武帝の時代、西域は内属し、三十六の国があった。漢は使者や校尉を置いてこれを統率・保護した。宣帝はこれを都護と改称し、元帝はさらに戊己二校尉を置き、車師前王庭で屯田を行った。哀帝・平帝の間、自ら分割して五十五国となった。王莽が帝位を簒奪し、侯王を降格・変更したため、これにより西域は怨み反逆し、中国とは遂に断絶し、再び匈奴に服属した。匈奴は税を重く取り立て、諸国はその命令に耐えられず、建武年間に、皆使者を遣わして内属を求め、都護の派遣を願った。光武帝は天下が初めて平定されたばかりで、外征に手が回らず、結局これを許さなかった。ちょうど匈奴が衰弱し、莎車王の賢が諸国を誅滅し、賢の死後、互いに攻撃し合うようになった。小宛、精絶、戎廬、且末は鄯善に併合された。渠勒、皮山は于窴に統治され、その地を全て所有した。郁立、単桓、孤胡、烏貪訾離は車師に滅ぼされた。後にこれらの国はまた再建された。
九年、班超は属官の甘英を派遣して西海のほとりまで行かせて帰還させた。これらは皆前世に至らなかった地で、『山経』にも詳しく記されていないが、その風土をことごとく記録し、その珍しい物産を伝えた。これにより遠国の蒙奇、兜勒が皆来て帰服し、使者を派遣して貢物を献上した。
臣は聞く、八蛮の寇の中でも、北虜ほど甚だしいものはない。漢が興り、高祖は平城の包囲に窮し、太宗(文帝)は供奉の恥辱を忍んだ。故に孝武帝は憤怒し、長久の計を深く考え、猛将を命じて派遣し、黄河を渡り沙漠を越え、虜の本拠地を窮極まで破った。この戦役において、民衆は狼望の北で命を落とし、財貨は盧山の谷間に費やされ、府庫は枯渇し、機織り機は空になり、税は舟車にまで及び、財産は六畜にまで課された。どうしてそれを顧みなかっただろうか、長い将来を慮ったからである。遂に河西四郡を開設し、南羌を隔絶し、三十六国を収め、匈奴の右腕を断った。これにより単于は孤立し、鼠のように逃げて遠くに隠れた。宣帝、元帝の時代に至って、遂に蕃臣として備わり、関所は閉ざされず、緊急の軍令も発せられなかった。これによって察するに、戎狄は威圧によって服従させることができ、教化によって親しませることは難しい。西域が内附して久しく、ひたすら東を望んで関門を叩くことが幾度もあった。これは匈奴を喜ばず漢を慕う効果である。今、北虜は既に車師を破り、勢い必ず南の鄯善を攻めるであろう。これを放棄して救わなければ、諸国はそれに従うであろう。もしそうなれば、虜の財貨はますます増え、胆力と勢いはますます増大し、南羌に威を臨み、これと連合するであろう。このようになれば、河西四郡は危うい。河西が既に危うければ、救わざるを得ず、そうなれば百倍の労役が起こり、計り知れない費用が発生するであろう。議論する者はただ西域が絶遠であることを思い、その煩費を憂うだけで、先代の苦心と勤労の意図を見ていない。今、辺境の守備の具は整っておらず、内郡の武備も整えられておらず、敦煌は孤立して危うく、遠くから急を告げてきている。再びこれを輔助しない。内には吏民を慰労する術がなく、外には百蛮に威を示す術がない。国を縮め土を減らすことは、経書に明らかな戒めがある。臣は考えるに、敦煌には校尉を置き、旧例に従って四郡の屯兵を増やし、西の方で諸国を鎮撫すべきである。そうすれば万里の彼方で敵を撃退し、匈奴を震え上がらせるのに十分であろう。
西域の内属した諸国は、東西六千余里、南北千余里で、東は玉門関、陽関を極限とし、西は葱嶺に至る。その東北は匈奴、烏孫と接する。南北に大山があり、中央に河がある。その南山は東に出て金城に至り、漢の南山と連なる。その河には二つの源があり、一つは葱嶺から出て東に流れ、一つは于窴の南山の下から出て北に流れ、葱嶺の河と合流し、東に流れて蒲昌海に注ぐ。蒲昌海は一名を塩沢といい、玉門関から三百余里離れている。
