新唐書

巻一百八十八 列傳第一百十三 楊時朱孫

楊行密

楊行密、字は化源、廬州合淝の人。幼くして孤となり、群児と遊ぶに、常に旗幟戦陣の状を為す。年二十、盗賊の中に亡入し、刺史鄭綮捕え得て、其の貌を異とし、曰く「而して富貴なるべし、何ぞ賊を為すや」と。之を縦つ。里人田頵・陶雅・劉威と善し。僖宗しょくに在り、刺史遣わして行在に章を通ず、日に三百里を走り、約の如くにして還る。秦宗権廬・寿の間を寇し、刺史賊を殺すを募り、首級を差して賞と為す。行密功を以て隊長に補せらる。都將之を忌み、俾して出戍せしむ。将に行かんとす、都將乏する所を問う。対えて曰く「我は公の頭を須う」と。即ち之を斬り、自ら八営都知兵馬使と為る。刺史走り、淮南節度使高駢因りて表して廬州刺史と為す。乃ち田頵を以て八営都將と為し、陶雅を左沖山将と為し、郷盗を討定す。

駢の将呂用之、行密制すべからざるを恐れ、俞公楚を遣わし兵五千を以て合淝に屯し、名は黄巢を討つと為して陰に之を図る。行密撃ちて公楚を殺す。秦宗権弟を遣わし淮を度りて舒城を取る。行密破ちて之を走らす。時に張敖寿州に拠り、許滁州に拠り、行密と挐戦す。又舒人陳儒刺史高澞を攻む。澞来りて難を告ぐ。行密未だ定むる能わず。賊呉回・李本澞を逐い、其の城に拠る。行密之を虜とし、舒州を取り、為に奪わる。光啓二年、張敖将魏虔を遣わし廬州を攻む。大将李神福・田頵之を楮城に破る。

畢師鐸・秦彦高駢を攻む。呂用之駢の命を以て行密を行軍司馬に署し、其の兵を督して進援せしむ。客袁襲行密に説きて曰く「高公耄昏、妖人権を用い、彦は乃ち逆を以て暴を除き、其の乱を熾す。公亟に応ぜば、必ず其の地を得ん」と。行密乃ち部州に檄し、兵を裒して東し、天長に次ぐ。而して揚州陥つ。行密城に薄くして屯し、用之兵を以て之に属す。彦騎兵を以て城を背にして戦う。行密帳中に臥し、令して曰く「賊近づけば、我に報ぜよ」と。俄にして一屯陥つ。別将李宗礼入りて曰く「兵相迫り、戦い且つ利あらず。壁を堅くし、徐に引き帰る可きなり」と。李濤怒りて曰く「順を以て逆を去るに、何ぞ衆寡を為さんや。今尚何をか帰らん。願わくは将に部を以て前に死せん」と。行密喜び、益々甲を出して戦い、俘殺藉の如し。彦軍出でず。会に駢死す。襲行密を勧めて挙軍縞素とし、大いに三日臨む。進みて城を攻むるも、未だ下さず。用之の将張審晟詭りて西壕に伏し、閽者を殺し、外兵を啓く。彦軍疲れ、守邏皆潰き去る。行密入りて揚州を拠る。未だ月を閲せず、孫儒奄に至る。兵鋭甚だし。襲行密に見えて曰く「公の入るや、少を以て衆を撃ち、室家未だ完からず。若し外重囲を被り、情見れ勢殆うきは、之を避くるに如かず」と。行密海陵鎮遏使高を執りて殺し、其の衆を併せ、収むる所の財を輦して廬に帰る。是に於いて、朱全忠自ら淮南節度使と為り、将張廷範を遣わし致命し、而して行密を副使に授け、行軍司馬李璠を以て留後を知らしむ。行密大いに怒る。廷範・璠敢えて入らず。全忠更に請うて行密を以て観察留後を知らしむ。

此の時に当たり、孫儒強く、赫然として呉・越を吞まんとする意有り。行密遁れて海陵に保たんと欲す。襲還りて廬州に至るを勧め、兵を治めて後計と為す。行密乃ち還る。既にして又洪州に趨らんと謀る。襲不可と曰く「鐘傳新に興り、兵附き食多く、未だ図り易からず。孫端和州に拠り、趙暉上元に屯す。此の二人を結びて宣州を図らば、我綽綽として余力有り」と。行密之に従う。端・暉采石に次ぐ。行密自ら糝潭より済る。端等戦い勝たず。襲行密を勧めて「速やかに曷山に趨り、壁を堅くして須うべし。宣人戦いを求め、弱きを示し、其の怠るを待てば、一挙にして禽う可し」と。宣将蘇瑭兵二万対いて屯す。行密戦わず、奇兵を分かち木を伐り道を開き四出す。瑭驚きて北し、遂に宣州を囲む。刺史趙锽糧尽き、親将多く出でて降る。

初め、行密鋭士五千有り、之に黒繒黒甲を衣せしめ、「黒雲都」と号す。又盱眙・曲溪の二屯を併せ、其の士を籍して「黄頭軍」と為し、李神福を以て左右黄頭都尉と為す。兵鋭甚だし。曲溪の将劉金、锽必ず遁るべしと策し、紿いて曰く「将軍若し出でば、願わくは吾が壘よりして偕にせん」と。锽喜び、多く之に金を遺し、女を以て妻と為さんことを許す。明日、城上に噪ぎて曰く「劉郎爾が婿と為らず」と。锽宵に遁る。之を獲る。锽は全忠の故人なり。使を発して之を求む。襲曰く「首を斬りて之を送れば、後慮無からん」と。乃ち锽の首を汴に帰す。昭宗詔して行密を検校司徒しと・宣歙池観察使と為す。

