楊行密
楊行密、字は化源、廬州合淝の人。幼くして孤となり、群児と遊ぶに、常に旗幟戦陣の状を為す。年二十、盗賊の中に亡入し、刺史鄭綮捕え得て、其の貌を異とし、曰く「而して富貴なるべし、何ぞ賊を為すや」と。之を縦つ。里人田頵・陶雅・劉威と善し。僖宗蜀に在り、刺史遣わして行在に章を通ず、日に三百里を走り、約の如くにして還る。秦宗権廬・寿の間を寇し、刺史賊を殺すを募り、首級を差して賞と為す。行密功を以て隊長に補せらる。都將之を忌み、俾して出戍せしむ。将に行かんとす、都將乏する所を問う。対えて曰く「我は公の頭を須う」と。即ち之を斬り、自ら八営都知兵馬使と為る。刺史走り、淮南節度使高駢因りて表して廬州刺史と為す。乃ち田頵を以て八営都將と為し、陶雅を左沖山将と為し、郷盗を討定す。
畢師鐸・秦彦高駢を攻む。呂用之駢の命を以て行密を行軍司馬に署し、其の兵を督して進援せしむ。客袁襲行密に説きて曰く「高公耄昏、妖人権を用い、彦は乃ち逆を以て暴を除き、其の乱を熾す。公亟に応ぜば、必ず其の地を得ん」と。行密乃ち部州に檄し、兵を裒して東し、天長に次ぐ。而して揚州陥つ。行密城に薄くして屯し、用之兵を以て之に属す。彦騎兵を以て城を背にして戦う。行密帳中に臥し、令して曰く「賊近づけば、我に報ぜよ」と。俄にして一屯陥つ。別将李宗礼入りて曰く「兵相迫り、戦い且つ利あらず。壁を堅くし、徐に引き帰る可きなり」と。李濤怒りて曰く「順を以て逆を去るに、何ぞ衆寡を為さんや。今尚何をか帰らん。願わくは将に部を以て前に死せん」と。行密喜び、益々甲を出して戦い、俘殺藉の如し。彦軍出でず。会に駢死す。襲行密を勧めて挙軍縞素とし、大いに三日臨む。進みて城を攻むるも、未だ下さず。用之の将張審晟詭りて西壕に伏し、閽者を殺し、外兵を啓く。彦軍疲れ、守邏皆潰き去る。行密入りて揚州を拠る。未だ月を閲せず、孫儒奄に至る。兵鋭甚だし。襲行密に見えて曰く「公の入るや、少を以て衆を撃ち、室家未だ完からず。若し外重囲を被り、情見れ勢殆うきは、之を避くるに如かず」と。行密海陵鎮遏使高霸を執りて殺し、其の衆を併せ、収むる所の財を輦して廬に帰る。是に於いて、朱全忠自ら淮南節度使と為り、将張廷範を遣わし致命し、而して行密を副使に授け、行軍司馬李璠を以て留後を知らしむ。行密大いに怒る。廷範・璠敢えて入らず。全忠更に請うて行密を以て観察留後を知らしむ。
此の時に当たり、孫儒強く、赫然として呉・越を吞まんとする意有り。行密遁れて海陵に保たんと欲す。襲還りて廬州に至るを勧め、兵を治めて後計と為す。行密乃ち還る。既にして又洪州に趨らんと謀る。襲不可と曰く「鐘傳新に興り、兵附き食多く、未だ図り易からず。孫端和州に拠り、趙暉上元に屯す。此の二人を結びて宣州を図らば、我綽綽として余力有り」と。行密之に従う。端・暉采石に次ぐ。行密自ら糝潭より済る。端等戦い勝たず。襲行密を勧めて「速やかに曷山に趨り、壁を堅くして須うべし。宣人戦いを求め、弱きを示し、其の怠るを待てば、一挙にして禽う可し」と。宣将蘇瑭兵二万対いて屯す。行密戦わず、奇兵を分かち木を伐り道を開き四出す。瑭驚きて北し、遂に宣州を囲む。刺史趙锽糧尽き、親将多く出でて降る。
