新五代史卷六十

職方考第三

ああ、三代以上はみな分封して治めた。後世は古を鑑みて過ちを正し、郡県制で天下を治め始めた。秦・漢以来、国は三代と比べて長短いかが?その滅亡時には、必ず分裂し、時には自存の地さえない。要を得れば万国でも治まり、守るべきものを失えば天下統一しても容れられない。これは道徳に基づくからではあるまいか!唐の盛時、天下を十道と称したが、その勢いは未だ分裂していなかった。衰えると軍節度を置き、方鎮と号し、大鎮は十余州を連ね、小鎮でも三四州を兼ねた。故に兵が驕れば帥を逐い、帥が強ければ上に叛き、土地は世襲され、干戈が起こって互いに侵し、天下の勢いはここから分裂した。しかし唐は中世より多難で、その興衰救難は常に鎮兵に依り、侵凌乱亡も結局これによる。利害の理がそうさせるのか?僖宗・昭宗以来、日増しに分裂した。梁初、天下は十一国に分かれ、南に呉・浙・荊・湖・閩・漢、西に岐・蜀、北に燕・晋があり、朱氏は七十八州を梁とした。荘宗は初め并・代を起こし、幽・滄を取り、三十五州を有し、後に梁の魏・博など十六州を取り、五十一州で梁を滅ぼした。岐王は称臣し、さらに七州を得た。同光で蜀を破り、後に再び失ったが、秦・鳳・階・成の四州を得、営・平二州は契丹に陥り、増置した州一を合わせ、百二十三州で唐とした。石氏が立つと、十六州を契丹に献じ、蜀の金州を得、増置した州一を合わせ、百九州で晋とした。劉氏の初め、秦・鳳・階・成は再び蜀に入り、隠帝時に増置した州一を合わせ、百六州で漢とした。郭氏が漢に代わると、十州が劉旻に入り、世宗は秦・鳳・階・成・瀛・莫及び淮南十四州を取り、増置した州五で廃した州三を合わせ、百十八州で周とした。宋の興りはこれに因った。これが中国の大略である。その他外属する者は、強弱相併せ、得失は常ならず。周末までに、閩は先に亡び、残るは七国。江以南二十一州は南唐、剣以南及び山南西道四十六州は蜀、湖南北十州は楚、浙東西十三州は呉越、嶺南北四十七州は南漢、太原以北十州は東漢、荊・帰・峡三州は南平。中国の所有を合わせると、二百六十八州で、軍は含まない。唐の封疆は遠く、前史に詳載され、羈縻寄治の虚名の州がその間にあった。五代の乱世、文字は完全でなく、時に廃省があり、また夷狄に陥り、詳細は考究できない。見えるものを譜の如く具する。

宣武を有す
永平がある。 晉昌がある。 永興がある。 ある
泰寧がある。 ある 有(罷免)
有〈平盧。〉 有〈罷。〉 有〈平盧。〉
有〈武寧。〉
宿
有(天平)
有(威信) 有(罷) 有(彰信)

 

 

 

 

有(太祖が設置。)
有(宣武。) 有(帰徳。)
有〈輝州。〉 有〈改曰単州。〉
鎮安がある。 軍が廃止された。 復活した。
ある ある ある ある ある
匡国軍節度使を有す 忠武軍節度使を有す 有す 有す 有す
汝州 有す 有す 有す 有す
有〈宣義。〉 有〈義成。〉
有(初めは忠義と称し、後に山南東道に復した)
有 蜀〈武雄。〉 有 蜀 有〈懷德。尋罷。〉
有〈宣化。〉 有〈威勝。〉 有(武勝)
有〈宣威。〉 有〈安遠。〉 軍を罷める。 復する。 罷める。
護国軍節度使あり あり あり あり あり
孟氏 河陽三城節度使あり あり あり あり
有〈初めは定昌。後に建寧。〉 有〈建雄。〉
鎮国軍節度使あり 保義軍節度使あり あり あり あり
虢州 あり あり あり あり
有(感化) 有(鎮国) 有(罷軍)
有(忠武) 有(匡国)
耀 岐(義勝軍)。崇州(静勝軍)あり。 耀州(順義軍に改称)あり。 あり。 あり。 あり。
なし。