時に韓守威功を以て池州刺史に拝せらる。行密表して湖州に徙らしめ、兵を以て護送す。而して李師悦湖州に在り、杭州刺史錢鏐と戦い解けず。蘇・湖・常・潤乱甚だし。行密宣州を得たりと雖も、而して蔡儔孫儒に破られ、廬州を以て降る。儒進みて行密を攻む。行密復た揚州に入り、北に時溥を結びて儒を払う。全忠龐師古を遣わし兵十万を将い、潁より淮を度りて行密を助く。高郵に敗る。行密懼れ、還りて宣州に退き、安仁義を遣わし成及を襲わしめ、潤州を取り、自ら三万を将いて丹陽に屯す。仁義又常州を取り、錢鏐の将杜棱を殺す。儒亦た劉建鋒を使い潤・常を奪わしむ。帝杭州を以て防御使と為し、鏐に授く。宣州を以て寧国軍と号し、行密に節度使を授く。

大順二年、儒溧水に屯し、山に循りて壁を構う。行密李神福を遣わし広徳に屯せしめ、計りて曰く「兵倍するも戦わず、当に其の鋭を避け、之を驕らすべし」と。乃ち舎を退く。儒の衆怯むと以為い、守者懈る。神福夜襲い之を走らす。儒の将康旺和州を取り、安景思滁州を取る。神福撃ちて旺を降し、景思を逐い、腰山屯を攻め、之を破り、儒の将李弘章を禽う。俄にして田頵・劉威儒に敗れらる。行密銅官を守らんと欲す。神福曰く「儒境を掃いて以来り、速戦を利とす。壁を堅くして其の師を老いさせば、則ち我無敵なり。又軽騎を出して賊の糧道を絶ち、前に戦うを得ず、退きて仰ぐ儲無からしめば、亡びずして何をか待たん」と。是に於いて、行密神福を以て宣池都遊弈使と為す。儒始めて食に乏し。

常熟の名賊陳可児、儒・行密の闘を間い、窃かに常州に入り、自ら制置使と称す。行密陶雅を遣わし潤州を守らしめ、張訓揚州に入らしめ、因りて楚州刺史を執り、軽兵を以て常州を襲い、可児を斬る。

孫儒行密の宣州を囲む。凡そ五月解けず。臺濛魯陽五堰を作り、軽舸を拠して糧を饋る。故に行密の軍困まず、卒に儒を破る。即ち表して田頵に宣城を守らしめ、長駆して揚州に入る。戦い凡そ七年、八州を定め、生人将に尽きんとす。行密労隠に休息し、其の下遂に安んず。議して塩茗を出し民に畀えて帛を輸せしむ。幕府高勖曰く「瘡破の余、以て斂を加うべからず。且つ帑貲何ぞ足らざるを患えん。若し我が所有する所を悉くし、四鄰の無き所を易えば、日を積まずして財余り有らん」と。行密之を納れ、始めて吏を選び綏め勧めて所部を撫す。

蔡儔が廬州に拠って叛き朱全忠に附き、孫儒の将張顥を容れ、一方倪章は舒州を占拠し、儔と連和した。行密は李神福を遣わして儔を攻め、その将を破り、儔は堅壁して出て来なかった。顥は堞を超えて降り、行密は袁積の軍に隷させたが、積は彼を誅戮するよう請うた。行密はその勇を愛し、改めて親軍に置いた。未だ幾ばくもせず、儔は自殺した。行密の先祖の墳墓は皆儔によって発掘されていたが、吏が儔の代々の墓を平らげることを請うたが、許さなかった。劉威を刺史に表した。田頵を遣わして歙州を攻めさせた。この時、刺史裴樞は善政があり、民は彼を愛し、抵抗して戦い、頵の兵は数度退いた。樞は朝廷より任命された者であり、食糧が尽きて降ろうとし、行密に書を遺し、京師に還ることを請うた。行密は魯郃を以て樞に代えようとしたが、州人は肯ぜず、陶雅を代わりに立てることを請うた。雅は諸将の中で最も寛厚であり、礼を以て樞を朝廷に帰した。この年、李神福が舒州を抜き、倪章は逃亡し、神福を舒州刺史とした。

乾寧二年、行密は濠州を襲った。李簡は重甲を着て水を断ち縄で登城して入り、刺史張遂を捕らえ、劉金を以てこれを守らせ、進んで寿州を取った。汴将劉知俊は石碭に穀物を蓄え、南襲しようとした。張訓は漣水に屯し、兵を遣わして海を渡って掩襲し、その倉庫を得た。知俊は戦って勝たず、因って漣水を攻めたが大敗し、身は僅かに免れた。詔して行密を淮南節度副大使に拝し、節度事を知らせ、検校太傅・同中書門下平章事とし、弘農郡王に封じた。

董昌が錢鏐に攻められ、窮状を告げて来た。行密は臺濛を遣わして蘇州を攻めさせ、安仁義・田頵を杭州に攻めさせ、自ら督戦した。別将張崇が鏐に捕らえられたが、行密はその妻を嫁がせようとした。答えて曰く「崇は公に背かず、少しく待たれよ」と。俄かに帰還し、これより行密は終身彼を倚り愛した。明年五月、蘇州を破り、鏐の将成及を捕らえ、朱黨を以てこれを守らせた。

朱延寿が蘄・光二州を抜いた。行密は霍丘が南北の走集に当たるとして、邑の豪族朱景を鎮将とした。景はぎょう毅人に絶し、諸盗も敢えて犯す者無し。汴将寇彦卿が騎兵三千を以てこれを襲い、全忠の厚意を致したが、景は許さず、苦戦し、彦卿は敗れて去った。田頵・魏約・張宣が共に嘉興を囲んだ。鏐の大将顧全武がこれを救い、宣・約を捕らえ、頵を驛亭埭に逐った。未だ幾ばくもせず、泰寧節度使朱瑾が部将侯瓚を率いて来帰し、太原の将李承嗣・史儼・史建章も亦来奔した。行密は赤心を推して疑わず、皆将とした。ここに於いて兵は甚だ鋭く、天下に強し。

