ああ、堯・舜は盛んだった!三代の王は、功績は十分だが徳が足りず、皆改めて自らを新たにしたため、暦を改めた。後世になると、年号を建てて年を名付けるようになった。僭称が相次ぎ、称号が乱雑になると、区別せざるを得ない。五代十国で、帝を称し元号を改めたのは七つ。呉越・荊・楚は、常に中国の年号を用いた。しかし古老から聞くところでは、呉越もかつて帝を称し元号を改めたが、その事跡は得られず、呉越が後世に自ら隠したと疑われる。閩・楚・南漢諸国の書を傍らに採ると、呉越と往来したものは多いが、皆帝を称した事はない。ただ落星石を宝山に封じた制書を得て、宝正六年辛卯と称しており、元号を改めたことを知る。辛卯は長興二年で、これは銭鏐の末世だが、その始末の理由は見えず、詳しく列挙できない。銭氏は五代を通じて、外では中国を尊び、張軌に比べられるだろうか。十国は皆中国のものではないが、帝を称し元号を改めたか否かは、その得失を較べるに足らず、故に並べて列挙する。十国世家年譜を作る。
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晋 | 呉 | 蜀 | 南漢 | 楚 | 呉越 | 閩 | 南平 | |
| 丁卯 | 梁太祖 開平元年 | 李克用 天祐四年 | 楊渥 天祐四年 | 王建 天復七年 〈この年、即位。〉 | 劉隱 開平 | 馬殷 開平 | 錢鏐 開平 | 王審知 開平 | 高季興 開平 |
| 戊辰 | 二 | 五 〈正月,克用卒,子存勗立。〉 | 五 〈是歳,隆演立。〉 | 武成 |
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| 己巳 | 三 | 六 | 六 | 二 |
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| 庚午 | 四 | 七 | 七 | 三 |
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| 辛未 | 乾化元年 | 八 | 八 | 永平 | 乾化(この年、龑が立つ。) | 乾化 |
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乾化 | 乾化 |
| 壬申 | 二 | 九 | 九 | 二 |
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| 癸酉 | 三(末帝が二月に即位) | 十 | 十 | 三 |
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| 甲戌 | 四 | 十一 | 十一 | 四 |
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| 乙亥(きのとい) | 貞明元年 | 十二 | 十二 | 五 | 貞明 | 貞明 |
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貞明 | 貞明 |
| 丙子(ひのえね) | 二 | 十三 | 十三 | 通正 |
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| 丁丑 | 三 | 十四 | 十四 | 天漢 | 乾亨(この年、龑が帝号を僭称し、元号を改めた。) |
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| 戊寅 | 四 | 十五 | 十五 | 光天(この年、衍が即位した。) | 二 |
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| 己卯 | 五 | 十六 | 武義(この年、呉王が称制し、元号を改めた。) | 乾徳 | 三 |
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| 庚辰 | 六 | 十七 | 二 〈この年、溥が立つ。〉 | 二 | 四 |
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| 辛巳 | 龍徳元年 | 十八 | 順義 | 三 | 五 | 龍德 |
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龍德 | 龍德 |
| 壬午 | 二 | 十九 | 二 | 四 | 六 |
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| 癸未 | 唐莊宗 同光元年 | 〈この年、四月に改元して同光となった。〉 | 三 | 五 | 七 | 同光 |
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同光 | 同光 |
| 甲申 | 二 |
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四 | 六 | 八 |
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| 乙酉 | 三 |
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五 | 咸康(この年、蜀が滅亡した。) | 白龍 |
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(この年、延翰が即位した。) |
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| 丙戌 | 明宗 天成元年 |
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六 |
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二 | 天成 | 宝正 | 天成(この年、鏻が即位した。) | 天成 |
| 丁亥 | 二 |
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乾貞 〈この年、溥が帝号を僭称し、元号を改めた。〉 |
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三 |
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二 |
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| 戊子 | 三 |
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二 |
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大有 |
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三 |
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(この年、従誨が立つ。) |
| 己丑 | 四 |
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大和 |
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二 |
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四 |
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| 庚寅 | 長興元年 |
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二 |
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三 | 長興 〈この年、希聲が立つ。〉 | 五 | 長興 | 長興 |
