宋史

列傳第九十四 种世衡子:古 諤 誼 孫:樸 師道 師中

种世衡

种世衡、字は仲平、种放の兄の子なり。少より気節を尚び、兄弟にその財産を分けようとする者あれば、ことごとくこれを推して与え、ただ図書を取るのみなり。种放の蔭により将作監主簿に補せられ、累遷して太子中舍となる。

嘗て涇陽県の知事を務む。里胥の王知謙、姦利の事を以て敗れ、法は徙刑に当たるも、遁れ去る。郊赦に比して輒ち出づ。世衡曰く「府に送れば則ち赦に会す」と。その脊を杖ち、府に罪を請う。知府の李諮、これを奏して釈す。後に鳳州の通判となる。州将の王蒙正は、章献后の姻家なり。その為すところ不法なり。嘗て世衡に私事を干すも、聴かず。蒙正怒り、乃ち知謙を誘いて冤を訟せしめ、陰にこれを助く。世衡、坐して竇州に流され、汝州に徙る。弟の世材、一官を上って以て贖い、孟州司馬と為る。久しくして、龍図閣直学士の李紘、その誣を弁じ、宋綬・狄棐継いでこれを言う。衛尉寺丞を除かれ、歴て随州の酒を監み、同州・鄜州判官事を簽書す。

西辺に兵を用い、守備足らず。世衡建言す。延安の東北二百里に故き寛州あり、その廃壘に因りてこれを興し、以て寇衝に当て、右は延安の勢を固くし、左は河東の粟を致し、北は銀・夏の旧を図らんことを請う。朝廷これに従い、命じてその役を董ぜしむ。夏人屡出で争うも、世衡戦いながらこれを城す。然れども険に処りて泉無し。議して守るべからずとす。地を鑿つこと百五十尺、始めて石に至る。石工、穿つべからずと辞す。世衡、石を屑かせて一畚に百銭を酬うるを命ず。卒に泉を得たり。城成り、名を青澗城と賜う。内殿崇班に遷り、城事を知る。営田二千頃を開き、商賈を募り、本銭を貸し、以て貨を通じその利を贏かしむ。城遂に富実す。間に行きて部族を部し、酋長を慰労し、或いは解いてその服する帯を与う。嘗て客を会して飲む。敵情を得て来たり告ぐる者あれば、即ち飲器を以てこれを予う。これによりて属羌皆用いられるを楽しむ。再び遷りて洛苑副使・環州知事となる。

蕃部に牛家族の奴訛という者あり、素より屈強にして、未だ嘗て出でて郡守に謁せず。世衡の至るを聞き、遽かに郊迎す。世衡と約す。明日当にその帳に至り、往きて部落を労わんと。この夕大雪、深さ三尺。左右曰く「地険にして往くべからず」と。世衡曰く「吾方に諸羌を結ぶに信を以てす。期を失うべからず」と。遂に険に縁りて進む。奴訛方に帳中に臥す。世衡必ず至ること能わざるべしと謂う。世衡蹴って起つ。奴訛大いに驚きて曰く「前に此れ未だ嘗て官の吾が部に至る者あらず。公乃ち我を疑わざるか」と。その族を率いて羅拜し、命を聴く。

羌酋の慕恩、部落最も強し。世衡嘗て夜にこれと飲み、侍姫を出だして以て酒を佐けしむ。既にして世衡起ちて内に入り、壁隙に潜りてこれを窺う。慕恩窃かに侍姫と戯る。世衡遽かに出でてこれを掩う。慕恩慙懼して罪を請う。世衡笑いて曰く「君これを欲するか」と。即ち以てこれを遺う。これによりてその死力を得たり。諸部に貳する者あれば、これに討たしむるに克たざるは無し。兀二族あり。世衡これを招くも至らず。即ち慕恩に命じて兵を出しこれを誅せしむ。その後百余帳皆自ら帰す。敢えて貳する者無し。因りて諸族に令して烽火を置かしむ。急あれば則ち燧を挙げ、馬に介して以て待たしむ。

葛懐敏敗るるや、羌兵数千人を率いて以て涇原を振わしむ。敢えて後るる者無し。嘗て吏民に射を課す。過失あれば、射中すれば則ちその罪を釈く。某事を辞し、某事を請うれば、輒ち中否に因りて与奪す。人人自ら厲しみ、皆射に精し。これによりて数年、敵敢えて環境に近づかず。

