王臻
王臻、字は及之、潁州汝陰の人。学問を始めてより文辞に長じた。曾致堯が寿州知事として時名があり、王臻は文数十篇を持って謁見した。致堯はこれを見て嘆じて言う、「潁・汝の地にはもとより奇士が多い。」進士に挙げられて及第し、大理評事となり、舒城・会昌県の知事を歴任し、徐州・定州の通判を務め、殿中丞として兗州知事となり、特に監察御史に遷った。
中使が景霊宮・太極観の営造に当たり、王臻は工費の補佐に功労があり、殿中侍御史に遷り、淮南転運副使に抜擢された。時に発運司が淮南の漕渠を浚渫し、諸堰を廃止することを建議した。王臻は言う、「揚州の召伯堰は、実に謝安が築いたものであり、人はその功績を思い、召伯に比している。廃すべからず。また渠を浚っても益はない。」三司度支判官に召されたが、発運司はついに渠を浚って漕運を通した。王臻は以前の異議を理由に、監察御史・睦州知事に降格された。途中で官を復し、福州に移った。閩人は仇を報いようとするとき、先に野葛を食し、それから仇家に赴いて闘いを求め、その場で死んで、仇人を誣告することがあった。王臻は格闘の状況を詳しく見分け、誣告された者は多く釈放され、習俗はやや改まった。また民間でしばしば火事の噂で騒ぎ、人々を驚かせた。首謀者を捕らえて杖罰に処し、海上に流罪とすると、民はようやく落ち着いた。
魚周詢
魚周詢、字は裕之、開封雍丘の人。早く孤となり、好学であった。進士に挙げられて及第し、大理評事となり、南華・分宜・静海の三県知事を歴任し、太常博士・漢州通判に遷った。城中で夜に火事があり、配下を率いて救い、剣を前に立てて言う、「一物でも掠める者は斬る!」火は止み、民は何も失わなかった。尚書屯田員外郎として真州知事となり、提点荊湖南路刑獄に移った。便郡を求め、安州知事となり、蔡州に移り、侍御史に召された。陝西で兵事があり、賦課が頻繁であったため、京西路安撫を命じられ、還って緋衣銀魚を賜った。開封府判官となり、また陝西に遣わされて民兵を巡察し、三司理欠・憑由司を判った。起居舎人・知諫院に進んだが固辞し、尚書戸部員外郎兼侍御史知雑事となり、三司塩鉄副使となった。時に渭州の水洛城をめぐり、尹洙と鄭戩が争って決せず、詔により周詢が都転運使程戡と利害を検討した。周詢は鄭戩の議を是とし、遂に城を築いた。吏部員外郎に遷り、天章閣待制・成徳軍知事に抜擢され、河北都転運使に移り、右諫議大夫・権御史中丞に任じられた。
慶暦八年、手詔を以て近臣に天下の務めを訪ねた。周詢は答えて言う、
「陛下は西陲の防備を憂え、天下が騒擾し、兵士を急募し、軍糧を急調し、常賦は増えても経費が足りないとされる。臣が思うに、唐末及び五代は、強臣が地を専有し、中国が制する疆域は広くなかった。祖宗が天下を有してから、呉・楚・蜀・晋を俘え、北は獯鬻を防ぎ、西は羌戎を服させたが、用いた甲兵、入った租賦は、今と比べればその数は尚少なかった。しかし堅陣を摧き敵を震駭させ、軍府には空虚の弊がなく、県官には煩費の労がなかったのは、賞を信じ罰を必ずし、将を選び兵を精鋭にした効果である。近ごろ元昊が恩恵に背き、西方に兵を駐留させ、朝廷は空疏で闒茸な者を偏裨とし、遊惰で怯懦な者を行伍に備えたため、大挙すれば大敗し、小戦すれば小奔し、ただ日々千金を費やすだけで、度支は供給せず、官を売り爵を鬻ぎ、仕流を淆雑にし、鉄を以て銭と為し、国法を隳壊し、さらに官が塩禁を立て、民を駆り立てて運搬させ、恒産を蕩析し、怨嗟の声が路に満ちている。去秋は水旱が続き、今春は饑饉が相次ぎ、生霊が重く困窮し、今が最も甚だしい。今、元昊の幼子が新たに立ち、朝廷が財用を寛げ民力を惜しむ時である。速やかに経画し、困窮を緩和すべきである。願わくは安撫使に委ね、本路の守辺・掌計の臣僚と共に議し、冗兵を裁減し、浮費を節制し、横斂を禁止し、貧民に穀物を貸与し、武臣の庸懦を去り、守宰の貪残を罷免せよ。なお特に宸衷を発し、内帑の銭を出して関陝の費用を助け、塩商の利を通じさせ、銭幣の法を改め、徳沢を宣布し、民をして休息を得させよ。その後、農桑を勧勉し、税籍を隠括し、遺利を収め、兼併を抑えれば、公には羨財が生じ、私には余力が生まれるであろう。
