後漢書

巻七・帝紀第七 孝桓皇帝

 

桓帝

孝桓皇帝のいみなは志である。〈『謚法』に「敵を克ち遠きを服すを桓と曰う」とある。志のあざなは意という。〉

彼は粛宗の曾孫である。祖父は河間孝王の開、父は蠡吾侯の翼である。〈順帝の時、開が上書し、蠡吾県を分けて翼に封じることを願い出た。帝はこれを許した。蠡吾の故城は現在の瀛州博野県の西にある。蠡の音は礼。〉

母は匽氏である。〈諱は明。もとは蠡吾侯の媵妾であった。『史記』によれば、匽姓は咎繇の後裔である。匽の音は偃。〉

翼が卒去すると、帝は爵位を襲い侯となった。

本初

本初元年

梁太后が帝を夏門亭に召し寄せた。〈洛陽城の北面西頭門であり、門外に万寿亭がある。〉

自分の妹を妻として娶らせようとした。〈妻の音は七計反。〉

ちょうど質帝が崩御したため、太后は兄の大将軍梁冀と宮中で策を定め、閏月庚寅の日、梁冀に節を持たせ、王青蓋車で〈『続漢志』に「皇太子・皇子は皆安車に乗り、朱班輪、青蓋、金華蚤を用いる」とある。ゆえに王青蓋車という。〉

帝を迎えて南宮に入れ、その日に皇帝の位に即かせた。この時、年齢は十五歳であった。太后はなおも朝政に臨んだ。〈『東観記』に「太后は却非殿に御した」とある。〉

秋七月乙卯、孝質皇帝を静陵に葬る。

斉王喜が薨去する。

辛巳、高廟と光武廟に謁見する。

丙戌、詔を下して言う。「孝廉と廉吏は皆、城を治め民を治め、奸を禁じ善を挙げるべきであり、教化を興す根本は、常に必ずこれによるものである。詔書を連続して下すが、明らかで懇切であるのに、各地で慣れ親しんでしまい、ついに怠慢に至り、選挙が誤り、民衆に害が及んでいる。近頃はかなり正そうとしているが、まだ懲戒と改めには至っていない。今、淮夷がまだ滅びず、軍師がしばしば出撃している。

それぞれが守るべき職務を明らかにし、その後の様子を見守るであろう。」

九月戊戌、皇祖の河間孝王を追尊して孝穆皇とし、夫人趙氏を孝穆皇后とし、皇考の蠡吾侯を追尊して孝崇皇とする。冬十月甲午、皇母の匽氏を尊んで孝崇博園貴人とする。

建和

建和元年

春正月辛亥朔、日食があった。三公、九卿、校尉に詔して、それぞれ得失を述べさせる。

戊午、天下に大赦を行う。官吏には労績一年分を賜う。男子には爵位を、人ごとに二級、父の後継ぎおよび三老、孝悌、力田には人ごとに三級を賜う。鰥、寡、孤、独、篤癃、貧しく自活できない者には粟を、人ごとに五こくを賜う。貞婦には帛を、人ごとに三匹を賜う。災害による損傷が十分の四以上の所は、田租を収めない。それ以下の所は、実情に応じて免除する。

二月、荊州と揚州の二州で多くの人が餓死したため、四府の掾を派遣して分かれて行き、救済物資を与える。

沛国が、黄龍が譙に現れたと報告する。

夏四月庚寅、京師で地震があった。大将軍、公、卿、校尉に詔して、賢良方正、直言極諫できる者をそれぞれ一人挙げるよう命じる。また、列侯、将、大夫、御史、謁者、千石、六百石、

博士、議郎、郎官に命じて、それぞれ封事を上奏し、得失を指摘陳述させる。

また、大将軍、公、卿、郡、国に詔して、至孝で篤実な行いの士をそれぞれ一人挙げるよう命じる。

壬辰の日、詔を下して州郡に長吏を脅迫し追い立てることを禁じた。長吏が賄賂三十万銭以上を不正に得ても糾弾しない者は、刺史や二千石の官は、見逃し及び回避の罪に問われる。もし勝手に印綬を貸し与える者がいれば、殺人と同じ罪として市で処刑するものとする。

丙午の日、詔を下して郡国に収監されている囚人の死罪を一等減じ、笞打ちを免除した。ただし謀反や大逆の罪はこの詔書の適用外とする。また詔して言うには、「陵墓の造営が始まって以来、

長い年月が経ち、労役の規模は広がり、囚人や隷属民の労苦は特に甚だしい。近頃は雨の恵みがなく、濃い雲もまた散ってしまう。ひょっとするとその原因はここにあるのかもしれない。

