新唐書

巻一百三十七 列傳第六十二 郭子儀子:曜 子:晞 晞孫:承嘏 子:曖 曖子:釗 鏦 銛 曖孫:曙 母弟:幼明 幼明子:昕

郭子儀

郭子儀、字は子儀、華州鄭県の人なり。身長七尺二寸。武挙の異等にて左衛長史に補せられ、累遷して単于副都護・振遠軍使となる。天宝八載、木剌山に初めて横塞軍及び安北都護府を築き、詔して即ち軍を以て使と為す。俄かに地の偏にして耕すべからざるを苦しみ、永清に徙りて築き、天徳軍と号し、また使を以て九原太守を兼ぬ。

十四載、安禄山反す。詔して子儀を衛尉卿・霊武郡太守と為し、朔方節度使を充て、本軍を率いて東討せしむ。子儀は静辺軍を収め、賊将周万頃を斬り、高秀巌を河曲に撃ちて之を破り、遂に雲中・馬邑を収め、東陘を開く。御史大夫を加う。賊常山を陥し、河北の郡県皆没す。会に李光弼賊の常山を攻め、之を抜く。子儀軍を引きて井陘を下り、光弼と合し、賊史思明の衆数万を破り、幰城を平らぐ。南に趙郡を攻め、賊四千を禽え、之を放ち、偽守郭献璆を斬り、常山に還る。思明衆数万を以て軍に尾し、行唐に及ぶ。子儀騎五百を選び更に出でて之を挑む。三日にして、賊引き去る。之に乗じ、又沙河に破り、遂に常陽に趨りて守る。禄山益々精兵を出だして思明を佐く。子儀曰く、「彼は兵を加うるを恃み、必ず我を易んず。我を易ずれば、心固からず、戦えば則ち克つ」と。戦うも未だ決せず、一步将を戮して以て徇しむ。士殊死に闘い、遂に之を破り、首二千級を斬り、五百人を俘え、獲る馬之が如し。ここに於いて昼は兵を揚げ、夜は壘を搗ち、賊息むを得ず、気益々老ゆ。乃ち光弼・僕固懐恩・渾釈之・陳回光等と賊を嘉山に撃ち、首四万級を斬り、人馬万計を獲る。思明跳んで博陵に奔る。ここに於いて河北諸郡往々賊守を斬り、王師を迎う。方に北に范陽を図らんとす。会に哥舒翰敗れ、天子しょくに入り、太子霊武に即位す。詔して師を班す。子儀と光弼歩騎五万を率いて行在に赴く。時に朝廷草昧、衆単寡、軍容缺然たり。是に及びて国威大いに振う。子儀を兵部尚書・同中書門下平章事に拝し、仍って節度を総ぶ。粛宗大いに六軍を閲し、鼓して南し、彭原に至る。宰相房琯自ら賊を討つを請い、陳濤に次ぐ。師敗れ、衆略尽き、故に帝唯だ朔方軍を倚りて根本と為す。賊将阿史那従礼同羅・僕骨の騎五千を以て、河曲九府・六胡州部落数万を誘い行在を迫る。子儀回紇の首領葛邏支を以て之を撃たしめ、数万を執獲し、牛羊計ふるに勝えず、河曲平らぐ。

至徳二載、賊崔乾祐を潼関に攻む。乾祐敗れ、退きて蒲津を保つ。会に永楽尉趙復・河東司戸参軍韓旻・司士徐景及び宗室の子鋒城中に在り、内応を謀る。子儀蒲を攻む。復等陴者を斬り、闔を披きて軍を内す。乾祐安邑に走る。安邑偽りて之を納る。兵半ば入る。県門発つ。乾祐身を脱して走るを得。賊安守忠永豊倉に壁す。子儀子の旰を遣わして戦わしむ。多く殺して万級に至り、旰陣に死す。進みて倉を収む。ここに於いて関・陝始めて通ず。詔して鳳翔に還り、司空しくうに進め、関内・河東副元帥を充つ。師を率いて長安ちょうあんに趨り、潏水上に次ぐ。賊守忠等軍清渠の左にす。大戦し、王師利あらず。仗を委ねて奔る。子儀潰卒を収めて武功を保ち、罪を朝に待つ。乃ち尚書左僕射を授く。俄に元帥広平王に従い蕃・漢の兵十五万を率いて長安を収む。李嗣業前軍と為り、元帥中軍と為り、子儀之に副い、王思礼後軍と為り、香積寺の北に陣し、灃水に距り、大川に臨み、弥亘一舍。賊李帰仁勁騎を領して薄戦す。官軍囂し。嗣業長刀を以て突出し、賊騎数十を斬り、乃ち定む。回紇奇兵を以て賊の背を繚め、之を夾攻し、首六万級を斬り、生禽二万。賊帥張通儒夜に陝郡に亡ぶ。翌日、王京師に入る。老幼道を夾みて呼びて曰く、「図らず今日復た官軍を見んとは」と。王士を休むること三日、遂に東す。安慶緒王師の至るを聞き、厳莊を遣わし衆十万を悉くして陝に屯し、通儒を助け、旌幟鉦鼓径百余里。師新店に至る。賊已に陣す。軽騎を出す。子儀二隊を遣わして之を逐わしむ。又至る。倍して以て往く。皆賊の営に及ばずして輒ち反す。最後に、賊二百騎を以て軍を掩う。未だ戦わずして走る。子儀軍を悉くして追う。横に其の営を貫く。賊両翼を張りて之を包む。官軍却く。嗣業回紇を率いて後より撃つ。塵且に坌し、飛矢賊を射る。賊驚きて曰く、「回紇至れり」と。遂に大敗し、僵屍道に相属す。厳莊等洛陽らくように走り、慶緒を挟みて河を度り相州を保つ。遂に東都を収む。ここに於いて河東・河西・河南の州県悉く平らぐ。功を以て司徒しとを加えられ、代国公に封ぜられ、食邑千戸。朝に入る。帝軍容を具して灞上に迎えしめ、之を労して曰く、「国家再造、卿の力なり」と。子儀頓首して陳謝す。詔有りて東都に還り、北討を経略せしむ。

