目次
嗚呼、夷狄の居処飲食は、水草寒暑に随ひて徙遷し、君長部號有れども世族・文字の記別無く、弦弓毒矢に至りては、強弱相併し、國地の大小、興滅常ならず、是れ皆烏ぞ以て考述するに足らんや。惟だ其の服叛去來、能く中國の利害を為す者は、此れ知らざるべからざるなり。古より夷狄の中國に於けるや、有道なるも必ずしも服せず、無道なるも必ずしも來らず、蓋し自ら其の衰盛に因るなり。嘗て治外に置之と雖も、羈縻制馭恩威の際は、失ふべからざるなり。其れを得るも必ずしも利と為さず、失ふに足るを患と為す、慎まざるべけんや。四夷附録を作す。
夷狄、種號多し。其の大なる者は、自ら名を以て中國に通じ、其次小遠の者は附見し、又其次微にして録するに足らざる者は、勝げて數ふべからず。其の地は九州の外に環列し、而して西北常に強く、中國の患と為る。三代の獫狁は、詩・書に見ゆ。秦・漢以来、匈奴著はし。隋・唐の間、突厥大なり。其の後吐蕃・回鶻の強有り。五代の際、名を以て中國に見ゆる者十七八、而して契丹最も盛なり。
契丹は後魏以来、名中國に見ゆ。或は曰く、庫莫奚と同類にして種を異にすと。其の居る所を梟羅箇沒里と曰ふ。沒里は河なり。是れ黄水の南、黄龍の北を謂ひ、鮮卑の故地を得たれば、故に又以て鮮卑の遺種と為す。唐の世に當り、其の地は北は室韋に接し、東は高麗に隣り、西は奚國を界とし、而して南は營州に至る。其の部族の大なる者を大賀氏と曰ひ、後八部に分かる。其一を伹皆利部と曰ひ、二を乙室活部と曰ひ、三を實活部と曰ひ、四を納尾部と曰ひ、五を頻沒部と曰ひ、六を內會雞部と曰ひ、七を集解部と曰ひ、八を奚嗢部と曰ふ。部の長を大人と號し、而して常に一大人を推して旗鼓を建て八部を統べしむ。其の歳久しきに至り、或は其の國に災疾有りて畜牧衰へば、則ち八部聚議し、旗鼓を以て其の次を立てて之に代ふ。代へらるる者は約本此くの如しと以為ひ、敢へて爭はず。某部の大人遙輦次に立つ。時に劉仁恭幽州を據り有し、數へて兵を出だし摘星嶺を以て之を攻む。每歲秋霜落つれば、則ち其の野草を燒き、契丹の馬多く飢死す。即ち良馬を以て仁恭に賂り、牧地を市はんことを求め、盟約を聽くことを請ふこと甚だ謹みたり。八部の人は遙輦事に任ぜずと以為ひ、其の眾に選びて、阿保機を以て之に代ふ。
阿保機、亦た其の何の部の人なるかを知らず。人と為り多智勇にして善く騎射す。是の時、劉守光暴虐にして、幽・涿の人多く亡びて契丹に入る。阿保機間に乘じて塞に入り、城邑を攻め陷し、其の人民を俘へ、唐の州縣に依りて城を置き以て之に居らしむ。漢人阿保機に教へて曰く、「中國の王に代立する者無し」と。是れ由りて阿保機益〻威を以て諸部を制し而して代らんことを肯はざりき。其の立つこと九年、諸部其の久しく代はらざるを以て、共に責め誚る。阿保機已むことを得ず、其の旗鼓を傳へ、而して諸部に謂ひて曰く、「吾立つこと九年、得たる漢人多し。吾自ら一部を為して漢城を治めんと欲す。可ならんや」と。諸部之を許す。漢城は炭山の東南灤河の上に在り。鹽鐵の利有り。乃ち後魏の滑鹽縣なり。其の地五穀を植ふる可し。阿保機漢人を率ひて耕種し、城郭邑屋廛市を治むること幽州の制度の如くす。漢人之に安んじ、復た歸るを思はざりき。阿保機眾用ふる可きを知り、其の妻述律の策を用ひ、人をして諸部の大人に告げしめて曰く、「我に鹽池有り。諸部の食する所なり。然れども諸部は食鹽の利を知れども、鹽に主人有るを知らず。可ならんや。當に來りて我を犒ふべし」と。諸部然りと以為ひ、共に牛酒を以て鹽池に會す。阿保機伏兵其の旁にし、酒酣にして伏發し、盡く諸部の大人を殺し、遂に立ち、復た代はらず。