東染院使・環慶路兵馬鈐轄に遷る。范仲淹、檄をして蒋偕と細腰城を築かしむ。世衡時に病に臥す。即ち起ち、将いる所の甲士を率いて昼夜興築す。城成りて卒す。

初め、世衡青澗城に在りし時、元昊未だ臣せず。その貴人野利剛浪㖫・遇乞兄弟、材謀有り、皆大王と号す。親信として事を用い、辺臣謀を以てしてこれを間わんと欲す。慶暦二年、鄜延経略使の龐籍、両たび保安軍守の劉拯に書を為し、蕃部の破醜を賂して以て野利兄弟に達せしむ。而して涇原路の王沿・葛懐敏も亦人を遣わし書及び金宝を持たせて以て遇乞に遣わす。会に剛浪㖫、浪埋・賞乞・媚娘等三人をして世衡に詣り降を請わしむ。世衡その詐を知りて曰く「これを殺すに若くは、因りて以て間と為さん」と。留めて商税を監せしめ、出入騎従甚だ寵す。僧の王光信という者あり。趫勇にして騎射に善くし、蕃部の山川道路を習い知る。世衡兵を出すに、常にこれをして郷導たらしめ、数えざる族帳を蕩す。奏して以て三班借職と為し、名を嵩と改めしむ。世衡蠟書を為り、嵩を遣わして剛浪㖫に遺わす。言うに浪埋等已に至り、朝廷王の漢に向かう心あるを知り、命じて夏州節度使と為し、奉銭月万緡、旌節已に至れりと。その帰附を趣し、棗を以て画亀に綴じ、その早く帰るの意を喩す。剛浪㖫書を得て大いに懼れ、自ら治むる所より嵩を執り元昊に帰す。元昊、剛浪㖫己に貳するを疑い、還って治むる所を得ざらしめ、且つ嵩を穽中に錮す。その臣李文貴をして剛浪㖫の旨を以て世衡に報ぜしめ、且つ遺わす所の書の意を達せず、或は和を通ぜんことを許し、願わくば一言を賜わんとす。世衡以て籍に白す。時に朝廷已に招拊せんと欲す。籍、文貴を召し至らしめ、国家の寛大開納の意を諭し、縦ちして還り報ぜしむ。元昊報を得て、嵩を出だし、これを礼すること甚だ厚くし、文貴と偕に来たらしむ。ここより継いで使者を遣わし降を請い、遂に旧の如く臣と称す。世衡、野利兄弟已に誅せられたるを聞き、文を為りて境を越えてこれを祭る。籍、嵩の労を疏し、具に元昊未だ通ぜざりし時、世衡策を画し嵩を遣わし艱険を冒してその君臣を間わし、遂に猜貳を成し、此れに因りて中国と通ぜしむるを言う。嵩の官を優に進めんことを請う。三班奉職に遷る。後、嵩対に因りて自ら陳す。又進みて侍禁・閤門祗候となる。

世衡死す。籍、枢密使と為る。世衡の子の古、上書して父の功を訟う。籍に抑えらる。古復た上書す。遂に世衡を贈りて成州団練使と為し、詔して流内銓に古に大県の簿尉を授け、本貫に押し還さしむ。籍既に罷まる。古復た理を弁す。下して御史に考験せしむ。籍の前に奏せし王嵩の疏を以て定めと為す。詔してその事を史官に付し、古に従い官して便郡に便せしむるを聴す。

世衡辺に在ること数年、穀を積み貨を通じ、至る所県官の兵を益し饋を増すを煩わさず。士卒を善く撫養し、病む者には一子を遣わして専らその飲食湯剤を視せしむ。以て故に人の死力を得たり。及び卒すや、羌酋朝夕臨む者数日、青澗及び環の人皆画象してこれを祠る。子:古・諤・診、皆将材有り、関中に号して「三種」と曰う。誼はその幼子なり。孫:朴・師道・師中。

子 古

古、字は大質、少より従祖の放の為人を慕い、科挙に事とせず。官に任ずるに当たり、弟に与うるを以て辞す。時に「小隠君」と称す。世衡卒し、古を録して天興尉と為し、累転して西京左蔵庫副使・涇原路都監・原州知事となる。

羌人が辺境を侵犯したので、古はこれを防ぎ、数百の首級を斬った。鎮戎軍の北に城を築き、要害の地を占拠した。神宗が召して対面させ、通事舍人に昇進させ、その三人の弟に官職を与えた。弟の診とともに環州の折薑会を破り、二千の首級を斬り、西上閤門副使に昇進した。熟羌に田地を安値で売り渡して賦役を逃れようとする民がいたので、古はその状況を調査し、良田三千頃と丁男四千人を得て、すべてを民兵に編入した。環慶路・永興軍路の鈐轄を歴任した。

范純仁を不当に訴えた罪で、一官を剥奪され、寧州知州となり、鎮戎軍に移った。熙河路の軍十万がその地域を通る際、糧秣を必要としたが、幕僚たちは他の路に言わせようとした。古は言った、「皆、王師である。」と命じて供給させた。また鄜州・隰州の二州に移り、七十歳で没した。