陛下は承平が久しく続き、仕進の門が多く、人が汚れ政が濫り、員が多く闕が少なく、奔競が滋長し、廩禄を靡費することを憂えられる。臣が思うに、国家は製挙・進士・明経の外に、さらに任子・流外の補任があり、瑕釁を負い輿臺に服する者も班列に置いている。歴年既に久しく、紛猥にして路を塞ぎ、人を求めて事に任せようとしても、適用する者は少なく、しかも頻繁に更易し、道塗で交錯し、定員は一定であるのに詔による除授は無限で、凡そ一つの官闕を守るにも、動もすれば再期を超える。閫籍に預かり武弁を服する者は、水衡の給与を坐して費やし、歳考の期を虚しく計り;銓調に赴き選格を守る者は、多く困乏の嘆きに居り、廉恥の風を行なう者は少ない。官冗の弊、ここに至る!願わくは陛下特詔を下し、進士は先ず策論を取ることとし、諸科は経義を兼ねて通じさせ、中第して解褐する者を過多にさせぬこと。文武班の奏薦及び流外出官の者は、五七年間権停とすれば、自然と名器は濫れず、奔競は衰息するであろう。
陛下は牧守の職で、奏最を聞くことが稀であることを憂えられる。臣が聞くところでは、漢の宣帝は二千石を勉励し、治績のある者には秩を増し金を賜い、或いは関内侯の爵に至らせ、公卿に欠員があれば順次これを用いたので、良吏が盛んであった。国家は諸侯が地を専有する禍を鑑み、一切郡守を用いて治めさせた。しかし班行は次第に冗長となり、序遷する者が多い。藩宣の地にあり、卿監の秩にあっても、省府提転を歴任していない者は沈抑されている。内が重く外が軽ければ、どうして治を求めることができようか。改弦易轍は、まさにこの時である。願わくは両府大臣に詔し、両制・台諫官を選んで委ね参挙させ、両任の通判で知州軍京朝官に充てうる者は、順次除補せよ。もし治状が特に優れれば、即ち省府提転に昇進させる。常例で知州に入る者は一切停罷すれば、進擢は人を得、牧守は重んぜられるであろう。
陛下は将帥の任が、職に適うことを得難いことを憂えておられる。臣は晏子が司馬穰苴を推薦して言ったと聞く、『文は能く衆を附し、武は能く敵を威す』と。これにより将帥の材は、文武兼備でなければならず、そうでなければ為し得ないことを知る。我が朝は二辺が款附して以来、久しく兵を用いない。近年西北の警報があり、帥臣を補授するに、急遽のうちに出で、卒伍より出でざれば、即ち恩沢侯である。信義をもって士心を結ぶことなく、荘厳をもって師律を正すことなく、退けば奔北し、進めば擒えられ、威霊を虧損し、夷狄に侮られ、命将の失、今の如く甚だしきは未だあらざるなり。名臣を択び、深博にして謀有り、兵を知り武を練るの士を選挙し、資級を限らず、辺任を以て試み、臨軒して敦遣し、威権を仮し、祖宗の朝に郭進・李漢超の輩を任じたるが如く、閫外の事を、専らに得しめ、謗讒を以て軽々に遷徙することなく、其の重きを取るに足らしめば、則ち安んぞ職に適わざるの憂い有らんや。
陛下は西北に多故有り、辺情は測り難く、奇譎の空言を献ずる者多く、悠久の実効を陳ずる者少なく、不虞を備え豫むるに、理当に物に先んずることを憂えておられる。臣は国家が北戎と和約し、西夏に爵命し、革を偃げ戈を止めて、四十余載を逾ゆると聞く。然るに辺を守るに多く庸人を任じ、武備を厳にせず、因循姑息し、敵に窺われ、元昊の悖逆を致し、耶律の張皇を来たす。已むを得ず己を屈して民と為し、兵を息めて好を講じ、皆苟安の謀を用い、而して経遠の策無し。これ班固の所謂『武略の臣を選ばず、吾の寇を待つ所以を恃みて貨賂を行い、百姓を割剝して寇仇に奉ず』る者なり。願わくは陛下特議して三路の兵馬の駑冗なる者を減じ、以て経費を紓め、以て科斂を息め給え。然る後に将帥を選び、偏裨を択び、驕兵を戢肅せしめ、戎器を飭利せしめ、山川の形勝を識り、用兵の奇正を用いしめ給え。河朔は曠平にして、車陣を施す可く、亦宜しく其の法を講求すべし。二辺異時に侵軼すとも、吾の以て之を待つ有るを恃めば、庶幾くは患無からん。
時に執政及び近臣の対する所多く疏闊なりしが、仁宗は周詢の詳敏を頗る嘉せり。恩州を知る張得一誅せられ、挙を失うに坐し、出でて永興軍を知る。数日にして、成徳軍を知るに改む。未だ行かずして卒す。帝嗟悼し、特に尚書工部侍郎を贈る。
周詢の性は和易にして、聞見該洽し、吏事に明るし。安州に在りし時、園吏大蛇の闌楯に垂るるを見て、即ち之を視れば、乃ち周詢の酔いて假寐するなりき、世其の異を伝う。
賈黯
