新唐書

巻五十四 志第四十四 食貨四

唐には塩池十八、井六百四十あり、皆度支に隷す。蒲州の安邑・解県には池五あり、総じて「両池」と曰い、歳に塩万斛を得て、以て京師に供す。塩州五原には烏池・白池・瓦池・細項池あり、霊州には温泉池・両井池・長尾池・五泉池・紅桃池・回楽池・弘静池あり、会州には河池あり、三州は皆米を輸して以て塩に代う。安北都護府には胡落池あり、歳に塩一万四千斛を得て、以て振武・天徳に給す。黔州には井四十一あり、成州・巂州には井各一あり、果・閬・開・通には井百二十三あり、山南西院これを領す。邛・眉・嘉には井十三あり、剣南西川院これを領す。梓・遂・緜・合・昌・渝・瀘・資・栄・陵・簡には井四百六十あり、剣南東川院これを領す。皆月に随いて課を督む。幽州・大同横野軍には塩屯あり、毎屯に丁あり兵あり、歳に塩二千八百斛を得、下る者は千五百斛なり。海に負う州は歳に租を免じて塩二万斛と為し、以て司農に輸す。青・楚・海・滄・棣・杭・蘇等州は、塩価を以て軽貨を市し、亦司農に輸す。

天宝・至徳の間、塩は毎斗十銭なり。乾元元年、塩鉄・鋳銭使第五琦初めて塩法を変え、山海井竈の利に近き地に就き監院を置き、游民の塩を業とする者を亭戸と為し、雑徭を免ず。盗み鬻ぐ者は法を以て論ず。及び琦が諸州榷塩鉄使と為り、天下の塩を尽く榷し、斗に時価を加うること百銭にしてこれを出し、銭一百一十と為す。

兵起りてより、流庸復たず、税賦費を供するに足らず、塩鉄使劉晏、民の急とする所に因りてこれを税すれば、則ち国用足ると為す。ここに塩法軽重の宜しきを上り、塩吏多ければ則ち州県擾わすを以て、塩を出す郷は旧監に因りて吏を置き、亭戸商人に糶し、その之く所に縦す。江・嶺の塩より遠き者は、常平塩あり、毎に商人至らざれば、則ち価を減じて以て民に糶し、官厚利を収めて人は貴きを知らず。晏また塩は霖潦に生ずれば則ち鹵薄く、暵旱すれば則ち土溜墳るを以て、乃ち時に随いて令を為し、吏を遣わして曉導せしめ、農を勧むるに倍せしむ。呉・越・揚・楚の塩廩は数千に至り、塩二万余石を積む。漣水・湖州・越州・杭州の四場、嘉興・海陵・塩城・新亭・臨平・蘭亭・永嘉・大昌・候官・富都の十監あり、歳に銭百余万緡を得て、以て百余州の賦に当つ。淮北より巡院十三を置き、揚州・陳許・汴州・廬寿・白沙・淮西・甬橋・浙西・宋州・泗州・嶺南・兗鄆・鄭滑と曰い、私塩を捕うる者、姦盗これが為に衰息す。然れども諸道塩銭を加榷し、商人の舟の過ぐる所に税あり。晏州県の率税を罷め、堰埭の利を邀えて邀うるを禁ずるを奏す。晏の至りし初め、塩利歳に纔かに四十万緡、大曆の末に至りて、六百余万緡なり。天下の賦、塩利その半を居し、宮闈の服御・軍饟・百官の祿俸皆これに仰ぎ給す。明年にして晏罷む。

貞元四年、淮南節度使陳少游民賦を加うるを奏し、ここより江淮の塩は毎斗亦二百を増し、銭三百一十と為し、その後復た六十を増し、河中両池の塩は毎斗銭三百七十と為す。江淮の豪賈利を射、或いは時にこれを倍し、官収むる能く半を過ぎず、民始めて怨む。