帝は武昌節度使杜洪が全忠と合することを悪み、手詔を以て行密に江南諸道行営都統を授け、洪を討たせた。汴将朱友恭・聶金が騎兵万人を率いて張崇と泗州で戦い、金は敗れた。瞿章が黄州を守っていたが、友恭の来るを聞き、南走して武昌柵に至り、行密は将馬珣を遣わし楼船精兵を以て章を助け守らせた。友恭は樊港に次ぐ。章は険に拠り、前に進めず、友恭は崖を鑿ち道を開き、強弩を叢射して、章の別将を殺し、遂に武昌を囲んだ。章が軍を率いて薄戦したが、勝たず。友恭は章を斬り、その壁を抜いた。

全忠が葛從周に万騎を率いさせ光州を攻めた。柴再用は小校王稔を遣わし軽騎を以て賊を覘わせたが、汴兵に囲まれた。斥候が救援を請うたが、再用は曰く「稔は必ず賊を殺す、ただ往くなかれ」と。稔は鞍を解いて自若とし、暮れに樾に依り歩戦し、殺傷多く、汴兵は乃ち解いた。時に亡馬の法峻しく、稔は汴軍を追い、馬を得て乃ち還った。從周は淮を渡り寿州を囲み、一方龐師古・聶金は衆七万を以て清口に壁した。朱延寿が從周軍を撃ち、これを破った。行密は汴の囲みを解かせんと欲し、乃ち師古を撃とうとした。李承嗣曰く「公が潜師して清口に趨り、その衆を破らば、則ち從周は撃たずして潰れましょう」と。行密は車西門より出で、北門より去り、鋭士一万二千を以て雪を龁み馳せ、清口に迫ったが進まず、淮の上流を壅きて師古軍を灌いだ。張訓が漣水より来たので、行密は彼に羸兵千人を将いて前鋒たらしめた。師古はこれを易しとし、軍中で囲碁を打ち、顧みなかった。朱瑾・侯瓚が百騎を以て汴の旌幟を持ち、直ちに師古の壘に入り、槊を舞わせて馳せた。訓も亦岸に登り、その柵を超えた。汴軍大いに囂ぎ、即ち師古を斬り、士卒の死は十の八に及んだ。全忠これを聞き、從周と共に皆遁走し、寿陽に追い及んで大破した。淠水を叩き、渡らんとした時、瑾に乗ぜられ、溺死する者万余。瑾は屯を安豊に移した。汴将牛全節が苦闘し、後軍は乃ち渡ることができた。時に大雪に会い、士卒多く凍死す。潁州刺史王敬蕘が薪を燎いて道に属せしめ、汴軍で免れた者数千人。未だ幾ばくもせず、再び寿州を囲み、七日で去った。

馬珣が散卒三百を収め、黄州より間道を分寧に趨り、山谷を絶ち、撫州を襲った。鏐の将危全諷が四壁を列ね、皆万人ずつであった。珣は諸将に謂って曰く「諸君のために中壁を撃ち、その穀物を食して帰らん」と。乃ち夜にこれを撃ち、全諷は走った。明日、珣は高会し、広く旗幟を掲げ、鼓を伐って山を循り下り、連営は潰えた。既に還ると、行密は罵って曰く「豎子、其の城を拠らずして遂げざるか」と。

光化元年、秦裴が鏐の昆山鎮を取ったが、顧全武がこれを囲んだ。行密の諸将は数度敗れ、全武は遂に蘇州を囲んだ。臺濛は固守し、鏐自ら舟師を以て至った。濛は食糧尽き、行密は李簡・蔣勛を遣わしてこれを迎えさせ、全武の兵を破り、濛は還ることができた。後軍は潰え、裴は援絶し、全武は彼に降るよう勧めた。水を決して城を灌ぎ、城は壊れ、裴は乃ち降った。鏐は喜び、千人分の食を具えて待った。既に至ると、士卒百に及ばず。鏐曰く「軍寡なり、何ぞ久しく拒ぐや」と。裴曰く「糧尽きて死に帰するのみ、僕の素よりする所に非ず」と。初め、成及が捕らえられた時、行密はその室を閲し、唯図書と薬剤のみあり、行軍司馬に辟かんとしたが、固く辞し、刀を引いて自刺せんとしたので、行密は乃ち止め、厚礼を以て帰した。鏐も亦魏約等を還した。

全忠が蔡州を攻め、奉国節度使崔洪が師を丐いに来た。明年、朱瑾を遣わし兵万人を率いさせ徐州を攻めさせ、呂梁に屯し、洪は遂に来奔した。時に雨霖に会い、瑾は引き還った。行密が徐州を攻めると、汴将李礼が宿州に壁して援け、全忠自ら将いて輝州に次いだ。行密は戦って勝たず、乃ち解いた。青州の将陳漢賓が兵を擁して款を通じ行密に送ろうとした。王綰・張訓・周本が兵を率いてこれを迎えたが、漢賓は中悔した。綰・訓が入って漢賓に会い、麾下に約して曰く「我を饗するは日中を過ぎず、若し至らざれば、城を攻むべし」と。漢賓は甲を解き命を聴いた。光州が叛き、行密自らこれを攻めた。汴将朱友裕が来救し、囲みを撤して還った。全忠は馬殷・成汭・雷満に諭し合兵して行密を攻めさせたが、汭・満は猶し、汭は殷が全忠に事えることを悪み、その境を掠め、満は来りて好を結んだ。行密は黄・鄂の間に壁した。杜洪が酒と井戸に鴆を置き、城を棄てて去ったが、行密は知って入らなかった。全忠は又使者を遣わし殷・汭・満を督して連兵し囲みを解かせ、行密は還った。詔して検校太尉・兼侍中を加えた。天復元年、盗が錢鏐を殺したとの伝言あり、李神福が急ぎ臨安を攻めた。顧全武が八壁を列ねて相望み、神福は軍を青山に伏せ、偽りて引き去るが如くし、諜が奔って告げたので、全武は衆を悉くしてこれを躡った。神福は返って闘い、伏兵と挟撃し、首級五千を斬り、全武を捕らえた。明日、遂に臨安を囲み、鏐の将秦昶が歩兵三千を率いて降った。神福は乃ち軍中に令して鏐の先祖の墓を護り、樵采を禁じた。鏐は使者を遣わし厚く謝した。神福は鏐が死なず、臨安は未だ下すべからずとして、犒を納めて還った。