| 辛卯 | 二 |
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三 |
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四 |
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六 〈錢氏はただ一つの年号で六年のみ見え、その他は全て欠けて見えない。〉 |
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| 壬辰 | 三 |
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四 |
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五 | (この年、希範が立つ。) | (この年、元瓘が立つ。) |
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| 癸巳 | 四(十二月、愍帝が即位。) |
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五 |
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六 |
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龍啟 |
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| 甲午 | 応順元年 廃帝 清泰元年 |
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六 | 後蜀明徳 〈孟知祥が立つ。この年、卒す。昶が立つ。〉 | 七 | 応順 清泰 |
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二 | 応順 清泰 |
| 乙未 | 二 |
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天祚 | 二 | 八 |
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永和 〈この年、昶が立つ。〉 |
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| 丙申 | 晉高祖 天福元年 |
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二 | 三 | 九 | 天福 |
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通文 | 天福 |
| 丁酉 | 二 |
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南唐昇元(この年、李昇が即位した。) | 四 | 十 |
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二 |
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| 戊戌 | 三 |
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二 | 広政 | 十一 |
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三 |
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| 己亥 | 四 |
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三 | 二 | 十二 |
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永隆(この年、曦が即位した。) |
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| 庚子 | 五 |
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四 | 三 | 十三 |
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二 |
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| 辛丑 | 六 |
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五 | 四 | 十四 |
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〈この年、佐が立つ。〉 | 三 |
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| 壬寅 | 七 〈出帝が六月に即位。〉 |
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六 | 五 | 光天 〈この年、玢が立つ。〉 |
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四 |
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| 癸卯 | 八 |
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保大(この年、景が即位) | 六 | 応乾 乾和(この年、晟が即位) |
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五(この年、延政が建州で殷を称し、元号を天徳に改める) |
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| 甲辰 | 開運元年 |
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二 | 七 | 二 | 開運 |
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六(この年、曦が亡くなる。)天徳二 | 開運 |
| 乙巳 | 二 |
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三 | 八 | 三 |
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天徳三 |
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| 丙午 | 三 |
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四 | 九 | 四 |
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四(この年、延政は南唐に捕らえられ、王氏は滅亡した。) |
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| 丁未 | 漢高祖 天福十二年 |
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五 | 十 | 五 | (この年、希広が立つ。) | (この年、倧が立つが、廃される。) |
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| 戊申 | 乾祐元年(隠帝が二月に即位。) |