劉晏の塩法既に成り、商人絹を納れて以て塩利に代うる者は、毎緡に銭二百を加え、以て将士の春服に備う。包佶汴東水陸運・両税・塩鉄使と為り、漆器・瑇瑁・綾綺を以て塩価に代うるを許し、用うべからざる者と雖も亦高く估してこれを售り、虚数を広めて上を罔す。亭戸法を冒し、私に鬻ぐこと絶えず、巡捕の卒、州県に遍し。塩估益々貴く、商人時に乗じて利を射、遠郷の貧民高估に困し、淡食する者有るに至る。巡吏既に多く、官冗れて財を傷し、当時これを病む。その後軍費日増し、塩価寖に貴く、穀数斗を以て塩一升に易うる者有り。私に糴して法を犯し、未だ嘗て少しく息まず。

順宗の時初めて江淮の塩価を減じ、毎斗を銭二百五十と為し、河中両池の塩は、斗銭三百なり。雲安・渙陽・塗𣉯の三監を増す。その後塩鉄使李錡江淮の塩斗銭十を減じて以て民に便ならしむるを奏し、未幾にして旧に復す。是の時に方り、錡盛んに貢献を以て寵を固め、朝廷の大臣、皆厚貨を以てこれに餌し、塩鉄の利、私室に積み、而して国用耗屈し、榷塩法大いに壊れ、多く虚估と為り、率ね千銭百三十に満たざるのみ。兵部侍郎李巽使と為り、塩利皆度支に帰し、物虚估無く、天下塩を糶し茶を税し、その贏六百六十五万緡。初歳の利、劉晏の季年の如く、その後則ち晏の時に三倍せり。両池の塩利、歳に百五十余万緡を収む。四方の豪商猾賈、解県に雑処し、郎官を以てこれを主とし、その佐貳皆御史なり。塩民の田園県に籍し、而して令県民を以てこれを治むるを得ず。

憲宗の淮西を討つや、度支使皇甫鎛剣南東西両川・山南西道の塩估を加えて以て軍に供す。貞元中、両池の塩一石を盗み鬻ぐ者は死し、元和中に至り、死を減じて天徳五城に流し、鎛初めの如く死を論ずるを奏す。一斗以上は背を杖ち、その車驢を没し、斗塩を捕うる能くする者には千銭を賞す。節度観察使は判官を以て、州は司録録事参軍を以て私塩を察し、一石以上漏れば課料を罰す。両池の塩を鬻ぐ者は、坊市の居邸主人・市儈皆坐に論ず。鹻土一斗を盗み刮くは、塩一升に比す。州県団保相い察し、貞元に比して酷を加う。兵興りてより、河北の塩法羈縻するのみ。皇甫鎛に至りて又榷塩使を置くを奏し、江淮の榷法の如くし、禁を犯すこと歳多し。及び田弘正魏博を挙げて朝廷に帰し、穆宗河北に命じて榷塩を罷む。戸部侍郎張平叔榷塩法の弊を議し、塩を糶せば以て国を富ますべしと請い、詔して公卿にその可否を議せしむ。中書舎人韋処厚・兵部侍郎韓愈条を分かちてこれを詰め、以て不可と為し、平叔屈服す。

是の時奉天の鹵池に水柏生じ、灰一斛を以て塩十二斤を得、利鹻鹵に倍す。文宗の時、灰一斗を采るは、塩一斤に比して罪を論ず。開成末、詔して私塩月に再び犯す者は、県令を易え、刺史の俸を罰す。十犯すれば、則ち観察・判官の課料を罰す。

宣宗即位し、茶・塩の法益々密なり、塩を糶すこと少なく、私盗多き者は、観察・判官を讁し、十犯を計わず。戸部侍郎・判度支盧弘止両池の塩法敝るるを以て、巡院官司空しくう輿を遣わして新法を更に立てしめ、その課倍に入り、榷塩使に遷す。壕籬と為す者は、塩池の堤禁なり、盗み壊す者と鹻を鬻ぐ者と皆死し、塩盗弓矢を持つ者も亦皆死刑なり。兵部侍郎・判度支周墀又言す、「両池の塩を盗み販する者は、その居処を迹し、保・社罪を按ず。五石を鬻ぎ、二石を市し、亭戸二石を盗み糶するは、皆死す。」是の時江・呉の群盗、剽する所の物を以て茶塩に易え、受けざる者はその室廬を焚き、吏敢えて枝梧せず、鎮戍・場鋪・堰埭関通を以て富みを致す。宣宗乃ち嘗て両畿輔の望県の令を更むる者を択びて監院官と為す。戸部侍郎裴休塩鉄使と為り、塩法八事を上り、その法皆施行せられ、両池の榷課大いに増す。