古は孝義に明達であった。弟の諤が独断で出兵した罪で投獄されると、官職を返上してその罪を贖おうと請願した。世衡が張問に田地千畝を遺贈したが、問はそれを返した。世衡が死んだ後も、古は結局受け取らなかった。しかし、世衡は范仲淹に知遇を得て、青澗城の功績を立てたのに対し、古は私怨で純仁を訴えたので、士論は彼を軽んじた。

子に諤あり。

諤は、字を子正といい、父の任子により累進して左蔵庫副使となり、延州の帥(経略使)陸詵に推薦されて青澗城知事となった。

夏の酋長令㖫が内附を願い出たが、陸詵は事を生じるのを恐れて受け入れようとしなかった。諤はこれを受け入れるよう請うた。夏人が返還を要求してきたので、詵がどう返答すべきか尋ねると、諤は言った、「もしどうしても令㖫を要求するなら、景詢を連れてきて交換すべきである。」と。そこで取りやめになった。景詢とは、中国から亡命して彼の地に至った者である。

夏の将軍嵬名山の部族は旧綏州におり、その弟の夷山が先に降伏していた。諤は夷山を通じて名山を誘い、金の盂で賄賂を贈った。名山の小役人李文喜がこれを受け取って降伏を承諾したが、名山自身はまだ知らなかった。諤はすぐにこれを上奏し、詔により転運使薛向と陸詵に諤に命じて招納させた。諤は返答を待たず、配下の兵をすべて率いて長駆して前進し、その陣営を包囲した。名山は驚き、槍を取って戦おうとしたが、夷山が叫んだ、「兄はすでに降伏を約束したのに、どうしてそんなことをするのか。」と。文喜はそこで受け取った金の盂を示した。名山は槍を投げ出して泣き、ついに配下を率いて諤に従って南に下った。酋長三百人、戸一万五千、兵一万人を得た。城を築こうとしたが、陸詵は詔勅なく出兵したとして、諤を召還した。軍は懐遠に駐屯し、朝起きて髪を梳いていると、敵四万の兵が集まり、城に迫って陣を敷いた。諤は門を開いて待ち、名山に新たに降伏した百余人を率いさせて挑戦させ、諤の兵がその後を継ぎ、太鼓を鳴らして進撃した。晋祠に至って険要の地を占拠し、偏将の燕達・劉甫を両翼とし、自らは中軍となり、陣営を閉じて、すべての老弱者に城壁に登らせ鬨の声を上げさせて賊を疑わせた。やがて合戦となり、二十里を追撃し、多くの捕虜と首級を得て、ついに綏州に城を築いた。陸詵は諤が独断で出兵し、しかも指揮に従わなかったことを弾劾し、捕らえて処罰しようとしたが、果たさないうちに詵は秦州に移った。言官たちが相次いで攻撃したので、ついに獄吏に下され、四階級降格され、随州に安置された。ちょうど侯可が水利のことで入朝して謁見した際、神宗がこの件について尋ねると、侯可は答えて言った、「种諤は密旨を奉じて綏州を取ったのに罪を得たのでは、今後どうして人を使うことができましょうか。」と。帝もまた後悔し、その官職を回復させた。

韓絳が陝西宣撫使となると、諤を鄜延路鈐轄に任用した。韓絳は囉兀に城を築き、横山を経略しようとし、諤に兵二万を率いて無定川から出撃させ、諸将にすべてその指揮下に入るよう命じ、河東の兵を起こして銀州で合流させた。城が完成したが慶州の兵卒が反乱を起こしたので、詔により出兵を中止し、囉兀を放棄し、諤は汝州団練副使に降格された。さらに賀州別駕に左遷され、単州に移り、また華州に移った。韓絳が再び宰相となると、彼の以前の功績を訴え出て、礼賓副使・岷州知州に復帰させた。董氈の将軍鬼章が洮州・岷州に兵を集め、新たな羌族の多くが反旗を翻したので、諤は討伐して襲撃し、これを誅殺した。李憲に従って塞外に出撃し、洮州を奪回し、逋宗・講珠・東宜の諸城を陥落させ、大河に至るまで掩撃し、七千の首級を斬った。