 

 

 

あり(隠帝が設置)。 あり。
邠州。 岐(静難軍)。あり。
岐 有
岐に有り 有り 有り 有り 有り
岐に有り 有り 有り あり 廃止

 

 

あり(高祖が設置) あり あり(環州と改称)
岐(保大)あり あり あり
岐 有
岐 有
岐(忠義)。有[1] 有(彰武)。
定難を有す。 有す 有す 有す 有す
有す 有す 有す
有(朔方)
岐〈鳳翔。〉
岐〈彰義。〉
有(廃止)
岐(雄武)。蜀(天雄)。
岐 蜀
岐 蜀
岐 蜀
岐〈李茂貞が設置。〉
有(天雄)。唐 有(鄴都)。 有(鄴都)。 有(鄴都)。 有(罷都)。
有。唐 あり あり あり あり
あり(唐) あり あり(永清) あり あり
唐あり あり あり あり あり
唐あり あり あり〈鎮寧。〉
有(昭德)。唐 有(彰德)。
有(保義)。唐 安国がある。 ある。 ある。 ある。
洺。 唐がある。 ある。 ある。 ある。 ある。
あり(惠州と改称)。唐 あり(磁州に復称)。 あり あり あり
あり(武順)。唐 あり(成德)。 あり(順德)。[2] 成徳あり あり
唐あり あり あり あり あり
唐あり
有 唐
唐あり あり あり あり あり
唐あり あり あり
有(義武) 唐
唐(横海)
有(廃)

 

 

 

 

有(世宗が設置)
契丹 契丹
契丹 契丹

 

 

 

 

有(世宗が設置)

 

 

 

 

有(世宗が設置)
唐(盧龍) 契丹 契丹 契丹
涿 契丹 契丹 契丹
契丹 契丹 契丹
契丹 契丹 契丹
契丹 契丹 契丹
有 契丹 契丹 契丹 契丹
契丹あり 契丹 契丹 契丹
あり 契丹 契丹 契丹
唐〈振武。〉 契丹 契丹 契丹
唐〈大同。〉 契丹 契丹 契丹
有〈彰国。〉 契丹 契丹 契丹
威塞を有す。 契丹 契丹 契丹
契丹 契丹 契丹
契丹 契丹 契丹
契丹 契丹 契丹

 

有(明宗が設置) 契丹 契丹 契丹
東漢
唐(唐鴈門) 東漢
東漢
東漢
東漢
東漢
有〈永安。〉 有〈罷軍。〉 永安がある。
唐(河東)。 北都がある。 ある ある 東漢
ある 東漢
唐〈昭義。〉 有〈安義。昭義。〉[3]
東漢
東漢
呉(淮南) 南唐 南唐
南唐 南唐
南唐 南唐
南唐 南唐
南唐 南唐
南唐 南唐
南唐 南唐
南唐 南唐
南唐 南唐
南唐 南唐 有〈保信。〉
呉〈忠正。〉 南唐〈清淮。〉 南唐 有〈忠正。〉
南唐 南唐
南唐 南唐
南唐 南唐

 

 

 

 

有(世宗が設置)
南唐 南唐 南唐
南唐 南唐 南唐
呉(寧国) 南唐 南唐 南唐
南唐 南唐 南唐
呉〈武昌。〉 南唐 南唐 南唐
南唐 南唐 南唐
南唐 南唐 南唐
南唐 南唐 南唐
南唐 南唐 南唐
南唐 南唐 南唐
南唐 南唐 南唐
南唐 南唐 南唐
南唐 南唐 南唐
南唐 南唐 南唐
筠[4]

 

 

南唐(李景が設置) 南唐 南唐
南唐 南唐 南唐
南唐 南唐 南唐

 

