新唐書

巻十三 志第三 礼楽三

周が衰えてより、礼楽は戦国にて壊れ、秦にて廃絶した。漢が興ると、六経の存するものは、皆錯乱・散亡・雑偽し、諸儒が共に補緝し、意をもって解詁するも、未だその真を得ず、而して讖緯の書が出て経を乱した。鄭玄の徒より、大儒と号する者は、皆その説を主とし、学者はこれにより牽惑没溺し、時に君主は断決できず、挙ぐるあるは、廃すべからずと為した。ここにより郊・丘・明堂の論は、紛然として止む所を知るに至らぬ。

礼に曰く、「禋祀を以て昊天上帝を祀る」と。これは天なり、玄は天皇大帝と為すは、北辰耀魄宝なりとす。又曰く、「五帝を四郊に兆す」と。これは五行精気の神なり、玄は青帝霊威仰・赤帝赤熛怒・黄帝含樞紐・白帝白招拒・黒帝汁光紀と為すは、五つの天なりとす。ここにより六天の説あり、後世廃すること能わず。

唐初の貞観礼は、冬至に円丘にて昊天上帝を祀り、正月辛の日に南郊にて感生帝霊威仰を祀りて穀を祈り、而して孟夏に南郊にて雩し、季秋に明堂にて大享し、皆五天帝を祀る。高宗の時に至り、礼官が太史の円丘図を以て謂うに、昊天上帝は壇上に在り、而して耀魄宝は壇の第一等に在り、則ち昊天上帝は耀魄宝に非ざるを知るべく、而るに祠令及び顕慶礼は猶お六天の説を著す。顕慶二年、礼部尚書許敬宗と礼官等が議して曰く、「六天は緯書に出づ、而して南郊・円丘は一なり、玄は二物と為す。郊及び明堂は本天を祭るを以てす、而るに玄は皆太微五帝を祭ると為す。伝に曰く、『凡そ祀は、啓蟄にして郊し、郊して後に耕す』と。故に『郊祀して后稷を以てし、農事を祈る』。而るに玄は周が感帝霊威仰を祭り、后稷を以て配し、因りて穀を祈ると謂う。皆謬論なり」と。ここにより玄の説を尽く黜け、而して南郊祈穀・孟夏雩・明堂大享は皆昊天上帝を祭る。

乾封元年、詔して祈穀に復た感帝を祀らしむ。二年、又詔して明堂に昊天上帝及び五帝を兼ね祀らしむ。開元中、起居舎人王仲丘が議して曰く、「貞観礼を按ずるに祈穀は感帝を祀り、而して顕慶礼は昊天上帝を祀る。伝に曰く、『郊して後に耕す』と。詩に曰く、『噫嘻春夏、上帝に穀を祈る』と。礼記も亦曰く、『上辛に上帝に穀を祈る』と。而るに鄭玄は乃ち云う、『天の五帝は迭りに王たり、王者の興は必ずその一に感ず、因りて別に祭りてこれを尊ぶ。故に夏正の月、その生まるる帝を南郊に祭り、その祖を以てこれに配す。故に周は霊威仰を祭り、后稷を以て配し、因りて穀を祈る』と。然らば則ち祈穀は祭の本意に非ず、乃ち后稷を配と為すによるのみ、これは祈穀の本義に非ず。夫れ祈穀は、本天を祭るを以てす、然るに五帝は五行の精、九穀を生ずる所以なり、祈穀に昊天を祭りて兼ねて五帝を祭るに宜し」と。又曰く、「月令に、大雩・大享帝は、皆盛んなる祭なり。而して孟夏雩・季秋大享は、貞観礼は皆五方帝を祭り、而して顕慶礼は皆昊天上帝を祭る、兼ね用いて大雩・大享の義に合わすに宜し」と。既にして蕭嵩等が開元礼を撰定し、古に合わす能わざるも、天神の位は別けたり。