囚人で陵墓の造営に従事している者の刑期をそれぞれ六月減ずるようにせよ。」

この月、阜陵王劉代の兄である勃遒亭侯劉便を阜陵王に立てた。

六つの郡国で地割れが起こり、水が湧き出し、井戸の水が溢れた。

芝草が中黄蔵府に生えた。

六月、太尉胡広が罷免され、大司農杜喬が太尉となった。

秋七月、勃海王劉鴻が薨去した。

帝の弟である蠡吾侯劉悝を勃海王に立てた。

乙未の日、皇后梁氏を立てた。

九月丁卯の日、京師で地震があった。

太尉杜喬が免官され、冬十月、司徒趙戒が太尉となった。

司空袁湯が司徒となり、前太尉胡広が司空となった。

十一月、済陰郡から巳氏において五色の大鳥が現れたと報告があった。

戊午の日、天下の死罪を一等減じ、辺境に戍守させた。

清河の劉文が反乱を起こし、国相の射暠を殺害し、清河王の劉蒜を天子に立てようとした。事が発覚して誅殺された。劉蒜は連座して尉氏侯に貶され、桂陽に移され、自殺した。

前太尉の李固と杜喬はともに獄に下され、死んだ。

陳留の盗賊の李堅が皇帝を自称し、誅殺された。

二年春正月甲子、皇帝は元服の礼を行った。庚午、大赦を天下に施行した。河間王と勃海王の二王に黄金をそれぞれ百斤賜った。

彭城王など諸国の王にはそれぞれ五十斤を賜った。

公主、大将軍、三公、特進、侯、中二千石、二千石、将、大夫、郎吏、従官、四姓および梁氏・鄧氏の小侯、諸夫人以下には帛を、それぞれ差等を設けて賜った。八十歳以上には米・酒・肉を賜い、九十歳以上にはさらに帛二匹、綿三斤を加賜した。

三月戊辰、帝は皇太后に従い、大将軍梁冀の府に幸した。

白馬羌が広漢属国を寇し、長吏を殺害した。益州刺史が板楯蛮を率いて討ち破った。

夏四月丙子、帝の弟の劉顧を平原王に封じ、孝崇皇の祭祀を奉じさせた。孝崇皇の夫人馬氏を孝崇園貴人として尊んだ。

嘉禾が大司農の帑蔵に生えた。

五月癸丑、北宮の掖廷中の徳陽殿および左掖門が火災に遭い、車駕は南宮に移り幸した。

六月、清河を甘陵と改称し、安平王の子で経侯の劉理を甘陵王に立てた。

秋七月、京師に大水が起こった。河東から木の連理が報告された。

冬十月、長平の陳景が自ら「黄帝子」と号し、官属を置き、また南頓の管伯も「真人」と称し、ともに挙兵を図ったが、ことごとく誅殺された。

三年の春三月甲申、彭城王劉定が薨去した。

夏四月丁卯の晦、日食があった。

五月乙亥、詔を下して言った。「天が民を生み、互いに治めることができないので、君主を立てて司牧させると聞く。君主の道が下に得られれば、吉祥が上に顕れる。諸事がその秩序を失えば、災いの兆しが天象に現れる。

近頃、日食により太陽が欠け、陽光が暗くなった。朕は畏れ慎み、ひそかに思いを巡らし、安座する暇もない。

伝に言わないか、『日食の時は徳を修め、月食の時は刑を修める』と。

昔、孝章皇帝は前世の禁錮や流刑を憐れみ、建初元年には皆が恩沢を蒙り、流刑者は故郡に帰還させられ、没官された者は庶民に免じられた。先帝の徳政を、努めないことがあろうか!永建元年から

今年に至るまで、

すべての妖悪な罪で、支族や親族が連座した者、および吏民で死刑を減じて辺境に流された者は、皆本郡に帰す。ただし没官された者はこの令に従わない。」

六月庚子、大将軍、三公、特進、侯に詔し、卿、校尉と共に賢良方正、直言極諫できる士を各一人挙げるよう命じた。

乙卯、憲陵の寝屋に落雷があった。秋七月庚申、廉県に肉のようなものが降った。

八月乙丑、天市に彗星すいせいが現れた。

京師で大水害があった。九月己卯、地震があった。庚寅、また地震があった。詔して死罪以下および逃亡者の贖罪を許し、それぞれ差等を設けた。郡国で五つの山が崩壊した。

冬十月、太尉趙戒が免官された。司徒袁湯が太尉となり、大司農河内の張歆が司徒となった。

十一月甲申、詔を下して言った。「朕が摂政して中道を失い、災害が相次ぎ、三光が明るくなく、陰陽が順序を誤っている。寝ても覚めても嘆き、病が頭を悩ますようだ。

今、京師の下賤な住居では、死者が互いに枕を並べ、

郡県の道路のあちこちに、死体が放置されているのは、周の文王が遺骸を埋葬した精神に甚だ反する。家族がいて貧しく葬ることができない者には、費用として一人につき三千銭、喪主には布三匹を与える。親族のいない者は、官有の余剰地に埋葬することを許す。

