舊五代史

唐書四十一: 列傳十七 李建及 石君立 高行珪 張廷裕 王思同 索自通

李建及は許州の人である。本姓は王、父は質。建及は若くして李罕之に仕えて紀綱となり、光啓年間に、罕之が武皇に謁見するため晉陽に赴いた際、部下のぎょう勇なる者百人を選んで献上し、建及はその籍にあった。後に功により牙職に任じられ、義兒軍を管轄し、姓名を賜った。天祐七年、匡衛軍都校に改める。柏鄉の役に、汴將韓が周德威を追って高邑南の野河上に至り、鎮・定の兵が橋道を扼した。韓は精兵を選んで先ずこれを奪わんとした。莊宗が高みに登って望むと、鎮・定の兵が敗れんとしているのを見て、建及に言うには、「賊が橋を渡れば、その勢いを止めることはできぬ。卿の計略はどうか」と。建及は部中より士二百を選び、挺槍して大いに喚き、汴軍を防ぎ、橋下にこれを退けた。二月、王師が魏を攻めると、魏人が夜に出て我が営を犯した。建及は伏兵を設けてこれを待ち、その帰路を扼し、ことごとく殪した。劉鄩が莘縣に営を張り、月余り出でず、ある日突然兵を放って鎮・定の営を攻めた。軍中は騒然となり、建及は銀槍勁兵千人を率いてこれに赴き、汴軍を撃破し、その塁まで追撃した。元城の戦いでは、建及が先陣を突き、天雄軍教練使を授けられた。八月、遼州刺史に遷る。十四年、幽州において契丹を撃つに従い、これを破った。十二月、楊劉を攻めるに従い、寅より午に至るまで、汴軍は城に拠って守りを固めた。建及自ら葭葦を背負って塹を埋め、率先して梯を登り、ついにこれを陥落させた。胡柳の役では、前軍が逗留し、夕方に汴軍が土山に登った。建及は一戦にしてこれを奪った。莊宗が軍を収め、明朝に合戦しようとしたとき、建及は槊を横たえて前に立ち、「賊の大将は既に亡び、この機に乗じて撃つは易し。王はただ山に登り、臣が賊を破るを見給え」と言い、即ち銀槍效節を引き連れ、大呼して奮撃し、三軍の気勢を増した。これにより王師は再び振るい、功により檢校司空しくう・魏博內外衙都將を授けられた。

十六年、汴將賀瑰が德勝南城を攻め、戦船十余艘をもって竹笮で繋ぎ、津路を扼断し、王師の渡河を許さなかった。城中の矢石が尽きんとし、守城將氏延賞が危急に陥った。莊宗は軍門に帛を積み、賊船を破る者を募った。津人に馬破龍という者がおり、水泳に長けていたので、延賞のもとに遣わした。延賞は言うには、「危急極まり、争うは刻一刻である」と。当時、棹船は河に満ち、流れ矢が雨の如く降り注いだ。建及は重鎧を着け、槊を執って呼んで言うには、「一衣帯水の間にあって、かくも賊を放つことがあろうか」と。そこで二艘の船に甲士を満載し、皆短兵を持ち斧を携え、直ちに梁の戦艦に迫り、その笮を斧で断った。また上流に甕を備えさせ、その上に薪を積み、順流に火を放ってその艦を攻めた。須臾のうちに煙焰が燃え上がり、梁軍は纜を断って遁走した。建及は南城に入り、賀瑰は包囲を解いて去った。その年十二月、汴將王瓚と戚城で戦い、建及は手を傷つけた。莊宗は御衣金帯を解いてこれを賜った。

建及は胆気あり、慷慨にして衆に優れ、陣に臨んで兵を励ますや、意気横溢壮烈であった。莊宗が魏州に至って以来、建及は内外衙銀槍效節帳前親軍を総べ、撫禦に長け、得た賞賜はすべて部下に分け与え、甘きを絶ち少きを分かち、軍情に大いに和した。また累ねて戦功を立て、雄勇は群を抜き、劣る者らはこれを嫉み讒した。時に宦官韋令圖が建及の軍を監し、しばしば莊宗の前で言うには、「建及は家財を急に施すが、その志向は小さからず、衙兵を管轄させるべきではない」と。莊宗はこれにより猜疑を抱いた。建及の性質は忠藎であり、讒構を知りながらも、その操を改めなかった。

十七年三月、代州刺史を授かる。八月、李存審とともに河中に赴き、同州の包囲を解いた。建及は若くして禍乱に遭い、久しく戦陣に従い、矢石に中たる所、肌に完膚なく、後に功ありながら疑われ、私心憤鬱であった。この歳、太原にて卒す。時に五十七歳。

