後漢書

志第三十 輿服下

冕冠、長冠、委貌冠、皮弁冠、爵弁冠、通天冠、遠遊冠、高山冠、進賢冠、法冠、武冠、建華冠、方山冠、巧士冠、却非冠、却敵冠、樊噲冠、術氏冠、鶡冠、さく、佩、刀、印、黃赤綬、赤綬、綠綬、紫綬、青綬、黑綬、黃綬、青紺綸、后夫人服

 

上古の人々は洞穴に住み野原で暮らし、毛皮を衣とし皮を被り、制度はまだなかった。後世の聖人がこれを絹や麻に改め、雉や山鳥の文様、栄える華やかな色彩を見て、布帛を染めてこれを模倣し、初めて五色を作り、衣服として完成させた。鳥獣に冠や角、鬣や顎鬚の形があるのを見て、冠や冕、纓や蕤を作り、頭飾りとした。全部で十二章である。そこで『易

(易経の繋辞伝に)言う。「庖犧氏が天下を治めた時、上を見て天象を観察し、下を見て地の法則を観察し、鳥や獣の文様と、土地に適したものを観察し、近くは自らの身体から、遠くは万物から取って、ここに初めて八卦を作り、神明の徳を通じさせ、万物の情を類推した。」黄帝・堯・舜は衣服を垂れて天下を治めたが、これはおそらく乾卦と坤卦から取ったものである。乾と坤には文様があるので、上衣は黒、下裳は黄色とした。日月星辰、山・龍・華・虫(孔安国が『尚書』に注して言う。「華は草の花の形、虫は雉である」)

宗廟の彝器に絵を描き、〈《古文尚書》では「繢」を「會」と作る。孔安国が言うには、「五色の彩りでこの絵を成す」と。宗廟の彝樽もまた、山、龍、華蟲を飾りとする。〉

藻、火、粉、米の文様があり、〈孔安国が言うには、「藻は水草で文様のあるもの。火は火のあざなの形、粉は粟米のようであり、米は米を集めたようである」という。〉

斧形の模様と二つの己の字が背を向けた模様、精緻な葛布、五色を備えた刺繍(孔安国は言う。「黼は斧の形のようである。黻は二つの己の字が背を向け合ったものである。葛の精緻なものを絺という。五色を備えたものを繡という。」杜預が『左伝』に注して言う。「白と黒を黼といい、黒と青を黻という。」)

五色の彩りを五色に施して衣服を作った。

天子は十二章の服を備えた。

公爵は山の模様以下、侯爵・伯爵は華虫の模様以下、子爵・男爵は藻火の模様以下、卿・大夫は粉米の模様以下を用いた。周代に至ってこれを改め、三辰(日・月・星)を旗の模様とした。王が上帝を祭祀するときは、大裘を着て冕冠を戴いた。〈鄭衆が言うには、「大裘とは羔裘(子羊の皮衣)である。天を祀る際に着用し、質素であることを示す」という。〉

公・侯・卿・大夫の礼服は九章以下を用いる。

秦は戦国時代の後に天子の位に即き、礼学を滅ぼし去り、郊祀の服はすべて袀玄を用いた。漢は秦の旧制を継承した。世祖(光武帝)が践祚すると、土中(洛陽)に都し、初めて三雍を整え、七郊の兆域を正した。顕宗(明帝)はついに大業を成し遂げ、初めて旒冕を着用し、衣裳の文様を備え、赤舄と絇屨を用いて天地を祀り、三雍において三老五更を養老した。この時、治世は平穏に至った。

天子、三公、九卿、特進侯、侍祠侯が、天地と明堂を祭祀する際には、皆、旒冕を冠り、上衣は玄色、下裳は纁色の衣裳を着用した。

天子の乗輿の礼服には、日月星辰を含む十二章の文様を備え、三公と諸侯は山龍の九章、九卿以下は華蟲の七章を用い、いずれも五色の彩りを備え、大佩を佩き、赤い舄と絇履を履き、大祭を承けた。百官で執事に当たる者は、長冠を冠り、皆、礼服を着用した。

五岳、

四瀆、山川、宗廟、社稷など、秩禄を受ける諸々の祭祀では、皆、袀玄の長冠を着用し、五郊の祭祀ではそれぞれの方角の色に従った。百官で執事に当たらない者は、それぞれ常服の冠と袀玄を着用して従った。

冕冠は、旒を垂らし、前後に延びた覆いがある。

玉藻が飾られる。

孝明皇帝は、

永平二年に、

初めて有司に詔して、

『周官』、

『礼記』、

『尚書』の皐陶篇を参照させ、

天子の乗輿と服制については欧陽氏の説に従い、

公卿以下については大小夏侯氏の説に従わせた。

冕はいずれも幅七寸、長さ一尺二寸、前は円形、後ろは方形で、裏地は朱と緑、表面は玄色、前には四寸、後ろには三寸の旒を垂らし、白玉の珠を連ねて十二旒とし、その綬の彩色で組纓を作った。

