宋史

列傳第八十六 王安石子:雱 附:唐坰 王安禮 王安國

王安石

安石の議論は高遠奇抜にして、弁博をもってその説を補うことができ、自らを用いることに果敢であり、慨然として世を矯い俗を変えんとする志があった。ここにおいて万言の書を上奏し、次のように論じた。「今、天下の財力は日に日に困窮し、風俗は日に日に衰え損なわれている。その患いは法度を知らず、先王の政に法らざるが故である。先王の政に法るとは、その意に法るのみである。その意に法れば、わが改易更革する所は、天下の耳目を傾駭させ、天下の口を囂然とさせるに至らず、しかも固より先王の政に合うのである。天下の力を因って天下の財を生み、天下の財を取って天下の費を供する。古より治世は、未だ財の不足を公患としたことはない。患いは財を治むるにその道なきにあるのみである。在位の人材既に足らず、また閭巷草野の間にもまた用うべき才少なく、社稷の託け、封疆の守り、陛下は果たして久しく天幸を常とし、一旦の憂い無からしめ得るであろうか。苟且因循の弊を監み、大臣に明詔し、漸を以てこれを行い、当世の変に合するを期せられんことを願う。臣の称する所は、流俗の講ぜざる所にして、議者の迂闊にして熟爛せるものと為す所なり」。後に安石が国政を執るとき、その措置するところは、大抵この書に淵源した。

まもなく集賢院直となった。先だって、館閣の任命が屡々下ったが、安石は屡々辞退した。士大夫はその世に意無きものと謂い、その面を識らざるを恨んだ。朝廷は毎に美官を以て任ぜんと欲したが、ただその就かざるを患うのみであった。明年、同修起居注に任ぜられたが、累日これを辞した。閣門の吏が勅を齎して就き付けたが、受けず。吏が随いてこれを拝すると、則ち厠に避けた。吏が勅を案上に置いて去ると、また追い返した。上章すること八九に至り、ようやく受けた。ここにおいて知制誥となり、在京刑獄を糾察し、これより後は復た官を辞することはなかった。

ある少年が闘鶉を得た。その仲間がこれを求めても与えず、その親昵を恃んで、直ちに持って去った。少年がこれを追い殺した。開封府はこの者を死罪に当てた。安石が駁して曰く、「律を按ずるに、公取・窃取皆な盗と為す。これ与えずして彼が携えて去るは、是れ盗なり。追いてこれを殺すは、是れ盗を捕えるなり。死すと雖も当に論ずる勿かるべし」。ここにおいて府司の失入を劾した。府官は服さず、事は審刑・大理に下り、皆な府の断を是とした。詔して安石の罪を放ち、閣門に詣でて謝すべしとす。安石言う、「我に罪無し」と。肯んじて謝せず。御史が挙奏したが、置いて問わなかった。

時に詔があり、舍人院は除改の文字を申請するを得ずとあった。安石がこれを争って曰く、「審かに是の如くならば、則ち舍人は復たその職を行い得ず、一に大臣の為す所に聴くのみとなる。自ら大臣の傾側して私を為さんと欲するに非ざれば、則ち法を立つる当に此の如くすべからず。今、大臣の弱者は敢えて陛下のために法を守らず、強者は則ち上旨を挟みて令を造る。諫官・御史は敢えてその意に逆らう者無し。臣実にこれを懼る」。語は皆な執政を侵し、ここにおいて益々これと忤う。母憂により去り、英宗の世が終わるまで召されても起たなかった。

安石は本来楚の士であり、中朝には未だ知名ではなかったが、韓・呂の二族を巨室と為すを以て、これに藉りて重きを取らんと欲した。ここにおいて深く韓絳・絳の弟維及び呂公著と交わり、三人は更にこれを称揚し、名始めて盛んとなった。神宗が藩邸に在った時、維は記室であり、毎に講説して称賛されると、維は曰く、「これは維の説に非ず、維の友王安石の説なり」。太子庶子となった時、また自ら代わるを薦めた。帝はここにおいてその人を想い見、即位するや、江寧府知事を命じた。数月後、翰林学士兼侍講として召された。熙寧元年四月、始めて朝に造った。入対し、帝が治を為すに先んずる所を問うと、対えて曰く、「術を択ぶを先とす」。帝曰く、「唐の太宗は如何」。曰く、「陛下は当に堯・舜に法るべし。何ぞ太宗を以てする必要があろうか。堯・舜の道は、至って簡にして煩わしからず、至って要にして迂ならず、至って易にして難からず。ただ末世の学者が能く通達せず、以て高くして及ぶべからずと為すのみ」。帝曰く、「卿は君に難きを責むと謂うべし。朕自ら眇躬を視るに、恐らくは卿が此の意に副うこと無からん。意を悉くして朕を輔けよ。庶くは此の道を同じく済わん」。