乾元元年、賊を河上に破り、安守忠を執りて以て献じ、遂に京師に朝す。詔して百官をして長楽駅に迎えしめ、帝望春楼に御して之を待つ。中書令に進む。帝即ち詔して大いに九節度の師を挙げて慶緒を討たしむ。子儀・光弼皆元功なるを以て、相臨摂する難し。第に魚朝恩を用いて観軍容宣慰使と為し、而して帥を立てず。

子儀自ら杏園より河を済り、衛州を囲む。慶緒其の衆を分かちて三軍と為す。将に戦わんとす。子儀善射の士三千を選び壁内に伏せ、誡めて曰く、「須らく吾が卻らば、賊必ず壘に乗ぜん。若等噪ぎて射よ」と。既に戦い、偽りて遁る。賊営に薄る。伏発ち、注射雨の如し。賊震駭す。王師整いて奮い、首四万級を斬り、鎧胄数十万を獲、安慶和を執り、衛州を収む。又愁思岡に戦い、之を破る。連営して進み相州を囲み、漳水を引きて城を灌ぎ、二時に漫り、破る能わず。城中糧尽き、人相食む。慶緒史思明に求救む。思明魏より来たり、李光弼・王思礼・許叔冀・魯炅前軍之に遇い、戦うこと鄴南、夷負相応じ、炅流矢に中る。子儀後軍を督す。未だ戦わず。会に大風木を抜き、遂に晦し、跬歩物色を相する能わず。ここに於いて王師南に潰え、賊も亦走り、輜械野に満つ。諸節度引き還る。子儀朔方軍を以て河陽を保ち、航橋を断つ。時に王師衆にして統無く、進退相顧望し、功を責むる専らならず、是を以て敗に及ぶ。詔有りて東都に留守し、俄かに東畿・山南東道・河南諸道行営元帥に改む。魚朝恩素より其の功を疾み、是に因りて媒蘖之を譖す。故に帝子儀を召し還し、更に趙王を天下兵馬元帥と為し、李光弼之に副い、子儀に代わりて朔方兵を領せしむ。子儀軍を失えども、少も望み無く、乃ち心朝廷に在り。思明再び河・洛を陥し、西戎京輔に逼擾す。天子旰食す。乃ち邠寧・鄜坊両節度使を授け、仍って京師に留まる。議者子儀に社稷の功有りと謂い、而して孽寇首鼠す。乃ち散地に置くは、宜しき所に非ずとす。帝も亦悟る。

上元の初め、詔して諸道兵馬都統と為し、管崇嗣を以て之を副え、英武・威遠の兵及び河西・河東の鎮兵を率い、邠寧・朔方・大同・横野の軍より范陽に趨かしむ。詔下るも、朝恩に沮解せらる。明年、光弼邙山に敗れ、河陽を失う。又明年、河中乱し、李國貞を殺し、太原鄧景山を戕す。朝廷二軍の賊と合するを憂え、而して少年の新将は望み軽く用ふべからず、遂に子儀を以て朔方・河中・北庭・潞儀沢沁等州節度行営、兼ねて興平・定國副元帥と為し、進めて汾陽郡王に封じ、絳州に屯す。時に帝既にせず、群臣見る者莫し、子儀請ひて曰く、「老臣命を受け、将に外に死せんとす、陛下を見ずんば、目瞑らず。」帝臥内に引き至り、謂ひて曰く、「河東の事一に卿に委ぬ。」子儀嗚咽して涕を流す。御馬・銀器・雑彩を賜ひ、別に絹布九萬を賜ふ。子儀屯に至り、首悪の王元振等数十人を誅し、太原の辛雲京も亦景山を害する者を治む、諸鎮皆惕息す。