東上閤門使・文州刺史・涇州知事に昇進し、鄜延路副総管に移った。上奏して言った、「夏主の秉常がその母に囚われている。急いで本路の官軍をもってその巣窟を突くべきである。」と。ついに入朝して対面し、大言壮語して言った、「夏国には人材がおらず、秉常は幼子である。臣が行ってその腕を掴んで連れて参りましょう。」と。帝はその気概を賞賛し、西方討伐を決意し、諤を経略安撫副使とし、諸将はすべてその指揮下に入るよう命じた。諤はすぐに国境に駐屯したが、帝は諤が時期より早く軽率に出撃したとして、王中正の命令に従わせた。敵は夏州に兵を駐屯させていた。諤は本路と畿内の七将の兵を率いて米脂を攻撃したが、三日経っても陥落しなかった。夏の兵八万が救援に来たので、諤は無定川でこれを防ぎ、伏兵が現れてその前後を断ち、大破し、守将の令介訛遇を降伏させた。勝利の報告が届くと、帝は大いに喜び、群臣が祝賀し、中使を派遣して褒賞を伝えさせ、王中正を罷免した。諤は千人を残して米脂を守らせ、進軍して銀州・石州・夏州に駐屯したが、敵に遭遇しなかった。初め、詔勅では霊武で合流することになっていたが、諤は迂回して進まず、兵士は飢え疲れ、糧秣輸送が続かないことを転運使の李稷の罪に帰そうとした。麻家平に駐屯した時、大校の劉帰仁が兵を率いて潰走したので、詔により帰還を命じられた。それでも鳳州団練使・龍神衛四廂都指揮使に昇進した。

諤の横山を占拠しようとする志はまだやまず、子の朴にその策を上奏させた。帝は朴を召して状況を問い、閤門祗候に抜擢した。横山に城を進めようとし、徐禧と李舜挙を鄜延路に派遣して協議させた。諤は言った、「横山は千里にわたって広がり、馬が多く農耕に適し、人々は剛健で戦いに長け、さらに塩鉄の利があり、夏人はこれに頼って生きている。その城砦はすべて要害を押さえ、守備に十分である。今、事業を起こすなら、銀州から始めるべきである。次に宥州に移り、さらに次に夏州を修復する。この三郡が鼎立すれば、横山の地はすでにその中に包み込まれる。さらに次に塩州を修復すれば、横山の強兵・戦馬・山沢の利は、すべて中国に帰する。その地勢は高所にあり、興州・霊州を見下ろし、まっすぐにその巣窟を覆すことができる。」と。しかし徐禧と沈括は銀州を移転し、永楽に城を築くことを決定し、諤の当初の計画と異なったため、諤を延州に留めて守らせるよう上奏した。やがて永楽が包囲されると、諤は傍観して救援せず、帝はその後の働きを期待して、不問に付した。さらに賊が来襲することを憂慮し、そのまま延州知事に任命した。背中にできものができて没した。五十七歳。

諤は兵士を統率するのに長け、敵に臨んで奇策を出し、戦えば必ず勝った。しかし、欺瞞に満ち残忍で、側近に罪があればすぐに斬り、あるいは先に肺肝をえぐり出し、座っている者が顔を覆う中、諤は平然と飲食した。敵もまたその敢闘ぶりを恐れたので、たびたび功績を立てた。李稷が軍に糧秣を輸送した時、朝に諤の陣営に入ると、軍吏が太鼓を鳴らして声を上げた。諤は呼んで吏に尋ねた、「軍に将帥は幾人いるのか。お前の頭を借りて運使の代わりとしよう。」と。すぐに叱りつけて斬らせた。李稷は恐れ慌てて出て行った。かつて黄河を渡った時、突然敵に遭遇し、門下の客に欺いて言った、「事態は切迫している。私の衣を着て、私の馬に乗り、旗鼓を従えた千騎とともに、急いで本軍に向かえ。」と。客はこれを信じ、敵は諤と思って追撃し、ほとんど死を免れなかった。熙寧年間に初めて綏州を開いて以来、後に二度にわたる西征も、すべて彼がその兆しを謀り、ついに永楽の禍を招いた。議論する者は、諤が死ななければ、辺境の戦いは終わらないだろうと言った。

子に誼あり。

誼は、字を寿翁という。熙寧年間、古が入朝して対面した時、神宗がその家系を尋ね、誼に官職を与えるよう命じた。高遵裕に従って洮州・岷州を奪回し、また山後の羌を平定し、熙河路副将に至った。