その配神の主は、武徳中、冬至及び孟夏雩に方丘にて皇地祇を、北郊にて神州地祇を祭り、景帝を以て配す。而して上辛祈穀は南郊にて感帝を祀り、季秋は明堂にて五方天帝を祀り、元帝を以て配す。貞観初、円丘・明堂・北郊は高祖こうそを以て配し、而して元帝は惟だ感帝に配すのみ。高宗永徽二年、太宗を以て明堂に配祀せしむ、而して有司は乃ち高祖を以て五天帝に配し、太宗を以て五人帝に配す。太尉長孫无忌等と礼官が議し、以て謂う、「三代以来、漢・魏・晋・宋を歴て、父子同じく明堂に配する者なし。祭法に曰く、『周人は嚳を禘し而して稷を郊し、文王を祖とし而して武王を宗とす』と。鄭玄は祖宗を合して一祭と為し、明堂にて五帝・五神を祭り、文・武を以て共に配すと謂う。而して王肅が駁して曰く、『古えは功を祖とし徳を宗とす、これ自ら毀つべからざるの名、明堂に配食するを謂うに非ず』と。春秋伝に曰く、『禘・郊・祖・宗・報、この五者は国の典祀なり』と。これにより祖・宗は一祭に非ざるを知る」と。ここにより高祖を以て円丘に配し、太宗を以て明堂に配す。

乾封二年、詔して円丘・五方・明堂・感帝・神州は皆高祖・太宗を並び配せしむ。則天垂拱元年、詔して有司に議せしむ、而成均助教孔玄義・太子右諭徳沈伯儀・鳳閣舎人元万頃范履冰の議は皆同じからず、而して卒に万頃・履冰の説を用う。ここにより郊・丘諸祠は、常に高祖・太宗・高宗を並び配す。開元十一年、親しく円丘を享け、中書令張説・衛尉少卿韋縚を礼儀使と為し、乃ち高祖を以て配し、而して三祖の並び配を罷む。二十年に至り、蕭嵩等が礼を定め、而して祖宗の配定まる。

宝応元年、太常卿杜鴻漸・礼儀使判官薛頎帰崇敬等が言う、「禘とは、冬至に円丘にて天を祭り、周人は遠祖を以て配す。唐高祖は始封の君に非ず、太祖と為して天地に配するを得ず。而して太祖景皇帝は唐に封ぜられ、即ち殷の契・周の后稷なり、請う太祖を以て郊に天地に配せんことを」と。諫議大夫黎幹は以て謂う、「禘は宗廟の事、天を祭るに非ず、而して太祖は受命の君に非ず、配と作すに宜しからず」と。十詰十難を為してこれを非とす。書奏すれど、報いず。乃ち高祖を罷め、景皇帝を以て配す。明年旱し、言事者は高祖を配せざるの過ちと為す。代宗これを疑い、詔して群臣に議せしむ。太常博士独孤及が議して曰く、「神宗より命を受くるは、禹なり、而して夏后氏は顓頊を祖とし而して鯀を郊す。禹を纘ぎ夏を黜するは、湯なり、而して殷人は冥を郊し而して契を祖とす。革命して周を作るは、武王なり、而して周人は稷を郊し而して文王を祖とす。太祖景皇帝は唐に始めて封ぜられ、天の命ずる所なり」と。ここにより配享易わらず。嗚呼、礼の失うや、豈に独り緯書の罪のみならんや!学者の曲説を好むに在り、而して人君の一切臨時にその私意を申し、多く増すを以て礼を尽くすと為し、煩数の黷となるを知らざるなり。

古えは円丘にて天を祭り、国の南に在り、沢中の方丘にて地を祭り、国の北に在り、陰陽に順い、高下に因り、而して天地をその類を以て事うる所以なり。その方位既に別け、而してその燎壇・瘞坎・楽舞変数も亦皆同じからず、而して後世に合祭の文あり。則天天冊万歳元年、親しく南郊を享け、始めて天地を合祭す。

睿宗が即位し、南郊で祭祀を行おうとしたとき、諫議大夫の賈曾が議して言うには、「祭法によれば、有虞氏は黄帝を禘祭し嚳を郊祭し、夏后氏は黄帝を禘祭し鯀を郊祭する。郊祭と廟祭には、いずれも禘祭がある。廟で禘祭を行えば、祖宗は太祖に合食する。郊で禘祭を行えば、地祇や群望は皆円丘に合し、始祖を以て配享する。これは有事の大祭であって、常祀ではない。三輔故事に、『円丘で祭祀し、上帝・后土の位は皆南面する』とある。ならば漢は嘗て合祭を行ったのである。」国子祭酒の褚無量・司業の郭山惲らは皆、賈曾の言を然りとした。この時、睿宗は北郊で地を祭ろうとしていたので、賈曾の議は取りやめとなった。