翌年、大将劉存が兵二万・戦船七百を率いて湖南を討つ。馬殷は長磧洲に伏兵を置き、楼船をもって上流を押さえ、風に乗じて砂塵を揚げ、強弩を射かけ、劉存の軍を破った。楊行密は顧全武を銭鏐に帰し、銭鏐もまた秦裴を釈放して報いた。

帝(昭宗)が鳳翔におられた時、左金吾大将軍李儼を江淮宣諭使とし、楊行密に東面諸道行営都統・検校太師・守中書令を授け、呉王に封じ、制を承って封爵を授ける権限を与え、かつ難を告げた。時に既に朱全忠の封爵を削奪しており、詔して西川・河東・忠義・幽州・保大・横海・義武・大同の八道にこれを攻撃させた。詔して朱瑾を平盧節度使とし、海州より青州・斉州を取らせ、馮弘鐸を感化節度使とし、漣水より出て徐州・宿州を攻めさせ、朱延寿をして蔡州を包囲させ、田頵に銭鏐を防がせ、楊行密に杜洪・馬殷を討たせて、朱全忠の勢力を分断させようとした。

楊行密は李神福を鄂嶽招討使とし、劉存をその副使とし、冷業を派遣して馬殷を攻撃させた。杜洪は戦いに屡々敗れ、城に籠り、朱全忠に救援を請うた。朱全忠は韓を派遣して歩兵一万を灄口に駐屯させ、荊南節度使成汭もまた衆を悉く率いて杜洪を救った。李神福が迎え撃ってこれを破り、成汭は溺死し、衆を率いて逃走した。冷業は平江に駐屯し、三つの堡塁を築いた。馬殷の将許徳勛が「定南刀」と号する精鋭の兵卒をもって夜襲し、三つの堡塁を皆破り、冷業を生け捕りにし、上高・唐年を掠めて去った。この時、杜洪は甚だ困窮し、まさに捕らえられんとしたが、田頵と安仁義が楊行密に背いたため、楊行密は李神福と劉存を召還して事を計り、杜洪は再び勢いを盛り返した。田頵が敗れた後、改めて臺濛を宣州観察使とし、再び李神福と劉存を派遣して鄂州を攻撃させた。順義軍使汪武が田頵と連合したので、歙州刺史陶雅が鐘伝を攻撃する際、兵が汪武の地を過ぎた時、汪武は迎え謁したが、陶雅は軍中で汪武を縛った。

無錫は浙江の要衝に当たるため、楊行密は驍将張可悰をしてこれを守らせた。銭鏐の精兵三千が夜襲して城を攻めたが、張可悰は百騎をもってこれを撃退した。役人たちが皆祝賀したが、張可悰は答えて言う、「まだである。諸軍に一戦を労する時が来よう」。そして火を隠し旗を収めて待機した。偵察者がこれを報告すると、銭鏐の兵が再び来襲し、張可悰はこれを大破した。

臺濛が卒去すると、楊行密は子の楊渥を宣州観察使とした。天祐二年、王茂章・李徳誠が潤州を抜き、安仁義を殺した。王茂章を潤州団練使とした。聶彦章らが水軍を率いて再び馬殷を討ち、岳州を攻めた。許徳勛と詹佶が舟千二百艘を率いて蛤子湖棄山の南に入り、木龍で舟を鎖で繋ぎ、夜に三百艘を移動させて楊林岸を遮断した。聶彦章が荊江に入り、江陵に向かおうとした。詹佶がこれを追跡し、許徳勛が梅花海鶻の快速船で進み、木龍を断ち切り、舟は江を蔽い、車弩を乱発し、聶彦章を捕らえ、溺死者は万人に及んだ。馬殷は聶彦章を釈放して帰したが、許徳勛は言った、「我がために呉王に謝せよ。我等数人がいる限り、湖・湘を望むべからずと」。

楊行密は寛大で平易であり、下を善く遇し、士に死力を尽くさせることができた。宴の度に、人に剣を負わせて侍らせた。陳州の張洪がこれに乗じて剣で楊行密を撃ったが、当たらず、近衛の将李龍がこれを捕らえて斬った。他日、侍剣は以前の如くであった。楊行密が早朝に出た時、盗賊が馬の鞅を断ったが、これを問わず、この故に人々は恩を懐いた。初め、孫儒の乱に乗じて、府庫は空尽きていたが、自らを律して費用を省き、三年と経たずして軍は富み強盛となった。かつて楚州に立ち寄った時、臺濛が盛大な供応の設えでこれをもてなしたが、楊行密は一晩で去り、寝所に衣を遺したが、皆継ぎはぎ洗い古されたものであった。臺濛がこれを返すと、楊行密は言った、「我は微賤より興り、本を忘れぬよう心がけている。君は我を笑うのか」。臺濛は大いに慚じた。城に登り、王茂章の邸宅を見て言った、「天下未だ定まらず、茂章の居宅は鬱然としている。彼が我がために身を忘れようとするだろうか」。王茂章は急いでこれを取り壊し質素にした。

