宋史

列傳第二百五十四 蠻夷三 撫水州 廣源州 黎洞 環州

撫水州

撫水州は宜州の南にあり、四つの県がある。撫水・京水・多逢・古労という。唐代には黔南に隷属した。その酋長は皆蒙姓で同族であり、上・中・下の三房及び北遐一鎮がある。民衆には区・廖・潘・吳の四姓があり、水田を耕し魚を捕る者もいるが、険しい山に集落を構える者は、焼畑はあるものの穀物の収穫は甚だ少なく、ただ薬箭を用いて生き物を射て、鳥獣を捕り尽くせば直ちに他処へ移り、羊馬や桑柘はない。地に帚洞という所があり、五十里進むと前村に至る。川原はやや平らかで、五百余家が合わさり、龍江に沿って居住し、湖湘の地に似た稲を植える。中には楼屋や戦棚があり、竹柵で防衛している。これがその酋長の居所である。兵器には環刀・摽牌・木弩がある。薬箭を作るのに長け、これに当たると大声をあげ、一両晩で死ぬが、邕州の薬を得て解毒すれば生き返る。

雍熙年間、しばしば辺境を侵し、民衆や家畜を掠奪した。詔書を下して招安し、その酋長蒙令地に殿直を、蒙令札に奉職を補任した。咸平年間、またしばしば寇盗を働いたため、ただ辺境の臣に命じて境外へ駆逐させるのみとした。その仲間の狡猾な者三十余人を、宜州の守将が捕らえて朝廷へ送った。上は召見して詰責すると、彼らは答えて言うには、「臣らは蛮陬の小民、飢えと寒さに迫られたまでです」。上は左右の者を見て言った、「先ごろは悉く剿滅せしめようとは思わなかったが、もし殺戮を恣にすれば、確かに生き残る者は無かろう」。そこで罪を赦し、錦袍・冠帯・銀綵を賜い、戒め励まして帰した。一年余り後、酋長蒙頂ら六十五人が朝廷に赴き、武器甲冑百七十点を納めた。また蒙漢誠・蒙虔瑋・蒙填が来朝し、武器甲冑数百点及び毒薬の矢を献上し、辺境を侵さぬと誓った。その後毎年、使者を遣わして貢ぎ、兵器を輸送したので、漢誠に官を授け、物を賜うこと差等あり。既にして侵軼すること旧の如し。景德三年、蛮酋蒙填が宜州に赴き自ら申し出て、朝貢して罪を謝したいと願い出た。詔して守臣に命じ、掠奪した民の財貨と家畜を全て返還すればその請いを容れると諭させた。

大中祥符六年、首領指揮使蒙但が一族を率いて帰順し、桂州に移住させた。九年、しばしば宜州・融州の境界を侵した。転運使俞献可言上するには、「宜州知州董元己は綏撫を善くせず、先ごろ蛮人が飢饉に遭い、食糧を質入れに来た際、公は主管者を放任して量目をごまかし剋剥させた。また入貢を求めた際、また急にその意向を阻んだため、遂に憤恚して乱を起こさせた」。詔して元己を罷免し、潭州都監季守睿を遣わして元己に代わって招撫させたが、群蛮は命に従わず、侵掠止まなかった。献可は本道の澄海軍及び丁壮を募って進討するよう請うた。そこで詔して潭州兵五千人を加え、東染院使・平州刺史曹克明を宜融等州都巡検安撫使とし、内殿崇班王文慶・閤門祗候馬玉・内供奉官楊守珍等を都監とした。

上はなお、蛮夷は異類であり、攻撃掠奪は常の道理であって、剿滅するに足らずと考えた。またその道険阻にして進軍困難なるを慮り、ただ克明・献可に方略を設けてその酋長を捕らえ、掠奪した生口を索め、それによって撫するよう命じた。克明・献可上言するには、「蛮人は去冬天河を侵し、今また融州廂陽諸砦を掠い、居民を劫掠し、巡検樊明を害しました。累次宣旨を以て詔諭しましたが、曾て悔い改めず、臣に便宜を以て掩撃することを請います」。これに従った。

克明は守珍と兵を率いて樟嶺路に入り、文慶と玉は宜州西路に向かい、また宜州・桂州都巡検程化鵬に樟嶺古牢隘路を取って会合するよう命じた。化鵬は上房両水口で蛮人に遭遇し、これを撃破した。文慶と玉は如門団に至り、蛮人に扼せられて進めなかった。克明と守珍は横溪恩徳砦を過ぎ、山獠を召して嚮導とし、路を開いて進軍した。蛮人は篁竹の間に依り、時々出て戦闘したが、常に敗走した。十余日後、上黄泥嶺杉木隘路に至る。溪谷険邃にして、蛮人は要害を占めて官軍を拒んだ。辰の刻から午の刻にかけて、大いに潰えた。その徒党は遂に苑を過ぎて帚洞に至り、中房前村に入った。克明らは兵を留めて砦を下した。夜中、群蛮大いに譁譟し、鉦鼓を撃ち、砦を攻めること甚だ急であった。出兵してこれを撃つと、傷殺頗る多く、そこで火を放ってその廬室積聚を焼いた。これより恐懼し、山谷に竄入した。また龍江南岸に沿って東に進み、昏暮に至り、石峽の隘険を過ぎた。士卒は並んで行くことができない。蛮人はまた連弩を北岸に備え、克明は猛士を遣わして歩いて渡り戦わせると、至るや即ち退走した。下房博賀村に砦を営し、克明は砦の外に伏兵を設けた。その夜、蛮衆大いに集まり、伏兵の発するに遇い、内外合撃し、追撃斬殺して殆んど尽きた。乗勝して山を捜索し、悉く馬牛を得て士卒に饗した。