代宗立つ、程元振自ら帝に功有りと謂ひ、宿将の制し難きを忌み、離構百計す。因りて子儀の副元帥を罷め、実戸七百を加へ、肅宗山陵使と為す。子儀讒且に成らんことを懼れ、代宗の賜ひし詔敕千餘篇を尽く裒めて之を上ぐ、因りて自ら明らかにす。詔して曰く、「朕德ならずして、大臣をして憂へしむ、朕甚だ自ら愧づ、今より公疑ふこと有ること毋れ。」初め、帝子儀と両京を平げ、天下の憂患を同じくす、是に至りて悔悟し、眷礼弥だ重し。

時に史朝義尚ほ洛を盗み、帝副へて雍王に使はし、師を率ひ東討せしめんと欲すも、朝恩・元振交はりて之を訾すにより、乃ち止む。会に梁崇義襄州に拠りて叛き、僕固懷恩汾州に屯し、陰かに回紇・吐蕃を召し河西を寇し、涇州を残し、奉天・武功を犯すに及び、遽かに子儀を関内副元帥に拝し、咸陽に鎮せしむ。初め、子儀相州より罷め帰り京師するより、部曲離散し、詔を承るに逮び、麾下纔に数十騎、民馬を駆りて行隊を補ふ。咸陽に至れば、虜既に渭水を過ぎ、南山に並びて東し、天子跳ねて陝に幸す。子儀聞き、涕を流し、行営を董て京師に還る。射生将王献忠彀騎を以て叛するに遇ひ、諸王を劫して虜に奔らんと欲す、子儀之を譲り、諸王を取って行在所に送る。乃ち騎を率ひ南に兵を収め、武関の防卒及び亡士数千を得、軍漸く完し。会に六軍将張知節子儀を洛南に迎へ、大いに兵を閲し、商州に屯し、威関中に震ふ。乃ち知節を遣はし烏崇福・羽林将長孫全緒を率ひて前鋒と為し、韓公堆に営し、鼓を撃ちて山に歓び、旗幟を張り、夜万炬を叢らし、以て賊を疑はしむ。初め、光禄卿殷仲卿藍田に兵を募り、勁騎を以て先だち官軍と為りて遊弈し、直ちに滻を度る、民虜に紿ひて曰く、「郭令公来る。」虜懼る。会に故将軍王甫侠少を結び、夜硃雀街に鼓し、呼びて曰く、「王師至る!」吐蕃夜潰く。是に於て大将李忠義を遣はし苑中に屯せしめ、渭北節度使王仲升朝堂を守らしめ、子儀中軍を以て之に継ぐ。射生将王撫自ら京兆尹を署し、京城を乱す、子儀斬りて以て徇す。賊を破れる書聞え、帝子儀を以て京城留守と為す。

変倉卒に生ずるより、子儀に頼りて復た安んず、故に天下皆程元振を咎め、群臣数へて論奏す。元振懼れ、乃ち説きて帝に洛陽に都せしめんとす、帝其の計を可す。子儀奏して曰く、

雍州古く天府と称せらる、右に隴・蜀、左に崤・函、襟に馮終南・太華の険を帯び、背に清渭・濁河の固きを負ひ、地方数千里、甲を帯ぶること十餘萬、兵強く士勇み、真に武を用ふるの国、秦・漢の帝業を成す所以なり。後或は処りて泰く、去りて亡ぶ者一姓に非ず、故に高祖こうそ先づ関に入りて天下を定め、太宗より以来洛陽に居する者亦鮮し。先帝朔方を興し、慶緒を誅し、陛下西土に席し、朝義を戮す、天道順を助くるも、亦地勢然らばなり。比の吐蕃馮陵して抗し能はざるは、臣其の略を言ふ能くす。夫れ六軍皆市井の人、虚名に竄け、実賦を逃れ、一日駆りて戦に就かしむれば、百奔有りて一前無し、又宦豎掩ひ迷はし、庶政荒奪せらる、遂に陛下をして彷徨暴露せしめ、陝服に越え在らしむ。是れ任に人を失ふに委ぬ、豈に秦地良に非ざらんや。今道路流言し、信否識らず、咸に謂く且つ洛陽に都せんと。洛陽大盗より以来、焚埃略く尽き、百曹榛荒し、寰服千戸に満たず、井邑墟の如く、豺狼群りて嗥く、東は鄭・汴に薄し、南は徐に界し、北は懷・衛及び相に綿り、千里蕭條し、亭舍煙たさず、何を以てか萬乗の牲餼を奉じ、百官の次舍を供せん。且つ地狭く厄ひ、裁す数百里、険防ぐに足らず、適に闘場と為る。陛下意ふらくは、京畿新たに剽蹂を罹り、国用足らざるを以てならんか。昔衛狄に滅ぼさる、文公曹に廬し、大布の衣を衣、大帛の冠を冠し、卒に旧邦を復す、況んや赫赫たる天子、躬を儉み節を用ひ、寧ぞ一諸侯の下たらんや。臣願くは陛下素餐を斥け、冗食を去り、閹寺を抑へ、直臣を任じ、征を薄くし役を弛め、隠を恤ひ鰥を撫で、宰相に賢を簡び能に任ずるを委ね、臣に兵を訓ひ侮を禦ぐるを付せば、則ち中興の功、日月に冀ふ可し。惟時に邁り亟に還り、宗廟を見、園陵を謁し、王家を再造し、以て天下を幸せんことを。