玄宗は既に開元礼を定め、天宝元年、遂に南郊で天地を合祭した。この時、神仙道家の説が興り、陳王府参軍の田同秀が「玄元皇帝が丹鳳門に降臨された」と言った。そこで玄元廟を建立した。二月辛卯、親しく玄元皇帝廟を享け、甲午、親しく太廟を享け、丙申、南郊で祭祀を行った。その後、遂にこれを故事とし、唐の世の終わりまで、改めることができなかった。礼を為すこと、慎まざるべけんや。

男女が内外で互いに褻べからざるは、況んや郊廟においてをや。中宗の時、南郊を享けんとし、国子祭酒の祝欽明が皇后は助祭すべしと言い、太常博士の唐紹・蔣欽緒は不可とし、左僕射の韋巨源のみが欽明の説を是とした。ここにおいて皇后を以て亜献とし、大臣の李嶠らの女を補って斎娘とし、籩豆を執らせた。徳宗の貞元六年に至り、また皇太子を以て亜献とし、親王を終献とした。

孝経に「文王を明堂に宗祀し、以て上帝に配す」とある。しかし三代にはその名がありながら制度がなく、故に漢以来、諸儒の論は一様でなく、従うべきを知らぬに至り、則ち一切臨時に増損し、古に合することができなかった。しかしその本旨を推すに、要は王者の尊厳なる居において政を布き神と交わるに在るのみで、その制作は必ずしも古と同くある必要はない。しかしこれを為す者が全く拠り所とすべきものなく、乃ち天地・四時・風気・乾坤・五行・数象の類を引いて倣像と為し、而して衆説もまた成し遂げられなかった。

隋には明堂がなく、季秋の大享は常に雩壇に仮寓した。唐の高祖・太宗の時は、円丘に仮寓した。貞観年中、礼部尚書の豆盧寛・国子助教の劉伯莊が議して「崑崙道に従い上層で天を祭り、下層で政を布く」としたが、太子中允の孔穎達は非と為した。侍中の魏徴は「五室の重屋、上円下方、上で天を祭り、下で政を布く。前世の儒者の言うところは異なるといえども、かくの如く為すとする者は多い。高下広狭の丈尺の制に至っては、事に因り宜しきを制すべし」と言った。秘書監の顔師古は「周書に明堂の叙に応門・雉門の制がある。これによって王者の常居たることを知るのみである。その青陽・総章・玄堂・太廟・左右个は、皆路寝の名である。文王居明堂の篇に、弓䪅を帯び、高禖を礼し、九門で磔禳し、国に酒有りて以て三族を合わす、その事を推すに皆月令と合い、則ち皆路寝にある。大戴礼に近郊にあるとし、また文王の廟であると言う。これどうして以て信を取るに足りようか。且つ門に臯・庫有り、豈に郊野に施すを得んや、宮中に近く在るべしと謂うのが宜しい」と言った。魏徴及び師古らは皆当世の名儒であったが、その論はこの程度に止まった。

高宗の時、元号を総章と改め、万年県を分けて明堂県を置き、必ず立つことを示そうとした。しかし議する者は益々紛然とし、或いは五室とし、或いは九室とし、高宗は両議に依り、帟幕を以てこれを作り、公卿と臨観したが、議は益々一様でなかった。乃ち詔を下し、率意にその制度を班した。黄琮に象を取るに至り、上に鴟尾を設けるなど、その言は益々経に合わず、而して明堂もまた立つことができなかった。

則天に至って初めて東都の乾元殿を毀ち、その地に明堂を立てた。その制は淫侈で、再び観るべきものなく、皆記すに足りない。その後火災で焼け、既にしてまた復た立てた。開元五年、再び乾元殿と為して毀たず。初め、則天は木を以て瓦と為し、夾紵で漆した。二十五年、玄宗は将作大匠の康𧦬素にこれを毀たせた。𧦬素は人を労することを以て為し、乃ちその上層を去り、真の瓦に換えた。而して唐の世の終わりまで、季秋の大享は皆円丘に仮寓した。