石君立は趙州昭慶の人である。また石家財とも称された。初め代州刺史李克柔に仕え、後に李嗣昭に隷して牙校となり、諸軍を歴任した。夾城の役では、君立はしばしば出でて挑戦し、汴軍の柵塁を破り、俘擒して還った。八年、汴軍と龍化園で戦い、これを破り、その大将卜渥を獲て献上した。嗣昭は出征するごとに、君立を前鋒とし、敵はこれを畏れた。王檀が晉陽を逼ったとき、城中に備えなく、安金全が市人を駆り立てて城壁に登らせたが、守りは完備しなかった。時に莊宗は魏博にあり、救応の暇なく、人心は危惧した。嗣昭は君立に五百騎を率いさせ、上黨より朝発して暮に至らせた。王檀の遊軍が汾橋を扼したが、君立は一戦にしてこれを破り、直ちに城下に至り、馳突斬撃し、出入り神の如く、大呼して言うには、「昭義侍中の大軍至れり」と。この夜、城に入り、安金全らとともに諸門より分かれて出撃し、外で撃殺した。夜明けに、梁軍は敗走した。十七年、兵を率いて德勝に駐屯した。時に汴軍は滑州より糧秣を転送して楊村寨に供給していた。莊宗は親ら騎軍を率いて河外にて、岸に沿って上り、邀撃した。汴人は楊村より五十里の地点、河曲の潘張村に塁を築いて軍儲を貯えていた。莊宗は諸軍にこれを攻めさせた。汴人は要路に伏兵を設け、逆戦して偽りに敗れ、王師がこれに乗じて塁門に迫ると、梁の伏兵が起こり、血戦となった。君立は鎮州の大将王釗とともに賊塁に陥った。時に諸將部校で賊に陥った者は十余人、君立は捕らえられ、汴に送られた。梁祖はかねてよりその驍勇を知り、将として用いんとしたが、械して獄に下した。久しくして、梁主は人を遣わして誘った。君立は言うには、「敗軍の将、勇を議するに難し。もし我を用いんと欲するならば、我は真誠を以て命を效すとも、我を信じるであろうか。人皆君あり、我何ぞ忍びて反って仇人とならんや」と。やがて諸将は誅戮されたが、君立を惜しんで害さなかった。同光元年、莊宗が汴に至る前日、梁主はようやくこれを殺すことを命じた。

高行珪は燕の人である。家世勇悍で、弟の行周とともに武藝あり、初め燕に仕えて騎将となり、驍果は諸将の右に出た。燕帥劉守光が僭逆不道であったので、莊宗は周德威にこれを征討させた。守光は大いに懼れ、行珪を武州刺史とし、犄角の勢いを張らせた。時に明宗が兵を将いて德威を助け燕を平らげようとしていたが、俄かに行珪の来るを聞き、騎兵を率いてこれを防いだ。明宗が逆順の理を諭すと、行珪は降った。守光の将元行欽は山北におり、行珪に変ありと聞き、即ち部下の軍衆を率いて行珪を攻めた。行珪は弟の行周を遣わして周德威に急を告げ、德威は明宗・李嗣本・安金全に兵を将いてこれを援けさせた。明宗は広辺軍において行欽を破り、行欽もまた降った。まもなく行珪を朔州刺史とし、忻・嵐の二郡を歴任し、雲州留後に遷る。天成初年、鄧州節度使を授かり、まもなく安州に移鎮した。行珪は性貪鄙で、政を為すに短く、安州にあっては、行うこと多く不法であった。副使の範延策は幽州の人で、性剛直、累ねて賓職を務め、行珪を補佐するに及び、その貪猥なるを見て、強いて諫めたが、行珪は従わなかった。後に延策は入奏の機に因り、封章を闕下に献じ、事三条を述べた。一つは、淮を過ぐる猪羊を禁ぜず、絲綿匹帛を禁じて以て中国を実らせることを請う。一つは、山林の要害に軍鎮を置き、以て寇盗を絶つことを請う。一つは、藩侯の弊を述べ、従事に勅して明らかに諫諍せしめ、従わざれば諸軍校に列班して廷諍せしめることを請う。行珪はこれを聞き、深く恨みを抱いた。後に戍兵の乱に因り、延策がこれと同謀なりと誣奏し、父子ともに汴で誅戮された。聞く者これを冤とした。未だ幾ばくもなく、行珪は疾を以て卒した。詔して太尉を贈られた。