帝奏を得、泣きて左右に謂ひて曰く、「子儀固より社稷の臣なり、朕西せんと決す。」乗輿還り、子儀頓首して罪を請ふ、帝労して曰く、「卿を用ふること晚かりし故に、此に至る。」乃ち鉄券を賜ひ、形を淩煙閣に図す。

僕固懷恩兵を縱て並・汾の属縣を掠む、帝之を患へ、子儀を以て兼ねて河東副元帥・河中節度使と為し、河中に鎮せしむ。懷恩の子瑒榆次に屯し、帳下の張惟嶽に殺さる、首を京師に伝へ、其の衆を把りて子儀に帰す。懷恩懼れ、其の母を委ねて霊州に走る。廣德二年、太尉に進み、兼ねて北道邠寧・涇原・河西通和吐蕃及び朔方招撫觀察使を領す。太尉を辞して拝せず。懷恩吐蕃・回紇・党項数十萬を誘ひて入寇す、朝廷大いに恐れ、詔して子儀に奉天に屯せしむ。帝計の出づる所を問ふ、対へて曰く、「為す能ふこと無し。懷恩本臣が偏将、剽果なれども、然れども素より士心を失ふ。今乱を為し能ふ者は、思帰の人を訹し、劫して俱に来らしむる者にして、且つ皆臣が故部曲、素より恩信を以て之を結ぶ、彼刃を以て相向かんことを忍ぶや。」帝曰く、「善し。」虜邠州を寇し、先駆奉天に至る、諸将之を撃たんことを請ふ。子儀曰く、「客深く入り、速戦を利とす。彼下素より我を徳とす、吾之を緩くせば、当に自ら携貳せん。」因りて令を下す、「敢へて戦を言ふ者斬らん!」壁を堅くして之を待つ、賊果して遁く。

子儀涇陽より至る、恩賚崇縟、進み拝して尚書令しょうしょれいと為す、懇ろに辞す、聴かず。詔して省に詣り事を視ることを趣し、百官往きて慶す、勅して射生五百騎に戟を執り寵衛せしむ。子儀確りて譲り、且つ言ふ、「太宗嘗て此の官を践み、故に累聖曠に員を置かず、皇太子雍王と為り、関東を定め、乃ち授くを得、渠ぞ可ぞ猥りに老臣を私し、大典を隳さん。且つ用兵以来、賞を僭する者多く、身数官を兼ね、進みを冒して恥亡しに至る。今凶醜略く平ぐ、乃ち法を作り官を審にするの時、宜しく老臣より始むべし。」帝已むことを獲ず、之を許し、具に所以の譲る所を史官に付す。因りて美人六人を賜ひ、従者自ら副へ、車服帷帟咸く具はる。

永泰元年、詔して都統河南道節度行営とし、再び河中に鎮す。懐恩は吐蕃・回紇・党項・羌・渾・奴剌等三十万を尽く説き、涇・邠を掠め、鳳翔を躪り、醴泉・奉天に入り、京師大いに震う。ここにおいて帝は李忠臣に命じて渭橋に屯し、李光進に雲陽に屯し、馬璘・郝廷玉に便橋に屯し、駱奉先・李日越に盩厔に屯し、李抱玉に鳳翔に屯し、周智光に同州に屯し、杜冕に坊州に屯せしめ、天子自ら将として苑中に屯す。急ぎ子儀を召して涇陽に屯せしむ。軍わずか万人。到着する頃には、虜騎の包囲すでに合す。乃ち李国臣・高昇・魏楚玉・陳回光・朱元琮をして各々一面を当たらしめ、身自ら鎧騎二千を率いて陣中に出入す。回紇怪しんで問う、「是れ誰を謂うか」と。報いて曰く、「郭令公なり」と。驚いて曰く、「令公存するか。懐恩は天可汗天下を棄て、令公即世し、中国に主無しと言う。故に我従いて来る。公今存するならば、天可汗存するか」と。報いて曰く、「天子万寿なり」と。回紇悟って曰く、「彼我を欺けり」と。子儀、使いをして虜に諭して曰く、「昔、回紇は万里を渉り、大憝を戡定し、二京を復するを助く。我と若等とは休戚これを同じくす。今乃ち旧好を棄て、叛臣を助く。何ぞ一も愚かなる。彼は主に背き親を棄つ。回紇に何かあらん」と。回紇曰く、「本は公の雲亡すと謂えり。然らずんば、何を以てここに至らん。今誠に存するならば、我見ることを得んか」と。子儀出でんとす。左右諫めて曰く、「戎狄の野心、信ずべからず」と。子儀曰く、「虜の衆数倍す。今力敵せず。吾は将に至誠を示さんとす」と。左右騎五百を以て従わんことを請う。また聴かず。即ち伝呼して曰く、「令公来たる」と。虜皆満を持して待つ。子儀、数十騎を以て出で、冑を免ぎて其の大酋に見えて曰く、「諸君、同じく艱難すること久し。何ぞ忽ち忠誼を亡くしてここに至るか」と。回紇兵を捨て馬を下りて拝して曰く、「果たして吾が父なり」と。子儀即ち召して与に飲み、錦彩を遺して歓を結び、誓って好を初めの如くす。因りて曰く、「吐蕃は本吾が舅甥の国、負うところ無くして来るは、親を棄つなり。馬牛数百里に被る。公等若し倒戈して之に乗ずれば、若し俯して一芥を取るが如し。是れ天賜と謂うべく、失うべからず。且つ戎を逐いて利を得、我と好を継げば、両善ならずや」と。会に懐恩暴死す。群虜統べる所無し。遂に諾す。吐蕃之を疑い、夜引き去る。子儀、将白元光を遣わして回紇の衆を合わせて追躡せしめ、大軍之に継ぐ。霊台西原にて吐蕃十万を破り、級五万を斬り、万人を俘え、掠めたる所の士女牛羊馬橐駝計り勝えざるを得尽くす。遂に涇陽より来朝し、実封二百戸を加えられ、河中に還る。