初め、行密鋭士五千有り、之に黒繒黒甲を衣せしめ、「黒雲都」と号す。又盱眙・曲溪の二屯を併せ、其の士を籍して「黄頭軍」と為し、李神福を以て左右黄頭都尉と為す。兵鋭甚だし。曲溪の将劉金、锽必ず遁るべしと策し、紿いて曰く「将軍若し出でば、願わくは吾が壘よりして偕にせん」と。锽喜び、多く之に金を遺し、女を以て妻と為さんことを許す。明日、城上に噪ぎて曰く「劉郎爾が婿と為らず」と。锽宵に遁る。之を獲る。锽は全忠の故人なり。使を発して之を求む。襲曰く「首を斬りて之を送れば、後慮無からん」と。乃ち锽の首を汴に帰す。昭宗詔して行密を検校司徒・宣歙池観察使と為す。
時に韓守威功を以て池州刺史に拝せらる。行密表して湖州に徙らしめ、兵を以て護送す。而して李師悦湖州に在り、杭州刺史錢鏐と戦い解けず。蘇・湖・常・潤乱甚だし。行密宣州を得たりと雖も、而して蔡儔孫儒に破られ、廬州を以て降る。儒進みて行密を攻む。行密復た揚州に入り、北に時溥を結びて儒を払う。全忠龐師古を遣わし兵十万を将い、潁より淮を度りて行密を助く。高郵に敗る。行密懼れ、還りて宣州に退き、安仁義を遣わし成及を襲わしめ、潤州を取り、自ら三万を将いて丹陽に屯す。仁義又常州を取り、錢鏐の将杜棱を殺す。儒亦た劉建鋒を使い潤・常を奪わしむ。帝杭州を以て防御使と為し、鏐に授く。宣州を以て寧国軍と号し、行密に節度使を授く。
常熟の名賊陳可児、儒・行密の闘を間い、窃かに常州に入り、自ら制置使と称す。行密陶雅を遣わし潤州を守らしめ、張訓揚州に入らしめ、因りて楚州刺史を執り、軽兵を以て常州を襲い、可児を斬る。
孫儒行密の宣州を囲む。凡そ五月解けず。臺濛魯陽五堰を作り、軽舸を拠して糧を饋る。故に行密の軍困まず、卒に儒を破る。即ち表して田頵に宣城を守らしめ、長駆して揚州に入る。戦い凡そ七年、八州を定め、生人将に尽きんとす。行密労隠に休息し、其の下遂に安んず。議して塩茗を出し民に畀えて帛を輸せしむ。幕府高勖曰く「瘡破の余、以て斂を加うべからず。且つ帑貲何ぞ足らざるを患えん。若し我が所有する所を悉くし、四鄰の無き所を易えば、日を積まずして財余り有らん」と。行密之を納れ、始めて吏を選び綏め勧めて所部を撫す。
蔡儔が廬州に拠って叛き朱全忠に附き、孫儒の将張顥を容れ、一方倪章は舒州を占拠し、儔と連和した。行密は李神福を遣わして儔を攻め、その将を破り、儔は堅壁して出て来なかった。顥は堞を超えて降り、行密は袁積の軍に隷させたが、積は彼を誅戮するよう請うた。行密はその勇を愛し、改めて親軍に置いた。未だ幾ばくもせず、儔は自殺した。行密の先祖の墳墓は皆儔によって発掘されていたが、吏が儔の代々の墓を平らげることを請うたが、許さなかった。劉威を刺史に表した。田頵を遣わして歙州を攻めさせた。この時、刺史裴樞は善政があり、民は彼を愛し、抵抗して戦い、頵の兵は数度退いた。樞は朝廷より任命された者であり、食糧が尽きて降ろうとし、行密に書を遺し、京師に還ることを請うた。行密は魯郃を以て樞に代えようとしたが、州人は肯ぜず、陶雅を代わりに立てることを請うた。雅は諸将の中で最も寛厚であり、礼を以て樞を朝廷に帰した。この年、李神福が舒州を抜き、倪章は逃亡し、神福を舒州刺史とした。