墓碑に姓名を記し、祠を設けて祭祀を行う。また、刑徒として労役場にいる者で、病気の者には医薬を施し、死亡した者は手厚く埋葬する。自力で生活できず、流浪する者には、規定に従って穀物を支給する。州郡は監察し、恩恵を施すことに努め、我が民を安寧ならしめよ。」

和平

和平元年

春正月甲子、大赦天下を行い、元号を和平に改める。

己丑、詔を下して言う。「かつて家に不幸が訪れ、先帝が早く世を去られた。

永く大宗の重責を思い、後継ぎの幸せを深く考え、宰相や補佐役に諮問し、占いの兆しを調べた。既に賢明な君主を立て、統治の業を定め、天と人とが調和し、万国がことごとく平穏となった。元服も済み、まさに政務を委ねようとしたところ、四方に盗賊が起こり、まだ完全には鎮静していなかったため、政務を引き続き執ることを延長し、安寧を待った。幸いにも股肱の臣が外敵を防ぐ助けにより、残党は消滅し、

民は和し年は豊かで、天下の隅々まで、遠近を問わず和合している。遠くは『復子明辟』の義を鑑み、

近くは先のしゅうとめが政権を返上した先例を慕い、

今この良き日に、皇帝が親政を行う。公卿や士人たちよ、その職務に忠実に、心を一つにして力を合わせ、断金の和を保つよう努めよ。

『誠に大いなる成就』こそが、望むところである。」

二月、扶風の妖賊裴優が皇帝を自称し、誅殺された。

甲寅、皇太后梁氏が崩御。

三月、帝の車駕は北宮に移り行幸。

甲午、順烈皇后を葬る。

夏五月庚辰の日、博園匽貴人を尊び孝崇皇后と称した。

秋七月、梓潼山が崩壊した。

冬十一月辛巳の日、天下の死罪を一等減じ、辺境への戍守に移した。

元嘉

元嘉元年

春正月、京師に疫病が流行し、光禄大夫に医薬を持たせて巡視させた。

癸酉の日、大赦を天下に施行し、元号を元嘉に改めた。

二月、九江・廬江で大規模な疫病が発生した。

甲午の日、河間王劉建が薨去した。夏四月己丑の日、安平王劉得が薨去した。

京師は旱魃に見舞われた。任城・梁国では飢饉が発生し、人々が互いに食い合う事態となった。

司徒の張歆が罷免され、光禄勲の呉雄が司徒となった。

秋七月、武陵の蛮族が反乱を起こした。

冬十月、司空の胡広が罷免された。

十一月辛巳の日、京師で地震が発生した。

閏月庚午の日、任城王劉崇が薨去した。太常の黄瓊が司空となった。

二年春正月、西城長史王敬が于窴国によって殺害された。

丙辰、京師で地震があった。

夏四月甲寅、孝崇皇后匽氏が崩御した。庚午、常山王劉豹が薨去した。五月辛卯、孝崇皇后を博陵に葬った。

秋七月庚辰、日食があった。八月、済陰郡で句陽に黄龍が現れたと報告された。

金城郡で允街に黄龍が現れたと報告された。

冬十月乙亥、京師で地震があった。

十一月、司空の黄瓊が免官された。十二月、特進の趙戒が司空となった。

右北平太守の和旻が収賄の罪で下獄し、死んだ。

永興

永興元年

春二月、張掖郡で白鹿が現れたと報告された。

三月丁亥、鴻池に行幸した。

夏五月丙申、大赦を施行し、元号を永興と改めた。

丁酉、済南王劉広が薨去し、子がなかったため、封国は除かれた。

秋七月、三十二の郡国で蝗害こうがいが発生した。黄河が氾濫した。百姓は飢え窮し、路上に流離する者が数十万戸に及び、特に冀州が甚だしかった。詔を下して、現地で困窮している者に食糧を与え、生業に安住するよう慰撫させた。

冬十月、太尉の袁湯が免官され、太常の胡廣が太尉となった。司徒の呉雄が罷免され、司空の趙戒が免官された。太僕の黄瓊を司徒とし、光禄勲の房植を司空とした。

十一月丁丑、詔を下して天下の死罪を一等減じ、辺境に移して戍守させた。

この年、武陵太守の応奉が叛いた蛮族を招き誘い、降伏させた。

二年春正月甲午、天下に大赦を行った。

二月辛丑、初めて刺史・二千石が三年の喪服を行うことを許可した。

癸卯、京師で地震があった。詔して公・卿・校尉に賢良方正・直言極諫できる者を各一人ずつ挙げるよう命じた。詔に言う。「近頃星辰が誤って運行し、地の霊が震動し、災異が降ることは、必ず空しく起こるものではない。自らを戒め政事を修め、補いとなることを望む。車輿・服飾の制度で奢侈を越え長く飾るものは、皆、減らし省くべきである。