大暦元年、華州節度使周智光謀叛す。帝、間道を以て蠟書を子儀に賜い、軍を悉くして之を討たしむ。同・華の将吏、軍の起こるを聞き、智光を殺し、首を闕下に伝う。二年、吐蕃涇州を寇す。詔して涇陽に移屯せしむ。霊州にて戦いを邀え、之を敗り、首級二万を斬る。明年、河中に還る。吐蕃また霊武を寇す。詔して師五万を率いて奉天に屯せしめ、白元光霊武にて虜を破る。議者、吐蕃数たび盗を為し、馬璘孤軍邠に在りて支えられずと為し、乃ち子儀を以て邠寧慶節度使を兼ね、邠州に屯し、璘を徙めて涇原節度使と為す。回紇赤心、馬万匹の市を請う。有司、財乏しきを以て、千匹を市するを止む。子儀曰く、「回紇大功有り。宜しく其の意に答うべし。中原馬を須う。臣請う、内一歳の奉を以て、馬直を佐けん」と。詔聴かず。人其の忠を許す。

九年、朝に入り、延英に対す。帝と吐蕃の方強きを語り、慷慨流涕に至る。退きて上書して曰く、

朔方は国の北門、西は犬戎を禦ぎ、北は獫狁を虞う。五城相去ること三千里。開元・天宝中、戦士十万、馬三万匹、僅かに一隅を支う。先帝霊武に受命してより、戦士陛下に従いて征討し、寧歳無し。頃に懐恩の乱を以て、痍傷雕耗し、三分の二を亡くし、天宝中に比すれば止むこと十の一。今、吐蕃河・隴を兼ね吞み、羌・渾の衆を雑え、歳々深く畿郊に入り、勢十倍を逾ゆ。之と角勝するは、豈に易くして得んや。属する者虜来たり、四節度と称し、将別に万人、人兼ねて数馬。臣の統ぶる所の士は賊の四の一に当たらず、馬は賊の百の二に当たらず。外畏れ内懼る。将に何を以てか安からん。臣惟うに、陛下の制勝するや、力足らざるに非ず。但だ簡練至らず、進退一ならず、時に淹りて師老い、地広くして勢分かる。願わくは諸道に於いて精卒五万に満つる者を料り、北辺に列屯せしめよ。然らば則ち制勝必ずしも可なり。窃かに惟うに、河南・河北・江淮の大鎮は数万、小者は数千、稟給を殫屈し、未だ始めより搜擇せず。臣請う、関中に追赴せしめ、歩隊を勒め、金鼓を示さば、則ち攻必ず破れ、守必ず全からん。是れ長久の策なり。

又自ら衰老を陳べ、骸骨を乞う。詔して曰く、「朕は終始倚頼す。未だ位を去るべからず」と。許さず。

徳宗位を嗣ぐ。詔して朝に還らしめ、塚宰を摂り、山陵使を充て、号を「尚父」と賜い、位を進めて太尉・中書令とし、実封を通前二千戸に増し、糧千五百人、芻馬二百匹を給し、領する所の使及び帥を尽く罷む。建中二年、疾病す。帝、舒王を遣わして第に到り詔を伝え省問せしむ。子儀興ること能わず、頭を叩き恩を謝す。薨ず。年八十五。帝悼痛し、朝を廃すること五日。詔して群臣をして往吊せしめ、喪の須うる所に随い、皆官に取りしむ。太師を贈る。建陵に陪葬す。及び葬るに、帝安福門に禦し、哭して其の喪を過ぎ、百官位に陪して流涕す。諡を賜いて忠武と曰い、代宗廟廷に配饗す。令を著わし、一品の墳は丈八尺を崇くす。詔して特ちに一丈を増し、以て元功を表す。

