宋史

列傳第九十四 种世衡子:古 諤 誼 孫:樸 師道 師中

列傳第九十四 种世衡子:古 諤 誼 孫:樸 師道 師中

种世衡

原文种世衡

种世衡、字は仲平、种放の兄の子なり。少より気節を尚び、兄弟にその財産を分けようとする者あれば、ことごとくこれを推して与え、ただ図書を取るのみなり。种放の蔭により将作監主簿に補せられ、累遷して太子中舍となる。

原文种世衡,字仲平,放之兄子也。少尚氣節,昆弟有欲析其貲者,悉推與之,惟取圖書而已。以放蔭補將作監主簿,累遷太子中舍。

嘗て涇陽県の知事を務む。里胥の王知謙、姦利の事を以て敗れ、法は徙刑に当たるも、遁れ去る。郊赦に比して輒ち出づ。世衡曰く「府に送れば則ち赦に会す」と。その脊を杖ち、府に罪を請う。知府の李諮、これを奏して釈す。後に鳳州の通判となる。州将の王蒙正は、章献后の姻家なり。その為すところ不法なり。嘗て世衡に私事を干すも、聴かず。蒙正怒り、乃ち知謙を誘いて冤を訟せしめ、陰にこれを助く。世衡、坐して竇州に流され、汝州に徙る。弟の世材、一官を上って以て贖い、孟州司馬と為る。久しくして、龍図閣直学士の李紘、その誣を弁じ、宋綬・狄棐継いでこれを言う。衛尉寺丞を除かれ、歴て随州の酒を監み、同州・鄜州判官事を簽書す。

原文嘗知涇陽縣,里胥王知謙以姦利事敗,法當徙,遁去。比郊赦輒出,世衡曰:「送府則會赦」,杖其脊而請罪于府,知府李諮奏釋之。後通判鳳州。州將王蒙正,章獻后姻家也,所為不法。嘗干世衡以私,不聽,蒙正怒,乃誘知謙訟冤而陰助之,世衡坐流竇州,徙汝州。弟世材上一官以贖,為孟州司馬。久之,龍圖閣直學士李紘為辨其誣,宋綬、狄棐繼言之,除衛尉寺丞,歷監隨州酒,簽書同州、鄜州判官事。

西辺に兵を用い、守備足らず。世衡建言す。延安の東北二百里に故き寛州あり、その廃壘に因りてこれを興し、以て寇衝に当て、右は延安の勢を固くし、左は河東の粟を致し、北は銀・夏の旧を図らんことを請う。朝廷これに従い、命じてその役を董ぜしむ。夏人屡出で争うも、世衡戦いながらこれを城す。然れども険に処りて泉無し。議して守るべからずとす。地を鑿つこと百五十尺、始めて石に至る。石工、穿つべからずと辞す。世衡、石を屑かせて一畚に百銭を酬うるを命ず。卒に泉を得たり。城成り、名を青澗城と賜う。内殿崇班に遷り、城事を知る。営田二千頃を開き、商賈を募り、本銭を貸し、以て貨を通じその利を贏かしむ。城遂に富実す。間に行きて部族を部し、酋長を慰労し、或いは解いてその服する帯を与う。嘗て客を会して飲む。敵情を得て来たり告ぐる者あれば、即ち飲器を以てこれを予う。これによりて属羌皆用いられるを楽しむ。再び遷りて洛苑副使・環州知事となる。

原文西邊用兵,守備不足。世衡建言,延安東北二百里有故寬州,請因其廢壘而興之,以當寇衝,右可固延安之勢,左可致河東之粟,北可圖銀、夏之舊。朝廷從之,命董其役。夏人屢出爭,世衡且戰且城之。然處險無泉,議不可守。鑿地百五十尺,始至於石,石工辭不可穿,世衡命屑石一畚酬百錢,卒得泉。城成,賜名青澗城。遷內殿崇班、知城事。開營田二千頃,募商賈,貸以本錢,使通貨贏其利,城遂富實。間出行部族,慰勞酋長,或解與所服帶。嘗會客飲,有得敵情來告者,即以飲器予之,繇是屬羌皆樂為用。再遷洛苑副使、知環州。

蕃部に牛家族の奴訛という者あり、素より屈強にして、未だ嘗て出でて郡守に謁せず。世衡の至るを聞き、遽かに郊迎す。世衡と約す。明日当にその帳に至り、往きて部落を労わんと。この夕大雪、深さ三尺。左右曰く「地険にして往くべからず」と。世衡曰く「吾方に諸羌を結ぶに信を以てす。期を失うべからず」と。遂に険に縁りて進む。奴訛方に帳中に臥す。世衡必ず至ること能わざるべしと謂う。世衡蹴って起つ。奴訛大いに驚きて曰く「前に此れ未だ嘗て官の吾が部に至る者あらず。公乃ち我を疑わざるか」と。その族を率いて羅拜し、命を聴く。

原文蕃部有牛家族奴訛者,素屈強,未嘗出謁郡守,聞世衡至,遽郊迎。世衡與約,明日當至其帳,往勞部落。是夕大雪,深三尺。左右曰:「地險不可往。」世衡曰:「吾方結諸羌以信,不可失期。」遂緣險而進。奴訛方臥帳中,謂世衡必不能至,世衡蹴而起,奴訛大驚曰:「前此未嘗有官至吾部者,公乃不疑我耶!」率其族羅拜聽命。

羌酋の慕恩、部落最も強し。世衡嘗て夜にこれと飲み、侍姫を出だして以て酒を佐けしむ。既にして世衡起ちて内に入り、壁隙に潜りてこれを窺う。慕恩窃かに侍姫と戯る。世衡遽かに出でてこれを掩う。慕恩慙懼して罪を請う。世衡笑いて曰く「君これを欲するか」と。即ち以てこれを遺う。これによりてその死力を得たり。諸部に貳する者あれば、これに討たしむるに克たざるは無し。兀二族あり。世衡これを招くも至らず。即ち慕恩に命じて兵を出しこれを誅せしむ。その後百余帳皆自ら帰す。敢えて貳する者無し。因りて諸族に令して烽火を置かしむ。急あれば則ち燧を挙げ、馬に介して以て待たしむ。

原文羌酋慕恩部落最強,世衡嘗夜與飲,出侍姬以佐酒。既而世衡起入內,潛於壁隙中窺之。慕恩竊與侍姬戲,世衡遽出掩之,慕恩慙懼請罪。世衡笑曰:「君欲之耶?」即以遺之,由是得其死力。諸部有貳者,使討之無不克。有兀二族,世衡招之不至,即命慕恩出兵誅之。其後百餘帳皆自歸,莫敢貳。因令諸族置烽火,有急則舉燧,介馬以待。

葛懐敏敗るるや、羌兵数千人を率いて以て涇原を振わしむ。敢えて後るる者無し。嘗て吏民に射を課す。過失あれば、射中すれば則ちその罪を釈く。某事を辞し、某事を請うれば、輒ち中否に因りて与奪す。人人自ら厲しみ、皆射に精し。これによりて数年、敵敢えて環境に近づかず。