その後、兵乱は天下に遍く、諸鎮は利を擅にし、両池は河中節度使王重栄の所有となり、毎年塩三千車を貢いだ。中官田令孜は新軍五十四都を募り、輸送が不足したため、遂に両池を再び塩鉄使に帰属させることを提唱したが、重栄は詔に奉じず、挙兵して反するに至り、僖宗は再び出奔し、しかし遂に奪うことはできなかった。

唐初には酒禁はなかった。乾元元年、京師で酒が貴くなり、粛宗は食糧がまさに窮屈であるとして、京師での酒の売買を禁じ、麦の熟する時を期して元の如くとした。二年、飢饉があり、再び酒の売買を禁じ、光禄寺の祭祀・蕃客の饗宴以外には酒を用いなかった。

広徳二年、天下の酤戸を定めて月ごとに税を収めた。建中元年、これを廃した。三年、再び民の酒の売買を禁じ、軍費を補佐するため、酒を醸す店舗を置き、一斛につき三千銭を収め、州県が総領し、薄酒を私的に醸造する者はその罪を論じた。まもなく京師は四方の輻湊する所であるとして、専売を廃した。貞元二年、再び京城・畿県の酒を禁じ、天下に店舗を置いて酒を売る者は、一斗につき百五十銭とし、その徭役を免じ、ただ淮南・忠武・宣武・河東のみ麹を専売した。元和六年、京師の酒売店舗を廃し、専売酒銭を両税青苗銭に随わせて徴収した。大和八年、遂に京師の酒専売を廃した。凡そ天下の酒専売による銭は百五十六万余緡であり、醸造費がその三分の一を占め、貧戸の酒売り逃れはこれに含まれない。昭宗の世、用度が不足したため、京畿近鎮の麹法を改め、再び酒を専売して軍費を賄おうとしたが、鳳翔節度使李茂貞がまさにその利を専有しており、兵を按じて入朝し利害を奏請しようとしたため、天子は急いでこれを廃した。

初め、徳宗は戸部侍郎趙賛の議を容れ、天下の茶・漆・竹・木に税を課し、十に一を取って常平本銭とした。奉天に出奔した後、これを悔やみ、詔を下して急いで廃した。朱泚が平定されると、佞臣で利の興ることを希う者はますます進んだ。貞元八年、水害により減税し、翌年、諸道塩鉄使張滂が奏上した:茶を産する州県の山及び商人の要路に、三等を以て価を定め、十に一を税する、と。これより毎年四十万緡を得たが、水旱の際にも未だこれを救済しなかった。

穆宗が即位し、両鎮に用兵し、国庫は空虚となり、禁中に百尺楼を建て、費用は数えきれなかった。塩鉄使王播は寵を得て自ら幸せを図り、天下の茶税を増やし、率として百銭につき五十を増やした。江淮・浙東西・嶺南・福建・荊襄の茶は、播自らこれを領し、両川は戸部がこれを領した。天下の茶は一斤を二十両に加え、播はまた加えて取ることを奏上した。右拾遺李珏が上疏して諫めて言う:「専売税は兵を養うことから起こった。今、辺境に憂いが無いのに、厚く徴収して民を傷つける、これ一に不可なり。茗飲は人の資する所、重税すれば価必ず増し、貧弱はますます困窮する、これ二に不可なり。山沢の豊饒はその出ずる所量り知れず、税を論ずるに多く売ることを利とすれば、価が騰踊すれば買う者は稀になる、これ三に不可なり。」その後、王涯が二使を判じ、専売茶使を置き、民の茶樹を官場に移し、その旧く積んだものを焼き、天下は大いに怨んだ。令狐楚が代わって塩鉄使兼専売茶使となり、再び専売税を納めさせ、価を加えただけである。李石が宰相となり、茶税を全て塩鉄に帰属させ、貞元の制に復した。

