新唐書

巻一百八十七 列傳第一百十二 二王諸葛李孟

王重榮

王重榮は、太原の祁の人である。父の縱は、太和の末に河中の騎将となり、石雄に従って回鶻を破り、ついに鹽州刺史に至った。重榮は父の任により列校となり、兄の重盈と共に毅武をもって軍中に冠し、河中の牙将に抜擢され、伺察を主った。時に両軍の士が夜禁を犯し、捕らえてこれを鞭打った。士は戻り、中尉楊玄實に訴えた。玄實は怒り、重榮を執って譲りて曰く、「天子の爪士を、藩校が辱めるとは!」答えて曰く、「夜半に捕らえたる者は奸盗なり、誰か知らん天子の爪士なることを?」その様子を詳しく言う。玄實は嘆じて曰く、「爾の明辨にあらずば、誰かこれより知らん?」さらに府に委ね、右署に抜擢された。重榮は権詭多く、衆に厳しく憚られ、主帥といえどもこれを下さざるはなかった。やがて行軍司馬に遷った。

黃巢が長安ちょうあんを陥とし、兵を分けて蒲を攻略すると、節度使李都は支えられず、ついに賊に臣したが、内では重榮を憚り、表して自らの副とさせた。地は京師に近く、賊の調取は横暴を極め、使者は百輩に至り、伝舎に坐し、ますます兵を発し、吏は命に堪えなかった。重榮は都を脅して説いて曰く、「我が詭謀をもって難を紡ぐは、外援未だ至らざるによる。今賊の裒責日々急なり、また我が兵を収めて我を困らせば、則ち亡ぶ日無からん。橋を絶ち、城を嬰して自ら守らんことを請う。然らずんば、変生ずれば何をもってこれを制せん?」都曰く、「我が兵寡く、謀足らず。これを絶てば、禍将に至らん。願わくは節を以て公に仮せん。」ついに行在に奔った。重榮はすなわち賊の使者を悉く駆り出して斬り、ここに因って居人を大掠してその下を悦ばせた。天子は前京兆尹竇潏に間道よりその軍を慰撫させ、ここに因って詔して都に代わらしめた。重榮は官属を率いて奉迎した。潏至り、大いに士を饗し、倡言して曰く、「天子は大臣をもって土を守らしむ、誰かこれを逐うことを得ん?我がために首悪を疏せ。」衆敢えて対する者無し。重榮は佩刀を帯びて階を歴りて曰く、「首謀は、我なり、尚誰をか索めん?」潏を睨み、吏に騎を具するを促す。潏は即ち奔還した。重榮はついに留後を主った。

賊は健将朱温に舟師を率いさせて馮翊を下らせ、黃鄴は衆を率いて華陰より合攻して重榮を攻めた。重榮は士衆を感勵し、大戦してこれを破り、賊は糧仗四十余艘を棄てた。即ち檢校工部尚書を拝し、節度使となった。時に忠武監軍楊復光が陳・蔡の兵一万を率いて武功に屯し、重榮と連和し、賊将李詳を華州に撃ち、執いて徇らせた。賊は尚譲を遣わして来攻し、朱温は勁兵を率いて前に居り、重榮の兵を西関門に破った。ここにおいて夏陽より出兵し、河中の漕米数十艘を掠めた。重榮は兵三万を選んで温を攻め、温は懼れ、舟を悉く鑿ちて河に沈め、ついに同州を挙げて降った。復光はこれを斬らんと欲したが、重榮曰く、「今賊を招くに、一切罪を釈す。且つ温は武鋭にして用いるに足る。これを殺すは不祥なり。」表して同華節度使とす。詔有りて即ち河中行營招討に副え、名を全忠と賜う。

巢は二州を喪い、怒り甚だしく、自ら精兵数万を将いて梁田に壁した。重榮は華陰に軍し、復光は渭北に軍し、掎角としてこれを攻め、賊は大敗し、その将趙璋を執り、巢は流矢に中りて走った。重榮の兵もまた死耗相応じた。重榮は巢の復振を懼れ、これを憂い、復光と計る。復光曰く、「我が世々李克用と共に憂患を分かち合う。その人忠にして難を顧みず、義に死すること己の如し。若し師をこれに乞わば、事蔑として済まざるは無し。」すなわち使者を遣わして連和を約す。克用は陳景斯に兵を総らせて嵐・石より河中に赴かせ、親しく師を率いてこれに従い、ついに巢を平げ、京師を復した。功により檢校太尉・同中書門下平章事に至り、瑯邪郡王に封ぜられた。累進して檢校太傅を加えられた。