敦煌から西に出て玉門関、陽関を経て、鄯善を渡り、北へ伊吾まで千余里、伊吾から北へ車師前部の高昌壁まで千二百里、高昌壁から北へ後部の金満城まで五百里。これが西域の門戸であるため、戊己校尉が交互に駐屯した。伊吾の地は五穀、桑麻、葡萄に適している。その北にはまた柳中があり、いずれも肥沃な土地である。そのため漢は常に匈奴と車師、伊吾を争い、西域を制しようとした。
鄯善から葱嶺を越えて西の諸国に出るには、二つの道がある。南山の北に沿い、河のほとりを西へ行って莎車に至るのが南道である。南道は西へ葱嶺を越えると、大月氏、安息の国に出る。車師前王庭から北山に沿い、河のほとりを西へ行って疏勒に至るのが北道である。北道は西へ葱嶺を越えると、大宛、康居、奄蔡に出る。
玉門関を出て、鄯善、且末、精絶を経て三千余里で拘弥に至る。
拘弥国
拘弥国は寧弥城に都を置き、長史の居る柳中まで四千九百里、洛陽まで一万二千八百里である。戸数二千百七十三、人口七千二百五十一、兵士千七百六十人を領有する。
于窴国
于窴国は西城に都を置き、長史の居所まで五千三百里、洛陽まで一万一千七百里である。戸数三万二千、人口八万三千、兵士三万余人を領有する。
建武の末、莎車王の賢が強盛となり、于窴を攻めて併合し、その王の俞林を驪帰王として移した。明帝の永平年間、于窴の将の休莫霸が莎車に反旗を翻し、自ら于窴王と称した。休莫霸が死ぬと、兄の子の広徳が立ち、後に遂に莎車を滅ぼし、その国は次第に強盛となった。精絶から西北の疏勒に至る十三国は皆服従した。そして鄯善王もまた強盛となり始めた。これより南道において葱嶺以東では、ただこの二国が大国となった。
于窴から皮山を経て、西夜、子合、徳若に至る。
西夜国
西夜国は一名漂沙といい、洛陽まで一万四千四百里である。戸数二千五百、人口一万余、兵士三千人。地には白草が生え、毒があり、国人はこれを煎じて薬とし、矢じりに塗り、当たれば即死する。《漢書》では誤って西夜と子合を一国としているが、今はそれぞれ王を持つ。
子合国
子合国は呼鞬谷に都を置き、疏勒まで千里である。戸数三百五十、人口四千、兵士千人を領有する。
徳若国
徳若国は、戸百余りを領し、人口六百七十、兵士三百五十人を有する。東は長史の居る所まで三千五百三十里、洛陽まで一万二千一百五十里離れており、子合と境を接する。その風俗は皆同じである。
烏弋山離国
皮山から西南へ烏秅を経て懸度を渡り、罽賓を経て、六十余日行くと烏弋山離国に至る。その土地は数千里に及び、当時は排持と改名していた。(前書音義では鷃拏と音する。また「烏は一加反、秅は直加反と音し、急いで言うと鷃拏(反)のようになる」ともいう。)
さらに西南へ馬で百余日行くと条支に至る。
条支国
条支国の城は山上にあり、周囲四十余里である。西海に臨み、海水がその南と東北を曲がりくねって囲み、三方は道が絶え、ただ西北の隅だけが陸路に通じている。土地は暑く湿気が多く、獅子、犀牛、封牛、孔雀、大雀を産する。大雀の卵は甕のようである。
北へ向きを変えて東へ進み、さらに馬で六十余日行くと安息に至る。後に条支に服属し、そこに大将を置いて、諸々の小城を統治させた。
安息国
安息国は和櫝城に都を置き、洛陽から二万五千里離れている。北は康居と接し、南は烏弋山離と接する。土地は数千里に及び、小城は数百、戸口と兵士の数が最も豊かである。その東の境界にある木鹿城は、小安息と呼ばれ、洛陽から二万里離れている。
