新唐書

巻四十五 志第三十五 選挙下

およそ選挙には文・武の別あり、文選は吏部これを主とし、武選は兵部これを主とす。皆三銓と為し、尚書・侍郎分ちてこれを主とす。

およそ官員には定数あり、而して署置過多の者は罰せられ、知りて聴く者は罰せられ、規りて取る者は罰せらる。毎年五月、格を州県に頒ち、選人格に応ずれば、則ち本属或いは故任に選解を取り、その罷免・善悪の状を列し、十月を以て省に会す。その時を過ぐる者は叙せず。その時に至る者を、乃ちその功過を考ふ。同流の者、五五を以て聯と為し、京官五人これを保ち、一人これを識す。刑家の子・工賈異類及び仮名承偽・隠冒升降の者は罰せらる。文書粟錯し、隠倖する者は駮放す。隠倖せざれば則ちせず。

およそ人を択ぶの法四つあり。一に身と曰ひ、体貌豊偉なるをいう。二に言と曰ひ、言辞弁正なるをいう。三に書と曰ひ、楷法遒美なるをいう。四に判と曰ひ、文理優長なるをいう。四事皆取るべきあれば、則ち先ず德行を取る。徳均しければ才を以てし、才均しければ労を以てす。得る者は留と為し、得ざる者は放と為す。五品以上は試さず、その名を中書門下に上る。六品以下始めて集まりて試し、その書・判を観る。已に試して而ち銓し、その身・言を察す。已に銓して而ち注し、その便利を詢ねて擬す。已に注して而ち唱へ、厭はざる者は得てその辞を通はす。三たび唱へて厭はざれば、冬集を聴す。厭ふ者は甲と為し、僕射に上り、乃ち門下省に上る。給事中これを読み、黄門侍郎これを省み、侍中これを審らかにし、然る後に以て聞す。主者は旨を受けて奉行す。これを「奏受」と謂ふ。視品及び流外は、則ち判補す。皆符を給す。これを「告身」と謂ふ。およそ官已に成を受くるは、皆廷謝す。

およそ判を試みて科に登るを「入等」と謂ひ、甚だ拙きを「藍縷」と謂ふ。選未だ満たざるに文三篇を試むるを「宏辞」と謂ひ、判三条を試むるを「抜萃」と謂ふ。中る者は即ち官を授く。

およそ出身、嗣王・郡王は従四品下。親王諸子郡公に封ぜられる者は従五品上。国公は正六品上。郡公は正六品下。県公は従六品上。侯は正七品上。伯は正七品下。子は従七品上。男は従七品下。皇帝緦麻以上の親・皇太后の期親は正六品上。皇太后の大功・皇后の期親は従六品上。皇帝の袒免・皇太后の小功緦麻・皇后の大功親は正七品上。皇后の小功緦麻・皇太子妃の期親は従七品上。外戚は皆服属を以て二階を降りて叙す。郡主を娶る者は正六品上。県主を娶る者は正七品上。郡主の子は従七品上。県主の子は従八品上。

およそ蔭を用ふるは、一品の子は正七品上。二品の子は正七品下。三品の子は従七品上。従三品の子は従七品下。正四品の子は正八品上。従四品の子は正八品下。正五品の子は従八品上。従五品及び国公の子は従八品下。およそ品子雑掌に任じ及び王公以下の親事・帳内に労満して選ばるる者は、七品以上の子は従九品上に叙す。その流外に任じて流内に入るべく応じ、品卑しきを叙するも、亦た之の如し。九品以上及び勲官五品以上の子は従九品下に叙す。三品以上は曾孫を蔭し、五品以上は孫を蔭す。孫は子より一等を降し、曾孫は孫より一等を降す。贈官は正官より一等を降し、死事の者は正官と同じ。郡公・県公の子は従五品の孫に視る。県男以上の子は一等を降す。勲官二品の子は又一等を降す。二王の後孫は正三品に視る。

およそ秀才、上上第は正八品上。上中第は正八品下。上下第は従八品上。中上第は従八品下。明経、上上第は従八品下。上中第は正九品上。上下第は正九品下。中上第は従九品下。進士・明法、甲第は従九品上。乙第は従九品下。弘文・崇文館生及第も亦た之の如し。五品に入るべく応ずる者は以て聞す。書・算学生は従九品下に叙す。