梁將に唐を篡らんとす。晉王李克用人をして契丹に聘せしむ。阿保機兵三十萬を以て克用と雲州東城に會す。酒を置き、酒酣にして、手を握りて兄弟と約す。克用金帛を贈ること甚だ厚く、期して共に兵を舉げて梁を撃たんとす。阿保機晉に馬千匹を遺す。既に歸りて背約し、使者袍笏梅老を遣はして梁に聘す。梁太府卿高頃・軍將郎公遠等を遣はして報聘せしむ。年を踰へて頃還る。阿保機使者解里を遣はし頃に隨ひ、良馬・貂裘・朝霞錦を以て梁に聘し、表を奉りて臣と稱し、以て封冊を求めしむ。梁復た公遠及び司農卿渾特を遣はし詔書を以て報勞し、別に記事を以て之を賜ひ、約して共に兵を舉げて晉を滅ぼし、然る後に封冊して甥舅の國と為し、又子弟三百騎をして京師に入り衞はしむ。克用之を聞き、大いに恨む。是歲克用病み、卒に臨み、一箭を莊宗に屬し、期して必ず契丹を滅ぼさしむ。渾特等契丹に至るも、阿保機約の如くすること能はず。梁も亦た未だ嘗て封冊せず。而して梁の世を終ふるまで、契丹の使者四至す。
契丹は佗の夷狄に比べて尤も頑傲なり。父母死すれば、哭かざるを以て勇と為し、其の尸を深山に載せ、大木の上に置く。後三歲にして其の骨を往き取りて之を焚き、酹して呪ひて曰く、「夏時は陽に向ひて食ひ、冬時は陰に向ひて食ひ、我をして射獵せしめ、猪鹿多く得しめよ」と。其の風俗は奚・靺鞨に頗る同じ。阿保機に至り、稍〻旁の諸小國を并べ服し、而して多く漢人を用ふ。漢人之に教へて隷書の半を以て之を增損し、文字數千を作り、以て木を刻むの約に代ふ。又婚嫁を制し、官號を置く。乃ち僭りて皇帝と稱し、自ら天皇王と號す。其の居る横帳の地名を以て姓と為し、曰く世里。世里は、譯者之を耶律と謂ふ。年を名づけて天贊と曰ふ。其の居る所を上京と為し、其の間に樓を起し、號して西樓と曰ふ。又其の東千里に東樓を起し、北三百里に北樓を起し、南木葉山に南樓を起し、往來射獵四樓の間。契丹は鬼を好み日を貴ぶ。每月朔旦、東に向ひて日を拜す。其の大會聚・國事を視るは、皆東向を以て尊と為す。四樓の門屋皆東向なり。
荘宗が張文禮を討ち、鎮州を包囲した。定州の王処直は、鎮州がまさに滅びんとし、晋の兵が必ずや己をも併せて撃たんことを懼れ、その子の郁を遣わして契丹を説き、塞内に入らしめて晋の兵を牽制せしめようとした。郁は阿保機に謂う、「臣が父の処直が愚かな誠意を述べさせますには、故趙王王鎔は趙を王として六世、鎮州は金城湯池、金帛は山の如く積み、燕の姫趙の女、羅綺は朝廷に満ちております。張文禮これを得て晋に攻められ、死を懼れて暇あらず、故に皆これを留めて皇帝を待っております。」と。阿保機は大いに喜んだ。その妻の述律は肯わず、曰く、「我らには羊馬の富があり、西楼にて楽しむに足る。今これを捨てて人の急に遠く赴くは、我聞く晋の兵は天下に強く、かつ戦いには勝敗あり、後悔して何をか追わん。」と。阿保機は躍り上がって曰く、「張文禮には金玉百万あり、皇后のために留めてある。共にこれを取らん。」と。ここにおいて国を空しくして侵入した。郁が契丹を召し寄せたことについて、定州の人々は皆、後患あるべしとして召すべからずと為したが、処直は聞き入れなかった。郁が去った後、処直はその子の都に廃せられた。阿保機は幽州を攻めて克たず、また涿州を攻めてこれを陥落させた。処直が廃せられ都が立ったと聞き、遂に中山を攻め、沙河を渡った。都は荘宗に急を告げた。荘宗自ら鉄騎五千を将いて、契丹の前鋒に新城で遭遇し、晋兵は桑林より馳せ出で、人馬の精甲、光明は日を燭くが如く、虜騎愕然として稍々退却す。晋軍これに乗じ、虜は遂に散走し、沙河の氷薄く、虜は皆陥没した。阿保機は退き望都を保った。時に天大雪に会い、契丹の人馬飢寒、多く死に、阿保機は盧文進を顧みて手を以て天を指し曰く、「天未だ我をしてここに至らしめず。」と。乃ち兵を引いて去った。荘宗はその後を追い、その宿営の跡を見るに、環状に敷かれた藁稈が地にあり、方角整然として、去りながらも乱れず、歎じて曰く、「虜の法令厳しきこと、蓋しかくの如きか。」と。