 

南唐(李景が設置。) 南唐 南唐
南唐〈留從効〉 南唐〈留從効〉 南唐〈留從効〉
南唐〈留從効〉 南唐〈留從効〉 南唐(留従効)
閩(威武)[5] 呉越 呉越 呉越
呉越(鎮海) 呉越 呉越 呉越 呉越
呉越〈鎮東。〉 呉越 呉越 呉越 呉越
呉越 呉越 呉越 呉越 呉越
呉越 呉越 呉越 呉越 呉越〈宣徳。〉
呉越 呉越 呉越〈静海。〉 呉越 呉越
呉越 呉越 呉越 呉越 呉越
呉越 呉越 呉越 呉越 呉越
呉越 呉越 呉越 呉越 呉越
呉越 呉越 呉越 呉越 呉越
呉越 呉越 呉越 呉越 呉越
呉越 呉越 呉越 呉越 呉越

 

 

呉越(元瓘が設置。) 呉越 呉越
南平(荊南。) 南平 南平 南平 南平
南平 南平 南平 南平
南平 南平 南平 南平
蜀(成都) 後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
綿 後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
蜀(剣南東川) 後蜀あり
蜀(武信) 後蜀あり
後蜀あり
有〈保寧。〉 後蜀
有 後蜀
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
蜀(永平) 後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
蜀(武泰) 後蜀あり
後蜀あり
蜀(鎮江) 後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
蜀〈昭武〉 後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
後蜀あり
蜀(山南西道) 後蜀あり
蜀(武定) 後蜀あり
楚(武安) 周行逢
周行逢
周行逢
楚(武平)[6] 周行逢
周行逢
周行逢
周行逢
周行逢

 

 

楚(馬希範が設置) 周行逢
周行逢
南漢 南漢
南漢 南漢
南漢 南漢
南漢 南漢
南漢 南漢
楚(静江) 南漢 南漢
南漢 南漢
南漢 南漢
南漢 南漢
南漢 南漢
南漢 南漢
南漢 南漢
南漢 南漢
南漢(寧遠) 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢(建武) 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
化[7] 南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢(清海) 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
鬱林 南漢 南漢 南漢 南漢 南漢

 

南漢(劉龑が設置) 南漢 南漢 南漢

 

南漢(劉龑が設置) 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
萬安 南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢
南漢 南漢 南漢 南漢 南漢

汴州、唐は宣武軍と称した。梁は汴州を開封府とし、東都に建てた。後唐が梁を滅ぼし、再び宣武軍とした。晋の天福三年に東京に昇格。漢・周はこれに因った。

洛陽、梁・唐・晋・漢・周は常に都とした。唐は東都とした。梁は西都とした。後唐は洛京とした。晋は西京とし、漢・周はこれに因った。

雍州、唐は上都とし、昭宗が洛に遷り、廃して佑国軍とした。梁初、京兆府を大安と改め、佑国軍を永平と改めた。唐が梁を滅ぼし、再び西京とした。晋は廃して晋昌軍とした。漢は永興と改め、周はこれに因った。

