漢書かんじょごかんじょ

巻九・帝紀第九 孝獻帝

孝献皇帝の諱は協、霊帝の次男である。(『諡法』に「聡明睿智を献という」とある。協の字は合。張璠『記』に「霊帝は帝が自分に似ているとして、故に名を協とした」とある。『帝王紀』に「協の字は伯和」とある。)母は王美人、何皇后に害された。

中平

中平六年四月、少帝が即位し、帝を勃海王に封じ、陳留王に転封した。九月甲戌、皇帝の位に即き、年九歳。皇太后を永安宮に移した。(董卓が移したのである。洛陽らくよう宮殿名に「永安宮の周囲は六百九十八丈、故基は洛陽故城中にある」とある。)天下に大赦を行った。昭寧を永漢に改めた。丙子、董卓が皇太后何氏を殺害した。初めて侍中・給事黄門侍郎の員数をそれぞれ六人とした。(『続漢志』に「侍中は比二千石、員数なし」とある。『漢官儀』に「侍中は左に蝉、右に貂を飾り、もとは秦の丞相史であり、殿内を往来したので、侍中と称した。乗輿の服物から下は褻器・虎子の類までを分掌する。武帝の時、孔安国が侍中となり、彼が儒者であるため、特に御唾壺を掌ることを許され、朝廷はこれを栄誉とした。東京(後漢)の時には少府に属し、やはり員数なし。駕が出る時は一人が伝国璽を背負い、斬蛇剣を執り、乗輿の中官は皆禁中に止まる」とある。また「給事黄門侍郎は六百石、員数なし。左右に侍従し、中使に給事し、中外を通関することを掌る」とある。応劭は「黄門侍郎は毎日暮れに青瑣門に向かって拝礼し、これを夕郎という」という。輿服志に「禁門を黄闥といい、中人(宦官)がこれを主管するため、黄門令と号する」とある。すると黄門郎は黄闥の内に給事するので、黄門郎という。もともと員数がなかったが、ここにおいてそれぞれ六人を置いたのである。献帝起居注に「黄門を誅殺して以来、侍中・侍郎が禁中に出入りし、機密事がやや漏れたため、これにより王允は侍中・黄門が出入りしてはならないと上奏した。賓客と通じないのは、ここから始まった」とある。)公卿以下から黄門侍郎の家までに一人を郎として賜り、宦官が管轄していた諸署を補わせ、殿上に侍らせた。(霊帝熹平四年、平準を中準に改め、宦官を令とした。これ以来諸内署の令・丞はすべて閹人(宦官)がこれを行ったので、今はすべて士人に代わって管領させることとした。)乙酉、太尉劉虞を大司馬とした。董卓は自ら太尉となり、鈇鉞・虎賁を加えられた。(『礼記』に「諸侯は鈇鉞を賜られて後、専殺できる」とある。『説文』に「鈇は莝刃なり」とある。『蒼頡篇』に「鈇は斧なり」とある。鈇鉞を加えられるとは、専殺できることである。)丙戌、太中大夫楊彪が司空しくうとなった。甲午、州牧黄琬が司徒しととなった。使者を遣わして故太傅陳蕃・大将軍竇武らを弔問し祭祀を行った。

冬十月乙巳、霊思皇后を葬った。白波賊が河東を寇掠した。(薛瑩『書』に「黄巾の郭泰らが西河白波谷で起こり、当時これを白波賊といった」とある。)董卓はその将牛輔を派遣してこれを撃たせた。十一月癸酉、董卓が相国となった。十二月戊戌、司徒黄琬が太尉となり、司空楊彪が司徒となり、光禄勲荀爽が司空となった。扶風都尉を廃止し、漢安都護を置いた。(扶風都尉は比二千石、武帝元鼎四年に置かれ、中興後も変わらなかったが、ここに至り羌が三輔を擾乱したため、これを廃止した。都護を置き、西方を統率させることとした。)詔を下して光熹・昭寧・永漢の三つの年号を除き、中平六年に戻すこととした。