克明らはその窮蹙を知り、恩信を諭し、改過を許すと、ここに酋帥蒙承貴らが面縛して軍門に詣で自首した。克明は厚く犒宴を加え、かつ数えて責めると、皆俯伏して罪を謝した。詔旨の赦令して殺すなとの聞くに及び、泣下せざるはなく、北を望んで万歳を称した。上は夷の性は飽くことを知らず、朝廷が多くその罪を赦すことを習知しているので、急なれば来帰し、緩なれば叛去すると考え、切に克明らに詔して、掠奪した漢人の生口と資財家畜を悉く返還すれば、即ち盟約を許すと諭させた。承貴らは感悦して詔を奉じ、ここに猫の血をすすって誓いを立て、自ら言うには、山が摧き倒れ、龍江が西に流れようとも、敢えて再び叛かじと。克明らが師を還すと、宜州蛮人は武器甲冑凡そ五千点を納め、漢地に移住することを願う者七百余口あり、詔して広西及び荊湖の州軍に分置し、田糧を与えた。凡そ功を立てた使臣将士で遷補・賜賚を受けた者は千八百十六人。承貴は因って州県の名を改めて帰順の意を固めんことを請うた。詔して撫水州を安化州とし、撫水県を帰仁県とし、京水県を長寧県とした。ここより隔年ごとに朝貢し、再び辺患とはならなかった。

献可らまた言うには、「殿直蒙肚は帰化州を治めており、この州は撫水州と接し、しばしばその子文宝及び妻の一族甘堂を遣わして軍事を偵察させた。またその子格が官軍と闘敵した。悉く部送して朝廷に赴かせた。蒙隻という者もまた肚の子で、先に賊を告発したことがあり、昭州押牙に任じられていた」。詔して肚を密州別駕に補し、隻を海州都押牙とし、官田を賦与した。文宝・格・甘堂は並びにげい面して登州・萊州に配流した。宝元元年、また衆を率いて融州・宜州を侵し、邵州・澧州・潭州の三州の戍兵を発し、数千人を合わせて往き撃たせた。時に蛮勢正に熾んでおり、運糧の官吏を殺すに至った。また詔して兵を促して進討させ、一年余りを経てようやく平定した。

慶暦年間(1041-1048年)、再び方物を携えて入貢し、至和二年(1055年)、また来朝した。詔して知州蒙全會を三班奉職とし、また監州姚全料を借職とした。嘉祐六年(1061年)、また来貢した。この後は、毎月宜州に参謁し巨板を交易し、毎年州の四管が犒労した。三年ごとに、貢納すべき兵械を思立砦に輸送することを許し、その価値で償い、順次官資を以て遷補した。熙寧初年(1068年頃)、宜州知州の錢師孟と通判の曹覿が勝手にこれを削減し侵奪したため、土人の羅世念・蒙承想・蒙光仲らが乱を起こした。五年(1072年)、徳謹砦を攻撃し、将官費萬を襲ってこれを殺害した。経略司が寇乱の原因を問うたが、宜州はただ飢饉によるものと申告したため、朝廷は粟二万石を賜ってこれを安撫した。やがて守臣の王奇が戦死し、事が朝廷に聞こえると、沅州知州の謝麟と帯御器械の和斌に溪洞の経制を命じ、在京のぎょう騎両営および江南・福建の将兵三千五百人を発し、その指揮に従わせた。翌年、世念らはついに諸蠻の峒首領・族類四千五百人とともに出降した。世念を内殿承制とし、承想・光仲ら十人をそれぞれ官に任じた。崇寧二年(1103年)、その酋長の蒙光有がまた嘯聚して寇となったが、経略司が将官の黄忱らを派遣してこれを撃退した。大観二年(1108年)、ついに三州一鎮の戸口六万一千を上申した。詔して融州知州の程鄰を黔南路に派遣して撫諭させ、官吏には推恩の差等があった。至和年間以後、また融州に属する蠻の大丘峒の首領楊光朝が内附を請い、また楊克端ら百三人が来帰したが、いずれもこれを受け入れた。

諸蠻の族類は一様でなく、おおむね山谷に依り阻み、林木に並んで居住し、椎髻・跣足で、険しい所を走ることは平地を歩くが如くである。言語は侏離わかりにくく、衣服は斒斕(まだら模様)である。鬼神を畏れ、淫祀を好み、木を刻んで契とし、互いに君長とすることはできず、財力をもって雄彊となる。忿怒するごとに同気の者に刃を向け、父子の間に兵を加え、復讐怨念には死をも顧みない。出入りには腰に弓矢を帯び、草の中に隠れて人を射るが、牛酒を得ればすなわち釈然とする。親戚や隣人を指さして売り渡す。父子は別の家業を持ち、父が貧しければ子に身を質入れし、禽獣とほとんど変わらない。その族は銅を鋳て大鼓とし、初めて完成すると庭中に懸け、酒を設けて同類を招き、争って金銀で大釵を作り鼓を叩き、去る時はその釵を主人に遺す。互いに攻撃する時は、鼓を鳴らして衆を集め、鼓を持つ者を「都老」と号し、衆はこれを推服する。