中人田令孜は重榮が鹽池の饒を占拠するを怒った。当時巨盗甫だ定まり、国用大いに乏しく、諸軍仰ぐ所無く、令孜は神策軍使となり、二池を塩鉄に領属させ、軍食を助けんことを請うて建白した。重榮は許さず、奏言して曰く、「故事、歳に鹽三千乗を有司に輸す。則ち余れる所を斥けて以て軍を贍う。」天子は使者を遣わして旨を諭したが、聴かなかった。令孜は重榮を兗海節度使に徙し、王処存を以てこれに代え、詔して克用に兵を将いて河中を援げしめた。重榮は上書して令孜が方鎮を離間するを劾した。令孜は邠寧の朱玫を遣わして進討せしめ、沙苑に壁した。重榮は克用に書を詒し、且つ言う、「密詔を奉ず、公の到るを須ち、我をして公を図らしむ。これは令孜・朱全忠・朱玫の上を惑わすなり。」ここに因って偽詔を示す。克用は方に全忠と隙有り、これを信じ、全忠及び玫を討たんことを請う。帝は数たび詔して和解せしむ。克用は河中の兵を合わせて沙苑に戦い、玫は大敗し、邠州に奔った。神策軍は潰れて京師に還り、ついに大掠した。克用は勝に乗じて西し、天子は鳳翔に走った。

俄かに嗣襄王煴が位を僭す。重榮は命を受けず、克用と謀って王室を定めんとす。楊復恭が令孜に代わって神策を領す。故に克用と善くし、諫議大夫劉崇望を遣わして詔を賫し、天子の意を諭す。両人これに聴命し、即ち縑十万を献じ、願わくは玫を討って自ら贖わんとす。崇望還り、群臣皆賀す。重榮はついに煴を斬り、長安復た平らぐ。然れども性悍酷にして、殺戮多く、放捨少なし。嘗て大木を河上に植え、内に機軸を設け、意に忤う者有れば、輒ちこれを其上に置き、機発すれば皆溺れた。嘗て部将常行儒を辱めしこと有り、行儒これを怨む。光啓三年、兵を引いて夜府を攻む。重榮は外に亡出し、詰旦これを殺し、重盈を推立した。

重盈はこれ以前すでに汾州刺史を歴任せり。黃巢が淮を度るや、陜虢觀察使に抜擢され、重榮が河中を占拠するや、三遷して檢校尚書右仆射に至り、即ち節度使を拝した。未幾、同中書門下平章事となる。重榮に代わるに及んで、長子の珙を留めて節度事を領せしめ、入って行儒を殺し、軍復た安んず。昭宗立ち、太傅・兼中書令に進み、瑯邪郡王に封ぜられる。父子兄弟相継いで帥守し、而して從子の蘊もまた忠武節度使となった。

乾寧二年、重盈死す。軍中その兄重簡の子珂を以て重榮に出継せしむ。故に推して留後とす。珙は弟の絳州刺史瑤と河中を争い、上言して曰く、「珂は本家の蒼頭なり。願わくは大臣を選んで河中を鎮せしめよ。」また朱全忠に書を以てこれを言う。珂急ぎ、すなわち使者を遣わして李克用に婚を請う。克用これを天子に薦め、鎮を嗣ぐを許さる。然れども猶お崔胤を河中節度使とす。珙は復た珂を王行瑜・李茂貞に構え、曰く、「珂は代を受けず、且つ晉の親なり。将に公に利あらざらんとす。」行瑜等は韓建と約して共に珙を薦む。詔して曰く、「吾は重ねて已に珂を授けたり。重榮は大功有り、廃すべからず。」行瑜怒り、その弟行約をして珂を攻めしむ。克用は李嗣昭を遣わしてこれを援げしめ、珙を猗氏に破り、その将李璠を獲る。

三鎮は帝がその請を却けたるを銜み、兵を連ねて京師を犯し、帝を廃し、執政を誅して吉王を立てんと謀り、固く珙に河中を授けんことを請う。克用これを聞きて怒り、師を以て三鎮を討つ。瑤・珙の兵引き去る。克用は絳州を抜き、瑤を斬って渭北に屯し、行約を朝邑に破る。

行約は京師に走る。弟の行実は左軍にあり、共に樞密使駱全瓘を説き、帝を邠に幸せんことを謀る。右軍の李継鵬は中尉劉景宣に告ぐ(二人は茂貞の党なり。)、兵を以て全瓘等を劫き、帝を鳳翔に幸せしめんと欲す。両軍合して承天門街に噪ぎ、帝楼に登りてこれを和らげ諭す、継鵬怒り、輒ち帝を射、火を放ちて門を焚く、帝諸王及び衛兵を率いて戦う、継鵬の矢帝の冑に及び、軍乃ち退く。帝出でて定州の将李筠の軍に幸す、嗣延王戒丕・嗣丹王允、鹽州六都の兵を以て帝に従い啓夏門を出で、郊に次ぐ。両軍鹽州の兵の鋭きを憚り、各その軍に走る。帝莎城に次ぎ、百官継ぎて至り、士民従う者亦数万。帝谷中に入りて自ら固めんと欲す、谷に「没唐石」有るを以て、これを悪み、石門に徙る。民匿れて山谷の間に保つ、帝出づる毎に、或いは飴漿を献ず、帝馬を駐めて嘗め、民皆涕を流す。既にして嗣薛王知柔及び劉光裕を遣わして京師に還らしむ。

