天祐十六年春正月、李存審は徳勝に城を築き、河を挟んで柵を設ける。帝は魏州に還り、昭義軍節度使李嗣昭に幽州軍府の事を権知せしむ。三月、帝は幽州を兼領し、近臣李紹宏を遣わして府事を提挙せしむ。
夏四月、梁の将賀瑰は徳勝南城を囲み、百方に攻撃し、また艨艟をもって津渡を扼断す。帝は馳せ往き、北岸に陣す。南城守将氏延賞、急を告げ、且つ矢石将に尽きんとすと言う。帝は重賄をもって賊艦を破る能う者を召募す。ここに技を献ずる者数十、或いは火を吐き舟を焚く能うと言い、或いは兵刃を禁咒する能うと言い、悉く試すを命ずるも、験無し。帝は憂い色に形り、親従都将王建及進みて曰く、「臣、命を効せんことを請う」と。乃ち巨索をもって舟十艘を連ね、効節勇士三百人を選び、斧を持ち鎧を被り、枻を鼓して進み、中流に至る。梁の楼船三層、牛革を以て蒙り、板を懸けて楯と為す。建及、斧を持つ者を率いて艨艟の間に入り、其の竹笮を斬り、其の懸楯を破る。又、上流に於いて甕数百を取り、竹笮を以て之を維ぎ、其上に薪を積み、脂膏を以て灌ぎ、火発して空に亙る。又、巨艦に甲士を載せ、煙に乗じて鼓噪せしむ。梁の楼船、絏を断たれて下り、沈溺する者半ばに殆どす。軍既に渡るを得て、梁軍乃ち退く。騎軍を命じて追襲せしめ濮陽に至り、俘斬千計。賀瑰、此れより気を飲み疾に遘いて卒す。
秋七月、帝は晋陽に帰る。八月、梁の将王瓚は衆数万を帥いて黎陽より河を渡り、楊村に営し、舟を造りて梁と為し、以て津路を通ず。冬十月、帝は晋陽より魏州に至り、徒数万を発して以て徳勝北城を広む。是より、日々梁軍と接戦す。
十二月戊戌、帝は河南に軍す。夜、歩兵を潘張村梁軍寨の下に伏せ、騎軍を以て其の餉運を掠め、其の斥候を擒う。梁の王瓚は陣を結びて以て待つ。帝軍は鉄騎を以て之を突き、諸軍進み継ぎ、梁軍大いに奔り、水に赴きて死する者甚だ衆し。瓚は走りて北城を保つ。
天祐十七年春、幽州の民、田中に金印を得たり。文に曰く「関中亀印」。李紹宏、行台に献ず。
秋七月、梁の将劉鄩・尹皓、同州を寇す。先ず是れ、河中節度使朱友謙は同州を取り、其の子令徳を以て留務を主らしめ、梁主に節の降るを請う。梁主怒り、与えず。遂に帝に旄節を請う。梁主乃ち劉鄩を遣わし、華州節度使尹皓と兵を帥いて同州を囲む。友謙来たりて難を告ぐ。帝は蕃漢総管李存審・昭義節度使李嗣昭・代州刺史王建及を遣わし、師を率いて赴援せしむ。
九月、師は河中に至る。朝に至り夕に済む。梁人は王師の至るを意にせず、之を望みて大いに駭く。明日戦を約し、朱友謙と謀り、遅明、進軍して梁の壘に距る。梁人は衆を悉くして出で、蒲人は南に在り、王師は北に在り。騎軍既に接し、蒲人は小しく却く。李嗣昭は軽騎を以て之を抗し、梁軍奔潰し、追斬二千余級。是の夜、劉鄩は余衆を収めて営を保ち、是よりより壁を閉じて出でず。数日にして、鄩遂に宵遁す。王師は渭河に追い及び、棄つる所の兵仗輜重算うべからず。劉鄩・尹皓は単騎にして免るるを得たり。未だ幾もなく、鄩は憂恚発病して卒す。王師は地を略して奉先に至り、嗣昭は因りて唐帝諸陵を謁して還る。
