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舊五代史
周書十二: 后妃列傳一
后妃列傳
太祖聖穆皇后柴氏は、邢州龍崗の人で、代々豪族の家柄である。太祖が微賤の頃、洛陽にて后の賢淑なることを聞き、遂に聘して娶った。(《東都事略·張永德傳》に云う:周太祖の柴后は、もと唐の莊宗の嬪御であった。莊宗が崩ずると、明宗がその家に帰すことを許し、河上まで行き、父母が迎えに出たが、大風雨に遭い、数日間旅館に留まった。ある一人の男がその門前を通り過ぎたが、衣服は破れて身を覆うこともできない。后はこれを見て驚き、「これは何者か」と問うた。旅館の主人が言うには、「これは馬歩軍使の郭雀児という者です」と。后はこの人を異とし、嫁ぎたいと願い、父母に請うた。父母は怒って言うには、「お前は帝の側近であった者で、帰って来れば節度使に嫁ぐべきなのに、どうしてこの者に嫁ごうとするのか」と。后は言うには、「これは貴人です。逃してはなりません。袋の中の装飾品を半分父母に分け与え、私はその半分を取ります」と。父母はどうすることもできないと知り、遂に旅館の中で婚礼を挙げた。いわゆる郭雀児とは、即ち周太祖である。)太祖は壮年の頃、酒を好み博奕を好み、任侠を喜び、細かい行いには拘らなかったが、后はその行き過ぎを諫め、常に内助の力を尽くした。世宗皇帝は即ち后の甥である。幼くして謹み深く、后は大いにこれを憐れみ、故に太祖が養って己が子とした。太祖がかつて寝ていた時、后は五色の小蛇がその頬と鼻の間に入るのを見て、心に異とし、必ず貴くなることを知り、敬い仕えることますます厚くしたが、貴くなる前に世を去った。太祖が即位すると、詔を下して言うには、「義の深きは配偶となるに先んずるものなく、礼の重きは追尊するより大なるは莫し。朕が位にあって思いを載せ、存するを撫で旧きを懐かしむ。河洲の令徳は、なお荇菜の詩を伝え、媯汭の大名は、珩璜の貴に及ばず。副笄の礼を盛んにし、以て求剣の情を伸べん。故夫人柴氏は、代々に芳を遺し、湘霊慶を集む。柔儀を体して闕翟を陳べ、芬は椒蘭の若く、貞操を持して中珰に選ばれ、誉は図史に光る。懿範なお閨閫に留まり、昌言は箴規を助く有り。深く惟うに望気の艱、弥に嘆くに蔵舟の速、将に宝祚を開かんとし、俄かに璧台に謝す。宜しく号を軒宮に正し、俾くは坤象に潜耀せしむべし。追命して皇后と為すべし。仍って所司に謚を定め、礼を備え冊命せしむべし」と。既にして有司が謚を上ること聖穆と曰う。顕徳初年、太祖の神主が廟に入ると、后を以てその室に合祀した。
淑妃楊氏は、鎮州真定の人である。父は洪裕、真定少尹であった。(《東都事略·楊廷璋傳》に云う:父の宏裕は、若い頃貂裘陂で漁をしていたが、二羽の石の雁を授ける者があった。その翼は一羽は左を掩い、一羽は右を掩い、「我は北嶽の使いなり」と言い終わると、何処へともなく去った。この年に女児が生まれ、周太祖の淑妃となり、翌年に廷璋が生まれた。)河朔三鎮が全盛の時、その所属する封疆は守帥によって制せられ、故に美しい容姿の媛女は皆王宮に選ばれた。妃は幼くして良家の子として選ばれ、趙王王鎔に仕えた。