張廷裕は代北の人である。幼くして武皇(李克用)に仕えて雲中にあり、黄巢平定に従い、王行瑜を討ち、行伍の間より次第に昇進して小将となった。荘宗が魏を平定すると、天雄軍左廂馬歩都虞候を補し、蔚・慈・隰の三州刺史を歴任した。同光三年、新州節度使に任ぜられた。塞上は多事であり、廷裕には統制の術がなく、辺境は常に騒然としていた。天成三年、任地で卒去した。詔して太保を追贈された。

王思同は幽州の人である。父の敬柔は、瀛・平・儒・檀・営の五州刺史を歴任した。思同の母は劉仁恭の娘であったため、思同は初め仁恭に仕えて帳下の軍校となった。劉守光が大安山で仁恭を攻撃した際、思同は部下の兵を率いて太原に帰順し、時に十六歳、武皇は彼を飛騰指揮使に命じた。荘宗に従って山東を平定し、諸軍を累ねて統率した。

思同の性質は疎放で才気があり、粗く文才があり、詩作を好んで人と唱和し、自ら薊門戦客と称した。魏王継岌は彼を子の如く遇した。時に内養の呂知柔が興聖宮に侍し、大いに権勢を振るったが、思同はこれを快く思わなかった。呂が終南山の詩を作り、末句に「頭」の字があったので、思同が和して曰く、「料伊直擬衝霄漢、頼有青天圧著頭(彼は真っ直ぐに霄漢を衝かんと企てるだろうが、幸い青天が頭を押さえつけている)。」その為す詩句は皆この類であった。征戦に従う毎に必ず興聖宮の帳下にあったが、同光朝では位は鄭州刺史に止まった。明宗が軍中にあった時より元より彼を知っており、即位後に同州節度使に用い、間もなく隴右に移鎮させた。思同は文士を好み、賢不肖を問わず必ず館舎で接待し贈物を与え、その費用は年に数十万に及んだ。秦州に累年あり、辺民はその恵みを懐き、華戎は安寧であった。長興元年、入朝して中興殿で謁見した。明宗が秦州の辺境の事を問うと、対えて曰く、「秦州は吐蕃と境を接し、蕃部は法度に違うことが多い。臣は方法を設けて招き懐柔し、沿辺に四十余りの寨を置き、その要害を押さえました。蕃人が互市や飲食をする境界では、必ず武器を納めさせます。」因みに手を指して秦州の山川要害の扼する所を描き示した。明宗曰く、「人は思同は事を管轄しないと言うが、どうしてここまで及ぶことがあろうか!」時に両川が叛き、彼を用いようとし、且つ左右に留め置こうとしたため、右武衛将軍を授けた。八月、西南面行営馬歩都虞候を授けられた。九月、京兆尹・西京留守に遷った。しょく征伐の役では先鋒指揮使となった。石敬瑭が大散関に入ると、思同は勇を恃んで先に剣門に入ったが、大軍が続かず、また董璋の兵に追い出された。敬瑭が班師すると、思同はかつて剣門を獲た功績により、山南西道に移鎮した。

三年、両川が交戦すると、明宗は一人に併せ持たれると朝廷が制し難いと慮り、密詔を思同に下して形勢を観察させ、機会に乗じて軍を用いようとしたが、事が行われる前に董璋が敗れた。八月、再び京兆尹兼西京留守となった。時に潞王(李従珂)が鳳翔に鎮しており、その境を隣接していた。潞王が朝旨を奉じず、秦・涇・雍・梁・邠の諸帥に書を送り、言うには、「賊臣が政を乱し、先帝の御病気篤きに付け、秦王を謀害し、嗣君を迎え立て、自ら権柄を擅にして、骨肉を残害し、藩垣を揺るがすに至った。先人の基業が忽ちにして地に墜つるを懼れ、故に心に誓って入朝し、君側を除かんとし、事成った後は病と称して藩に帰らん。然れども藩邸は元より貧しく、兵力共に困窮している。国士に望み、共に急難を済さんことを欲する。」そこで小伶女十人に五弦の技を持たせて思同に謁見させ、歓楽をもって動かそうとし、また軍校の宋審温という者に雍への使者を請わせ、もし従わなければ独力で図ろうとした。また推官の郝昭・府吏の朱延乂に書檄を持たせて起兵させようとした。副部署の薬彦稠が到着し、宴をしている最中に妓女と使者が丁度来たので、これを獄に撃ち込んだ。彦稠は審温を誅し、郝昭を拘束して朝廷に送ることを請うた。時に思同は既にその子を入朝させて事を言上しており、朝廷はこれを嘉し、思同を鳳翔行営都部署とし、扶風に軍営を起こさせた。