一日、講席の後、群臣退き、帝は安石を留めて坐らせ、曰く、「卿と従容として論議せんと欲する者有り」。因って言う、「唐の太宗は必ず魏徴を得、劉備は必ず諸葛亮を得て、然る後に為す有り。二子は誠に世に出でざるの人なり」。安石曰く、「陛下誠に能く堯・舜と為らば、則ち必ず皋・夔・稷・禹有り。誠に能く高宗と為らば、則ち必ず傅説有り。彼の二子は有道の者の羞ずる所なり。何ぞ道うに足らん。天下の大なるを以て、人民の衆きを以て、百年承平、学者少なからずと為さざるも、然るに常に治を助くべき人無きを患う。陛下の択ぶ術未だ明らかならず、誠を推す未だ至らざるが故に、皋・夔・稷・禹・傅説の賢有りと雖も、亦た将に小人に蔽われ、懐を巻いて去らんとするのみ」。帝曰く、「何の世にか小人無からん。堯・舜の時と雖も、四凶無き能わず」。安石曰く、「惟だ四凶を弁じてこれを誅する能う、此れ其の堯・舜と為る所以なり。若し四凶をして其の讒慝を肆わしめば、則ち皋・夔・稷・禹も亦た安んぞ苟も其の禄を食いて以て終身せんことを肯んぜんや」。

登州の婦人がその夫の寝陋を悪み、夜に刃を以てこれを斫り、傷つけたが死なせなかった。獄が上ると、朝議は皆なこれを死に当てた。安石のみ律を援りてこれを弁証し、謀殺傷に従うに合うと為し、二等を減じて論じた。帝は安石の説に従い、且つ令として著した。

二年二月、参知政事に拝された。上謂いて曰く、「人皆な卿を知ること能わず。卿は但だ経術を知るのみにして、世務に暁らざると思う」。安石対えて曰く、「経術は正に世務を経る所以なり。但だ後世の儒者と謂う所は、大抵皆な庸人なり。故に世俗は皆な経術を世務に施すべからずと為すのみ」。上問う、「然らば則ち卿の施設する所は何を以てか先とす」。安石曰く、「風俗を変え、法度を立てるは、正に今の急務なり」。上以て然りと為す。ここにおいて制置三司条例司を設け、判知枢密院事陳升之に同領せしむ。安石は其の党呂惠卿をして其事に預からしむ。而して農田水利・青苗・均輸・保甲・免役・市易・保馬・方田の諸役相継いで並び興り、新法と号し、提挙官四十余輩を遣わし、天下に頒行せしめた。

青苗法とは、常平倉の糴本を青苗銭とし、これを人戸に貸し付け、利息二分を取るもので、春に貸し付け秋に回収する。均輸法とは、発運使の職務を均輸と改め、官に銭貨を貸し付け、上供の物品はすべて高価なものを避け安価なものを求め、遠方のものを避け近隣のものを求め、京師の倉庫で必要なものを事前に知り、便宜を図って買い蓄えるものである。保甲法とは、郷村の民を登録し、二丁のうち一丁を選び、十家を一保とし、保丁にはすべて弓弩を与え、戦陣の法を教える。免役法とは、家財の高下に基づき、それぞれ出銭して人を雇い役に充てさせ、下は単丁・女戸で本来役のない者も、一律に銭を納めさせ、これを助役銭という。市易法とは、人に官の財貨を貸し付け、田宅または金帛を抵当とし、利息は十分の二とし、期限を過ぎて納めない場合は、利息の外に毎月さらに罰銭百分の二を加える。保馬法とは、五路の義保で馬を飼育したいと願う者には、一戸に一匹、監牧の現存する馬を与え、あるいは官がその代価を支払い、自ら買わせ、毎年その肥痩を検査し、死病の場合は補償する。方田法とは、東西南北各千歩を四十一頃六十六畝一百六十歩に当たる一方とし、毎年九月に、県令・県佐が地を分けて計量し、地土の肥痩を検証し、その色号を定め、五等に分け、地の等に応じて税額を均等に定める。また免行銭というものがあり、京師の百物諸行の利入の厚薄を基準に、すべて納銭させ、行戸の祗応を免じる。これより四方で農田水利を競って言い、古い陂塘や廃れた堰を、ことごとく復興に努めた。また民に封状を提出させ価格を増額して坊場を買わせ、また茶監の額を増やし、また措置河北糴便司を設け、臨流の州県に広く糧穀を蓄積し、饋運に備えた。これにより賦斂はますます重くなり、天下は騒然となった。

御史中丞呂誨が王安石の過失十事を論じたので、帝は呂誨を出させ、王安石は呂公著を推薦して代わらせた。韓琦の諫疏が届き、帝は感ずるところがあり、これに従おうとしたが、王安石は去職を求めた。司馬光が詔に答えた中に「士夫沸騰、黎民騷動」の語があったので、王安石は怒り、上章して自ら弁明し、帝はへりくだった言葉で謝り、呂惠卿に旨を諭させ、韓絳もまた帝に留めるよう勧めた。王安石は入朝して謝し、ついでに中外の大臣・従官・台諫・朝士が朋比している情勢を上言し、かつ言うには、「陛下が先王の正道をもって天下の流俗に勝たんと欲せられるので、天下の流俗と重軽を争われるのである。流俗の権が重ければ、天下の人は流俗に帰する。陛下の権が重ければ、天下の人は陛下に帰する。権とは物と重軽を争うもので、たとえ千鈞の物であっても、加減するのは銖両に過ぎず、それで動くのである。今、奸人が先王の正道を敗り、以て陛下のなさることを沮まんとしている。ここにおいて陛下と流俗の権がちょうど軽重を争う時に、銖両の力を加えれば、用いる力は極めて微細であるが、天下の権はすでに流俗に帰してしまう。これが紛々たる所以である。」帝はこれを然りとした。王安石はそこで政務を執り、韓琦の説は行われなかった。