張文礼の乱に、妃は外に流離した。唐の明宗が藩鎮にあった時、その遺逸を録した。安重誨が妃の家を保庇し、その仕進を致し、父母は即ち妃を郷人の石光輔に嫁がせたが、数年も経たずに寡居した。太祖が漢を輔佐する初め、聖穆皇后が世を去ったことに属し、妃の賢なることを聞き、遂に礼を以てこれを聘した。《宋史·楊廷璋傳》:姉が京師に寡居しており、周祖が微賤の時これを聘わんとしたが、姉は従わなかった。媒氏に言わせて恐喝させると、姉は廷璋に告げた。廷璋が周祖に会いに行き、帰って姉に言うには、「この人は姿貌並びなく、拒むべからず」と。姉は乃ち従った。)妃は族を睦まじくし孤を撫で、家を宜しくし内助し、甚だ力有りき。晋の天福末年、太原にて卒し、因って晋の郊外に留め葬られた。広順元年九月、追冊して淑妃とした。太祖は凡そ一后三妃有り、嵩陵に就いて掩うるに及び、皆陪祔を議した。時に妃の喪が賊の境内に在るを以て、未だ遷窆に及ばず、世宗は乃ち有司に詔して嵩陵の側に、予め一つの冢を営みて以てこれを虚しくし、賊が平らぐを俟って即ち襄事を議せしめた。顕徳元年夏、世宗が河東を征し、果たして素志を成し遂げた。
妃の兄の廷璋は、早くより太祖に仕え、即位後累ねて内職を歴任し、出て晋州節度使となった。皇朝が運を撫で、邢州に移鎮し、又鄜州に改め、代を受けて帰闕し、私第にて卒した。
貴妃張氏は、恒州真定の人である。祖父は記、成徳軍節度判官・検校兵部尚書。父は同芝、本州の諮呈官・検校工部尚書で、趙王王鎔に仕え、中要の職を歴任した。天祐末年、趙の将張文礼が王鎔を殺し、鎮州を以て梁に帰した。莊宗が将の符存審に命じて討ち平らげた。時に妃は年尚幼く、幽州の偏将武従諫という者が、家に駐騑し、妃の美しい容姿を見て、乃ちその子の聘とした。武氏の家は太原に在った。太祖が漢祖に従って并門に鎮するに属し、楊夫人が疾を以て終わり、間もなく武氏の子が卒した。太祖は素より妃の賢なることを聞き、遂に納れて継室とした。太祖が貴くなり、累封して呉国夫人に至った。漢の隠帝の末、蕭牆の変起こり、大臣を屠害し、太祖は鄴都にて讒せられ、妃は諸皇属と同日に東京の旧第にて遇害された。太祖が践祚し、追冊して貴妃とし、哀悼の意を表した。故に世宗に起復の命有りき。世宗が嗣位し、太祖の旧宅即ち妃の禍に遇った地を以て、因って僧院に施し、皇建を以て名とした。
徳妃董氏は、常山霊寿の人である。祖父は文広、唐の深州録事参軍。父は光嗣、趙州昭慶尉。妃は孩提にして穎悟、言を始めて聴き、絲管に按じて其の声を弁ずる能くした。年七歳、鎮州の乱に遇い、親党は羈離し、妃と相失した。潞州の牙将がこれを得て、褚の中に匿した。その妻は息女を育てず、妃を得てこれを憐れみ、生んだ所の者よりも過ぎ、姆教師箴、功容克く備わった。妃の家は悲しみ思い、その兄の瑀が諸処に求訪し、垂ること六七年。後に潞将が朝に入官するに及び、妃の郷親に頗る知る者有り、瑀が潞将に会い、欣んでこれを帰した。時に年十三。妃が帰ってより一年余り、里人劉進超の妻に嫁いだ。進超は内職にあり、契丹が晋を破った歳に及び、蕃に陥りて歿し、妃は洛陽に寡居した。太祖の楊淑妃は妃と郷親であり、平居恒に妃の賢徳を言った。