三月十四日、張虔釗と岐下で会し、雲梯衝車が大いに集結した。十五日、進軍して東西関城を収めたが、城中の戦備は整っていなかったものの、死力を尽くして防禦し、外兵の傷ついた者は十二三に及んだ。十六日、再びその城を攻撃すると、潞王が城壁に登り泣いて外に向かって諭したので、聞く者はこれを悲しんだ。張虔釗の性質は狭量であり、翌朝、西南で軍を用い、都監と共に血刃を振るって軍士を督励したところ、軍士が一斉に罵り、逆に虔釗を攻撃したので、虔釗は馬を躍らせて避けた。時に羽林指揮使楊思権が軍を率いて西門より先に入城し、思同はこれを知らず、なおも兵士に登城を督励していた。やがて厳衛指揮使尹暉が呼ばわって曰く、「西城の軍は既に城に入り賞を受けた。軍士は甲を解け!」武器を棄てる音が天地を震動させた。正午、乱軍はことごとく集結し、涇州の張従賓・邠州の康福・河中の安彦威は皆遁走した。十七日、思同は薬彦稠・萇従簡と共に長安ちょうあんに至ったが、劉遂雍が関門を閉じて入れず、そこで潼関に奔った。

二十二日、潞王が昭応に至ると、前鋒が思同を捕らえて献上した。王は左右に謂って曰く、「思同は事に計を誤ったが、奉ずる所に尽心したことは、また嘉むべきである。」趙守鈞を顧みて曰く、「思同は汝の故人である。路において彼を迎え、我が慰撫の意を伝えるがよい。」思同が至ると、潞王は彼を責めて曰く、「賊臣が我が国家を傾け、骨肉を残害したのは、我が弟の過ちではない。我が岐山で兵を起こしたのは、一二の賊臣を誅するためである。汝はどうして首鼠両端として、方々で我を誤らせたのか。今日の罪は、どうして逃れられようか!」思同曰く、「臣は行伍の間より起こり、先朝の爵命を受け、旄鉞を執り、累ねて重藩を歴任しながら、終に顕著な功効なくして殊遇に報いることができませんでした。臣は攀龍附鳳すれば福多く、衰えを扶け弱きを救えば禍速いことを知らぬわけではありません。ただ瞑目した後、顔向けして先帝に会うことができぬことを恐れるのみです。鼓の衅に血を塗り、原野の肥やしとなるのは、囚われの身の常の分け前です。」潞王はこれに顔色を改め、徐に彼に謂って曰く、「暫く休め。」潞王は彼を用いようとしたが、楊思権の徒は彼の顔を見るのを恥じ、劉延朗に度々啓上して「思同を留めておくべからず、士心を失うことを慮る」と言った。また、潞王が長安に入った時、尹暉が思同の家財と諸妓女をことごとく得たため、特に思同を憎み、劉延朗と共に急いで言上した。王が酔っている時に当たり、返答を待たずして思同とその子の徳勝を殺した。潞王が醒めて思同を召すと、左右は既に誅したと報告した。潞王は延朗を怒り、幾日も嘆惜した。漢の高祖こうそが即位すると、詔して侍中を追贈した。

索自通は、字は得之、太原清源の人である。父の継昭は、自通の貴顕により、国子監祭酒を授けられて致仕した。自通は若くして騎射に優れ、かつて山荘で狩猟していたところ、荘宗が太原を鎮守していた時、野で彼に出会い、姓名を訊ねて、直ちに右番廳直軍使に補任した。後に狩猟に従った際、走る鹿を射当て、指揮使に転じた。周徳威に従って涿州で燕軍を攻め、燕の将軍郭在鈞を生け捕りにした。荘宗に従って魏博を平定し、突騎指揮使に改めた。明宗が即位すると、随駕左右廂馬軍都指揮から忻州刺史に任じられた。一年余りして召還され、再び禁兵を管轄し、韶州刺史を兼ね、出向して大同軍節度使となった。数年を経て忠武に移鎮し、京兆尹・西京留守に改めた。楊彦温が河中に拠って乱を起こすと、自通は軍を率いて討伐し平定し、河中節度使を授かった。まもなく鄜州から入朝して右龍武統軍となった。初め、自通が楊彦温を平定した後、末帝に代わって河中を鎮守したが、事に臨んで周旋を誤り、末帝は深くこれを恨んだ。(『通鑑』によれば、自通が鎮に着くと、安重誨の意を受けて、軍府の甲冑兵器の数を調べて上奏し、従珂(末帝)が私造したものとしたが、王徳妃が宮中で保護したため、従珂はこれによって罪を免れた。) 末帝が即位すると、自通は憂慮と恐れから死を求めた。清泰元年七月、朝参を終えて洛水を渡る際、自ら水に沈んで死んだ。

子の萬進は、周の顕徳年間に、歴任して方鎮の長となった。