帝が鳳翔に困窮されていた時、再び使者を遣わして兵を督したが、楊行密こそ朱全忠に対抗できる者と考えられた。しかし兵が宿州に至ると、糧食が尽きたと偽って言い、ついに帰還した。朱全忠が帝を脅して東遷させると、楊行密は恥憤して病に倒れた。朱全忠もまた天子が楊行密を重んじていることを知り、帝をしいして人望を絶とうとした。楊行密はこれを聞き、喪を発し、三日間政務を視ず、これにより病が重篤となり、将吏を召して家事を託し、その補佐官に後継を問うた。周隱が答えて言う、「宣州司徒(楊渥)は軽率で讒言を信じ、ただ淫酗を好むのみ。嗣とすべからず。賢者を選ぶが如し」。時に劉威が宿将として威名があったので、周隱の意は劉威に属していたが、楊行密は答えなかった。そこで王茂章に楊渥の代わりをさせ、急ぎ帰還させようとした。楊行密は親しい厳求を召して言った、「我は周隱に我が児を召すよう命じたのに至らぬ。どうしたものか」。厳求が行って周隱に会うと、召喚の文書がまだ机の上にあった。初め、楊渥が宣州を守っていた時、押牙の徐温と王令謀が楊渥と約束して言った、「王(行密)はまさに病んでおられ、而して君は外に出ている。これは恐らく奸人の計略である。他日に召喚があっても、我ら二人以外の者には応じてはならない」。この時、二人は符をもって楊渥を召喚した。楊渥が到着すると、楊行密は制を承って検校太尉・同中書門下平章事・淮南節度使留後を授けた。楊行密は楊渥に告げて言った、「左衙都將の張顥・王茂章・李遇は皆乱を恃んでいる。児のためにはこれを除かねばならぬ」。卒去。年五十四。遺言して穀物の葛で衣とし、桐の木の瓦で棺とせよと。夜に山谷に葬り、人はその所在を知らなかった。諸将は武忠と諡した。

張顥が都統の印を宣諭使李儼に返上し、節度使の職務を行おうと議した。諸将は張顥を畏れ、敢えて対する者なく、楊渥は涙を流した。騎軍都尉李涛が言った、「都統の印は、先帝が王父子に賜わったものである。どうして人に授けられようか」。諸将は唯々とした。張顥は袖を振って去り、ついに共に李儼に請い、制を承って楊渥に侍中・淮南節度副大使・東面諸道行営都統を兼ねさせ、弘農郡王に封じた。

楊渥は騎射を好んだ。初め許玄膺と刎頸の交わりを結び、位を嗣ぐと、事は皆彼が決め、諸将は敢えて逆らう者なかった。楊渥が王茂章の親兵を求めても得られず、宣州を去る時、帷帳を車に載せて行こうとしたが、王茂章は罵って与えなかった。一年余りして、兵五千を派遣して襲撃し、王茂章は杭州に奔った。秦裴が鐘匡時を捕らえると、楊渥は彼を江西制置使に任じた。朱思・範師従・陳潘が兵を率いて洪州を守っていたが、楊渥は張顥に制せられていた。この三人は楊渥の腹心であった。張顥は異謀があると脅し、陳祐を疾駆させ、短兵を懐き、微服で秦裴の帳中に入らせた。秦裴は大いに驚き、酒を命じ、三将を召し入れた。皆顔色を変え、酒が巡ると、陳祐がその罪を数え上げ、皆斬った。楊渥は周隱を召して言った、「君はかつて孤が嗣ぐべからずと言ったが、何故か」。周隱は答えず、ついにこれを殺した。

賛して言う。楊行密は賤微より興り、志を得てからは、仁恕をもって衆を善く統御し、身を治め倹約し、大過失なく、賢と謂うべし。然れども拠る所は淮・楚に過ぎず、士気は剽軽にして剛ならず。楊行密には覇の才なく、兵を提げて四方の先導となり、王室を興すことができず、朱温が天子を劫いて東するのを熟視し、謀窮まり意沮え、憤死牖下す。長く太息すべきことである。

時溥

時溥は、徐州彭城の人である。州の牙将であった。黄巢が京師を乱すと、節度使支詳は時溥と陳璠に兵五千を率いて西討させた。河陰に駐屯した時、軍が乱れ、住民を掠奪した。時溥はその衆を招き鎮め、引き返して境上に駐屯し、疑って帰還を敢えなかった。支詳が牛酒をもって士卒を労い、その罪を悉く赦すと約束すると、軍はようやく入城し、共に時溥を留後に推戴し、支詳を客館から追い出した。時溥は多額の旅装を整え、陳璠に護衛させて京師に帰したが、夜に七里亭に宿泊した時、陳璠が勝手に支詳を殺し、その家族を皆殺しにした。時溥は怒り、陳璠を宿州刺史に任命したが、やがてこれを殺した。別に将を派遣して精兵三千を率いて関中に入らせ、僖宗はこれにより武寧節度使に任命した。

黄巣敗れて東に走り、陳州を囲み、溵水に営す。秦宗権方に淮西を拠り、相聯結す。溥の地は賊の間に介し、乃ち師を悉くして之を討ち、軍鋒甚だ盛んにして、連戦すなわち克ち、東面兵馬都統を授かる。遂に許・兗・鄆の兵を合し、尚譲を太康に逐い、首数万級を斬り、譲は以て所部万人を降す。溥、将李師悦等を遣わして黄巣を追尾して萊蕪に至り、大いに之を破る。諸将争いて黄巣の首を得んとし、而して林言之を斬り、持って溥に帰し、以て天子に献ず、故に賊を破るに溥の功第一なり。検校司徒・同中書門下平章事を加えられ、進みて検校太尉・兼中書令・鉅鹿郡王と為る。宗権兵を阻むに及び、溥を拝して蔡州行営兵馬都統とす。

