長冠は、一に齋冠と言い、高さ七寸、幅三寸、漆を塗った纚を密に編んで作り、形は板のようで、竹を裏地とする。初め、高祖が微賤の時、竹の皮でこれを作り、劉氏冠と呼び、楚の冠の制である。民は鵲尾冠と呼ぶが、誤りである。宗廟や諸々の祭祀を行う時にはこれを冠する。皆、袀玄を着用し、(『獨斷』に「袀は紺色の繒である」とある。『吳都賦』の注に「袀は皁服である」とある。)領と袖に絳色の縁取りをつけた中衣を着け、絳色の袴と𥿉を履き、赤心をもって神に奉仕することを示す。五郊の祭祀では、衣と幘と袴と𥿉は各々その色に合わせる。この冠は高祖が造ったものであるため、祭服とし、尊敬の極みとしている。
委貌冠と皮弁冠は同じ形で、長さ七寸、高さ四寸、形は杯を伏せたようで、前が高く広く、後ろが低く尖っている。いわゆる夏の毋追、殷の章甫である。委貌は皁絹で作り、皮弁は鹿皮で作る。辟雍で大射礼を行う時、公卿諸侯大夫で礼を行う者は、委貌を冠し、玄端の衣に素の裳を着ける。(鄭衆の『周禮傳』に「衣に襦裳のあるものを端という」とある。鄭玄は「端というのは、その正しさを取るのである。正とは、士の衣である。袂は皆二尺二寸で幅いっぱいであり、これが広さと長さが等しいということである。その袪は一尺二寸である。大夫以上はこれを侈る。侈るとは、おそらく半ばにして一を加えることである。半ばにして一を加えれば、その袂は三尺三寸、袪は一尺八寸となる」と言う。)執事者は皮弁を冠し、緇麻衣を着け、袖口と襟は皁色、下は素の裳を着ける。いわゆる皮弁素積である。(皮弁は質素である。石渠論に玄冠朝服について。戴聖は「玄冠は委貌である。朝服は上が布で下が素、帯は緇帛、韋韠は素である」と言う。『白虎通』に「三王は共に皮弁素積を用いる。素積とは、素を積んで裳とし、腰の部分に辟積があることを言う」とある。)
爵弁は、一名を冕という。幅八寸、長さ一尺二寸、爵の形のようで、前が小さく後ろが大きく、その上を繒で覆い、爵の頭の色に似せ、収があり笄で留める。いわゆる夏の收、殷の冔である。(『獨斷』に「殷のものは黒くてわずかに白みがかり、前が大きく後ろが小さい。夏のものは純黒で、これも前が小さく後ろが大きい。皆、三十六升の漆布で作る。『詩』に『常に服す黼冔』とある。『書』に『王と大夫は皆弁を尽くす』とある。上古は皆布を用い、中古は絲を用いた。孔子は『麻冕は礼なり、今や純なり、儉なり』と言った」とある。)天地、五郊、明堂を祠る時、雲翹舞の楽人がこれを着用する。『禮』に「朱干玉鏚、(鄭玄は「朱干は赤い大盾である。鏚は斧である」と言う。)冕を戴きて大夏を舞う」とある。これがそれである。
通天冠は、高さ九寸、まっすぐに立ち、頂部が少し斜めに後退し、そのまま真っ直ぐ下がって鉄の卷梁となり、前に山があり、展筩が述となっている。乗輿が常に服用するものである。(『獨斷』に「漢は秦より受け継いだもので、礼に文がない」とある。)衣を着用する。深衣の制で、袍があり、五時の色に従う。袍とは、ある説では周公が成王を抱いて宴居したため、袍を施したという。『禮記』に「孔子は逢掖の衣を衣る」。縫掖とはその袖を、合わせて縫って大きくしたもので、今の袍に近い。今では下は賤しい更や小史に至るまで、皆、袍を通制とし、単衣、袖口と襟に皁色の縁取りをつけた中衣を着け、朝服とするという。
遠遊冠は、形は通天冠のようで、前に展筩が横たわっており、山述がない。諸王が服用するものである。(『獨斷』に「礼に文がない」とある。)