青唐に使いし時、董氈は鬼章をして境上に迎えさせ、道を取らしむるに故に迂回せしめ、以て険遠を誇らしむ。誼は固より其の地里に習ひ、之を誚りて曰く、「爾は坎井の間に跳梁し、我の遠近を知らざるを謂ふか」と。便道に趨らしむるを命ず。鬼章怒り、兵を以て脅すも、誼の声気動かず、遂に塗を改む。外にして路都監と為る。蘭州より河を渡り賊を討ち、首級六百を斬り、累ねて転じて西京使と為る。元祐初、岷州を知る。鬼章は景思立を誘ひ殺し、後益々自ら矜り、大いに故土を窺ふの心有り、其の子をして宗哥に詣らしめ益兵を請ひて入寇せしめ、且つ属羌を結びて内応と為さしむ。誼其の情を刺探し得、上疏して之を除かんことを請ふ。詔して游師雄を遣はし就きて利害を商はしむ、遂に姚兕と合兵して出討す。羌迎へ戦ひ、之を撃ち走らしめ、奔るを追ひて洮州に至る。誼急ぎ進攻す、晨霧野を蔽ひ、跬歩も辨ふ可からず。誼曰く、「吾が軍遠く来る、彼固より厚薄を知らず、此に乗じて一鼓の下にす可し」と。遂に親しく之を鼓す。有りて頃し、霧霽る、先登する者已に城を得、鬼章就きて執はる。誼戯れに之を問ひて曰く、「別後安否」と。対ふる能はず、徐ろに人に謂ひて曰く、「我生悪しむ种使、今日果たして為に所擒せらる。天我をして故土を復た有たしめず、命なり」と。遂に俘虜として以て帰す。西上閤門使・康州刺史を拝し、徙めて鄜州を知る。

夏人延安を犯す、趙禼誼をして諸将を統べしむ。敵誼の至るを聞き、皆潰走す。延人の謂ふ、「誼を得れば、精兵二十万に勝る」と。熙河鈐轄・蘭州知事に進む。蘭と通遠とは皆絶塞にて、中間の保障相接せず、腴田多く棄てて耕さず、誼李諾平に城して衝要を扼せんことを請ふ。会ひて東上閤門使・保州団練使に遷り、卒す、年五十五。

誼は倜儻として気節有り、書を読むを喜ぶ。軍に蒞るに整厳にして、令一下れば、死すとも避けず;敵に遇へば、勝たざるを度りて出でず、故に毎戦未だ嘗て負敗せず。岷羌の酋長包順・包誠は功を恃みて驕恣す、前守務めて姑息す、誼至りて、厚く之を待つ。適ひ小過有り、吏を叱して下し、将に法を置かんとす、順・誠頭を叩きて罪に伏し、命を効ひて以て贖はんことを願ふ、乃ち金を輸して之を出ださしむ、群羌畏惕す。及び洮州の役、二人の功最も多し。

孫 朴

朴は父の任により右班殿直と為り、労を積み、遷りて皇城使・昌州刺史に至り、徙めて熙河蘭会鈐轄兼河州知事、洮西沿辺公事を安撫す。

河南の蕃部叛き、属羌阿章は他族を率ひて官軍に拒ぐ、熙帥胡宗回は朴をして出討せしむ。時に朴の州に至るや纔に二日、賊鋒方に鋭く、且つ盛寒なれば、姑く之を徐ろにせんと欲すれども、宗回馳檄六七至り、已むを得ず、遂に兵を出す。羌朴の来るを知り、伏して以て待つ。朴伏に遇ひ、首尾相応ぜず、朴殊に死戦し、賊の為に所殺せられ、馬を以て其の屍を負ひ去る。羌勝に乗じて北を追ふ。師還りて隘に遇ひ、壅迮して行くを得ず。偏将王舜臣なる者は射を善くし、弓を以て臂に掛け、独り敗軍の後に立つ。羌来る可きこと万騎、七人介馬して先んずる者有り。舜臣念ふ、此れ必ずや羌酋の尤も桀黠なる者ならん、之を先に殪さずんば、吾が軍必ず尽きんと。乃ち宣言して曰く、「吾れ最も先行する者の眉間に花を挿せんことを令す」と。弓を引きて三発し、三人を隕し、皆面に中つ;余る四人反走し、矢其の背を貫く。万騎𥈭眙して敢へて前る莫く、舜臣因りて衆を整ふるを得。須臾、羌復た来る。舜臣申より酉に至るまで、矢を抽きて千余発す、虚なる者無し。指裂け、血流れて肘に至る。薄暮に及びて、乃ち隘を踰ゆるを得。将士気を奪はれ、復た敢へて戦を言ふ者無し。是の時に当たりて、舜臣微からざれば則ち師殲せられんとす。事聞こえ、朴に雄州防禦使を贈り、其の後十人を官す。

孫 師道

師道、字は彝叔。少くして張載に従ひ学び、蔭を以て三班奉職を補し、法を試み、文階に易へ、熙州推官・権同谷県と為る。県吏に田訟有り、二年を彌ぎて決せず。師道案牘を繙閲し、日力を窮めて竟はず、然れども訟ふる所は母及び兄に止まるのみ。吏を引いて之を詰へて曰く、「母・兄は、法に訟ふ可きか。汝再期郷里を擾はすに足るか未だ」と。吏頭を叩きて服罪す。