武宗が即位し、塩鉄転運使崔珙がまた江淮の茶税を増やした。この時、茶商の過ぎる州県には重税があり、あるいは舟車を掠奪し、雨中に露積みし、諸道は邸を置いて税を収め、「搨地銭」と称したため、私販はますます起こった。大中初め、塩鉄転運使裴休が条約を定めた:私売三犯は皆三百斤で、死罪を論ずる;長行の群旅は、茶が少なくても皆死罪;雇載三犯は五百斤に至り、居舎の仲買保証人四犯は千斤に至る者は、皆死罪;園戸の私売百斤以上は、背を杖で打ち、三犯は徭役を重くする;園を伐って失業する者は、刺史・県令は私塩を放任した罪に論ずる。廬・寿・淮南は皆半税を加え、私商には自首の帖を与え、天下の茶税は貞元の倍に増えた。江淮の茶は大摸とし、一斤は五十両に至った。諸道塩鉄使于悰が毎斤に税銭五を増やし、「剩茶銭」と称し、これより斤両は旧に復した。

凡そ銀・銅・鉄・錫の鉱山は百六十八。陝・宣・潤・饒・衢・信の五州に、銀鉱山五十八、銅鉱山九十六、鉄山五、錫山二、鉛山四。汾州に礬山七。麟徳二年、陝州の銅鉱山四十八を廃した。

開元十五年、初めて伊陽五重山の銀・錫に税を課した。徳宗の時、戸部侍郎韓洄が建議し、山沢の利は王者に帰すべきであるとし、これより皆塩鉄使に隷属させた。

元和初め、天下の銀鉱山廃止は四十、毎年銀一万二千両、銅二十六万六千斤、鉄二百七万斤、錫五万斤を採り、鉛は常数の無し。

開成元年、再び山沢の利を州県に帰属させ、刺史が吏を選んでこれを主管させた。その後、諸州は利を貪って自ら殖え、天下を挙げても七万余緡に過ぎず、一県の茶税に当たらない。宣宗が河湟の戍兵の衣絹五十二万余匹を増やした時、塩鉄転運使裴休が再び塩鉄使に帰属させて国用に供することを請い、銀鉱山二・鉄山七十一を増やし、銅鉱山二十七・鉛山一を廃した。天下の毎年の率は銀二万五千両・銅六十五万五千斤・鉛十一万四千斤・錫一万七千斤・鉄五十三万二千斤。

隋末に五銖白銭を行い、天下に盗賊が起こり、私鋳銭が流通した。千銭は初め二斤の重さがあったが、その後ますます軽くなり、一斤に及ばず、鉄葉・皮紙も皆以て銭とした。高祖こうそ長安ちょうあんに入ると、民間では綫環銭が流通し、その製は軽小で、凡そ八九万でやっと半斛を満たした。

武徳四年、「開元通宝」を鋳造し、径八分、重さ二銖四参、十銭積んで重さ一両、軽重大小の中を得、その文は八分・篆・隷の三体。洛・へい・幽・益・桂等の州は皆監を置いた。秦王・斉王に三炉、右僕射裴寂に一炉を賜って鋳造させた。盗鋳者は死罪に論じ、その家族を没官した。その後、盗鋳は次第に起こった。

顕慶五年、悪銭が多いため、官がこれを買い上げ、一つの良銭で五つの悪銭を買い取り、民間は悪銭を蔵して禁が弛むのを待った。乾封元年、「乾封泉宝」銭に改鋳し、径一寸、重さ二銖六分、一を以て旧銭の十に当てた。一年を過ぎて旧銭多く廃れ、翌年、商賈が通じず、米帛が騰貴したため、再び開元通宝銭を行い、天下皆これを鋳造した。しかし私銭の法を犯すことは日増しに多く、舟筏で江中で鋳造する者もあった。詔して所在で悪銭を納めさせたが、奸も止まなかった。儀鳳年中、江辺の民は多く私鋳銭を業とし、詔して巡江官に督捕させ、銅・錫・鑞を百斤を超えて運ぶ者は没官した。四年、東都に命じて米粟を糶き、一斗別に悪銭百を納めさせ、少府・司農がこれを毀った。この時は鋳造多く銭賤く、米粟騰貴したため、少府の鋳造を罷め、まもなく旧に復した。永淳元年、私鋳者は死罪に当たり、隣・保・里・坊・村正は皆連座した。武后の時、銭は穿穴及び鉄錫銅液でなければ、皆用いることができ、熟銅・排斗・沙澀の銭も皆売られ、これより盗鋳は蜂起し、江淮の游民は大山陂海に依って鋳造し、吏は捕えることができなかった。