高山冠は、一に側注という。形は通天冠のようで、頂部が斜めに後退せず、まっすぐに立ち、山述と展筩がない。(『獨斷』に「鉄で卷梁とし、高さ九寸」とある。漢書音義に「その体は側立して曲がり注ぐ」とある。)中外官、謁者、僕射が服用する。太傅の胡廣が説いて言うには「高山冠は、おそらく齊王の冠である。秦が齊を滅ぼし、その君の冠を近臣の謁者に賜って服用させた」。(『史記』に酈生が初めて高祖に会った時、儒衣で側注を冠していたとある。『漢舊儀』に「乗輿は高山冠を冠し、飛月の纓、幘耳は赤く、丹紈の裏衣、帯に七尺の斬蛇劔、履は虎尾の絇履」とある。これを考えると、天子にも通じるものである。)
進賢冠は、古代の緇布冠であり、文官・儒者の服である。前の高さは七寸、後ろの高さは三寸、長さは八寸である。公侯は三梁冠を着用する。(胡廣が言うには、「天子の車駕が巡狩してその国に臨幸する場合、侯は玄端の衣を着て、九旒の冕を冠し、盛装の法服を着てその位に就く。現在、列侯で自ら朝請に奉じず、侍祠祭を行わない者は、これを着用することはできず、皆、通常の三梁冠と皁色の単衣を着用し、その帰国時には流黄衣と皁色のものを着るという。」晉の『公卿禮秩』には、「太傅、司空、司徒は進賢三梁冠を着け、黒い介幘をつける。」とある。)中二千石以下から博士までは両梁冠、博士以下から小史・私学弟子までは、皆、一梁冠である。宗室の劉氏も両梁冠を着用し、服を加えたことを示している。(『獨斷』には、「漢の制度では礼に明文がない。」とある。荀綽の『晉百官表注』には、「建光年間、尚書の陳忠が『令史の質堪が上言したところによれば、太官は両梁冠を着けるべきであるという。尚書の孟布が上奏したところでは、太官の職務は鼎俎にあり、陛位には列しない。質堪は太官を大夫の両梁冠に比せしめようとしているが、認めるべきではない。臣が考えるに、太官令の職務は王の饗宴を典掌し、六清の飲み物を統べ、八珍の饌を列ね、百品の羞を正し、四方の貢物を納めることにあり、奉ずるものは特に重く、用いる思慮もまた勤勉である。明詔は口実の御用を慎み、敗れることのある奸を防ぎ、その選任を増して崇めている。侍御史は捕案を主とし、太醫令は方薬を奉じて供養し、符節令は幡信と金虎を掌る。故にその位は大夫に従い、車には韜沂があり、冠には両梁があり、親疏を殊にし、内外を別つ所以である。太官令を供養の点から言えば、最も親近であり、職事の点から言えば、最も煩雑で多い。今また高く選ばれ、また執法として太醫令に比し、科は同じで服は等しいのに、冠だけが二人で異なり、名実が伴わない。また博士は秩が卑しいが、先王の訓を伝えるということで、尊んで異にし、大夫の冕を着けさせている。このことから考えれば、両梁冠は必ずしも陛位に列する者に限らない。建初年間、太官令は両梁冠を着けていた。春秋の義は、復古を大いなることとする。質堪の言うことが典に合うならば、施行することができる。帝心を満たすことができれば、即ちこれを用いることを聴け。」とある。」『獻帝起居注』には、「中平六年、三府の長史に両梁冠、五時の衣袍を着用させ、事位は千石・六百石に従う。」とある。)