原文葛懷敏敗,率羌兵數千人以振涇原,無敢後者。嘗課吏民射,有過失,射中則釋其罪;有辭某事、請某事,輒因中否而與奪之。人人自厲,皆精於射,繇是數年敵不敢近環境。

東染院使・環慶路兵馬鈐轄に遷る。范仲淹、檄をして蒋偕と細腰城を築かしむ。世衡時に病に臥す。即ち起ち、将いる所の甲士を率いて昼夜興築す。城成りて卒す。

原文遷東染院使、環慶路兵馬鈐轄。范仲淹檄令與蔣偕築細腰城,世衡時臥病,即起,將所部甲士晝夜興築,城成而卒。

初め、世衡青澗城に在りし時、元昊未だ臣せず。その貴人野利剛浪㖫・遇乞兄弟、材謀有り、皆大王と号す。親信として事を用い、辺臣謀を以てしてこれを間わんと欲す。慶暦二年、鄜延経略使の龐籍、両たび保安軍守の劉拯に書を為し、蕃部の破醜を賂して以て野利兄弟に達せしむ。而して涇原路の王沿・葛懐敏も亦人を遣わし書及び金宝を持たせて以て遇乞に遣わす。会に剛浪㖫、浪埋・賞乞・媚娘等三人をして世衡に詣り降を請わしむ。世衡その詐を知りて曰く「これを殺すに若くは、因りて以て間と為さん」と。留めて商税を監せしめ、出入騎従甚だ寵す。僧の王光信という者あり。趫勇にして騎射に善くし、蕃部の山川道路を習い知る。世衡兵を出すに、常にこれをして郷導たらしめ、数えざる族帳を蕩す。奏して以て三班借職と為し、名を嵩と改めしむ。世衡蠟書を為り、嵩を遣わして剛浪㖫に遺わす。言うに浪埋等已に至り、朝廷王の漢に向かう心あるを知り、命じて夏州節度使と為し、奉銭月万緡、旌節已に至れりと。その帰附を趣し、棗を以て画亀に綴じ、その早く帰るの意を喩す。剛浪㖫書を得て大いに懼れ、自ら治むる所より嵩を執り元昊に帰す。元昊、剛浪㖫己に貳するを疑い、還って治むる所を得ざらしめ、且つ嵩を穽中に錮す。その臣李文貴をして剛浪㖫の旨を以て世衡に報ぜしめ、且つ遺わす所の書の意を達せず、或は和を通ぜんことを許し、願わくば一言を賜わんとす。世衡以て籍に白す。時に朝廷已に招拊せんと欲す。籍、文貴を召し至らしめ、国家の寛大開納の意を諭し、縦ちして還り報ぜしむ。元昊報を得て、嵩を出だし、これを礼すること甚だ厚くし、文貴と偕に来たらしむ。ここより継いで使者を遣わし降を請い、遂に旧の如く臣と称す。世衡、野利兄弟已に誅せられたるを聞き、文を為りて境を越えてこれを祭る。籍、嵩の労を疏し、具に元昊未だ通ぜざりし時、世衡策を画し嵩を遣わし艱険を冒してその君臣を間わし、遂に猜貳を成し、此れに因りて中国と通ぜしむるを言う。嵩の官を優に進めんことを請う。三班奉職に遷る。後、嵩対に因りて自ら陳す。又進みて侍禁・閤門祗候となる。

原文初,世衡在青澗城,元昊未臣,其貴人野利剛浪㖫、遇乞兄弟有材謀,皆號大王。親信用事,邊臣欲以謀間之。慶曆二年,鄜延經略使龐籍,兩為保安軍守劉拯書,賂蕃部破醜以達野利兄弟,而涇原路王沿、葛懷敏亦遣人持書及金寶以遣遇乞。會剛浪㖫令浪埋、賞乞、媚娘等三人詣世衡請降,世衡知其詐,曰:「與其殺之,不若因以為間。」留使監商稅,出入騎從甚寵。有僧王光信者,趫勇善騎射,習知蕃部山川道路。世衡出兵,常使為鄉導,數蕩族帳,奏以為三班借職,改名嵩。世衡為蠟書,遣嵩遺剛浪㖫,言浪埋等已至,朝廷知王有向漢心,命為夏州節度使,奉錢月萬緡,旌節已至,趣其歸附,以棗綴畫龜,喻其早歸之意。剛浪㖫得書大懼,自所治執嵩歸元昊。元昊疑剛浪㖫貳己,不得還所治,且錮嵩穽中。使其臣李文貴以剛浪㖫旨報世衡,且言不達所遺書意,或許通和,願賜一言。世衡以白籍。時朝廷已欲招拊,籍召文貴至,諭以國家寬大開納意,縱使還報。元昊得報,出嵩,禮之甚厚,使與文貴偕來。自是繼遣使者請降,遂稱臣如舊。世衡聞野利兄弟已誅,為文越境祭之。籍疏嵩勞,具言元昊未通時,世衡畫策遣嵩冒艱險間其君臣,遂成猜貳,因此與中國通,請優進嵩官。遷三班奉職。後嵩因對自陳,又進侍禁、閤門祗候。

世衡死す。籍、枢密使と為る。世衡の子の古、上書して父の功を訟う。籍に抑えらる。古復た上書す。遂に世衡を贈りて成州団練使と為し、詔して流内銓に古に大県の簿尉を授け、本貫に押し還さしむ。籍既に罷まる。古復た理を弁す。下して御史に考験せしむ。籍の前に奏せし王嵩の疏を以て定めと為す。詔してその事を史官に付し、古に従い官して便郡に便せしむるを聴す。

原文世衡死,籍為樞密使。世衡子古上書訟父功,為籍所抑。古復上書,遂贈世衡成州團練使,詔流內銓授古大縣簿尉,押還本貫。籍既罷,古復辯理,下御史考驗,以籍前奏王嵩疏為定。詔以其事付史官,聽古從官便郡。

世衡辺に在ること数年、穀を積み貨を通じ、至る所県官の兵を益し饋を増すを煩わさず。士卒を善く撫養し、病む者には一子を遣わして専らその飲食湯剤を視せしむ。以て故に人の死力を得たり。及び卒すや、羌酋朝夕臨む者数日、青澗及び環の人皆画象してこれを祠る。子:古・諤・診、皆将材有り、関中に号して「三種」と曰う。誼はその幼子なり。孫:朴・師道・師中。

原文世衡在邊數年,積穀通貨,所至不煩縣官益兵增饋。善撫養士卒,病者遣一子專視其食飲湯劑,以故得人死力。及卒,羌酋朝夕臨者數日,青澗及環人皆畫象祠之。子:古、諤、診,皆有將材,關中號曰「三种」。誼,其幼子也。孫:朴、師道、師中。

子 古

原文子 古

古、字は大質、少より従祖の放の為人を慕い、科挙に事とせず。官に任ずるに当たり、弟に与うるを以て辞す。時に「小隠君」と称す。世衡卒し、古を録して天興尉と為し、累転して西京左蔵庫副使・涇原路都監・原州知事となる。

原文古,字大質,少慕從祖放為人,不事科舉。當任官,辭以與弟,時稱「小隱君」。世衡卒,錄古為天興尉,累轉西京左藏庫副使、涇原路都監、知原州。

羌人が辺境を侵犯したので、古はこれを防ぎ、数百の首級を斬った。鎮戎軍の北に城を築き、要害の地を占拠した。神宗が召して対面させ、通事舍人に昇進させ、その三人の弟に官職を与えた。弟の診とともに環州の折薑会を破り、二千の首級を斬り、西上閤門副使に昇進した。熟羌に田地を安値で売り渡して賦役を逃れようとする民がいたので、古はその状況を調査し、良田三千頃と丁男四千人を得て、すべてを民兵に編入した。環慶路・永興軍路の鈐轄を歴任した。

原文羌人犯塞,古禦之,斬級數百。築城鎮戎之北,以據要害。神宗召對,遷通事舍人,官其三弟。與弟診破環州折薑會,斬首二千級,遷西上閤門副使。民有損直鬻田於熟羌以避役者,古按其狀,得良田三千頃,丁四千,悉刺為民兵。歷環慶、永興軍路鈐轄。