三公と諸侯は七旒で、青玉を珠とする。卿と大夫は五旒で、黒玉を珠とする。〈《独断》には「三公諸侯は九旒、卿は七旒」とあり、これとは異なる。〉

いずれも前部はあるが後部はなく、それぞれその綬の彩色に合わせて組紐の冠紐とし、傍らに黄色の綿玉を垂らす。〈呂忱は「黈は黄色である。黄色の綿で作る」と言う。《礼緯》には「旒は目に垂れ、纊は耳を塞ぐ。王者は讒言を聞かず、非を視ないことを示す」とある。薛綜は「珩玉をもって充耳とする。《詩経》に『充耳琇瑩』とある。毛萇の《伝》に『充耳を瑱という。天子は玉の瑱を用いる。琇瑩は美石である。諸侯は石を用いる』とある」と言う。〉

天地を郊祀し、宗廟を祀り、明堂で祭祀を行うときには、この冠をかぶる。〈蔡邕は「俗人はこれを知らず、平天冠と呼ぶ」と言う。〉

衣裳と玉佩は章采を備え、天子の乗輿のものは刺繍、公侯九卿以下はすべて織成で、陳留郡の襄邑県がこれを献上したという。

長冠は、一つには斎冠ともいい、高さ七寸、幅三寸で、漆を塗った纚を密に編んで作り、形は板のようで、竹を裏地とする。初め、高祖が微賤の時、竹の皮でこれを作り、劉氏の冠と呼んだ。これは楚の冠の制である。民衆は鵲尾冠と呼ぶが、誤りである。宗廟や諸々の祭祀を行うときにはこれをかぶる。皆、袀玄の服を着る。〈《独断》には「袀は紺色の絹織物である」とある。《呉都賦》の注には「袀は黒い服である」とある。〉

縁と袖口が深紅色のものを中衣とし、深紅色の袴と脛衣を着け、赤心をもって神に奉仕することを示す。五郊の祭祀では、衣と幘と袴と脛衣はそれぞれその方角の色に合わせる。この冠は高祖が造ったものであるため、祭服とし、尊敬の極みとしている。

委貌冠と皮弁冠は同じ形で、長さ七寸、高さ四寸、形は杯を伏せたようで、前が高く広く、後ろが低く尖っている。いわゆる夏の毋追、殷の章甫である。委貌は黒い絹で作り、皮弁は鹿の皮で作る。辟雍で大射の礼を行うとき、礼を行う公卿諸侯大夫は、委貌冠をかぶり、玄端の上衣と白い下裳を着る。〈鄭衆の《周礼伝》に「衣に襦と裳のあるものを端という」とある。鄭玄は「端というのは、その正しさを取るのである。正とは、士の衣である。袂は皆二尺二寸で、布幅全体を使い、これが広さと長さが等しいのである。その袪は一尺二寸である。大夫以上はこれを侈る。侈るとは、おそらく半分増しにするのであろう。半分増しにすれば、その袂は三尺三寸、袪は一尺八寸となる」と言う。〉

執事者は皮弁冠をかぶり、黒い麻の衣を着て、袖口と襟は黒、下は白い裳を着る。いわゆる皮弁素積である。〈皮弁は質素である。石渠閣での議論で玄冠と朝服について。戴聖は「玄冠は委貌である。朝服は上が布で下が白、黒い帛の帯、白い革の蔽膝」と言う。《白虎通》には「三王は皆、皮弁と素積を用いる。素積とは、白い布を積み重ねて裳とし、腰の部分にひだを取ることを言う」とある。〉

爵弁は、一名を冕という。幅八寸、長さ一尺二寸で、爵の形のようで、前が小さく後ろが大きく、その上を絹で覆い、爵の頭の色に似せ、収めと笄がある。いわゆる夏の収、殷の冔である。〈《独断》には「殷のものは黒くてわずかに白みがかり、前が大きく後ろが小さい。夏のものは純黒で、やはり前が小さく後ろが大きい。いずれも三十六升の漆布で作る。《詩経》に『常に黼冔を服す』とある。《書経》に『王と大夫は皆、弁を着ける』とある。上古は皆布を用い、中古は絹を用いた。孔子は『麻の冕は礼であるが、今は純(絹)である。倹約である』と言う」とある。〉

天地・五郊・明堂を祭祀するとき、雲翹舞の楽人がこれを着用する。《礼》に「朱干と玉鏚、〈鄭玄は「朱干は赤い大盾である。鏚は斧である」と言う。〉

冕をかぶって大夏の舞を舞う」とある。これがそれである。

通天冠は、高さ九寸で、まっすぐに立ち、頂部が少し斜めに後退し、そのまま真下に鉄の巻梁があり、前に山形の飾りがあり、筒状に広がった部分が述となっている。天子が常に着用する服である。〈《独断》には「漢は秦から受け継いだもので、礼制に明文はない」とある。〉

服衣は、深衣の形で、袍があり、五時の色に従う。袍については、ある説では周公が成王を抱いて宴居したため、袍を施したのだという。《『礼記』

「孔子は逢掖の衣を着た」とある。縫掖とはその袖を縫い合わせて大きくしたもので、現代の袍に近い。現在では下は賤しい役人や小史に至るまで、皆が袍と単衣を通制とし、皁色の縁取りをした領袖の中衣を朝服としている。