法冠は、一つには柱後と呼ばれる。(『獨斷』には、「柱後惠文。」とある。)高さ五寸で、纚で展筩を作る。(『前書』の注には、「纚は、今の縰である。」とある。『通俗文』には、「幘の裏を纚という。」とある。)鉄の柱が巻かれている。(荀綽の『晉百官表注』には、「鉄柱は、その厳しく直で曲がらないことを言う。」とある。)執法者がこれを着用し、侍御史・廷尉正監平である。あるいはこれを獬豸冠と呼ぶ。獬豸は神羊で、曲直を区別することができ、楚王がかつてこれを獲たので、冠とした。(『異物志』には、「東北の荒れ地に獬豸という名の獣がおり、一角で、性質は忠実であり、人の闘いを見ると、直でない者を角で突き、人の議論を聞くと、正しくない者を噛む。楚の執法者が着用するものである。今の冠は両角であり、象ではない。」とある。臣の昭が言うには、あるいは獬豸は定まった名ではなく、両角では正しさを断じるには足りず、どうしてその豎飾を存し、両角を冠としないのか?)胡廣が説いて言うには、「『春秋左氏傳』に南冠をかぶって縛られた者がいるが、それは楚の冠である。秦が楚を滅ぼし、その君主の服を執法の近臣である御史に賜って着用させた。」
武冠は、(一つには古代の緇布冠の象であるという。あるいは繁冠という。)一つには武弁大冠と呼ばれ、諸武官がこれを冠する。(『晉公卿禮秩』には、「大司馬、將軍、尉、驃騎、車騎、衞軍、諸大將軍で開府し公に従う者は、武冠を着け、平上幘をつける。」とある。)侍中・中常侍は黄金の璫を加え、蝉を付けて文様とし、貂の尾で飾り、これを「趙惠文冠」と呼ぶ。(また鵔鸃冠とも名付ける。)胡廣が説いて言うには、「趙の武霊王が胡服をまね、金の璫で首を飾り、前に貂の尾を挿し、貴職とした。秦が趙を滅ぼし、その君主の冠を近臣に賜った。」(應劭の『漢官』には、「説く者は金は堅剛を取って、百錬しても消耗しないとする。蝉は高みに居て清らかに飲み、口は脇の下にある。貂は内に勁く捍ぎ、外は温潤である。」これは物に因って義を生じたものである。徐廣が言うには、「趙の武霊王の胡服にこれがあり、秦は趙を滅ぼしてこれを用いた。」という。説く者は蝉はその清高を取って、露を飲んで食わず、貂は紫蔚で柔潤であり、毛の采りは彰灼しないので、故に義においても取るのである。胡廣はまた言う、「北方は寒涼であるため、本来は貂皮で額を暖め、冠に付加して施したので、遂に首飾りに変わったという意味である。」)建武の時、匈奴が内属し、世祖が南単于に衣服を賜い、中常侍の惠文冠と中黄門童子の佩刀を用いたという。
建華冠は、鉄で柱卷を作り、大いなる銅珠九枚を貫き、制は縷鹿に似ている。(『獨斷』には、「その形状は婦人の縷鹿のようである。」とある。薛綜が言うには、「下の輪は大きく、上の輪は小さい。」と。)記には、「天を知る者は冠に述があり、地を知る者は履に絇がある。」とある。『春秋左傳』には、「鄭の子臧は鷸冠を好んだ。」とある。前が円く、これがそれであると考えられる。(『説文』には、「鷸は、天が雨を降らせようとするのを知る鳥である。」とある。)天地・五郊・明堂の祭りで、育命舞の楽人がこれを着用する。
方山冠は、進賢冠に似ており、五采の縠で作る。宗廟の祭祀で、大予・八佾・四時・五行の楽人がこれを着用し、冠と衣はそれぞれその行方の色に従い、それに合わせて舞う。
巧士冠は、高さ七寸で、後ろの腰の部分が通じ合っており、真っ直ぐに立っている。常には着用せず、郊天の時のみ、黄門の従官四人がこれを冠し、鹵簿の中で、乗輿車の前に次ぎ、宦者四星に備えるためである。(『獨斷』には、「礼に明文がない。」とある。)
却非冠は、制は長冠に似ており、下部が狭まっている。宮殿門の吏・僕射がこれを冠する。赤い幡を背負い、青い翅の燕尾があり、諸僕射の幡は皆これと同じである。(『獨斷』には、「礼に明文がない。」とある。)