原州を通判し、秦鳳常平を提挙す。役法を議して蔡京の旨に忤ひ、換へて莊宅使・徳順軍知事と為る。又た其の先烈を詆毀すと謂ひ、罷めて党籍に入れ、屏廢十年。武功大夫・忠州刺史・涇原都鈐轄を以て懷徳軍を知る。夏国境を画す、其の人焦彦堅は必ず故地を得んと欲す、師道曰く、「故地を言ふ如くは、当に漢・唐を以て正とすべし、則ち君家の疆土益々蹙からん」と。彦賢以て対ふる無し。

童貫兵柄を握りて西し、威福を翕張し、見る者皆旅拝す、師道長揖するのみ。闕に詣らしめ召し、徽宗辺事を以て訪ふ、対へて曰く、「先づ勝つ可からざるを為し、来らば則ち之に応ず。妄動して事を生ずるは、計に非ず」と。貫内郡の弓箭手を徙めて辺を実にし、而して新辺の募る所と指すを議す。帝復た之を訪ふ、対へて曰く、「臣遠方を勤むるの功未だ立たずして、近く擾はす先づ及ばんことを恐る」と。帝其の言を善しとし、襲衣・金帯を賜ひ、以て秦鳳弓箭手提挙と為す。時に五路並びに官を置く、帝之に謂ひて曰く、「卿は、吾の親しく擢く所なり」と。貫滋に悦ばず、師道拝するを敢へず、請ふを以て、崇福宮提挙を得。久しくして、西安州を知る。

夏人定辺を侵し、佛口城を築く、師を率ひて往きて之を夷す。始めて至りて甚だ渇す、師道山の西麓を指して曰く、「是に水有るべし」と。工を命じて之を求めしむ、果たして水山谷に満つるを得。累ねて遷りて龍神衛四廂都指揮使・洺州防禦使・渭州知事と為る。諸道の兵を督して席葦に城し、土工を賦す、敵至り、堅く葫蘆河に壁す。師道河滸に陳し、将に決戦せんとする者の如し。陰に偏将曲克を遣はし径ちに横嶺より出で、援兵至ると揚言す、敵方に駭顧するに、楊可世潜軍して其の後に軍し、姚平仲精甲を以て衷より之を撃つ、敵大いに潰え、首級五十を斬り、橐駝・馬牛万計を獲、其の酋僅かに身を以て免る。卒ひに城して還る。

又た詔して陝西・河東七路の兵を帥ひて臧底城を征し、期すに旬日を以て必ず克たんと。既に城下に薄るも、敵守備甚だ固し。官軍小怠す、列校胡床に据りて自ら休む者有り、立ちて之を斬り、屍を軍門にす。令して曰く、「今日城下らざれば、此れを視よ」と。衆股栗し、噪きて城に登れば、城即ち潰く、時に兵至る纔に八日。帝捷書を得て喜び、侍衛親軍馬軍副都指揮使・応道軍承宣使に進む。

童貫に従ひて都統制と為り、保静軍節度使を拝す。貫燕を伐たんと謀り、師道をして尽く諸将を護らしむ。師道諫めて曰く、「今日の挙は、譬へば盗隣家に入るを救ふ能はず、又た之に乗じて其の室を分かつが如し、乃ち不可なること無からんや」と。貫聴かず。既に白溝に次ぐ、遼人噪きて前り、士卒多く傷つく。師道先づ人をして一の巨梃を持たしめて自ら防がしむ、頼りて以て大敗せず。遼使来りて請ひて曰く、「女真の本朝に叛くは、亦た南朝の甚だ悪む所なり。今一時の利を射て、百年の好を棄て、豺狼の隣を結び、他日の禍を基づく、計を得たりと謂ふ可きか。災を救ひ隣を恤ふは、古今の通義、惟だ大国之を図らん」と。貫対ふる能はず、師道復た之を許す宜しと諫む、又た聴かず、密かに其の賊を助くると劾す。王黼怒り、責めて右衛將軍致仕と為し、而して劉延慶を用ひて之に代ふ。延慶盧溝に於て敗績す、帝其の言を思ひ、起して憲州刺史・環州知事と為し、俄かに還して保静軍節度使と為し、復た致仕す。

