に至らしむ。川中の人の、その怨み已に深し。今既に復た来る。人情大いに駭く。固より奉ずるに暇あらざるなり』(案:此の句舛誤有るを疑う)。即ち人を遣わして階より引き下ろし、階前において斬る。(『欧陽史』に云う、李嚴境上に至り、人を遣わして書を持ちて知祥を候わしむ。知祥は盛んに兵して之を見せ、こいねがわくは李嚴懼れて来らざらんことを。李嚴之を聞きて自若たり。天成二年正月、李嚴成都に至る。知祥は酒を置きて李嚴を召し、因りて李嚴を責めて曰く、『今諸方鎮は已に監軍を罷む。公何ぞ得来る』と。『鑒戒録』に云う、李嚴は天成初に復た来り臨護す。孟祖(知祥)之に礼分を加え、従容としてその五罪を数え、命じて剣を以て之を斬る。『薛史』と異なる。)その後、朝廷剣南の牧守を除する毎に、皆兵を提げて往かしめ、或いは千或いは百、郡城を分守せしむ。時に董璋は東川に鎮としてたちること已に数年、亦た雄拠の意有り。たまたま朝廷夏魯奇をして遂州に鎮せしめ、李仁矩をして閬州に鎮せしむ。皆兵数千人を領して鎮に赴き、復た密旨を授け、両川を制禦せしむ。董璋之を覚り、乃ち知祥と通好し、婚家を結び、以て輔車の勢を固む。知祥は唐軍のにわかに至り、遂・閬の兵と合すれば、則ち勢支吾もちこたえる可からざるを慮り、遂に董璋と協謀し、董璋をして本部の軍を以て先ず閬州を取らしめ、知祥は大将軍李仁罕・趙廷隱を遣わし軍を率いて遂州を囲ます。長興元年冬、唐軍蜀を伐ち、剣門に至る。二年、遂・閬既に陥ち、又糧運接せずを以て、乃ち師を班す。三年、知祥は又董璋を破り、乃ち自ら東・西両川節度使を領す。応順元年、剣南東両川節度使を以て、蜀に於いて帝を称し、元を明德と改む。七月卒す。年六十一。(案:『孟知祥伝』、『永楽大典』原闕。今『冊府元亀』僭偽部を采り以て梗概を存す。)

知祥第三子 昶

昶は、知祥の第三子である。(『宋朝事實』に云う、昶は初名を仁贊と為す。『揮麈餘話』に云う、昶は字を保元と為す。)母の李氏は、元は荘宗の嬪御であり、知祥に賜わったものである。唐天祐十六年、歳は己卯に在り、十一月十四日、昶を太原にて生む。知祥が蜀を鎮むるに及び、昶は其の母と共に知祥の妻瓊華長公主に従い、蜀に入る。知祥が僭号し、偽に皇太子と冊す。知祥卒し、遂に其の偽位を襲ぐ、時に年十六、尚ほ明徳元年と称す。偽明徳四年の冬に及び、偽に詔して明年を改めて広政元年と為す、是の歳は即ち晋の天福三年なり。偽広政十三年、偽に尊号を上りて睿文英武仁聖明孝皇帝と為す。皇朝乾徳三年の春、王師蜀を平らげ、詔して昶に族を挙げて闕に赴かしめ、京師に甲第を賜い、其の臣下に賜い賫すること甚だ厚く、尋いで冊封して楚王と為す。是の歳の秋、東京にて卒す、時に年四十七、事は皇家の日暦に具はる。知祥が同光二年丙戌の歳に蜀に入りてより、父子相継ぎ、凡そ四十年にして亡ぶ。(『五代史補』、孟知祥の蜀に入るや、其の険固を視て、陰に割拠の志有り。成都に抵るに及び、夕に値ひ、且つ郊外に憩ふ。小車子を推して過ぐる者有り、其の物皆袋を以て盛る、知祥見て問ひて曰く、「汝が車の勝つ所幾袋ぞ。」推す者曰く、「極力して両袋に過ぎず。」知祥之を悪む、後果たして両代にして亡ぶ。知祥は董璋と隙有り、兵を挙げて之を討つ。璋は素より勇悍なり、知祥の来るを聞き、死を送るものと為す。諸将両端す、李鎬は知祥の判官と為り、深く之を憂ふ。将に戦はんとす、知祥は閑暇を示さむと欲し、自ら一書を写して以て董璋に遺す。何ぞ、筆を挙ぐるや輒ち誤りて「董」を「重」と書す、久しく悦ばず。鎬側に在りて大いに喜び、且つ諸将を引きて馬前に賀す、知祥測らず、曰く、「事未だ測るべからず、何ぞ賀すや。」鎬曰く、「其の『董』の字は『艹』の下に『重』を施す。今大王『艹』を去りて『重』を書くは是れ『董』已に頭無きなり、此れ必勝の兆なり。」是に於て三軍欣然とし、一戦にして董璋敗る。)

史臣曰く

史臣曰く、昔張孟陽が『剣閣銘』を作りて云ふ、「惟だ蜀の門は、固と作り鎮と作り、世濁れば則ち逆ひ、道清ければ斯に順ふ。」是れ知る、古より坤維の地は、乱代に遇へば則ち之を閉ぢて通ぜず、興運に逢へば則ち之を取ること俯拾の如し。然れども唐氏の蜀に入るや、兵力勝れども、帝道猶ほ昏し、故に数年間之を得て復た失ふ。皇上の蜀を平らぐるに及び、之に堯の日を以て煦し、之に舜の風を以て和す、故に比戸の民、悦びて化に従ふ。且つ夫れ王衍の季世に遭へるや、則ち赤族す秦川に於て、孟昶の明代に遇へるや、則ち封を受く楚甸に於て。倶に亡国の主と為るも、何ぞ幸と不幸の相去ること遠きや。