唐末、諸酋がその地を分拠し、自ら刺史となった。宋が興り、初めて中国に通じ、正朔を奉じ、職貢を修めた。時に桀黠で利を貪る者や、辺境の官吏が撫御を誤ることがあり、しばしば集まって寇となり、辺境の戸を抄略した。朝廷はこれを禽獣のように扱い、務めて羈縻するのみで、深く治めようとはしなかった。熙寧年間(1068-1077年)、章惇をして蠻事の察訪経制とさせると、諸溪峒が相次いで土を納れ、王民たることを願い、初めて城砦を創設し、内地と同等に扱った。元祐初年(1086年頃)、諸蠻がまた叛くと、朝廷は休息に務め、湖南・湖北及び広西路に詔して追討を免じ、堡砦を廃し、五溪の諸郡県を放棄した。崇寧年間(1102-1106年)、また辺境開拓が議されると、安化上三州及び思広の諸峒蠻夷は、皆土を納れ貢賦を輸することを願い、また広西に左・右江の四百五十余峒を招納させた。まもなく議者の言により、熟蕃を招致するのは便ならずとして、詔して設置した州郡を悉く廃し、祖宗の旧に復した。

紹興初年(1131年頃)、監察御史の明橐が言上した。「湖南の辺郡及び二広の地では、旧来溪峒の帰明官を置いていたが、近年その員数が次第に広がり、諸州が隘砦を措置するも、把拓する者が不足し、また兵夫の管押を命じている。彼らは元来法令に通じておらず、概して貪婪で飽くことを知らない。況んや管押する者も皆郷民であり、甚だしく辺患となっており、困苦折辱を受ける者は往々にして訴えるところがない。議者は帥臣にその姓名を籍録させ、三年ごとに遷易させ、州県官の故事の如くすべきとしている。あるいは、ただ旧来の通り添差するのみとし、兵夫の管押を併せて罷め、二広・湖南の帥臣に適宜処置させ、辺禍を啓き遠人を害することなからしめるべきであるという。」詔してその議を下した。三年(1133年)、安化蠻の蒙全劍ら八百人が普議砦を劫略し、その屋宇を焼いたが、広西の帥臣が県砦の将佐を派遣し兵を発してこれを討平した。

四年(1134年)、広南東・西路宣諭の明橐が言上した。

平州・観州の二州は、もと王口・高峯の二砦であり、広右の西辺に位置し、旧来常に憂いがなかった。崇寧・大観年間(1102-1110年)、辺臣が釁を啓き、州を置き境を拓き、不毛の地に深入りすることを奏請し、平・従・允・孚・庭・観・溪・馴・叙・楽・隆・兌などの十二州を、黔南に属させた。その官吏・軍兵の請給費用は、全て内郡から出したため、騒然として支えることができなかった。政和年間(1111-1118年)、朝廷は初めてその非を悟り、これを罷めた。ある者は平州を西南の重鎮とし、兼ねて王江・従・允などの州及び湖南の武岡軍・湖北の靖州・桂州の桑江峒猺を制し、観州は南丹・陸家砦・茆灘十道及び白崖の諸蠻を制御するとして、故にこの二州のみは廃さなかったという。臣が辺境を歴任して以来、平・観を罷めることを乞うたのは、前後一度ならずである。内摂官の呉芾はかつて経略司準備幹当を充てられ、その詳細をかなり得ている。

観州は初め宜州の富仁監であった。大観年間(1107-1110年)、帥臣の王祖道が文州・蘭州を招納しようとすると、都巡検の劉惟忠は、文・蘭を得るよりも南丹の利を取る方が良いと言い、その州の莫公佞が文・蘭を阻み土を納れさせないと誣告し、公佞の罪とした。惟忠は遂に公佞を捕らえて殺害した。帥司がその功を奏上すると、南丹を観州と改め、惟忠にこれを守らせた。公佞の死は、人々は冤罪であると考えた。その弟の公晟は溪峒と結んで報復を図り、連年攻囲し、惟忠は傷ついて死に、続いて黄璘が代わって守った。璘は支えきれないと判断し、病気を理由に辞任を告げ、岑利疆が代わった。黄忱はまた建議し、富仁監の側に高峯砦を増築して、観州の声援としたいとした。ちょうど朝廷が新辺を罷めたため、遂に高峯砦を観州とすることを請い、知州一人・兵職官二人・曹官一人・指使砦保官七人を設け、吏額五十人、廂禁軍・土丁・家丁また千余人とした。歳費は銭一万二千九百余貫、米八千八百一十七石余である。州には税租戸籍がなく、皆隣郡に仰ぐ。物資を急送するには険阻を渡り、あるいは蠻寇の伏兵に遭い、陰に毒矢を発せられ、人に中れば即死する。人々は賊を畏れ、概して道路上に委棄し、たとえ州に達したとしても、浪費もまた数え切れない。昔、富仁監であった時は、警報の聞こえたことはなかった。ただ辺吏が刺探を功としようとするため、時々警急を称し、それによって利を得ようとし、遂に存して廃さないようにしたのである。近年戸籍は日々削減し、民は多く流離し、あるいは溪洞に転入し、公私ともに困弊が甚だしい。