董昌が錢鏐に攻められ、窮状を告げて来た。行密は臺濛を遣わして蘇州を攻めさせ、安仁義・田頵を杭州に攻めさせ、自ら督戦した。別将張崇が鏐に捕らえられたが、行密はその妻を嫁がせようとした。答えて曰く「崇は公に背かず、少しく待たれよ」と。俄かに帰還し、これより行密は終身彼を倚り愛した。明年五月、蘇州を破り、鏐の将成及を捕らえ、朱黨を以てこれを守らせた。
朱延寿が蘄・光二州を抜いた。行密は霍丘が南北の走集に当たるとして、邑の豪族朱景を鎮将とした。景は驍毅人に絶し、諸盗も敢えて犯す者無し。汴将寇彦卿が騎兵三千を以てこれを襲い、全忠の厚意を致したが、景は許さず、苦戦し、彦卿は敗れて去った。田頵・魏約・張宣が共に嘉興を囲んだ。鏐の大将顧全武がこれを救い、宣・約を捕らえ、頵を驛亭埭に逐った。未だ幾ばくもせず、泰寧節度使朱瑾が部将侯瓚を率いて来帰し、太原の将李承嗣・史儼・史建章も亦来奔した。行密は赤心を推して疑わず、皆将とした。ここに於いて兵は甚だ鋭く、天下に強し。
帝は武昌節度使杜洪が全忠と合することを悪み、手詔を以て行密に江南諸道行営都統を授け、洪を討たせた。汴将朱友恭・聶金が騎兵万人を率いて張崇と泗州で戦い、金は敗れた。瞿章が黄州を守っていたが、友恭の来るを聞き、南走して武昌柵に至り、行密は将馬珣を遣わし楼船精兵を以て章を助け守らせた。友恭は樊港に次ぐ。章は険に拠り、前に進めず、友恭は崖を鑿ち道を開き、強弩を叢射して、章の別将を殺し、遂に武昌を囲んだ。章が軍を率いて薄戦したが、勝たず。友恭は章を斬り、その壁を抜いた。
全忠が葛從周に万騎を率いさせ光州を攻めた。柴再用は小校王稔を遣わし軽騎を以て賊を覘わせたが、汴兵に囲まれた。斥候が救援を請うたが、再用は曰く「稔は必ず賊を殺す、ただ往くなかれ」と。稔は鞍を解いて自若とし、暮れに樾に依り歩戦し、殺傷多く、汴兵は乃ち解いた。時に亡馬の法峻しく、稔は汴軍を追い、馬を得て乃ち還った。從周は淮を渡り寿州を囲み、一方龐師古・聶金は衆七万を以て清口に壁した。朱延寿が從周軍を撃ち、これを破った。行密は汴の囲みを解かせんと欲し、乃ち師古を撃とうとした。李承嗣曰く「公が潜師して清口に趨り、その衆を破らば、則ち從周は撃たずして潰れましょう」と。行密は車西門より出で、北門より去り、鋭士一万二千を以て雪を龁み馳せ、清口に迫ったが進まず、淮の上流を壅きて師古軍を灌いだ。張訓が漣水より来たので、行密は彼に羸兵千人を将いて前鋒たらしめた。師古はこれを易しとし、軍中で囲碁を打ち、顧みなかった。朱瑾・侯瓚が百騎を以て汴の旌幟を持ち、直ちに師古の壘に入り、槊を舞わせて馳せた。訓も亦岸に登り、その柵を超えた。汴軍大いに囂ぎ、即ち師古を斬り、士卒の死は十の八に及んだ。全忠これを聞き、從周と共に皆遁走し、寿陽に追い及んで大破した。淠水を叩き、渡らんとした時、瑾に乗ぜられ、溺死する者万余。瑾は屯を安豊に移した。汴将牛全節が苦闘し、後軍は乃ち渡ることができた。時に大雪に会い、士卒多く凍死す。潁州刺史王敬蕘が薪を燎いて道に属せしめ、汴軍で免れた者数千人。未だ幾ばくもせず、再び寿州を囲み、七日で去った。
馬珣が散卒三百を収め、黄州より間道を分寧に趨り、山谷を絶ち、撫州を襲った。鏐の将危全諷が四壁を列ね、皆万人ずつであった。珣は諸将に謂って曰く「諸君のために中壁を撃ち、その穀物を食して帰らん」と。乃ち夜にこれを撃ち、全諷は走った。明日、珣は高会し、広く旗幟を掲げ、鼓を伐って山を循り下り、連営は潰えた。既に還ると、行密は罵って曰く「豎子、其の城を拠らずして遂げざるか」と。