范純仁を不当に訴えた罪で、一官を剥奪され、寧州知州となり、鎮戎軍に移った。熙河路の軍十万がその地域を通る際、糧秣を必要としたが、幕僚たちは他の路に言わせようとした。古は言った、「皆、王師である。」と命じて供給させた。また鄜州・隰州の二州に移り、七十歳で没した。

原文坐訟范純仁不當,奪一官,知寧州,徙鎮戎軍。熙河師十萬道境上,須芻糧,僚佐以他路為言。古曰:「均王師也。」命給之。又徙鄜、隰二州,卒,年七十。

古は孝義に明達であった。弟の諤が独断で出兵した罪で投獄されると、官職を返上してその罪を贖おうと請願した。世衡が張問に田地千畝を遺贈したが、問はそれを返した。世衡が死んだ後も、古は結局受け取らなかった。しかし、世衡は范仲淹に知遇を得て、青澗城の功績を立てたのに対し、古は私怨で純仁を訴えたので、士論は彼を軽んじた。

原文古明達孝義。弟諤坐擅興繫獄,乞納官贖其罪。世衡遺張問田千畝,問返之,而世衡死,古終不復受。然世衡受知於范仲淹,因立青澗功,而古以私憾訟純仁,士論少之。

子に諤あり。

原文子 諤

諤は、字を子正といい、父の任子により累進して左蔵庫副使となり、延州の帥(経略使)陸詵に推薦されて青澗城知事となった。

原文諤,字子正,以父任累官左藏庫副使,延帥陸詵薦知青澗城。

夏の酋長令㖫が内附を願い出たが、陸詵は事を生じるのを恐れて受け入れようとしなかった。諤はこれを受け入れるよう請うた。夏人が返還を要求してきたので、詵がどう返答すべきか尋ねると、諤は言った、「もしどうしても令㖫を要求するなら、景詢を連れてきて交換すべきである。」と。そこで取りやめになった。景詢とは、中国から亡命して彼の地に至った者である。

原文夏酋令㖫內附,詵恐生事,欲弗納,諤請納之。夏人來索,詵問所以報,諤曰:「必欲令㖫,當以景詢來易。」乃止。詢者,中國亡命至彼者也。

夏の将軍嵬名山の部族は旧綏州におり、その弟の夷山が先に降伏していた。諤は夷山を通じて名山を誘い、金の盂で賄賂を贈った。名山の小役人李文喜がこれを受け取って降伏を承諾したが、名山自身はまだ知らなかった。諤はすぐにこれを上奏し、詔により転運使薛向と陸詵に諤に命じて招納させた。諤は返答を待たず、配下の兵をすべて率いて長駆して前進し、その陣営を包囲した。名山は驚き、槍を取って戦おうとしたが、夷山が叫んだ、「兄はすでに降伏を約束したのに、どうしてそんなことをするのか。」と。文喜はそこで受け取った金の盂を示した。名山は槍を投げ出して泣き、ついに配下を率いて諤に従って南に下った。酋長三百人、戸一万五千、兵一万人を得た。城を築こうとしたが、陸詵は詔勅なく出兵したとして、諤を召還した。軍は懐遠に駐屯し、朝起きて髪を梳いていると、敵四万の兵が集まり、城に迫って陣を敷いた。諤は門を開いて待ち、名山に新たに降伏した百余人を率いさせて挑戦させ、諤の兵がその後を継ぎ、太鼓を鳴らして進撃した。晋祠に至って険要の地を占拠し、偏将の燕達・劉甫を両翼とし、自らは中軍となり、陣営を閉じて、すべての老弱者に城壁に登らせ鬨の声を上げさせて賊を疑わせた。やがて合戦となり、二十里を追撃し、多くの捕虜と首級を得て、ついに綏州に城を築いた。陸詵は諤が独断で出兵し、しかも指揮に従わなかったことを弾劾し、捕らえて処罰しようとしたが、果たさないうちに詵は秦州に移った。言官たちが相次いで攻撃したので、ついに獄吏に下され、四階級降格され、随州に安置された。ちょうど侯可が水利のことで入朝して謁見した際、神宗がこの件について尋ねると、侯可は答えて言った、「种諤は密旨を奉じて綏州を取ったのに罪を得たのでは、今後どうして人を使うことができましょうか。」と。帝もまた後悔し、その官職を回復させた。

原文夏將嵬名山部落在故綏州,其弟夷山先降,諤使人因夷山以誘之,賂以金盂,名山小吏李文喜受而許降,而名山未之知也。諤即以聞,詔轉運使薛向及陸詵委諤招納。諤不待報,悉起所部兵長驅而前,圍其帳。名山驚,援槍欲鬪,夷山呼曰:「兄已約降,何為如是?」文喜因出所受金盂示之,名山投槍哭,遂舉眾從諤而南。得酋領三百、戶萬五千、兵萬人。將築城,詵以無詔出師,召諤還。軍次懷遠,晨起方櫛,敵四萬眾坌集,傅城而陳。諤開門以待,使名山帥新附百餘人挑戰,諤兵繼之,鼓行而出。至晉祠據險,使偏將燕達、劉甫為兩翼,身為中軍,乃閉壘,悉老弱乘城鼓噪以疑賊。已而合戰,追擊二十里,俘馘甚眾,遂城綏州。詵劾諤擅興,且不稟節制,欲捕治,未果而詵徙秦。言者交攻之,遂下吏,貶秩四等,安置隨州。會侯可以言水利入見,神宗問其事,對曰:「种諤奉密旨取綏而獲罪,後何以使人?」帝亦悔,復其官。

韓絳が陝西宣撫使となると、諤を鄜延路鈐轄に任用した。韓絳は囉兀に城を築き、横山を経略しようとし、諤に兵二万を率いて無定川から出撃させ、諸将にすべてその指揮下に入るよう命じ、河東の兵を起こして銀州で合流させた。城が完成したが慶州の兵卒が反乱を起こしたので、詔により出兵を中止し、囉兀を放棄し、諤は汝州団練副使に降格された。さらに賀州別駕に左遷され、単州に移り、また華州に移った。韓絳が再び宰相となると、彼の以前の功績を訴え出て、礼賓副使・岷州知州に復帰させた。董氈の将軍鬼章が洮州・岷州に兵を集め、新たな羌族の多くが反旗を翻したので、諤は討伐して襲撃し、これを誅殺した。李憲に従って塞外に出撃し、洮州を奪回し、逋宗・講珠・東宜の諸城を陥落させ、大河に至るまで掩撃し、七千の首級を斬った。

原文韓絳宣撫陝西,用為鄜延鈐轄。絳城囉兀,規橫山,令諤將兵二萬出無定川,命諸將皆受節度,起河東兵會銀州。城成而慶卒叛,詔罷師,棄囉兀,責授汝州團練副使。再貶賀州別駕,移單州,又移華州。絳再相,訟其前功,復禮賓副使、知岷州。董氈將鬼章聚兵於洮、岷,新羌多叛,諤討襲誅之。從李憲出塞,收洮州,下逋宗、講珠、東宜諸城,掩擊至大河,斬首七千級。