初平

初平元年春正月、山東の州郡が兵を起こして董卓を討った。辛亥、天下に大赦を行った。癸酉、董卓が弘農王を殺害した。白波賊が東郡を寇掠した。二月乙亥、太尉黄琬・司徒楊彪が免官された。庚辰、董卓が城門校尉こうい伍瓊・督軍校尉周珌を殺害した。(珌の音は必。『東観記』に「周珌は豫州刺史周慎の子である」とある。続漢書・魏志はともに「毖」とし、音は祕。)光禄勲趙謙を太尉とした。(謝承『書』に「謙の字は彦信、太尉趙戒の孫、しょく郡成都の人である」とある。)太僕王允を司徒とした。丁亥、都を長安ちょうあんに遷した。董卓は京師の百姓を駆り立ててことごとく西に関中に入らせ、自らは畢圭苑に留まって駐屯した。壬辰、白虹が日を貫いた。三月乙巳、車駕は長安に入り、未央宮に幸した。(未央宮は蕭何しょうかが造営したものである。張璠『記』に「宮に入る日、大雨が降り、昼間も暗くなり、翟雉が長安宮に飛び込んだ」とある。)己酉、董卓が洛陽の宮廟および人家を焼いた。戊午、董卓が太傅袁隗・太僕袁基を殺害し、その一族を誅滅した。(隗は袁紹の叔父。基は袁術の同母兄。董卓は山東で兵が起こり、袁紹・袁術を主としているため、その親族を誅殺したのである。『献帝春秋』に「尺口以上の男女五十余人、皆獄に下して死なせた」とある。)夏五月、司空荀爽が薨去した。六月辛丑、光禄大夫种拂が司空となった。大鴻臚韓融・少府陰脩・執金吾胡母班、(『風俗通』に「胡母は姓であり、もとは陳の胡公の後裔である。公子完が斉に奔り、遂に斉国を得た。斉の宣王の母弟が別に母郷に封ぜられ、遠くは胡公に本づき、近くは母邑を取ったので、胡母氏という」とある。)将作大匠呉脩・越騎校尉王瓌が関東を安集したが、後将軍袁術・河内太守王匡がそれぞれ彼らを捕らえて殺害した。(『英雄記』に「王匡の字は公節、太山の人である。財を軽んじ施しを好み、任侠をもって聞こえ、袁紹の河内太守となった」とある。)ただ韓融だけが免れた。董卓は五銖銭を廃し、改めて小銭を鋳造した。(光武中興の時、王莽の貨泉を除き、再び五銖銭を用いた。)冬十一月庚戌、鎮星・熒惑・太白が尾宿で合した。この年、有司が上奏し、和帝・安帝・順帝・桓帝の四帝には功德がなく、宗と称すべきでない、また恭懐・敬隠・恭愍の三皇后はいずれも正嫡ではなく、后と称すべきでないとして、皆尊号を除くよう請うた。制を下して「可」とした。(和帝の号は穆宗、安帝は恭宗、順帝は敬宗、桓帝は威宗。和帝は母の梁貴人を尊んで恭懐皇后とし、安帝は祖母の宋貴人を尊んで敬隠皇后とし、順帝は母の李氏を尊んで恭愍皇后とした。)孫堅が荊州刺史王叡を殺害した。(『王氏譜』に「叡の字は通曜、晋の太保王祥の伯父である」とある。『呉録』に「王叡は平素より孫堅を無礼に遇しており、孫堅はこの時王叡を殺そうとした。王叡が『私は何の罪があるのか』と言うと、孫堅は『無知であるという罪だ』と言った。王叡は窮迫し、金を削って飲んで死んだ」とある。)また南陽太守張咨を殺害した。

二年春正月辛丑の日、天下に大赦を行った。二月丁丑の日、董卓が自ら太師となった。袁術が将軍の孫堅を派遣し、董卓の将軍胡軫と陽人で戦った(陽人は聚落の名で、河南郡に属し、故城は現在の汝州梁県の西にある。史記しきに秦が東周を滅ぼし、その君主を陽人聚に移したとあり、これがその地である)。胡軫の軍は大敗した。董卓はついに洛陽の諸帝の陵墓を発掘した。夏四月、董卓が長安に入った。六月丙戌の日、地震があった。秋七月、司空の种拂が免官となり、光禄大夫の済南出身の淳于嘉が司空となった。太尉の趙謙が罷免され、太常の馬日磾が太尉となった。九月、蚩尤旗が角宿と亢宿に現れた(『天官書』によれば、「蚩尤の旗は、彗星に似て後ろが曲がり、旗のようである」という。熒惑の精である。『呂氏春秋』には「その色は上が黄で下が白、現れると王者が四方を征伐する」とある。角・亢は蒼龍の星である)。冬十月壬戌の日、董卓が衛尉の張温を殺した。十一月、青州の黄巾賊が太山を侵し、太山太守の応劭がこれを撃破した。黄巾賊は転じて勃海を侵し、公孫瓉が東光でこれと戦い、再び大破した(東光は現在の滄州の県である)。この年、長沙で人が死んで一ヶ月後に復活した。