王安石と司馬光はもとより親厚であったが、司馬光は朋友が善を責める義を援け、三度書を送り繰り返し勧めたので、王安石は快としなかった。帝が司馬光を枢密副使に用いようとしたが、司馬光が辞して拝命しないうちに王安石が出仕し、任命は取りやめとなった。呂公著は王安石に引き立てられた者であったが、新法の廃止を請うたため潁州に出された。御史の劉述・劉琦・錢顗・孫昌齢・王子韶・程顥・張戩・陳襄・陳薦・謝景温・楊繪・劉摯、諫官の范純仁・李常・孫覚・胡宗愈は皆その言を用いられず、相次いで去った。秀州推官李定を御史に抜擢すると、知制誥の宋敏求・李大臨・蘇頌が詞頭を封還し、御史の林旦・薛昌朝・范育が李定の不孝を論じたので、皆罷免・追放された。翰林学士范鎮が三度上疏して青苗法を論じたので、職を奪われ致仕させられた。呂惠卿が喪に服して去り、王安石は託すべき者を知らず、曾布を得て信任し、呂惠卿に次ぐものとした。

熙寧三年十二月、同中書門下平章事に拝された。翌年春、京東・河北に烈風の異変があり、民は大いに恐れた。帝は中書に下付し、事を省き安静にして天変に応じ、両路の募夫を放遣し、事を上聞しなかった有司・郡守を責めるよう命じたが、王安石はこれを留めて下さなかった。

開封の民が保甲を避け、指を切り腕を断つ者があったので、知府韓維がこれを言上した。帝が王安石に問うと、王安石は言った、「これは未だ知るべからず、仮令あったとしても、また怪しむに足らぬ。今、士大夫が新政を見てさえ、なお或いは紛然として驚き異としている。まして二十万戸の百姓においては、固より愚かで人に惑わされ動かされる者がある。どうしてこのために敢えて一つのことも為さないことがあろうか。」帝は言った、「民の言が理に合えばこれを聴けば勝つ。また畏れないわけにはいかない。」

東明県の民が宰相の馬を遮って助役銭を訴える者があった。王安石は帝に言った、「知県賈蕃は范仲淹の婿で、流俗に附することを好み、民をしてこのようにさせたのである。」また言った、「民を治めるにはその情偽利病を知るべきで、姑息を示してはならない。もし彼らを放任して妄りに省台に訴え出させ、鼓を鳴らし駕を邀え、衆を恃んで僥倖を求めるならば、政を行う所以ではない。」その強弁して理に背くこと、おおむねこのようであった。

帝が韓維を中丞に用いようとしたが、王安石は以前の言を恨み、善く流俗に附して上の建立することを非とする者と指弾し、韓維が辞したため止んだ。欧陽修が致仕を乞うたので、馮京が留めるよう請うたが、王安石は言った、「欧陽修は韓琦に附麗し、韓琦を社稷の臣としている。このような人は、一郡にあれば一郡を壊し、朝廷にあれば朝廷を壊す。留めて何の用があろうか。」そこでこれを聴いた。富弼が青苗法を阻んだため使相を解かれたが、王安石は奸を阻むに足らずと言い、ついに共工・鯀に比した。霊台郎尤瑛が天久しく陰り、星が度を失っていると言い、王安石を退けるべきと上言したので、すぐにげい面して英州に隷させた。唐坰はもと王安石の引薦で諫官となったが、請対して極力その罪を論じたため、貶謫されて死んだ。文彦博が市易法は下と利を争い、華嶽の山崩れを招いたと言うと、王安石は言った、「華山の変は、おそらく天意が小人のために発したものであろう。市易法の起こりは、細民が久しく困窮しているため、兼併を抑えるためであって、官に何の利があるというのか。」その奏を押し留め、文彦博を魏州の守に出した。ここにおいて呂公著・韓維は、王安石が声望を立てるのに藉りた者であり、欧陽修・文彦博は己を推薦した者であり、富弼・韓琦は侍従として用いた者であり、司馬光・范鎮は交友の善き者である。これらを悉く排斥して力を遺さなかった。

礼官が太廟の太祖を東向の位に正すことを議したが、王安石のみが僖祖を祧廟に還すことを定議し、議者は争ったが得られなかった。上元の夜、従駕して馬に乗り宣徳門に入ろうとしたところ、衛士がこれを叱って止め、その馬を鞭打った。王安石は怒り、上章して逮捕処罰を請うた。御史蔡確が言うには、「宿衛の士は、至尊を拱扈するのみである。宰相が下馬すべきでない所で下馬したのは、叱って止めるべきことである。」帝はついに衛士を杖罰し、内侍を斥けたが、王安石はなお不平であった。王韶が熙河を開拓して功を奏したので、帝は王安石が主議したとして、身に着けていた玉帯を解いて賜った。