遠遊冠は、通天冠と同じ形で、前に展筩を横たえ、山述がなく、諸王が着用する冠である。〈『独断』に「礼に文がない」とある。〉

高山冠は、別名を側注という。形は通天冠に似て、頂部が斜めに後退せず、真っ直ぐに立ち、山述と展筩がない。〈『独断』に「鉄で巻梁を作り、高さ九寸」とある。『漢書』音義に「その体が側立して曲がり注ぐ」とある。〉

中外官、謁者、僕射が着用する。太傅の胡広が説いて言うには、「高山冠は、おそらく斉王の冠である。秦が斉を滅ぼし、その君主の冠を近臣の謁者に賜って着用させた」。〈『史記』に酈生が初めて高祖に謁見した時、儒衣を着て側注の冠をかぶっていたとある。『漢旧儀』に「乗輿は高山冠をかぶり、飛月の纓、幘耳は赤色、丹紈の裏衣、七尺の斬蛇剣を帯び、虎尾絇の履を履く」とある。これによると天子にも通用したようである。〉

進賢冠は、古代の緇布冠であり、文儒の者の服である。前の高さ七寸、後ろの高さ三寸、長さ八寸。公侯は三梁。〈胡広曰く、「車駕が巡狩してその国に臨幸する場合、侯は玄端の衣を着、九旒の冕をかぶり、盛んな法服を着て位に就く。現在、列侯で自ら朝請に奉じず、侍祠祭を行わない者は、これを着用できず、皆、常に三梁冠と皁単衣を着用し、帰国すると流黄衣と皁を着る」。『晋公卿礼秩』に「太傅、司空、司徒は進賢三梁冠を着け、黒介幘をつける」とある。〉

中二千石以下から博士までは両梁。博士以下から小史、私学弟子までは皆一梁。宗室の劉氏も両梁冠をかぶり、服を加えたことを示す。〈『独断』に「漢制、礼に文がない」とある。荀綽『晋百官表注』に「建光年中、尚書の陳忠が『令史の質堪が上言して、太官は両梁を着けるべきだとし、尚書の孟布が奏上して、太官の職は鼎俎にあり、陛位に列しない。堪は大夫の両梁冠に比せしめようとしているが、許すべきではない。臣が考えるに、太官令の職は王の饔を典掌し、六清の飲を統べ、八珍の饔を列ね、百品の羞を正し、四方の貢を納めるもので、奉ずる所は特に重く、用いる思慮もまた勤めである。明詔は口実の御を慎み、敗の姦を防ぎ、その選を増崇する。侍御史は捕案を主とし、太醫令は方薬を奉じて供養し、符節令は幡信金虎を掌る。故に位は大夫に従い、車には韜沂があり、冠には両梁がある。これは親疏を殊にし、内外を別つためである。太官令は供養の点から言えば、最も親近であり、職事の点から言えば、最も煩多く、令はまた高選であり、また執法は太醫令に比し、科は同じく服は等しいのに、冠は二人で異なり、名実が副わない。また博士は秩が卑しいが、先王の訓を伝えるため、尊んで異にし、大夫の冕を着用させる。このように言えば、両梁冠は必ずしも陛位に列するとは限らない。建初中、太官令は両梁冠であった。春秋の義は、復古を大とする。堪の言が典に合えば、施行できる。帝心を厭うことができれば、即ちこれを用いることを聴く」とある。『献帝起居注』に「中平六年、三府長史に両梁冠、五時衣袍を令し、事位は千石、六百石に従う」とある。〉

法冠は、別名を柱後という。〈『独断』に「柱後惠文」とある。〉

高さ五寸で、纚で展筩を作る。〈『前書』注に「纚は今の縰である」とある。『通俗文』に「幘の裏を纚という」とある。〉

鉄柱卷。〈荀綽『晋百官表注』に「鉄柱は、その厲直で曲橈しないことを言う」とある。〉

執法者が着用する。侍御史、廷尉正監平である。あるいは獬豸冠とも呼ばれる。獬豸は神羊で、曲直を区別でき、楚王がかつてこれを獲たので、冠とした。〈『異物志』に「東北の荒れ地に獬豸という名の獣がおり、一角で、性質は忠実である。人の闘いを見ると、直でない者を角で突く。人の論議を聞くと、正しくない者を噛む。楚の執法者が着用するものである。現在の冠は両角で、象ではない」とある。臣の昭が言うには、あるいは獬豸は定まった名ではなく、両角では正しさを断じるには足りず、どうしてその豎飾を存せず、両を冠としないのか?〉

胡広が説いて言うには、「『春秋左氏伝』に南冠をかぶって縛られた者がいるとあるが、それは楚の冠である。秦が楚を滅ぼし、その君主の服を執法の近臣である御史に賜って着用させた」。