三年春正月丁丑の日、天下に大赦を行った。袁術が将軍の孫堅を派遣し、襄陽で劉表を攻撃したが、孫堅は戦死した。袁紹と公孫瓉が界橋で戦った(現在の貝州宗城県の東に古い界城があり、枯れた漳水に近く、界橋はここにある)。公孫瓉の軍は大敗した。夏四月辛巳の日、董卓を誅殺し、三族を滅ぼした。司徒の王允が尚書事を録し、朝政を総括し、使者の張种を派遣して山東を慰撫した。青州の黄巾賊が東平で兗州刺史の劉岱を撃ち殺した。東郡太守の曹操が寿張で黄巾賊を大破し、降伏させた。五月丁酉の日、天下に大赦を行った。丁未の日、征西将軍の皇甫嵩が車騎将軍となった。董卓の部曲の将軍である李傕、郭汜、樊稠、張済らが反乱を起こし、京師を攻撃した。六月戊午の日、長安城が陥落し、太常の种拂、太僕の魯旭、大鴻臚の周奐(『三輔決録』の注によれば、「奐は字を文明といい、茂陵の人である」)、城門校尉の崔烈、越騎校尉の王頎がともに戦死した(頎の音は祈)。官吏と民衆で死者は一万余人に及んだ。李傕らはともに自ら将軍となった。己未の日、天下に大赦を行った。李傕が司隷校尉の黄琬を殺し、甲子の日、司徒の王允を殺し、いずれもその一族を滅ぼした。丙子の日、前将軍の趙謙が司徒となった。秋七月庚子の日、太尉の馬日磾が太傅となり、尚書事を録した。八月、馬日磾と太僕の趙岐を派遣し、節を持って天下を慰撫させた。車騎将軍の皇甫嵩が太尉となった。司徒の趙謙が罷免された。九月、李傕が自ら車騎将軍となり、郭汜は後将軍、樊稠は右将軍、張済は鎮東将軍となった。張済は出て弘農に駐屯した。甲申の日、司空の淳于嘉が司徒となり、光禄大夫の楊彪が司空となり、ともに尚書事を録した。冬十二月、太尉の皇甫嵩が免官となった。光禄大夫の周忠が太尉となり、尚書事に参画して録した。

四年春正月甲寅の朔日、日食があった(袁宏の『紀』によれば、「時は未の刻の八刻前であった。太史令の王立が奏上して言った、『日影が過ぎただけで、異変はありません』。朝臣は皆祝賀した。帝は観測させたところ、未の刻の一刻前に日食が起こった。賈詡が奏上して言った、『王立は観測が不明瞭で、上下を疑わせ誤らせました。理官に付すことを請います』。帝は言った、『天道は遠く、事の験証は難しく、史官に罪を帰そうとすれば、ますます朕の不徳を重くすることになる』」)。丁卯の日、天下に大赦を行った。三月、袁術が揚州刺史の陳温を殺し、淮南を占拠した。長安の宣平城門外の建物が自然に崩壊した(『三輔黄図』によれば、「長安城の東面の北端の門である」)。夏五月癸酉の日、雲がないのに雷が鳴った。六月、扶風で大風が吹き、雹が降った。華山が崩れ裂けた。太尉の周忠が免官となり、太僕の朱儁が太尉となり、尚書事を録した。下邳の賊の闕宣が自ら天子を称した(『風俗通』によれば、「闕は姓であり、闕党の童子の後を継いだものである。縦横家に闕子の著書がある」)。雨が降った。侍御史の裴茂を派遣して詔獄を審問させ、軽い罪に繋がれている者を赦免した。六月辛丑の日、天狗が西北へ進んだ(『前書音義』によれば、「音があるものを天狗といい、音がないものを枉矢という」)。九月甲午の日、儒生四十余人を試験し、上第の者には郎中の位を賜り、次は太子舎人とし、下第の者は罷免した。詔して言った、「孔子は『学びて之を講ぜざる』を嘆いた(講は習うことである。『論語』の文)。講じなければ識ったことは日々忘れ去られる。今、老いた儒者は年齢が六十を超え、故郷を離れ、食糧や資金を求め、専門の学業に専念できない。子供の頃に入学し、白髪になって空しく帰り、長く農野に委ねられ、永遠に栄達の望みが絶たれている。朕は甚だこれを哀れむ。科により罷免された者で、太子舎人となることを許す」(劉艾の『献帝紀』によれば、「当時長安でこのような謡が歌われた、『頭は白く皓然と、食は糧を充たさず。衣を裹き裳を褰ぎ、故郷に還らんとす。聖主愍み念い、悉く用いて郎を補う。舎人はこれ布衣、玄黄の服を被る』」)。冬十月、太学で礼が行われ、車駕は永福城門に幸し、その儀式を臨観し、博士以下にそれぞれ差等を設けて賜物を与えた。辛丑の日、京師で地震があった。星が天市に孛した(袁宏の『紀』によれば、「天市に孛したのは、天子が都を移すことに従うことであり、その後、帝が東遷した応である」)。司空の楊彪が免官となり、太常の趙温が司空となった。公孫瓉が大司馬の劉虞を殺した。十二月辛丑の日、地震があった。司空の趙温が免官となり、乙巳の日、衛尉の張喜が司空となった(『献帝春秋』では「喜」を「嘉」としている)。この年、琅邪王の劉容が薨去した。