七年の春、天下久しく旱魃に遭い、飢えた民は流離し、帝は憂いの色を顔に表し、朝廷に対し嘆息して、不善なる法度を悉く罷めんと欲した。安石曰く、「水旱は常の数にして、堯・湯も免れざる所、此れは聖慮を招くに足らず、ただ人事を修めて以て之に応ずべし」と。帝曰く、「此れ豈に細事ならんや、朕の恐懼する所以は、正に人事の未だ修まらざるが為なり。今免行銭を取る事重く、人情怨嗟し、至って不遜の語を出すに至る。近臣より后族に至るまで、其の害を言わざるは無し。両宮涙を下し、京師の乱起こるを憂え、天旱を以て、更に人心を失うと為す」と。安石曰く、「近臣誰なるかを知らず、若し両宮に言有らば、乃ち向経・曹佾の為す所なり」と。馮京曰く、「臣も亦之を聞く」と。安石曰く、「士大夫の不逞なる者は京を帰する所と為す、故に京独り其の言を聞く、臣は未だ之を聞かず」と。監安上門鄭俠上疏し、見る所の流民老を扶け幼を携えて困苦する状を絵し、図を為して献じ、曰く、「旱は安石の致す所なり。安石を去らば、天必ず雨降らん」と。侠はまた坐して嶺南に竄せらる。慈聖・宣仁の二太后涙を流して帝に謂ひて曰く、「安石天下を乱す」と。帝も亦之を疑ひ、遂に罷めて観文殿大学士・知江寧府と為し、礼部侍郎より超えて九転し吏部尚書と為す。

呂惠卿服闋す、安石朝夕に之を汲引し、是に至り、参知政事と為すを白し、又韓絳を召して己に代はらんことを乞ふ。二人其の成謨を守り、少も失はず、時に号して絳を「伝法沙門」と為し、惠卿を「護法善神」と為す。而して惠卿実に自ら政を得んと欲し、安石の復来るを忌み、鄭侠の獄に因り其の弟安国を陥れ、又李士寧の獄を起こして以て安石を傾けんとす。絳其の意を覚り、密かに帝に請ひて之を召す。八年二月、復た相を拝せらる、安石命を承け、即ち倍道して来る。『三経義』成り、尚書左僕射兼門下侍郎を加へ、子雱を以て龍図閣直学士と為す。雱辞す、惠卿帝に勧めて其の請を允せしむ、是より嫌隙愈著し。惠卿蔡承禧に撃たれ、家に居りて命を俟つ。雱御史中丞鄧綰に風し、復た惠卿と知華亭県張若济が奸利を為す事を弾劾し、獄を置きて之を鞫かしむ、惠卿出でて陳を守る。

十月、彗星東方に出づ、詔して直言を求め、及び政事の民に協はざる者を詢ねしむ。安石同列を率ひ疏して言ふ、「晋武帝五年、彗星軫に出づ、十年、又孛有り。而して其の在位二十八年、『乙巳占』の期する所に合はず。蓋し天道遠く、先王官占有りと雖も、而して信ずる所は人事のみ。天文の変窮むる無く、上下傅会すれば、豈に偶合無からんや。周公・召公、豈に成王を欺かんや。其の言ふ中宗享国の日久しきは、則ち曰く『厳恭寅畏し、天命自ら度り、民を治めて敢へて荒寧せず』と。其の言ふ夏・商の多年所を歴るも、亦曰く『徳』のみ。裨灶火を言ひて験あり、之を禳はんと欲す、国僑聴かず、則ち曰く『吾が言を用ひざれば、鄭又将に火せん』と。僑終に聴かず、鄭も亦火せず。裨灶の如き有りと雖も、妄誕を免れず、況んや今の星工をや。伝ふる所の占書は、又世の禁ずる所、謄写偽誤し、尤も知るべからず。陛下の盛徳至善は、非特に中宗に賢なるのみならず、周・召の言ふ所は、則ち既に閲して之を尽くせり、豈に愚瞽の復た陳ぶる所を須いんや。窃かに聞く両宮此を以て憂ふと、臣等の言ふ所を以て、力を行ひ開慰せんことを望む」と。帝曰く、「民間殊に新法を苦しむと聞く」と。安石曰く、「祁寒暑雨も、民猶ほ怨咨す、此れ恤ふるに庸ひ無し」と。帝曰く、「豈に祁寒暑雨の怨みも亦無きに若かんや」と。安石悦ばず、退きて疾みに属して臥す、帝慰勉して之を起す。其の党謀りて曰く、「今上の素より喜ばざる所の者を暴に進用せざれば、則ち権軽く、将に間隙を窺ふ者有らん」と。安石其の策を是とす。帝其の出づるを喜び、悉く之に従ふ。時に師を出して安南を伐つ、諜其の露布を得たり、言ふ、「中国青苗・助役の法を作り、生民を窮困す。我今兵を出し、相拯済せんと欲す」と。安石怒り、自ら敕榜を草して之を詆る。