およそ弘文・崇文生、皇緦麻以上の親、皇太后・皇后の大功以上の親、一家二人を選ぶを聴す。職事二品以上・散官一品・中書門下正三品同三品・六尚書等の子孫並びに姪、功臣身食実封の者の子孫、一蔭二人を選ぶを聴す。京官職事正三品・同中書門下平章事・供奉官三品の子孫、京官職事従三品・中書黄門侍郎並びに供奉三品官・帯四品五品散官の子、一蔭一人。

およそ勲官選ばるる者は、上柱国は正六品に叙す。六品以下は一階を遞降す。ぎょう騎尉・武騎尉は従九品上に叙す。

およそ官に居るには必ず四考す。四考中中なれば、年労を進めて一階を叙す。一考毎に、中上は一階を進め、上下は二階を進む。上中以上及び考を計りて五品以上に至るべく応ずる者は奏して別に叙す。六品以下遷改して更に選ばず及び五品以上の官を守る者は、年労歳一叙し、階牒を記して給す。考多き者は考に準じて累加す。

およそ医術は尚薬奉御を過ぎず。陰陽・卜筮・図画・工巧・造食・音声及び天文は本色の局・署令を過ぎず。鴻臚訳語は典客署令を過ぎず。およそ千牛備身・備身左右は五考して兵部に送り試み、文ある者は吏部に送る。およそ斎郎、太廟は五品以上の子孫及び六品職事並びに清官の子を以て之と為し、六考にして満つ。郊社は六品職事官の子を以て之と為し、八考にして満つ。皆両経を読み粗通じ、年十五以上・二十以下に限り、儀状端正にして疾なき者を択ぶ。

武選、およそ課を納るる品子は、歳に文武六品以下・勲官三品以下五品以上の子を取り、年十八以上、毎州解を為して兵部に上る。課を納ること十三歳にして試み、第一等は吏部に送り、第二等は本司に留め、第三等は資を二歳納め、第四等は資を三歳納む。納め已りて、復試し、文武を量りて散官を授く。若し考満して試まずば、当年の資を免ず。喪に遭へば資を免ず。故なくして資を輸せず及び犯ある者は、これを放還す。およそ捉銭品子は、違負無く満二百日に至れば、本属簿を以て朝集使に附し、考功・兵部に上る。十歳満てば、文武を量りて散官を授く。その視品国官府佐停まるべく応ずる者は、品子の課を納るるに依り、十歳にして試む。およそ一歳を一選と為す。一選より十二選に至るまで、官品の高下を視てその数を定め、その功過に因りて之を増損す。

初め、武徳中、天下兵革新たに定まり、士禄を求めず、官員を充さず。有司符を移して州県に課し、人をして調に赴かしむ。遠方には或いは衣を賜ひ食を継ぎ、猶辞して行かず。至れば則ち授用し、黜退する所無し。数年を経ずして、求むる者漸く多くなり、亦頗る簡汰を加ふ。

貞観二年、侍郎劉林甫が言うには、「隋の制度は十一月を選任の始めとし、春になってようやく終わる。今選任される者が多く、四時に分けて注擬することを請う」と。十九年、馬周は四時選が煩労であるとして、再び十一月に選任を始め、三月に終わることとした。

太宗はかつて摂吏部尚書杜如晦に言われた、「今は専ら言辞と刀筆をもって人を取るが、その行いを詳らかにせず、後に職を敗るに至り、たとえ刑戮を加えても、民はすでに弊害を受けている」と。そこで古に倣い、諸州に辟召させようとしたが、功臣の世封が行われたのに合わせて中止した。他日また侍臣を顧みて言われた、「治を致す術は賢を得るにある。今公らは人を知らず、朕もまた遍く識ることができず、日月は過ぎ去り、人は遠ざかる。我は人に自ら挙げさせようと思うが、よろしいか」と。しかし魏徴はこれが競争を助長すると考え、また中止した。