安息から西へ三千四百里行くと阿蠻国に至る。阿蠻から西へ三千六百里行くと斯賓国に至る。斯賓から南へ行き河を渡り、さらに西南へ九百六十里行くと于羅国に至る。ここが安息の西の境界の果てである。ここから南へ海を渡ると、大秦に通じる。その土地には海の西の珍奇な物産が多い。
大秦国
大秦国は、一名を犂鞬といい、海の西にあるため、海西国ともいう。土地は数千里に及び、四百余りの城がある。小国で服属しているものは数十ある。石で城郭を築く。郵亭を設置し、皆白土で塗り飾る(塈は飾る意、音は火既反。郭璞によれば「堊は白土、悪音」)。松柏などの木や百草がある。人々の風俗は田畑を耕すことに力を入れ、多く樹木や蚕桑を植える。皆髪を剃り、文様のある刺繍の衣服を着て、輜軿の白蓋の小車に乗り、出入りには鼓を打ち、旌旗幡幟を立てる。
居住する城邑は、周囲百余里である。城の中に五つの宮殿があり、それぞれ十里離れている。宮室は皆水晶を柱とし、食器も同様である。その王は毎日一つの宮殿を巡り、政務を聴き、五日で一巡する。常に一人に袋を持たせて王の車に随行させ、事を言おうとする者がいれば、すぐに書状を袋に投げ入れ、王が宮殿に着いてから開いて検討し、その是非曲直を処理する。それぞれに官曹と文書がある。三十六人の将軍を置き、皆で国事を会議する。その王には常に決まった人物はおらず、皆賢者を選んで立てる。国中に災異や風雨の不順があれば、すぐに廃して新たに立てる。放逐された者は甘んじて退けられても恨まない。その人民は皆背が高く端正で、中国に似ているため、大秦と呼ぶのである。
土地には金銀や珍しい宝物が多く、夜光の璧、明月の珠、駭鶏犀(枹朴子が言うには、「通天犀には一本の白い筋が糸のように通っているものがあり、それに米を入れて群鶏の中に置くと、鶏が米をついばもうとして近づいても、必ず驚いて退く。だから南方の人々はこれを『駭鶏』と呼ぶ」)、珊瑚、琥珀、瑠璃、琅玕、朱丹、青碧などがある。金糸で刺繍を施し、金糸を織り込んだ毛織物や雑色の綾を織り成す。黄金を塗ったものや火浣布を作る。また細布があり、あるいは水羊の柔毛、あるいは野蚕の繭で作ったものだという。各種の香を合わせ、その汁を煎じて蘇合香を作る。およそ外国の珍奇な物はすべてここから産出する。
金銀で貨幣を作り、銀貨十枚が金貨一枚に相当する。安息、天竺と海上で交易を行い、十倍の利益がある。その人々は質朴で正直であり、市場では二つの価格がない。穀物の価格は常に安く、国家の財用は豊かである。隣国からの使者がその国境の端に到着すると、駅伝で王都まで行き、到着すると金銭が支給される。その王は常に漢と使者を通じようとしたが、安息が漢の絹織物と大秦と交易しようとしたため、遮られて(閡は音が五代反。)自ら通じることができなかった。桓帝の延熹九年に至り、大秦王安敦が使者を日南の境外から遣わして象牙、犀角、玳瑁を献上し、ようやく一通りの交流が始まった。その上表して貢いだものは、珍しいものは何もなく、伝える者が誇張したのではないかと疑われる。
あるいはその国の西に弱水、流沙があり、西王母の住む所に近く、ほとんど日の入る所に近いという。《漢書》に「条支から西へ二百余日行くと、日の入る所に近い」とあるが、これは今の書物とは異なる。前代の漢の使者は皆烏弋から引き返しており、条支に至った者はない。また「安息から陸路で海を北に回り、海の西に出て大秦に至ると、人家が連なり、十里ごとに亭、三十里ごとに置(置は駅のこと)があり、ついに盗賊や敵の警報はない。しかし道には猛虎や獅子が多く、旅人を遮って害をなす。百人余りでなければ、武器を持っていても、すぐに食い殺されてしまう」とも言う。また「数百里の飛橋があり、海の北を渡ることができる」とも言う。諸国で産する奇異な玉石などの物は、奇怪で多くは典拠に合わないので、記さない。(魚豢の『魏略』に曰く、「大秦国の風俗は多くの奇術・幻術があり、口から火を噴き、自ら縛り自ら解き、十二の玉を跳ねさせ、技巧は非常に巧妙である」。)