克用使者を遣わして行在に奔問す、帝因りて克用・珂に詔し兵を以て新平に趨らしめ、又涇州の張钅番に詔し克用の軍に会して岐陽を扼せしむ。克用河中に在りて未だ出でず、帝茂貞の逼るを懼れ、復た嗣延王戒丕をして禦服玉器をこれに賜り、その西を督せしむ、乃ち渭北に壁し、進みて渭橋に営す。ここにおいて行瑜は興平に壁し、茂貞は鄠に壁す。行瑜の兵数卻き、茂貞懼れ、継鵬を斬り、首を伝えて謝す。継鵬は姓は閻、名は珪、左神策軍の拍張の人、茂貞の養子たりという。行瑜の官爵を削ることを詔し、克用を以て邠寧四面行営都招討使と為し、珂を糧料使と為す。克用子の存貞を遣わして天子に宮に還らんことを請わしむ。騎三千を以て三橋を戍せしむことを詔す。

帝既に還り、珂に檢校司空しくうを加え、節度使と為す。克用女を以てこれに妻せしめ、珂親しく太原に迎え、李嗣昭を以て河中を助け守らしめ、因りて珙を攻む、珙戦いて数北す。珙威虐を任じ、人を殺し首を断ちて前に置き、而して顏色泰然自若たり、下恐れ、敢えて叛かず、然れども稍々弱り、闘志無し。光化二年、部将の李璠に殺され、自ら留後と為り、詔して珙に代わり節度す。又衆を失い、凡そ五月、牙将の朱簡に殺され、その地を挈ちて朱全忠に入り、表して節度使・同中書門下平章事を授けられ、更めて友謙と名乗る。

珙は給事中王貨等十余人を殺し、幕府戮辱に遭うこと甚だ衆く、人罪有れば輒ち刳いて以て逞しむ。貨は、故に常州刺史たり、江湖に難を避け、帝剛鯁なるを聞き、給事中を以て召す、道陜に出づ。珙柄任せんと且つ謂い、厚くこれを礼す。その武暴を鄙み、意を降さず。既に宴し、珍器音楽を盛んに列す、珙貨に請うて曰く、「仆今日子弟の列に在るを得、大なる賜なり。」と。三たび請う、貨答えず。珙勃然として曰く、「天子公を召す、公此に留まるべからず。」と。遂に罷め、吏を遣わして道に就きてこれを殺し、その家を族し、諸河に投じ、以て溺死せしむと聞こゆ。帝詰むること能わず。珙死し、太師を贈る。陜州の冤死者を詔し、有司吊祭し、その家を存問す。

初め、全忠楊行密を撃ちて克つこと能わず、荊・襄・青・徐等の道に諷して己を都統と為して行密を討たしめんことを請わしめ、帝猗違して未だ報えず;而して珂と太原・鎮定等の道も亦行密に都統を加えて以て全忠を討たんことを請う。ここにおいて両にこれを罷め、全忠珂を怨み、忘れず。帝劉季述に廃せられ、珂憤り言色に見え、屡々賊を討つ謀を陳ず。既に反正し、首に方物を献じ、帝甚だこれに倚る。而して全忠は克用方に強きを以て、敢えて兵を加えず。王镕の詘服するに及び、定州を抜き、而して克用の兵折るるに及んで、乃ちその将の張存敬に謂いて曰く、「珂は太原に恃みて我を侮慢す、爾一縄を持してこれを縛れ。」と。存敬兵数万を以て河を度り、含山より襲い、絳州刺史陶建釗・晉州刺史張漢瑜皆降り、何絪を以てこれを戍し、進みて珂を攻む。全忠師を率いて継ぎて進み、即ち珂を劾して克用と交構し、方鎮に事を生ぜしめ、赦すべからずとす。珂太原に師を乞う、絪に迮せられ、進むこと能わず。珂急ぎて妻を使わし克用に書を遺わして曰く、「賊我を攻め、朝夕俘と見えん、大梁に食を乞わん。」と。克用答えて曰く、「道且つ断たれ、往きて救わば必ず俱に亡びん、朝廷に帰するに如かず。」と。珂窮し、使者を遣わして李茂貞に告げて曰く、「上初め反正し、詔して藩鎮相疑うこと無からしむ。而るに朱公約を顧みず、以て弊邑を攻む。弊邑亡びば、則ち邠・岐は君の保つ所に非ず、天子の神器は手を斂めて人に付せん。宜しく華州の韓公と精鋭を出して潼関を固め、以て兵勢を張るべし。仆武無きも、公其れ我に西偏の地を恵み、以て扞守せしめよ。蒲は、請う公自らこれ有て。関西の安危、国祚の長短、公の此の挙に係る。」と。茂貞答えず。