東上閤門使・文州刺史・涇州知事に昇進し、鄜延路副総管に移った。上奏して言った、「夏主の秉常がその母に囚われている。急いで本路の官軍をもってその巣窟を突くべきである。」と。ついに入朝して対面し、大言壮語して言った、「夏国には人材がおらず、秉常は幼子である。臣が行ってその腕を掴んで連れて参りましょう。」と。帝はその気概を賞賛し、西方討伐を決意し、諤を経略安撫副使とし、諸将はすべてその指揮下に入るよう命じた。諤はすぐに国境に駐屯したが、帝は諤が時期より早く軽率に出撃したとして、王中正の命令に従わせた。敵は夏州に兵を駐屯させていた。諤は本路と畿内の七将の兵を率いて米脂を攻撃したが、三日経っても陥落しなかった。夏の兵八万が救援に来たので、諤は無定川でこれを防ぎ、伏兵が現れてその前後を断ち、大破し、守将の令介訛遇を降伏させた。勝利の報告が届くと、帝は大いに喜び、群臣が祝賀し、中使を派遣して褒賞を伝えさせ、王中正を罷免した。諤は千人を残して米脂を守らせ、進軍して銀州・石州・夏州に駐屯したが、敵に遭遇しなかった。初め、詔勅では霊武で合流することになっていたが、諤は迂回して進まず、兵士は飢え疲れ、糧秣輸送が続かないことを転運使の李稷の罪に帰そうとした。麻家平に駐屯した時、大校の劉帰仁が兵を率いて潰走したので、詔により帰還を命じられた。それでも鳳州団練使・龍神衛四廂都指揮使に昇進した。

原文遷東上閤門使、文州刺史、知涇州,徙鄜延副總管。上言:「夏主秉常為其母所囚,可急因本路官搗其巢穴。」遂入對,大言曰:「夏國無人,秉常孺子,臣往持其臂以來耳。」帝壯之,決意西討,以為經略安撫副使,諸將悉聽節制。諤即次境上,帝以諤先期輕出,使聽令于王中正。敵屯兵夏州,諤率本路並畿內七將兵攻米脂,三日未下。夏兵八萬來援,諤禦之無定川,伏兵發,斷其首尾,大破之,降守將令介訛遇。捷書聞,帝大喜,群臣稱賀,遣中使諭獎,而罷中正。諤留千人守米脂,進次銀、石、夏州,不見敵。始,被詔當會靈武,諤迂枉不進,士卒饑憊,欲以糧運不繼歸罪轉運使李稷。駐軍麻家平,大校劉歸仁以眾潰,詔令班師。猶遷鳳州團練使、龍神衛四廂都指揮使。

諤の横山を占拠しようとする志はまだやまず、子の朴にその策を上奏させた。帝は朴を召して状況を問い、閤門祗候に抜擢した。横山に城を進めようとし、徐禧と李舜挙を鄜延路に派遣して協議させた。諤は言った、「横山は千里にわたって広がり、馬が多く農耕に適し、人々は剛健で戦いに長け、さらに塩鉄の利があり、夏人はこれに頼って生きている。その城砦はすべて要害を押さえ、守備に十分である。今、事業を起こすなら、銀州から始めるべきである。次に宥州に移り、さらに次に夏州を修復する。この三郡が鼎立すれば、横山の地はすでにその中に包み込まれる。さらに次に塩州を修復すれば、横山の強兵・戦馬・山沢の利は、すべて中国に帰する。その地勢は高所にあり、興州・霊州を見下ろし、まっすぐにその巣窟を覆すことができる。」と。しかし徐禧と沈括は銀州を移転し、永楽に城を築くことを決定し、諤の当初の計画と異なったため、諤を延州に留めて守らせるよう上奏した。やがて永楽が包囲されると、諤は傍観して救援せず、帝はその後の働きを期待して、不問に付した。さらに賊が来襲することを憂慮し、そのまま延州知事に任命した。背中にできものができて没した。五十七歳。

原文諤謀據橫山之志未已,遣子朴上其策。帝召朴問狀,擢為閤門祗候。將進城橫山,命徐禧、李舜舉使鄜延計議。諤言:「橫山延袤千里,多馬宜稼,人物勁悍善戰,且有鹽鐵之利,夏人恃以為生;其城壘皆控險,足以守禦。今之興功,當自銀州始。其次遷宥州,又其次修夏州,三郡鼎峙,則橫山之地已囊括其中。又其次修鹽州,則橫山強兵戰馬、山澤之利,盡歸中國。其勢居高,俯視興、靈,可以直覆巢穴。」而禧與沈括定議移銀州,城永樂,與諤始謀異,乃奏留諤守延。既而永樂受圍,諤觀望不救,帝冀其後效,置不問,且虞賊至,就命知延州。疽發背卒,年五十七。

諤は兵士を統率するのに長け、敵に臨んで奇策を出し、戦えば必ず勝った。しかし、欺瞞に満ち残忍で、側近に罪があればすぐに斬り、あるいは先に肺肝をえぐり出し、座っている者が顔を覆う中、諤は平然と飲食した。敵もまたその敢闘ぶりを恐れたので、たびたび功績を立てた。李稷が軍に糧秣を輸送した時、朝に諤の陣営に入ると、軍吏が太鼓を鳴らして声を上げた。諤は呼んで吏に尋ねた、「軍に将帥は幾人いるのか。お前の頭を借りて運使の代わりとしよう。」と。すぐに叱りつけて斬らせた。李稷は恐れ慌てて出て行った。かつて黄河を渡った時、突然敵に遭遇し、門下の客に欺いて言った、「事態は切迫している。私の衣を着て、私の馬に乗り、旗鼓を従えた千騎とともに、急いで本軍に向かえ。」と。客はこれを信じ、敵は諤と思って追撃し、ほとんど死を免れなかった。熙寧年間に初めて綏州を開いて以来、後に二度にわたる西征も、すべて彼がその兆しを謀り、ついに永楽の禍を招いた。議論する者は、諤が死ななければ、辺境の戦いは終わらないだろうと言った。

原文諤善馭士卒,臨敵出奇,戰必勝,然詐誕殘忍,左右有犯立斬,或先刳肺肝,坐者掩面,諤飲食自若。敵亦畏其敢戰,故數有功。李稷之饋軍也,旦入諤營,軍吏鳴鼓聲喏。諤呼問吏曰:「軍有幾帥?要當借汝頭以代運使。」即叱斬之。稷惶怖遽出。嘗渡河,猝遇敵,紿門下客曰:「事急矣,可衣我衣,乘我馬,從旗鼓千騎,亟趨大軍。」客信之,敵以為諤,追之,幾不免。自熙寧首開綏州,後再舉西征,皆其兆謀,卒致永樂之禍。議者謂諤不死,邊事不已。

子に誼あり。

原文子 誼

誼は、字を寿翁という。熙寧年間、古が入朝して対面した時、神宗がその家系を尋ね、誼に官職を与えるよう命じた。高遵裕に従って洮州・岷州を奪回し、また山後の羌を平定し、熙河路副将に至った。

原文誼,字壽翁。熙甯中,古入對,神宗問其家世,命誼以官。從高遵裕復洮、岷,又平山後羌,至熙河副將。

青唐に使いし時、董氈は鬼章をして境上に迎えさせ、道を取らしむるに故に迂回せしめ、以て険遠を誇らしむ。誼は固より其の地里に習ひ、之を誚りて曰く、「爾は坎井の間に跳梁し、我の遠近を知らざるを謂ふか」と。便道に趨らしむるを命ず。鬼章怒り、兵を以て脅すも、誼の声気動かず、遂に塗を改む。外にして路都監と為る。蘭州より河を渡り賊を討ち、首級六百を斬り、累ねて転じて西京使と為る。元祐初、岷州を知る。鬼章は景思立を誘ひ殺し、後益々自ら矜り、大いに故土を窺ふの心有り、其の子をして宗哥に詣らしめ益兵を請ひて入寇せしめ、且つ属羌を結びて内応と為さしむ。誼其の情を刺探し得、上疏して之を除かんことを請ふ。詔して游師雄を遣はし就きて利害を商はしむ、遂に姚兕と合兵して出討す。羌迎へ戦ひ、之を撃ち走らしめ、奔るを追ひて洮州に至る。誼急ぎ進攻す、晨霧野を蔽ひ、跬歩も辨ふ可からず。誼曰く、「吾が軍遠く来る、彼固より厚薄を知らず、此に乗じて一鼓の下にす可し」と。遂に親しく之を鼓す。有りて頃し、霧霽る、先登する者已に城を得、鬼章就きて執はる。誼戯れに之を問ひて曰く、「別後安否」と。対ふる能はず、徐ろに人に謂ひて曰く、「我生悪しむ种使、今日果たして為に所擒せらる。天我をして故土を復た有たしめず、命なり」と。遂に俘虜として以て帰す。西上閤門使・康州刺史を拝し、徙めて鄜州を知る。