翌年、大将劉存が兵二万・戦船七百を率いて湖南を討つ。馬殷は長磧洲に伏兵を置き、楼船をもって上流を押さえ、風に乗じて砂塵を揚げ、強弩を射かけ、劉存の軍を破った。楊行密は顧全武を銭鏐に帰し、銭鏐もまた秦裴を釈放して報いた。
帝(昭宗)が鳳翔におられた時、左金吾大将軍李儼を江淮宣諭使とし、楊行密に東面諸道行営都統・検校太師・守中書令を授け、呉王に封じ、制を承って封爵を授ける権限を与え、かつ難を告げた。時に既に朱全忠の封爵を削奪しており、詔して西川・河東・忠義・幽州・保大・横海・義武・大同の八道にこれを攻撃させた。詔して朱瑾を平盧節度使とし、海州より青州・斉州を取らせ、馮弘鐸を感化節度使とし、漣水より出て徐州・宿州を攻めさせ、朱延寿をして蔡州を包囲させ、田頵に銭鏐を防がせ、楊行密に杜洪・馬殷を討たせて、朱全忠の勢力を分断させようとした。
楊行密は李神福を鄂嶽招討使とし、劉存をその副使とし、冷業を派遣して馬殷を攻撃させた。杜洪は戦いに屡々敗れ、城に籠り、朱全忠に救援を請うた。朱全忠は韓を派遣して歩兵一万を灄口に駐屯させ、荊南節度使成汭もまた衆を悉く率いて杜洪を救った。李神福が迎え撃ってこれを破り、成汭は溺死し、衆を率いて逃走した。冷業は平江に駐屯し、三つの堡塁を築いた。馬殷の将許徳勛が「定南刀」と号する精鋭の兵卒をもって夜襲し、三つの堡塁を皆破り、冷業を生け捕りにし、上高・唐年を掠めて去った。この時、杜洪は甚だ困窮し、まさに捕らえられんとしたが、田頵と安仁義が楊行密に背いたため、楊行密は李神福と劉存を召還して事を計り、杜洪は再び勢いを盛り返した。田頵が敗れた後、改めて臺濛を宣州観察使とし、再び李神福と劉存を派遣して鄂州を攻撃させた。順義軍使汪武が田頵と連合したので、歙州刺史陶雅が鐘伝を攻撃する際、兵が汪武の地を過ぎた時、汪武は迎え謁したが、陶雅は軍中で汪武を縛った。
無錫は浙江の要衝に当たるため、楊行密は驍将張可悰をしてこれを守らせた。銭鏐の精兵三千が夜襲して城を攻めたが、張可悰は百騎をもってこれを撃退した。役人たちが皆祝賀したが、張可悰は答えて言う、「まだである。諸軍に一戦を労する時が来よう」。そして火を隠し旗を収めて待機した。偵察者がこれを報告すると、銭鏐の兵が再び来襲し、張可悰はこれを大破した。
帝が鳳翔に困窮されていた時、再び使者を遣わして兵を督したが、楊行密こそ朱全忠に対抗できる者と考えられた。しかし兵が宿州に至ると、糧食が尽きたと偽って言い、ついに帰還した。朱全忠が帝を脅して東遷させると、楊行密は恥憤して病に倒れた。朱全忠もまた天子が楊行密を重んじていることを知り、帝を弑して人望を絶とうとした。楊行密はこれを聞き、喪を発し、三日間政務を視ず、これにより病が重篤となり、将吏を召して家事を託し、その補佐官に後継を問うた。周隱が答えて言う、「宣州司徒(楊渥)は軽率で讒言を信じ、ただ淫酗を好むのみ。嗣とすべからず。賢者を選ぶが如し」。時に劉威が宿将として威名があったので、周隱の意は劉威に属していたが、楊行密は答えなかった。そこで王茂章に楊渥の代わりをさせ、急ぎ帰還させようとした。