曹州、元は宣武軍節度に属した。晋の開運二年に威信軍を置いた。漢初、軍を廃した。周の広順二年に再び彰信軍を置いた。

宋州、元は宣武軍節度に属した。梁初、宣武軍を移置した。唐が梁を滅ぼし、帰德と改めた。

陳州は、もともと忠武軍節度に属していた。晋の開運二年に鎮安軍を設置した。漢の初めに、軍は廃止された。周の広順二年に再び設置した。

許州は、唐では忠武と呼ばれていた。梁は匡国に改称した。唐が梁を滅ぼし、再び忠武に戻した。

滑州は、唐では義成と呼ばれていた。梁王の父の諱を避けて宣義に改称した。唐が梁を滅ぼし、元の名前に戻した。

襄州は、唐では山南東道と呼ばれていた。唐と梁の間で忠義軍に改称した。後に延州を忠義とし、襄州は再び山南東道に戻した。

鄧州は、もともと山南東道節度に属していた。梁が趙匡凝を破り、鄧州を分けて宣化軍を設置した。唐は威勝に改称した。周は武勝に改称した。

安州は、梁が宣威軍を設置した。唐は安遠に改称し、晋は廃止し、漢は再び安遠とし、周はまた廃止した。

晋州は、もともと護国軍節度に属していた。梁の開平四年に定昌軍を設置し、貞明三年に建寧に改称した。唐は建雄に改称した。

金州は、もともと山南東道節度に属していた。唐末に戎昭軍を設置したが、すぐに廃止し、蜀に併合された。晋の高祖の時に、再び懷德軍を設置したが、すぐに廃止した。

陝州は、唐では保義と呼ばれていた。梁は鎮国に改称し、後唐は再び保義に戻した。

華州は、唐では鎮国と呼ばれていた。梁は感化に改称し、後唐は再び鎮国に戻した。

同州:唐では匡国と称したが、梁が忠武に改称し、後唐が再び匡国に戻した。

耀州:本来は華原県で、唐末に李茂貞に属し、耀州が設置され義勝軍が置かれた。梁末帝の時、茂貞の養子温韜が州を降伏させ梁に帰順し、梁は耀州を崇州に改称し、義勝を静勝に改めた。後唐が再び耀州とし、順義に改称した。

延州:本来は保大軍節度に属した。梁が忠義軍を設置し、唐が彰武に改称した。

魏州:唐では大名府と称し、天雄軍を設置したが、五代は全てこれを踏襲した。後唐が鄴都を建て、晋・漢がこれを踏襲し、周に至って廃止した。大名府は、後唐では興唐、晋では広晋、漢・周では再び大名と称した。

澶州:本来は天雄軍節度に属した。晋の天福9年に鎮寧軍を設置した。

相州:本来は天雄軍節度に属した。梁末帝が昭徳軍を分置したが、天雄軍が乱れ、遂に晋に帰属した。荘宗が梁を滅ぼし、再び天雄に属した。晋の高祖が彰徳軍を設置した。

邢州:本来は昭義軍節度に属した。昭義が統轄するのは沢・潞・邢・洺・磁の五州である。唐末に孟方立が昭義軍節度使となり、その軍額を邢州に移し、沢・潞の二州は晋に帰属した。方立は邢・洺・磁の三州のみを有した。故に唐末には二つの昭義軍が存在した。梁・晋の争いでは、或いは梁に、或いは晋に帰属した。梁は邢・洺・磁の三州を保義軍とした。荘宗が梁を滅ぼし、安国に改称した。

鎮州:本来は成徳軍と称した。梁の初めに成の音が廟諱に触れるため、武順に改称した。唐が再び成徳とし、晋がまた順徳に改称し、漢が再び成徳に戻した。

応州:本来は大同軍節度に属した。唐の明宗が即位し、その応州の出身であるため、彰国軍を設置した。

新州:唐の同光元年に威塞軍を設置した。

府州:晋が永安軍を設置し、漢が廃止し、周が復活させた。

并州:後唐が北都を建て、その軍は依然として河東と呼ばれた。

潞州:唐はかつて昭義と呼んだ。梁末帝の時に梁に属し、匡義と改称し、1年余り後、唐が梁を滅ぼし、安義と改称した。晋が昭義に復した。

廬州:周世宗が淮南を制圧し、保信軍を設置した。

寿州:唐はかつて忠正と呼び、南唐が清淮と改称した。周世宗が淮南を平定し、忠正に復した。

五代の時期、外部に属する州は、揚州を淮南、宣州を寧国、鄂州を武昌、洪州を鎮南、福州を武威、杭州を鎮海、越州を鎮東、江陵府を荊南、益州・梓州を剣南東・西州、遂州を武信、興元府を山南西道、洋州を武定、黔州を黔南、潭州を武安、桂州を静江、容州を寧遠、邕州を建武、広州を清海と呼び、いずれも唐の旧称で、五代を通じて変更なく、現在もそれに従っている。その他の僭偽政権による改称は全てを調査できず、言及に値せず、現在に残るものは譜に略注する。