原文使青唐,董氈遣鬼章迎候境上,取道故為回枉,以誇險遠。誼固習其地里,誚之曰:「爾跳梁坎井間,謂我不知遠近邪?」命趨便道。鬼章怒,脅以兵,誼聲氣不動,卒改塗。外為路都監。自蘭州渡河討賊,斬首六百,累轉西京使。元祐初,知岷州。鬼章誘殺景思立,後益自矜,大有窺故土之心,使其子詣宗哥請益兵入寇,且結屬羌為內應。誼刺得其情,上疏請除之。詔遣游師雄就商利害,遂與姚兕合兵出討。羌迎戰,擊走之,追奔至洮州。誼亟進攻,晨霧蔽野,跬步不可辨。誼曰:「吾軍遠來,彼固不知厚薄,乘此可一鼓而下也。」遂親鼓之。有頃,霧霽,先登者已得城,鬼章就執。誼戲問之曰:「別後安否?」不能對,徐謂人曰:「我生惡种使,今日果為所擒。天不使我復有故土,命也。」遂俘以歸。拜西上閤門使、康州刺史,徙知鄜州。

夏人延安を犯す、趙禼誼をして諸将を統べしむ。敵誼の至るを聞き、皆潰走す。延人の謂ふ、「誼を得れば、精兵二十万に勝る」と。熙河鈐轄・蘭州知事に進む。蘭と通遠とは皆絶塞にて、中間の保障相接せず、腴田多く棄てて耕さず、誼李諾平に城して衝要を扼せんことを請ふ。会ひて東上閤門使・保州団練使に遷り、卒す、年五十五。

原文夏人犯延安,趙禼使誼統諸將。敵聞誼至,皆潰去。延人謂:「得誼,勝精兵二十萬。」進熙河鈐轄、知蘭州。蘭與通遠皆絕塞,中間保障不相接,腴田多棄不耕,誼請城李諾平以扼衝要。會遷東上閤門使、保州團練使,卒,年五十五。

誼は倜儻として気節有り、書を読むを喜ぶ。軍に蒞るに整厳にして、令一下れば、死すとも避けず;敵に遇へば、勝たざるを度りて出でず、故に毎戦未だ嘗て負敗せず。岷羌の酋長包順・包誠は功を恃みて驕恣す、前守務めて姑息す、誼至りて、厚く之を待つ。適ひ小過有り、吏を叱して下し、将に法を置かんとす、順・誠頭を叩きて罪に伏し、命を効ひて以て贖はんことを願ふ、乃ち金を輸して之を出ださしむ、群羌畏惕す。及び洮州の役、二人の功最も多し。

原文誼倜儻有氣節,喜讀書。蒞軍整嚴,令一下,死不敢避;遇敵,度不勝不出,故每戰未嘗負敗。岷羌酋包順、包誠恃功驕恣,前守務姑息,誼至,厚待之。適有小過,叱下吏,將置法,順、誠叩頭伏罪,願效命以贖,乃使輸金出之,群羌畏惕。及洮州之役,二人功最多。

孫 朴

原文孫 朴

朴は父の任により右班殿直と為り、労を積み、遷りて皇城使・昌州刺史に至り、徙めて熙河蘭会鈐轄兼河州知事、洮西沿辺公事を安撫す。

原文朴以父任右班殿直,積勞,遷至皇城使、昌州刺史,徙熙河蘭會鈐轄兼知河州,安撫洮西沿邊公事。

河南の蕃部叛き、属羌阿章は他族を率ひて官軍に拒ぐ、熙帥胡宗回は朴をして出討せしむ。時に朴の州に至るや纔に二日、賊鋒方に鋭く、且つ盛寒なれば、姑く之を徐ろにせんと欲すれども、宗回馳檄六七至り、已むを得ず、遂に兵を出す。羌朴の来るを知り、伏して以て待つ。朴伏に遇ひ、首尾相応ぜず、朴殊に死戦し、賊の為に所殺せられ、馬を以て其の屍を負ひ去る。羌勝に乗じて北を追ふ。師還りて隘に遇ひ、壅迮して行くを得ず。偏将王舜臣なる者は射を善くし、弓を以て臂に掛け、独り敗軍の後に立つ。羌来る可きこと万騎、七人介馬して先んずる者有り。舜臣念ふ、此れ必ずや羌酋の尤も桀黠なる者ならん、之を先に殪さずんば、吾が軍必ず尽きんと。乃ち宣言して曰く、「吾れ最も先行する者の眉間に花を挿せんことを令す」と。弓を引きて三発し、三人を隕し、皆面に中つ;余る四人反走し、矢其の背を貫く。万騎𥈭眙して敢へて前る莫く、舜臣因りて衆を整ふるを得。須臾、羌復た来る。舜臣申より酉に至るまで、矢を抽きて千余発す、虚なる者無し。指裂け、血流れて肘に至る。薄暮に及びて、乃ち隘を踰ゆるを得。将士気を奪はれ、復た敢へて戦を言ふ者無し。是の時に当たりて、舜臣微からざれば則ち師殲せられんとす。事聞こえ、朴に雄州防禦使を贈り、其の後十人を官す。

原文河南蕃部叛,屬羌阿章率他族拒官軍,熙帥胡宗回使朴出討。時朴至州才二日,以賊鋒方銳,且盛寒,欲姑徐之,而宗回馳檄至六七,不得已,遂出兵。羌知朴來,伏以待。朴遇伏,首尾不相應,朴殊死戰,為賊所殺,以馬負其屍去。羌乘勝追北。師還遇隘,壅迮不得行。偏將王舜臣者善射,以弓卦臂,獨立敗軍後。羌來可萬騎,有七人介馬而先。舜臣念此必羌酋之尤桀黠者,不先殪之,吾軍必盡。乃宣言曰:「吾令最先行者眉間插花。」引弓三發,隕三人,皆中面;餘四人反走,矢貫其背。萬騎𥈭眙莫敢前,舜臣因得整眾。須臾,羌復來。舜臣自申及酉,抽矢千餘發,無虛者。指裂,血流至肘。薄暮,乃得逾隘。將士氣奪,無敢復言戰。當是時,微舜臣則師殲矣。事聞,贈朴雄州防禦使,官其後十人。

孫 師道

原文孫 師道

師道、字は彝叔。少くして張載に従ひ学び、蔭を以て三班奉職を補し、法を試み、文階に易へ、熙州推官・権同谷県と為る。県吏に田訟有り、二年を彌ぎて決せず。師道案牘を繙閲し、日力を窮めて竟はず、然れども訟ふる所は母及び兄に止まるのみ。吏を引いて之を詰へて曰く、「母・兄は、法に訟ふ可きか。汝再期郷里を擾はすに足るか未だ」と。吏頭を叩きて服罪す。

原文師道,字彝叔。少從張載學,以蔭補三班奉職,試法,易文階,為熙州推官、權同谷縣。縣吏有田訟,彌二年不決。師道繙閱案牘,窮日力不竟,然所訟止母及兄而已。引吏詰之曰:「母、兄,法可訟乎。汝再期擾鄉里足未?」吏叩頭服罪。