楊行密は親しい厳求を召して言った、「我は周隱に我が児を召すよう命じたのに至らぬ。どうしたものか」。厳求が行って周隱に会うと、召喚の文書がまだ机の上にあった。初め、楊渥が宣州を守っていた時、押牙の徐温と王令謀が楊渥と約束して言った、「王(行密)はまさに病んでおられ、而して君は外に出ている。これは恐らく奸人の計略である。他日に召喚があっても、我ら二人以外の者には応じてはならない」。この時、二人は符をもって楊渥を召喚した。楊渥が到着すると、楊行密は制を承って検校太尉・同中書門下平章事・淮南節度使留後を授けた。楊行密は楊渥に告げて言った、「左衙都將の張顥・王茂章・李遇は皆乱を恃んでいる。児のためにはこれを除かねばならぬ」。卒去。年五十四。遺言して穀物の葛で衣とし、桐の木の瓦で棺とせよと。夜に山谷に葬り、人はその所在を知らなかった。諸将は武忠と諡した。
張顥が都統の印を宣諭使李儼に返上し、節度使の職務を行おうと議した。諸将は張顥を畏れ、敢えて対する者なく、楊渥は涙を流した。騎軍都尉李涛が言った、「都統の印は、先帝が王父子に賜わったものである。どうして人に授けられようか」。諸将は唯々とした。張顥は袖を振って去り、ついに共に李儼に請い、制を承って楊渥に侍中・淮南節度副大使・東面諸道行営都統を兼ねさせ、弘農郡王に封じた。
楊渥は騎射を好んだ。初め許玄膺と刎頸の交わりを結び、位を嗣ぐと、事は皆彼が決め、諸将は敢えて逆らう者なかった。楊渥が王茂章の親兵を求めても得られず、宣州を去る時、帷帳を車に載せて行こうとしたが、王茂章は罵って与えなかった。一年余りして、兵五千を派遣して襲撃し、王茂章は杭州に奔った。秦裴が鐘匡時を捕らえると、楊渥は彼を江西制置使に任じた。朱思・範師従・陳潘が兵を率いて洪州を守っていたが、楊渥は張顥に制せられていた。この三人は楊渥の腹心であった。張顥は異謀があると脅し、陳祐を疾駆させ、短兵を懐き、微服で秦裴の帳中に入らせた。秦裴は大いに驚き、酒を命じ、三将を召し入れた。皆顔色を変え、酒が巡ると、陳祐がその罪を数え上げ、皆斬った。楊渥は周隱を召して言った、「君はかつて孤が嗣ぐべからずと言ったが、何故か」。周隱は答えず、ついにこれを殺した。
賛して言う。楊行密は賤微より興り、志を得てからは、仁恕をもって衆を善く統御し、身を治め倹約し、大過失なく、賢と謂うべし。然れども拠る所は淮・楚に過ぎず、士気は剽軽にして剛ならず。楊行密には覇の才なく、兵を提げて四方の先導となり、王室を興すことができず、朱温が天子を劫いて東するのを熟視し、謀窮まり意沮え、憤死牖下す。長く太息すべきことである。
時溥
時溥は、徐州彭城の人である。州の牙将であった。黄巢が京師を乱すと、節度使支詳は時溥と陳璠に兵五千を率いて西討させた。河陰に駐屯した時、軍が乱れ、住民を掠奪した。時溥はその衆を招き鎮め、引き返して境上に駐屯し、疑って帰還を敢えなかった。支詳が牛酒をもって士卒を労い、その罪を悉く赦すと約束すると、軍はようやく入城し、共に時溥を留後に推戴し、支詳を客館から追い出した。時溥は多額の旅装を整え、陳璠に護衛させて京師に帰したが、夜に七里亭に宿泊した時、陳璠が勝手に支詳を殺し、その家族を皆殺しにした。時溥は怒り、陳璠を宿州刺史に任命したが、やがてこれを殺した。別に将を派遣して精兵三千を率いて関中に入らせ、僖宗はこれにより武寧節度使に任命した。