天祐十八年春正月、魏州開元寺の僧伝真、伝国宝を獲て、行台に献ず。其の文を験するに、即ち「命を天に受け、子孫之を宝とす」の八字なり。群僚賀す。伝真の師は広明中、京師の喪乱に遇い之を得て、秘蔵すること既に四十年なり。篆文は古体、人の之を識らず、是に至りて之を献ず。時に淮南の楊溥・四川の王衍皆使いを遣わし書を致し、帝に唐帝の位を嗣がんことを勧む。帝従わず。
二月、代州刺史王建及卒す。是の月、鎮州の大将張文礼、其の帥王鎔を殺す。時に帝方に諸将と宴し、酒酣に楽作る。鎔の弑せらるるに遇うを聞き、遽に觶を投げて泣きて曰く、「趙王吾と臂を把って同盟し、分ち金石の如し。何ぞ人に負くこと有らん。宗を覆し祀を絶つ、冤なるかな」と。先ず是れ、滹沱暴漲し、関城の半ばを漂わし、溺死する者千計。是の歳、天の西北に赤昆血の如し有り。占う者は趙分の災と言う。是に至りて果たして験す。時に張文礼は使いを遣わし帝に旄節を請う。帝曰く、「文礼の罪は、期す無赦に在り。敢えて予が旄節を邀えんや」と。左右曰く、「方今事繁く、人と事を生ぜんと欲せず」と。帝已むを得ずして之に従い、乃ち制を承けて文礼を鎮州兵馬留後に授く。
三月、河中節度使朱友謙・昭義節度使李嗣昭・滄州節度使李存審・定州節度使王処直・邢州節度使李嗣源・成徳軍兵馬留後張文礼・遙領天平軍節度使閻宝・大同軍節度使李存璋・新州節度使王鬱・振武節度使李存進・同州節度使朱令徳、各使いを遣わし勧進し、帝に唐帝の位を紹がんことを請う。帝は書を報じて允さず。是より、諸鎮凡そ三たび章を上りて勧進し、各貨幣数十万を献じ、以て即位の費を助く。帝の左右も亦帝に早く人望に副わんことを勧む。帝は撝挹すること久し。秋七月、河東節度副使盧汝弼卒す。
八月庚申、天平節度使閻宝・成徳兵馬留後符習に命じ兵を率いて鎮州に於いて張文礼を討たしむ。初め、王鎔は偏将符習に命じ本部の兵を以て帝に従い徳勝に屯せしむ。文礼既に弑逆を行い、鎔の故将を忌み、多く誅戮せらる。因りて使いを遣わし帝に聞かせ、他兵を以て習に代わり帰鎮せんと欲す。習等懼れ、留まることを請う。帝は旨を習及び別将趙仁貞・烏震等に伝えしめ、文礼の弑逆の罪を明正し、且つ曰く、「爾等は戟を荷いて征に従うは、蓋し君父の故なり。冤を銜み恩に報ゆるは、誰人か心無からん。吾当に爾に資糧を与え、爾が兵甲を助けん。爾試みに之を思え」と。ここに於いて習等は諸将三十余人を率い、牙門に於いて慟哭し、文礼を討たんことを請う。帝は因りて習を成徳軍兵馬留後に授け、部下の鎮・冀の兵を以て文礼に致討せしむ。又、閻宝を遣わし以て之を助け、史建瑭を前鋒と為す。甲子、趙州を攻む。刺史王鋌は符印を送りて迎う。閻宝遂に軍を引いて鎮州城下に至り、西北隅に営す。是の月、張文礼は疽に病みて卒す。其の子処瑾、軍事を代わり掌る。九月、前鋒将史建瑭は鎮人と城下に戦い、流矢に中りて卒す。