珂益々蹙る、会うに橋毀たれ、潜かに舟を具えて将に遁れんとす、夜守兵に諭すも、肯て用いらるる者無し。牙将の劉訓寝門を叩く、珂変有るかと疑い、これを叱す、訓自らその衣を袒いで曰く、「苟も它あらば、請う臂を断ちて自ら明かさん!」と。珂出で、計の宜しき所を問う、答えて曰く、「若し夜に出でば、人将に舟を争わん、一夫鴟張すれば、禍その手に係らん。旦日に如くば、情を以て軍中に諗えば、宜しく楽従する者有るべく、可なれば則ち済わん、否なれば諸将を召して成を行い以て敵を緩め、徐ろに向かう所を図る、上策なり。」と。珂これを然りとす。明日、城に登りて存敬に語りて曰く、「吾は朱公に父子の歓有り、君姑く退きて舍せよ、須らく公の至るを待ち、吾自ら命を聴かん。」と。乃ち太原の諸将を執り並びに節印を奉じて存敬の軍に内し、大幡を城上に豎て、兄の璘と諸将の樊洪等を遣わして存敬に見えしむ。存敬囲みを解きて兵を以て戍す。

全忠自ら洛より至る。全忠は、王の出なり、初め賊に背きて重榮に事え、甥舅と約し、その己を全うするを徳とし、日月を指して曰く、「我志を得ば、凡そ氏王なる者は皆これに事えん。」と。ここに至りて、誓言を忘れ、重榮の墓を過ぎ、偽り哭いて祭る。虞郷に次ぎ、珂面縛牽羊して以て見えんと欲す、全忠報えて曰く、「舅の恩、日を以て忘るべからず。君若し亡国の礼を以て見えば、黄泉其れ我を何と謂わん?」と。珂出で迎え、手を握りて泣下し、轡を駢べて以て入る。旬日居りて、存敬を以て河中を守らしめ、珂の室を挙げて汴に徙す。後に入覲せしめ、人を遣わして華州に於いてこれを賊す。

重榮より珂に伝うる、凡そ二十年。

諸葛爽

諸葛爽は、青州博昌の人。県の伍伯たり、令笞いてこれを苦しむ、乃ち亡命し、裏中に沈浮す。龐勛反し、盗中に入りて小校と為る。勛の勢蹙るるに及び、百余りを率いて泗州の守将湯群と自ら帰し、累遷して汝州防禦使と為る。李琢雲州に於いて沙陀を討つ、表して北面招討副使と為す。夏綏銀節度使に徙り、檢校尚書右仆射。

黃巢京師を犯す、詔して代北行営の兵を率いて入衛せしめ、同州に次ぎ、賊に降り、偽りに河陽節度使を署し、羅元杲に代わる。元杲は、本神策の将、状短陋、中官の勢に倚り、財を剽ぎて京師に輸す、凡そ鉅万、人これを怨む。爽至り、州人を募りて戦わしむるも、衆従わず、相率いて爽を迎え、元杲行在に奔る。爽間道より表を奉じて僖宗に自ら明かす、詔して節度使を拝す。李克用陳許を援け、天井関を道す。爽懼れ、肯て道を仮さず、出でて萬善に屯す。克用自ら河中より汝・洛に趨る。

諸葛爽は累次京師東南面招討諸行營副都統・左先鋒使を授けられ、兼中書門下平章事となった。朱溫が賊として同州を守ると、爽は軽兵を率いてこれを攻め入った。温は旗を伏せ伏兵を設けて待ち受け、爽は賊が遁走したと思い、兵士は甲冑を解き宿舎に入った。伏兵が発すると、爽は鎧馬を悉く棄てて奔還した。修武に至り、魏博の韓簡に撃破され、敢えて入らなかった。簡は将趙文弁を留めて河陽を戍らせ、自らは鄆を攻めた。時に中和二年である。河陽の人が爽を誘い、爽は金・商より馳せ、再びこれを入り、文弁及び戍人を厚礼して魏に還した。ここにおいて爽は新郷を攻め、簡は鄆より来り、獲嘉の西で戦った。簡は密かに関中を窺い、その下は悦ばず、裨将楽彦禎が衆の隙を間いて、その軍を率いて先に還った。故に簡の兵八万は自潰し、相枕して清水に溺れ、流れざるに至った。明年、詔して爽を東南面招討使とし、秦宗権を伐たせ、李罕之を自副とすべく表した。