郡県は倹約を旨とし、旧令を明らかにし、永平の故事の如くせよ。」

六月、彭城の泗水が増水して逆流した。

詔して司隷校尉・部刺史に言う。「蝗害が害となり、水の変異がなおも至り、五穀が実らず、人々に蓄えがない。被害を受けた郡国に命じて蕪菁を植えさせ、人々の食を助けよ。」

京師に蝗が発生した。東海の朐山が崩れた。

九月丁卯朔、日食があった。詔して言う。「朝政が中正を失い、雲漢が旱魃をもたらし、

川の霊が水を涌き出させ、蝗や螽斯が繁殖し蔓延り、我が百穀を損ない、太陽が光を欠き、飢饉が重なって至る。被害を受けなかった郡県は、飢えた者のために蓄えをなすべきである。天下は一家であり、糜爛しないよう努めることが国宝である。郡国に酒を売ることを禁じ、祠祀は必要な分だけに留めよ。」

太尉の胡廣が免官され、司徒の黄瓊が太尉となった。閏月、光禄勲の尹頌が司徒となった。

天下の死罪を一等減じ、辺境に移して戍守させた。

蜀郡の李伯が宗室を詐称し、「太初皇帝」に立つべきであるとし、誅殺された。

冬十一月甲辰、上林苑で狩猟を検閲し、ついに関谷関に至り、通過した道傍の九十歳以上の者にそれぞれ差等を設けて銭を賜った。

太山・琅邪の賊公孫挙らが反乱を起こし、長吏を殺害した。

永寿

永寿元年

春正月戊申、天下に大赦を行い、元号を永寿と改めた。

二月、司隷・冀州で飢饉が発生し、人々が互いに食い合った。

州郡に命じて貧弱な者を救済させた。もし王侯や吏民で穀物を蓄積している者がいる場合は、すべてその十分の三を貸し出させ、

それを貸し付けの助けとさせた。百姓や吏民の場合は、現銭で雇い賃を支払わせた。

王侯は新たな租税が入るのを待って償還させることとした。

夏四月、白い烏が斉国に現れた。

六月、洛水が氾濫し、鴻徳苑を損壊した。

南陽で大水害が発生した。

司空の房植が免官となり、太常の韓縯が司空となった。

詔を下し、太山・琅邪で賊に遭った者は租・賦を徴収せず、更役・算賦を三年間免除するとした。また詔を下し、水害で死亡し流失した屍骸については、郡県に命じて探し求め収葬させた。また、水害で押し流され溺死した者で、七歳以上の者には一人あたり二千銭を賜った。家屋が損壊し、穀物を失い、特に貧しい者には一人あたり二斛を支給した。