興平

興平元年(194年)春正月辛酉の日、天下に大赦を行い、元号を興平と改めた。甲子の日、皇帝は元服の礼を行った。二月壬午の日、亡き母の王氏を追尊して霊懐皇后と諡し、甲申の日、文昭陵に改葬した。丁亥の日、皇帝は藉田で耕作の儀を行った。三月、韓遂と馬騰が郭汜・樊稠と長平観で戦い、韓遂・馬騰は敗北し、左中郎将の劉範と前益州刺史の种劭が戦死した。夏六月丙子の日、涼州の河西四郡を分けて雍州とした。丁丑の日、地震があった。戊寅の日、再び地震があった。乙巳の晦の日、日食があり、皇帝は正殿を避け、兵を休め、五日間政務を聴かなかった。大規模な蝗害が発生した。秋七月壬子の日、太尉の朱儁が免官となった。戊午の日、太常の楊彪が太尉となり、尚書事を録した。三輔地域は大旱魃に見舞われ、四月からこの月まで続いた。皇帝は正殿を避けて雨乞いをし、使者を遣わして囚人を洗浄し、軽い罪の者を赦免した。この時、穀物一斛が五十万銭、豆や麦一斛が二十万銭にもなり、人々は互いに食らい合い、白骨が累々と積み重なった。皇帝は侍御史の侯汶に命じて太倉の米や豆を出させ、飢えた人々のために粥を作らせたが、一日経っても死者の数は減らなかった。皇帝は救恤に不正があるのではないかと疑い、自ら御座の前で量を計って粥を作って試してみたところ、事実ではないことがわかった。侍中の劉艾を出向かせて関係官庁を詰問させた。すると尚書令しょうしょれい以下は皆、省閣に赴いて謝罪し、侯汶を収監して事実を究明するよう上奏した。詔勅が下った。「侯汶を法に照らして裁くには忍びない。杖五十でよろしい。」これ以降、多くの者が救済された。八月、馮翊の羌が反乱し、所属する県を侵したが、郭汜と樊稠がこれを撃破した。九月、桑の木に再び実がなり、人々はそれを食べることができた。司徒の淳于嘉が罷免された。冬十月、長安の市門が自然に崩壊した。衛尉の趙温を司徒とし、尚書事を録させた。十二月、安定郡と扶風郡の一部を分けて新平郡を設置した。この年、揚州刺史の劉繇が袁術の部将である孫策と曲阿で戦い、劉繇軍は大敗し、孫策はついに江東を占拠した。太傅の馬日磾が寿春で死去した。