賊平らぎ、朱全忠と功を争い、嫌惎日を構う。孫儒方に楊行密と揚州を争い、詔して全忠を淮南節度使として其の乱を平げしむ。溥自ら以て先に起り、功名朝廷に顕れ、位は都統なりとし、顧みて得ざるを全忠得たるを、頗る悵恨す。全忠、司馬李璠・郭言等をして東せしめ、兵は宿州を道とし、溥に書を遺して仮道を請わしむ。溥辞して可ならず、其の墮つるを間い、以て兵をして之を襲わしむ。言戦い甚だ力め、解いて還る。全忠怨み、是より連歳徐・泗を略し、師は甲を弛めず。全忠自ら将いて其の郊に及び、志を得ず、引いて去る。溥窮し、李克用に師を乞う。克用為に碭山を攻め、朱友裕之を救い、各其の大将を亡う。友裕進みて宿州を攻むるも、抜くこと能わず。時に大順元年なり。

明年、丁会堤を築きて汴水を閼き、宿の郛を灌ぎ、三月、之を抜き、劉瓚をして守らしむ。而して溥の将劉知俊兵二千を引きて全忠に降り、軍益々振わず。民田作を失い、又大水饑饉を薦め、死喪十七以上に及ぶ。乃ち全忠に和を請い、全忠地を徙めて兵を罷むるを約す。昭宗、宰相劉崇望を以て之に代え、溥に太子太師を授く。溥、徐を去り且つ殺さるるを慮り、惶惑して命を受けず、軍中に諭して固く留めしむるに、詔有りて聴す可しとす。泗州刺史張諫、溥已に代わらんと聞き、即ち上書して全忠に隷せんことを請い、質子を納る。溥既に復た留まり、諫大いに懼れ、全忠為に表して鄭州刺史に徙む。諫両怨己に集まるを畏れ、乃ち楊行密に奔る。行密、諫を以て楚州刺史と為し、並びに其の民を徙し、以て兵を泗に屯す。

朱友裕軍を率いて溥を攻め、城に嬰りて出でず。全忠に語る者有りて曰く、「軍行くに吉日に非ざれば、故に師功無し」と。全忠、参謀徐璠を軍に遣わして責め諭さしむ、友裕答えて曰く、「溥困し且つ破れんとす、乃ち妖辞に徇い、士心堕つ」と。其の書を焚き、餫饋を督め、急ぎ之を攻む、溥の将徐汶出でて降る。溥朱瑾に救いを求む。全忠自ら以て兵を曹に屯し、将に去らんとし、精騎数千を留めて霍存に授けて曰く、「事急なれば、倍道して之に趨るべし」と。瑾の兵二万溥と合し、友裕を攻む、存兵を引きて疾く戦い、瑾・溥還りて壁す。明日復た戦い、霍存敗れ、之に死す。進みて友裕に逼る、友裕堅く営して出でず、瑾食尽き、兗州に還る。全忠、龐師古をして友裕に代わらしめ、溥兵を分かち固く石佛山を保つ、師古攻めて之を抜く。是より壘を完うして戦わず。王重師・牛存節等其の堞に梯して以て入る、溥金玉と妻子を徙して燕子楼に登り、自ら焚きて死す、実に景福二年なり。全忠遂に其の地を有ち、私に守を置く。

朱宣

朱宣は、宋州下邑の人なり。父は豪猾を以て裏中に聞こえ、坐して塩を鬻ぎて死に抵る。宣亡命して青州に去り、王敬武の牙軍と為る。黄巣の乱に、敬武将曹存実を遣わして兵を率いて西に関に入らしめ、而して宣は軍候と為り、道すがら鄆州に至る。是の時、節度使薛崇王仙芝を拒ぎて戦死し、其の将崔君裕州事を摂す。存実兵寡なるを揣み知り、襲い之を殺し、其の地を拠り、遂に留後を称す。宣の功多きを以て、署して濮州刺史と為し、留めて帳下の兵を総べしむ。

中和初め、魏博の韓簡東に曹・鄆を窺い、兵を引きて河を済る。存実迎え戦い、陣に死す、宣残卒を収めて城に嬰る。簡之を囲むこと六月、抜くこと能わず、兵を引いて去る。僖宗其の守りを嘉し、宣を拝して天平節度使と為し、累ねて同中書門下平章事を加う。宣衆三万を有し、弟瑾は勇三軍に冠たり、陰に天下を争わんとする心有り。瑾は残殺を嗜み、光啓中、兗州節度使斉克譲に婚を求め、親迎に托け、兵を載せて窃かに発し、克譲を逐い、府を拠りて自ら留後を称し、天子即ち帥節を以て之を授く、兄弟山東に雄張す。時に秦宗権兵を悉くして朱全忠を攻め、秦賢をして三十六壁を列せしめ、自ら将いて戦いを督む。全忠大いに恐れ、宣に救いを求む。宣と瑾身を率いて師を往きて宗権を撃ち、宗権敗走す。

全忠厚く宣に徳し、兄として之に事え、情好篤密なりしも、而して内に其の雄なるを忌み、且つ拠る所皆勁兵の地なるを、怨みを造りて乃ち之を図らんと欲す。即ち声言して宣汴の亡命を納る、書を移して詆譲す。宣新に全忠に恩有るを以て、故に檄に答えて恚望す。全忠是より顕に其の隙を結び、朱珍をして先ず瑾を攻めしめ、曹州を取り、乗氏に壁す。宣曹を救うも克たず、奔りて範に還る。範珍濮州を囲む、宣弟罕をして濮を救わしむ。全忠自ら将いて罕を撃ち、之を斬り、濮州を抜き、朱裕奔りて鄆に帰る、珍をして鄆に薄きて挑戦せしむるも、宣出でず。裕書を為りて紿き降り、珍を導きて入らしめ、之を信じ、夜兵数千を以て城に傅す。裕門を開き、軍入る、県門発ち、死者数千、石を縦って未だ入らざる者を撃ち、裨将百余りを殺す。復た曹を取り、郭詞を以て刺史と為すも、大将郭銖詞を斬りて全忠に奔る。瑾謀りて兵を悉くして汴を襲わんとす、全忠乃ち自ら瑾を攻む。瑾兵を以て単父を掠め、全忠の将丁会と転戦すれども、勝たず、去る。