却敵冠は、前の高さ四寸、通長四寸、後ろの高さ三寸で、制は進賢冠に似ており、衛士がこれを着用する。(『獨斷』には、「礼に明文がない。」とある。)
樊噲冠は、漢の将軍樊噲が造って臨時に冠し、項羽の軍に入ったものである。幅九寸、高さ七寸、前後にそれぞれ四寸突き出ており、制は冕に似ている。司馬殿門の大難の衛士がこれを着用する。あるいは、樊噲が常に鉄の楯を持ち、項羽が漢王を殺そうとしていると聞き、噲は裳を裂いて楯を包み、これを冠して軍門に入り、漢王の傍らに立ち、項羽を見たという。
術氏冠は、前が円く、呉の制で、差池邐迆として四重である。趙の武霊王が好んでこれを着用した。現在は用いられず、官にその図注がある。(『淮南子』には楚の荘王が着用した讎冠であるという。蔡邕が言うには、「その説は聞いたことがない。」と。)
諸冠には皆、纓と蕤があり、執事及び武吏は皆、纓を縮めて、五寸垂らす。
武冠は、俗に大冠と呼ばれ、環状の冠紐に飾り房はなく、青い組紐で縁取りをし、二本のヤマドリの尾羽を左右に立てて飾ったものを、ヤマドリ冠という。(《莊子》に「縵胡の纓、武士の服」とあるのがこれである。)五官中郎将、左右虎賁、羽林、五中郎将、羽林左右監は皆ヤマドリ冠を戴き、紗や穀の単衣を着る。虎賁将は虎の文様の袴、白虎の文様の剣と佩刀を帯びる。虎賁武騎は皆ヤマドリ冠、虎文様の単衣を着る。襄邑は毎年、織成の虎文様の布を献上したという。ヤマドリとは勇猛な雉のことで、闘う時は一方が死ぬまで止めないため、趙の武霊王が武士の象徴とし、秦がこれを用いた。(徐廣は「ヤマドリは黒い雉に似て、上党に出る」と言う。荀綽の《晉百官表注》には「冠に二本のヤマドリの羽を挿す。ヤマドリは猛禽の中で特に凶暴な鳥である。獲物を捕らえるたびに、爪に応じて粉砕する。天子の武騎がこれを用いるのはそのためである」とある。《傅玄賦》の注には「羽騎、騎兵はヤマドリの冠を戴く」とある。)
古くは冠はあっても幘はなく、頭に載せる時は、頍を加えて物を安定させた。故に詩に「頍ある者弁」とあるのは、これを言うのである。三代の世、法制は次第に整い、下って戦国時代には、文武の制度が併用された。秦が諸侯を制圧すると、その武将の頭飾りに絳色の袙を加え、貴賤を示した。その後、次第に顔題(額当て部分)が作られるようになった。漢が興ると、その顔題を継ぎ足し、後ろに折り返して、巾を施して題と連ね、後ろに覆いかぶせた。今の喪幘がその形である。これを幘と名付けた。幘とは賾(厳か)の意味で、頭首を厳かに整えるものである。孝文帝の時に至り、顔題を高くし、継ぎ足して耳(側面の覆い)とし、その巾を高くして屋根状にし、後ろを合わせて収(後ろの房)を施した。上下の群臣、貴賤を問わず皆これを着用した。文官は耳が長く、武官は耳が短く、それぞれの冠に合わせた。尚書の幘の収は、三寸四方で、納言と名付けられ、忠正を示し、近侍の職務を顕わした。迎気の五郊祭では、それぞれその方角の色に合わせ、章服に従った。皁衣の群吏は春に青幘を着用し、立夏で止めた。微気を助け順気を促し、その方角を尊ぶためである。武吏は常に赤幘を着用し、その威を成した。元服前の童子は屋根のない幘を着用し、成人していないことを示した。学問に入る幼い童子の幘は、句のように巻いた屋根があり、まだ幼く、遠くを覆う(成人の務めを負う)には至っていないことを示した。喪幘は後ろに折り返し、根本の礼に戻るのである。