平州は初め融州に隷属し、これも羈縻州の峒であった。かつては湖北の渠陽軍に通じ、融江砦及び文村・臨溪・潯江堡を設置したが、後に地が生蛮と隔たったため、遂に廃止された。崇寧年間、再び融州に隷属した。王口砦の地は王江に接し、これを改めて懐遠軍とし、後に平州と改めた。吉州を従州と改め、王江を允州と改めた。ともに黔南に隷属させた。政和二年、再び廃止した。辺吏の黄忱・李坦がその帥臣程鄰を欺き、平州の存続を乞い、知州一人・兵職官二人・曹官一人・県令簿二人、提挙渓峒公事を設置した。本州管界都同巡検二人、五砦堡監官指揮十人、吏額百人、禁軍・土丁千人を置いた。歳費は銭一萬四千四百一十八貫六百文、米一萬一千一百二十五石余りである。州には租賦の戸籍がなく、転運司が毎年桂・融・象・柳の粟を移してこれを給した。また融州西北の金渓郷の税米四百九十余石を懐遠に移して隷属させ、その浪費は観州よりも甚だしかった。況して守臣が着任すれば、即座にその子に推恩することを奏上し、州・県・砦・堡の例はみな遷官の賞酬を得、税場互市の利はまた守臣辺吏の私する所となり、ただ百姓のみが征戍転輸の苦しみを有し、誠に憫れむべきである。臣は平・観二州を罷めるのが妥当であると考える。

しかしなお議論すべきことがある。観州が初め富仁監であった時、銀冶が二つあり、官はその利を取るのに常額があり、熙寧元年に降下された条例が具在している。まず経略司に下し、公晟らに熙寧の条例に依って施行させるべきである。況して公晟は実は公佞の弟であり、理として州事を掌るべきである。近ごろ逃げ帰ったとはいえ、蛮族に信服されておらず、その情勢を察するに、中国に倚重せざるを得ない。もし時に乗じてこれを授ければ、彼は恩が朝廷より出ることを知り、必ず深く感悦するであろう。

枢密院もまた上言した。「広西沿辺の堡砦は、かつて辺臣が賞を希って州城に改築し、蛮夷を侵擾し、大いに辺釁を開いた。地は徼外に属し、租賦もまた入るところがなく、支費は内郡を煩わせ、民はその弊に堪えず、遂に皆廃罷した。ただ平・観二州は帥臣の請う所により、存続した。今、明橐の上奏を観るに、利害の実情が明らかに見える。帥臣がまた公晟が南丹・観州・宝監の境上で不時に窃発すると称しているため、もし二州を廃すれば、恐らく縁辺の事宜について未だ尽くされないことがあろう。」詔して広南西路の帥・漕・憲司に命じ、共に利害を条具して奏聞させた。既にして諸司は交えて言上した。「平・観二州は困弊已に甚だしく、害有りて益無し。祖宗の旧制に復するを請うて妥当である。」詔してその言に従った。

乾道六年、詔して蒙沢を進武副尉に補任した。初め、宜州蛮の莫才都が乱を為し、広西経略の劉焞が進勇副尉蒙明を賊の巣窟に遣わし、才都を諭して降伏させた。既にして再び猖獗を肆し、官兵を戕賊した。未だ幾ばくもなく、才都を擒え、械を以て経略司に送り伏法させ、その党を悉く破ったが、明もまた害に遇い、惨酷を極めた。辺人はこれを憐れんだ。焞はその子の沢に推恩して死事を旌ることを乞い、朝廷これに従った。故にこの命有り。

淳熙十年冬、安化蛮が内に突入し、砦柵を焚き、居民を殺して乱を為した。宜州駐劄の将官田昭明が蛮と力戦して敗れ、これに死す。十一年、広西路鈐轄の沙世堅が言上した。「官軍と猺人の兵器は利鈍が異なる。宜しく沿辺の軍州に多く強弩毒矢を設置し、以て猺人を懼れさせるべきである。」これに従った。この年、安化蛮の蒙光漸が衆を率いて抄掠し、世堅がこれを討平した。初め、宜州知州の馬寧祖が思立砦の塩銭を支給せず、前守の積んだ逋負は一月分の銭を給するのみで、蛮部に遍く及ばず、権思立砦準備将領の楊良臣がまた鎮撫を乖方にしたため、遂に光漸らを激変させた。詔して良臣を罷め、寧祖の秩を貶し、帥・漕に勅して時に渓峒の塩銭を給するようにした。