金軍が南下し、急遽彼を召し出し、検校少保・静難軍節度使・京畿河北制置使を加え、便宜に兵糧を徴発することを許した。師道はちょうど南山の豹林谷に居たが、命を聞くと直ちに東へ向かった。姚平仲の所を過ぎると、歩騎七千があり、彼と共に北進した。洛陽らくように至り、幹離不が既に京城の下に駐屯していると聞き、ある者は行くのを止めて言った、「賊の勢いは今鋭い。願わくは少し汜水に駐留し、万全の策を謀られよ。」師道は言った、「我が兵は少ない。もしぐずぐずして進まず、形勢が露見すれば、ただ辱めを受けるだけだ。今、太鼓を鳴らして進めば、彼らがどうして我が虚実を測れようか。都の人が我が来たるを知れば、士気は自ずから振るう。賊を憂えることなどない。」道沿いに掲示を立て、种少保が西兵百万を率いて来ると言った。遂に城西に到着し、汴水の南へ急ぎ、真っ直ぐに敵営に迫った。金軍は恐れ、砦をやや北へ移し、遊騎を収斂し、ただ牟駝岡を守り、塁を増して自衛した。

当時、師道は年齢が高く、天下で「老种」と称された。欽宗はその到着を聞き、大いに喜び、安上門を開き、尚書右丞李綱に迎えさせ慰労した。当時は既に和議が論じられており、入見すると、帝が問うた、「今日の事態について、卿の考えはどうか。」答えて言った、「女真は兵を知らない。孤軍を深入させて人の境内に入りながら、よくその帰還を果たせようか。」帝は言った、「既に講和したのだ。」答えて言った、「臣は軍旅の事をもって陛下に仕えます。それ以外は敢えて知りません。」検校少傅・同知樞密院・京畿両河宣撫使に任じられ、諸道の兵は皆その隷下となった。平仲を都統制とした。師道は当時病を患っており、拝礼をせぬよう命じ、肩輿での入朝を許された。金の使者王汭が朝廷で傲慢に振る舞っていたが、師道を見ると、拝跪の礼がやや礼にかなうようになった。帝は顧みて笑い、「彼は卿のためだ。」と言った。京城は包囲を受けて以来、諸門は全て閉ざされ、市には薪や野菜がなかった。師道は西・南の城壁を開き、民衆の出入りを常の如く許すよう請うた。金兵で偏将馬忠の軍を勝手に越えた者がおり、忠はその六人を斬った。金人が訴えに来ると、師道は境界旗を渡し、自ら制するようにさせ、その後敢えて越境する者は無かった。また、金幣を与えるのを遅らせ、彼らを怠惰に帰させ、黄河で扼して殲滅するよう請うたが、執政は認めなかった。

种氏と姚氏は共に山西の大族であり、平仲の父の古はちょうど熙河の兵を率いて入援していた。平仲は功名が独り种氏に帰することを憂慮した。そこで、兵士が速やかに戦えないことを言上して上聞に達した。李綱がその議を支持し、城下の兵に緩急あれば平仲の節度に従うよう命じた。帝は日々使者を遣わして師道に戦いを促したが、師道はその弟の秦鳳経略使師中の到着を待ちたいとし、春分を過ぎてからでなければ撃てないと奏上した。当時、その日まであと八日しかなかったが、帝は遅いと考え、結局平仲を用いて敵営を襲撃させ、敗北に至った。既に敗れた後、李邦彦が三鎮を割譲することを議し、師道は争ったが果たせなかった。李綱が罷免されると、太学の諸生や都人が宮門に伏して种・李に会いたいと願い、詔が下って鎮圧を促した。師道が車に乗って来ると、衆は簾を上げてそれを見て、「果たして我が公である。」と言い、相率いて声を上げて挨拶し散った。

金軍が退くと、中太一宮使に罷免された。御史中丞許翰が帝に会い、師道の兵権を解くのは宜しくないと述べた。上は言った、「師道は老いた。用いるのは難しい。卿に会わせよう。」殿門外で会わせた。師道は語らなかった。翰は言った、「国家に急がある。詔により疑わしいことを訪ねることを許されている。公、書生ゆえに談じることを肯んじないなかれ。」師道は初めて言った、「我は衆、彼は寡である。ただ兵を分けて営を結び、要地を控え守り、彼らの糧道を通じさせず、持久に坐すれば、破ることができる。」翰はその言葉を嘆賞し、再び上奏して師道の智慮は未だ衰えておらず、尚用いることができると述べた。そこで検校少師を加え、太尉に進め、節を鎮洮軍に換え、河北・河東宣撫使とし、滑州に屯したが、実際には兵を従えることは無かった。

師道は関中・河北の兵卒を合わせて滄・衛・孟・滑に屯させ、金兵の再来に備えるよう請うた。朝廷の議論では、大敵が退いたばかりで、師を労して弱みを見せるべきではないとして、採用されなかった。既にして師中が戦死し、姚古が敗れると、朝廷は震駭し、師道を召還した。太原が陥落すると、また辺境巡視を命じた。河陽に駐屯し、王汭に会い、敵が必ず大挙して来ると推測し、急ぎ上疏して長安ちょうあんに幸してその鋒を避けるよう請うた。大臣は臆病だと考え、また召還した。到着すると、病で会うことができなかった。十月、卒去。七十六歳。帝は臨奠し、慟哭し、開府儀同三司を追贈した。