契丹は得るところなくして帰ったが、然れどもここより後、頗る中国を窺う志があり、女真・渤海等がその背後にあることを患え、渤海を撃たんと欲したが、中国がその虚に乗ずるを懼れ、乃ち使者を遣わして唐に聘問し以て好を通じた。同光の間、使者再び至る。荘宗崩じ、明宗は供奉官姚坤を遣わして契丹に哀を告げた。坤が西楼に至ると、阿保機は方に東して渤海を攻めており、坤は慎州まで追ってこれに謁見した。阿保機は錦袍に大帯を後ろに垂れ、その妻と対坐して穹廬の中にあり、坤を延いて入謁せしめた。阿保機問うて曰く、「聞く、爾が河南・北に両天子ありと、信ずるや。」と。坤曰く、「天子は魏州の軍乱に因り、総管令公に命じて兵を将いてこれを討たしめんとしたが、変は洛陽に起こり、凶問今至りました。総管は兵を返して河北に至り、京師の難に赴き、衆に推され、既に人の望に副うております。」と。阿保機は天を仰いで大いに哭して曰く、「晋王は我と兄弟と約し、河南の天子は即ち吾が児なり。昨中国の乱を聞き、甲馬五万を以て往きて我が児を助けんと欲したが、渤海未だ除かれず、志願遂げず。」と。又曰く、「我が児既に没せり、理に当たりては我に取り計らうべきに、新天子安んぞ自立するを得ん。」と。坤曰く、「新天子は兵を将いること二十年、位は大総管に至り、領する所の精兵三十万、天時人事、どうして違うことができましょうか。」と。その子の突欲が側に在りて曰く、「使者多く言うなかれ、蹊田して牛を奪う、豈に過ちと為さざらんや。」と。坤曰く、「天に応じ人に順うは、豈に匹夫の事に比すべきや。天皇王が国を得て代わらずとも、豈に強いてこれを取ったというのか。」と。阿保機は即ち坤を慰労して曰く、「理正に当たりてかくの如きのみ。」と。又曰く、「吾聞く、この児には宮婢二千人、楽官千人あり、鷹を放ち狗を走らせ、酒を嗜み色を好み、不肖を任用し、人民を惜しまず、これその敗るる所以なり。我自らその禍を聞き、即ち挙家して酒を断ち、鷹犬を解放し、楽官を罷め散じたり。我にもまた諸部の楽官千人あり、公宴に非ざれば用いず。我もし為すところ吾が児に類するならば、則ち亦安んぞ能く長久ならんや。」と。又坤に謂いて曰く、「吾は漢語を能くするも、然れども部人の前では決して口にせず、彼らが漢に倣って怯弱となるを懼れるなり。」と。因って坤に戒めて曰く、「爾は先に帰れ、我は甲馬三万を以て新天子と幽・鎮の間に会し、共に盟約を為し、我に幽州を与うれば、則ち復た汝を侵さじ。」と。阿保機は渤海を攻め、その扶餘の一城を取り、以て東丹国と為し、その長子の人皇王突欲を東丹王と為した。やがて阿保機は病没し、述律はその喪を護って西楼に帰り、その次子の元帥太子耀屈之を立てた。坤はこれに従って西楼に至り、還った。
阿保機の時に当たり、韓延徽という者あり、幽州の人なり。劉守光の参軍となり、守光は延徽を遣わして契丹に聘問せしめた。延徽は阿保機に謁して拝せず、阿保機怒り、留めて遣わさず、羊馬を牧させた。久しくしてその才を知り、召して語らうに、これを奇とし、遂に用いて謀主と為した。阿保機が党項・室韋を攻め、諸小国を服せしめたのは、皆延徽の謀なり。延徽は後に逃れて帰り、荘宗に仕えたが、荘宗の客将王緘がこれを讒したので、延徽は懼れ、幽州に帰り母を省らんことを求めた。行きて常山を過ぎ、王徳明の家に匿れた。数ヶ月居るうち、徳明がその行く所を問うと、延徽曰く、「吾は復た契丹に走らんと欲す。」と。徳明は不可と為したが、延徽曰く、「阿保機は我を失えば、両目を喪い手足を折るが如し。今我を得れば必ず喜ばん。」と。乃ち復た契丹に走った。阿保機これを見て、果たして大いに喜び、天より降りたるが如しと謂った。阿保機が僭号するに及び、延徽を相と為し、「政事令」と号し、契丹はこれを「崇文令公」と謂い、後に虜地にて卒した。