諸葛爽は賤役の出身ながらも、吏治に善く、法令は澄明統一し、人に愁嘆の声無かった。累次抜擢されて檢校司空となった。光啓二年に卒した。その将劉経は沢州刺史張言と共に爽の子仲方を立てて留後とし、蔡賊孫儒に攻められ、汴に奔り、儒は孟州を取った。

李罕之

李罕之は陳州項城の人である。少より拳捷であった。初め浮屠となり、市に行き乞食したが、一日終わっても得る所無く、鉢を投げ袈裟を脱ぎ去り、衆を聚めて五臺の下で攻掠した。先に蒲・絳の民は摩雲山に壁を築いて乱を避け、群賊往きて攻むるも克たず、罕之は百人を以て直ちにこれを抜き、衆は「李摩雲」と号した。黄巢に従って江を渡り、高駢に降り、駢は表して光州の事を知らしめた。秦宗権に迫られて項城に奔り、余衆を収めて諸葛爽に依り、署して懐州刺史とした。爽が宗権を伐つや、即ち表して自副とす。睢陽に屯し、功無し。また表して河南尹・東都留守とし、蔡を捍がしむ。

河東の李克用は上源の難を脱し、喪気して還るや、罕之は迎謁して甚だ謹み、労餼を加等し、厚く相結んだ。罕之は府を因って屯し、孫儒の来攻に会い、罕之は出でず。数ヶ月して黽池に走り保つ。東都陥落し、儒は宮闕を焚き、居民を掠めて去る。爽は将を遣わして東都を収めんとし、罕之はこれを逐い出し、爽は制することができなかった。俄かに爽死し、その将劉経・張言は共に爽の子仲方を立て、罕之を去らんと欲す。而して罕之は故に郭璆と隙有り、擅に璆を殺し、軍中悦ばず。経は衆の怒りを間い、その壁を襲い、罕之は退き乾壕を保ち、経は追撃すれども、反ってこれに敗れ、勝に乗じて洛陽らくようの苑中に入り屯す。経は戦い勝たず、河陽に還る。罕之は鞏に屯し、将に汜を渡らんとす。経は張言を遣わして河上に拒がしむれども、言は反って罕之と合し、経を攻むるも克たず、懐州に屯す。

孫儒は仲方を逐い、河陽を取り、自ら節度使と称す。俄かに宗権敗れ、河陽を棄てて走る。罕之・言は進みてその衆を収め、河東に援を丐う。克用は安金俊を遣わし兵を率いてこれを助け、河陽を得た。克用は表して罕之を節度使・同中書門下平章事とす。詔有りて属籍に与る。また表して言を河南尹・東都留守とす。

罕之は言と甚だ篤し、然れども性猜暴なり。是の時大乱の後、野に遺稈無く、部卒は日々人を掠って食す。また絳州を攻め、これを下し、復た晋州を撃つ。王重盈は汴兵を出して救わんと欲し、罕之は囲みを解いて還る。而して言は積聚に善く、民を勧めて力耕せしめ、儲廥稍く集まる。罕之は食乏しく、士はこれに仰ぎて給す。これを求むること涯無く、言は厭うこと能わず、罕之は河南の官吏を拘えて笞督す。また東方より行在に貢輸するもの、多くは罕之の邀頡に遭う。重盈は言に反間を為す。文徳元年、罕之は悉く兵を以て晋州を攻め、言は夜河陽を襲い、罕之の家を俘う。罕之窮し、河東に奔る。克用は復た表して沢州刺史とし、河陽節度使を領せしめ、李存孝・薛阿檀・安休休に師三万を率いさせて言を攻めしむ。城中食尽き、言は孥を汴に納めて救いを求め、全忠は丁会・葛従周・牛存節を遣わして来援せしめ、沅河聚に戦う。休休利あらず、全忠に降り、存孝還る。全忠は更に丁会を以て河陽節度使とし、言は洛陽に帰る。

罕之は沢州を保ち、数え出でて懐・孟・晋・絳を鈔し、休む歳無し。人は匿れて山谷に保ち、出でて樵汲する者、罕之は俘斬略く尽くし、数百里に炊煙無し。克用は罕之・存孝を遣わして孟方立を攻め、磁州を抜く。方立の戍将馬溉、兵数万を以て琉璃陂に戦い、罕之は溉を禽え、その衆を敗る。大順初、汴将李讜・鄧季筠、罕之を攻む。罕之克用に告急し、存孝を遣わし騎五千を以てこれを救わしむ。汴の士、罕之に呼びて曰く「公は沙陀に倚り、大国を絶つ。今太原囲まれ、葛司空上党に入る。旬日を俟たず、沙陀穴処する所無からん」と。存孝怒り、兵五百を引いて讜の営に薄き、呼びて曰く「我れ沙陀の穴を求むる者、爾の肉を須いて吾が軍を飽かしめん。肥える者出でて闘え」と。季筠兵を引いて決戦し、存孝奮って槊を馳せ、直ちに季筠を取らんとす。讜夜走り、馬牢川に追いてこれを敗る。克用王行瑜を討つに、表して罕之を副都統・檢校侍中とす。行瑜誅され、隴西郡王に封ぜられ、檢校太尉・兼侍中となる。