升(布の密度)の数は冠と同じで、冠と共にするのである。期服の喪では耳を立てて収があり、素幘も同様である。礼の軽重に制度があり、変除(喪服の軽減)は漸進的に行うのが、文(礼文)である。(《獨斷》に「幘は、古くは卑賤で執事に従い冠を戴かない者の着用するものであった。董仲舒の《止雨書》に『執事者は皆赤幘』とあることから、冠を戴かない者の着用するものと知れる。元帝は額に太い毛髪があり、人に見られたくないため、初めて幘を進めて着用し、群臣皆それに従った。しかし当時はまだ巾がなかったので、『王莽は禿げていたため、幘に屋根を施した』と言われる。進賢冠を戴く者は耳が長く、恵文冠を戴く者は耳が短いのが、それぞれ相応しい」とある。《漢舊儀》に「凡そ斎戒には紺幘、耕籍の礼には青幘、秋の貙劉(狩猟の儀)には緗幘を着用する」とある。)
古くは君臣ともに佩玉を帯び、尊卑に度合いがあった。上には韍があり、(徐廣は「韍は今の蔽膝のようなもの」と言う。)貴賤に区別があった。佩は、徳を顕わすもので、服の中心である。韍は、執事(政務)を行うためのもので、礼の共通の道具である。故に礼にはその度合いがあり、威儀の制度は、三代を通じて同じであった。五霸が代わる代わる興り、戦争が絶えず、佩は戦う道具ではなく、韍は軍旗ではないため、そこで韍と佩を取り去り、その係璲(佩紐の端の飾り)だけを残し、(徐廣は「今、璲を縌と呼ぶ」と言う。)これを章表(身分を示す標識)とした。故に《詩》に「鞙鞙たる佩璲」とあるのは、これを言うのである。(鞙鞙は佩玉の様子。璲は瑞玉。鄭玄の箋に「佩璲とは、瑞玉を以て佩とし、佩が鞙鞙としていること」とある。)韍と佩が既に廃されると、秦は彩色の組紐を璲に連結し、光り輝く章表とし、互いに結び受け渡すようにしたので、これを綬と呼んだ。漢は秦の制度を継承し、用いて改めず、故に双印と佩刀の飾りを加えた。孝明皇帝に至り、大佩を作り、衝牙と双瑀璜とし、皆白玉を用いた。(《詩》に「雑佩以て之に贈る」とある。毛萇は「珩・璜・琚・瑀、衝牙の類」と言う。《月令章句》に「佩の上には双衡、下には双璜があり、琚瑀を以て雑え、衝牙と蠙珠を以てその間を納める」とある。《玉藻》に「右は徴角、左は宮羽、進む時はこれを揖し、退く時はこれを揚げ、然る後に玉瑲鳴る」とある。《纂要》に「琚瑀は間を納めるためのもので、玉の間にある、今の白珠である」とある。)乗輿(天子)は白珠を連ねて垂らし、公卿諸侯は采絲(色糸)を用い、その玉は冕旒(冠の前後の玉の数)に準じ、祭服として用いた。
佩刀は、乗輿(天子)のものは黄金を全面に施し、貂の毛皮で錯(象嵌)し、半ば鮫皮の鱗文様とし、金漆で錯し、雌黄色の鞘、五色の毛織物で目立たぬように鞘を飾り華やかにする。諸侯王は黄金錯、環状の挿し口に半ば鮫皮、黒い鞘。公卿百官は皆純黒で、鮫皮は用いない。小黄門は雌黄色の鞘、中黄門は朱色の鞘、童子は皆虎の爪の文様、虎賁は黄色の鞘に虎の文様、その将は白虎の文様とし、皆白珠と鮫皮で𨭚口(刀身の根元の装飾部分)の飾りとした。(《通俗文》に「刀の鋒を𨭚という」とある。)乗輿のものは、さらに翡翠の山形飾りを加え、その側面に嬰(飾り紐)を垂らした。(《左傳》に「藻繂鞞鞛」とある。杜預は「鞞は佩刀の鞘の上の飾り。鞛は下の飾りである」と言う。鄭玄の《詩箋》に「既に爵命を賜り賞賜した上で、さらに容刀に飾りを加えて賜るのは、その制断する能力を顕わすためである」とある。《春秋繁露》に「劔が左にあるのは、青龍の象である。刀が右にあるのは、白虎の象である。韍が前にあるのは、朱鳥の象である。冠が首にあるのは、玄武の象である。この四者は、人の盛んな飾りである」とある。臣の昭が案ずるに、天子から庶人に至るまで、皆帯劔していた。劔と刀は、形制が異なり、名称もそれぞれ違う。故に蕭何が剣を履いて殿上に上がった時、刀とは称されなかった。しかしこの志(『続漢書』志)では劔に言及しておらず、備えが不十分のようである。)