巴郡・益州郡で山崩れが発生した。

秋七月、初めて太山・琅邪の都尉官を置いた。

南匈奴の左臺・且渠伯德らが反乱を起こし、美稷を寇掠した。

安定属国都尉の張奐がこれを討伐し平定した。

二年春正月、初めて中官が三年の喪に服することを許した。

二月甲申、東海王劉臻が薨去した。

三月、蜀郡属国の夷が反乱を起こした。

秋七月、鮮卑が雲中を寇掠した。太山の賊公孫挙らが青州・兗州・徐州を寇掠した。中郎将の段熲を派遣して討伐し、これを撃破して斬った。

冬十一月、太官右監丞の官を置いた。

十二月、京師で地震があった。

三年春正月己未、天下に大赦を行った。

夏四月、九真の蛮夷が反乱を起こし、太守の兒式がこれを討伐したが、戦死した。九真都尉の魏朗を派遣してこれを撃破した。賊は再び日南に拠点を置いて占拠した。

閏月庚辰晦、日食があった。

六月、初めて小黄門を以て守宮令とし、冗従右僕射の官を置いた。

京師に蝗害があった。秋七月、河東で地割れが起こった。

冬十一月、司徒の尹頌が薨去した。

長沙の蛮族が反乱を起こし、益陽を侵した。

司空の韓縯が司徒となり、太常の北海の孫朗が司空となった。

延熹

延熹元年

春三月己酉、初めて鴻徳苑令を設置した。

夏五月己酉、公卿以下を大いに集めて会合し、それぞれ差をつけて賞賜を与えた。

甲戌晦、日食があった。都では蝗が発生した。

六月戊寅、大赦を天下に施行し、元号を延熹と改めた。

丙戌、中山を分割して博陵郡を設置し、孝崇皇の園陵を奉祀させた。

大雩の祭りを行った。

秋七月己巳、雲陽で地割れが起こった。

甲子、太尉の黄瓊が免官となり、太常の胡広が太尉となった。

冬十月、広成で狩猟の検閲を行い、そのまま上林苑に行幸した。

十二月、鮮卑が辺境を侵したため、匈奴中郎将の張奐に命じて南単于を率いさせてこれを撃破した。

二年春二月、鮮卑が雁門を侵した。

己亥の日、阜陵王劉便が薨去した。

蜀郡の夷が蠶陵を寇し、県令を殺害した。

三月、刺史・二千石の三年喪の執行を再び断った。

夏、京師に雨水があった。

六月、鮮卑が遼東を寇した。

秋七月、初めて顯陽苑を造営し、丞を置いた。

丙午の日、皇后梁氏が崩御した。乙丑の日、懿獻皇后を懿陵に葬った。

大将軍梁冀が乱を謀った。八月丁丑の日、帝は前殿に御し、詔を下して司隷校尉張彪に兵を率いさせて梁冀の邸宅を包囲させ、大将軍の印綬を没収した。梁冀は妻と共に自殺した。衛尉梁淑、河南尹梁胤、屯騎校尉梁讓、越騎校尉梁忠、長水校尉梁戟ら、および内外の宗親数十人、皆誅殺された。太尉胡広は連座して免官された。司徒韓縯、司空孫朗は獄に下された。

壬午の日、皇后鄧氏を立て、懿陵を追廃して貴人の冢とした。詔して言った。「梁冀は奸暴で、王室を濁乱した。孝質皇帝は聡明で早くから成熟していたが、梁冀は心に忌み畏れるところがあり、ひそかに殺害を実行した。永楽太后は親として尊く、比べる者がない。

梁冀はまたこれを阻み絶ち、京師への帰還を禁じた。

朕に母子の愛を離れさせ、養育の恩を隔てさせた。禍害は深く大きく、罪の兆しは日々増した。宗廟の霊頼み、および中常侍単超、徐璜、具瑗、左悺、

唐衡、尚書令尹勲らが激憤して策を建て、内外協同し、わずかの間に、桀逆の徒を梟夷した。

これは誠に社稷の祐け、臣下の力であり、慶賞を班らし、忠勲に酬いるべきである。超ら五人を県侯に、勲ら七人を亭侯に封ずる。」

これにより、旧故の恩私により、多くが封爵を受けた。

大司農黄瓊が太尉となり、光禄大夫中山の祝恬が司徒となった。

大鴻臚の梁国の盛允が司空となった。(允の字は伯代。)

初めて秘書監の官を置いた。(漢官儀によると、「秘書監一人、秩六百石」である。)

冬十月壬申、長安に行幸した。乙酉、未央宮に幸した。甲午、高廟を祀った。十一月庚子、ついに十一陵に祭祀を行った。

壬寅、中常侍の単超が車騎将軍となった。

十二月己巳、長安から帰還し、長安の民には粟を一人あたり十斛、園陵の人には五斛、行幸の際に通過した県には三斛を賜った。

焼当など八種の羌が反乱し、隴右を侵した。護羌校尉の段熲が羅亭で追撃し、これを破った。(『東観記』によると、積石山まで追撃し、羅亭に近い。現在の鄯州である。)

天竺国が来朝して貢物を献上した。

三年春正月丙申、天下に大赦を行った。

丙午、車騎将軍の単超が薨去した。

閏月、焼何羌が反乱し、張掖を侵した。護羌校尉の段熲が積石で追撃し、これを大破した。(積石山は現在の鄯州龍支県の南にあり、『禹貢』に「河を導き積石に至る」とあるのがこれである。)

白馬県令の李雲が直言諫諫した罪で、獄に下され死んだ。

夏四月、上郡で甘露が降ったと報告があった。五月甲戌、漢中で山が崩れた。

六月辛丑、司徒の祝恬が薨去した。秋七月、司空の盛允が司徒となり、太常の虞放が司空となった。(放の字は子仲、陳留の人である。)

長沙の蛮が郡の境界を侵した。

九月、泰山・琅邪の賊の労丙らが再び反乱し、百姓を略奪した。御史中丞の趙某(史書に名が欠けている)を派遣した。

節を持って州郡を監督し、これを討伐した。

丁亥の日、詔を下して、事のない官は一時的に俸禄を停止し、豊年には元通りとする。

冬十一月、日南の蛮賊が衆を率いて郡に赴き降伏した。

勒姐羌が允街を包囲した。(勒姐は羌の号である。姐は子野反と読む。)

段熲がこれを撃破した。

太山の賊、叔孫無忌が都尉の侯章を攻め殺した。十二月、中郎将の宗資を派遣してこれを討ち破った。

武陵の蛮が江陵を寇掠し、車騎将軍の馮緄が討伐し、皆降伏・散亡した。荊州刺史の度尚が長沙の蛮を討ち、これを平定した。

四年春正月辛酉、南宮の嘉徳殿が火災に遭った。戊子、丙署が火災に遭った。(丙署は署名である。《続漢志》によると、「丙署長七人、秩四百石、黄綬、宦者がこれに任じ、中宮の別処を主る」という。)