冬十月己未、梁の将戴思遠は徳勝北城を攻む。帝は李嗣源に命じ戚城に伏を設け、騎軍に挑戦せしむ。梁軍大いに至る。帝は中軍を御して以て之を禦ぐ。時に李従珂は偽りて梁の幟と為し、奔りて梁の壘に入り、其の眺楼を斧り、級を持ちて還る。梁軍愈々恐れ、歩兵漸く至る。李嗣源は鉄騎三千を以て之に乗ず。梁軍大いに敗れ、俘斬二万計。辛酉、閻宝上言す、定州節度使王処直、其の子都の為に別室に幽せられ、都自ら留後と称すと。
十一月、帝は鎮州城下に至る。張処瑾は弟の処琪、幕客の齊儉らを遣わして帝に降伏を乞うたが、その言葉なお不遜であったため、帝は彼らを囚えることを命じた。当時、王師は土山を築いてその堡塁を攻め、城中もまた土山を起こしてこれを拒んだ。旬日の間に、機巧百変であった。張処瑾は韓正時に千騎を率いさせて夜間に包囲を突破させ、定州に入って王処直と事を議しようとしたが、我が遊軍に追撃されて破られ、余衆は衡唐に保った。賊将の彭贇は韓正時を斬って降った。
十二月辛未、王鬱が契丹の安巴堅を誘いて幽州を寇す。(『契丹国志』に曰く、王処直は定州にあり、鎮州と定州が唇歯の関係にあることを以て、鎮州が亡びて定州が孤立することを恐れ、密かに人を遣わしてその子の王鬱に語らせ、契丹を賄わせて塞を犯させ、鎮州の包囲を救わせようとした。王鬱は太祖(安巴堅)に説いて曰く、「鎮州には美女雲の如く、金帛山の如し。天皇速やかに往かば、則ち皆己が物とならん。然らずんば、則ち晋王の所有とならん」と。太祖は然りと為し、衆を率いて南す。)遂に軍を引きて涿州に至り、これを陥落させる。また定州を寇し、王都は使者を遣わして急を告ぐ。帝は鎮州より五千騎を率いてこれに赴く。
天祐十九年春正月甲午、帝は新城に至る。契丹の前鋒三千騎が新楽に至る。この時、梁将の戴思遠が虚に乗じて魏州を寇し、軍は魏店に至る。李嗣源は自ら兵を領して馳せ入り魏州に入る。梁人はその備え有るを知り、西に洹水を渡り、成安を陥落させて去る。時に契丹は沙河を渡り、諸将相顧みて色を失う。また梁人の内侵を聞き、鄴城危急なりと、皆旋師を請うたが、唯帝は不可と謂い、親騎を率いて新城に至る。契丹万余騎、遽かに帝の軍を見て、惶駭して退く。帝は軍を分けて二広と為し、数十里を追躡し、安巴堅の子を獲る。時に沙河の氷薄く、橋梁隘狭にして、敵は争い践みて過ぎ、陥溺する者甚だ衆し。阿保機は方に定州に在り、前軍の敗れたるを聞き、望都を退きて保つ。帝は定州に至り、王都迎え謁す。この夜、開元寺に宿す。翌日、軍を引いて望都に至る。契丹逆らい戦う。帝は身を以て士伍に先立ち、馳せ撃つこと数四、敵は退いて陣を結ぶ。帝の徒兵もまた水辺に陣す。李嗣昭は馬を躍らせ奮撃し、敵衆大いに潰え、俘斬数千、易水まで追撃し、氈裘・毳幕・羊馬を獲ること勝げて紀し難し。時に歳旦に北至し、大雪平地五尺、敵は芻糧に乏しく、人馬道路に斃踣し、累累として絶えず、帝は勝に乗じて追襲し幽州に至る。(『契丹国志』に曰く、晋王は望都に趨り、契丹に囲まれる。力戦し、出入すること数四、解けず。李嗣昭が三百騎を引いて横撃し、晋王始めて出で得る。因って兵を縦して奮撃す。太祖の兵敗れ、遂に北して易州に至る。会う大雪弥旬、平地数尺、人馬死する者相属し、太祖乃ち帰る。)是の月、梁将の戴思遠が徳勝北城を寇し、壘を築き塹を穿ち、地道・雲梯を以て昼夜攻撃す。李存審は極力拒守し、城中危急なり。帝は幽州よりこれを聞き、倍道兼行して赴かんとす。梁人は帝の至るを聞き、営を焼いて遁る。