書に「七世の廟は以て徳を観るべし」とある。しかし礼家の説は、世数が同じでない。しかし礼記の王制・祭法・礼器より、大儒の荀卿・劉歆・班固・王肅の徒は、七廟とする者が多い。漢・魏以来、創業の君は特起し、その上世は微であり、また功德を以て祖宗に備えるものがないので、その初めは皆七廟を立てることができなかった。

唐の武徳元年、初めて四廟を立て、宣簡公・懿王・景皇帝・元皇帝と曰う。貞観九年、高祖が崩じ、太宗は有司に議を定めさせた。諫議大夫の朱子奢は七廟を立て、太祖の室を虚しくして待つことを請うた。ここにおいて尚書八座が議して「礼に『天子は三昭三穆、太祖の廟と而して七』とある。晋・宋・斉・梁は皆親廟六を立てた。これは故事である」と言った。制して「可」とした。ここにおいて弘農府君及び高祖を祔して六室と為した。二十三年、太宗が崩じ、弘農府君は世遠を以て毀ち、夾室に蔵し、遂に太宗を祔した。及び高宗が崩じ、宣皇帝は夾室に遷され、而して高宗を祔した。皆六室と為した。

武氏の乱が敗れ、中宗神龍元年、既に京師の太廟を復し、また東都に太廟を立てた。始祖を立てて七廟とすべく議し、議者は涼武昭王を始祖とせんと欲した。太常博士張齊賢は議して以て不可と為し、因りて曰く、「古に天下を有つ者は七世に事へ、而して始めて封ぜられたる君を之を太祖と謂ふ。太祖の廟は、百世遷さず。祫祭に至れば、則ち毀廟は皆昭穆を以て太祖に合食す。商は祖玄王、周は祖后稷、其の世数遠く、而して遷廟の主は皆太祖の後より出づ、故に合食の序、尊卑差へず。漢は高皇帝を以て太祖と為し、而して太上皇は合食の列に在らず、其の太祖に尊きを為すなり。魏は武帝を以て太祖と為し、晋は宣帝を以て太祖と為し、武・宣以上、廟室は皆祫に合食せず、隋に至るも亦然り。唐は天命を受け、景皇帝は始めて封ぜられたる君、太祖なり、其の世近きを以て、而して三昭三穆の内に在り、而して光皇帝以上は、皆属尊を以て合食に列せず。今宜しく景皇帝を以て太祖と為し、復た宣皇帝を祔して七室と為し、而して太祖以上四室は皆祫に合食せざるべし」と。博士劉承慶・尹知章議して曰く、「三昭三穆と太祖とを以て七廟と為すは、礼なり。而して王迹に浅深有り、太祖に遠近有り、太祖は功を以て建て、昭穆は親を以て崇ぶ。功有る者は遷さず、親尽くる者は則ち毀つ。今太祖近くして廟数備はらず、乃ち昭穆の外に於て、遠く当に遷すべき主を立てて以て七廟を足さんとし、而して迭毀の義に乖く、不可なり」と。天子其の議を大臣に下す、礼部尚書祝欽明両者の言を用ゐ、是に於て景皇帝を以て始祖と為し、而して宣皇帝を祔せず。已にして孝敬皇帝を義宗と為し、廟に祔す、是より七室と為し、而して京太廟も亦七室なり。中宗崩じ、中書令姚元之・吏部尚書宋璟以て為すに、「義宗は、追尊の帝、昭穆に列すべからず、而して其の葬は洛州に在り、請ふ東都に別廟を立て、而して有司時に享し、其の京廟の神主は夾室に蔵むべし」と。是より中宗を祔し、而して光皇帝遷さず、遂に七室と為せり。

睿宗崩じ、博士陳貞節・蘇献等議して曰く、「古に兄弟相後に為さず、殷の盤庚は、陽甲に序せず、漢の光武は、孝成を嗣がず、而して晋の懐帝も亦世祖を継ぎて惠帝を継がず。蓋し兄弟相代はるは、昭穆位同じく、其の当に遷すに至れば、兼ねて二廟を毀つべからず。荀卿子曰く、『天下を有つ者は七世に事ふ』と。禰以上を謂ふなり。若し傍ら兄弟を容れ、上りて祖考を毀たば、則ち天子七世に事ふるを得ざる者有らん。孝和皇帝に中興の功有りて後無し、宜しく殷の陽甲の如く、出でて別廟と為し、睿宗を祔して以て高宗を継ぐべし」と。是に於て太廟の西に中宗廟を立てしむ。