双印を佩びる。長さ一寸二分、幅六分の方形。乗輿、諸侯王、公、列侯は白玉を用い、中二千石以下から四百石までは皆黒犀角、二百石から私学の弟子に至るまでは皆象牙を用いた。上は絲で合わせ、乗輿は縢(組紐)で白珠を貫き、赤い毛織物の飾り房を付けた。諸侯王以下は綔(太い糸)の赤絲に飾り房を付け、縢と綔はそれぞれその印の材質に合わせた。刻まれた文は次の通り。「正月剛卯既に決し、霊殳四方、赤青白黄、四色是に当たる。帝令して祝融に、以て夔龍を教え、庶疫剛癉、我を敢えて当たる莫し。疾日厳卯、帝令して夔に化せしめ、慎んで爾の周伏をし、茲の霊殳を化せ。既に正しく既に直く、既に觚しく既に方く、庶疫剛癉、我を敢えて当たる莫し」。合わせて六十六字である。(《前書》の注に「正月の卯の日に作る」とある。)
皇帝の乗輿(御車)は黄赤色の綬(組み紐)で、四色の糸を用い、黄・赤・縹(薄青)・紺(濃い青)からなり、純色の黄を主色とする圭(綬の先端の装飾)が付き、長さは二丈九尺九寸、五百首(糸の本数を表す単位)である。(《漢舊儀》によると、「璽(皇帝の印)はすべて白玉に螭虎(竜と虎)の鈕があり、文字は『皇帝行璽』、『皇帝之璽』、『皇帝信璽』、『天子行璽』、『天子之璽』、『天子信璽』の六璽がある。皇帝行璽は、諸侯王への封授や書簡の下賜に用いる。信璽は、兵を発し大臣を徴する時に用いる。天子行璽は、外国への策命(任命書授与)や天地鬼神の祭祀に用いる。璽はすべて武都の紫泥で封じ、青い袋に入れ白い絹で裏打ちし、両端は縫わず、一尺一寸の板に約束事を記して署名する。皇帝は綬を帯びるが、黄地に六色の文様で、璽は佩用しない。璽は金銀の縢組(飾り紐)で飾り、侍中が組(組紐)を負って従う。秦以前は民も皆綬を佩び、金・玉・銀・銅・犀角・象牙で方一寸の璽を作り、各自が好みに従って佩用した。璽書を奉じる使者は馳伝(駅伝馬車)に乗る。その驛騎(駅伝の騎手)は、三騎が交代で行き、昼夜千里を行程とする。」《吳書》によると、「漢室の乱の時、天子が北の河上に行幸したが、六璽は携行せず、璽を掌る者が井戸に投げ入れた。孫堅が北へ董卓を討伐した時、城南に軍を駐屯させた。官署に井戸があり、毎朝五色の気が井戸から出た。堅が人を浚わせて伝国璽を得た。その文字は『受命于天,旣壽永昌』であった。方囲四寸で、上に鈕の文様として五龍が盤き、瑨(玉の管)は七寸で、龍の一角が欠けていた。」《獻帝起居注》によると、「当時六璽は携行せず、帰還した時、閣上で発見した。」《晉陽秋》によると、「冉閔の大将軍蔣幹が伝国璽を河南太守戴施に託し、施がこれを献上すると、百官皆が祝賀した。璽は光が透き通り、上に蟠螭(うねる竜)の文様が浮き出ており、《書》に『昊天之命,皇帝壽昌』とある。秦の旧璽である。」徐廣は言う。「《傳國璽文》は『受天之命,皇帝壽昌』とある。」)