景福初め、復た宣を伐ち、従子友裕をして先駆せしめ、自ら之に継ぐ。衛南に次ぐ、宣軽兵を以て夜友裕の軍を掩い、之を走らしめ、其の営を拠る。全忠未だ知らず、糧を運びて以て入る、乃ち覚り、瓠河に走り、友裕と相失い、濮より十五里に舎す。明日、友裕乃至る。宣濮州に留まる。全忠友裕をして壮騎を馳せて鄆の虚実を諜らしめ、身将いて北す。会うに宣引き還り、兵を縦って戦う、全忠南に走り、塹を絶ちて去り、幾くんか脱せず、大将多く死す。乃ち持久を謀り僥倖を極めて宣を取らんとし、歳一再其の鄙を暴し、之が食を奪い、其の工織を俘え、存する者有り。宣賀瑰をして濮州を守らしむるも、友裕に攻められ、城を委ねて走る。友裕進みて徐州を撃つ、時に溥宣に援を求むるも、戦い勝たずして還り、溥遂に亡ぶ。全忠即ち龐師古を遣わして斉州を攻めしむ、宣・瑾皆兵を以て之を戍るも、久しく下らず。乾寧元年、全忠身を往き、清河に薄きて壘を結ぶ。宣・瑾其の兵を三分して出でて之を撃つ、全忠迎え戦い東阿にす、南風急なり、汴軍下に居り、甚だ懼る。俄かに風返り、全忠得て火を放ち其の旁を焚き、熛薰天に漲り、宣等大いに北す。是の夏、全忠曹州の南に壁し、宣薄きて戦い、其の将三人を禽す。全忠還る。

翌年、朱友恭を遣わして兗州を攻撃させたが、朱瑾は堅く守り、塹壕を掘って守備した。朱宣が朱瑾に糧食を送ると、朱友恭はこれを奪った。朱全忠は自ら単父に軍を進めた。時に朱宣が李克用に救援を求め、朱友恭は曹南に退いて陣を布いた。数ヶ月後、朱全忠は自ら朱宣を討ち、その麦を刈り取り、李克用の将李承嗣らを破って帰還した。朱宣はこれを追撃し、曹州で大いに略奪した。その秋、朱全忠は再び鄆州を攻め、梁山に陣を布いた。朱宣と李克用が挑戦すると、朱全忠は伏兵を設けてこれを破り、数千級を斬首し、軍を南に引いた。李克用は朱全忠の後を追い、柏和に至ったが、大いに寒く、朱全忠の軍は多く死んだ。一ヶ月も経たぬうちに、再び兗州を包囲し、ついで龔丘の地を攻略した。賀瑰が奇兵をもって朱全忠の輜重を襲ったが、及ばず、鉅野の東で戦い、賀瑰は大敗し、捕らえられ、軍は一人も残らなかった。軍が大陂を通ると、暴風が起こり、朱全忠は言った、「人を殺すのに漏れがあるのか」と。そこで軍中を捜索し、さらに数千人を斬ると、風も止み、賀瑰を捕らえて城下に示した。

朱瑾の兄の朱瓊は斉州を守っていたが、形勢が不利なのを見て、州を挙げて朱全忠に帰順し、同姓の誼みを結んだ。朱全忠はこれを許し、軽騎で軍に至り、朱全忠は労苦をねぎらい礼を加え、ついで朱瑾を招かせた。朱瑾は精騎を率いて鬲池に至り、平生の歓びのように笑い語らい、そこで将の胡規を使者に偽って降伏の意を伝えさせ、朱瓊が自ら符節を捧げて来ることを望んだ。朱全忠はこれを疑わず、朱瑾は壮士を橋の下に伏せさせ、朱瓊が単騎で至り、ちょうど言葉を交わしていると、壮士が突然立ち上がり、朱瓊を挟み込んで連れ込み、その首を斬って城下に棄てた。汴軍は大いに震駭した。朱全忠は憤り、数日後に去った。

三年、李克用はその将李瑭を遣わして兵を莘に駐屯させ朱宣を救援させたが、羅弘信に破られた。朱全忠は大いに喜び、朱宣が窮するに違いないと見て、龐師古を遣わして朱宣を討たせた。朱宣は迎え撃ったが、馬頰河で敗れた。師古はその西門に迫ったが、兵は出て来なかった。

朱全忠が朱宣を攻めたのは、合計十度出兵し、四度敗北した。朱宣の有能な将は皆尽き、ますます内に沮喪し、朱全忠と確執できないと見て、堅く守り、城壁を高くし堀を深くして近づかせないようにした。翌年、葛従周は密かに塹壕に舟を造り、兵士がこれを越えて登った。朱宣は出奔したが、民に縛られ、追兵が至り、捕らえられて献上され、朱全忠はこれを斬ってその妻を納めた。龐師古をして兗州を攻撃させた。二月、食糧が尽き、朱瑾は自ら出て芻粟を監督し、転じて豊・はいの間を掠奪したが、子の用貞及び大将康懷英らが城を挙げて降伏した。朱瑾は麾下を率いて沂州に走ったが、刺史尹懷賓は受け入れず、そこで海州に向かった。刺史朱用芝はその衆とともに朱瑾と楊行密に奔った。行密はこれを高郵で迎え、玉帯を解いて賜り、上表して徐州節度使を領させ、兵を与えた。龐師古・葛従周は兵七万をもって楊行密を討ったが、朱瑾は清口でこれを破り、師古を撃ち殺し、従周は帰還した。軍が淠水に至り、ちょうど渡っている時、朱瑾が追い付き、殺傷溺死させてほとんど全滅させた。朱瑾は楊行密に仕えて特に力を尽くした。