契丹は阿保機の時より諸国を侵滅し、北方に雄を称した。王都を救うに及び、王晏球に敗れ、その万騎を喪い、又赫邈等を失い、皆名将であった。而して述律は特に突欲を思念し、ここより卑辞厚幣を以て数たび使を遣わし中国に聘し、因って赫邈・萴剌等の帰還を求めたが、唐は輒ちその使を斬って報いず。この時に当たり、中国の威は幾らか振るった。
幽州の北七百里に距る所に榆関あり、東は海に臨み、北に兔耳・覆舟の山あり。山は皆斗絶し、海に並びて東北に、僅かに車を通す。その傍の地は耕植すべし。唐の時、東西狭石・淥疇・米磚・長揚・黄華・紫蒙・白狼等の戍を置き、以てここに契丹を扼した。戍兵は常に自ら耕食し、惟だ衣絮は歳ごとに幽州より給し、久しきに及びて皆田宅を有し、子孫を養い、以て堅守を己が利と為した。唐末より幽・薊の割据に及び、戍兵は廃散し、契丹は因って平・営を陥れることを得た。而して幽・薊の人は歳ごとに寇鈔に苦しんだ。涿州より幽州に至る百里、人跡断絶し、転餉は常に兵を以て護送し、契丹は多く塩溝に伏兵して以てこれを撃ち奪う。荘宗の末、趙徳鈞幽州に鎮し、塩溝に良郷県を置き、又幽州の東五十里に城を築き、皆兵を以て戍った。赫邈等を破るに及び、又その東に三河県を置いた。ここより幽・薊の人は、始めて耕牧を得、而して輸餉は通ずべし。徳光は乃ち西に徙り横帳を揆剌泊に居らせ、出でて雲・朔の間を寇す。明宗これを患い、石敬瑭を以て河東に鎮し、大同・彰国・振武・威塞等の軍を総べ以てこれを禦がしめた。応順・清泰の間、調発饋餉し、遠近労敝す。
徳光はその母に事えること甚だ謹み、常にその側に侍立し、国事は必ず告げて後に行う。石敬瑭反し、唐は張敬達等を遣わしてこれを討たしむ。敬瑭は使を遣わして徳光に救いを求む。徳光はその母に白して曰く、「吾嘗て石郎の我を召す夢を見しが、而して使者果たして至る、豈に天ならずや」と。母は胡巫を召して吉凶を問う。巫は吉と言う。乃ち許す。この歳九月、契丹は雁門より出で、車騎連亙すること数十里、将に太原に至らんとして、人を遣わして敬瑭に謂いて曰く、「吾爾が為に今日敵を破らんこと可からんや」と。敬瑭報じて曰く、「皇帝難に赴くは、要は成功に在り、速きに在らず。大兵遠来し、而して唐軍甚だ盛んなり。願わくは少しくこれを待たん」と。使者未だ至らざるに、而して兵已に交わる。敬達大敗す。敬瑭夜に北門を出でて徳光に会い、父子と約し、問うて曰く、「大兵遠来し、戦速やかにして勝つは、何ぞや」と。徳光曰く、「吾は唐兵の能く雁門を守りて諸の険要を扼せんことを謂えば、則ち事未だ知るべからず。今兵長駆深入して阻むる無し。吾は大事必ず済むことを知る。且つ吾が兵多きは久しきに難し。宜しく神速を以てこれを破るべし。これ其の勝つ所以なり」と。敬達敗れ、退きて晋安寨を保つ。徳光これを囲む。唐は趙徳鈞・延寿を遣わして敬達を救わしむ。而して徳鈞父子は兵を按じて団柏谷に在りて救わず。徳光敬瑭に謂いて曰く、「吾三千里義に赴く。義当に徹頭すべし」と。乃ち壇を晋城の南に築き、敬瑭を立てて皇帝と為し、自ら衣冠を解きてこれを被せ、冊して曰く、「爾が子晋王に咨う。予爾を見ること猶子の如く、爾予を見ること猶父の如し」と。已にして、楊光遠張敬達を殺して晋に降る。晋高祖自ら太原より洛陽に入る。徳光潞州まで送る。趙徳鈞・延寿出でて降る。徳光晋高祖に謂いて曰く、「大事已に成る。吾命じて大相温をして爾に従いて河を渡らしめん。吾も亦ここに留まり、爾の洛に入るを俟って後ち北せん」と。訣に臨み、手を執りて嘘嚱し、白貂裘を脱ぎて以て高祖に衣せしめ、良馬二十匹、戦馬千二百匹を遣わして以て戒めて曰く、「子子孫孫相忘るること無かれ」と。時に天顕九年なり。