済州:周の広順2年に設置し、鄆州の鉅野・鄆城、兗州の任城、単州の金郷を属県として割譲し、鉅野を治所とした。

単州:唐末に宋州の碭山(梁太祖の郷里)を輝州として設置し、後に単父に治所を移した。後唐が梁を滅ぼし、輝州を単州と改称した。属県の設置・移転は伝記によって異なり、現在は単父・碭山・成武・魚臺の4県を管轄する。

耀州:李茂貞が設置し、華原県を治所とした。梁の初めに崇州と改称し、唐の同光元年に耀州に復した。

解州:漢の乾祐元年9月に設置し、河中の聞喜・安邑・解県を属県として割譲し、解県を治所とした。

威州は、晋の天福4年に設置され、霊州の方渠、寧州の木波・馬嶺の三鎮を割譲して属県とし、方渠を治所とした。周の広順2年に環州と改称し、顕徳4年に通遠軍として廃止された。

乾州は、李茂貞が設置し、奉天県を治所とした。

磁州は、梁が惠州と改称し、唐が再び磁州とした。

景州は、唐の旧治所は弓高。周の顕徳3年に定遠軍として廃止し、その属県安陵県を德州に割譲し、弓高県を廃止して東光県に編入し、定遠軍の治所とした。

濱州は、周の顕徳3年に設置され、海に臨むことから名付けられた。初め、五代の際に海傍に搉塩務を置き、後に贍国軍となり、周が州を設置し、棣州の渤海・蒲臺を割譲して属県とし、渤海を治所とした。

雄州は、周の顕徳6年に瓦橋関を攻略して設置し、帰義を治所とした。易州の容城を割譲して属県としたが、まもなく廃止された。

霸州は、周の顕徳6年に益津関を攻略して設置し、永清を治所とした。莫州の文安、瀛州の大城を割譲して属県とした。

通州は、本来海陵の東境で、南唐が静海制置院を設置し、周の世宗が淮南を攻略し、静海軍に昇格させ、後に通州を設置し、その地を分けて静海・海門の二県を属県とし、静海を治所とした。

筠州は、南唐の李景が設置した。洪州の高安・上高・万載・清江の四県を割譲して属県とし、高安を治所とした。

剣州は、南唐の李景が設置し、建州の延平・剣浦・富沙の三県を割譲して属県とし、延平を治所とした。

全州は、楚王馬希範が設置し、潭州の湘川県を清湘県とし、さらに灌陽県を割いて属県とし、清湘を治所とした。

秀州は、呉越王銭元瓘が設置し、杭州の嘉興県を割いて属県とし、これを治所とした。

雄州は、南漢の劉龑が韶州の保昌を割いて設置し、保昌を治所とした。

英州は、南漢の劉龑が広州の湞陽を割いて設置し、湞陽を治所とした。

開封府はもと六県を統轄した。梁の開平元年、滑州の酸棗・長垣、鄭州の中牟・陽武、宋州の襄邑、曹州の考城(戴邑と改称)、許州の扶溝・𨻳陵、陳州の太康を割いて隷属させた。唐は酸棗・中牟・襄邑・𨻳陵・太康の五県を元の州に戻し、晋は汴州を東京に昇格させ、再び五県を割いて隷属させた。