武冠。〈一説には古代の緇布冠の象である。あるいは繁冠ともいう。〉

一つは武弁大冠といい、諸武官がこれを冠した。

侍中と中常侍には黄金の璫を加え、蝉を付けて文様とし、貂の尾で飾り、これを「趙恵文冠」と呼んだ。

胡広は説明して言う。「趙の武霊王が胡服をまね、金の璫で頭を飾り、前に貂の尾を挿し、貴職とした。秦が趙を滅ぼし、その君主の冠を近臣に賜った。》

建武の時、匈奴が内属し、世祖は南単于に衣服を賜い、中常侍の恵文冠と中黄門童子の佩刀を用いたという。

建華冠は、鉄を柱の巻きとし、大銅珠九枚を貫き、形は縷鹿に似ている。

記に言う。「天を知る者は冠に述べ、地を知る者は履に絇す。》

春秋左伝

に言う。「鄭の子臧は鷸冠を好んだ。》前が円形で、これがそれであると考えられる。

天地、五郊、明堂の祭りで、育命舞の楽人がこれを着用した。

方山冠は、進賢冠に似て、五采の縠で作る。宗廟の祭祀、大予、八佾、四時、五行の楽人がこれを着用し、冠と衣はそれぞれその行の方角の色に合わせて舞う。

巧士冠は、高さ七寸、後ろがつながっており、まっすぐに立つ。常には着用せず、郊天の祭りの時のみ、黄門の従官四人がこれを冠し、鹵簿の中で、乗輿の車の前に次ぎ、宦者四星に備えるという。

却非冠は、形が長冠に似て、下部が狭い。宮殿の門吏と僕射がこれを冠した。赤い幡を背負い、青い翅と燕の尾があり、諸僕射の幡は皆これと同じである。

却敵冠は、前が四寸高く、全長四寸、後ろが三寸高く、形は進賢冠に似て、衛士がこれを着用した。

樊噲冠は、漢の将軍樊噲が急いで作って冠し、項羽の軍に入ったもの。幅九寸、高さ七寸、前後にそれぞれ四寸突き出ており、形は冕に似ている。司馬殿門の大難の衛士がこれを着用した。ある説では、樊噲は常に鉄の楯を持ち、項羽が漢王を殺そうとしていると聞き、噲は裳を裂いて楯を包み、これを冠して軍門に入り、漢王の傍らに立ち、項羽を見つめたという。

術氏冠は、前が円形で、呉の制、差池邐迆として四重になっている。趙の武霊王が好んでこれを着用した。今は用いられず、官にその図注がある。

すべての冠には纓と蕤があり、執事および武官の吏は皆、纓を縮めて五寸垂らす。

武冠は、俗に大冠と呼ばれ、環状の纓に蕤がなく、青い紐で縁取りをし、一対のヤマドリの尾羽を左右に立てて加えたものを、ヤマドリ冠という。(《荘子》に「縵胡の纓、武士の服」とあるのがこれである。)

五官中郎将、左右の虎賁、羽林、五中郎将、羽林左右監は皆、ヤマドリ冠をかぶり、紗や縠の単衣を着る。虎賁将は虎の文様の袴、白虎の文様の剣と佩刀を持つ。虎賁と武騎は皆、ヤマドリ冠をかぶり、虎の文様の単衣を着る。襄邑は毎年、織成の虎文様を献上するという。ヤマドリとは勇猛なキジのことで、その闘いは一方が死ぬまで止まないため、趙の武霊王が武士の表徴とし、秦がこれを用いた。(徐廣は「ヤマドリは黒いキジに似て、上党に出る」と言う。荀綽の《晋百官表注》には「冠に二羽のヤマドリを挿す。これは猛禽の中で暴れ者である。獲物を捕らえるたびに、爪に応じて敵を打ち砕く。天子の武騎がこれを用いる所以である」とある。《傅玄賦》の注に「羽騎、騎兵はヤマドリを戴く」とある。)

安帝が皇太子を立てた時、太子が高祖廟と世祖廟に謁見した際、門大夫が従い、両梁の進賢冠をかぶった。洗馬は高山冠をかぶった。廟を出た後、侍御史の任方が上奏して、乗輿に従わない時は皆、一梁の冠をかぶるべきで、常服とすべきではないと請うた。事は有司に下された。尚書の陳忠が奏上した。「門大夫の職は諫大夫の如く、洗馬の職は謁者の如し。故に皆、その服を着用するのは先帝以来の旧例である。任方の言は取り下げるべきである」。奏上は認可された。謁者は、古くは洗馬とも称した。(《古今注》に「建武十三年、初めて令・長に皆、小冠を着用させた」とある。《独断》に「公卿・侍中・尚書で皁衣で朝する者を朝臣という。諸営の校尉・将・大夫以下は朝臣ではない」とある。)