黯自ら年少にして遭遇し、諫官に備位し、言事に果敢なりとす。首めて韓琦・富弼・范仲淹の大用す可きを論ず。杜樞張彥方の獄を覆し、将に駁正せんとし、執政の意に忤い、執政は他罪を以て樞を絀く。黯言す、「樞は罪無く、且つ旨は中より出で、臣下の弾奏に因らず。恐らくは是より貴幸近習、言一たび入るを得ば、則ち将に陰に讒毀を肆にし、善良に害及び、察せざる可からず」と。時に言者は或いは事を論じて状を亡うし、輒ち戒勵窮詰す。黯奏す、「諫官・御史は、跡既に疏遠にして、未だ嘗て時政を預聞せず、免れず伝聞に采る。一たび言を失えば、而して詰難沮辱之に随う、言路を開広する所以に非ず。請う唐太宗の王珪・魏徵の故事を用いるが如く、毎に執政奏事するに、諫官一人の随入を聴かん」と。執政又言事官の旅進し、上前に論議して肯て止まざるを患う。乃ち詔す、「凡そ班を合して上殿せんと欲する者は、皆中書に稟きて旨を俟て」と。黯論じて以て為す、「今進見して言事するを得る者は、独り諫官・御史のみ、若し然らば、言路将に壅からん、陛下外事を聞くを得ざらん。請う故の如くせんは便なり」と。皆許さず。
儂智高反し、余靖桂州を知り、楊畋広南東・西路を安撫し、皆便宜行事を許さる。黯言す、「二人事に臨み、指蹤一ならざれば、則ち下将に適従する所無からん。又靖は専ら西路を節制す、若し賊東に向かば、則ち靖の統ぶる所に非ず、衆を使う無からん、靖に両路を経制せしむるに並付するに若かず」と。之に従う。皇祐四年、同修起居注と為り、塩鉄勾院判に徙り、左司諫に遷る。天下に復た義倉を置くを建言し、其の説を諸路に下す。而して論者一ならず、黯も亦反復辨析す、卒に行わるること果たさず。宰相劉沆中外に薦挙陳乞するを請い、一切詔令を以て事に従い、例を用いる無からんとす。論者以て便に非ずと為し、黯奏して之を罷む。狄青枢密副使を除かれ、黯言す、「国初武臣宿将、大業を扶建し、列国を平定し、忠勳有る者、勝て数う可からず。然れども卒伍より帷幄に登る者有らず」と。報いず。会霊観災有り、又言す、「天意の廃せんと欲する所は、当に営繕を罷め、守衛者の罪を赦し、以て儆懼修省の意を示すべし」と。知制誥に擢ぐ。
初め、仁宗視事退き、邇英閣に御し、侍臣を召して講読せしむ。而して起居注官を修する者は独り先に出づ。黯言す、「君臣訪対は、動もすれば政体に関わり、而して史臣預聞するを得ず、請う並びに経筵に侍するを召さん」と。之を許す。初め、邇英・延義の二閣に、講読官自ら記注有り。是に至りて、乃ち之を罷む。直龍図閣銭延年天章閣待制に擢げらる。黯命辞に当たり、即ち延年の不才を詆し、侍従を汚すに宜しからずとし、詞目を封じて還し中書に付す。命遂に寝す。
時に詔して両制・両省官は唯公事を以ての許しに中書・枢密院に至り執政に見ゆるを許す。群臣心に其の非なるを知るも、而して自ら言うを嫌う。後黯許州を知り、乃ち言す、「他官は皆執政に見ゆるを得るに、侍従近臣は、反って疏斥疑間の如く此の如し。嘗て聞く先朝王禹偁の請を用い、百官宰相に候謁するは、並びに政事堂に於てし、枢密使も亦須く聚坐接見し、以て請託を防ぐと。令下り、左正言謝泌上書し、以て人主の赤心を推して大臣を待ち、大臣四体を展べて人主に報ゆるの誼に非ずと謂う」と。即時に前詔を追寝す。
襄州に徙る。父を迎えて之に官す。而して父の故人部中に在り、直庁卒を遣わして問い致す。黯輒ち卒を笞す。父恚り、一夕郷里に帰る。他日、疾且つ亟し。黯内に自ら安からざるを懐き、郡に徙り及び官を解きて就養せんことを請う。報いず。乃ち官を棄てて去る。而して御史呉中復等黯の輒ち州印を委ね、朝廷の法を撓ぐを劾し、郢州知に絀く。未だ行かざるに、父死す。服除け、三班院を勾当し、翰林学士と為る。唐介等陳升之の柄用すべからざるを言うに坐し、皆外補せらる。黯奏し介等敢言するを以てし、之を寛めんことを請う。疾を以て郡を請い、侍読学士・鄧州知に改む。未だ行かず、疾愈ゆ。復た以て翰林学士・審官院知と為す。
時に官吏の中に、祖父の嫌名(音が同じで字の異なる名)を理由として、律令を援用して他官への授任を請う者があった。賈黯が言うには、「礼では嫌名は避諱せず、二名(二字の名)は偏諱(一方だけの避諱)しない。律には、『府号・官称が祖父の名に犯す(同じ字を用いる)のに栄誉を冒してその官に居り、また上書あるいは奏事において祖廟の諱に犯す者は、罪にそれぞれ差がある』とある。また、『もし嫌名および二名の偏犯の場合は、坐罪しない』とある。今、官吏が嫌名を避けることを許すならば、あるいはこのような者で自ら言わない者がおり、栄誉を冒した律で処罰できるであろうか。国朝(宋朝)の雍熙年間に、かつて詔して、『官を除くに私諱に犯す者は、三省・御史台の五品以上、文班の四品以上は、式に用いて奏上して改めることを許し、それ以外はこの制に在らず』とある。雍熙の詔書に準拠し、ある品以上は、礼と律に従って処置することを請う。」詔して、嫌名および二名でない場合は、品秩の高下によらずすべて避けることを聴許した。