二年(195年)春正月癸丑の日、天下に大赦を行った。二月乙亥の日、李傕が樊稠を殺し、郭汜と争って戦った。三月丙寅の日、李傕が皇帝を脅迫して自らの陣営に移し、宮殿を焼き払った。夏四月甲午の日、貴人の伏氏を立てて皇后とした。丁酉の日、郭汜が李傕を攻撃し、矢が御前まで飛来した。この日、李傕は皇帝を北塢に移した。大旱魃が続いた。五月壬午の日、李傕が自ら大司馬となった。六月庚午の日、張済が陝から来て李傕と郭汜の仲介をした。秋七月甲子の日、皇帝の車駕は東へ帰還の途についた。郭汜は自ら車騎将軍となり、楊定は後将軍、楊奉は興義将軍、董承は安集将軍となり、ともに車駕に侍従して送った。張済は驃騎将軍となり、陝に戻って駐屯した。八月甲辰の日、新豊に到着した。冬十月戊戌の日、郭汜が配下の将軍である伍習に命じて、皇帝が滞在していた学舎を夜間に焼き討ちし、車駕を脅迫した。楊定と楊奉が郭汜と戦い、これを破った。壬寅の日、華陰に到着し、道の南側に野宿した。この夜、赤い気が紫宮を貫いた。張済が再び反旗を翻し、李傕と郭汜と合流した。十一月庚午の日、李傕と郭汜らが車駕を追撃し、東澗で戦い、朝廷軍は大敗し、光禄勲の鄧泉、衛尉の士孫瑞、廷尉の宣播、大長秋の苗祀、歩兵校尉の魏桀、侍中の朱展、射声校尉の沮儁が殺された。壬申の日、曹陽に到着し、田んぼの中で野宿した。楊奉と董承が白波賊の首領である胡才、李楽、韓暹および匈奴の左賢王の去卑を引き入れ、軍勢を率いて迎え、李傕らと戦ってこれを破った。十二月庚辰の日、車駕はようやく進んだ。李傕らが再び追撃して戦いを挑み、朝廷軍は大敗し、宮人を殺害・略奪し、少府の田芬、大司農の張義らが皆戦死した。進んで陝に至り、夜間に黄河を渡った。乙亥の日、安邑に到着した。この年、袁紹が部将の麴義を派遣し、公孫瓉と鮑丘で戦わせ、公孫瓉軍は大敗した。

建安

建安元年(196年)春正月癸酉の日、安邑で上帝を郊祀し、天下に大赦を行い、元号を建安と改めた。二月、韓暹が衛将軍の董承を攻撃した。夏六月乙未の日、聞喜に到着した。秋七月甲子の日、車駕は洛陽に到着し、故中常侍の趙忠の屋敷に滞在した。丁丑の日、上帝を郊祀し、天下に大赦を行った。己卯の日、太廟を拝謁した。八月辛丑の日、南宮の楊安殿に到着した。癸卯の日、安国将軍の張楊を大司馬とし、韓暹を将軍、楊奉を車騎将軍とした。この時、宮殿は焼け尽き、百官は荊棘をかき分け、壁の間に寄りかかって過ごした。州や郡はそれぞれ強兵を擁していたが、物資の輸送は届かず、官僚たちは飢えに苦しみ、尚書郎以下は自ら出かけて野生の穀物を採った。ある者は壁の間で餓死し、ある者は兵士に殺された。辛亥の日、鎮東将軍の曹操が自ら司隷校尉を兼任し、尚書事を録した。曹操は侍中の台崇、尚書の馮碩らを殺した。衛将軍の董承を輔国将軍とし、伏完ら十三人を列侯に封じ、沮儁に弘農太守を追贈した。庚申の日、都を許に遷した。己巳の日、曹操の陣営に到着した。九月、太尉の楊彪、司空の張喜が罷免された。冬十一月丙戌の日、曹操が自ら司空となり、車騎将軍の職務を代行し、百官は皆、自らを統制して彼に従った。

二年の春、袁術が天子を自称した。三月、袁紹が自ら大将軍となった。夏五月、蝗害があった。秋九月、漢水が氾濫した。この年は飢饉で、江淮の間では民衆が互いに食い合った。袁術が陳王の寵を殺した。孫策が使者を遣わして貢物を献上した。

三年の夏四月、謁者の裴茂を派遣し、中郎将の段煨を率いて李傕を討伐し、三族を誅滅した。呂布が反乱した。冬十一月、盗賊が大司馬の張楊を殺害した。十二月癸酉、曹操が徐州で呂布を攻撃し、これを斬った。

四年の春三月、袁紹が易京で公孫瓉を攻撃し、これを捕らえた。衛将軍の董承が車騎将軍となった。夏六月、袁術が死んだ。この年、初めて尚書左右僕射を設置した。武陵の女子が死んで十四日後に生き返った。