大きな疫病が流行した。二月壬辰、武庫が火災に遭った。

司徒の盛允が免官され、大司農の种暠が司徒となった。三月、冗従右僕射の官を廃止した。(永寿三年に設置された。)

太尉の黄瓊が免官された。夏四月、太常の劉矩が太尉となった。

甲寅、河間王劉開の子の劉博を任城王に封じた。

五月辛酉、星が心宿で彗星のように見えた。丁卯、原陵の長寿門が火災に遭った。己卯、京師に雹が降った。(《東観記》には鶏卵の大きさとある。《続漢志》には、「誅殺が過差で、小人を寵愛した」ためとある。)

六月、京兆、扶風および涼州で地震があった。庚子、岱山および博の尤来山がともに崩れ裂けた。(博は現在の博城県である。太山に徂来山があり、一名を尤来という。)

己酉、天下に大赦を行った。

司空の虞放が免官となり、前太尉の黄瓊が司空となった。

犍為属国の夷が百姓を略奪し、益州刺史の山昱がこれを撃破した。

零吾羌が先零の諸種族とともに反乱を起こし、三輔を侵犯した。

秋七月、京師で雨乞いの祭祀を行った。

公卿以下の俸禄を減らし、王侯の租税を半減させた。関内侯、虎賁、羽林、緹騎営士、五大夫の官爵を売り出し、それぞれ差額のある銭を納めさせた。

九月、司空の黄瓊が免官となり、大鴻臚の劉寵が司空となった。

冬十月、天竺国が来朝して貢物を献上した。

南陽の黄武と襄城の惠得、昆陽の楽季が妖言を流して互いに官職を自称したが、皆誅殺された。

先零沈氐羌と諸種の羌が并州と涼州の二州を侵犯し、十一月、中郎将の皇甫規がこれを撃破した。

十二月、夫余王が使者を遣わして来朝し貢物を献上した。

五年春正月、太官右監丞を廃止した。

壬午の日、南宮の丙署で火災が発生した。

三月、沈氐羌が張掖、酒泉を侵犯した。

壬午の日、済北王の劉次が薨去した。

夏四月、長沙で賊が蜂起ほうきし、桂陽、蒼梧を侵犯した。

驚いた馬や逸走した象が宮殿に突入した。乙丑の日、恭陵の東闕が火災に見舞われた。

戊辰の日、虎賁掖門が火災に見舞われた。己巳の日、太学の西門が自然に崩壊した。五月、康陵の園寑が火災に見舞われた。

長沙、零陵で賊が蜂起し、桂陽、蒼梧、南海、交阯を攻撃した。御史中丞の盛脩を派遣して州郡を監督させ討伐させたが、平定できなかった。

乙亥の日、京師で地震が発生した。詔を下して公卿たちにそれぞれ封事を上奏させた。甲申の日、中蔵府承祿署が火災に見舞われた。秋七月己未の日、南宮承善闥が火災に見舞われた。

鳥吾羌が漢陽、隴西、金城を寇掠し、諸郡の兵がこれを討ち破った。

八月庚子の日、詔を下して、虎賁、羽林のうち、寺に留まって任務に就いていない者の俸給を半減し、冬衣を与えないこととした。

公卿以下の者には冬衣の半分を給与することとした。

艾県の賊が長沙郡県を焼き払い、益陽を寇掠し、県令を殺害した。

また、零陵の蛮も反乱し、長沙を寇掠した。

己卯の日、琅邪都尉の官を廃止した。

冬十月、武陵の蛮が反乱し、江陵を寇掠した。南郡太守の李肅は敗走した罪で棄市に処せられた。辛丑の日、太常の馮緄を車騎将軍に任じてこれを討伐させた。公卿以下の俸給を一時的に徴発した。また、王侯の租税を軍糧援助に充てるため換算し、濯龍の中蔵銭を支出して返済した。十一月、馮緄が武陵で反乱した蛮を大破した。