三月丙午、王師は鎮州城下にて敗れ、閻寶は趙州に退きて保つ。時に鎮州は累月囲みを受け、城中食に艱しく、王師は壘を築いてこれを環す。また滹沱水を決して城中の出路を絶つ。この日、城中の軍出でてその長囲を攻め、皆奮力死戦し、王師は拒ぐこと能わず、師を引いて退く。鎮人はその営壘を壊し、その芻糧を取ること累日。帝は失律を聞き、即ち昭義節度使李嗣昭を以て北面招討使と為し、鎮州を進攻せしむ。夏四月、嗣昭は流矢に中り、師に卒す。己卯、天平節度使閻寶卒す。振武節度使李存進を以て北面招討使と為す。是の月、大同軍節度使李存璋卒す。
五月乙酉、李存進は鎮州を囲み、東渡に営す。八月、梁将の段凝が衛州を陥落させ、刺史李存儒は生擒される。存儒は本俳優なり。帝はその膂力有るを以て、故に衛州刺史に用う。既にして誅斂度無く、人皆これを怨み、故に梁人の襲うところとなる。(『九国誌・趙季良伝』に曰く、荘宗が鄴に入る時、兵革屡興し、属邑の租賦逋久す。一日、荘宗は季良を召して切責す。季良対えて曰く、「殿下は何時に河南を平げんとすや」と。荘宗は正色して曰く、「爾は輿賦を掌りて稽緩す。安ぞ我が勝負を問わんや」と。季良曰く、「殿下方に攻守を謀り、復た急征を務む。一旦衆心有るを変ぜば、恐らくは河南は殿下の所有に非ざらん」と。荘宗は容を斂めて前席し曰く、「微なるかな君の言、幾くんぞ吾が大計を失わんや」と。)梁将の戴思遠はまた共城・新郷等の邑を陥落させる。ここより、澶淵の西、相州の南は、皆梁人の拠る所となる。
九月戊寅朔、張処球は城中の兵を悉くして奄に東垣渡に至り、急に我が壘門を攻む。時に騎軍は既に賊城に臨み、その出づるを覚えず。李存進惶駭し、十余りを引いて橋上にて闘う。賊退き、我が騎軍は前後よりこれを夾撃し、賊衆大いに敗れ、歩兵数千、殆ど還る者無し。この役に、李存進は師に戦歿す。蕃漢馬歩総管李存審を以て北面招討使と為し、鎮州を攻めしむ。丙午夜、趙将李再豊の子の衝、縋を投げて王師に接す。諸軍城に登り、遅明に畢くに入る。鎮州平ぐ。処球・処瑾・処琪並びにその母、及び同悪の高濛・李翥・齊儉等を獲、皆足を折りて行台に送る。鎮人は請うて醢と為してこれを食らわんとす。張文礼の屍を発し、市に磔く。帝は符習を以て鎮州節度使と為し、烏震を趙州刺史と為し、趙仁貞を深州刺史と為し、李再豊を冀州刺史と為す。鎮人は帝に本鎮を兼領せんことを請い、これに従う。乃ち符習に遥領して天平軍節度使と為す。
十一月、河東監軍張承業卒す。十二月、魏州観察判官張憲を以て権知鎮州軍州事と為す。
三月己卯、横海軍節度使・内外蕃漢馬歩総管李存審を幽州節度使と為す。潞州留後李継韜叛き、款を梁に送る。是の月、即位壇を魏州牙城の南に築く。