先天の頃、両京の銭はますます濫悪となり、郴州・衡州の銭はわずかに輪郭がある程度で、鉄錫五銖の類は皆用いられた。あるいは錫を熔かして銭を型取り、たちまち百十個も作った。開元初め、宰相宋璟が悪銭の禁止を請い、二銖四参の銭を行い、用に堪えない旧銭を毀つことを求めた。江淮には官鑪銭・偏鑪銭・稜銭・時銭があり、監察御史蕭隱之を江淮に遣わし、戸ごとに悪銭を出させ、取り締まりは甚だ峻厳で、上青銭は皆官に輸納させ、小悪のものは江湖に沈め、市井は流通せず、物価はますます高騰し、蕭隱之は坐して官を貶された。宋璟はまた米十万斛を出して悪銭を収め、少府でこれを毀つことを請うた。十一年、詔して所在に鋳銭を加え、銅錫を売り及び銅器を造る者を禁じた。二十年、千銭を重さ六斤四両を率とし、毎銭の重さは二銖四参とし、缺頓・沙澀・盪染・白彊・黒彊の銭を禁じた。首めたる者は、官がこれを買い取った。銅一斤で銭八十文とした。

二十二年、宰相張九齢が建議して言う、「古えは布帛菽粟は尺寸抄勺で均しく分けられないため、銭を作って貿易を通じさせた。官が鋳造して得るものは僅かで、しかも工費が多い。民に鋳造を許すべきである」。議を百官に下すと、宰相裴耀卿・黄門侍郎李林甫・河南少尹蕭炅・秘書監崔沔は皆、「悪銭を厳しく断てば人は禁を知り、銅に税を課し役を折り当てれば官の冶は成り、費用を計り労賃を度れば私銭は利薄で自ら止む。もし私鋳を許せば、下民は皆農を棄てて利を競うであろう」と考えた。左監門衛録事参軍事劉秩が言う、「今の銭は、古の下幣である。もしこれを捨てて人に任せれば、上は下を御する術がなく、下は上に事える道がない。これが一つの不可である。物賤は農を傷つけ、銭軽は賈を傷つける。物重なれば則ち銭軽く、銭軽いのは物が多いからである。多ければ法を作って収めて少なくし、物少なければ則ち法を作って布いて軽くする。どうして人に委ねるのか。これが二つの不可である。銭を鋳るに鉛鉄を混ぜなければ利がなく、混ぜれば銭は悪くなる。今、私鋳の路を塞いでも人はなお死を冒す。況んや陥穽を設けて誘うようなことをするのか。これが三つの不可である。銭鋳造に利がなければ人は鋳造せず、利があれば田畑を離れる者が多くなる。これが四つの不可である。人が富めば賞で勧めることができず、貧しければ威で禁じることができない。法が行われず、人が治まらないのは、貧富が揃わないからである。もし銭鋳造を許せば、貧者は富室に使役され、富室は乗じてますます恣に振る舞う。これが五つの不可である。夫れ銭が重いのは人が以前より日々増えるのに、鑪が旧に加わらないからである。公銭と銅の価格はほぼ等しいので、重い銭を破って軽い銭を作り、銅が足りないのは、用いる者が多いからである。銅は兵器としては鉄に及ばず、器物としては漆に及ばない。銅を禁じれば人は用いるところがなく、盗鋳する者は少なくなり、公銭は破られず、人は死罪を犯さず、銭はまた日々増える。これは一挙にして四美を兼ねるのである」。この時、公卿は皆民に鋳造を許すのは不便と考え、そこで詔を下して悪銭を禁じるのみとした。信安郡王李禕がまた国用が足りないと述べ、私鋳を許すことを請うた。議者は皆李禕が帝の弟という貴を畏れ、敢えて抗う者なく、ただ倉部郎中韋伯陽のみが不可と考え、李禕の議もまた止んだ。