華亭の獄久しく成らず、雱門下の客呂嘉問・練亨甫に属して共に議し、鄧綰の列挙する所の惠卿の事を取り、他の書を雑へて制獄に下す、安石知らず。省吏陳に於て惠卿に告ぐ、惠卿状を以て聞け、且つ安石を訟りて曰く、「安石尽く学ぶ所を棄て、縦横の末数を隆尚し、命に方り令を矯め、上を罔み君に要す。此の数悪年歳の間に力行し、古の志を失ひ倒行逆施する者と雖も、殆ど此くの如くならざらん」と。又安石の私書を発して曰く「上に知らしむる無かれ」と有る者を。帝之を安石に示す、安石無きを謝す、帰りて以て雱に問ふ、雱其の情を言ふ、安石之を咎む。雱憤恚し、疽背に発して死す。安石綰の罪を暴き、云く「臣が子弟の官を求め及び臣が婿蔡卞を薦む」と、遂に亨甫と皆罪を得。綰始め安石に附して言職に居り、安石と呂惠卿の相傾くに及び、綰極力惠卿を攻むるを助く。上頗る安石の為す所を厭ひ、綰勢を失ふを懼れ、屡々之を上に留め、其の言顧みる所無し。亨甫険薄にして、雱に諂事して以て進み、是に至り皆斥けらる。

安石の再び相と為るや、屡々病を謝して去らんことを求め、子雱の死するに及び、尤も悲傷堪へず、力を請ひて幾務を解かんとす。上益々之を厭ひ、罷めて鎮南軍節度使・同平章事・判江寧府と為す。明年、集禧観使に改め、舒国公に封ず。屡々将相の印を還さんことを乞ふ。元豊二年、復た左僕射・観文殿大学士を拝す。特進に換へ、荊に改封す。哲宗立ち、司空しくうを加ふ。

元祐元年、卒す、年六十八、太傅を贈る。紹聖中、諡して「文」と曰ひ、神宗廟庭に配享す。崇寧三年、又文宣王廟に配食し、顔・孟の次に列ね、舒王を追封す。欽宗の時、楊時以て言ふ、詔して之を停む。高宗趙鼎・呂聰問の言を用ひ、宗廟の配享を停め、其の王封を削る。

初め、安石『詩』・『書』・『周礼』を訓釈し、既に成り、之を学官に頒ち、天下号して「新義」と曰ふ。晩年金陵に居り、又『字説』を作り、多く穿鑿傅会す。其の流仏・老に入る。一時の学者、伝習せざるは無く、主司純く之を用ひて士を取る、士自ら一説を名くるを得ず、先儒の伝注、一切廃して用ひず。『春秋』の書を黜け、学官に列することを使はざりしが、至って戯れに目して「断爛朝報」と為す。

安石未だ貴からざる時、名京師に震ひ、性華腴を好まず、自ら奉ずる事至って儉しく、或は衣垢みて澣はざり、面垢みて洗はざりしも、世多く其の賢を称す。しょく人蘇洵独り曰く、「是れ人情に近からざる者、鮮くも大奸慝と為らざるは無し」と。『弁姦論』を作りて以て之を刺し、王衍・盧杞を合して一人と為すと謂ふ。

安石性強忮にして、事に遇ひて可否無く、自ら見る所を信じ、意を執りて回らざりき。変法を議するに至りて、而して廷に在りて交はり執りて不可とす、安石経義を傅へ、己が意を出だし、弁論輒ち数百言に及び、衆之を詘くることが能はず。甚だしき者は「天変畏るるに足らず、祖宗法とすべからず、人言恤ふるに足らず」と謂ふ。中外の老成人を罷黜すること幾く尽くし、多く門下の儇慧少年を用ふ。久しくして、旱を以て去り、復た相と為るに及び、歳余にして罷む、終に神宗の世召さず、凡そ八年。子雱。

子 雱

王雱、字は元澤。人となりは剽悍にして陰刻、顧みる所無し。性甚だ敏にして、未だ冠せざるに、已に書を著すこと数万言。年十三、秦の卒の言ふ洮・河の事を得て、歎じて曰く、「是れ撫して有つべし。西夏をして之を得せしめば、則ち吾が敵強くして辺患博し」と。其の後王韶熙河を開くに、安石力めて其の議を主とす、蓋し此に兆す。進士に挙げられ、旌徳尉に調ず。

雱気豪にして、一世を睥睨し、小官を作る能はず。策二十余篇を作り、天下の事を極論し、又『老子訓伝』及び『仏書義解』を作る、亦数万言。時に安石執政たり、用ふる所多く少年、雱亦選に預からんと欲し、乃ち父と謀りて曰く、「執政の子と雖も事に預るべからず、而して経筵は処るべし」と。安石上に知らしめて自ら用いられんと欲し、乃ち雱の作れる策及び『道徳経』を注せるを鏤板して市に鬻ぎ、遂に上に伝達す。鄧綰・曾布又力めて之を薦め、召見せられ、太子中允・崇政殿説書を除す。神宗数たび留めて語り、詔を受けて『詩』『書』の義を注し、天章閣待制兼侍講に擢ず。書成り、龍図閣直学士に遷る、病を以て辞して拝せず。