明年、丁会堤を築きて汴水を閼き、宿の郛を灌ぎ、三月、之を抜き、劉瓚をして守らしむ。而して溥の将劉知俊兵二千を引きて全忠に降り、軍益々振わず。民田作を失い、又大水饑饉を薦め、死喪十七以上に及ぶ。乃ち全忠に和を請い、全忠地を徙めて兵を罷むるを約す。昭宗、宰相劉崇望を以て之に代え、溥に太子太師を授く。溥、徐を去り且つ殺さるるを慮り、惶惑して命を受けず、軍中に諭して固く留めしむるに、詔有りて聴す可しとす。泗州刺史張諫、溥已に代わらんと聞き、即ち上書して全忠に隷せんことを請い、質子を納る。溥既に復た留まり、諫大いに懼れ、全忠為に表して鄭州刺史に徙む。諫両怨己に集まるを畏れ、乃ち楊行密に奔る。行密、諫を以て楚州刺史と為し、並びに其の民を徙し、以て兵を泗に屯す。
朱宣
朱宣は、宋州下邑の人なり。父は豪猾を以て裏中に聞こえ、坐して塩を鬻ぎて死に抵る。宣亡命して青州に去り、王敬武の牙軍と為る。黄巣の乱に、敬武将曹存実を遣わして兵を率いて西に関に入らしめ、而して宣は軍候と為り、道すがら鄆州に至る。是の時、節度使薛崇王仙芝を拒ぎて戦死し、其の将崔君裕州事を摂す。存実兵寡なるを揣み知り、襲い之を殺し、其の地を拠り、遂に留後を称す。宣の功多きを以て、署して濮州刺史と為し、留めて帳下の兵を総べしむ。
中和初め、魏博の韓簡東に曹・鄆を窺い、兵を引きて河を済る。存実迎え戦い、陣に死す、宣残卒を収めて城に嬰る。簡之を囲むこと六月、抜くこと能わず、兵を引いて去る。僖宗其の守りを嘉し、宣を拝して天平節度使と為し、累ねて同中書門下平章事を加う。宣衆三万を有し、弟瑾は勇三軍に冠たり、陰に天下を争わんとする心有り。瑾は残殺を嗜み、光啓中、兗州節度使斉克譲に婚を求め、親迎に托け、兵を載せて窃かに発し、克譲を逐い、府を拠りて自ら留後を称し、天子即ち帥節を以て之を授く、兄弟山東に雄張す。時に秦宗権兵を悉くして朱全忠を攻め、秦賢をして三十六壁を列せしめ、自ら将いて戦いを督む。全忠大いに恐れ、宣に救いを求む。宣と瑾身を率いて師を往きて宗権を撃ち、宗権敗走す。
全忠厚く宣に徳し、兄として之に事え、情好篤密なりしも、而して内に其の雄なるを忌み、且つ拠る所皆勁兵の地なるを、怨みを造りて乃ち之を図らんと欲す。即ち声言して宣汴の亡命を納る、書を移して詆譲す。宣新に全忠に恩有るを以て、故に檄に答えて恚望す。全忠是より顕に其の隙を結び、朱珍をして先ず瑾を攻めしめ、曹州を取り、乗氏に壁す。宣曹を救うも克たず、奔りて範に還る。範珍濮州を囲む、宣弟罕をして濮を救わしむ。全忠自ら将いて罕を撃ち、之を斬り、濮州を抜き、朱裕奔りて鄆に帰る、珍をして鄆に薄きて挑戦せしむるも、宣出でず。裕書を為りて紿き降り、珍を導きて入らしめ、之を信じ、夜兵数千を以て城に傅す。裕門を開き、軍入る、県門発ち、死者数千、石を縦って未だ入らざる者を撃ち、裨将百余りを殺す。復た曹を取り、郭詞を以て刺史と為すも、大将郭銖詞を斬りて全忠に奔る。瑾謀りて兵を悉くして汴を襲わんとす、全忠乃ち自ら瑾を攻む。瑾兵を以て単父を掠め、全忠の将丁会と転戦すれども、勝たず、去る。