開元十年、詔して宣皇帝を復た正室に祔し、謚して献祖と為し、幷せて光皇帝を謚して懿祖と為す。又中宗を以て還た太廟に祔し、是に於て太廟九室と為す。将に親しく祔せんとし、而して雨に遇ひて行ふこと克はざれば、乃ち有司に命じて事を行はしむ。宝応二年、献祖・懿祖を祧し、玄宗・粛宗を祔す。是より後、常に九室と為せり。

代宗崩じ、礼儀使顔真卿議す、「太祖・高祖・太宗は皆毀たず、而して代祖元皇帝当に遷すべし」と。是に於て元皇帝を遷し代宗を祔す。徳宗崩じ、礼儀使杜黄裳議す、「高宗は三昭三穆の外に在り、当に遷すべし」と。是に於て高宗を遷し徳宗を祔す、蓋し中・睿を以て昭穆と為せり。順宗崩じ、当に中宗を遷すべかりしに、有司疑ふ、以て謂く則天革命有り、中宗は中興の主なりと。博士王涇・史官蒋武皆以て為すに、中宗の得失は己に在り、漢の光武・晋の元帝の比に非ず、中興不遷の君と為すを得ずと。是より中宗を遷し順宗を祔す。

憲宗・穆宗・敬宗・文宗四世廟に祔するより、睿・玄・粛・代は次を以て遷す。武宗崩するに至り、徳宗は次を以て当に遷すべかりしに、而して世次に於て高祖と為る、礼官始めて其の非なるを覚り、以て謂く兄弟相後に為さず、昭穆と為すを得ず、乃ち議して復た代宗を祔す。而して議者言ふ、「已に祧せられたる主は復た太廟に入るるを得ず」と。礼官曰く、「昔晋の元・明の世、已に章・潁川を遷し、後皆復た祔す、此れ故事なり」と。議者又言ふ、「廟室に定数有り、而して後無き主は当に別廟を置くべし」と。礼官曰く、「晋の武帝の時、景・文同廟、廟は六代と雖も、其の実は七主なり。元帝・明帝に至りては、廟は皆十室なり、故に賀循曰く、『廟は主を容るるを限とし、而して常数無し』と」と。是に於て復た代宗を祔し、而して敬宗・文宗・武宗を以て同じく一代と為す。初め、玄宗の献祖を復た祔せし時、詔して曰く、「親にして尽きず、遠くして祧さず」と。蓋し其の率意として言へるなり、礼に本づくに非ず。而して後の説を為す者、乃ち事に遷就し、以て謂く三昭三穆と太祖祖功宗徳三廟不遷とを以て九廟と為すは、周の制なりと。敬・文・武三宗一代と為るに及び、故に唐の世を終ふるまで、常に九代十一室なり。

開元五年、太廟四室壊る、其の神主を太極殿に奉る、天子素服して正殿を避け、朝を輟むこと三日。時に将に東都に行幸せんとす、遂に神主に太極殿に謁して而して後行く。安禄山の乱、宗廟賊に焚かれる、粛宗京師を復し、次を光順門外に設け、廟に向ひて哭し、朝を輟むこと三日。其の後黄巢京師を陥し、宗廟を焚毀す、而して僖宗出奔し、神主法物行に従ふ、皆賊に掠めらる。巢敗れ、京師を復し、素服して廟に哭して而して後入る。