京兆虎牙都尉の宗謙が収賄の罪で獄に下され、死んだ。

滇那羌が武威、張掖、酒泉を寇掠した。

太尉の劉矩が免官され、太常の楊秉が太尉となった。

六年春二月戊午の日、司徒の种暠が薨去した。

三月戊戌の日、天下に大赦を行った。

衛尉の潁川郡の許栩が司徒となった。

夏四月辛亥の日、康陵の東署が火災に遭った。

五月、鮮卑が遼東属国を侵犯した。

秋七月甲申の日、平陵の園寑が火災に遭った。

桂陽の盗賊の李研らが郡の境界を侵犯した。

武陵の蛮が再び反乱し、太守の陳奉がこれと戦い、大いに打ち破って降伏させた。

隴西太守の孫羌が滇那羌を討伐し、これを撃破した。

八月、車騎将軍の馮緄が免官となった。

冬十月丙辰の日、広成で校猟を行い、ついで函谷関と上林苑に行幸した。

十一月、司空の劉寵が免官となった。

南海の賊が郡の境界を侵犯した。

十二月、衛尉の周景が司空となった。

七年春正月庚寅の日、沛王の劉栄が薨去した。

三月癸亥の日、鄠に隕石が落ちた。

夏四月丙寅、梁王劉成が薨去した。

五月己丑、京師に雹が降った。

秋七月辛卯、趙王劉乾が薨去した。

野王の山の上に死んだ龍があった。

荊州刺史の度尚が零陵・桂陽の盗賊および蛮夷を討ち、大いに撃破して平定した。

冬十月壬寅、南へ巡狩に出た。庚申、章陵に行幸し、旧宅を祠り、園廟で祭祀を行い、守令以下にそれぞれ差等を設けて賜物を与えた。戊辰、雲夢に行幸し、漢水に臨んだ。帰途、新野に行幸し、湖陽公主・新野長公主・魯哀王・寿張敬侯の廟を祠った。

護羌校尉の段熲が当煎羌を討ち、これを破った。

十二月辛丑、車駕が宮中に帰還した。

八年春正月、中常侍の左悺を苦県に派遣し、老子を祠った。

勃海王の劉悝が謀反を企てたため、癭陶王に降格された。

丙申の晦、日食があった。詔を下して公・卿・校尉に賢良方正を推挙させた。

己酉、南宮の嘉徳署に黄龍が現れた。千秋万歳殿で火災があった。

太僕の左称が罪を犯し、自殺した。

癸亥、皇后の鄧氏が廃された。河南尹の鄧万世、

虎賁中郎将の鄧会が獄に下され、死んだ。

護羌校尉の段熲が䍐姐羌を討ち、これを破った。

三月辛巳の日、天下に大赦を行った。

夏四月甲寅の日、安陵園の寢殿が火災に遭った。

丁巳の日、郡国にある諸々の房祀を壊した。

済陰、東郡、済北において黄河の水が澄んだ。

五月壬申の日、太山都尉の官を廃止した。

丙戌の日、太尉の楊秉が薨去した。

丙辰の日、緱氏で地割れが起こった。

桂陽の胡蘭、朱蓋らが再び反乱を起こし、郡県を攻め落とし、転じて零陵を侵した。零陵太守の陳球がこれを防いだ。中郎将の度尚、長沙太守の抗徐らを派遣して胡蘭、朱蓋を討ち、大いに破って斬った。

蒼梧太守の張叙が賊に捕らえられ、また桂陽太守の任胤が敵に背き臆病であったため、いずれも棄市に処せられた。

閏月甲午の日、南宮の長秋と和歡殿の後ろの鉤楯、掖庭、朔平署が火災に遭った。

六月、段熲が湟中において当煎羌を討ち、大いにこれを破った。

秋七月、太中大夫の陳蕃が太尉となった。

八月戊辰の日、初めて郡国で田地を持つ者に畝ごとに税銭を徴収することを命じた。

九月丁未の日、京師で地震が起こった。

冬十月、司空の周景が免官され、太常の劉茂が司空となった。(茂は字を叔盛といい、彭城の人である。)

辛巳の日、貴人の竇氏を立てて皇后とした。

勃海の妖賊蓋登ら(蓋は音が古盍の反切)

「太上皇帝」と称し、玉印・珪・璧・鉄券を持ち、互いに官職を任命し、皆誅殺された。(『続漢書』によると、「この時、蓋登らは玉印五つを持ち、皆白石のようで、文は『皇帝信璽』『皇帝行璽』とあり、その三つには文字がなかった。璧二十二、珪五、鉄券十一。王廟を開き、王綬を帯び、絳衣こういを着て、互いに官職を任命した」という。)

十一月壬子、徳陽殿の西閤と黄門北寺が火災に遭い、広義門・神虎門に延焼し、人を焼き殺した。(広義・神虎は洛陽宮の西門で、金商門の外にある。袁山松の『書』によると、「この時は連月の火災で、諸宮寺では一日に二、三度発生することもあった。また夜にはデマが流れ、太鼓を打ち鳴らして互いに驚き合った。陳蕃らが上疏して諫めて『善政のみがこれを止められる』と言ったが、上奏文は省みられなかった」という。)