諸侯王は赤色の綬で、(徐廣によると、「太子及び諸王は金印、亀鈕、纁朱(浅黄に染めた朱)の綬である。」)四色の糸を用い、赤・黄・縹・紺からなり、純色の赤を主色とする圭が付き、長さは二丈一尺、三百首である。(荀綽《晉百官表注》によると、「皇太子は朱綬で、三百二十首である。」)
太皇太后、皇太后の綬は、いずれも乗輿と同じであり、皇后もまたこれに同じである。
長公主、天子の貴人で諸侯王と同じ綬を用いる者は、特別な加増がある。
諸国の貴人、相国は皆緑色の綬で、三色の糸を用い、緑・紫・紺からなり、純色の緑を主色とする圭が付き、長さは二丈一尺、二百四十首である。(《前書》によると、「相国、丞相は皆秦の官制で、金印紫綬である。高祖の相国は緑綬であった。」徐廣によると、「金印緑綟綬である。」綟は戾と読み、草の名である。これで染めると緑に似、また紫に似るとも言う。紫綬は緺綬と呼ばれ、緺は瓜と読み、その色は青紫である。綟の字はまた盭とも書き、音は同じであるが、伝写する者が誤って「縶」と書いた。公に殊礼を加える時は、皆これを服用する。何承天は言う。「緺は媧と読む。青紫色の綬である。綟は紫色である。」)
公、侯、将軍は紫色の綬で、二色の糸を用い、紫・白からなり、純色の紫を主色とする圭が付き、長さは一丈七尺、百八十首である。(《前書》によると、「太尉は金印紫綬である。御史大夫は位上卿で、銀印青綬であるが、成帝が大司空と改名し、金印紫綬とした。将軍もまた金印である。」《漢官儀》によると、「馬防が車騎将軍となった時、銀印青綬で、卿の上に位し、絶席(単独の席)であった。和帝が竇憲を車騎将軍とした時、初めて金紫を加え、司空の次位とした。」)
公主と封君(列侯に封じられた者)は紫色の綬を服用する。
九卿、中二千石、二千石は青色の綬で、三色の糸を用い、青・白・紅からなり、純色の青を主色とする圭が付き、長さは一丈七尺、百二十首である。(別名を青緺綬という。)青色の綬以上は、縌(綬を結ぶ紐)の長さは皆三尺二寸で、綬と同じ色の糸を用いるが、首数は半分である。縌とは、古の佩璲(佩玉の紐)である。佩と綬が互いに迎え受けるので、縌という。紫色の綬以上は、縌と綬の間に玉環鐍(玉の輪と留め金)を施すことができる。(《通俗文》によると、「環が欠けたものを鐍という。」《漢舊儀》によると「獄を断ずる者の印は章という」のである。)
千石、六百石は黒色の綬で、三色の糸を用い、青・赤・紺からなり、純色の青を主色とする圭が付き、長さは一丈六尺、八十首である。四百石、三百石の長さは同じである。(《漢官》によると、「尚書僕射は、銅印青綬である。」)
四百石、三百石、二百石は黄色の綬で、一色の糸を用い、純色の黄を主色とする圭が付き、長さは一丈五尺、六十首である。黒色の綬以下は、縌の長さは皆三尺で、綬と同じ色の糸を用いるが、首数は半分である。
百石は青紺色の綬で、一色の糸を用い、宛転繆織(ねじり織り)の圭が付き、長さは一丈二尺である。(丁孚《漢儀》に太僕、太中大夫襄の言を載せる。「乗輿の綬は、黄地に白羽を冒(覆い)とし、青・絳(深紅)・緑の五色で、四百首、長さ二丈三尺である。詔によって下賜される王の綬も、冒も五色で、上下に差はない。諸王の綬は四色で、絳地に白羽を冒とし、青・黄で縁を取り、二百六十首、長さ二丈一尺である。公主の綬は王と同じである。侯は、絳地に、紺・縹の三色で、百二十首、長さ一丈八尺である。二千石の綬は、羽青地に、桃華縹(桃色の薄青)の三色で、百二十首、長さ一丈八尺である。黒綬は、羽青地に、絳の二色で、八十首、長さ一丈七尺である。黄綬は一色で、八十首、長さ一丈七尺である。これを常式とする。民が綬を織る時、この式に従わないものは没収し、犯した者は不敬とする。二千石の綬以上は、民に粉組(飾り紐)で織ることを禁ずる。」皇太后の詔で許可され、王の綬は下賜された通りとした。)