累遷して尚書左司郎中・権知開封府となった。両軍(殿前司・侍衛親軍)の獄囚は毎年獄死する者が多く、しかも吏はその責任を負わなかった。賈黯が言うには、「吏の中には囚人の監視を怠り、飢え・渇き・疾病によって、ついに死に至らしめる者がある。毎年死者の多少を計って賞罰することを請う。」開封府の吏の定員は七百人であったが、罪によって廃された者が復職する場合、皆定員外に補充していた。賈黯は、復職する者は欠員がある場合のみ補充するよう請うた。しかし彼の判決・処置は、時に己の見解に基づき、人々は妥当と認めなかった。御史中丞王疇とその属官の陳経・呂誨・傅堯俞、諫官の司馬光・龔鼎臣・王陶は、皆賈黯が剛愎自任し、赦書が府に下っても、罪を釈放すべき者をかえって重く処罰していると上言した。罷免されて同提挙在京諸司庫務となった。
英宗が即位すると、中書舎人に遷った。詔を受けて『仁宗実録』を撰し、権知審刑院となり、群牧使となった。時に皇子の封拜があり、皆検校太傅を除された。賈黯が言うには、「太師・太傅・太保、これらは三師であり、天子が師法する所である。子が父の師となるのは、義に於いて不可である。これは前世の因循して考えなかった過ちによる。請う、今より皇子および宗室で属が卑しい者は、皆師傅官を兼ねさせず、その遷序に随って、三公に改めて授けるように。」下して両制に議させたところ、賈黯の上奏通りにするよう請うた。中書もまた、「唐以来、親王が師傅を兼ねた者はない。国朝は三師・三公を皆虚名としているため、これに因って授けたのであり、その過失を正すべきである。」と言った。詔して許可した。
給事中・権御史中丞に遷った。間もなく、呂誨を知雑事とした。呂誨はかつて賈黯を弾劾したことがあったため、逡巡して引退を申し出た。賈黯はかつて呂誨を御史に推薦したことがあり、その方正謹厚であることを知っており、一時の公言であって嫌怨があるわけではないので、終始共に事に当たりたいと述べた。呂誨はこれにより就職した。時に帝は即位したばかりで、王広淵・周孟陽が藩邸(潜邸)の旧臣であるため、しばしば召し出して対問した。賈黯が言うには、「俊乂が朝廷に満ちているのに、一人も召し出された者はなく、ただ親しい一二の旧人だけを召すのは、天下に広くないことを示すものである。太宗の故事のように、侍従・館閣の臣を召して顧問に備えることを請う。」帝はかつて穏やかに賈黯に言った、「朕は人を用いたいが、任用できる者が少ない。」賈黯は答えて、「天下は未だかつて人材に乏しいことはなく、ただ用い方如何によるのみです。」退いて五事を上奏した。一、人を知る明、二、漸次に養育すること、三、材を備えを求めないこと、四、類をもって薦挙すること、五、自らに代わる者を選び取ること。
後に両制と合議し、濮王を皇伯とするよう請うたが、執政は従わず、数度中書に赴いて争論した。折しも大雨が降り、時に賈黯は既に病を患っていたが、上疏して言った、「宗廟を簡略にし、天時に逆らえば、水は潤下しない。今、二三の執政は、陛下が先帝の後であることを知りながら、阿諛追従し、経義に背き、両統二父の説を立てた。故に七廟の神霊は震怒し、天は雨水を降らせ、人民を流死させた。」病に罹った後、外任を求め、翰林侍読学士として陳州知州となった。赴任せずに卒去した。享年四十四。口述で数百言の遺奏を残し、なお濮王の議を請うていた。尚書礼部侍郎を追贈された。
初め、賈黯の母陳氏は実家に帰っていたが、継母の史氏が堂にいた。後に陳氏を迎え帰したが、二母は仲が良くなかった。賈黯は安心して両者に仕えることができた。賈黯は品行方正で自らを喜び、朝廷で数度事を言上し、時に従われ時に否とされ、人々はその耿直さを称えた。しかし性急であり、初め襄州通判の時、俳優が自分を戯れていると疑い、人の茵(敷物)を食べさせた。開封府にいた時、罪人に罵られ、また人の茵を食べさせた。言事者もまたこのことを以て彼を誹謗した。
李京