十二年正月、広西漕臣の胡庭直が上言した。「邕州の左江・永年・太平等の砦は、祖宗の時、その交阯と隣壤なるを以て、実に南辺の藩籬の重地と為し、故に州県を置き、その丁壮を籍し、以て一旦の用に備え、規模宏遠であった。近年、辺民は率いて交阯に通じ、その地の産する塩を官塩に雑えてこれを貨し、及び馬塩を減易して銀に易え、忽せにして防がざれば、恐らく辺釁を生ずるであろう。禁戢すべきである。」既にして諸司が上言した。「経略司は初め朝旨に準じ、馬塩倉を置き、塩を貯えて馬に易え、歳に江上の諸軍及び御前投進に給し、銀塩錦を用い、悉く蛮と互市した。その永平砦の易える所の交阯塩は、居民の食に貨し、皆旧制である。況して辺民は素より蛮夷と私に貿易し、官はこれを制することができない。今一切禁絶すれば、左江の居民の塩乏しきのみならず、蛮情もまた測り難く、恐らく乖異を致すであろう。」乃ち邕州に牒し、民に交阯塩を私販して鈔法を妨げることを禁じた。この年、詔して楊世俊に父の進通の職を襲わせ、承信郎に補任した。

紹熙初め、広西帥が本路副総管の沙世堅は素より韜略有り、累ねて辺功を立て、群蛮の畏服する所となり、嘗て蒙光漸を破り、威信を示したため、光漸は累年辺を寇することを敢えなかった。世堅を以て宜州知州を兼ねさせ、実に蛮夷を制伏し、久遠の利と為すことを乞うた。帝これに従った。慶元四年、宜州蛮の蒙峒・袁康らが内を寇し、官塩を奪って乱を為した。広西帥司が官兵を調べてこれを招降し、朝廷は推賞に差等有り。

嘉定三年、章戡が静江府知府となり、建議して言うに、広西の管轄する二十五郡は、三方渓峒に隣り、蛮猺・黎・蜑と雑処し、跳梁して固く負うこと、時に之無きことなく、西南最も重地と為し、邕・欽の外、羈縻するもの七十有二、地里綿邈、鎮戍一ならず。雄辺軍二百人を増置し、及び憲司の甲軍二百を調べて帥司に隷属させることを請うた。初め、安平州の李密が隣洞を侵し、編民を劫掠し、併せて古甑洞を取り、その幼子を変名して趙懐德と為し洞事を知らせた。戡は邕守に諭し、古甑の一人を推してこれを主とさせた。十一年、臣僚がまた上言した。「慶暦年間、張方平が嘗て朝廷が毎に西北を備えるも、孰れか知らんや、猺蛮が嶺外に衝突し、南は交阯に隣り、勢い経営を須うことを。唐の時は西に吐蕃を備え、その後安南が辺を寇し、旋って龐勛の禍を致した。国朝は毎に契丹・元昊を憂うるも、儂智高が邕州を陥し、南徼騒動し、天子之が為に旰食す。豈に細故ならんや。臣ら比年淮甸の間に版築薦興し、更戍日益すを見るも、広南の城隍は摧圮して葺らず、戍兵は逃亡殆んど尽き、春秋の教閲、郡に百人無し。郷兵・義丁・土丁の名有りと雖も、実用に足らず、緩急豈に事を集め得んや。嶺南の要地に於て城堡を増築し、その民兵を籍し、歳時に練習し、賞罰の格を定め、以て懲勧を示すべきである。然らば則ち号令厳明、守禦完固、民戦闘に習い、猺蛮侵掠の患を息め、四十州の民を久安の域に措くことを得ん。」詔してこれに従った。

広源州

広源州の蛮族儂氏、州は邕州の西南、鬱江の源流にあり、地勢は険絶して深く阻まれ、黄金・丹砂を産し、かなり邑居聚落がある。俗は椎髻左衽、戦闘を善くし、死を軽んじて乱を好む。その先、韋氏・黄氏・周氏・儂氏が首領となり、互いに劫掠し合った。唐の邕管経略使徐申が厚くこれを撫でると、黄氏は質を納め、十三部二十九州の蛮は皆定まった。交阯蛮が安南を占拠して以来、広源は邕管の羈縻州と号するも、実は交阯に服役していた。

初めに儂全福という者がおり、儻猶州を知り、その弟存祿は黄涯州を知り、全福の妻の弟儂當道は武勒州を知っていた。ある日、全福は存祿・當道を殺し、その地を併せ有した。交阯は怒り、兵を挙げて全福とその子智聰を捕らえて帰った。その妻阿儂はもと左江武勒族で、儻猶州に転じ、全福がこれを娶った。全福が捕らえられると、阿儂は商人に嫁ぎ、智高と名付ける子を生んだ。智高が十三歳の時、その父である商人を殺し、「天下に二父あらんや」と言い、儂姓を冒し、母と共に雷火洞に奔った。母はまた特磨道の儂夏卿に嫁いだ。