五年の春正月、車騎将軍の董承、偏将軍の王服、越騎校尉の种輯が密詔を受けて曹操を誅殺しようとしたが、事が漏れた。壬午、曹操が董承らを殺し、三族を誅滅した。秋七月、皇子の馮を立てて南陽王とした。壬午、南陽王の馮が薨去した。九月庚午の朔、日食があった。三公に至孝の者二人を推挙させ、九卿、校尉、郡国の守相はそれぞれ一人を推挙するよう詔を下した。皆、封事を上奏し、憚ることなく言うように。曹操が袁紹と官度で戦い、袁紹は敗走した。冬十月辛亥、大梁に彗星が現れた。東海王の祗が薨去した。この年、孫策が死に、弟の権がその遺業を継承した。

六年の春三月丁卯の朔、日食があった。

七年の夏五月庚戌、袁紹が薨去した。于窴国が調教された象を献上した。この年、越巂の男子が女子に変わった。

八年の冬十月己巳、公卿が初めて北郊で冬を迎える儀礼を行った。緫章が初めて八佾の舞を再び備えた。初めて司直官を設置し、中都官を監督させた。

九年の秋八月戊寅、曹操が袁尚を大破し、冀州を平定し、自ら冀州牧を兼任した。冬十月、東井に彗星が現れた。十二月、三公以下に金帛をそれぞれ差等を付けて賜った。これより三年ごとに賜うことを常制とした。

十年の春正月、曹操が青州で袁譚を破り、これを斬った。夏四月、黒山賊の張燕が衆を率いて降伏した。秋九月、百官の特に貧しい者に金帛をそれぞれ差等を付けて賜った。

十一年の春正月、北斗に彗星が現れた。三月、曹操がへい州で高幹を破り、これを捕らえた。秋七月、武威太守の張猛が雍州刺史の邯鄲商を殺した。この年、故琅邪王の容の子の熙を立てて琅邪王とした。斉、北海、阜陵、下邳、常山、甘陵、済陰、平原の八国はいずれも除かれた。

十二年の秋八月、曹操が柳城で烏桓を大破し、その蹋頓を斬った。冬十月辛卯、鶉尾に彗星が現れた。乙巳、黄巾賊が済南王の贇を殺した。十一月、遼東太守の公孫康が袁尚、袁熙を殺した。

十三年の春正月、司徒の趙温が免官された。夏六月、三公の官を廃止し、丞相、御史大夫を設置した。癸巳、曹操が自ら丞相となった。秋七月、曹操が南方に征して劉表を討った。八月丁未、光禄勲の郗慮が御史大夫となった。壬子、曹操が太中大夫の孔融を殺し、その一族を誅滅した。この月、劉表が卒し、末子の琮が立った。琮は荊州を挙げて曹操に降伏した。冬十月癸未の朔、日食があった。曹操が水軍をもって孫権を討伐したが、孫権の将の周瑜が烏林、赤壁でこれを破った。

十四年の冬十月、荊州で地震があった。

十五年の春二月乙巳の朔、日食があった。

十六年の秋九月庚戌、曹操が韓遂、馬超と渭南で戦い、韓遂らは大敗し、関西が平定された。この年、趙王の赦が薨去した。

十七年夏五月癸未、衛尉の馬騰を誅し、三族を滅ぼした。六月庚寅の晦、日食があった。秋七月、洧水と潁水が氾濫した。螟の害があった。八月、馬超が涼州を破り、刺史の韋康を殺した。九月庚戌、皇子の熙を立てて済陰王とし、懿を山陽王とし、𨘷を済北王とし、敦を東海王とした。冬十二月、星が五諸侯に彗星のように現れた。

十八年春正月庚寅、禹貢の九州を復した。夏五月丙申、曹操が自ら魏公を称し、九錫を加えられた。大雨が降った。趙王の珪を博陵王に移封した。この年、歳星・鎮星・熒惑がともに太微に入った。彭城王の和が薨去した。

十九年、夏四月、旱魃があった。五月、雨が降った。劉備が劉璋を破り、益州を占拠した。冬十月、曹操が将軍の夏侯淵を遣わして枹罕で宋建を討ち、これを捕らえた。十一月丁卯、曹操が皇后の伏氏を殺し、その一族と二人の皇子を滅ぼした。

二十年春正月甲子、貴人の曹氏を立てて皇后とした。天下の男子に爵位を賜い、一人一級、孝悌・力田には二級を賜った。諸王侯公卿以下に穀物をそれぞれ差等を設けて賜った。秋七月、曹操が漢中を破り、張魯が降伏した。