李京、字は伯升、趙州の人。進士に及第し、平定軍判官・冀州推官を歴任し、大理寺丞に改め、魏県知県となった。法を奉じて厳正であり、吏は不便に思い、苛酷なことで李京を陥れようとし、遂に相率して遁走した。監司は果たして苛酷を理由に李京を斥けようと議したが、知府の任布が言った、「このようにすれば、まさに吏の計略に陥る。」李京はこれにより免れた。永昌県に転じ、趙州通判となった。王拱辰が推薦して監察御史裏行とし、監察御史に遷った。
時に太史が日食があると予言したが食せず、群臣は皆祝賀した。李京が上疏して言った、「陛下は天の戒めに因り、恐懼して修省し、正殿を避け、常膳を減らされた。故に精誠が天に感通し、日が食すべき時に陰雲が蔽った。宋の景公の時に熒惑(火星)が退舍したこと、商の大戊の時に桑と穀が共に枯れたことと、異なる所はない。しかし臣の愚かなる者はひそかに疑う所がある。宝元の初めより、定襄で地震が起こり、城郭を壊し、廬舎を覆い、圧死者は数万人に及んだ。今に至るまで十年、震動が止まない。これはまさに西・北の二辺に、中国を窺う意図があるためではないか。二月に雷が声を発するのは、『易』では『豫』の卦に当たり、万物が地より出で、皆悦豫することを言う。八月に声を収めるのは、『易』では『帰妹』の卦に当たり、雷声が地に入り、群陰の害を避けることを言う。今、孟夏に雷が未だ声を発していないのは、まさに号令が信を為さないためではないか。願わくは陛下は辺臣を戒飭して夷狄に備えさせ、輔臣を戒めて出命を慎ませ、未だ形を成さぬうちに禍を鎮められたし。また、尚美人は外館に棄てられて多年になるが、近頃また召し入れたと聞く。臣は媚道を仮りて蠱惑することを慮る。速やかに絶つべきである。苗継宗は嬪御の子弟であるが、恩私に縁り、府界提点となった。帷薄の愛を断ち切り、名器の分を重んじ、聖政に累いしないようにされたし。」仁宗は嘉納し、右正言・直集賢院・同管勾国子監を授け、史館修撰を加えた。
数度上書して事を論じたが、宰相の賈昌朝は快く思わなかった。李京はかつて侍御史の呉鼎臣に推直官の李実を推薦するよう依頼した。呉鼎臣は賈昌朝の意を迎え、中丞の高若訥に告げた。高若訥は呉鼎臣のために李京の書簡を上奏し、李京は太常博士・監鄂州税に貶謫された。鄂州に到着すると、令狐亙・銭徽の故事を引き合いに出し、言った、「臣は御史・諫官として、首尾五年、凡そ六度上章し、四度親しく対問した。自ら疾恙を陳べ、懇ろに外補を求めた。臣の出処は、粗末ながら本末がある。以前、御史台に在った時、『入閣図』を見たが、三院御史の立班はそれぞれ異なっていた。元日に将に入閣すると聞いたが、御史の王贄・何郯は皆謁告して帰った。折しも推直官の李実の任期が将に満ちようとしていたため、書簡で呉鼎臣に李実を留めて御史に補すべきだと伝えた。呉鼎臣もまた議が公望に協うと言った。思いがけず二ヶ月を過ぎて、かえって臣と李実が朋党を為したと誣告した。臣が初めて貶謫された時、諸々の嚢中の物を調べたが、呉鼎臣が遺した私書の別紙が依然として在った。臣は子の李諶に急いで悉く焼き捨てさせた。臣と李実は僚友であり、呉鼎臣とは郷曲の旧知である。呉鼎臣が御史となったのは、臣が名声を広め推挙した力が大きい。彼を疑わず待ち、誠を以て告げた。どうして傾険で包蔵し、甘んじて鷹犬となることを考えようか。惟うに陛下はこれを明察されたし。」間もなく、官に在って卒去した。詔して李諶を郊社斎郎に録した。
呉鼎臣 附
鼎臣は棣州の人である。京を追放した後、昌朝が罷免されると、夏竦が北京から召されて宰相となった。鼎臣は先に竦が幷州において私僕を杖殺したことを論じ、さらに諫官・御史とともに竦の議論が陳執中と異なり、共に事を為すべからずと上言した。竦が罷免されると、刑部員外郎として諫院を管轄した。上言して曰く、「朝廷は契丹と誓約を保たんとしているのに、楊懷敏が塘水を増広し、事を生じさせ、民はあるいは怨み叛く。たとえ懷敏を斬っても及ばないであろう」と。そこで河北體量安撫と為り、塘水の利害を経度せしめたが、鼎臣はさらに顧望し、依違して決断できなかった。昌朝と都轉運使施昌言が河事について議が合わず、鼎臣は度支副使から天章閣待制に任じられ、昌言に代わり、数月で卒した。
呂景初
呂景初、字は沖之、開封酸棗の人である。父の蔭により秘書省校書郎を試み、進士に挙げられ、汝州推官を歴任し、著作佐郎・知夏陽縣に改め、僉書河南府判官、通判幷州を経た。高若訥が殿中侍御史に推薦した。