安石政事を更張するに、雱実に之を導く。常に商鞅を称して豪傑の士と為し、異議を誅せざれば法行はれずと言ふ。安石程顥と語るに、雱囚首跣足、婦人の冠を携えて出で、父の言ふ所何事ぞと問ひ、曰く、「新法数たび人の阻む所と為るを以て、故に程君と議す」と。雱大言して曰く、「韓琦・富弼の頭を市に梟せば、則ち法行はれん」と。安石遽かに曰く、「児誤れり」と。卒する時纔かに三十三、特に左諫議大夫を贈る。

唐坰 附す

唐坰なる者、父の任に因りて官を得。熙寧初、上書して云く、「秦の二世趙高に制せられ、乃ち弱きを失ひ、強きを失ふに非ず」と。神宗其の言を悦ぶ。又云く、「青苗法行はれず、宜しく大臣の異議する韓琦の如き者数人を斬るべし」と。安石尤も之を喜び、薦めて対せしめ、進士出身を賜ひ、崇文校書と為す。上其の人を薄し、銭塘県知事を除す。安石之を留めんと欲し、乃ち鄧綰をして薦めて御史と為さしめ、遂に太子中允を除す。数月、将に諫官に用いんとす、安石其の軽脱を疑ひ、将に己に背きて名を立つるを、職を除せず、本官を以て諫院を同知す、故事に非ざるなり。

坰果たして安石の己を易ふるを怒り、凡そ二十疏を奏し、時事を論ず、皆中に留めて出さず。乃ち百官起居の日に因り、陛を扣きて対を請ふ、上他日にすべしと諭すを令す、坰地に伏して起たず、遂に召して殿に升らしむ。坰御坐の前に至り、進みて曰く、「臣の言ふ所は、皆大臣の法に背くこと、請ふ陛下一一之を陳ぜん」と。乃ち笏を措きて疏を展げ、安石を目して曰く、「王安石近く御坐に在り、劄子を聴け」と。安石遅遅たり、坰訶して曰く、「陛下の前猶ほかくの如く敢へす、外に在りて知るべし」と。安石悚然として進む。坰大声に宣読す、凡そ六十条、大略「安石専ら威福を作し、曾布等表裏に権を擅にし、天下但だ安石の威権を憚るるを知り、復た陛下の有るを知らず。文彦博・馮京知りて敢へて言はず。王珪曲く安石に事へ、廝僕に異ならず」と。且つ読み且つ珪を目す、珪慚懼して首を俛す。「元絳・薛向・陳繹、安石頤指気使、家奴に異ならず。張琥・李定安石の爪牙と為り、台官張商英乃ち安石の鷹犬なり。意に逆らふ者は賢と雖も不肖と為し、己に附く者は不肖と雖も賢と為す」と。李林甫・盧杞と詆るに至る。上屡び之を止む、坰慷慨自若、略退懾せず。読み已り、殿を下り再拝して退く。侍臣衛士、相顧みて色を失ひ、安石之が為に去らんことを請ふ。閣門其の朝儀を瀆乱するを糾し、潮州別駕に貶す。鄧綰之を申救し、且つ自ら繆挙を劾す。安石曰く、「此れ素より狂す、責むるに足らず」と。広州軍資庫監に改め、後に吉州酒税に徙し、官に卒す。

論ずるに曰く、朱熹嘗て安石を論じて「文章節行を以て一世に高く、而して尤も道德経済を以て己が任と為す。神宗に遇はれ、宰相の位に致り、世方に其の為す有るを仰ぎ、庶幾くは復た二帝三王の盛を見ん。而して安石乃ち汲々として財利兵革を以て先務と為し、凶邪を引用し、忠直を排擯し、躁迫強戾にして、天下の人をして囂然として其の生を楽むの心を喪はしむ。卒の群奸嗣ぎて虐り、毒を四海に流し、崇寧・宣和の際に至りて、禍乱極まれり」と。此れ天下の公言なり。昔神宗相を命ぜんと欲し、韓琦に問ひて曰く、「安石何如」と。対へて曰く、「安石翰林学士と為るは則ち余り有り、輔弼の地に処るは則ち不可なり」と。神宗聴かず、遂に安石を相とす。嗚呼、此れ宋氏の不幸なるも、亦安石の不幸なり。

王安礼

初め、絳爵賞を専らにし、既に上最す、多く実を失ふ、公弼状を以て聞く。詔して即ち河東に功を議せしむ、公弼将に之を受けんとす。安礼曰く、「宣撫使は宰相を以て諸道を節制し、且つ便宜を許さる、封授一も韙ならざる有らば、人猶ほ之を非とし得べし。公は藩臣、乃ち功状を非其の任に隃進せんと欲するか」と。公弼遽かに辞す。遂に安礼を朝に薦む、神宗召対し、驟に之を用いんと欲す。安石国に当たり、辞し、著作佐郎・崇文院校書と為すを以てす。他日見ゆるを得、之に坐を命ず、有司八品官に坐を賜ふ者無しと言ふ、特に之を命ず。直集賢院に遷り、潤州・湖州を知りて出で、開封府判官として召さる。嘗て尹と偕に事を奏す、既に退き、独り留めて天下の事を以て訪ふ、帝甚だ嚮納す。直舎人院・同修起居注。