初め、唐の咸通年間、金・水・土・火の四星が畢・昴に聚まった。太史が奏上して言うには、「畢・昴は趙・魏の分野、その下に王者が出るであろう」。懿宗は詔して鎮州の王景崇に袞冕を着せ朝儀を摂行させ三日間、臣下に儀注を備えさせ、軍府に称臣させてこれを厭った。その後四十九年、帝が柏郷で梁軍を破り趙・魏を平定し、ここに至って鄴宮で即位した。この月、行台左丞相豆盧革を門下侍郎・同中書門下平章事・太清宮使とし、行台右丞相盧澄を中書侍郎平章事・監修国史とし、前定州掌書記李徳休を御史中丞とし、河東節度判官盧質を兵部尚書とし、翰林学士承旨を充て、河東掌書記馮道を戸部侍郎とし、翰林学士を充て、魏博・鎮冀観察判官張憲を工部侍郎とし、租庸使を充て、中門使郭崇韜・昭義監軍使張居翰をともに枢密使とし、権知幽州軍府事李紹宏を宣徽使とし、魏博節度判官王正言を礼部尚書とし、行興唐尹とし、河東軍城都虞候孟知祥を太原尹とし、西京副留守を充て、沢潞節度判官任圓を工部尚書兼真定尹とし、北京副留守を充てた。詔して魏州を東京興唐府に昇格し、元城県を興唐県と改め、貴郷県を広晋県と改め、太原を西京とし、鎮州を北都とした。この時、管下の節度使は十三、州は五十であった。
閏月丁丑(の日)、李嗣源を検校侍中とし、前のまま横海軍節度使・内外蕃漢副総管とし、幽州節度使李存審を検校太師・兼中書令とし、前のまま蕃漢馬歩総管とし、河東節度使朱友謙を検校太師・兼尚書令とした。安国軍節度使符習に同平章事を加え、定州節度使王都に検校侍中を加えた。この月、曾祖蔚州太保を追尊して昭烈皇帝とし、廟号を懿祖とし、夫人崔氏を昭列皇后と称した。皇祖代州太保を追尊して文景皇帝とし、廟号を献祖とし、夫人秦氏を文景皇后と称した。皇考河東節度使・太師・中書令・晋王を追尊して武皇帝とし、廟号を太祖とした。詔して晋陽に宗廟を立て、高祖神堯皇帝・太宗文皇帝・懿宗昭聖皇帝・昭宗聖穆皇帝及び懿祖以下を以て七廟とした。甲午(の日)、契丹が幽州を寇し、易・定に至って還った。時に鄆より来たる者あり、節度使戴思遠が兵を率いて河上に在り、州城に守兵無く、襲ってこれを取るべしと言う。帝は李嗣源を召して謀りて言うには、「昭義(の孟方立)が命に阻み、梁将董璋が沢州を攻め迫る。梁の志は沢・潞に在り、別に事の生ずるを慮らず。汶陽に備え無し、失うべからず」。嗣源は然りと以為う。壬寅(の日)、嗣源に命じて歩騎五千を率い、箝枚して河より鄆に趨らしむ。この夜陰雨、我が師は城下に至り、鄆人は覚えず、ついに城に乗じて入り、鄆州は平定された。制して李嗣源を天平軍節度使とした。梁主は鄆州陥落を聞き、大いに恐れ、ついに王彦章を遣わして戴思遠に代えて総兵し、来たりて拒がしむ。時に朱守殷が徳勝南城を守る。帝は彦章の奔衝を懼れ、ついに澶州に幸す。