初め、銓法は簡素で任は重かった。高宗総章二年、司列少常伯裴行儉が初めて長名牓を設け、引銓注法を定め、また州県の昇降を八等と定め、その三京・五府・都護・都督ととく府にはすべて差等があり、官資を量ってこれを授けた。その後李敬玄が少常伯となり、員外郎張仁禕に事務を委ね、仁禕はまた姓歴を作り、状様・銓歴などの程式を改め、銓総の法は緻密となった。しかしこの時は仕官する者が多く、凡庸愚昧な者が皆集まり、偽りの主符告を作って官を詐称する者、他人の名を継いで参調する者、遠方の者で親族がなく保証人を置く者などがあった。試験の日には、名を冒して代わりに進む者、傍らに座って他人に代筆させる者、外部の助力を借りる者などが多く、実態とはかけ離れていた。等級を多く設け、選限を順次差別化し、違犯を譴責する科条を増やし、糾告を開く令を発してこれを抑えようとしたが、なお禁じることができなかった。おおよそ十人が一官を競った。残り多くは滞留して派遣できず、有司はこれを憂え、落第させる策を謀り、僻書や隠学を判目の題材とし、もはや人材を求める意図はなかった。そして吏は賄賂を求め、出入りや昇降を操作した。武后の時に至り、天官侍郎魏玄同はこれを深く憎み、古の辟署の法を復活させることを請うたが、回答はなかった。

初め、選人を試す際にはすべて名を糊封し、学士に考判させたが、武后はこれが委任の方法に非ずとして廃止した。そして人心収攬に努め、士は賢不肖を問わず多く進奨された。長安ちょうあん二年、挙人に拾遺・補闕・御史・著作佐郎・大理評事・衛佐を授けた者は凡そ百余人に及んだ。翌年、風俗使に引見し、挙人に悉く試官を授け、高い者は鳳閣舍人・給事中に至り、次は員外郎・御史・補闕・拾遺・校書郎であった。試官の起こりはこれより始まる。時に李嶠が尚書となり、また員外郎二千余員を置き、悉く勢家の親戚を用い、俸祿を与え、事務を執らせたため、正官と事を争って毆り合う者さえあった。また検校・勅摂・判知の官もあった。神龍二年、嶠が再び中書令となり、ようやくこれを悔い、員外官の事務執掌を停止した。

中宗の時、韋后及び太平・安楽公主らが権勢を握り、側門で墨勅を降ろし斜封で官を授け、「斜封官」と号し、凡そ数千員に及んだ。内外に溢れ、聴事する場所もなく、当時これを「三無坐処」と言い、宰相・御史及び員外郎を指した。また鄭愔を侍郎とし、大いに賄賂を受け、選人で留まる者が甚だ多く、ついに三年分の員闕を逆用するに至り、綱紀は大いに潰えた。韋氏が敗れると、初めて宋璟を吏部尚書とし、李乂・盧従愿を侍郎とし、姚元之を兵部尚書とし、陸象先・盧懐慎を侍郎とし、悉く斜封官の廃止を奏上し、闕員を量って人を留め、資歴が高く経験が深くても、才実なき者は取らなかった。初め、尚書銓は七品以上の選任を掌り、侍郎銓は八品以下の選任を掌った。この時より、品を統合して掌った。間もなく、璟・元之らが罷免され、殿中侍御史崔涖・太子中允薛昭が太平公主の意を迎え、上言して「斜封官を罷めれば、人はその居所を失い、怨みが下に積もり、必ず非常の変が起こる」と言った。そこで詔を下して斜封別勅官を悉く復活させた。

玄宗が即位し、励精して治められた。左拾遺内供奉張九齢が上疏して言うには、「県令・刺史は、陛下が共に治める者であり、特に民に親しい者である。今京官が外任するのは、却って斥逐と見なされており、その選任を少し重くせざるを得ない」と。また言うには、「古には或いは遙かに辟召を聞き、或いは一見して任じた。それ故に士は名行を修め、流品が雑ならなかった。今、吏部が初めて簿書を作り、遺忘に備えるが、却って案牘に精を求め、人材を急がず、流れの中に剣を落として舟に刻み目を付けるのと何ら異ならない」と。そこで詔を下して京官で善政ある者を選び刺史に補い、毎年十月、按察使が殿最を校べ、第一から第五まで、校考使及び戸部長官が総括して審査し、昇降の基準とした。凡そ官は、州県を歴任しなければ台省に擬することはなかった。やがて新たに任じられた県令を悉く宣政殿に集め、親臨して治人の策を問い、その高第者を抜擢した。また詔して員外郎・御史などの供奉官は、皆進名して勅授とし、兵部・吏部は各々員外郎一人を以て南曹を判じさせ、これにより銓司の任は軽くなった。その後、戸部侍郎宇文融がまた十銓を置くことを建議し、礼部尚書蘇頲らに分かってこれを主掌させた。太子左庶子呉兢が諫めて言うには、「易に『君子は其の位を出でずして思う』と称し、官を侵さないことを言う。今、頲らに分かって吏部選を掌らせ、天子が親臨して決するのは、尚書・侍郎は皆参知せず、議者は万乗の君が下って選事を行うと考える」と。帝は悟り、遂に三銓を再び有司に還した。