雍丘は、晋が𣏌と改称し、漢が元の名に戻した。

長垣は、唐が匡城と改称した。

黎陽は、もと滑州に属し、晋が割いて衞州に隷属させた。

葉・襄城は、もと許州に属し、唐が割いて汝州に隷属させた。

楚丘は、もと単州に属し、梁が割いて宋州に隷属させた。

密州膠西は、かつて輔唐と呼ばれ、梁が安丘に改称し、唐が元の名に戻し、晋が膠西に改称した。

渭南は、かつて京兆に属し、周が華州に改めて所属させた。

同官は、かつて京兆府に属し、梁が同州に所属を移し、唐が耀州に所属を移した。

美原は、かつて同州に属し、李茂貞が鼎州を設置して治めた。梁が裕州に改称し、順義軍節度に属した。廃止時期は不明で、唐の同光三年に耀州に所属を移した。

平涼は、かつて涇州に属した。唐末に渭州が吐蕃に陥落し、一時的に平涼に渭州を設置して県は廃止された。後唐の清泰三年に、旧平涼の安国・耀武両鎮を基に平涼県を設置し、涇州に属した。

臨涇は、かつて涇州に属した。唐末に原州が吐蕃に陥落し、一時的に臨涇に原州を設置し、涇州がその民を兼ねて治めた。後唐の清泰三年に原州に所属を移した。

鄜州咸寧は、周で廃止された。

稷山は、かつて河中に属し、唐が絳州に所属を移した。

慈州仵城・呂香は、周で廃止された。

大名府大名は、かつて貴郷と呼ばれた。後唐が広晋に改称し、漢が大名に改称した。

滄州長蘆は、乾符年間に設置され、後周で廃止されて清池に編入された。無棣は、後周で保順軍が設置された。

安陵は、もともと景州に属していたが、後周で德州に編入された。

澶州頓丘は、後晋で徳清軍が設置された。

博州武水は、後周で廃止されて聊城に編入された。

博野は、もともと深州に属していたが、後周で定州に編入された。

武康は、もともと湖州に属していたが、後梁で杭州に編入された。

福州閩清は、後梁乾化元年に、王審知が梅溪場に設置した。

蘇州呉江は、後梁開平三年に、銭鏐が設置した。

明州望海は、後梁開平三年に、銭鏐が設置した。

処州長松は、もともと松陽と呼ばれていたが、後梁で長松に改称された。

潭州龍喜は、漢の乾祐三年に馬希範が設置した。

天長と六合は、もともと揚州に属していた。南唐は天長を軍とし、六合を雄州としたが、周が元に戻した。

漢陽は、もともと鄂州に属していたが、周が漢陽軍を設置した。

汊川は、もともと沔州に属していたが、周が安州に移管した。

襄州の楽郷は、周が廃止して宜城に編入した。

鄧州の臨湍は、漢が臨瀨と改称した。菊潭と向城は、周が廃止した。

復州の竟陵は、晋が景陵と改称した。

監利は、もともと復州に属していたが、梁が江陵に移管した。

唐州の慈丘は、周が廃止した。

商州の乾元は、漢が乾祐と改称し、京兆に移管した。

洛南は、かつて華州に属していたが、周が商州に割譲した。

随州唐城は、梁が漢東と改称し、後唐が旧称に復し、晋が再び漢東と改め、漢が旧称に復した。

雄勝軍は、もともと鳳州固鎮であり、周が軍を設置した。

秦州天水・隴城は、唐末に廃止され、後唐が再設置した。

成州栗亭は、後唐が設置した。

唐に方鎮が設置されて以来、史官は地理書に記録せず、方鎮は軍事を管轄し、職方が掌るべきでないと考えた。しかし後世、慣習により軍の名で土地を呼び、州名が失われた。(例えば現在の永興は、もともと節度軍の名であり、現在の守臣は知永興軍府事と称し、雍州京兆とは言わない。)また現在、軍を設置するのは、虚名で昇格させ州府の重みを増すためであり、これは記録すべきである。州・県で、唐に設置され五代で廃止されたもの、五代に設置され現在も存続するもの、および県の割譲が現在も継承されているものは、すべて職方の参考として列挙すべきである。その他、設置され再廃止されたもの、改称・割譲され旧に復したものは、記録に値しない。山川・物産・風俗は職方が掌るが、五代は短命で変化がなく、記録しない。方鎮の軍名を記録し、前史と相互参照する。