初め、唐東・西二都を建つ、而して東都に廟無し。則天皇后僭号して周と称し、周七廟を東都に立てて以て武氏を祀り、西京唐太廟を改めて享徳廟と為す。神龍元年、中宗位に復し、武氏廟主を西京に遷し、崇尊廟と為し、而して東都武氏故廟を以て唐太廟と為し、光皇帝以下七室を祔して而して親しく享く。是より東西二都皆廟有り、歳時並びに享く。其の後安禄山両京を陥し、宗廟皆焚毀さる。粛宗即位し、西都に廟を建て主を作り、而して東都太廟は毀ちて軍営と為り、九室神主亡失す、大曆の中に至り、始めて人間に於て之を得、太微宮に寓し、復た祔享せず。建中より会昌に至るまで、議者一ならず、或は以て為すに、「東西二京宜しく皆廟有るべく、而して旧主は当に瘞すべく、其の廟を虚しくして以て俟ち、巡幸すれば則ち主を載せて行くべし」と。或は謂ふ、「宜しく其の神主を夾室に蔵むべし」と。或は曰く、「周の豊・洛に廟有るは、都を遷すに因りて乃ち廟を立つるのみ、今東都は遷に因らずして廟を立つ、非なり」と。又曰く、「古に主を載せて以て行く者は、惟だ新たに遷す一室の主のみ、未だ羣廟の主を載する者有らざるなり」と。武宗の時に至り、悉く羣議を廃し、詔して有司に日を択びて東都廟を修めしむ。已にして武宗崩じ、宣宗竟に太微神主を以て東都廟に祔す。

其の追贈皇后・追尊皇太后・贈皇太子は往々皆別廟を立つ。其の礼に近き者は、後世当に諸れを礼に求むべし。其の礼に合はざる而して其の私意を出す者は、蓋し其の制作と其の論議とは皆取るに足らざるなり、故に著さず。

宣宗は既に河州・湟州の三州七関を回復し、その功績を順宗・憲宗に帰して諡号を加えた。博士の李稠は神主を改作し、新たな諡を書き改めることを請うた。右司郎中の楊発らが議し、謂うには、「古より既に廟に合祀された主は改作せず、諡を加えて追尊することは礼に非ず、則天に始まるも、なお主を改め書を易えず、新諡の宝冊を以て陵廟に告ぐるを可とすべし」と。この時、宰相は士族の廟は皆書を易えると謂い、乃ち旧主に就いて新諡を書き改めしむ。

禘と祫は大祭なり。祫は昭穆を以て太祖に合食し、禘は以て其の尊卑を審諦す、これ祫・禘の義なり。而るに礼を行う者之を失い、年数同じからず、祖・宗位を失い、議する者従う所を知らず。礼に曰く「三年に一たび祫し、五年に一たび禘す」と。伝に曰く「五年に再び殷祭す」と。高宗上元三年十月、祫すべきに当たるも、有司其の年数を疑う。太学博士の史玄璨ら議し、以て為すに、「新君喪畢きて祫し、明年に禘す。是れより後、五年にして再び祭す。蓋し後禘は前禘を去ること五年、而して祫は常に禘の後三年に在り、禘は常に祫の後二年に在り。魯の宣公八年、僖公に禘す、蓋し二年喪畢きて祫し、明年に禘し、八年に至りて再び禘す。昭公二十年禘し、二十五年に至りて又禘す、此れ知るべし」と。議者玄璨等の言に経拠有りと為し、遂に之に従う。睿宗崩じ、開元六年喪畢きて祫し、明年に禘す。是れより後、祫・禘各々年を以てし、相通じて数えず。凡そ七祫五禘、二十七年に至り、禘・祫並びに一歳に在り、有司其の非なるを覚り、乃ち議して一禘一祫、五年に再び殷す、宜しく数を通ずべしと為す。而して禘の後に祫を置く、歳数の遠近、二説同じからず。鄭玄は高堂隆の先三而後二を用い、徐邈は先二後三を用う。而して邈は以て謂う、二禘相去ること月六十、中分して三十、一祫を置く、此れ最も得たりと。遂に其の説を用う。是れより一禘一祫、五年の間に在り、再殷の義に合し、而して祫を置く先後は則ち同じからず。

礼に、禘・祫には、太祖は西に位して東に向かい、其の子孫は列なして昭穆と為す。昭は南に向かい穆は北に向かう。既に毀廟の主と雖も、皆出でて昭穆に序せらる。殷・周の興りには、太祖世遠く、而して群廟の主は皆其の後に出づ、故に其の礼明らかなり易し。漢・魏以来、其の興りや暴なり、又其上世微なり、故に国を創める君を太祖と為して世近く、毀廟の主は皆太祖の上に在り、是に於いて禘・祫古の如くを得ず。而して漢・魏の制、太祖より上は、毀廟の主は皆合食せず。