張貴妃が薨じ、有司が荊王の故事に依り視朝を五日輟むことを請うたが、ある者はさらに日数を増やすことを欲し、上裁を聴き、ついに七日間に増した。景初は言う、「妃は一品で視朝を三日輟むべきである。礼官が旨に迎合し、恩礼を荊王に過ぎしめ、天下に示すべからず」と。妃が追冊されて皇后となると、また忌日を立てることを詔したが、景初が力爭し、ついに罷めた。
時に兵は冗多で、用度は乏しかった。景初は奏疏を上して曰く、
「聖人が上に在りても災いは無からず、ただ救災の術があるのみ。今、百姓は困窮し、国用は虚竭し、利源は既に尽き、ただ用度を減ずるのみである。用度の広きこと、養兵に如くはない。近年招置が多く、未だ揀汰を加えず。もし兵が皆勇健で、寇敵を捍げるならば、民の膏血を竭くしてこれを啖らせても、なお不可であるのに、まして羸疾老怯の者が常に過半を占め、徒らに粟帛を費やし、戦えば先ず奔り、勇者をも相牽いて敗れしめる。祖宗の時、四方は割拠し、中国は百余州に過ぎず、民力は未だ完からず、耕植は未だ広からざりしに、用度充足したのは、兵が少なかった故であり、征する所皆克った。数十年以来、数倍の兵を用い、向かう所必ず敗れる。これにより、兵は精に在りて衆に在らざるを知る。議者は屡々言うところであるが、陛下が即時に改められぬのは、大臣が安きに偷み怨みを避け、論事の臣がまた緘黙するからであり、この弊いつか息まん。中書・枢密院に詔して、招補を罷め、冗濫を汰うことを議せしめられたい」。
また言う、「坐して道を論ずる者は三公である。今、輔臣が奏事するも、留身して罷免を求めざれば、未だ嘗て从容として独り見え、治道を評講することなし。堯・舜の如く治を願い、稷・契の如く賢を得ても、治に至らざるは、抑々これに由る。願わくは陛下、輔臣・侍従・台諫の列より、忠信にして治道に通ずる者を択び、屡詔して数訪わしめられよ」と。また言事御史馬遵・吳中復とともに梁適が劉宗孟と連姻し、宗孟が冀州の富人と共に商販することを奏彈した。開封府に下して劾治させたが、言うところ実ならず、皆坐して謫せられ、景初は通判江寧府に左遷された。衡州知州に移り、また召還されて御史台に復した。
嘉祐初年、大いに雨水あり、景初曰く、「これは陰盛陽微の誡めである」と。乃ち上疏して称して曰く、「商・周の盛時には、同姓を並び建て、両漢の皇子は多く大国に封ぜられ、有唐の宗室は刺史として出で、国朝の二宗は相継いで京尹となった。これは本支を盛強にし、磐石の安きあらんことを欲し、奸雄をして内窺せしめず、天下に倚望する所あらしめるためである。願わくは宗子の賢なる者を択び、宮中に問安侍膳せしめて奸萌を消し、あるいは京尹・郡守として夾輔の勢いとならしめよ」と。時に狄青が枢密使となり、士卒の心を得たので、議者はその変を憂えた。景初は奏疏して曰く、「天象は謫見し、妖人は訛言し、権臣に虚声あり、兵衆に附せられ、中外これがために恟恟たり。この機会の際、間髪を容れず、未だ皇子を立てざるに由り、社稷にこの大憂あり。惟だ陛下早くこれが計りを為されば、則ち人心揺がず、国本固し」と。数えて中書に詣で執政に白し、青を出づることを請うた。文彦博は青が素より忠謹なるを以て、外言は皆小人の為す所、意に置くに足らずとせり。景初曰く、「青は忠なりと雖も、衆心を如何せん。蓋し小人は識無く、則ち或いは以て変を致す。大臣は宜しく朝廷の為に慮り、閭里の恩に牽かるるなかれ」と。知制誥劉敞もまたこれを論じて甚だ力め、ついに青を出して陳州知州とせしめた。
李仲昌が河事に敗れ、内に中人を遣わして獄を置いた。景初は賈昌朝の為す所と意い、即ち言う、「事に根原無く、政府より出でず、恐らくは陰邪これを用いて、以て善良を中傷せんとす」と。乃ち更に御史を遣わして同訊せしめた。右司諫に遷り、河北を安撫した。還りて奏す、比部員外郎鄭平が真定に籍を占め、田七百余頃あり、因ってその徭役を均しくすることを請い、限田令を著わす。戸部員外郎兼侍御史知雑事を以て、都水監を判じ、度支副使に改め、吏部員外郎に遷り、天章閣待制・知諫院に擢でられたが、病を以て、未だ入謝せずして卒した。
馬遵 附
馬遵は、字は仲塗、饒州樂平の人である。嘗て監察御史を以て江淮発運判官と為り、就いて殿中侍御史に遷り副使と為った。入って言事御史と為り、宣州知州に謫せられ、後復た右司諫と為り、礼部員外郎兼侍御史知雑事を以て、吏部に改め、直龍図閣に至り卒した。性楽易にして議論を善くし、その言事は激訐に為らず、故に多く推行せられ、杜衍・范仲淹皆これを称道した。
吳及