原州を通判し、秦鳳常平を提挙す。役法を議して蔡京の旨に忤ひ、換へて莊宅使・徳順軍知事と為る。又た其の先烈を詆毀すと謂ひ、罷めて党籍に入れ、屏廢十年。武功大夫・忠州刺史・涇原都鈐轄を以て懷徳軍を知る。夏国境を画す、其の人焦彦堅は必ず故地を得んと欲す、師道曰く、「故地を言ふ如くは、当に漢・唐を以て正とすべし、則ち君家の疆土益々蹙からん」と。彦賢以て対ふる無し。

原文通判原州,提舉秦鳳常平。議役法忤蔡京旨,換莊宅使、知德順軍。又謂其詆毀先烈,罷入黨籍,屏廢十年。以武功大夫、忠州刺史、涇原都鈐轄知懷德軍。夏國畫境,其人焦彥堅必欲得故地,師道曰:「如言故地,當以漢、唐為正,則君家疆土益蹙矣。」彥賢無以對。

童貫兵柄を握りて西し、威福を翕張し、見る者皆旅拝す、師道長揖するのみ。闕に詣らしめ召し、徽宗辺事を以て訪ふ、対へて曰く、「先づ勝つ可からざるを為し、来らば則ち之に応ず。妄動して事を生ずるは、計に非ず」と。貫内郡の弓箭手を徙めて辺を実にし、而して新辺の募る所と指すを議す。帝復た之を訪ふ、対へて曰く、「臣遠方を勤むるの功未だ立たずして、近く擾はす先づ及ばんことを恐る」と。帝其の言を善しとし、襲衣・金帯を賜ひ、以て秦鳳弓箭手提挙と為す。時に五路並びに官を置く、帝之に謂ひて曰く、「卿は、吾の親しく擢く所なり」と。貫滋に悦ばず、師道拝するを敢へず、請ふを以て、崇福宮提挙を得。久しくして、西安州を知る。

原文童貫握兵柄而西,翕張威福,見者皆旅拜,師道長揖而已。召詣闕,徽宗訪以邊事,對曰:「先為不可勝,來則應之。妄動生事,非計也。」貫議徙內郡弓箭手實邊,而指為新邊所募。帝復訪之,對曰:「臣恐勤遠之功未立,而近擾先及矣。」帝善其言,賜襲衣、金帶,以為提舉秦鳳弓箭手。時五路並置官,帝謂曰:「卿,吾所親擢也。」貫滋不悅,師道不敢拜,以請,得提舉崇福宮。久之,知西安州。

夏人定辺を侵し、佛口城を築く、師を率ひて往きて之を夷す。始めて至りて甚だ渇す、師道山の西麓を指して曰く、「是に水有るべし」と。工を命じて之を求めしむ、果たして水山谷に満つるを得。累ねて遷りて龍神衛四廂都指揮使・洺州防禦使・渭州知事と為る。諸道の兵を督して席葦に城し、土工を賦す、敵至り、堅く葫蘆河に壁す。師道河滸に陳し、将に決戦せんとする者の如し。陰に偏将曲克を遣はし径ちに横嶺より出で、援兵至ると揚言す、敵方に駭顧するに、楊可世潜軍して其の後に軍し、姚平仲精甲を以て衷より之を撃つ、敵大いに潰え、首級五十を斬り、橐駝・馬牛万計を獲、其の酋僅かに身を以て免る。卒ひに城して還る。

原文夏人侵定邊,築佛口城,率師往夷之。始至渴甚,師道指山之西麓曰:「是當有水。」命工求之,果得水滿谷。累遷龍神衛四廂都指揮使、洺州防禦使、知渭州。督諸道兵城席葦,土賦工,敵至,堅壁葫蘆河。師道陳於河滸,若將決戰者。陰遣偏將曲克徑出橫嶺,揚言援兵至,敵方駭顧,楊可世潛軍軍其後,姚平仲以精甲衷擊之,敵大潰,斬首五十級,獲橐駝、馬牛萬計,其酋僅以身免。卒城而還。

又た詔して陝西・河東七路の兵を帥ひて臧底城を征し、期すに旬日を以て必ず克たんと。既に城下に薄るも、敵守備甚だ固し。官軍小怠す、列校胡床に据りて自ら休む者有り、立ちて之を斬り、屍を軍門にす。令して曰く、「今日城下らざれば、此れを視よ」と。衆股栗し、噪きて城に登れば、城即ち潰く、時に兵至る纔に八日。帝捷書を得て喜び、侍衛親軍馬軍副都指揮使・応道軍承宣使に進む。

原文又詔帥陝西、河東七路兵征臧底城,期以旬日必克。既薄城下,敵守備甚固。官軍小怠,列校有據胡床自休者,立斬之,屍於軍門。令曰:「今日城不下,視此。」眾股栗,噪而登城,城即潰,時兵至才八日。帝得捷書喜,進侍衛親軍馬軍副都指揮使、應道軍承宣使。

童貫に従ひて都統制と為り、保静軍節度使を拝す。貫燕を伐たんと謀り、師道をして尽く諸将を護らしむ。師道諫めて曰く、「今日の挙は、譬へば盗隣家に入るを救ふ能はず、又た之に乗じて其の室を分かつが如し、乃ち不可なること無からんや」と。貫聴かず。既に白溝に次ぐ、遼人噪きて前り、士卒多く傷つく。師道先づ人をして一の巨梃を持たしめて自ら防がしむ、頼りて以て大敗せず。遼使来りて請ひて曰く、「女真の本朝に叛くは、亦た南朝の甚だ悪む所なり。今一時の利を射て、百年の好を棄て、豺狼の隣を結び、他日の禍を基づく、計を得たりと謂ふ可きか。災を救ひ隣を恤ふは、古今の通義、惟だ大国之を図らん」と。貫対ふる能はず、師道復た之を許す宜しと諫む、又た聴かず、密かに其の賊を助くると劾す。王黼怒り、責めて右衛將軍致仕と為し、而して劉延慶を用ひて之に代ふ。延慶盧溝に於て敗績す、帝其の言を思ひ、起して憲州刺史・環州知事と為し、俄かに還して保静軍節度使と為し、復た致仕す。

原文從童貫為都統制,拜保靜軍節度使。貫謀伐燕,使師道盡護諸將。師道諫曰:「今日之舉,譬如盜入鄰家不能救,又乘之而分其室焉,無乃不可乎?」貫不聽。既次白溝,遼人噪而前,士卒多傷。師道先令人持一巨梃自防,賴以不大敗。遼使來請曰:「女真之叛本朝,亦南朝之所甚惡也。今射一時之利,棄百年之好,結豺狼之鄰,基他日之禍,謂為得計可乎?救災恤鄰,古今通義,惟大國圖之。」貫不能對,師道復諫宜許之,又不聽,密劾其助賊。王黼怒,責為右衛將軍致仕,而用劉延慶代之。延慶敗績于盧溝,帝思其言,起為憲州刺史、知環州,俄還保靜軍節度使,復致仕。

金軍が南下し、急遽彼を召し出し、検校少保・静難軍節度使・京畿河北制置使を加え、便宜に兵糧を徴発することを許した。師道はちょうど南山の豹林谷に居たが、命を聞くと直ちに東へ向かった。姚平仲の所を過ぎると、歩騎七千があり、彼と共に北進した。洛陽らくように至り、幹離不が既に京城の下に駐屯していると聞き、ある者は行くのを止めて言った、「賊の勢いは今鋭い。願わくは少し汜水に駐留し、万全の策を謀られよ。」師道は言った、「我が兵は少ない。もしぐずぐずして進まず、形勢が露見すれば、ただ辱めを受けるだけだ。今、太鼓を鳴らして進めば、彼らがどうして我が虚実を測れようか。都の人が我が来たるを知れば、士気は自ずから振るう。賊を憂えることなどない。」道沿いに掲示を立て、种少保が西兵百万を率いて来ると言った。遂に城西に到着し、汴水の南へ急ぎ、真っ直ぐに敵営に迫った。金軍は恐れ、砦をやや北へ移し、遊騎を収斂し、ただ牟駝岡を守り、塁を増して自衛した。