唐興り、景皇帝を以て太祖と為す。而して世近く三昭三穆の内に在り、祫・禘に至りて、乃ち東向の位を虚け、太祖と群廟とを昭穆に列す。代宗即位し、玄宗・粛宗を祔し、献祖・懿祖を夾室に遷す。是に於いて太祖第一室に居り、禘・祫其の位を正しくして東向するを得、而して献・懿は合食せず。建中二年、太学博士の陳京、献祖・懿祖の為に別廟を立て、禘・祫に至りては則ち享するを請う。礼儀使の顔真卿議して曰く、「太祖景皇帝は百代遷さざるの尊に居り、禘・祫の時、暫く昭穆に居り、己を屈して以て祖宗に奉ずる可し」と。乃ち晋の蔡謨の議を引き、献祖を以て東向に居らしめ、懿祖・太祖以下左右を昭穆と為す。是れより議者紛然たり。

貞元十七年、太常卿の裴郁議し、太祖は百代遷さず、献・懿二祖は親尽きて廟遷りて東向に居るは是に非ずと為し、百寮に下り議するを請う。工部郎中の張薦等の議は真卿と同じ。太子左庶子の李嶸等七人曰く、「真卿の用ゆる所は、晋の蔡謨の議なり。謨は『禹は鯀を先にせず』の説を為す、其の言有りと雖も、当時用いず。献・懿二祖は宜しく夾室に蔵し、以て祭法の『遠廟は祧と為し、壇・墠に禱有れば則ち祭り、禱無ければ則ち止む』の義に合すべし」と。吏部郎中の柳冕等十二人曰く、「周礼に先公の祧有り、遷祖は后稷の廟に蔵す、其れ周の未だ命を受けざるの祧か。又先王の祧有り、其の遷主は文・武の廟に蔵す、其れ周の已に命を受けたるの祧か。今献祖・懿祖は、猶周の先公なり、請う別廟を築き以て之に居らしむ」と。司勲員外郎の裴枢曰く、「石室を寝園に建て神主を蔵し、禘・祫の歳に至りては則ち之を祭る」と。考功員外郎の陳京・同官県尉の仲子陵皆曰く、「神主を徳明・興聖の廟に遷す」と。京兆少尹の韋武曰く、「祫には則ち献祖東向し、禘には則ち太祖東向す」と。十一年、左司郎中の陸淳曰く、「議者多し、三に過ぎず。一には太祖の正位を復す、二には昭穆を並列して東向を虚く、三には祫には献祖、禘には太祖、迭りに東向に居る。而して太祖の位を復して正すを是とす。然れども太祖復位すれば、則ち献・懿の主は宜しく帰する所有るべし。一には諸の夾室に蔵す、二には之を別廟に置く、三には園寝に遷す、四には興聖に祔す。然れども諸の夾室に蔵せば、則ち饗献の期無し。之を別廟に置けば、則ち礼経の文に非ず。寝園に遷せば、則ち宗廟の儀を乱す。唯だ興聖に祔するを是とす」と。十九年に至り、左僕射の姚南仲等、議五十七封を献じ、都省に付して集議す。戸部尚書の王紹等五十五人、懿祖を遷して興聖廟に祔するを請い、議遂に定まり、是れより太祖始めて東向の位に復す。

若し諸臣の其の親を享くるは、廟室・服器の数、其の品に視る。開元十二年令を著し、一品・二品は四廟、三品は三廟、五品は二廟、嫡士は一廟、庶人は寝に祭る。礼を定むるに及び、二品以上は四廟、三品は三廟、三品以上爵を須いざる者も亦四廟、四廟に始封有れば五廟と為し、四品・五品に兼爵有れば亦三廟、六品以下庶人に達し、寝に祭る。天宝十載、京官正員四品清望及び四品・五品清官は、廟を立てるを聴し、兼爵を限らず。品及びて廟を建つる未だ逮ばざるも、亦寝祭を聴す。