開元十八年、侍中裴光庭が吏部尚書を兼ね、初めて循資格を作り、賢愚を一律に扱い、必ず格に合致しなければ銓授され、年を限り級を踏み、越えることはできなかった。そこで長く滞留して収用されなかった者たちは皆これを便利とし、「聖書」と呼んだ。光庭が卒すると、中書令蕭嵩はこれが人材を求める方法に非ずとして、その廃止を奏上した。そこで詔を下して曰く、「凡そ人は三十歳で出身し、四十歳にして初めて事に従う。さらに格を作って分寸を差とし、もし新格に従えば、六十歳になっても一尉を離れられない。今より選人で才業優異・操行あり、及び遠郡の下僚で名跡稍々著しい者は、吏部が材に随って甄抜擢用せよ」と。

初め、諸司の官で政事を知る者は、日午後に至って初めて本司に還り視事した。兵部・吏部尚書侍郎で政事を知る者も、また本司に還り闕員を分けて注唱した。開元以来、宰相の位望は次第に高まり、尚書が政事を知る者でも、中書で本司の事を決して自らの便を図った。そして左・右相が兵部・吏部尚書を兼ねる者は、自ら銓総しない。また故事では、必ず三銓・三注・三唱して後に官を擬し、季春に始めて終わり、ようやく門下省を過ぎた。楊国忠が右相兼文部尚書として、選人は官資・書判・状迹・功優を視て、衆に対し留放を定めるべきであると建議した。そこで先に吏に密かに員闕を定めさせ、一日で左相及び諸司長官を都堂に会して注唱し、神速を誇った。これにより門下過官・三銓注官の制度は皆廃され、侍郎は試判を主掌するのみとなった。

粛宗・代宗以後、兵乱が起こり、天下は多事となり、官員は益々濫り、銓法は語るに足るものはなかった。徳宗の時に至り、試太常寺協律郎沈既済がその弊を極言して曰く、

近世に爵禄を失うこと久し、その失う所以は他にあらず、四つの太きことのみ。入仕の門余りに多く、世冑の家余りに優なり、禄利の資余りに厚く、督責の令余りに薄し。臣以為うらくは、まさにその禄利を軽くし、その督責を重くすべし。夫れ古今の選用の法、九流常に敍するに、三科のみあり、曰く徳なり、才なり、労なり。而るに今の選曹、皆これに及ばず。且つ吏部の甲令、度徳して任に居り、量才して職を授け、計労して敍を升むと曰うと雖も、然れども考校の法、皆書判簿歴・言辞俯仰の間に在り、侍郎神に通ぜずんば、得て知るべからず。則ち安行徐言は徳に非ず、空文善書は才に非ず、累資積考は労に非ず。苟くも執うて失わざれば、猶お人を得るに乖き、況や衆流茫茫、耳目に足らざる者有らんや。蓋し鑑の明らかならざるに非ず、択の精ならざるに非ず、法然らしむるなり。王者は変を観て以て法を制し、時を察して以て政を立つ。前代の選用を按ずるに、皆州・府察挙にして、斉・隋に至りては、署置多く請託に由る。故に当時の議者、其の率私なるに与るは、自挙するに若かず、其の外濫なるに与るは、内収するに若かずと以為う。是を以て州府の権を罷めて、吏部に帰す。此れ時に矯い弊を懲らしむるの権法にして、国を経る不刊の常典に非ず。