吳及、字は幾道、通州靜海の人である。年十七にして進士より起家し、侯官尉と為った。閩の俗は多く自ら毒死して以て仇家を誣うるあり、官司弁ずる能わず、及は悉くこれを讞正し、前後五十三人を活かし、提点刑獄その法を一路に移した。大理寺検法官に辟せられ、審刑院詳議に徙り、累遷して太常博士と為った。
「臣聞く、『官師相規い、工は芸事を執りて以て諫む』と。臣幸いに法吏に待罪するを得、輒ち刑法の本を原り、以て愚忠を效さん。窃かに惟うに、前世肉刑の設けは、支体を断ち、肌膚を刻み、終身息まずしむ。漢文は緹縈の言に感じ、之を鞭箠に易う。然れども既に死して笞未だ止まず、外に軽刑の意あれど、其実は人を殺す。祖宗は既往の弊を鑒み、煩苛を蠲除し、始めて折杖の法を用い、天下の耳目を新たにす。これ蓋し曠古の聖賢、思う所未だ至らざる所なり。陛下は深く民隠を惻み、親ら庶獄を覧る。歴世の刑を用うる、本朝の平恕の如きは無し、宜しく天の祥を降すべきなり。而るに方に隆盛の時に当たり、未だ継嗣の慶を享けず、臣窃かに惑う。
あるいは宦官が多すぎるのに、陛下がまだ悟られていないのであろうか。なぜかというに、肉刑の五つ、一つを宮刑というが、古人はこれを除き、人の世を断つことを重んじた。今では宦官の家が競って他人の子を求め、人の理を絶ち切り、爵命を求める。幼い子に何の罪があろうか、刀鋸の下に隠され、それによって夭死する者は、数えきれないほどである。病があって夭死するのは、治世の恥であるのに、まして病がないのにどうであろうか。罪があって宮刑に処するのは、前代の王も忍びなかったのに、まして無罪の者をどうであろうか。臣は聞く、漢の永平の頃、中常侍は四員、小黄門は十人に過ぎなかった。唐の太宗が制度を定め、百員を超えてはならないとした。また祖宗の近事と比べてみると、祖宗の時、宦官は合わせて何人であったか、今は合わせて何人であろうか。臣愚かにも考えるに、胎卵が傷つけば鳳凰は至らず、宦官が多ければ継嗣は育たないのである。伏して陽春の生育の令に順い、徳音を発して、詳しく条禁を定められることを望む。宦官の進献は一切暫く停止し、幼児を勝手に宮刑に処する者は重法をもって処する。もしそうすれば、天心は必ず応じ、聖嗣は必ず広がり、福祥を召し、宗廟を安んずる策は、これに先立つものはない。」
上書が奏上されると、帝はその言を異とし、諫官に用いようとしたが、及は父の喪で去った。
管勾登聞檢院を務めた。また上書して政事を論じ、「倉廩は空虚、内外は匱乏し、その弊は官多兵冗にある。冗兵を淘汰し、冗官を省き、それから民の疾苦を取り除くべきである」と言った。そこで十数条の事を条上し、多くは施行された。館職を選んで館閣の書を分校させ、かつ天下に遺書を求めることを建議し、その言葉は『芸文志』にある。
翌年、三朝(正月一日)に日食があり、及は言うには、「日食は陰が陽を侵す戒めである。人事に於いては、臣が君を陵ぎ、妻が夫に乗り、四夷が中国を侵すことである。今、大臣に姑息の政はなく、いわゆる臣が君を陵ぐというには当たらず、その失は陛下が淵黙として臨朝され、陰邪が未だ尽く屏けられないことにある。后妃に権横の家はなく、いわゆる妻が夫に乗るというには当たらず、その失は左右の親倖が驕縱して節度を失っていることにある。疆埸に憂いはなく、いわゆる四夷が中国を侵すというには当たらず、その失は将帥がその人に非ず、敵に軽んじられていることにある。」そこで孫沔が幷州に在って苛暴で法に従わず、燕飲に度を失ったこと、龐籍が以前幷州に在って軽動で謀り事が少なく、しばしば堡砦を興し、屈野での敗衄が国の深き恥となったことを言った。沔はこれによって罪に坐して廃された。
また言うには、「春秋に告糴(食糧の買い付けを求める)のことがある。陛下は恩を動植に施し、人を見ること傷を負ったようにされる。しかし州郡の官司はそれぞれその民を専有し、勝手に閉糴(食糧の売買を禁じる)の令を作り、一路が飢饉になれば、隣路はこれがために閉糴し、一郡が飢饉になれば、隣郡はこれがために閉糴する。二千石以上の者は、国と休戚を共にすべきであるのに、流離するのを坐視するのは、聖朝が兆民を子育みする意であろうか。」遂に詔して、「隣州・隣路が災傷にあって勝手に閉糴する者は、違制律によって論ずる」とした。