久しくして、智高はまた母と共に出て儻猶州を占拠し、国を大曆と建てた。交阯が儻猶州を攻め落とし、智高を捕らえると、その罪を釈き、広源州を知らせ、さらに雷火・頻婆の四洞及び思浪州を付加して益した。四年居住し、内に交阯を怨み、安德州を襲撃占拠し、僭称して南天国とし、年号を景瑞と改めた。皇祐元年、邕州を寇した。翌年、交阯が兵を発してこれを討ったが、克たなかった。広西転運使蕭固は邕州指使の亓贇を遣わして刺探させたが、贇は勝手に兵を発して智高を攻め、捕らえられた。そこで中国の虚実を問うと、贇は大略を述べ、智高に内属を説いた。智高は贇を帰らせ、表を奉って歳貢の方物を請うたが、聞き入れられなかった。また馴象・金銀を献じてきたが、朝廷はその交阯への役属を理由に拒絶した。後に再び金函の書を持って請うたが、邕州知州の陳珙が上聞しても、返答がなかった。智高は請いを得られず、また交阯と仇敵となり、かつ山沢の利を擅にしたので、亡命を招き納れ、しばしば弊衣を出して穀食と交換し、洞中が飢え、部落が離散したと偽って言った。邕州はその微弱を信じ、備えを設けなかった。そこで智高は広州の進士黄瑋・黄師宓及びその党の儂建侯・儂志忠らと日夜謀り入寇を図った。ある夜、その巣穴を焼き、その衆に偽って言った、「平生の積聚、今や天火に焚かれ、以て生くべきなし、計窮まりたり。まさに邕州を抜き、広州を拠りて自ら王たらん。然らずんば必ず死すべし」。

四年四月、五千の衆を率いて鬱江に沿い東下し、横山砦を攻め破り、ついに邕州を破り、知州陳珙らを捕らえ、兵士千余人が死んだ。智高が軍資庫を閲し、上った金・函を得て、怒って珙に言った、「我れ一官を求めて諸部を統摂せんとす。汝、聞かせず、何ぞや」。珙が答えて、「嘗て奏したが、報いられず」と言う。奏草を求めても得られず、遂に珙を引き出した。珙は惶恐して万歳を呼び、自ら効力を求めても聞き入れられず、その属官及び広西都監張立を併せて害した。立は臨刑に大罵し、屈しなかった。ここにおいて智高は僭号して仁恵皇帝と称し、年号を啓暦と改め、境内を赦した。師宓以下は皆中国の官名を称した。

この時、天下久しく安んじ、嶺南の州県は備えなく、一旦兵が起こり倉卒にして、なすべきことを知らず、守将多くは城を棄てて遁れ、故に智高の向かうところ志を得て、相次いで横・貴・龔・潯・藤・梧・封・康・端の九州を破り、封州で曹覲を、康州で趙師旦・馬貴を害し、その他官吏を殺すこと甚だ多かった。過ぐる所で府庫を焼き、進んで広州を包囲した。初め、智高が将に至らんとする時、守将仲簡は民の城中に入保することを許さず、入ることができなかった民は皆智高に附き、智高の勢いは益々張った。先に魏瓘が州城を築き、井戸を穿ち水を蓄え、大弩を作って守備とした。この時、智高は雲梯土山を作り、城を攻めること甚だ急で、また流水を断ったが、城は堅く、井戸の飲み水は枯れず、弩を発すれば当たれば必ず洞穿し崩れ、智高は力尽きた。ちょうど英州知州蘇緘が辺渡村に兵を屯し、その帰路を扼し、番禺県令蕭注が土丁及び海上の強壮二千余人を募り、智高の衆と格闘し、その戦艦を焼き、転運使王罕もまた外から至り、益々守備を修めた。智高は抜くべからざるを知り、五十七日包囲し、七月壬戌、解いて去った。

清遠より江を渡り、婦女を擁して楽を奏し行き、白田で張忠と戦い、忠はこれに死した。去って賀州を攻めたが克たず、夜に太平場で蔣偕を害した。九月庚申、昭州を破り、館門驛で王正倫らを害した。州の山に数穴あり、大なるものは数百千人を容れ得、民は兵の至るを聞き、走り匿れたが、智高はこれを知り、火を放ち、皆焼き死にした。十月丁丑、賓州を破った。甲申、再び邕州を占拠し、日夜木を伐り舟楫を治め、再び広州に向かうと揚言した。十二月壬申、また金城驛で陳曙を破った。初め、智高の反を聞き、朝廷は曙を命じてこれを撃たせ、既にして楊畋・曹脩・張忠・蔣偕が相次いで出撃し、また余靖・孫沔を安撫使とした。畋・脩は智高の至るを聞き、退軍してこれを避けた。忠・偕は勇にして謀なく、皆死した。智高は益々恣にし、南方の地は騒然とした。仁宗はこれを憂い、狄青を宣撫使と命じ、諸将は皆青の節制を受けた。曙は青の至って功あることを恐れ、急いで挑戦したので、敗れた。