罕之は功多きを恃み、嘗て克用の愛将蓋寓に私に一鎮を求め、寓これを請うれども、克用許さず、曰く「鷹鹯飽けば則ち去る。我れその翻覆を懼るるなり」と。光化初、昭義節度使薛誌勤卒す。罕之は夜潞を襲い、これに入り、自ら留後と称し、克用に報じて曰く「誌勤死す。他の盗至らんことを懼れ、命を俟たず輒ち潞に屯す」と。克用は李嗣昭を遣わし先ず沢州を撃たしめ、罕之の家屬を拘えて太原に送る。罕之は沁州を攻め、刺史・守将を執り、款を汴に送る。全忠は表して罕之を昭義節度使とし、丁会に命じてこれを援がしむ。嗣昭と含口に戦い、嗣昭利あらず、葛従周沢州を取る。嗣昭又た罕之を攻む。罕之暴に病を得、事を為す能わず。会は代わって戍り、全忠は更に罕之を以て河陽三城節度使とし、行中に卒す。年五十八。未だ幾ばくもせず、嗣昭復た沢州を取り、李存璋を以て刺史とし、進みて懐州を収め、河陽を攻む。汴将閻宝兵を引いて至り、嗣昭還る。

初め、儒が東都を去るや、井闬百室に満たず。言は数年治め、人は安んじてこれに頼り、占籍五六万に至り、池壘を繕い、第署を造り、城闕復た完し。全忠は言が己に異なるを懼れ、乃ち節を天平に徙し、韋震を以て河南尹とす。爽の諸将に伝地する者無く、言の後嗣は全義と名乗る。

王敬武

王敬武は青州の人である。平盧軍に隷して偏校となり、節度使安師儒に事う。中和中、盗斉・棣の間に発し、敬武を遣わして撃定せしむ。已に還りて、即ち師儒を逐い、自ら留後と為る。時に王鐸方に諸道行營軍を督して京師を復せんとし、因って制を承りて敬武を平盧節度使に授け、その兵を趣かせて西に向かわしむ。京師平らぎて、進みて檢校太尉・同中書門下平章事となる。龍紀元年に卒す。

子の師範、年十六にして、自ら留後を稱し、嗣いで事を領す。昭宗自ら太子少師崔安潛を以て節度を領せしむるも、師範は命を拒む。時に棣州刺史張蟾、安潛を迎ふ。師範、部將盧弘を遣はして之を攻めしむ。弘、蟾と連和す。師範、金を以て之を啗ひて曰く、「君若し先人を顧み、其の祀を絶えざらしめば、君の惠なり。然らずんば、願はくは墳墓に死せん。」弘、之を輕んじ、備へを爲さず。師範、伏兵を路に迎へ、部將劉莘、弘を斬る。遂に棣州を攻む。蟾、朱全忠に救ひを請ふ。全忠、使を馳せて諭解せしむ。師範、其の城を拔き、蟾を斬る。而して安潛敢へて入らず。

師範、儒學を喜び、孝を謹み、法に於て私する所無し。舅醉ひて人を殺す。其の家之を訴ふ。師範、厚く賂ひて謝す。訴ふる者置かず。師範曰く、「法は我敢て亂す可からず。」乃ち舅の罪に抵す。母之を恚る。師範、堂下に立ち、日に三四至るも、見るを得ずして三年、省戶外に拜して敢へて懈らず。青州を以て父母の籍する所と爲す。每に縣令至れば、威儀を具へて入謁す。令固辭す。師範、使を遣はして坐に挾み、廷中に拜して乃ち出づ。或ひは諫めて不可とす。答へて曰く、「吾先世に恭しくし、且つ子孫に本を忘れざるを示すなり。」

全忠既に鄆州を併せ、兵を遣はして師範を攻む。師範之に下る。會ふに全忠鳳翔を圍む。昭宗、方鎮に難に赴かしむるを詔す。師範の全忠に附くを以て、楊行密の部將朱瑾に青州を攻めしめ、且つ代はりて平盧節度と爲らんと欲す。師範之を聞き、哭して曰く、「吾國の爲に藩を守る。君危きに持たず、可ならんや。」乃ち行密と連盟す。將張居厚・李彥威を遣はし、甲槊二百輿を以て獻ずる者と紿し、華州に及ぶ。先づ十輿を内る。閽入覺ゆ。衆甲を擐きて噪く。全忠の守將婁敬思を殺す。是の時崔胤正に華に在り、門を閉ぢて戰を拒み、居厚を執りて全忠に還す。