高祖已に洛に入る。徳光乃ち北し、趙徳鈞・延寿を執いて以て帰る。徳鈞は幽州の人なり。劉守光・守文に事えて軍校と為り、荘宗燕を伐ちてこれを得、姓名を賜いて李紹斌と曰う。その子延寿は、本姓は劉氏、常山の人なり。その父邧は蓨県令たり。劉守文蓨県を攻め破り、徳鈞延寿并びにその母の种氏を得てこれを納れ、因って延寿を以て子と為す。延寿人の為り、姿質妍柔にして、稍々書史に渉る。明宗女を以てこれに妻せしめ、興平公主と号す。荘・明の世、徳鈞幽州に鎮すること十余年、延寿の故を以て特に信任を見る。延寿は明宗の時枢密使と為り、罷む。廃帝の立つに至り、復たこれを以て枢密使と為す。晋高祖太原より起つ。廃帝は延寿を遣わして兵を将いてこれを討たしむ。而して徳鈞も亦鎮兵を以て賊を討たんことを請う。廃帝その異志有るを察し、自ら飛狐を出でてその後を撃たしめんとす。而して徳鈞は南に呉児を出で、延寿と西唐に会う。延寿因って兵を以てこれに属す。廃帝は徳鈞を諸道行営都統と為し、延寿を太原南面招討使と為す。徳鈞は延寿の為に鎮州節度使を求む。廃帝怒りて曰く、「徳鈞父子強兵を握り、大鎮を求む。苟くも能く契丹を敗りて太原を破らば、代予と雖も亦可なり。若し寇を翫びて君に要せば、但だ犬兔俱に斃るるを恐るるのみ」と。因って使者を遣わして徳鈞等の進軍を促す。徳鈞陰に人を遣わして徳光に聘し、己を立てて帝と為さんことを求む。徳光は穹廬前の巨石を指して徳鈞の使者に謂いて曰く、「吾已に石郎に許せり。石爛るれば、改むべし」と。徳光潞州に至り、徳鈞父子を鎖して去る。徳光の母述律これを見て、問うて曰く、「汝父子自ら天子と為らんことを求むるは何ぞや」と。徳鈞慚じて能く対えず、悉く田宅の籍を以てこれを献ず。述律問うて何処に在るかと。曰く、「幽州なり」と。述律曰く、「幽州は我に属せり。何をか献ずるの為ぞ」と。明年、徳鈞死す。徳光は延寿を以て幽州節度使と為し、燕王に封ず。
徳光はかつて趙延寿に、晋を滅ぼして帝位に立てることを約束していたので、契丹が晋を撃つとき、延寿は常に先鋒となり、虜掠して得たものは、すべて徳光とその母述律に奉った。徳光はすでに晋を滅ぼしたが、延寿を立てる意思はなく、延寿は自ら言い出せず、李崧を通じて皇太子となることを求めた。徳光は言った、「我は燕王に惜しむところはない。たとえ我が皮肉であっても、燕王のために用いることができるならば、我は割くことができる。我は聞く、皇太子は天子の子であると。燕王がどうしてそれになれようか」と。そこで命じて彼に遷秩を与えた。翰林学士張礪が進めて、延寿を中京留守・大丞相・録尚書事・都督中外諸軍事に擬した。徳光は筆をとり、その録尚書事・都督中外諸軍事を塗り消し、ただ中京留守・大丞相とするのみとし、しかるに延寿の前職たる枢密使・燕王封はすべて従前のままとした。また礪を右僕射兼門下侍郎・同中書門下平章事とし、故晋の相和凝とともに宰相とした。礪は、明宗の時の翰林学士であり、晋の高祖が太原で挙兵したとき、唐の廃帝は礪を遣わして趙延寿を督し、団柏谷に進軍させた。やがて延寿は徳光に鎖され、礪もともに契丹に遷された。