翌年、朱友恭を遣わして兗州を攻撃させたが、朱瑾は堅く守り、塹壕を掘って守備した。朱宣が朱瑾に糧食を送ると、朱友恭はこれを奪った。朱全忠は自ら単父に軍を進めた。時に朱宣が李克用に救援を求め、朱友恭は曹南に退いて陣を布いた。数ヶ月後、朱全忠は自ら朱宣を討ち、その麦を刈り取り、李克用の将李承嗣らを破って帰還した。朱宣はこれを追撃し、曹州で大いに略奪した。その秋、朱全忠は再び鄆州を攻め、梁山に陣を布いた。朱宣と李克用が挑戦すると、朱全忠は伏兵を設けてこれを破り、数千級を斬首し、軍を南に引いた。李克用は朱全忠の後を追い、柏和に至ったが、大いに寒く、朱全忠の軍は多く死んだ。一ヶ月も経たぬうちに、再び兗州を包囲し、ついで龔丘の地を攻略した。賀瑰が奇兵をもって朱全忠の輜重を襲ったが、及ばず、鉅野の東で戦い、賀瑰は大敗し、捕らえられ、軍は一人も残らなかった。軍が大陂を通ると、暴風が起こり、朱全忠は言った、「人を殺すのに漏れがあるのか」と。そこで軍中を捜索し、さらに数千人を斬ると、風も止み、賀瑰を捕らえて城下に示した。
朱瑾の兄の朱瓊は斉州を守っていたが、形勢が不利なのを見て、州を挙げて朱全忠に帰順し、同姓の誼みを結んだ。朱全忠はこれを許し、軽騎で軍に至り、朱全忠は労苦をねぎらい礼を加え、ついで朱瑾を招かせた。朱瑾は精騎を率いて鬲池に至り、平生の歓びのように笑い語らい、そこで将の胡規を使者に偽って降伏の意を伝えさせ、朱瓊が自ら符節を捧げて来ることを望んだ。朱全忠はこれを疑わず、朱瑾は壮士を橋の下に伏せさせ、朱瓊が単騎で至り、ちょうど言葉を交わしていると、壮士が突然立ち上がり、朱瓊を挟み込んで連れ込み、その首を斬って城下に棄てた。汴軍は大いに震駭した。朱全忠は憤り、数日後に去った。
朱全忠が朱宣を攻めたのは、合計十度出兵し、四度敗北した。朱宣の有能な将は皆尽き、ますます内に沮喪し、朱全忠と確執できないと見て、堅く守り、城壁を高くし堀を深くして近づかせないようにした。翌年、葛従周は密かに塹壕に舟を造り、兵士がこれを越えて登った。朱宣は出奔したが、民に縛られ、追兵が至り、捕らえられて献上され、朱全忠はこれを斬ってその妻を納めた。龐師古をして兗州を攻撃させた。二月、食糧が尽き、朱瑾は自ら出て芻粟を監督し、転じて豊・沛の間を掠奪したが、子の用貞及び大将康懷英らが城を挙げて降伏した。朱瑾は麾下を率いて沂州に走ったが、刺史尹懷賓は受け入れず、そこで海州に向かった。刺史朱用芝はその衆とともに朱瑾と楊行密に奔った。行密はこれを高郵で迎え、玉帯を解いて賜り、上表して徐州節度使を領させ、兵を与えた。龐師古・葛従周は兵七万をもって楊行密を討ったが、朱瑾は清口でこれを破り、師古を撃ち殺し、従周は帰還した。軍が淠水に至り、ちょうど渡っている時、朱瑾が追い付き、殺傷溺死させてほとんど全滅させた。朱瑾は楊行密に仕えて特に力を尽くした。
孫儒
孫儒は、河南道河南府の人である。軽捷で凶暴で郷里を横行し、忠武軍に属して裨校となり、劉建鋒と親しかった。黄巢の乱に際し、兵を率いて秦宗権に属し、都将となった。光啓初年、宗権は孫儒を遣わして東都を攻めさせた。留守李罕之は出奔し、孫儒は宮殿を焼き、住民を虐殺した。河陽節度使諸葛爽が孫儒と洛水で戦ったが、爽は敗れ、孫儒もまた東進して鄭州を包囲した。朱全忠は中牟に駐屯してこれを救ったが、前進しようとしなかった。孫儒の兵は夜に登城し、刺史李璠は逃走し、孫儒は進んで河橋を抜き、ついで河陽を奪い、留後諸葛仲方は出奔した。朱全忠は河陰に陣を布き、孫儒は汴の辺境を掠奪し、全忠の兵は退き、胙城の東南に駐屯し、偽りの旗鼓を並べて疑わせたので、孫儒は帰還した。