大月氏国
大月氏国は藍氏城に居住し、西は安息に接し、四十九日の行程、東は長史の居所まで六千五百三十七里、洛陽まで一万六千三百七十里である。戸数十万、人口四十万、戦える兵士十余万人。
初め、月氏は匈奴に滅ぼされ、そこで大夏に遷り、その国を休密、双靡、貴霜、肸頓、都密の五つの部の翕侯に分けた。後百余歳、貴霜翕侯の丘就卻が四つの翕侯を攻め滅ぼし、自ら王と称し、国号を貴霜とした。安息を侵し、高附の地を取った。また濮達、罽賓を滅ぼし、その国をことごとく所有した。丘就卻は八十余歳で死に、子の閻膏珍が代わって王となった。さらに天竺を滅ぼし、将一人を置いて監領させた。月氏はこの後、最も富み栄え、諸国はこれを称して皆貴霜王と言った。漢はその故号に基づき、大月氏と言うのである。
高附国
高附国は、大月氏の西南にあり、これも大国である。その風俗は天竺に似ており、弱く、服従させやすい。商売に長け、内には財が豊かである。所属は一定せず、天竺、罽賓、安息の三国が強ければこれを得、弱ければ失い、かつて月氏に属したことはない。《漢書》では五翕侯の一つとしているが、実態ではない。後に安息に属した。月氏が安息を破った時、初めて高附を得た。
天竺国
天竺国は、一名を身毒といい、月氏の東南数千里にある。風俗は月氏と同じだが、低湿で暑い。その国は大河に臨む。象に乗って戦う。その人々は月氏より弱く、浮屠(浮屠は即ち仏である)の道を修め、殺伐を好まず、それによって風俗となった。月氏、高附国より以西、南は西海に至り、東は磐起国に至るまで、皆身毒の地である。身毒には別の城が数百あり、城ごとに長を置く。別の国が数十あり、国ごとに王を置く。それぞれ少しずつ異なるが、皆身毒を名乗り、当時は皆月氏に属していた。月氏はその王を殺して将を置き、その人々を統治させた。土地からは象、犀、玳瑁、金、銀、銅、鉄、鉛、錫が産出し、西は大秦と通じ、大秦の珍物がある。また細布、良い毾㲪(毾の音は它闔反。㲪の音は登。『埤蒼』に曰く、「毛の敷物なり」。『釈名』に曰く、「これを大牀の前の小榻の上に敷き、それに登って牀に上るなり」)、各種の香、石蜜、胡椒、薑、黒塩がある。
世に伝えるところでは、明帝が夢に金人を見た。背が高く大きく、頂上に光明があった。群臣に問うた。ある者が言うには、「西方に神がおり、名を仏という。その形は丈六尺で黄金色である」。帝はそこで天竺に使者を遣わし、仏の道法を問い、ついに中国でその形象を図画した。楚王の劉英が初めてその術を信じ、中国ではこのためかなりその道を奉ずる者がいた。後に桓帝は神を好み、たびたび浮屠と老子を祀り、百姓も少しずつ奉ずる者がいて、後には次第に盛んになった。
東離国
東離国は沙奇城に居住し、天竺の東南三千余里にあり、大国である。その土地の気候、物産の種類は天竺と同じである。城を数十列ね、皆王を称する。大月氏がこれを討伐し、ついに臣従させた。男女ともに身長八尺であるが、臆病で弱い。象、駱駝に乗り、隣国と往来する。敵寇がある時は、象に乗って戦う。
栗戈国
栗戈国は、康居に属する。名馬、牛、羊、ブドウや多くの果物を産出し、その土地の水は良質であるため、特にブドウ酒が有名である。
厳国
厳国は、奄蔡の北に位置し、康居に属し、ネズミの皮を産出してこれに納める。
奄蔡国
奄蔡国は、名を改めて阿蘭聊国となり、地城に居住し、康居に属する。土地の気候は温和で、多くのマツや白草が生える。民俗と衣服は康居と同じである。
莎車国