五年正月、青及び沔・靖が賓州で兵を会し、官軍・土丁合わせて三万一千余人、軍法に按じて曙及び指揮使袁用ら三十二人を座中で誅し、一軍大いに振るった。ここにおいて兵を進め、青は前陣を将い、沔は次陣を将い、靖は後陣を将い、一晝夜で崑崙関を絶ち帰仁鋪に至った。智高は王師の険を絶えて至るを聞き、その不意に出で、衆を悉く出して来拒し、大盾・摽槍を執り、絳衣を着て、望めば火の如く、青の陣は少し退いた。先鋒孫節はこれに死した。青は麾を起こして蕃落騎兵を動かし、左右の翼を張ってその後ろに出て交撃させ、左の者は右に、右の者は左に行き、已にして左の者はまた左に、右の者はまた右に戻り、その衆はなすべきことを知らず、大いに敗れて走った。日暮れに会し、智高は再び邕州に向かい、夜に城を焼いて遁れ、合江口より大理国に入った。屍五千三百四十一を得て、京観を築き、掠めた生口万余人はその業に復した。偽印九を獲、黄師宓以下の偽官五十七人を、その首を城上に梟し、馬牛・金帛を収めること鉅万を以て計った。智高は兵を起こしてより幾一年、一方を暴践し、無人の境を行くが如く、吏民その毒に勝えず、朝廷は赦令を下し、優に除復し、瘡痍を慰拠し、百姓始めて更生するを得たという。先に、謡言に「農家種、糴家収」とあった。已にして智高が叛き、青に破られ、皆その謡の如し。

智高の母阿儂は計謀あり、智高が城邑を攻め陥れるには、多くその策を用い、僭称して皇太后と号し、性は惨毒にして、小児の肉を嗜み、食する毎に必ず小児を殺した。智高敗走し、阿儂は特磨に退き保ち、その夫儂夏卿に依り、残った衆を収めて三千余人を得、騎戦を習い、また入寇せんと欲した。至和の初め、余靖が部吏の黄汾・黄献珪・石鑑を督し、進士の吳舜挙が峒兵を発して特磨に入り、これを掩襲し、阿儂及び智高の弟智光、子の継宗・継封を獲て、檻車にて京師に至らしむ。初めは殺さんと欲せず、日に食飲を給し、以て智高を誘い出さんと欲したが、或いは智高の死を伝え、乃ち悉く棄市に処す。既にして西川よりまた智高未だ死せず、黎・雅州を寇せんと謀ると奏す。詔して本路に備えを為さしむ。御史中丞の孫抃また益州に勅して先んじて経制せしめ、以てしょく人を安んぜんことを請う。然れども智高は終に出ず、その存亡は知るべからず。

儂氏にまた宗旦という者あり、雷火洞を知り、稍々桀黠なり。嘉祐二年、嘗て入寇し、桂州知事の蕭固これを招き内属せしめ、以て忠武将軍と為し、またその子の温悶峒を知る日新を補して三班奉職と為す。七年、宗旦父子、以て所領の雷火・計城諸峒を県官に属せしめ、帰楽州に得て、永く王民たらんことを請う。詔して各々一官を遷し、宗旦を以て順安州知事と為し、仍て耕牛・塩綵を賜う。是の歳、儂夏卿・儂平・儂亮もまた特磨より来帰す、皆その族なり。日新は後に嘗て邕州の税を監す。治平中、宗旦は交阯の李日尊・劉紀と隙あり、逼られるを畏れ、桂州知事の陸詵、因って人をしてこれを説かしむ。遂にその州を棄て内徙し、命じて右千牛えい将軍と為す。

甲峒蠻という者あり、また交阯に役属し、間を出でて邕州を寇す。景祐三年、嘗て思陵州憑祥峒の生口を掠い、登龍鎮の将を殺して去る。嘉祐五年、交阯・門州等の蠻五千余人と合してまた寇と為り、官兵と拒戦し、数百を斬首す。詔して桂州知事の蕭固に邕州に趨り諸郡の兵を発し、転運使の宋咸・提点刑獄の李師中と合議して追討せしむ。是の歳数たび入寇し、また詔して安撫使の余靖にこれを撃たしむ。蘇茂州蠻もまた邕州に近く、至和・嘉祐中、皆嘗て辺を擾す。

黎洞

黎洞は、唐の故き瓊管の地にして、大海の南に在り、雷州より海を渡ること一日にして至る。その地に黎母山あり、黎人ここに居す。旧説に五嶺の南は、人夷獠に雑じ、朱崖は海に環らされ、豪富は兼へいし、貧弱を役属す。婦人は緦緶を服し、木皮を績みて布と為し、土を陶して釜と為し、器は瓠瓢を用う。人は石汁を飲み、また椒酒あり、安石榴の花を甕中に著せば即ち酒と成る。俗に山嶺を「黎」と呼び、その間に居る者を号して黎人と曰う。弓刀未だ嘗て手を去らず。弓は竹を以て弦と為す。今儋崖・萬安は皆黎と境を接し、その州県に服属する者を熟黎と為し、その山洞に居て征徭なき者を生黎と為し、時に出でて郡人と互市す。

至和の初め、黎人の符護という者あり、辺吏嘗てその奴婢十人を獲て、これを還す。符護もまた嘗て辺を犯し、瓊・崖州巡検の慕容允則及び軍士を執る。是に至り、軍士五十六人を以て允則と来帰す。允則は道中病没す。詔して至れる軍士はその罪を貸す。