孫儒

孫儒は、河南道河南府の人である。軽捷で凶暴で郷里を横行し、忠武軍に属して裨校となり、劉建鋒と親しかった。黄巢の乱に際し、兵を率いて秦宗権に属し、都将となった。光啓初年、宗権は孫儒を遣わして東都を攻めさせた。留守李罕之は出奔し、孫儒は宮殿を焼き、住民を虐殺した。河陽節度使諸葛爽が孫儒と洛水で戦ったが、爽は敗れ、孫儒もまた東進して鄭州を包囲した。朱全忠は中牟に駐屯してこれを救ったが、前進しようとしなかった。孫儒の兵は夜に登城し、刺史李璠は逃走し、孫儒は進んで河橋を抜き、ついで河陽を奪い、留後諸葛仲方は出奔した。朱全忠は河陰に陣を布き、孫儒は汴の辺境を掠奪し、全忠の兵は退き、胙城の東南に駐屯し、偽りの旗鼓を並べて疑わせたので、孫儒は帰還した。

ちょうど朱全忠と秦宗権が戦い、宗権が敗走した。孫儒はこれを聞き、孟の人を殺し、屍を河に流し、井邑を焼いて去った。宗権はまた孫儒を遣わして淮南を掠奪させ、高駢の乱に乗じ、孫儒は濠州に留まった。時に楊行密が揚州を得たので、宗権は弟の宗衡を遣わして淮南を争わせ、孫儒を副とし、建鋒を前鋒とした。孫儒は常に言った、「大丈夫たるもの、万里を苦戦して賞罰を己に由らせることができず、どうして人の下に居られようか。生きて富貴を得られず、死して廟食を受けることがあろうか」と。間もなく、汴兵が蔡を攻め、宗権が彼を召すと、孫儒は病と称して行かず、宗衡が督した。そこで直ちに帳下で大会を開き、酒が酣になると、宗衡を斬り、その衆を併せた。劉建鋒・許徳勲らと盟を結んだ。騎兵七千を有し、ついで傍らの州を攻略平定し、十日も経たぬうちに、兵数万となり、「土団白条軍」と号した。

文徳元年、揚州を破り、自ら淮南節度使となり、時溥と連和した。初め、朱全忠がかつて書を送って孫儒を招いたことがあったので、また汴に降伏の意を示し、かつ秦宗衡・秦彦・畢師鐸の首を送った。全忠はこれを根拠として朝廷に上奏した。昭宗は孫儒に検校司空しくうを授け、全忠はこれを招討副使に任命した。

龍紀初年、全軍を挙げて宣州を攻めた。楊行密が淮南を取ったので、孫儒は帰還した。行密が逃走し、初めて潤・常・蘇の三州を得て、兵はますます強くなり、劉建鋒をして潤・常を守らせた。朱全忠は楊行密と約して孫儒を図った。孫儒は江南を平定しようと謀り、ついで北進して天下を争おうとしたが、朱全忠が虚を突くことを恐れ、人を遣わして卑辞と厚い賄賂を送り、全忠は朝廷に推薦し、詔により淮南節度使を授けられた。

大順元年、楊行密が潤州を取り、安仁義をしてこれを守らせ、常州は李友をして守らせた。孫儒は怒り、軍を三つに分けて江を渡らせ、劉建鋒が再び常・潤を奪回し、仁義は逃走した。朱全忠は将の龐従らを遣わして十万の軍を高郵に急襲させた。孫儒は全軍を挙げてこれを防いだので、安仁義が間を縫って潤州を取り、劉威・田頵らが武進で劉建鋒を破り、常州を取った。杭州の銭鏐の将沈粲が蘇州から孫儒に奔った。楊行密の諸将で潤・常にいた者は、皆劉建鋒に逐われ、安仁義・田頵は潤州を棄てて逃走した。

翌年、孫儒は兵を率いて京口から転戦し、劉建鋒を召し寄せてともに進んだ。楊行密の諸将で険要に駐屯していた者は、孫儒が来ると聞いて皆逃走した。田頵・劉威らは合兵三万して、孫儒を黄池で邀え撃った。孫儒は馬殷を遣わしてこれを撃退した。孫儒は広徳に営し、勝に乗じて東渓に至ったので、淮人は大いに恐れた。楊行密は臺濛を遣わして西渓に駐屯させ、自ら軍を率いて迎え撃った。孫儒の軍はこれを数重に包囲したが、黒雲将の李簡が騎兵で馳せて救い、行密はようやく免れた。孫儒はついに宣州を包囲し、行密は銭鏐に援軍を求めた。時に渓流が暴漲し、広徳・黄池の諸陣営は皆水没し、孫儒は兵を分けて和・滁の二州を取った。

その秋、孫儒は揚州を焼き、兵を率いて西進し、檄を遠近に伝えて、五十万と号し、旌旗は数百里に連なり、過ぎる所で廬舎を焼き、老弱を殺して軍に供給した。楊行密は恐れ、逃げ去ろうとした。戴規が言った、「孫儒の軍は数敗しており、今は地を掃うようにして来て、我らと決死するのです。もし我らが降伏者を間者として揚州に至らせ、衣食を撫慰し、孫儒の軍にその家がまだ無事であると聞かせれば、人々は帰郷を思い、戦わずして捕らえることができます」と。行密はそこで親将を揚州に入らせ、孫儒の営の糧食数十万斛を取って飢民に給与した。孫儒は広徳に駐屯し、陶雅が騎軍をもって孫儒の前鋒を破り、厳公臺に駐屯した。十二月、田頵・劉威が孫儒と決戦し、皆大敗した。孫儒は連続して陣を布き次第に西に移り、行密は陶雅を遣わして潤州に駐屯させ、その帰路を扼させた。

景福元年、孫儒は再び宣州を包囲し、陵陽に駐屯した。