莎車国は、西は蒲犁、無雷を経て大月氏に至り、東は洛陽から一万九百五十里離れている。
匈奴の単于は王莽の乱に乗じて西域をほぼ手中に収めたが、莎車王の延だけが最も強く、服属しようとしなかった。元帝の時、かつて侍子として長安で育ち、中国を慕い楽しみ、その典法も参考にした。常に諸子に命じて、代々漢王朝に仕え、背いてはならないと教えていた。天鳳五年、延が死去し、忠武王と諡され、子の康が代わって立った。
光武帝の初め、康は近隣諸国を率いて匈奴に抵抗し、故都護の官吏・兵士の妻子千余人を擁護し、河西に檄文を送って中国の動静を問い、自ら漢王朝を思慕していると述べた。建武五年、河西大将軍の竇融は詔命を受けて康を漢の莎車建功懐徳王、西域大都尉に立て、五十五国がすべてこれに属した。
九年、康が死去し、宣成王と諡された。弟の賢が代わって立ち、拘弥国と西夜国を攻め破り、いずれもその王を殺し、兄の康の二人の子を拘弥王と西夜王に立てた。十四年、賢は鄯善王の安とともに使者を遣わして朝廷に貢物を献上し、ここに西域との通交が始まった。葱嶺以東の諸国はすべて賢に属した。十七年、賢は再び使者を遣わして貢物を献上し、都護を請うた。天子は大司空の竇融に意見を求めると、賢父子兄弟は代々漢に仕えることを約束し、誠意も十分であるから、称号と地位を与えて鎮撫すべきであると答えた。帝はその使者を通じて、賢に西域都護の印綬と車・旗・黄金・錦繡を賜った。敦煌太守の裴遵が上言した。「夷狄に大権を与えるべきではなく、また諸国を失望させます。」詔書により都護の印綬は回収され、代わりに賢に漢の大将軍の印綬を賜うことになった。その使者は交換を承知せず、裴遵が強制的に奪い取ったため、賢はここに恨みを抱くようになった。それでもなお大都護を詐称し、諸国に文書を送ると、諸国はすべて服属し、賢を単于と称した。賢は次第に驕慢横暴になり、賦税を重く求め、たびたび亀茲などの国を攻撃したため、諸国は憂い恐れた。
媯塞王は自国が遠いことを理由に、賢の使者を殺したため、賢はこれを攻め滅ぼし、その国の貴人である駟鞬を媯塞王に立てた。賢はまた自らの子の則羅を亀茲王に立てた。賢は則羅が年少であるため、亀茲を分割して烏壘国とし、駟鞬を烏壘王に移し、また別の貴人を媯塞王にした。数年後、亀茲国人は共に則羅と駟鞬を殺し、使者を匈奴に遣わして、改めて王を立てるよう請願した。匈奴は亀茲の貴人である身毒を亀茲王に立て、亀茲はこれにより匈奴に属した。
賢は大宛の貢納税が減少したため、自ら諸国の兵数万人を率いて大宛を攻め、大宛王の延留は迎えて降伏した。賢は彼を連れて帰国し、拘弥王の橋塞提を大宛王に移した。しかし康居がたびたびこれを攻撃したため、橋塞提は国にいて一年余りで逃亡して帰国し、賢は再び彼を拘弥王とし、延留を大宛に帰して、以前のように貢納させるようにした。賢はまた于窴王の俞林を驪帰王に移し、その弟の位侍を于窴王に立てた。一年余り後、賢は諸国が反乱を企てていると疑い、位侍と拘弥、姑墨、子合の王を召し出し、ことごとく殺し、もはや王を置かず、ただ将軍を派遣してその国を鎮守させた。位侍の子の戎は逃亡して漢に降り、守節侯に封ぜられた。