今、吏部の法蹙たり、坐して刓弊を守るべからず。臣請うらくは、五品以上及び群司の長官・宰臣の進敍は、吏部・兵部参議するを得しめ、六品以下或いは僚佐の属は、州・府の辟用を聴かしむ。則ち銓択の任は四方に委ね、結奏の成は二部に帰す。必ず先ず牧守を択び、然る後に其の権を授く。高き者は先ず署して後に聞かしめ、卑き者は版を聴かして命せず。其の牧守・将帥、或いは選用公に非ざれば、則ち吏部・兵部察して挙ぐるを得。聖主は目を明らかにして聡に達し、遐邇を視聴し、其の私冒を罪す。挙げて慎まざる者は、小には譴黜を加え、大には刑典を正す。責成して授任せば、誰か敢えて勉めざらんや。夫れ是の如くならば、名を接ぎ偽り命するの徒、菲才薄行の人、貪叨賄貨、懦弱姦宄は、詔を下すの日、声に随いて廃せられ、大数を通じて、十に八九を去らん。是の如くならば、人少なくして員寛なり、事覈にして官審なり、賢者は奨せずして自ら進み、不肖者は抑えずして自ら退く。

或いは曰く、「開元・天宝中、吏部の法を易えずして、天下砥平たり、何ぞ必ずしも外辟して、方に理に臻らん」と。臣以為うらくは然らず。夫れ選挙は、邦を経るの一端、之を制すること美悪有ると雖も、之を行うは法令に由る。是を以て州郡察挙は、両漢に在りては理なり、魏・斉に在りては乱る。吏部選集は、神龍・景龍に在りては紊れ、開元・天宝に在りては理なり。其の時当たり、久しく昇平を承け、法術を以て御し、慶賞軼せず、威刑必ず斉し、此れに由りて理まるは、吏部を用いて此に臻るに匪ず。向に此の時に辟召の法を用いば、則ち理益々久しからざらんや。

天子其の言を嘉するも、改作を重んじて、終に用いる能わず。

初め、吏部は歳に常に人を集む。其の後三数歳に一たび集め、選人猥りに至り、文簿紛雑す。吏因りて以て姦利を為すを得、士は蹉跌に至り、或いは十年官を得ず、而して闕員も亦累歳補われず。陸贄相と為り、乃ち其の弊を懲らし、吏部に命じて内外の員に据りて之を三分し、闕を計りて人を集め、歳を以て常と為す。是の時、河西・隴右は虜に没し、河南・河北は計を上らず、吏員は大率天宝の三の一を減じ、而して入流する者は一を加う。故に士人は二年官に居り、十年選を待ち、而して考限遷除の法寖く壊る。憲宗の時、宰相李吉甫考遷の格を定む。諸州刺史・次赤府少尹・次赤令・諸陵令・五府司馬・上州以上の上佐・東宮官詹事諭德以下・王府官四品以上は皆五考。侍御史は十三月、殿中侍御史は十八月、監察御史は二十五月。三省官・諸道の敕補・検校五品以上及び台省官は皆三考、余の官は四考、文武官四品以下は五考。凡そ遷るに、尚書省四品以上・文武官三品以上は皆先ず奏す。

唐の人を取るの路蓋し多し。其の盛んなる時、令に著する所、納課の品子万人、諸館及び州県学六万三千七十人、太史の歴生三十六人、天文生百五十人、太醫の薬童・針呪諸生二百十一人、太卜の卜筮三十人、千牛備身八十人、備身左右二百五十六人、進馬十六人、齋郎八百六十二人、諸えいの三衞監門直長三万九千四百六十二人、諸屯の主・副千九百八人、諸折衝府の録事・府・史一千七百八十二人、校尉こうい三千五百六十四人、執仗・執乘毎府三十二人、親事・帳内万人、集賢院の御書手百人、史館の典書・楷書四十一人、尚薬童三十人、諸台・省・寺・監・軍・衞・坊・府の胥史六千余人。凡そ此の者は、皆官に入るの門戸にして、諸司の主録既に官を成し及び州県の佐史未だ敍せられざる者は、此れに在らず。

銓選に至りては、其の制一ならず。凡そ流外、兵部・礼部の挙人は、郎官自ら之を主るを得、之を「小選」と謂う。太宗の時、歳旱ぎて穀貴きを以て、東人の選者は洛州に集まり、之を「東選」と謂う。高宗上元二年、嶺南五管・黔中の都督府土人を即任するを得、而して官或いは其の才に非ざるを以て、乃ち郎官・御史を遣わして選補使と為し、之を「南選」と謂う。其の後、江南・淮南・福建は大抵歳の水旱に因り、皆選補使を遣わして即ち其の人を選ぶ。而して廃置常ならず、選法又著わさず、故に復た詳かにせず。