原文金人南下,趣召之,加檢校少保、靜難軍節度使、京畿河北制置使,聽便宜檄兵食。師道方居南山豹林谷,聞命即東。過姚平仲,有步騎七千,與之俱北。至洛陽,聞斡離不已屯京城下,或止勿行曰:「賊勢方銳,願少駐汜水,以謀萬全。」師道曰:「吾兵少,若遲回不進,形見情露,祗取辱焉。今鼓行而前,彼安能測我虛實?都人知吾來,士氣自振,何憂賊哉!」揭榜沿道,言种少保領西兵百萬來。遂抵城西,趨汴水南,徑逼敵營。金人懼,徙砦稍北,斂遊騎,但守牟駝岡,增壘自衛。

当時、師道は年齢が高く、天下で「老种」と称された。欽宗はその到着を聞き、大いに喜び、安上門を開き、尚書右丞李綱に迎えさせ慰労した。当時は既に和議が論じられており、入見すると、帝が問うた、「今日の事態について、卿の考えはどうか。」答えて言った、「女真は兵を知らない。孤軍を深入させて人の境内に入りながら、よくその帰還を果たせようか。」帝は言った、「既に講和したのだ。」答えて言った、「臣は軍旅の事をもって陛下に仕えます。それ以外は敢えて知りません。」検校少傅・同知樞密院・京畿両河宣撫使に任じられ、諸道の兵は皆その隷下となった。平仲を都統制とした。師道は当時病を患っており、拝礼をせぬよう命じ、肩輿での入朝を許された。金の使者王汭が朝廷で傲慢に振る舞っていたが、師道を見ると、拝跪の礼がやや礼にかなうようになった。帝は顧みて笑い、「彼は卿のためだ。」と言った。京城は包囲を受けて以来、諸門は全て閉ざされ、市には薪や野菜がなかった。師道は西・南の城壁を開き、民衆の出入りを常の如く許すよう請うた。金兵で偏将馬忠の軍を勝手に越えた者がおり、忠はその六人を斬った。金人が訴えに来ると、師道は境界旗を渡し、自ら制するようにさせ、その後敢えて越境する者は無かった。また、金幣を与えるのを遅らせ、彼らを怠惰に帰させ、黄河で扼して殲滅するよう請うたが、執政は認めなかった。

原文時師道春秋高,天下稱為「老种」。欽宗聞其至,喜甚,開安上門,命尚書右丞李綱迎勞。時已議和,入見,帝問曰:「今日之事,卿意如何?」對曰:「女真不知兵,豈有孤軍深入人境而能善其歸乎?」帝曰:「業已講好矣。」對曰:「臣以軍旅之事事陛下,餘非所敢知也。」拜檢校少傅、同知樞密院、京畿兩河宣撫使,諸道兵悉隸焉。以平仲為都統制。師道時被病,命毋拜,許肩輿入朝。金使王汭在廷頡頏,望見師道,拜跪稍如禮。帝顧笑曰:「彼為卿故也。」京城自受圍,諸門盡閉,市無薪菜。師道請啟西、南壁,聽民出入如常。金人有擅過偏將馬忠軍者,忠斬其六人。金人來訴,師道付以界旗,使自為制,後無有敢越佚者。又請緩給金幣,使彼惰歸,扼而殲諸河,執政不可。

种氏と姚氏は共に山西の大族であり、平仲の父の古はちょうど熙河の兵を率いて入援していた。平仲は功名が独り种氏に帰することを憂慮した。そこで、兵士が速やかに戦えないことを言上して上聞に達した。李綱がその議を支持し、城下の兵に緩急あれば平仲の節度に従うよう命じた。帝は日々使者を遣わして師道に戦いを促したが、師道はその弟の秦鳳経略使師中の到着を待ちたいとし、春分を過ぎてからでなければ撃てないと奏上した。当時、その日まであと八日しかなかったが、帝は遅いと考え、結局平仲を用いて敵営を襲撃させ、敗北に至った。既に敗れた後、李邦彦が三鎮を割譲することを議し、師道は争ったが果たせなかった。李綱が罷免されると、太学の諸生や都人が宮門に伏して种・李に会いたいと願い、詔が下って鎮圧を促した。師道が車に乗って来ると、衆は簾を上げてそれを見て、「果たして我が公である。」と言い、相率いて声を上げて挨拶し散った。

原文种氏、姚氏皆為山西巨室,平仲父古方以熙河兵入援。平仲慮功名獨歸种氏。乃以士不得速戰為言達於上。李綱主其議,令城下兵緩急聽平仲節度。帝日遣使趣師道戰,師道欲俟其弟秦鳳經略使師中至,奏言過春分乃可擊。時相距才八日,帝以為緩,竟用平仲斫營,以及於敗。既敗,李邦彥議割三鎮,師道爭之不得。李綱罷,太學諸生、都人伏闕願見种、李,詔趣使彈壓。師道乘車而來,眾褰廉視之,曰:「果我公也。」相率聲喏而散。

金軍が退くと、中太一宮使に罷免された。御史中丞許翰が帝に会い、師道の兵権を解くのは宜しくないと述べた。上は言った、「師道は老いた。用いるのは難しい。卿に会わせよう。」殿門外で会わせた。師道は語らなかった。翰は言った、「国家に急がある。詔により疑わしいことを訪ねることを許されている。公、書生ゆえに談じることを肯んじないなかれ。」師道は初めて言った、「我は衆、彼は寡である。ただ兵を分けて営を結び、要地を控え守り、彼らの糧道を通じさせず、持久に坐すれば、破ることができる。」翰はその言葉を嘆賞し、再び上奏して師道の智慮は未だ衰えておらず、尚用いることができると述べた。そこで検校少師を加え、太尉に進め、節を鎮洮軍に換え、河北・河東宣撫使とし、滑州に屯したが、実際には兵を従えることは無かった。

原文金師退,乃罷為中太一宮使。御史中丞許翰見帝,以為不宜解師道兵柄。上曰:「師道老矣,難用,當使卿見之。」令相見於殿門外。師道不語,翰曰:「國家有急,詔許訪所疑,公勿以書生之故不肯談。」師道始言:「我眾彼寡,但分兵結營,控守要地,使彼糧道不通,坐以持久,可破也。」翰歎味其言,復上奏謂師道智慮未衰,尚可用。於是加檢校少師,進太尉,換節鎮洮軍,為河北、河東宣撫使,屯滑州,實無兵自隨。

師道は関中・河北の兵卒を合わせて滄・衛・孟・滑に屯させ、金兵の再来に備えるよう請うた。朝廷の議論では、大敵が退いたばかりで、師を労して弱みを見せるべきではないとして、採用されなかった。既にして師中が戦死し、姚古が敗れると、朝廷は震駭し、師道を召還した。太原が陥落すると、また辺境巡視を命じた。河陽に駐屯し、王汭に会い、敵が必ず大挙して来ると推測し、急ぎ上疏して長安ちょうあんに幸してその鋒を避けるよう請うた。大臣は臆病だと考え、また召還した。到着すると、病で会うことができなかった。十月、卒去。七十六歳。帝は臨奠し、慟哭し、開府儀同三司を追贈した。