于窴の国相である蘇榆勒らは共に休莫霸の兄の子である広徳を王に立てた。匈奴と亀茲などの国は共に莎車を攻めたが、陥落させられなかった。広徳は莎車が疲弊しているのに乗じ、弟の輔国侯である仁に兵を率いて賢を攻めさせた。賢は連戦で疲弊し、使者を遣わして広徳と和睦した。以前、広徳の父が莎車に数年間拘束されていたが、この時賢はその父を返し、娘を娶わせて兄弟の契りを結び、広徳は兵を引き上げた。翌年、莎車の国相である且運らは賢の驕慢と暴虐を憂い、密かに城を裏切って于窴に降ることを謀った。于窴王の広徳は諸国の兵三万人を率いて莎車を攻めた。賢は城を守り、使者を遣わして広徳に言った。「私はお前の父を返し、娘を嫁がせたのに、お前はなぜ私を攻撃するのか。」広徳は言った。「王は私の舅です。長らく会っていません。どうかそれぞれ二人ずつ従えて城外で会い、盟約を結びましょう。」賢は且運に意見を求めると、且運は言った。「広徳は女婿であり、至親です。出て会うべきです。」賢は軽装で出て行くと、広徳は賢を捕らえた。そして且運らは内応して于窴兵を引き入れ、賢の妻子を捕虜とし、その国を併合した。賢を鎖につけて連れ帰り、一年余り後に殺した。
莎車の東北は疏勒に至る。
疏勒国
疏勒国は、長史の居所から五千里、洛陽から一万三百里の距離にある。戸数二万一千戸を領し、兵士三万余人を有する。
明帝の永平十六年、龜茲王の建が疏勒王の成を攻め殺し、自ら龜茲の左侯である兜題を疏勒王とした。冬、漢は軍司馬の班超を派遣して兜題を捕縛し、成の兄の子である忠を立てて疏勒王とした。忠は後に反乱を起こし、超がこれを撃ち斬った。事柄はすでに『超伝』に詳しい。
安帝の元初年間、疏勒王の安国は、舅の臣磐に罪があったため、月氏に移住させた。月氏王は彼を親愛した。後に安国が死に、子がなかったので、母が国政を執り、国人と共に臣磐の同母弟の子である遺腹を立てて疏勒王とした。臣磐はこれを聞き、月氏王に請うて言った。「安国には子がなく、一族は微弱です。もし母方の者を立てるならば、私は遺腹の叔父ですから、私が王となるべきです。」月氏はそこで兵を派遣して臣磐を疏勒に送り返した。国人はもともと臣磐を敬愛しており、また月氏を恐れていたので、すぐに共に遺腹から印綬を奪い、臣磐を迎えて王に立て、代わりに遺腹を磐稿城侯とした。後に莎車が于窴に連続して背いたため、疏勒に属し、疏勒は強盛となったので、龜茲・于窴と敵対する国となった。
東北は尉頭・温宿・姑墨・龜茲を経て焉耆に至る。
焉耆国
焉耆国は、王が南河城に居し、北は長史の居所から八百里、東は洛陽から八千二百里の距離にある。戸数一万五千戸、人口五万二千人、兵士二万余人を有する。その国は四方を大山に囲まれ、龜茲と連なり、道は険阻で守りやすい。海水が曲がりくねって四つの山の内側に入り込み、その城を取り囲んで三十余里に及んでいる。
蒲類国
蒲類国は、天山の西の疏榆谷に居し、東南は長史の居所から千二百九十里、洛陽から一万四百九十里の距離にある。戸数八百余戸、人口二千余人、兵士七百余人を有する。廬帳に住み、水草を追って移動し、やや農耕を知っている。牛・馬・駱駝・羊などの家畜がいる。弓矢を作ることができる。国は良馬を産出する。
蒲類はもともと大国であったが、以前、西域は匈奴に属しており、その王が単于に罪を得た。単于は怒り、蒲類の人々六千余口を移住させ、匈奴の右部の阿悪地に内属させたため、阿悪国と号した。南は車師後部から馬で九十余日の距離にある。人口は貧しく弱く、山谷の間に逃亡しているため、国として留まっているのである。
移支国
移支国は、蒲類の地に居住する。戸数は千余り、人口は三千余り、兵士は千余人である。その人々は勇猛で戦いを恐れず、略奪を事としている。皆、髪を振り乱し、家畜を追って水草を求め移動し、農耕を知らない。産出するものはすべて蒲類と同じである。
東且弥国
東且弥国は、東へ長史の居所から八百里、洛陽から九千二百五十里の距離にある。戸数は三千余り、人口は五千余り、兵士は二千余人である。廬帳に住み、水草を追って移動し、やや農耕を行う。その産出するものも蒲類と同じである。居住地は定まっていない。