五月辛酉(の日)、彦章は夜に舟師を率い楊村より河を浮かび下り、徳勝の浮橋を断ち切り、南城を攻めて陥落させた。帝は中書焦彦賓に命じて馳せて楊劉に至らせ、その城を固守せしめ、朱守殷に命じて徳勝北城の屋木攻具を撤去させ、河を浮かび下らせ、以て楊劉を助けしむ。この時、徳勝軍の食糧・秣・薪炭は数十万計に及び、ここに至って人に輦負して澶州に入らしむ。事既に倉卒にして、耗失すること殆ど半ばに及ぶ。朱守殷は毀した屋木を以て筏を編み、歩軍をその上に置く。王彦章は舟師を以て流れに沿って下り、各々一岸を行く。転灘水彙に遇う毎に、即ち中流で交闘し、流矢雨の如く集まり、あるいは全舟覆没す。一彼一此、終日百戦、楊劉に比して及ぶに、殆どその半ばを亡う。己巳(の日)、王彦章・段凝が大軍を率いて楊劉南城を攻む。焦彦賓と守城の将李周が極力固守す。梁軍は昼夜攻撃し、百道斉に進むも、竟に下すこと能わず、ついに楊劉の南に営を結び、東西に延袤すること十数柵。
六月己亥(の日)、帝親しく軍を御して楊劉に至り、城に登って梁軍を望見す。重壕復壘、以てその路を絶つ。帝は乃ち勇士を選び短兵を持たせて出戦せしむ。梁軍は城門外に於いて、連延屈曲し、小壕を穿ち掘り、甲士を其中に伏せ、帝軍の至るを俟ち、則ち弓弩斉に発し、師人は多く矢に傷つき、進むことを得ず。帝これを患い、計を郭崇韜に問う。崇韜は下流に於いて河に拠り壘を築き、以て鄆州を救わんことを請う。又、帝に日々勇士をして挑戦せしむることを請う。旬日の内、寇若し至らざれば、営壘必ず成らんと。帝これを善しとし、即ち崇韜と毛璋に命じて数千人を率い、中夜に博州に往き河東を済り、昼夜役を督せしむ。六日居りて、営壘将に成らんとす。戊子(の日)、梁将王彦章・杜晏球が徒数万を領し、晨に帝の新壘を圧す。時に板築は畢わりたれども、牆仞低く庳く、戦具未だ備わらず、沙城散悪す。王彦章は騎を列ねて城を環らし、其の人を虐用し、歩軍をして壕を堙め堞に登らしむ。又、上流に巨艦十余艘を下し、済路を扼断す。旦より午に至るまで、攻撃百端、城中危急す。帝は楊劉より軍を引き西岸に陣す。城中之を望み、大いに呼ぶ。帝は舟を艤さして将に渡らんとす。梁軍は遂に囲みを解き、鄒家口に退き保つ。
秋七月丁未(の日)、帝は軍を御し河に沿って南す。梁軍は鄒家口を棄て夜遁し、鍋甲・芻糧を委棄すること千計。戊午(の日)、騎将李紹貽を遣わして直ちに梁軍の壘に抵らしむ。梁益々恐る。又、李嗣源が鄆州より大軍を引き将に至らんとするを聞く。己未の夜、梁軍は営を抜いて遁れ、復た楊村に保つ。帝軍は徳勝に屯す。甲子(の日)、帝は楊劉城に幸し、梁軍の故壘を巡視す。
八月壬申朔、帝は李紹斌を遣わし、甲士五千を率いて沢州を救援させた。初め、李継韜が叛いた時、潞州の旧将裴約が兵を率いて沢州を守り、継韜の逆に従わなかった。やがて梁が董璋を遣わし衆を率いてその城を攻めると、裴約は長く防戦し、帝に危急を告げたので、紹斌を救いに遣わしたのである。到着せぬうちに城は陥落し、裴約は害された。帝はこれを聞き、嘆き悲しみ止まなかった。甲戌、帝は楊劉より鄴に帰還した。梁は段凝を以て王彦章に代えて帥とした。戊子、段凝は衆五万を率いて王村に営を結び、高陵より黄河を渡った。帝の軍はこれと遭遇し、梁の前鋒軍士二百人を生け捕りにし、都市で斬った。庚寅、帝は軍を率いて朝城に至った。