乾道二年、広西経略転運司の議に従い、詔す:「海南諸郡の倅守は黎人を慰撫し、朝廷の恩信を示し、以て我が省地に帰せしめ、これと更始せしめよ。その乾道元年以前の租賦の負逋する者は、尽くこれを赦免す。能く来帰する者は、その租を五年復す。民に産なき者は、官田を給して耕させ、またその租を五年復す。守倅能く黎人を慰安し及び省地を収復する者は、功の大小を視て賞に差あり、地及び民を失う者は重罰あり。」六年、黎人の王用休乱を為す。権萬安軍事・同主管本路巡検の孫滋等これを招降す。九年八月、楽昌県の黎賊省民を劫い、県治を焚きて乱を為す。黎人の王日存・王承福・陳顏これを招降す。瓊管安撫司その功を上す。借補して承節郎を得る。

淳熙元年、詔して承節郎王日存の子孫に許して職を襲わしむ。四年冬、萬安軍の王利学省地を寇す。蓋旻進衆を率いてこれを拒ぐも、兵弱く戦没す。八年六月、詔して三十六峒都統領の王氏の女に襲封して宜人と為す。初め、王氏は化外に居し、累世辺陲に功を立て、皆封爵を受く。紹興間、瓊山の民許益乱を為す。王母の黄氏諸峒を撫諭し、敢えて乱に従う者無し。功を以て宜人に封ず。是に至り、黄氏年老いて子無く、請うてその女を以て封を襲わしむ。朝廷これに従う。十二年正月、楽会県白沙峒の黎人王邦佐等賊衆五百を率いて寇と為り、官軍を殺掠す。保義郎の陳升之その衆を撫降し、林智福等を俘獲す。瓊管司その功を上す。詔して升之の三年磨勘を減ず。十六年、詔して大寧砦の黄弼を以て承信郎に補し、本界の黎峒を弾圧せしむ。瓊管司言う、弼は沈鷷にして謀あり、遠近に推服せらる、故にこれを用う。弼は宜人黄氏の姪なり。

嘉定九年五月、詔して宜人王氏の女吳氏に襲封せしめ、三十六峒を統領せしむ。

環州

環州蠻の区氏、州は宜州の羈縻に隷し、思恩・都亳の二県を領す。

区希範という者あり、思恩の人なり。狡黠にして頗る書を知り、嘗て進士に挙げられ、礼部に試みらる。景祐五年、その叔の正辞と募に応じ、官軍に従い安化州の叛蠻を討つ。既にして希範登聞鼓を撃ちて録用を求む。事宜州に下り、而して知州の馮伸己その妄なるを言い、全州に編管す。正辞もまた嘗て自ら功を言うも、報いず。二人皆觖望す。希範後ち輒ち遁れ帰り、正辞とその族人及び白崖山の酋長蒙趕・荔波洞の蠻を率いて乱を謀り、伸己を殺さんとし、且つ曰く「若し広西一方を得ば、当に大唐国を建てん」と。会うて日者の石太清至る。因ってこれに筮わしむ。太清曰く「君の貴ぶこと封侯を過ぎず」と。乃ち太清に日を択ばしめ牛を殺し、壇場を建て、天神を祭り、蒙趕を推して帝と為し、正辞を奉天開基建国桂王と為し、希範を神武定国令公・桂州牧と為し、皆北嚮して再拝し、以て天命を受く。また区丕績を宰相と為し、余は皆偽りに名号を立て、四十余人を補置す。

慶暦四年正月十三日、衆五百を率いて環州を破り、州印を劫い、その積聚を焚く。環州を以て武城軍と為し、また帯溪砦を破り、鎮寧州及び普義砦を下し、衆一千五百を有す。宜州捉賊の李德用韓婆嶺に出でてこれを撃ち却く。前後斬獲甚だ衆く、偽将二を俘う。希範懼れ、荔波洞に入り保ち、間を出でて官軍に拒ぐ。朝廷詔を下してこれを購う。希範・正辞及び趕を獲る者には、人ごとに袍帯・銭三十万・塩千斤を賜う。

翌年、転運使杜杞が大軍を率いて環州に至り、摂官区曄・進士曾子華・宜州校の呉香に命じて区希範・蒙趕らを誘い出して降伏させ、牛馬を屠り酒を整え、彼らと盟を結ぶと偽り、曼陀羅華を酒の中に混ぜ、飲んだ者は皆昏睡し、少しして呼び起こして労を問うと、来た者を後ろの廡の下に押し倒した。夕方近くになって、衆はようやく気づき、驚いて逃げようとしたが、門には守兵がいて出られず、ことごとく捕らえられた。数日後、また区希範らを捕え、合わせて二百余人を捕獲し、七十八人を誅し、残りはすべて流刑に処した。さらに区希範の肉を塩漬けにし、諸溪峒に賜り、その五臓を図に描かせて世に伝え、残党はすべて平定した。

鎮寧州もまた宜州に隷属した。景祐二年、蛮酋の莫陵ら七百余人が内寇し、西京作坊使郭志高・閤門祗候梁紹熙を派遣して討伐に向かわせたが、到着する前に、莫陵らは桂州・宜州巡検の李仲政のもとに赴いて降伏を請うた。広西転運使は詔を待たずに、その罪を赦した。詔によりこれを弾劾したが、後に釈放した。

この年、高州・竇州の犾獠(イ族)の陳友朋らもまた海上を寇掠し、本路が兵を集めてこれを撃つと、潰走して去った。