二十六年、宣州・潤州などに初めて銭監を置き、両京で用いる銭はやや良くなり、米粟の価格はますます下がった。その後、銭はまた次第に悪くなり、詔して銅の出る所に監を置き、開元通宝銭を鋳造させ、京師の庫蔵は皆満ちた。天下の盗鋳はますます盛んとなり、広陵・丹楊・宣城が特に甚だしかった。京師の権豪は、毎年これを取り寄せ、舟車が相連なった。江淮の偏鑪銭は数十種あり、鉄錫を混ぜ、軽薄で銭の形を成さないものもあった。公に鋳造したものは官鑪銭と号し、一で偏鑪銭の七八に当たり、富商はしばしばこれを蔵し、江淮の私鋳銭と交換した。両京の銭には鵝眼・古文・線環の別があり、毎貫の重さは三四斤を超えず、ついには鉄を切り取って緡にすることもあった。

宰相李林甫が絹布三百万匹を出し、平価で銭を収めることを請うたが、物価は高騰し、訴える者は日に万人に及んだ。兵部侍郎楊国忠は権を招き恩を売ろうとし、市門で鞭を揚げて言う、「行くに当たり復するであろう」。明日、詔して旧銭の行用を復した。天宝十一載、また銭三十万緡を出して両市の悪銭と交換し、左蔵庫の排斗銭を出し、民に交換を許した。楊国忠はまた、銭が鉄錫・銅沙・穿穴・古文でなければ、皆用いることができると言った。

この時、農民を増徴して銭を鋳造させたが、慣れた業でないため、皆生計に困った。内作判官韋倫が厚い賃金で工人を募ることを請うた。これにより役する者は減り、鼓鑄は多くなった。天下の鑪は九十九:絳州三十、揚州・潤州・宣州・鄂州・蔚州は皆十、益州・郴州は皆五、洋州三、定州一。毎鑪は年に銭三千三百緡を鋳造し、丁匠三十人を役し、銅二万一千二百斤・鑞三千七百斤・錫五百斤を費やした。千銭ごとに銭七百五十文を費やした。天下で年に三十二万七千緡を鋳造した。

粛宗乾元元年、経費が足りず、鑄錢使第五琦が「乾元重宝」銭を鋳造した。径一寸、毎緡の重さ十斤、開元通宝と参用し、一を以て十に当て、また「乾元十当銭」とも号した。先に諸鑪の鋳造する銭は粗悪で薄く、銭や佛像を熔かし破り、「盤陀」と言い、皆私銭に鋳造し、犯す者は杖死に処せられた。第五琦が宰相となり、また命じて絳州の諸鑪に重輪乾元銭を鋳造させた。径一寸二分、その文も「乾元重宝」と言い、背面の外郭が重輪で、毎緡の重さ十二斤、開元通宝銭と併行し、一を以て五十に当てた。この時、民間では三種の銭が流通し、大きく重稜のものもまた「重稜銭」と号した。法が屡々変わるため、物価は騰踊し、米一斗が銭七千文に至り、餓死者が道に満ちた。初めに「虚銭」があり、京師では人人が私鋳し、小銭を合わせ、鐘・像を壊し、禁を犯す者はますます多くなった。鄭叔清が京兆尹となり、数か月で榜死させた者は八百余人に及んだ。粛宗は新銭が不便として、百官に集議させたが、改めることができなかった。上元元年、重輪銭を一当三十に減じ、開元旧銭と乾元十当銭は、皆一当十とし、碾磑で売買受納する時は実銭とし、虚銭の交易は皆十当銭を用い、これにより銭に虚実の名が生じた。

史思明が東都を占拠し、また「得一元宝」銭を鋳造した。径一寸四分、一を以て開元通宝の百に当てた。やがて「得一」が長祚の兆しでないのを嫌い、その文を改めて「順天元宝」とした。

代宗が即位すると、乾元重宝銭は一当二、重輪銭は一当三とし、凡そ三日にして大小の銭は皆一当一とした。第五琦が改鋳して以来、法を犯す者は日に数百に及び、州県は禁止できなかったが、この時になって人は甚だ便利に思った。その後、民間では乾元・重稜の二種の銭は器物に鋳られ、再び流通しなくなった。