戊戌、梁の左右先鋒指揮使康延孝が百騎を率いて来奔した。帝は虚心に引見し、御衣玉帯を賜い、人を退けて問うた。対えて曰く、「臣が窃かに観るに、汴人の兵衆は少なくないが、その君臣将校を論ずれば、終に敗亡を見るでしょう。趙岩・趙鵠・張漢傑が中央で専政し、宮掖に結び、賄賂公行しています。段凝は元来武略なく、一朝にして大用を見る。霍彦威・王彦章は皆宿将として名がありながら、かえってその下に置かれています。彦章が徳勝南城を獲て以来、梁主も少しは賞めて用いていますが、彦章の性質は剛暴で、凌制に耐えず、梁主は軍を発するごとに、近臣を監護させ、進止の可否は全て監軍の処分に委ねます。彦章は悒々として、顔色に表れています。河津で敗れて以来、段凝・王彦章はまた謀を献じ、数道より挙軍し、董璋と合して陝虢・沢潞の衆を以て石会関に趨き太原を寇し、霍彦威に関西・汝・洛の衆を統率させ相衛より鎮定を寇し、段凝・杜晏球に大軍を率いさせて陛下に当たらせ、王彦章・張漢傑に禁軍を統率させ鄆州を攻めさせ、十月内に大挙することを決取しようとしています。また滑州の南より河堤を決破し、水を東に注がせ曹・濮の間に至り、汶陽に及んで、瀰漫として絶えず、以て北軍を陥れんとしています。臣は軍の側でこの議を聞きました。臣が惟うに、汴人の兵力は聚めれば少なくないが、分ければ余り無し。陛下は但だ分兵を待ち、鉄騎五千を率い、鄆州より兼程して直ちに汴に抵れば、旬日とせずして天下の事定まるでしょう。」帝は喜び、これを壮とした。
九月壬寅朔、帝は朝城に在り、段凝の兵は臨河南に至り、帝の騎軍と接戦した。この時沢潞は叛き、衛州・黎陽は梁人に占拠され、澶州以西・相州以南では寇鈔日々に至り、編戸は流亡し、その軍賦を計れば半年を支えず。また王鬱・盧文進が契丹を召して南侵し瀛・涿を侵す。梁人が大挙を図らんとするを聞き、帝は深く憂い、将吏を召してその大計を謀った。或いは曰く、「我が汶陽を得て以来、須らく大将を以て固守すべく、城門の外は元より賊の疆なり。細かにこれを料れば、得るは失うに如かず。今もし馳檄して梁人に告諭し、衛州・黎陽を却けて以て鄆州と易え、河を指して界とし、約して且く兵を休めば、我が国力稍く集まりて、則ち改図を議すべし。」帝曰く、「ああ、この謀を行えば則ち葬る地無し。」時に郭崇韜は帝に勧めて六軍を親禦し、直ちに汴州に趨くべしとし、半月の間に天下定まるとした。帝曰く、「正に朕が意に合う。大丈夫は得れば則ち王となり、失えば則ち寇となる。予が行く計は決した。」また司天監に問うと、対えて曰く、「今年は時利せず、深く入れば必ず成功無し。」帝は聴かず。戊辰、梁将王彦章が衆を率いて汶河に至る。李嗣源は騎軍を遣わし偵視させ、遞公鎮に至ると、梁軍が来たりて挑戦した。嗣源は精騎を以て撃ちてこれを破り、梁将任釗・田章ら三百人を生け捕りにし、二百級を俘斬した。彦章は衆を率いて中都に保った。嗣源は飛驛して捷を告げた。帝は酒を置き大いに悦び、曰く、「これこそ渡河の策を決行すべき時なり。」己巳、軍中の将士の家属を並びに鄴に帰らせよと下令した。