太祖が漢祖に従って洛に幸するに及び、因って淑妃の言を思い出し、尋ねて礼を以てこれを納れた。鼎命初めて建つに及び、張貴妃が禍に遇い、中宮虚位なり、乃ち冊して徳妃とした。太祖は聖穆皇后が早世して以来屡々邦媛を失い、中幃の内助は惟だ妃存するのみであり、加うるに珮を結び簪を脱ぐこと、令範に率由した。広順三年夏、疾に遇い、医薬の際、太祖の兗海の征に属し、車駕将に行かんとす。妃奏して言うには、「正に暑毒に当たり、陛下を労して省巡せしめ、明発宵征、人を須いて供侍す。司簿已下の事を典する者、各已に処分して従行す」と。太祖曰く、「妃の疾未だ平らず、数え診視を令す。この行は近し、内人を繁くす無かれ」と。太祖が魯中に駐蹕するに及び、妃は志して内人をして進侍せしめんと欲し、中使を発して往来しこれを言わしめた。太祖は手敕して鄭仁誨に曰く、「切に慮うに徳妃、朕の兗州行営に至るを以て、内人の承侍を津置せんと。縁るに諸軍野に在り、自ら安んずべからず。鄭仁誨に令して専心体候せしむ。もし徳妃内人の東来を津置せば、便ち須らく上聞して約住し、或いは鞍馬を取索せば、供応すべからず。もし意堅確ならば、即ち手敕を以てこれを示せ」と。既にして兗州を平定し、車駕還京す。妃の疾減ること無く、俄かに大内にて卒す。時に年三十九。朝を輟むこと三日。
妃の長兄の瑀は、左賛善大夫を以て致仕し、仲兄の元之、季兄の自明は、皆累ねて郡守を歴任す。
世宗の貞惠皇后劉氏は、将家の女なり、幼くして世宗に帰す。漢の乾祐中、世宗は西班に在りし時、後は始めて彭城県君に封ぜらる。世宗が太祖に従ひて鄴に在りし時、後は邸第に留まり居る。漢末、李業等乱を起こし、後は貴妃張氏及び諸皇族と同日に禍に遇ふ。国初、追封して彭城郡夫人と為す。顕徳四年夏四月、追冊して皇后と為し、謚して貞惠と曰ひ、陵を恵陵と曰ふ。
宣懿皇后符氏、祖は存審、後唐の武皇・荘宗に事へ、位将相に極まり、追封して秦王と為す。父は彦卿、天雄軍節度使、魏王に封ぜらる。後は初め李守貞の子崇訓に適す。漢の乾祐中、守貞河中に叛き、太祖兵を以て之を攻む。城陥つるに及び、崇訓自ら其の弟妹を刃し、次いで将に後に及ばんとす。後時に屏処に匿れ、帷箔を以て自ら蔽ふ。崇訓倉黄として後を求むるも及ばず、遂に自刎す。後因りて免るることを獲たり。太祖河中に入り、人をして訪はしめて之を得、即ち女使を遣はして其の父に送る。是より後常に太祖の大恵を感し、太祖を拝して養父と為す。世宗澶淵を鎮むる日、太祖世宗の為に之を聘す。後性温和にして、善く世宗の旨に候ひ、世宗或ひは下に暴怒するも、後必ず従容として救解し、世宗甚だ之を重んず。即位に及び、冊して皇后と為す。世宗将に南征せんとす。後常に諫めて之を止め、言甚だ切直なり。世宗亦之が為に動容す。車駕淮甸に駐まるに洎り、久しく炎暑を冒す。後因りて憂恚して疾を成す。顕徳二年七月二十一日、滋徳殿に崩ず。時に年二十有六。世宗甚だ之を悼む。既にして有司謚を上りて宣懿と曰ふ。新鄭に葬り、陵を懿陵と曰ふ。
【論】
史臣曰く、周室の后妃凡そ六人にして、追冊する者四、故に中閨内則、罕に聞くを得るも、惟だ董妃・符後の懿範は、亦彤管に愧ぢざるなり。