原文師道請合關、河卒屯滄、衛、孟、滑,備金兵再至。朝論以大敵甫退,不宜勞師以示弱,格不用。既而師中戰死,姚古敗,朝廷震悚,召師道還。太原陷,又使巡邊。次河陽,遇王汭,揣敵必大舉,亟上疏請幸長安以避其鋒。大臣以為怯,復召還。既至,病不能見。十月,卒,年七十六。帝臨奠,哭之慟,贈開府儀同三司。

京師が陥落すると、帝は胸を叩いて言った、「种師道の言を用いなかったために、ここに至ったのだ!」金兵が初めて退いた時、師道は以前の議論を繰り返し、帝に半渡りを撃つよう勧めたが、聞き入れられず、言った、「他日必ず国の患いとなろう。」故にその言葉を追って痛んだ。建炎年中、少保を加贈し、諡して「忠憲」といった。

原文京師失守,帝搏膺曰:「不用种師道言,以至於此!」金兵之始退也,師道申前議,勸帝乘半濟擊之,不從,曰:「異日必為國患。」故追痛其語。建炎中,加贈少保,諡曰「忠憲」。

孫に師中。

原文孫 師中

師中、字は端孺。環州・濱州・邠州・慶陽府・秦州の知事を歴任し、侍衛歩軍馬軍副都指揮使・房州観察使、奉寧軍承宣使となった。

原文師中,字端孺。歷知環、濱、邠州、慶陽府、秦州,侍衛步軍馬軍副都指揮使、房州觀察使,奉寧軍承宣使。

金人が内侵すると、詔により秦鳳の兵を率いて入援するよう命じられたが、到着する前に敵が退いたため、二万人で滑を守った。副将として姚古を河北制置使とし、古は太原を援け、師中は中山・河間を援けた。ある者は師中に、磁州・相州から北進すれば、金人がもし太行山を下れば、勢い自ら還ることができず、これは段凝が河上に師を留めたのに等しいと言った。当時、大臣の立てる議は矛盾し、枢密院は敵を破ることを主とし、三省は護送して出させるよう命じた。師中が黄河を渡ると、即座上言した、「粘罕は既に沢州に至った。臣は邢州・相州の間から捷徑を出て上党に至り、その不意を衝こうと思う。当に逞しうべし。」朝廷は疑って用いなかった。幹離不が帰還すると、師中は追って境外に出した。粘罕が太原に至ると、諸県を悉く破り、鎖城法でこれを困らせ、内外相通じなかった。姚古は隆徳・威勝を回復し、南北関を扼したが、包囲を解くことはできなかった。そこで詔により師中は井陘道から出師し、古と犄角の勢いとなり、進んで平定軍に駐屯し、勝に乗じて寿陽・榆次を回復し、真定に留まって屯した。当時、粘罕は雲中で避暑し、兵を留めて分かれて畜牧に就き、偵察者は遁走しようとしていると思い、朝廷に報告した。知枢密院事の許翰がこれを信じ、数度使者を遣わして師中に出戦を督励し、かつ逗撓を責めた。師中は嘆いて言った、「逗撓は、兵家の大なる誅戮である。私は結髪して軍に従い、今老いた。どうしてこれを受けて罪とされることを忍ぼうか。」即日、厳(装備)を整え、古及び張灝と共に進むことを約し、輜重や賞与の品は、皆従行する暇がなかった。五月、寿陽の石坑に到着し、金軍に襲撃された。五度戦って三度勝ち、引き返して榆次に向かった。太原から百里の所で、古と灝は期に遅れて到着せず、兵は甚だ飢えていた。敵はこれを知り、衆を悉く挙げて攻め、右軍は潰え、前軍もまた奔った。師中は独り麾下を率いて死戦し、卯の刻から巳の刻まで、士卒は神臂弓を発して金兵を射退けたが、賞与が届かず、皆憤怨して散り去り、留まった者は僅か百人であった。師中は身に四ヶ所の創傷を受け、力を病みながら戦って死んだ。

原文金人內侵,詔提秦鳳兵入援,未至而敵退,乃以二萬人守滑。遣副姚古為河北制置使,古援太原,師中援中山、河間。或謂師中自磁、相而北,金人若下太行,則勢不能自還,此段凝師於河上比也。時大臣立議矛盾,樞密主破敵,而三省令護出之。師中渡河,即上言:「粘罕已至澤州,臣欲由邢、相間捷出上黨,搗其不意,當可以逞。」朝廷疑不用。斡離不還,師中逐出境。粘罕至太原,悉破諸縣,為鎖城法困之,內外不相通。姚古雖復隆德、威勝,扼南北關,而不能解圍。於是詔師中由井陘道出師,與古掎角,進次平定軍,乘勝復壽陽、榆次,留屯真定。時粘罕避暑雲中,留兵分就畜牧,覘者以為將遁,告諸朝。知樞密院許翰信之,數遣使督師中出戰,且責以逗撓。師中歎曰:「逗撓,兵家大戮也。吾結髮從軍,今老矣,忍受此為罪乎!」即日辦嚴,約古及張灝俱進,輜重賞犒之物,皆不暇從行。五月,抵壽陽之石坑,為金人所襲。五戰三勝,回趨榆次,去太原百里,而古、灝失期不至,兵饑甚。敵知之,悉眾攻,右軍潰而前軍亦奔。師中獨以麾下死戰,自卯至巳,士卒發神臂弓射退金兵,而賞齎不及,皆憤怨散去,所留者才百人。師中身被四創,力疾鬪死。

師中は老成で持重であり、当代の名将であった。諸軍はこれより気を奪われた。劉韐が言うには、「師中は命を聞けば即ち行き、奮って身を顧みず、古の忠臣といえども、これを過ぎることはない。」優れた追贈を加え、国に死する者を勧めるよう請うた。詔により少師を追贈し、諡して「莊湣」といった。

原文師中老成持重,為時名將,諸軍自是氣奪。劉韐言:「師中聞命即行,奮不顧身,雖古忠臣,不過也。」請加優贈,以勸死國者。詔贈少師,諡曰「莊湣」。

論ずるに、宋は五代の藩鎮の弊を懲らしめ、やや逢掖(文官)を用いて辺境を治め、介冑(武官)を領せしめた。しかし兵勢は国の大事にして、平素より明らかに習熟せずして、急遽危難の際に応変決策せんと欲するは、豈に倒れざらんや。种氏は世衡が青澗に功を立てしより、士卒を撫循し、威は羌・夏を動かし、諸子皆将材あり、師道・師中に至るまで既に三世、山西の名将と号せらる。徽宗は宦豎を任用して辺釁を起こし、師道の言は用いられず、遂に南北の禍の基と為る。金は孤軍を以て深入す、師道は西師の至るを遅らせて之を撃たんことを請い、長駆して上党に至らんとし;師中は其の背を出でて以て之を掩わんと欲す、至計と謂うべし。李綱・許翰顧みて怯緩逗撓と為し、動もすれば機会を失い、遂に大衄に至り、而して国随に以て敗る、惜しいかな。

原文論曰:宋懲五季藩鎮之弊,稍用逢掖治邊陲、領介胄。然兵勢國之大事,非素明習,而欲應變決策於急遽危難之際,豈不僕哉。种氏自世衡立功青澗,撫循士卒,威動羌、夏,諸子俱有將材,至師道、師中已三世,號山西名將。徽宗任宦豎起邊釁,師道之言不售,卒基南北之禍。金以孤軍深入,師道請遲西師之至而擊之,長驅上黨;師中欲出其背以掩之,可謂至計矣。李綱、許翰顧以為怯緩逗撓,動失機會,遂至大衄,而國隨以敗,惜哉!