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六 | 十一 | 六 | 乾祐 | (この年、俶が立つ。) |
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乾祐(この年、保融が立つ。) |
| 己酉 | 二 |
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七 | 十二 | 七 |
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| 庚戌 | 三 |
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八 | 十三 | 八 | (この年、希萼が立つ。) |
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| 辛亥 | 周太祖 広順元年 | 乾祐四年 (東漢の劉旻が立つ。) | 九 | 十四 | 九 | 広順 (この年、希萼らは金陵に移り、馬氏は絶える。) |
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広順 |
| 壬子 | 二 | 五 | 十 | 十五 | 十 |
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| 癸丑 | 三 | 六 | 十一 | 十六 | 十一 | 〈この年、劉言が立ち、殺された。王進逵が立つ。〉 |
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| 甲寅 | 顕徳元年 〈世宗が正月に即位。〉 | 七 〈この年、承鈞が立つ。〉 | 十二 | 十七 | 十二 | 顕徳 |
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顕徳 |
| 乙卯 | 二 | 八 | 十三 | 十八 | 十三 |
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| 丙辰 | 三 | 九 | 十四 | 十九 | 十四 | この年、周行逢が立つ。 |
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| 丁巳 | 四 | 天会 | 十五 | 二十 | 十五 |
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| 戊午 | 五 | 二 | 交泰 顯德 | 二十一 | 大寶 〈この年、鋹が即位した。〉 |
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| 己未 | 六 〈恭帝が六月に即位。翌年正月に退位。〉 | 三 |
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二十二 | 二 |
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或る人が問う:十国は確かに中国のものではないが、封爵を命じ、中国の年号を称して朝貢した者もいる。本紀に書かないのはなぜか。答える:封爵を書かないのは、中国のものではないことを示すためだ。朝貢が来るのは夷狄のようで、夷狄として書くのは甚だしい。問う:四夷・十国は皆中国のものではないが、四夷の封爵朝貢は書き、十国は書かないのはなぜか。答える:中国から夷狄を見れば、夷狄としてよい。五代の君主から十国を見れば、夷狄とするのは適切でない。故に十国の封爵・朝貢は、夷狄に及ばず、書くことがない。夷狄のように書けば、五代の君主は夷狄と見なせない。よって外として書かず、自ら中国から絶ったことを示す。問う:外として書かないなら、東漢の建国はなぜ書くのか。答える:私は東漢を、常に九国とは異なる言葉で扱う。春秋は乱世に治法を立て、本紀は治法で乱君を正す。世が乱れれば疑難な事が多く、疑いを正し難事を処するには、慎重でなければならない。周・漢の事は、まさに難事と言えよう。或る人は言う:劉旻は周に書を送り、子の贇を求め得ず後に自立した。ならば旻の志は漢を忘れることを仇とせず、子を失うことを仇とした。答える:漢はかつて贇を嗣と立てる詔を出したから、贇は漢の国君であり、単に旻の子ではない。旻の大義は、周に屈すべきでなく、その立つことは必ずしも正しくなくとも、義は周に屈すべきでない。これが九国と異なる点だ。旻の終生、乾祐を称し、承鈞が立って初めて元号を改めた。旻の志は哀れむべきではないか。〈十国の年世は、楚・閩・東漢三国のみ諸家の説が異なり、互いに得失があり、最も考証が難しい。ここでは諸説を略し正しいものを正し、博覧者が惑わされず、年譜を正とすべきだ。馬氏は、湖湘故事・九国志・運歷図によれば、殷は長興元年に卒し、同年子の希声が立ち、長興三年に卒す。五代旧史殷列伝は、殷は長興二年に卒し、享年七十八、子の希声が立ち、一年経たずに卒すと云う。明宗本紀長興元年は、希声が節度使に除され復帰し、三年八月に希声卒と書く。九国志によれば殷は大中六年壬申に生まれ、享年七十九。大中壬申から長興元年庚寅は実に七十九年で、実を得る。希声は、湖湘故事・九国志・運歷図は皆三年卒とし、明宗本紀と合い、疑わない。ただ旧史が殷卒を二年とし、享年七十八、希声立つこと一年経たず卒すと書くのは誤り。希萼希崇の乱で、南唐は馬氏の一族を尽く金陵に遷す。五代旧史は、時は広順元年と云う。運歷図は乾祐二年に馬氏滅ぶと云うのは誤り。初め、殷が湖南に入り、地を掘って石を得、讖に「龍頭を起こし、猪尾を落とす」と云う。殷は乾寧三年丙辰に湖南で自立し、広順元年辛亥に滅ぶ。九国志は乾祐三年を辛亥とし、湖湘故事は顕徳元年を辛亥とするのは皆誤り。五代旧史のみ実を得る。王氏の世次は、潮・審知・延翰・鏻・昶・曦・延政の七主。潮は唐景福元年壬子に福州に入り、開運三年丙午に滅び、実に五十五年。七主五十五年と云うべきで実を得る。運歷図は五十六年とし、九国志・五代旧史・紀年通譜・閩中実録・閩王列伝は皆七主六十年と云うのは誤り。審知は、五代旧史本伝は同光元年十二月卒、九国志も同光元年卒と云う。運歷図は同光三年卒。五代旧史荘宗本紀を検すると、同光二年五月丙午、審知は検校太師守中書令を加えられ、元年に卒すはずがない。四年二月庚子、福建副使王延翰が権知軍府事を奏称し、三月辛亥に延翰が威武軍節度使に除される。これより推すと、審知卒は同光三年十二月で、閩は京師から遠く、翌年二月延翰の奏が京師に至るのは理に適う。閩王列伝・九国志は皆、審知在位二十九年と云う。審知は唐乾寧四年に嗣位し、丁巳の年から同光三年乙酉は実に二十九年。運歷図が正しく、旧史・九国志が元年卒と云うのは誤り。鏻は本名延鈞、五代旧史本伝は在位十二年、九国志は在位十一年、閩王列伝・紀年通譜は皆在位十年と云う。鏻は天成元年に延翰を殺し自立し、丙戌の年から清泰二年乙末は実に十年で卒し、閩王列伝と合い、旧史・九国志は誤り。鏻は清泰二年に永和と改元し、同年殺されるが、旧史・九国志・運歷図は皆永和の号がなく、運歷図は鏻殺されるを天福元年丙申と書くのは誤り。劉旻は、九国志は乾祐七年十一月旻卒、享年六十、子承鈞立つ、時年二十九と云う。乾祐七年は顕徳元年。五代旧史・周世宗実録・運歷図・紀年通譜は皆顕徳二年冬、旻卒と云う。旻の偽中書舎人王保衡の晋陽見聞要録は、旻乙卯生、卒年六十一、子承鈞立つ。承鈞丙戌生、立つ時年二十九と云う。保衡は旻の臣で、親しく見聞し、最も実を得るが、転写の誤りがある。保衡の書によれば旻乙卯生、享年六十一なら乙卯歳に卒すべきで、顕徳二年。承鈞丙戌生、立つ時年二十九なら顕徳元年甲寅歳。旻が二年に卒し、承鈞が元年に嗣位する理はない。九国志と較べると、旻享年六十、顕徳元年卒、承鈞同年嗣位、時年二十九が実を得るが、見聞要録に「一」字が衍る。二年卒と云うのは皆誤り。九国志は又、承鈞立つ、喪に服す三年、乾祐九年に喪除け、十年を天会元年と改め、顕徳四年に当たると云う。紀年通譜は顕徳三年を天会元年とするのは誤り。晋は梁と敵国で、自ら天祐を称すこと二十年、故に年譜に首列し、後に梁を滅ぼして唐となるため、世家に列せず。〉