ちょうど朱全忠と秦宗権が戦い、宗権が敗走した。孫儒はこれを聞き、孟の人を殺し、屍を河に流し、井邑を焼いて去った。宗権はまた孫儒を遣わして淮南を掠奪させ、高駢の乱に乗じ、孫儒は濠州に留まった。時に楊行密が揚州を得たので、宗権は弟の宗衡を遣わして淮南を争わせ、孫儒を副とし、建鋒を前鋒とした。孫儒は常に言った、「大丈夫たるもの、万里を苦戦して賞罰を己に由らせることができず、どうして人の下に居られようか。生きて富貴を得られず、死して廟食を受けることがあろうか」と。間もなく、汴兵が蔡を攻め、宗権が彼を召すと、孫儒は病と称して行かず、宗衡が督した。そこで直ちに帳下で大会を開き、酒が酣になると、宗衡を斬り、その衆を併せた。劉建鋒・許徳勲らと盟を結んだ。騎兵七千を有し、ついで傍らの州を攻略平定し、十日も経たぬうちに、兵数万となり、「土団白条軍」と号した。
龍紀初年、全軍を挙げて宣州を攻めた。楊行密が淮南を取ったので、孫儒は帰還した。行密が逃走し、初めて潤・常・蘇の三州を得て、兵はますます強くなり、劉建鋒をして潤・常を守らせた。朱全忠は楊行密と約して孫儒を図った。孫儒は江南を平定しようと謀り、ついで北進して天下を争おうとしたが、朱全忠が虚を突くことを恐れ、人を遣わして卑辞と厚い賄賂を送り、全忠は朝廷に推薦し、詔により淮南節度使を授けられた。
翌年、孫儒は兵を率いて京口から転戦し、劉建鋒を召し寄せてともに進んだ。楊行密の諸将で険要に駐屯していた者は、孫儒が来ると聞いて皆逃走した。田頵・劉威らは合兵三万して、孫儒を黄池で邀え撃った。孫儒は馬殷を遣わしてこれを撃退した。孫儒は広徳に営し、勝に乗じて東渓に至ったので、淮人は大いに恐れた。楊行密は臺濛を遣わして西渓に駐屯させ、自ら軍を率いて迎え撃った。孫儒の軍はこれを数重に包囲したが、黒雲将の李簡が騎兵で馳せて救い、行密はようやく免れた。孫儒はついに宣州を包囲し、行密は銭鏐に援軍を求めた。時に渓流が暴漲し、広徳・黄池の諸陣営は皆水没し、孫儒は兵を分けて和・滁の二州を取った。
その秋、孫儒は揚州を焼き、兵を率いて西進し、檄を遠近に伝えて、五十万と号し、旌旗は数百里に連なり、過ぎる所で廬舎を焼き、老弱を殺して軍に供給した。楊行密は恐れ、逃げ去ろうとした。戴規が言った、「孫儒の軍は数敗しており、今は地を掃うようにして来て、我らと決死するのです。もし我らが降伏者を間者として揚州に至らせ、衣食を撫慰し、孫儒の軍にその家がまだ無事であると聞かせれば、人々は帰郷を思い、戦わずして捕らえることができます」と。行密はそこで親将を揚州に入らせ、孫儒の営の糧食数十万斛を取って飢民に給与した。孫儒は広徳に駐屯し、陶雅が騎軍をもって孫儒の前鋒を破り、厳公臺に駐屯した。十二月、田頵・劉威が孫儒と決戦し、皆大敗した。孫儒は連続して陣を布き次第に西に移り、行密は陶雅を遣わして潤州に駐屯させ、その帰路を扼させた。