当時の議者は、「天宝より今に至るまで、戸数九百余万あり。王制に云う、上農夫は九人を養い、中農夫は七人を養う。中農夫を以て計れば、六千三百万人となる。少壮を平均し、人一日米二升を食すれば、日費米百二十六万斛、歳費四万五千三百六十万斛、而して衣料はこれに倍し、吉凶の礼は再び倍し、余り三年の儲えを以て水旱凶災に備うれば、当に米十三万六百八十万斛、貴賤豊儉相当を以てすれば、則ち米の直は銭と鈞し。田は高下肥瘠豊耗を率とし、一頃米五十余斛を出せば、当に田二千七百二十一万六千頃。而して銭も亦歳に棺瓶埋蔵焚溺に毀れ、其の間銅貴し銭賤く、鑄して以て器と為す者有り、十年を出でずして銭幾くも尽き、当世の用に周しまず」と為せり。諸道塩鉄転運使劉晏は、江・嶺諸州、任土の出づる所は、皆重粗賤弱の貨にして、京師に輸するも道路の直を供するに足らず。ここに於て之を江淮に積み、銅鉛薪炭に易え、銭を広く鑄し、歳に十余万緡を得て、京師及び荊・揚二州に輸す。是より銭日増す。

大暦七年、天下に銅器を鑄するを禁ず。建中初め、戸部侍郎韓洄は商州紅崖冶銅多きを以て、洛源の廃監を復し、十鑪を起し、歳に銭七万二千緡を鑄し、千銭毎に費ゆる所九百と為さんことを請う。徳宗之に従う。

江淮には鉛錫銭多く、銅を以て外を盪ぎ、斤両に盈たず、帛価益々貴し。千銭を銷して銅六斤と為し、器を鑄すれば則ち斤毎に銭六百を得、故に銷鑄する者多く、而して銭益々耗る。判度支趙贊は連州の白銅を採り大銭を鑄し、一を以て十に当て、以て軽重を権る。貞元初め、駱谷・散関に行人の一銭を以て出づる者を禁ず。諸道塩鉄使張滂は江淮に銅を鑄して器と為すを禁じ、惟だ鑑を鑄するのみと奏す。十年、詔して天下に銅器を鑄せしめ、毎器一斤、其の直百六十を過ぐるを得ず、銭を銷する者は盗鑄を以て論ず。然れども民間の銭益々少なく、繒帛の価軽く、州県銭の出境せざるを禁じ、商賈皆絶ゆ。浙西観察使李若初は銭の往来を通ずることを請い、而して京師の商賈銭を齎し四方に貿易する者は、勝ち計ふべからず。詔して復た之を禁ず。二十年、命じて市井の交易は、綾・羅・絹・布・雑貨を以て銭と兼ね用いしむ。憲宗は銭少なしを以て復た銅器を禁ず。

時に商賈京師に至り、銭を諸道進奏院及び諸軍・諸使の富家に委ね、軽装を以て四方に趨き、券を合せて乃ち之を取る。号して「飛銭」と曰う。京兆尹裴武は商賈と飛銭する者を禁じ、諸坊を廋索し、十人を保と為さんことを請う。

塩鉄使李巽は郴州平陽の銅坑二百八十余を以て、復た桂陽監を置き、両鑪を以て日銭二十万を鑄す。天下歳に銭十三万五千緡を鑄す。

命じて商賈銭を蓄ふる者は、皆出だして以て貨を市わしむ。天下銀の山有る者は必ず銅有り、唯だ銀は人に益無く、五嶺以北、銀一両を採る者は他州に流し、官吏は罪を論ず。元和四年、京師に用ふる銭緡少く二十及び鉛錫銭有る者は、之を捕う。交易に非ずして銭衢路に行わるる者は問わず。復た詔して五嶺の銀坑を採り、銭の嶺を出づるを禁ず。六年、貿易銭十緡以上は、布帛を参用す。

蔚州三河冶は飛狐の故監に距ること二十里にして近く、河東節度使王鍔は鑪を置き、拒馬河水を疏して銭を鑄し、工費尤も省く。刺史李聴を以て使と為し、五鑪を以て鑄し、毎鑪月に銭三十万を鑄す。是より河東の錫銭皆廃す。