中常侍の管覇を苦県に派遣し、老子を祀らせた。

九年春正月辛亥の朔、日食があった。詔を下して公・卿・校尉・郡国に至孝を推挙させた。

沛国の戴異が黄金印を得たが文字がなく、そこで広陵人の龍尚らと共に井戸を祭り、符書を作り、「太上皇」と称し、誅殺された。(『東観記』によると、「戴異が田を鋤いていて金印を得て、広陵に行って龍尚に与えた」という。)

己酉の日、詔を下した。「近年は収穫がなく、民は多く飢え窮し、また水害・旱害・疫病の苦しみがある。盗賊が徴発され、南州は特に甚だしい。(長沙・桂陽・零陵などの郡を指し、いずれも荊州に属する。)

災異や日食が、譴責の警告として累々と至っている。政の乱れは私にあり、なおも咎の徴候を得ている。大司農に命じて今年の調度の徴求を停止し、また前年の調で未完了のものは、再び収取・責務としないこと。災害・旱害・盗賊のある郡では租を収めず、その他の郡は全て半額を納入せよ。」

三月癸巳、京師に火の光が転行し、人々は互いに驚き騒いだ。

司隷・豫州では飢え死者が十の四、五に及び、戸が滅びるものさえあり、三府の掾を派遣して救済の穀物を与えた。

陳留太守の韋毅が贓罪により自殺した。

夏四月、済陰・東郡・済北・平原で黄河の水が清くなった。

司徒の許栩が免官された。五月、太常の胡広が司徒となった。

六月、南匈奴および烏桓、鮮卑が辺境の九郡を侵した。

秋七月、沈氐羌が武威、張掖を侵した。詔を下して武猛を推挙させ、三公はそれぞれ二人、卿、校尉はそれぞれ一人を挙げた。

太尉陳蕃が免官された。

庚午、濯龍宮において黄老を祀った。

使者として匈奴中郎将張奐を派遣し、南匈奴、烏桓、鮮卑を討伐させた。

九月、光禄勲周景が太尉となった。

南陽太守成瑨、太原太守劉質が、ともに讒言により棄市の刑に処せられた。

司空劉茂が免官された。

大秦国王が使者を派遣して貢物を献上した。

冬十二月、洛陽城の傍らの竹と柏が枯れた。

光禄勲汝南の宣酆が司空となった。

南匈奴、烏桓が兵を率いて張奐のもとに降伏した。

司隷校尉李膺ら二百余人が誣告されて党人とされ、ともに罪に坐して獄に下され、名簿が王府に記録された。

永康

永康元年

春正月、先零羌が三輔を侵し、中郎将張奐がこれを撃破して平定した。当煎羌が武威を侵したので、護羌校尉段熲が鸞鳥で追撃し、これを大破した。

西羌はすべて平定された。

夫余王が玄菟を侵したので、太守公孫域が戦い、これを破った。

夏四月、先零羌が三輔を侵した。

五月丙申、京師および上党で地割れが起こった。

廬江で賊が蜂起し、郡の境界を侵した。

壬子晦、日食があった。公・卿・校尉に詔して賢良方正を推挙させた。

六月庚申、天下に大赦を行い、党錮をすべて解除し、元号を永康と改めた。

丙寅、阜陵王劉統が薨去した。

秋八月、魏郡から嘉禾が生じ、甘露が降ったと報告があった。巴郡から黄龍が現れたと報告があった。

六州で大水害が起こり、勃海で海が溢れた。詔して州郡に溺死者で七歳以上の者には一人あたり二千銭を賜い、一家全員が被害に遭った者はすべて収殮させ、穀物を失った者には一人あたり三斛を支給した。

冬十月、先零羌が三輔を侵したので、使匈奴中郎将張奐を派遣してこれを撃破させた。

十一月、西河から白い兎が現れたと報告があった。

十二月壬申、癭陶王劉悝を再び勃海王とした。

丁丑、帝は徳陽前殿で崩御した。三十六歳であった。戊寅、皇后を尊んで皇太后とし、太后が臨朝した。この年、博陵・河間の二郡を復活させ、豊・沛と同等の扱いとした。

論賛

論じて言う。前史は桓帝が音楽を好み、琴や笙をよくしたと称えている。

芳林を飾り、濯龍の宮を成し、

華蓋を設けて浮屠と老子を祀った。

これはまさに『神に聴く』というものだろうか。

梁冀を誅殺し、威怒を奮い起こした時、天下はなおその休息を待ち望んだ。しかし五邪が虐政を継ぎ、四方に流布した。

忠賢でなければ、力を争って繰り返し奸鋒を折ることはなかったであろう。

たとえ斟に依り彘に流されることを望んでも、もはや得られなかったであろう。

賛に曰く、桓帝は宗族の支流から出て、順序を飛び越えて帝位に昇った。

政権は五人の佞臣に移り、刑罰は三つの冤罪事件に濫用された。

後宮の美女は積もるほどにいたが、皇帝自身には後継ぎが生まれなかった。