劉鄩兗州を襲ひ、之に入る。師範亦た潛かに兵を河南に入れ、徐・沂・鄆等十餘州同日に並び發す。全忠、從子友寧に軍を率ゐしめて東討せしむ。是の時帝長安に還る。故に全忠魏博軍を併せて齊州に屯す。王茂章正に兵二萬を以て師範の弟師誨と合し密州を攻め、之を破り、張訓を刺史と爲す。沂州を攻め、其の兵を敗り、青州に還り、半舍して屯す。友寧正に博昌を攻め、未だ下らず。全忠戰を督むること急なり。友寧民十萬を驅ひ、木石を負ひ、山を築きて城中に臨む。城陷る。老少を屠り屍を清水に投ず。遂に登州を圍む。茂章、友寧を啗はんと欲すも、肯へて救はず。未だ幾ならずして城破る。友寧勝に負ひて別屯を攻む。茂章汴軍の怠るを度り、師範と合して友寧を石樓に擊ち、其の首を斬り、行密に傳ふ。

全忠怒り、悉く軍二十萬を以て倍道して至る。茂章營を閉ぢ、軍の懈るを伺ひ、壁を毀ちて出で鬥ふ。還りて諸將と飲み、訖りて復た戰ふ。全忠望見し、嘆じて曰く、「吾將有りて是の如し、天下平ぐるに足らず。」是に於て退きて臨淄に屯す。茂章全忠を畏れ、乃ち軍を斂めて南し、李虔裕をして五百人を以て後拒せしむ。茂章衣を解きて寐る。虔裕呼びて曰く、「追ひ至る。將軍速やかに去れ。」茂章曰く、「吾共に決死せん。」虔裕固く請ふ。茂章乃ち去る。已にして追ひ至る。虔裕一軍覆る。茂章免る。全忠虔裕を見、釋さんと欲すも、瞋目して大罵し死す。張訓諸將を召して謀りて曰く、「汴人至る。師少なし。何を以て之を待たん。」衆城を焚きて亡ぶるを請ふ。訓曰く、「然らず。」即ち府藏を封じ、縣門を下し、密かに兵を引きて去る。汴軍府庫の完きを見、之を德とし、追はず。

全忠楊師厚を留めて青州を圍ましめ、師範の兵を臨朐に敗り、諸將を執り、又其の弟師克を獲る。是の時、師範の衆尚ほ十餘萬、諸將決戰を請ふ。而して師範弟の故を以て、乃ち降を請ふ。全忠其の弟を歸す。師範に假して節度留後事を知らしむ。師範錢二十萬緡を獻じて以て軍に謝す。汴將劉重棣州刺史邵播を執り、其の書八百紙を得る。皆師範に戰守を教ふ。全忠憚りて之を殺す。

葛從周兗州を圍む。劉鄩肯へて下らず。從周師範の命を以て之を招く。乃ち將士を盡く出だし、門を開きて降る。從周爲に裝を辨じ、汴に詣らしむ。鄩但だ素服驢に乘りて往く。全忠冠帶を賜ふ。辭して曰く、「囚縶に就かんことを請ふ。」許さず。既に見て、之を慰め、酒を以て飲ます。固く辭す。全忠笑ひて曰く、「兗州を取る、量何ぞ大なる邪。」擢きて署して都押衙と爲し、諸舊將の上に在らしむ。諸將趨りて入る。鄩一も讓ること無し。全忠之を奇とす。

歲餘り、師範を汴に徙す。亦た縞素して罪を請ふ。全忠禮を以て見る。表して河陽節度使と爲す。既に唐の禪を受く。友寧の妻仇人を朝に訴ふ。乃ち師範を洛陽に族す。先づ是れ、有司第の左に坎を爲し、之に故を告ぐ。師範乃ち家人と宴し、少長列坐し、使者に語りて曰く、「死は固より免れず。予懼くは之を坑すれば則ち昭穆序を失ひ、先人地下に見ゆる可からず。」酒行くに次ぎて戮を受くる者二百人。