蘇軾御史獄に下り、勢危殆甚だし、救ふ者敢へて無し。安礼従容として言ふ、「古より大度の主は、言語を以て人を罪せず。軾才を以て自ら奮ひ、爵位は立取り可しと謂ひ、顧みるに録録此の如し、其の心能く觖望無からざるべからず。今一旦理に致さば、後世陛下能く才を容れずと謂はんことを恐る」と。帝曰く、「朕固より深く譴せず、行ひて卿の為に之を貰はん。卿第に去れ、言を漏らすなかれ、軾方に衆に怨を賈ふ、言者縁りて以て卿を害せんことを恐る」と。李定・張璪皆擿して救ふ勿からしむ、安礼答えず、軾是に因りて軽比を得。

知制誥に進む。彗星見ゆ、詔して直言を求む。安礼上疏して曰く、「人事下に失すれば、変象上に見ゆ。陛下仁民愛物の心有り、而して沢下に究まらず、意ふらくは左右の大臣均しからず直からず、忠なる者を不忠と謂ひ、賢ならざる者を賢と謂ひ、権に乗り利を射る者は、力を溝瘠に殫し、利を園夫に究め、以て陰陽を干し星変を召すに足る。願くは親近の行ひを察し、邪枉の門を杜がん。祈禳の小数に至りては、旧章を貶損するは、恐らくは以て天に応ずる所以に非ざらん」と。帝覧みて数たび嘉歎し、之に諭して曰く、「王珪卿をして条具せしめんと欲す、朕嘗て応に人言を沮格すべからずと謂ひ、以て自ら壅障す。今一指を以て目を蔽はば、泰・華前に在りと雖も之を見ず、近習其の君を蔽ふ、何を以て此に異ならん、卿当に益々自信すべし」と。

翰林学士として開封府を管轄し、事案に至れば即座に裁断した。以前滞留していた訴訟で真相が得られず、また取り調べ中で未決の者が数万人に及んでいたが、安礼が裁決を下すと、三か月も経たぬうちに、三つの獄院及び京畿・赤県十九邑の囚人は皆空となった。その記録を府前に掲示すると、遼の使者が通りかかってこれを見て、嘆息し賞賛した。帝はこれを聞き、喜んで言った、「昔、秦の内史廖が祭祀の礼を整え、由余の謀略を奪ったが、今、安礼は吏事に勤勉で、異国の隣国を驚かせた。古人に恥じぬものだ。」と。特に一階を昇進させた。

帝はたびたび皇子を失い、太史が言うには、民衆の墓が多く京城に迫っているため、皇嗣に不利であるという。詔して全て改葬させようとし、数十万の墓が数えられ、人々は騒然として恐れた。安礼が諫めて言うには、「文王は三十世を占ったが、その政治はまず骸骨を埋めることから始めた。人の塚を移してその子孫を利するなど聞いたことがない。」と。帝は哀れに思い、取りやめた。

巡察の者が匿名の手紙で人の不軌を告げるのを連続して入手し、関わる者は百余家に及んだ。帝は安礼に渡して言った、「至急処置せよ。」安礼が指摘された内容を検証すると、皆ほぼ同じで、最後の一通には三人が追加されており、薛という姓の者がいた。安礼は喜んで言った、「分かった。」薛を呼んで尋ねた、「お前に以前から不快に思っている者がいるか?」と言うと、筆を売りに来た者がいて、断ったところ、不満そうに去り、恨んでいる様子だったという。すぐに捕らえて取り調べさせると、果たしてその者の仕業であった。すぐにその首を市中にさらし、一人も逮捕せず、京師では神明のようだと称した。

宗室の令騑が数十万銭で妾を買ったが、長らくして追い返し、府に訴えて元の代金を督促した。安礼が妾を見ると、すでに火傷で顔を損なっていた。すぐに上奏して言った、「妾が数十万の価値があるのは、容貌によるものである。今、焼いて損なったなら、再び売ることはできず、これは炮烙の刑と何が異なるか。代金の請求は取り上げず、かえって厳しく譴責し、戒めとすべきです。」と。詔してこれに従い、さらに令騑の俸給を剥奪した。

後宮が油箔を作らせ、三年で損傷した場合は代金を返すと約束したが、わずか一年で損傷した者がいた。宦官が府に持参し、約束通りにするよう求め、言葉遣いが甚だ厳しかった。安礼は言った、「もしかすると、置き場所が適切でなく、風雨や乾湿によって損なわれたのではないか。もしそうなら、民は二度と代金を得られず、約束は用いるべきではない。」結局追及しなかった。このため宗室や宦官たちは皆、彼を恐れた。

元豊四年、初めて三省を分け、執政を置き、中大夫・尚書右丞に任じられた。左丞に転じた。王師が夏国に問罪した時、涇原承受の梁同が上奏した、「転運使の葉康直が送った米は、劣悪で食べられない。」帝は大いに怒って言った、「高く買い遠方から送らせて、かえって使えないとは。徒らに民力を道路で疲弊させるだけだ。康直は斬るべきである。」安礼は言った、「これは梁同一人の言葉で、疑わしく事実とは限りません。調査すべきです。」そこで判官の張大寧を派遣して梁同と共に検証させ、また康直を拘束して待機させた。やがて米の十のうち八九は使えることが分かり、帝の怒りは解け、康直を赦した。