車師前王は交河城に居住する。河川の水が分流して城を巡るため、交河と号する。長史の居所である柳中から八十里、東の洛陽から九千一百二十里の距離にある。管轄する戸数は千五百余り、人口は四千余り、兵士は二千人である。
後王は務涂谷に居住し、長史の居所から五百里、洛陽から九千六百二十里の距離にある。管轄する戸数は四千余り、人口は一万五千余り、兵士は三千余人である。
前部、後部および東且弥、卑陸、蒲類、移支、これが車師六国であり、北は匈奴と接し、前部の西は焉耆の北道に通じ、後部の西は烏孫に通じている。
論賛
論じて言う。西域の風土についての記載は、前代には未だ聞かなかったことである。漢代に張騫が遠方に至る謀略を抱き、班超が封侯を志して奮起し、ついに西方の遠方に功を立て、外域を服属させた。軍威によって畏怖させたものから、財貨によって懐柔したものまで、みな方物の珍品を献上し、愛する人質を差し出し、頭を露わにし肘をついて進み、東を向いて天子に朝貢した。そこで戊己の官を設け、その職務を分担させ、都護の帥を建て、その権限を総括させた。先に従順な者には賞として籯金と亀紐の印綬を賜い、後に服従した者には首を縛り北闕で血祭りにした。肥沃な野に屯田を設け、要害の路に郵駅を配置した。命令を伝える使者や駅伝は、時を絶えることなく往来し、商胡や販客は日々塞下に来訪した。その後、甘英は条支に至り安息を経て、西海に臨んで大秦を望み、玉門、陽関から四方万余里にわたり、周到に尽くしたのである。その境域の習俗や性質・知恵の優劣、産物や物類の区分、山川や要害の根源、気候の寒暑の隔たり、山を梯のように登り谷に桟道をかけ、縄で渡り砂を越える道、身熱や頭痛、風災や鬼難の域に至るまで、その状況をことごとく書き記し、その根拠や実態を詳しく求めた。仏道の神妙な教化については、身毒から興ったが、両漢の地誌にはこれを称えるものはない。張騫はただ土地が暑湿が多く、象に乗って戦うと記しただけで、班勇は彼らが浮屠を奉じ、殺伐を好まないことを列挙したが、精妙な教義や善き法、導き通達する功績については、伝え述べるところがなかった。私は後世の説から聞くところでは、その国は中土よりも豊かで、玉燭のように気候が温和である。霊聖が降臨し集い、賢明な人材が輩出し、神跡や奇怪な事象は人間の世界の理を超え、感応や験しは明らかに天外の事柄である。それなのに張騫や班超が聞かなかったのは、はたしてその道が往時の運に閉ざされ、末世に数が開かれたからであろうか。そうでなければ、なぜ異説をでたらめに言うことがこれほど甚だしいのか。漢では楚王劉英から斎戒の祭祀が盛んになり始め、桓帝はまた華蓋の飾りを整えた。微かな教義がまだ翻訳されず、ただ神明として祀ったのであろうか。その心を清め煩累を解く教え、空と有をともに遣わす宗旨を詳しく見れば、道書の流れである。また仁を好み殺生を憎み、弊害を除き善を尊ぶので、賢達の君子は多くその法を愛好した。しかし大言壮語して経典に依らず、奇怪で際限がない。たとえ鄒衍の天についての弁論や、荘周の蝸牛の角の論議をもってしても、まだその万分之一をも概括することはできない。また精霊の生起と滅亡、因果応報が相次ぐ。もし明らかなようでいて暗いものであるなら、博識な人も多く惑うのである。およそ俗を導くには一定の方法がなく、物に適応するには機会が異なり、同じ帰結に至る点を取って、疑わしい説を措いておけば、大道は通ずるのである。
賛して言う。遠いかな西胡、天の外の区域。土地の産物は珍しく麗しく、人の性質は放縦で虚ろである。華夏の礼に従わず、典籍の書もない。もし神道が微かでなければ、何を憂い何を拘ることがあろうか。
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