古くは冠はあっても幘はなく、それを戴く時、頭に頍を加えて物を安定させた。故に詩に「頍ある者弁」とあるのはこれを言う。三代の世、法制は次第に明らかになり、下って戦国時代には、文武の制度が併用された。秦が諸侯を雄とし、その武将の頭飾りに絳色の袙を加えて貴賤を表し、その後、次第に顔題を作った。漢が興ると、その顔題を継ぎ足し、後ろに折り返して、巾を施して題に連ね、後ろに覆った。今の喪幘がその制である。これを幘と名付ける。幘とは賾であり、頭首を厳かに整えるものである。孝文帝の時に至り、顔題を高くし、継ぎ足して耳とし、その巾を高くして屋根状にし、後ろを合わせて収を施し、上下の群臣、貴賤を問わず皆、これを着用した。文官は耳が長く、武官は耳が短く、それぞれの冠に合わせた。尚書の幘には収があり、方三寸で、納言と名付け、忠正を示し、近侍の職務を顕わにした。五郊で気を迎える時は、それぞれその色に従い、章服に合わせた。皁衣の群吏は春に青い幘を着用し、立夏で止めた。微気を助け気を順わせ、その方角を尊ぶためである。武官の吏は常に赤い幘を着け、その威を成した。元服前の童子は屋根のない幘を着け、成人していないことを示した。学問に入る小童の幘は句のように巻いて屋根状にし、まだ幼く、遠くを覆うには及ばないことを示した。喪幘は後ろに折り返し、根本の礼に返る。升の数は冠と同じで、冠と共にする。期服の喪では耳を立てて収があり、素幘も同様である。礼の軽重に制があり、変除は漸進的に行うのが文である。(《独断》に「幘は、古く卑賤で執事に従い冠を着けない者の着用するものである。董仲舒の《止雨書》に『執事者は皆、赤い幘を着ける』とあり、冠を着けない者の着用するものと知れる。元帝は額に太い髪があり、人に見られたくないため、初めて幘を進めて着用し、群臣皆それに従った。しかしまだ巾はなく、故に『王莽は禿げで、幘に屋根を施した』と言う。進賢冠をかぶる者は耳が長く、恵文冠をかぶる者は耳が短いのが適し、それぞれその宜しきに従う」とある。《漢旧儀》に「凡そ斎戒には紺色の幘、耕籍には青色の幘、秋の貙劉には緗色の幘を着用する」とある。)

古く君臣は佩玉を帯び、尊卑に度合いがあった。上には韍があり、

貴賤に区別があった。佩は徳を顕わすもので、服の中心である。韍は執事のためのもので、礼の共通のものである。故に礼にはその度合いがあり、威儀の制度は三代同じであった。五覇が次々に興り、戦争が絶えず、佩は戦う器ではなく、韍は軍旗ではないため、ここに韍と佩を解き去り、その係璲だけを残し、

これを章表とした。故に《詩》に「鞙鞙たる佩璲」とあるのはこれを言う。(鞙鞙は佩玉の様子。璲は瑞玉。鄭玄の箋に「佩璲とは、瑞玉をもって佩とし、佩けること鞙鞙然たり」とある。)

韍と佩が既に廃されると、秦は彩色の組紐で璲に連結し、光明を章表とし、転じて互いに結び受け、故にこれを綬と呼んだ。漢は秦の制度を継承し、用いて改めず、故に双印と佩刀の飾りを加えた。孝明皇帝に至り、大佩を作り、衝牙と双瑀璜とし、皆、白玉を用いた。(《詩》に「雑佩以て之に贈る」とある。毛萇は「珩・璜・琚・瑀、衝牙の類」と言う。《月令章句》に「佩の上に双衡あり、下に双璜あり、琚瑀以て之を雑え、衝牙と蠙珠以てその間を納る」とある。《玉藻》に「右は徴角、左は宮羽、進めば則ち之を揖し、退けば則ち之を揚げ、然る後に玉瑲鳴る」とある。《纂要》に「琚瑀は間を納れる所以にして、玉の間に在り、今の白珠なり」とある。)

乗輿は白珠で縁取りし、公卿諸侯は彩色の絲で縁取りし、その玉は冕旒に準じ、祭服とした。

佩刀は、乗輿では黄金を通体にし、貂の毛皮で錯らせ、半ばは鮫の魚鱗、金漆で錯らせ、雌黄の室、五色の毛織物で室を隠し華やかにする。諸侯王は黄金で錯らせ、環は半ば鮫、黒い室。公卿百官は皆、純黒で、半ば鮫ではない。小黄門は雌黄の室、中黄門は朱の室、童子は皆、虎の爪の文様、虎賁は黄の室に虎の文様、その将は白虎の文様とし、皆、白珠と鮫皮で𨭚口の飾りとした。(《通俗文》に「刀の鋒を𨭚という」とある。)

乗輿のものは、さらに翡翠の山を加え、その側に嬰を紆らす。(《左伝》に「藻繂鞞鞛」とある。杜預は「鞞は佩刀の削上の飾り。鞛は下の飾りなり」と言う。鄭玄の《詩箋》に「既に爵命賞賜し、而して加えて容刀に飾りを賜い、其の能く制断するを顕わすなり」とある。《春秋繁露》に「劔の左に在るは、青龍の象なり。刀の右に在るは、白虎の象なり。韍の前に在るは、朱鳥の象なり。冠の首に在るは、玄武の象なり。四者は、人の盛んなる飾りなり」とある。臣の昭が案ずるに、天子より庶人に至るまで、皆、劔を帯びる。劔と刀は形制が異なり、名称もそれぞれ違う。故に蕭何が劔履上殿し、刀と称されず、而してこの志は劔に言及せず、未備の如し。)