廟の制、三品以上は九架、廈両旁。三廟の者は五間、中を三室と為し、左右廈一間、前後之を虚け、重栱・藻井無し。室皆石室一を為し、西墉の三の一近南に於て、地に距ること四尺、二主を容る。廟垣之を周し、南門・東門を為し、門屋三室、而上間は廟を以てし、神厨を廟東の少南に増建し、斎院を東門の外少北にす、制廟を逾ゆる勿れ。三品以上は神主有り、五品以上は几筵有り。牲は少牢を以てし、羊・豕一、六品以下は特豚、祖禰の貴賤を以てせず、皆子孫の牲。牲闕くれば、野獣を以て代う。五品以上は室牲を異にし、六品以下は牲を共にす。二品以上は室に籩豆十を以てし、三品は八を以てし、四品・五品は六を以てす。五品以上は室皆簠二・簋二・㽅二・鈃二・俎三・尊二・罍二・勺二・爵六・盤一・坫一・篚一・牙盤胙俎一。祭服、三品以上は玄冕、五品以上は爵弁、六品以下は進賢冠、各其の服を以てす。

凡そ祔祭には皆五日間の休暇を与え、時享には皆四日間とする。散斎二日を正寝で行い、致斎一日を廟で行い、子孫で陪席する者は家で一晩斎戒する。初めて廟を建てた時は主に署名して祔祭し、後の喪が終わってから祔祭し、喪二十八月の上旬に卜して祔祭し、初めて神事を行うのである。王公の主は輅車に載せ、夫人の主は翟車に載せ、その他は皆輿に載せる。天子は四孟月及び臘月に太廟を享祭し、諸臣はこれを避け、仲月に祭り臘祭は行わない。三年に一度祫祭、五年に一度禘祭を行う。もし祔祭、もし常享、もし禘祫祭において、卜日、斎戒、省牲、視滌、濯鼎鑊、亨牲、実饌、三献、飲福、受胙の進退の儀礼は、大抵宗廟の祭祀の如くである。国官を以て亜献・終献とし、いなければ親賓を以てし、いなければ子弟を以てする。

その後は卜日せず、筮を用いて亥の日とする。寝を祭る者は、春・秋には分日に、冬・夏には至日に行う。もし春分を祭るならば、元日の祭りを廃する。然れども元正は歳の始め、冬至は陽の復する時、二節最も重し。祭りは数多く行うことを欲せず、乃ち春分を廃し、通じて四祭とする。

祠器は烏漆を用い、常制よりやや小さい。祭服は進賢冠とし、主婦は花釵礼衣とし、後には或いは衣冠を改めて公服に従い、なければ常服とする。凡そ廟に在る祭り、寝に在る祭り、既に畢わりて後は、皆親賓子孫が慰め、主人は常服を以てこれに会う。

もし宗子に事故あれば、庶子が摂祭し、則ち祝して曰く「孝子某、介子某を使わして其の常事を執らしむ」と。三代を通じて祭り、而して宗子卑しければ、則ち上牲を以て宗子の家を祭り、祝して曰く「孝子某、其の介子某の為に其の常事を薦む」と。庶子官尊くして廟を立てば、其の主祭するときは則ち支庶の封官を以て大宗に依り主祭し、兄は位に陪する。廟は弟によりて立てられたれば、己は神を延べ得ざるなり。或いは兄弟官を分かてば、則ち各々考妣を正寝に祭る。

古くは殤及び後嗣なき者は皆祖に祔食せしめ、祝なくして拝せず、座を祖の左に設けて西向きとし、亜献の者奠し、祝乃ちこれに奠し、一献にして止む。その後廟制に幄を設け、当たって中南向きとし、祔坐施す所なく、皆祭室の戸外の東に在りて西向きとする。親伯叔の後嗣なき者は曾祖に祔し、親昆弟及び従父昆弟は祖に祔し、親子姪は禰に祔す。寝祭の位は西を上とし、祖東向きにして昭穆南北とすれば、則ち伯叔の祔する者は禰下の穆位に居て北向き、昆弟・従父昆弟は祖下の昭位に居て南向き、子姪は伯叔の下の穆位に居て北向きとし、以て尊卑を序す。凡そ殤・無後は、周親及び大功を以て限界とす。

古えは廟を大門内にあり、秦は寝を陵側に出だし、故に王公も亦墓に廟を建つ。既に廟と居と異なれば、則ち宮中に喪あって祭る。三年の喪、斉衰・大功は皆祭りを廃す。外喪は、斉衰以下これを行う。