京師飛銭を禁ずるより、家に滞蔵有り、物価漸く軽し。判度支盧坦・兵部尚書判戸部事王紹・塩鉄使王播は商人の戸部・度支・塩鉄の三司に於て飛銭するを許し、千銭毎に百銭を増給せんことを請う。然れども商人至る者無し。復た商人と敵貫にして之に易るるを許す。然れども銭重く帛軽きこと旧の如し。憲宗之が為に内庫の銭五十万緡を出だして布帛を市い、毎匹旧估の十の一を加う。

時に吳元濟・王承宗連衡して命に拒ぐに会い、七道の兵を以て之を討ち、経費屈竭す。皇甫鎛建議し、内外用銭毎緡二十を墊ぐ外、復た五十を抽ちて度支に送り以て軍を贍ふ。十二年、復た京兆府に銭五十万緡を給し布帛を市わしむ。而して富家の銭五千貫を過ぐる者は死し、王公は重く貶し、官に没入し、五の一を以て告者を賞す。京師の区肆の積む所は、皆方鎮の銭にして、少なくも五十万緡、乃ち争って第宅を市う。然れども富賈は左右神策軍の官銭を名と為すに倚り、府県敢えて劾問せず。民間の墊陌七十に至る者有り、鉛錫銭益々多し。吏犯者を捕うれば、多く諸軍・諸使に属し、市人を謼集し強奪し、吏卒を毆傷す。京兆尹崔元略は犯者は本軍・本使に涖決せしめんことを請う。帝用いず、詔して本軍・本使に送り、而して京兆府人を遣り涖決せしむ。穆宗即位し、京師金銀十両を鬻ぐも亦一両を墊ぎ、米塩百銭を糴するも七八を墊ぐ。京兆尹柳公綽は厳法を以て之を禁止す。尋いて所在の用銭墊陌一ならざるを以て、詔して俗の宜しきに従い、内外給用は毎緡八十を墊ぐ。

宝暦初め、河南尹王起は銭を銷して佛像と為す者を盗鑄銭を以て論ぜんことを請う。大和三年、詔して佛像は鉛・錫・土・木を以て之を為し、飾帯は金銀・鍮石・烏油・藍鉄を以てす。惟だ鑑・磬・釘・鐶・鈕は銅を用うるを得、余は皆之を禁じ、盗鑄する者は死す。是の時鉛錫銭の禁を峻にし、千銭を告ぐる者には五千を以て賞す。

四年、詔して積銭は七千緡を率とし、十万緡の者は一年を期として之を出だし、二十万は二年を以てす。凡そ交易百緡以上は、匹帛米粟半ばを居む。河南府・揚州・江陵府は都会の劇を以て、京師の如く約束す。未だ幾ばくもせず皆罷む。

八年、河東の錫銭復た起こる。塩鉄使王涯は蔚州に飛狐鑄銭院を置く。天下歳に銭を鑄すること十万緡に及ばず。文宗は幣軽く銭重きを病み、詔して方鎮に銭穀の交易を縦す。時に銅を器と為すを禁ずるも、江淮・嶺南は列肆して之を鬻ぎ、千銭を鑄して器と為し、利を售ること数倍。宰相李珏は鑪を加え銭を鑄さんことを請う。ここに於て銅器を禁じ、官一切之を市う。天下の銅坑五十、歳に銅二十六万六千斤を採る。

及び武宗浮屠法を廃し、永平監官李郁彦は銅像・鍾・磬・鑪・鐸を皆巡院に帰せんことを請う。州県の銅益々多し。塩鉄使は工常力有り、以て加鑄に足らずと為し、諸道観察使皆銭坊を置くを得るを許す。淮南節度使李紳は天下に州名を以て銭を鑄し、京師は京銭と為し、大小径寸開元通宝の如くし、交易旧銭を用うるを禁ぜんことを請う。宣宗即位するに会い、尽く会昌の政を黜し、新銭は字弁ふ可きを以て、復た像に鑄す。

昭宗の末、京師は銭八百五十を以て貫と為し、毎百纔に八十五、河南府は八十を以て百と為すと云う。