双印を佩び、長さ一寸二分、方六分。乗輿、諸侯王、公、列侯は白玉を用い、中二千石以下から四百石までは皆、黒犀を用い、二百石から私学の弟子に至るまでは皆、象牙を用いる。上は絲で合わせ、乗輿は縢で白珠を貫き、赤い毛織物の蕤をつける。諸侯王以下は綔で赤い絲の蕤をつけ、縢と綔はそれぞれその印の材質に合わせる。刻まれた文は「正月剛卯既に決し、霊殳四方、赤青白黄、四色是に当たる。帝令して祝融に、以て夔龍を教え、庶疫剛癉、我を敢えて当たる莫し。疾日厳卯、帝令して夔に化せしめ、慎んで爾の周伏をし、茲の霊殳を化せよ。既に正しく既に直く、既に觚しく既に方く、庶疫剛癉、我を敢えて当たる莫し」。凡そ六十六字。(《前書》の注に「正月の卯の日に作る」とある。)

皇帝の乗輿用の綬は黄赤色で、四色の糸を用い、黄・赤・縹・紺からなり、純黄の圭玉を飾り、長さは二丈九尺九寸、五百首である。〈《漢舊儀》によると、「璽はすべて白玉に螭虎の鈕で、文は『皇帝行璽』、『皇帝之璽』、『皇帝信璽』、『天子行璽』、『天子之璽』、『天子信璽』の六璽がある。皇帝行璽は、諸侯王を封じる時や諸侯王に書を賜る時に用いる。信璽は、兵を発して大臣を徴する時に用いる。天子行璽は、外国を策命し、天地鬼神に事える時に用いる。璽はすべて武都の紫泥で封じ、青い袋に白い素裏をつけ、両端は縫い目がなく、一尺一寸の板の中ほどに約束の署名をする。皇帝は帯綬をし、黄色地に六采の文様で、璽は佩用しない。璽は金銀の縢組で飾り、侍中が組を負って従う。秦以前は民も皆綬を佩用し、金・玉・銀・銅・犀・象で方一寸の璽を作り、それぞれ好みに従って用いた。璽書を奉じる使者は馳伝に乗る。その驛騎は、三騎で行き、昼夜千里を行程とする。」《呉書》によると、「漢室の乱の時、天子が北の河上に赴いたが、六璽は従わず、璽を掌る者が井戸に投げ入れた。孫堅が北へ董卓を討伐し、城南に軍を駐屯させた時、官署に井戸があり、毎朝五色の気が井戸から出た。堅が人を浚わせて伝国璽を得た。その文は『受命于天、既寿永昌』であった。方囲四寸で、上に鈕文があり五龍が盤き、瑨は七寸の管で、龍の一角が欠けていた。」《献帝起居注》によると、「当時六璽は従わず、帰還した時、閣上で得た。」《晋陽秋》によると、「冉閔の大将軍蒋幹が伝国璽を河南太守戴施に渡し、施がこれを献上すると、百官皆賀した。璽の光は洞徹して照り、上に蟠螭の文が隠然と浮き出ており、《書》に『昊天之命、皇帝寿昌』とある。秦の旧璽である。」徐広によると、「《伝国璽文》は『受天之命、皇帝寿昌』という。」〉

諸侯王の綬は赤色である。〈徐広によると、「太子及び諸王は金印、亀鈕、纁朱の綬である。」〉

四色の糸を用い、赤・黄・縹・紺からなり、純赤の圭玉を飾り、長さは二丈一尺、三百首である。〈荀綽《晋百官表注》によると、「皇太子の朱綬は、三百二十首である。」〉

太皇太后、皇太后の綬は、いずれも乗輿と同じであり、皇后もまたこれに同じである。

長公主、天子の貴人で諸侯王と同じ綬を用いる者は、特例として加えられる。

諸国の貴人、相国は皆緑色の綬で、三色の糸を用い、緑・紫・紺からなり、純緑の圭玉を飾り、長さは二丈一尺、二百四十首である。〈《前書》によると、「相国、丞相は皆秦の官で、金印紫綬である。高祖の相国は緑綬である。」徐広によると、「金印緑綟綬である。」綟は音戾で、草の名である。これで染めると緑に似、また紫に似るともいう。紫綬は緺綬といい、緺は音瓜で、その色は青紫である。綟の字はまた盭とも書き、音は同じであるが、伝写する者が誤って「縶」と書いた。公に殊礼を加えると、皆これを服用する。何承天はいう。「緺は音媧である。青紫色の綬である。綟は紫色である。」〉

公、侯、将軍の綬は紫色で、二色の糸を用い、紫・白からなり、純紫の圭玉を飾り、長さは一丈いちじょう七尺、百八十首である。〈《前書》によると、「太尉は金印紫綬である。御史大夫は位上卿で、銀印青綬であるが、成帝が大司空と改名し、金印紫綬とした。将軍もまた金印である。」《漢官儀》によると、「馬防が車騎将軍となった時、銀印青綬で、卿の上にあり、席を絶った。和帝が竇憲を車騎将軍とした時、初めて金紫を加え、司空の次とした。」〉