子儀は上に仕えて誠実であり、下を統御して寛恕であり、賞罰は必ず信義を重んじた。幸臣程元振・魚朝恩の讒言に遭い、時に多難な折、兵を握って外に在ったが、詔が至れば即日に道につき、些細な顧望もなかった。故に讒間は行われなかった。吐蕃を霊州で破った時、朝恩が人を遣わしてその父の墓を発かせたが、盗人は得られなかった。子儀が涇陽より来朝すると、朝廷内外は変事を恐れたが、入見して帝が弔うと、即ち号泣して言うには、「臣は久しく兵を主とし、士卒が人の墓を損なうことを禁じ得ず、今人が先臣の墓を発くは、これ天譴であり、人の患いではない」と。朝恩はまた嘗て子儀を招いて宴を設け、元載が人を遣わして「軍容使(魚朝恩)が公に不利を図らんとす」と告げた。その部下は甲を内に着けて従おうとしたが、子儀は聞かず、ただ家僮十数人を以て往った。朝恩は「何ぞ車騎の寡きや」と問うと、聞いたことを告げた。朝恩は泣いて曰く、「公が長者でなければ、疑いを招かざらんや」と。田承嗣は傲岸で狼藉、軌を逸していたが、子儀が嘗て使者を魏に遣わすと、承嗣は西を望んで拝し、その膝を指して使者に謂うには、「この膝は久しく人に屈せず、今公のために拝す」と。李霊耀が汴州を拠ると、公私の財賦を一切遮断したが、子儀の封じた幣物がその境を通ると、敢えて留めず、兵を持って護送させた。麾下の宿将数十人は皆王侯の貴重なる者であったが、子儀が頤を指して進退させれば、部曲の如くであった。幕府の者六十余人は、後皆将相顕官となり、その士を取って才を得ることはこの類いであった。李光弼と齊名し、而して寛厚人を得るはこれを過ぎた。子儀の歳入たる官俸は慮るに二十四万緡に及ぶ。宅は親仁里の四分の一を居し、中に永巷を通じ、家人三千が出入りし、その居を知らなかった。前後賜わる良田・美器・名園・甲館は紀しきれない。代宗は名を呼ばず、大臣と称した。身を以て天下の安危たりしこと二十年、中書令の考課二十四度に及ぶ。八子七婿は皆朝廷に貴顕たり。諸孫数十人は識り尽くせず、問安に至っては、ただ頷くのみであった。富貴寿考、哀栄終始、人臣の道として欠けるところ無し。

子曜・旰・晞・昢・晤・曖・曙・映、而して四子は才を以て顕る。

子 曜

曜は性沈静、資貌瑰傑なり。累ねて節度府に辟召され、虜を破り功あり、開陽府果毅都尉となる。至徳初、子儀の功を推し、衛尉卿を授けられ、累進して太子詹事・太原郡公となる。子儀征伐を専らにするに当たり、曜は留まって家事を治め、少長閑言無し。諸弟或いは池館を飾り、車服を盛んにするも、曜独り朴簡を以て自ら処す。子儀兵を罷められ、太子少保に遷ると、昆弟六人、共に制を以て官を拝す。子儀薨じ、遺命に従い四朝に賜わった名馬珍物を簿上すると、徳宗またこれを賜う。乃ち悉く諸弟に散ず。喪に居るに礼を以てし、疾甚だしければ、或いは葱薤を食らうを勧むるも、終に口に属さず。後盧杞政を執り、勲族を忌み、子儀の婿太僕卿趙縦・少府少監李洞清・光禄卿王宰皆以て次いで罪を得る。奸人その危きを幸い、多く田宅奴婢を論奪す。曜大いに恐れ、独り宰相張鎰力めて保護す。徳宗稍々これを聞き、詔して有司に曰く、「尚父子儀大勲力有り、王家を保乂し、嘗て山河に誓い、金石を琢ち、十世を宥すを許す。前日その家田宅奴婢を市うも、而して無頼の者尚父の歿するを以て、妄りにこれを論奪す。自今より有司受くること毋かれ」と。建中三年、卒す。贈太子太傅、諡して孝と曰う。初め、曜代国公を襲封し、二千戸を食む。貞元初、詔して半減して以て晞・曖・映・曙を封じ、人二百五十戸。未だ幾ばくもせず、復詔して四人各々五十戸を減じ、曜の子鋒・晤の子鐇を各々百戸封ずるという。