京師が陥落すると、帝は胸を叩いて言った、「种師道の言を用いなかったために、ここに至ったのだ!」金兵が初めて退いた時、師道は以前の議論を繰り返し、帝に半渡りを撃つよう勧めたが、聞き入れられず、言った、「他日必ず国の患いとなろう。」故にその言葉を追って痛んだ。建炎年中、少保を加贈し、諡して「忠憲」といった。

孫に師中。

師中、字は端孺。環州・濱州・邠州・慶陽府・秦州の知事を歴任し、侍衛歩軍馬軍副都指揮使・房州観察使、奉寧軍承宣使となった。

金人が内侵すると、詔により秦鳳の兵を率いて入援するよう命じられたが、到着する前に敵が退いたため、二万人で滑を守った。副将として姚古を河北制置使とし、古は太原を援け、師中は中山・河間を援けた。ある者は師中に、磁州・相州から北進すれば、金人がもし太行山を下れば、勢い自ら還ることができず、これは段凝が河上に師を留めたのに等しいと言った。当時、大臣の立てる議は矛盾し、枢密院は敵を破ることを主とし、三省は護送して出させるよう命じた。師中が黄河を渡ると、即座上言した、「粘罕は既に沢州に至った。臣は邢州・相州の間から捷徑を出て上党に至り、その不意を衝こうと思う。当に逞しうべし。」朝廷は疑って用いなかった。幹離不が帰還すると、師中は追って境外に出した。粘罕が太原に至ると、諸県を悉く破り、鎖城法でこれを困らせ、内外相通じなかった。姚古は隆徳・威勝を回復し、南北関を扼したが、包囲を解くことはできなかった。そこで詔により師中は井陘道から出師し、古と犄角の勢いとなり、進んで平定軍に駐屯し、勝に乗じて寿陽・榆次を回復し、真定に留まって屯した。当時、粘罕は雲中で避暑し、兵を留めて分かれて畜牧に就き、偵察者は遁走しようとしていると思い、朝廷に報告した。知枢密院事の許翰がこれを信じ、数度使者を遣わして師中に出戦を督励し、かつ逗撓を責めた。師中は嘆いて言った、「逗撓は、兵家の大なる誅戮である。私は結髪して軍に従い、今老いた。どうしてこれを受けて罪とされることを忍ぼうか。」即日、厳(装備)を整え、古及び張灝と共に進むことを約し、輜重や賞与の品は、皆従行する暇がなかった。五月、寿陽の石坑に到着し、金軍に襲撃された。五度戦って三度勝ち、引き返して榆次に向かった。太原から百里の所で、古と灝は期に遅れて到着せず、兵は甚だ飢えていた。敵はこれを知り、衆を悉く挙げて攻め、右軍は潰え、前軍もまた奔った。師中は独り麾下を率いて死戦し、卯の刻から巳の刻まで、士卒は神臂弓を発して金兵を射退けたが、賞与が届かず、皆憤怨して散り去り、留まった者は僅か百人であった。師中は身に四ヶ所の創傷を受け、力を病みながら戦って死んだ。

師中は老成で持重であり、当代の名将であった。諸軍はこれより気を奪われた。劉韐が言うには、「師中は命を聞けば即ち行き、奮って身を顧みず、古の忠臣といえども、これを過ぎることはない。」優れた追贈を加え、国に死する者を勧めるよう請うた。詔により少師を追贈し、諡して「莊湣」といった。

論ずるに、宋は五代の藩鎮の弊を懲らしめ、やや逢掖(文官)を用いて辺境を治め、介冑(武官)を領せしめた。しかし兵勢は国の大事にして、平素より明らかに習熟せずして、急遽危難の際に応変決策せんと欲するは、豈に倒れざらんや。种氏は世衡が青澗に功を立てしより、士卒を撫循し、威は羌・夏を動かし、諸子皆将材あり、師道・師中に至るまで既に三世、山西の名将と号せらる。徽宗は宦豎を任用して辺釁を起こし、師道の言は用いられず、遂に南北の禍の基と為る。金は孤軍を以て深入す、師道は西師の至るを遅らせて之を撃たんことを請い、長駆して上党に至らんとし;師中は其の背を出でて以て之を掩わんと欲す、至計と謂うべし。李綱・許翰顧みて怯緩逗撓と為し、動もすれば機会を失い、遂に大衄に至り、而して国随に以て敗る、惜しいかな。