公主や封君は紫色の綬を服用する。

九卿、中二千石、二千石の綬は青色で、三色の糸を用い、青・白・紅からなり、純青の圭玉を飾り、長さは一丈七尺、百二十首である。〈一説に青緺綬という。〉

青色の綬以上の者は、縌は皆長さ三尺二寸で、綬と同じ色の糸を用いるが首数は半分である。縌とは、古の佩璲である。佩綬が互いに迎え受けるので、縌という。紫色の綬以上の者は、縌と綬の間に玉環の鐍を施すことができるという。〈《通俗文》によると、「環が欠けたものを鐍という。」《漢旧儀》によると「その断獄する者は印を章とする」という。〉

千石、六百石の綬は黒色で、三色の糸を用い、青・赤・紺からなり、純青の圭玉を飾り、長さは一丈六尺、八十首である。四百石、三百石の長さは同じである。〈《漢官》によると、「尚書僕射は、銅印青綬である。」〉

四百石、三百石、二百石の綬は黄色で、一色の糸を用い、純黄の圭玉を飾り、長さは一丈五尺、六十首である。黒色の綬以下は、縌と綬は皆長さ三尺で、綬と同じ色の糸を用いるが首数は半分である。

百石の綬は青紺色で、一色の糸を用い、宛転して繆織の圭玉を飾り、長さは一丈二尺である。〈丁孚《漢儀》に太僕、太中大夫襄の言を載せている。「乗輿の綬は、黄色地に白羽を冒し、青・絳・緑の五采で、四百首、長さ二丈三尺である。詔で下された王の綬は、冒も五采で、上下に差がない。諸王の綬は四采で、絳地に白羽を冒し、青・黄で縁を取り、二百六十首、長さ二丈一尺である。公主の綬は王と同じである。侯は、絳地で、紺・縹の三采、百二十首、長さ一丈八尺である。二千石の綬は、羽青地で、桃華・縹の三采、百二十首、長さ一丈八尺である。黒綬は、羽青地で、絳の二采、八十首、長さ一丈七尺である。黄綬は一采、八十首、長さ一丈七尺である。これを常式とする。民が綬を織る時、この式に従わないものは没収して官に収め、犯した者は不敬とする。二千石の綬以上は、民に粉組で織ることを禁じる。」皇太后の詔で可とし、王の綬は下された通りとした。〉

まず、単糸を合わせて一つの系とし、四つの系で一つの扶とし、五つの扶で一首とし、五つの首で一文を成し、文采が純粋なものを一圭とする。首が多いほど系は細く、少ないほど系は粗く、いずれも幅は一尺六寸である。〈《東観書》にいう。「建武元年、諸侯王の金璽綟綬を再び設け、公侯には金印紫綬を授けた。九卿、執金吾、河南尹の秩禄はいずれも中二千石、大長秋、将作大匠、度遼諸将軍、郡太守、国傅相の秩禄はいずれも二千石、校尉、中郎将、諸郡都尉、諸国行相、中尉、内史、中護軍、司直の秩禄はいずれも二千石、以上はいずれも銀印青綬である。中外官の尚書令、御史中丞、治書侍御史、公将軍長史、中二千石丞、正、平、諸司馬、中宮王家僕、雒陽令の秩禄はいずれも千石、尚書、中謁者、謁者、黄門冗従、四僕射、諸都監、中外諸都官令、都候、司農部丞、郡国長史、丞、候、司馬、千人の秩禄はいずれも六百石、家令、侍、僕の秩禄はいずれも六百石、雒陽市長の秩禄は四百石、主家長の秩禄はいずれも四百石、以上はいずれも銅印黒綬である。諸署長楫櫂丞の秩禄は三百石、諸秩千石の者の丞、尉はいずれも秩禄四百石、秩六百石の者の丞、尉は秩禄三百石、四百石の者の丞、尉は秩禄二百石、県国丞、尉もまたこれと同じく、県、国の三百石長相の丞、尉もまた二百石、明堂、霊台丞、諸陵校長の秩禄は二百石、丞、尉、校長以上はいずれも銅印黄綬である。県国守宮令、相はあるいは千石あるいは六百石、長相はあるいは四百石あるいは三百石、長相はいずれも銅印黄綬を用いる。また有秩の者として侍中、中常侍、光禄大夫の秩禄はいずれも二千石、太中大夫の秩禄はいずれも比二千石、尚書、諫議大夫、侍御史、博士はいずれも六百石、議郎、中謁者の秩禄はいずれも比六百石、小黄門、黄門侍郎、中黄門の秩禄はいずれも比四百石、郎中の秩禄はいずれも比三百石、太子舎人の秩禄は二百石である。」〉

太皇太后、皇太后が宗廟に入る際の礼服は、紺色の上衣に黒色の下衣、養蚕の際の礼服は、青色の上衣に薄青色の下衣で、いずれも深衣の制であり、〈徐広がいう。「すなわち単衣である。」〉