孟方立

孟方立、邢州の人。始め澤州天井の戍將と爲り、稍く遊弈使に遷る。中和元年、昭義節度使高潯黃巢を擊ち、石橋に戰ひ、勝たず、華州に保つ。裨將成鄰に殺され、還りて潞州に據る。衆怒る。方立兵を率ゐて鄰を攻め、之を斬り、自ら留後を稱し、擅に邢・洺・磁を裂きて鎮と爲し、邢を治めて府と爲し、號して昭義軍と曰ふ。潞人監軍使吳全勖に兵馬留後を知らしむるを請ふ。時に王鐸諸道行營都統を領す。潞未だ定まらざるを以て、墨制を以て方立に假す檢校左散騎常侍さんきじょうじ・兼御史大夫、邢州事を知らしむ。方立受けず、全勖を囚へ、書を以て鐸に請ひ、願はくは儒臣を得て潞を守らしめんとす。鐸參謀中書舍人鄭昌圖をして昭義留事を知らしめ、遂に帥と爲さんと欲す。僖宗自ら舊宰相王徽を用ひて節度を領せしむ。時に天子西に在り、河・關雲擾す。方立地を擅にし、而して李克用潞州を窺ふ。徽朝廷能く制すること未だならんを度り、乃ち固く昌圖を讓る。昌圖治むること三月に過ぎず、輒ち去る。方立更に表して李殷銳を刺史と爲す。潞險にして人悍し、數へて賊大帥を爲して亂るを謂ひ、之を銷懦せんと欲し、乃ち治を龍岡に徙す。州の豪傑遷を重んじ、懟言有り。會ふに克用河東節度使と爲る。昭義監軍祁審誨師を乞ひ、昭義軍を復せんことを求む。克用賀公雅・李筠・安金俊三部將を遣はして潞州を擊たしむ。方立に爲りて破らる。又李克修をして攻め取らしむ。殷銳を殺し、遂に潞州を併せ、表して克修を節度留後と爲す。初め、昭義潞・邢・洺・磁の四州有り。是に至りて、方立自ら山東の三州を以て昭義と爲し、而して朝廷亦た克修を命じ、潞州舊軍を以て之に畀ふ。昭義兩節有るは、此より始まる。

克修、字は崇遠、克用の從父弟。馳射に精しく、常に征伐に從ひ、左營軍使より擢きて留後と爲り、進みて檢校司空に至る。

方立は朱全忠を頼みとして助けとし、故に克用は邢州・洺州・磁州を撃つこと虚歳なく、地は戦場となり、人々は耕作することができなかった。光啓二年、克修は邢州を撃ち故鎮を奪い、武安に進攻した。方立の将呂臻・馬爽は焦岡で戦い、克修に破られ、首級一万を斬られ、呂臻らを捕らえられ、武安・臨洺・邯鄲・沙河を陥落させられた。克用は安金俊を邢州刺史とし、これを招撫させた。方立は王镕に兵を請うと、镕は兵三万を以てこれに赴き、克修は還った。後二年、方立は部将奚忠信に兵三万を督して遼州を攻めさせ、金を以て赫連鐸を誘い連和せんとした。時に契丹が鐸を攻め、軍は期に遅れ、忠信はその兵を三分し、鼓を鳴らして進んだが、克用は険阻に伏兵を置き、忠信の前軍は壊滅した。既に戦うや、大敗し、忠信を捕らえ、残りの兵は逃げ、脱して帰った者はわずかに十二分の一であった。龍紀元年、克用は李罕之・李存孝を使わして邢を撃たせ、磁・洺を攻めさせると、方立は琉璃陂で戦い大敗し、その二将を捕らえ、斧と鉄床を背負わせ、邢の陣営の前で示し、「孟公(方立)速やかに降れ、その首を斬る者あらば、三州の節度使を仮授せん」と呼ばしめた。方立は力尽き、また属州は破壊され、人心は恐れた。性質剛急にして、下を扱うに恩少なく、夜自ら城壁を巡行すれば、兵士は皆傲慢で、労を告げた。自ら顧みて再び振るわざるを知り、乃ち還り、毒を仰いで自殺した。

従弟の遷は、平素より士心を得ており、衆はこれを推して節度留後とし、全忠に援を請うた。全忠は時溥を攻めている最中で、直ちには至らず、王虔裕に精鋭の甲兵数百を率いて赴かせ、羅弘信に仮道を請うたが許されず、乃ち間道を急いで邢州に入った。大順元年、存孝が再び邢を攻めると、遷は邢・洺・磁の三州を携えて降伏し、王虔裕ら三百人を捕らえて献上し、遂に太原に移された。(克用は)安金俊を邢・洺・磁団練使に表し、遷を汾州刺史とした。

贊して曰く、乱を以て乱を救うは、跋扈する者能くす。乱を以て乱を救う能わざるは、険賊なる者能くす。蓋し乱を救うは覇に似たり、然れども之に似たるのみ、故に功を共にすること足らず。王重栄を観るに、寧ろ信ぜざるか。黄巢を破り、李克用を佐けて京師を平らげ、当世に為す者あるが若し。俄かに私隙を奮い起こし、天子を逼って出奔せしめ、朱玫を馘り、偽りの襄王を仆すと雖も、「王室を定む」と謂うは、実に之を卑しむなり。身は部将の手に死し、乱を救いて而して乱に卒す、重栄は両つながら之を得たり。朱全忠を殺さずして、全忠の為に誅せられ、その嗣を絶つ、宜なるかな。余は皆庸奴下材にして、訾責すべき所なしと云う。