二十一年夏四月甲午、曹操が自ら進んで魏王と号した。五月己亥の朔、日食があった。秋七月、匈奴の南単于が来朝した。この年、曹操が琅邪王の熙を殺し、封国は除かれた。

二十二年夏六月、丞相軍師の華歆が御史大夫となった。冬、星が東北に彗星のように現れた。この年、大疫病が流行した。

二十三年春正月甲子、少府の耿紀と丞相司直の韋晃が兵を起こして曹操を誅殺しようとしたが、成功せず、三族を滅ぼされた。三月、星が東方に彗星のように現れた。

二十四年春二月壬子の晦、日食があった。夏五月、劉備が漢中を奪取した。秋七月庚子、劉備が自ら漢中王を称した。八月、漢水が氾濫した。冬十一月、孫権が荊州を奪取した。

二十五年春正月庚子、魏王の曹操が薨去した。子の丕が位を継いだ。二月丁未の朔、日食があった。三月、元号を延康と改めた。冬十月乙卯、皇帝は位を譲り、魏王の丕が天子を称した。帝を山陽公として奉じ、一万戸を封邑とし、位は諸侯王の上にあり、奏事する際は臣と称さず、詔を受ける際は拝礼せず、天子の車服を用いて天地を郊祀し、宗廟・祖・臘の祭りはすべて漢の制度の通りとし、山陽の濁鹿城を都とした。四皇子で王に封じられていた者は、皆列侯に降格された。

位を譲った後、

翌年、劉備が蜀で帝を称し、孫権もまた呉で自ら王となった。こうして天下は遂に三分された。

魏の青龍二年三月庚寅、山陽公が薨去した。位を譲ってから薨去するまで十四年、五十四歳で、諡は孝献皇帝となった。八月壬申、漢の天子の礼儀をもって禅陵に葬られた。園邑の令と丞を置いた。太子は早くに亡くなり、孫の康が立って五十一年、晋の太康六年に薨去した。子の瑾が立って四年、太康十年に薨去した。子の秋が立って二十年、永嘉年間に胡賊に殺され、封国は除かれた。

評論

論者は言う。伝に鼎という器物は、小さくても重いと称されている。ゆえに神が宝とするものは、奪い移すことができない。(『左氏伝』に王孫満が言う。「桀は昏い徳を持ち、鼎は商に遷った。商の紂は暴虐であり、鼎は周に遷った。徳が美しく明らかであれば、たとえ小さくても重い。その奸邪で昏乱であれば、たとえ大きくても軽い。」ゆえに神が宝とするものは、奪い移すことができないと言う。)ついに背負って走る者を生じさせたのは、これもまた運命が窮まった帰結であろうか。(神器は極めて重いものであるが、人に背負われて走らせることになったのは、これもまた運命が尽き果てたことがこの時に帰したということか。もはや再び振るわないことを言う。荘子は言う。「舟を谷に隠し、山を沢に隠すのは、固いと言える。しかしながら力ある者がそれを背負って走り、愚かな者はそれに気づかない。」)天は漢の徳に飽きて久しい。山陽公に何を責められようか。(厭は飽きる、誅は責めること。漢は和帝以後、政治と教化が衰えた。ゆえに天は漢の徳に飽きて久しいと言う。禍が来たのは、山陽公だけの過ちではなく、何を責めることがあろうか。『左伝』に宋の子魚が言う。「天はすでに商の徳に飽きた。」孔子は言う。「予に何を責められようか。」)

賛に言う。献帝は生まれる時を得ず、身は流転し国は艱難にあった。(辰は時。播は遷ること。献帝が生まれる時を得ず、身はすでに流転し、国もまた艱難にあったことを言う。『詩』に「我が生まれる時を得ず」とある。『左伝』に「震蕩し播越す」とある。)我が四百年を終え、永遠に虞の賓となる。(『春秋演孔図』に「劉氏四百年の際、漢の王を輔けることを褒め、皇王は期を以てし、名は就かず」とある。宋均の注に「たとえ族人が漢の王を輔けることを褒めて自らを輔けさせ、応ずべき期に当たるとしても、名は摂録される者として現れるので、名は成就しないのである」とある。虞の賓とは、舜が堯の子丹朱を賓としたことを言い、『商書』に「虞の賓位に在り」とあるのがこれである。山陽公が魏の賓となったことを喩えている。)