子 晞

晞は騎射に善く、征伐に従い功有り、両京を復し、戦最も力め、奇兵を出して賊を破り、累進して鴻臚卿となる。河中軍乱れ、子儀首悪を召して誅す。その支党なお反仄す。晞親兵を選び昼夜警備し、以て非常に備え、奸人発するを得ず。功を以て殿中監を拝す。吐蕃・回紇寇すに及び、御史中丞を加えられ、朔方軍を領して邠州を援け、馬璘と軍を合して虜を撃ち、これを破る。虜復た来たり、涇水の北に陣す。子儀晞に徒兵五千・騎五百を率いて虜を襲わしむ。晞兵寡きを以て進まず、暮れを須ち、賊半ば済るに及び、乃ち撃ち、首級五千を斬る。御史大夫を加えられんとす。子儀固く譲る。乃ち止む。父の喪に居り、朱泚の乱に値い、南に走って山谷に入る。賊これを舁ぎ致し、官を以て汚さんと欲す。佯いて暗にして答えず。賊兵を露わして脅すも動かず。数たび城中の事を以て書を李晟に貽す。既にして奉天に奔る。天子還り、太子賓客に改む。子鋼、朔方杜希全の幕府に従う。希全檄して豊州刺史と為す。晞その弱くして事に任ぜざるを憐れみ、罷むるを丐う。徳宗使者を遣わして鋼を召す。鋼罪を得たるかと疑い、身を挺して吐蕃に走る。納れず。希全これを執り送って京師に至らしめ、賜死す。晞坐して免ぜられ、尋いで復た太子賓客となる。累ねて趙国公に封ぜらる。卒す。贈兵部尚書。孫承嘏。

晞孫 承嘏

承嘏、字は復卿、幼より秀異、『五経』に通ず。元和年中、進士第に及第し、累遷して起居舎人となる。母の喪に居り、孝を以て聞こゆ。太和六年、諫議大夫と為り、政事の得失を言う。文宗鄭注を以て太僕卿と為さんとす。承嘏極めてその非を論ず。注頗る懼る。進みて給事中となる。俄に出でて華州刺史と為る。給事中盧載詔書を還し、且つ言うには、「承嘏数たび封駁し職に称え、宜しく禁闥に在るべし」と。帝曰く、「朕久しく次ぐを謂い、その稍々入るを優せんと欲するのみ」と。乃ち復た留めて給事中とす。時に江淮旱魃し、用度支えず。詔して宰相に度支・戸部を分領せしむ。承嘏言う、「宰相は陰陽を調和し、黎庶を安んず。若し簿書を閲視し、緡帛を校せしむるは、宜しからず」と。帝順い納る。刑部侍郎に遷る。帝嘗てその儒素を称え、貴驕の気無く、勲家に類せずと。毎に進対するに、恩接備わりて厚し。方に大用せんとし、会して卒す。家に余貯無し。親友喪祭を為り弁ず。贈吏部尚書。

子 曖

曖、字は曖、太常主簿を以て昇平公主に尚う。曖の年齢公主と侔しく、十余歳にして許婚す。駙馬都尉を拝し、殿中監を試み、清源県侯に封ぜられ、寵戚裏に冠たる。大暦末、検校左散騎常侍さんきじょうじ。建中時、主事に坐し、禁中に留めらる。朱泚乱れ、逼って曖に官を署せしむ。喪に居り疾えらるるを以て辞す。既にして公主と奉天に奔る。徳宗これを嘉し、主の罪を釈き、曖を進めて金紫光禄大夫とし、実封五十戸を賜う。尋いで太常卿に遷る。貞元三年、代国公を襲封す。卒す。年四十八。贈尚書左僕射。初め、曖の女広陵郡王妃と為る。王即位す。是れ憲宗なり。妃穆宗を生む。穆宗立ち、妃を尊んで皇太后と為し、曖に太傅を贈る。四子:鑄・釗・鏦・銛。鑄封を襲ぐ。

曖子 釗

郭釗は、身長七尺、口は方形で下顎が豊かであった。代宗の朝、外孫として奉禮郎となった。累進して左金吾大將軍に至り、檢校工部尚書に改められ、邠甯節度使となり、入朝して司農卿となった。憲宗が病臥すると、宦官の中には妄りに廃立を議する者もいた。穆宗が郭釗に策を問うと、答えて言うには、「殿下は太子であらせられる。朝夕、御膳を視るべきであり、外のことを慮る必要がありましょうか」と。時に元舅としての体を得たと称された。穆宗が即位すると、檢校戶部尚書兼司農卿となった。まもなく河陽三城節度使となった。河中尹に転じ、晉絳慈隰節度を領した。敬宗が立つと、召されて兵部尚書に拝され、また劍南東川を帥いた。太和年中、南蠻が蜀を寇し、成都の外郭を奪い、杜元穎は防禦できなかった。詔して郭釗に西川節度を兼領させた。未だ赴かぬうちに、蠻衆はすでに梓州を略奪した。州兵は寡少で用をなさず。郭釗は書を送って蠻首の帟巔を譙り、侵叛の意を質した。帟巔は言う、「杜元穎が自ら守らず、しばしば我が境を侵したので、我はこれに報いたまでだ」と。そこで和好を修め、互いに侵犯しないことを約した。天子はこれを嘉し、即座に西川節度使に拝した。病を理由に代わることを請い、太常卿となり、卒し、司徒を贈られた。子に仲文、仲恭、仲詞あり。開成二年、詔して仲文に太原郡公を襲封させようとした。給事中盧弘宣が奏上して言う、「郭釗の妻の沈氏は、公主の女、代宗皇帝の外孫であり、その子の仲詞は饒陽公主を尚う。仲文は嫡を冒しているので襲封すべきではない。もし仲文に嫡を継がせれば、沈氏は黜けられるべきであり、また仲詞もまた公主を尚うことができなくなる」と。そこで詔して仲詞を檢校殿中少監、駙馬都尉とし、封を襲わせた。そして仲文は太皇太后の故をもって、問わずに置かれた。仲恭は詹事府丞を歴任し、また金堂公主を尚った。