太皇太后、皇太后の入廟服は、紺の上衣に皁の下衣、養蚕の服は、青の上衣に縹の下衣、皆深衣の制で、(徐広が曰く、「即ち単衣である。」)襟と袖口を隠して縁を絛で飾る。翦氂の蔮を被り、簪と珥を挿す。珥とは、耳璫に珠を垂らしたものである。簪は瑇瑁を擿とし、長さ一尺、先端を華勝とし、上に鳳凰爵を置き、翡翠で毛羽とし、下に白珠を垂らし、黄金の鑷を付ける。左右に一本ずつ横に簪を挿し、蔮の結び目を安定させる。諸々の簪珥は皆同じ制で、その擿に等級がある。
皇后の謁廟服は、紺の上衣に皁の下衣、養蚕の服は、青の上衣に縹の下衣、皆深衣の制で、襟と袖口を隠して縁を絛で飾る。仮結を結い、歩揺を挿し、簪と珥を挿す。歩揺は黄金で山題を作り、白珠を貫いて桂枝とし互いに繆わせ、一爵に九華、熊、虎、赤羆、天鹿、辟邪、南山豊大特の六獣を配し、詩に所謂「副笄六珈」というものである。(『毛詩伝』に曰く、「副とは、后夫人の首飾りで、髪を編んで作る。笄は衡笄である。珈は、笄飾りの最も盛んなもので、尊卑を区別するために用いる。」鄭玄が曰く、「珈とは加えるという意味である。副は既に笄を挿した上にさらに飾りを加えるもので、今の歩揺の上の飾りのようであるが、古い制度では未だ聞いたことがない。」)諸々の爵獣は皆翡翠で毛羽とする。金題に白珠の璫を巡らせ、翡翠で華とするという。
貴人の助蚕服は、純粋な縹色の上下で、深衣の制である。大手結を結い、墨瑇瑁を挿し、さらに簪と珥を加える。
長公主の会見衣服は、歩揺を加え、公主は大手結を結い、皆簪と珥があり、衣服の制は同じである。
公主封君以上は皆綬を帯び、采組で緄帯とし、各々その綬の色と同じとする。黄金の辟邪を首とし、帯鐍とし、白珠で飾る。
公、卿、列侯、中二千石、二千石の夫人は、紺色の繒の蔮を被り、黄金の龍首が白珠を銜み、魚須の擿、長さ一尺を簪珥とする。宗廟に入り祭祀を補佐する者は皁色の絹の上下、養蚕を助ける者は縹色の絹の上下を着用し、皆深衣の制で、縁を付ける。二千石夫人以上から皇后に至るまで、皆蚕衣を朝服とする。
公主、貴人、妃以上は、嫁娶の際に錦、綺、羅、縠、繒を着用することができ、十二色の采を用い、縁を二重にした袍とする。特進、列侯以上は錦繒を用い、十二色の采とする。六百石以上は練を重ね、九色の采を用い、丹、紫、紺を禁ずる。三百石以上は五色の采、青、絳、黄、紅、緑を用いる。二百石以上は四采、青、黄、紅、緑を用いる。商人は、緗と縹のみである。(『博物記』に曰く、「交州の南に虫がおり、長さ一寸弱で、形は白英に似て、その名を知らず、見ると無色であるが、陰地では多く緗色となり、すなわち赤黄色である。」)
凡そ冠衣諸服において、旒冕、長冠、委貌、皮弁、爵弁、建華、方山、巧士、衣裳の文繡、赤舄、服絇履、大佩は、皆祭服とし、その他は悉く常用の朝服とする。唯、長冠は、諸王国の謁者が常用の朝服とする。宗廟以下、祠祀には皆長冠を戴き、皁繒の袍単衣を着て、絳色の縁を付けた領袖の中衣、絳色の絝𥿉を履き、五郊では各々その色に従う。
賛に曰く、車輅は各々用いられ、旌旂は局を異にする。冠服は美を尽くし、佩は璽玉を飾る。敬敬として情に報い、尊尊として欲を下す。誰が華文を誇ろうか、豪奢で麗しい縟礼ではない。