隠れた襟と袖口に縁取りを施す。剪氂蔮をかぶり、簪と珥をつける。珥とは、耳璫に垂らした珠である。簪は瑇瑁を擿とし、長さ一尺、先端を華勝とし、上に鳳凰爵を飾り、翡翠で毛羽とし、下に白珠を垂らし、黄金の鑷をつける。左右に一本ずつ横に簪を挿し、蔮結を安定させる。諸々の簪と珥はみな同じ制であり、その擿には等級がある。

皇后が宗廟に謁する際の礼服は、紺色の上衣に黒色の下衣、養蚕の際の礼服は、青色の上衣に薄青色の下衣で、いずれも深衣の制であり、隠れた襟と袖口に縁取りを施す。仮結を結い、歩揺をつけ、簪と珥をつける。歩揺は黄金で山題を作り、白珠を貫いて桂枝とし、互いにからませ、一つの爵に九つの華を飾り、熊、虎、赤羆、天鹿、辟邪、南山豊大特の六種の獣を配する。これは詩にいう「副笄六珈」である。〈《毛詩伝》にいう。「副とは、后夫人の首飾りで、髪を編んで作る。笄とは、衡笄である。珈とは、笄の飾りの最も盛んなもので、尊卑を区別するために用いる。」鄭玄がいう。「珈とは加えるという意味である。副はすでに笄を挿した上にさらに飾りを加えるもので、今の歩揺の上の飾りのようであるが、古い制度では聞いたことがない。」〉

諸々の爵や獣はみな翡翠で毛羽とする。金題に白珠の璫をめぐらせ、翡翠で華とするという。

貴人が養蚕を助ける際の礼服は、純粋な薄青色の上下で、深衣の制である。大手結を結い、墨色の瑇瑁を用い、さらに簪と珥を加える。

長公主が会見する際の衣服には、歩揺を加える。公主は大手結を結い、いずれも簪と珥があり、衣服は同じ制である。

公主と封君以上の者はみな綬を帯び、采組で緄帯を作り、それぞれその綬の色と同じとする。黄金の辟邪を飾り、帯鐍の端とし、白珠で飾る。

公、卿、列侯、中二千石、二千石の夫人は、紺色の繒の蔮をかぶり、黄金の龍首に白珠をくわえさせ、魚須の擿、長さ一尺を簪と珥とする。宗廟に入り祭祀を補佐する者は黒色の絹の上下、養蚕を助ける者は薄青色の絹の上下で、いずれも深衣の制であり、縁取りを施す。二千石の夫人以上から皇后に至るまで、みな蚕衣を朝服とする。

公主、貴人、妃以上は、嫁娶の際に錦、綺、羅、縠、繒を服し、十二色の采を用い、重ねて縁取りを施した袍を着ることができる。特進、列侯以上は錦繒を用い、十二色の采を用いる。六百石以上は重練を用い、九色の采を用い、丹、紫、紺を禁ずる。三百石以上は五色の采、青、絳、黄、紅、緑を用いる。二百石以上は四采、青、黄、紅、緑を用いる。商人は、緗と縹のみである。〈《博物記》にいう。「交州の南に虫がおり、長さ一寸弱で、形は白英に似て、その名を知らず、見ると無色であるが、陰地では多く緗色、すなわち赤黄色を呈する。」〉

公、列侯以下はみな単縁の襈とし、文繡を制して祭服とする。皇后以下は、みな諸々の古い麗圭襂閨縁を加えた服を着ることを許されない。〈司馬相如の《大人賦》にいう。「旬始を垂れて以て襂とす。」注にいう。「葆の下の旒である。」すなわち襂の容姿は旌旒のようである。〉

建武、永平の時代にこれを禁絶したが、建初、永元の時代にまた重ねて復活し、このため世にその裁制を定めることができず、ついに絶えてしまった。〈蔡邕の《表志》にいう。「永平初年、詔書を下して車服の制度を定め、中宮皇太子は自ら重繒厚練を服し、洗濯した後また用い、下を率いて倹約による教化を起こした。諸侯王以下から士庶に至るまで、嫁娶の被服にはそれぞれ秩品があった。これを万世に伝え、聖徳を輝かせるべきである。臣は旧事の儀注を集めて本奏し、以て志を成すべきであると考える。」〉

冠や衣服のうち、旒冕、長冠、委貌、皮弁、爵弁、建華、方山、巧士、衣裳の文繡、赤舄、服絇履、大佩は、みな祭服とし、その他はすべて常用の朝服とする。ただ長冠のみは、諸王国の謁者が常用の朝服とするという。宗廟以下、祠祀にはみな長冠をかぶり、黒色の繒の袍単衣を着て、絳色の縁取りをした襟と袖の中衣、絳色の絝𥿉をはき、五郊ではそれぞれその色に従う。

賛して言う。車輅はそれぞれ用途に応じ、旌旂はその場に応じて異なる。冠服は美を尽くし、佩飾や璽玉は整然としている。敬虔に情を報い、尊びつつも下の欲求に応える。誰が華やかな文飾を誇ろうか、豪奢で麗しく繁縟なものではない。