郭曖の子に郭鏦あり。

郭鏦は、字は利用、德陽郡主を尚った。詔して裴延齡に命じ、長興裏に公主の邸宅を営ませた。順宗が立つと、公主は漢陽公主に進封され、郭鏦は檢校國子祭酒、駙馬都尉に抜擢された。景龍以後、外戚は多く檢校官となり、事を治めなかった。宰相がその才を推薦し、外戚であることを理由に廃すべきでないとし、右金吾將軍に拝され、太原郡公に封ぜられた。恭遜で節を折り、富貴をもって人に臨まなかった。性質は周密で慎み深く、赫々たる名を立てなかった。上に諫言があれば、退いて必ず草稿を毀ち、家人子弟に知る者はいなかった。別墅は都の南にあり、特に高燥で勝れていた。穆宗がかつて行幸し、酒を置いて極めて歓んだ。太子詹事に改め、閑廄宮苑使を充てた。卒し、尚書左僕射を贈られた。

郭曖の子に郭銛あり。

郭銛は、性質は温和で、累進して殿中監となり、西河公主を尚った。郭鏦が卒すると、代わって太子詹事、宮苑閑廄使となった。長慶三年、急死した。太后は使者を遣わして発病の状況を尋ねさせ、久しくしてようやく解けた。初め、西河公主は沈氏に降嫁し、一子を生んだ。郭銛には嗣子がなく、沈氏の子を嗣がせた。

郭曖の孫に郭曙あり。

郭曙は、代宗の朝に累進して司農卿となった。德宗が奉天に幸する時、郭曙はちょうど家兵を率いて苑の北で狩猟しており、蹕の至るを聞き、道左に伏して謁し、遂に乗輿に従って駱穀に入った。霖雨で道は泥濘し、衛兵の中には異を唱える者もいた。帝は召して言う、「朕は不徳にして公等を苦しめている。朕を執って硃泚に送り、天下に謝すべきである」と。諸将は皆感泣して言う、「願わくば死生を陛下に従わん」と。時に郭曙は功臣の子である李昇、韋清、令狐建、李彥輔とともに甲を着て請見し、言うには、「南行の路は険しく、かつ奸変を虞れます。臣等は世々恩を蒙りました。今、誓いを立て、改めて帝の馬を挟み護衛したいと願います」と。許された。帝が還ると、郭曙と韋清は金吾大將軍に抜擢され、残りは皆禁軍將軍となった。郭曙は祁国公で終わった。

子儀の同母弟の幼明は、性質は謹直で過ちがなく、武事は拙かったが、賓客を喜んだ。子儀の故をもって、少府監で終わり、太子太傅を贈られた。

子の郭昕は、肅宗の末年に四鎮留後となった。関、隴が陥落し、帰ることができず、朝廷はただ官を命じて遥かにその使を領させるのみであった。建中二年、郭昕は初めて伊西、北庭節度使の曹令忠とともに使者を遣わして入朝した。德宗は詔して言う、「四鎮、二庭は、西夏五十七蕃十姓部落を統べ、国朝以来、共に職を率いてきた。関、隴を失守して以来、王命は阻絶したが、忠義の徒は、血を泣いて固守し、朝法を奉じて遵った。これは皆、侯伯守将が交わって修め共に治めた効であり、朕は甚だこれを嘉する。令忠は北廷大都護、四鎮節度留後とし、李氏を賜い、名を元忠と改めよ。郭昕は安西大都護、四鎮節度使とせよ。諸将吏は七資を超えて官を叙せよ」と云った。

賛して言う。天宝末、盗賊が幽陵より起こり、外は阻まれ内は訌いだ。子儀は朔方より孤軍を提げ、転戦して北を逐い、顧み還らざるの誼を示した。この時、天子は西走し、唐の祚は贅旒の若く、しかも能く太子を輔け、王室を再造した。大難がほぼ平らぎ、讒に遭うこと甚だしく、詭譎をもって兵柄を奪われたが、朝に命を聞けば、夕に道を引き、微塵の嫌疑も自ら抱かなかった。涇陽に囲まれし時は、単騎で虜と会い、至誠をもって圧し、猜忍の謀を沮ませた。唐の命が永からんとしたこともまた、忠が日月に貫き、神明の扶持する所あればこそであろう。光弼らが畏逼されて終わりを全うせず、子儀は完き名と高き節を、爛然として独り著しくし、福祿永く終わり、斉桓、晉文を以て比べても褊小である。唐の史臣裴垍が称するに、「権は天下に傾きながら朝に忌まず、功は一世を蓋いながら上に疑わず、侈は人欲に窮まりながら議する者これを貶さず」と。嗚呼、裴垍は誠に知言である。その子孫は多く功名を以て顕れ、蓋し盛徳の後と云うべきか。