徳光はその文学を重んじ、やはり翰林学士とした。礪は常に帰国を思い、国境まで逃げたが、追手に捕らえられ、徳光が責めると、礪は言った、「臣はもと漢人であり、衣服・飲食・言語が異なります。今、帰国を思うもできず、生きるは死に如かず」と。徳光はその通事高唐英を顧みて言った、「我はお前たちに、この人を善く遇するよう戒めたのに、彼を逃がしてしまった。過ちはお前にある」と。そこで唐英を百回笞打ち、礪は従前のごとく遇した。そのように彼を愛したのである。徳光が朝視しようとしたとき、有司が延寿に貂蝉冠を、礪に三品冠服を与えたが、延寿と礪はともに服することを肯わなかった。しかるに延寿は別に王者の冠を作って自ら異ならしめた。礪は言った、「我が上国にいたとき、晋が馮道を遣わして冊書を北朝に奉ったが、道は二つの貂冠を携え、その一つは宰相韓延徽が冠し、その一つは我に冠せよと命じた。今、どうして降って服することができようか」と。ついに貂蝉を冠して朝した。三月丙戌の朔、徳光は靴・袍を着け、崇元殿に御し、百官が入閣すると、徳光は大いに喜び、左右を顧みて言った、「漢家の儀物、その盛んなることこのようである。我がこの殿に坐すを得るは、まさに真の天子にあらずや」と。その母述律は人を遣わして書状および阿保機の明殿の書を賜った。明殿とは、中国の陵寝下宮の制度のごときもので、その国の君主が死んで葬られると、その墓の側に屋を起こし、これを明殿と謂い、官属職司を置き、歳時に表を奉って起居し、生きているごとくに事え、明殿学士一人を置いて書詔に答えることを掌らしめる。国に大慶弔があるごとに、学士は先君の命をもって書を作り、国君に賜う。その書は常に「児皇帝に報ず」と云う。
徳光はすでに晋を滅ぼし、その部族の酋豪および通事を諸州鎮の刺史・節度使として遣わし、天下の銭帛を借り上げて軍を賞した。胡兵の人馬は糧草を給せず、数千騎を遣わして四方の野に分かれ出で、人民を劫掠し、号して「打草穀」と為す。東西二三千里の間に、民はその毒に被り、遠近怨嗟した。漢の高祖が太原で挙兵すると、所在の州鎮多く契丹の守将を殺して漢に帰したので、徳光は大いに恐れた。また時すでに暑くなったので、蕭翰を宣武軍節度使とした。翰は契丹の大族であり、その号は阿鉢、翰の妹もまた徳光に嫁いだ。しかるに阿鉢はもと姓氏なく、契丹は翰を国舅と呼んだ。節度使と為さんとするに及び、李崧が姓名を製して蕭翰と曰ったので、ここに始めて蕭を姓とした。徳光はすでに翰を留めて汴を守らせ、北に帰還し、晋の内諸司の伎術・宮女・諸軍の将卒数千人を従えた。黎陽より河を渡り、行って湯陰に至り、愁死岡に登り、その宣徽使高勳に謂いて言った、「我が上国に在りしときは、打囲して肉を食うを楽しみとせしが、中国に入りてより、心常に快からず。もし我が本土に復するを得ば、死すとも恨みなし」と。勳は退いて人に謂いて言った、「虜、将に死せんとす」と。相州の梁暉が契丹の守将を殺し、城を閉じて距守した。徳光は兵を引いてこれを破り、城中の男子は少長無く皆これを屠り、婦女は悉く駆りて北に送った。後漢は王継弘を以て相州を鎮めしめ、髑髏十数万枚を得て、大冢を作りてこれを葬った。徳光は臨洺に至り、その井邑の荒廃残破を見て、晋人に笑って言った、「中国をここに致したは、すべて燕王が罪の首なり」と。また張礪を顧みて言った、「爾もまた力あり」と。徳光は行って欒城に至り、疾を得て、殺胡林に卒した。契丹はその腹を破り、その腸胃を取り去り、塩を以てこれを実し、載せて北に帰った。晋人はこれを「帝羓」と謂った。永康王兀欲が立ち、徳光を嗣聖皇帝と諡し、阿保機を太祖と号し、徳光を太宗と号した。