この時、夏国征伐は思うようにならず、李憲が再挙を望んだ。帝が輔臣に意見を求めると、王珪は言った、「以前に懸念されたのは費用不足でしたが、朝廷は今、五百萬緡の銭・交子を供出し、軍食に充てても余りあります。」安礼は言った、「交子は食べられず、必ず銭に換え、銭はまた秣や穀物に換えねばなりません。今、出征の期日までわずか二か月、どうして事を整えられましょう。」帝は言った、「李憲はすでに準備ができているという。あの宦官がこのようにできるのに、卿らだけがその意志がないのか。唐が淮西を平定した時は、裴度だけが謀議が君主と同じであった。今、公卿から出ずに宦官から出るとは、朕は甚だ恥ずかしい。」安礼は言った、「淮西は三州に過ぎず、裴度の謀略があり、李光顔・李愬のような将軍がいたが、それでも天下の兵力を動員し、数年を経てようやく平定しました。今、夏氏の強さは淮西とは比べものにならず、憲の才は度に匹敵せず、諸将にも光顔・愬のような者はいません。臣は聖意に副い得ないことを恐れます。」帝は悟ってやめた。後に憲を節度使に任じようとしたが、安礼はまた不可とした。

御史中丞の舒亶が上章して執政を誹謗し、かつ言った、「尚書省は記録目録を置いていない。」との詔旨により官吏の罪を追及することになった。安礼は御史台の記録目録を取って様式とすべきと請い、省中のものと同じであったため、舒亶の他の事柄をも併せて列挙し、舒亶は罪に坐して免職となった。徐禧が辺境の事を計画した時、安礼は言った、「禧は志は大きいが才は乏しく、必ず国を誤る。」永楽で敗戦の報が届くと、帝は言った、「安礼が常に朕に兵を用いず、獄を少なくするよう勧めたのは、まさにこのためであったのだ。」

しばらくして、御史の張汝賢がその過失を論じ、端明殿学士として江寧府を管轄した。汝賢もまた罷免された。元祐年間、資政殿学士を加えられ、揚・青・蔡の三州を歴任した。また御史の言上により、学士の位を失い、舒州に移された。紹聖初年、職を回復し、永興軍を管轄した。二年、太原府を管轄した。風痹に苦しみ、帳中に臥して事を決裁したが、下僚は欺くことができなかった。卒去、六十二歳。右銀青光禄大夫を追贈された。

安礼は風采が優れ、議論は明快で、常に経世済民を自任としたが、細かい礼儀作法には疎く、そのためしばしば非難の的となったという。

王安国

熙寧初年、韓絳がその才能と行いを推薦し、召されて試験を受け、及第を賜り、西京国子教授に任じられた。任期満了で京師に至ると、上は安石の弟であることから、対面を賜った。帝は言った、「卿の学問は古今に通じている。漢の文帝をどういう君主と見るか?」と。答えて言った、「三代以降に比類なき君主です。」帝は言った、「ただその才が法を立て制度を改めることができなかったのが残念である。」答えて言った、「文帝は代国から来て、未央宮に入り、変事を定めたのは瞬く間のことで、才なき者にはできません。賈誼の言を用い、群臣を礼節をもって遇し、専ら徳をもって民を教化することに務め、海内が礼義によって興り、刑罰がほとんど用いられなくなった点では、文帝は才が一段上であると言えます。」帝は言った、「王猛が苻堅を補佐し、小さな国ながら命令が必ず行われた。今、朕は天下の大きさをもってしても人を使うことができない。なぜか?」と言うと、答えた、「猛は峻厳な刑法で人を殺すよう堅に教え、秦の国祚が一代で終わる原因となりました。今、刻薄な小人が必ずやこのようなことで陛下を誤らせようとするでしょう。専ら堯・舜・三代を手本とされるなら、下の者が従わないはずがありません。」また尋ねた、「卿の兄が政務を執っているが、外の評判はどうか?」と言うと、答えた、「人を見る目が明るくなく、徴収が急ぎ過ぎることを恨まれています。」帝は黙って不機嫌となり、これ以降別に恩命はなく、ただ崇文院校書に任じ、後に秘閣校理に改めた。たびたび新法を力説して安石を諫め、また曾布がその兄を誤らせたと責め、呂恵卿の奸悪を深く憎んだ。

以前、安国が西京で教授をしていた時、声楽と女色に耽りがちであった。安石が宰相の地位にあった時、手紙で戒めて言った、「鄭声(淫楽)を放つべし。」と。安国は返書して言った、「また兄に佞人を遠ざけることを願う。」と。恵卿はこれを恨んだ。安石が宰相を罷免されると、恵卿は鄭侠の事件に乗じて安国を陥れ、官を奪われて田舎に帰された。詔してこれを安石に伝えると、安石は使者の前で涙を流した。やがて官を回復したが、命令が下った時には安国は既に卒去しており、四十七歳であった。

論じて言う。安石は蘇軾を憎んだが安礼は彼を救い、恵卿に親しんだが安国は彼を挫いた。議論する者はこれを二人の弟の過失とせず、ただそれが妥当であったからである。安礼の政治には称えるべき点がある。安国は早世したため、用いられることがなかったという。