久しくして、右司諫・管勾國子監に遷った。在職数年、勁正をもって称され、事に遇うと大小となく言上した。嘗て群臣の上尊号を納めぬこと、後宮の私身及び非執事人を出すこと、御宝白劄子をもって近幸の家人に冠帔及び比丘尼に紫衣を賜うことを止めるよう請うた。併せて執政大臣が因循苟簡で、怨謗を畏れ避けていることを責め、唐の李吉甫の故事を用いて賢俊を選抜し、杜預の遺法に約して守令を旌擢すべきこと、将作監の官属を復置して専ら営造を領させること、入内都知任守忠が駙馬都尉李瑋を陵轢し及び内降を干求したことを論じた。
時に諫官陳升之が班行の補授を裁節するよう建議し、両制・臺諫官に下して集議させた。鉄冶を主る者は、旧来班行に補されることができた。この時、これを罷めることを議した。稿が定まった後、及と御史沈起が勝手に注を増して興国軍磁湖の鉄冶を旧制の如くとした。磁湖の冶を主る者は、大姓の程叔良である。翰林学士胡宿らは直ちに及と起を弾劾し、職は臺諫にありながら程氏のために経営して恩例を占錮したとして、詔を請うて状を問うた。皆服罪した。及は工部員外郎・知廬州に出され、進んで戸部・直昭文館・知桂州となった。卒すると、その弟の齊を録して太廟齋郎とした。
及は官に当たって守るところがあり、初め檢法官となった時、三司が鉄銭法を重くして死罪に至らせようと請うた。下して有司に議させると、及は争って不可とした。主事者は憤って言った、「天下の法を立てるのは、一人の檢法によるべきか。」及は言った、「義理が先である。高下があろうか。」遂に屈服しなかった。
范師道
范師道、字は貫之、蘇州長洲の人である。進士に及第し、撫州判官となり、後に広徳県知事となった。県に張王廟があり、民は毎年神を祠り、牛を数千頭殺していたが、師道はこれを禁絶した。許州通判となり、累遷して都官員外郎となり、呉育に推挙されて御史となった。内降推恩を罷め、宰相を選んでその任を久しくし、宗室の賢者を選んで宮中に養い儲貳を備えるよう奏請した。
後宮の周氏・董氏が公主を生み、諸閣の女御が多く遷擢された。師道は上疏して言った。
「礼は情を制し、義は愛を奪う、これは常人には難しいことであり、ただ聡明で叡智ある君主のみがこれを成し得る。近ごろ宮人の数が多いためこれを出したことは、盛徳の事である。しかしながら、事には風化と治乱の大いに関わるものがあり、未だ留意されていないことがある。臣は敢えて陛下に申し上げる。諸閣の女御が、周氏・董氏が公主を養育したことを理由に、御宝の白札によってともに才人とされ、中書から誥命が出されていないと密かに聞く。そして掖庭では遷拜を覬覦する者が多く、周氏・董氏の昇進はよろしいが、女御は何の名目で昇進するのか。才人の品秩は既に高く、古来定員があり、唐代の制ではわずか七人に過ぎない。祖宗の朝では宮闈の給侍は二三百を超えず、五品の列に居る者は僅かであった。もし諸閣が皆昇進するならば、もはや員数がなくなるであろう。外の者は詳しく知ることができず、ただ陛下が寵幸に過ぎ、恩沢に節度がないと考えるのみである。婦人女子の性は小人と同じく、寵幸が過ぎれば瀆慢の心が生じ、恩沢に節度がなければ厭き足りぬ怨みが起こる。これを御するにはその道によらねばならない。また用度が甚だ煩雑で、須索が広すぎる。一才人の俸禄は、月額で中流の百家の賦に相当し、歳時の賜与はこれに含まれない。まして誥命が出るのに、司を経由しないのは、盛時の事と言えようか。斜封・墨敕が、今日また見られることを恐れる。」
時に大星が東南に隕ち、雷のような音がした。また上疏して言うには、「『漢書』『晉書』の天文志に、『天狗の下る所は、軍を破り将を殺し、伏屍流血する』とある。『甘氏図』に、『天狗が移れば、大賊起こる』とある。今朝廷は無為の時ではないのに、辺防を備え盗賊を防ぐことが、未だ十分でない。将帥はいるが、老いていなければ愚かであり、士卒は多いが、勁勇な者は少ない。小人は乱を思い、隙を窺って作る。必ずや険心を包蔵し、隙に投じて動く者がいるであろう。将帥を選抜し、卒伍を訓練し、天下に詔して予め備え防禦すべきである。」仁宗は晩年特に恭儉であり、四方に事がなかったため、師道の言は過ぎていたが、常に優しく容れた。兵部員外郎に遷り、侍御史知雑事を兼ね、都水監を判じた。諫官・御史とともに枢密副使陳升之の任用が不適当であると数度上奏し、升之が罷免されると、師道もまた出されて福州知州となった。間もなく、工部郎中として三司塩鉄副使に入る。風眩を患い、戸部に遷り、直龍図閣・明州知州となり、卒した。
師道は風操を励まし、前後して言責の任にあり、聞けば即ち言い、時に独り争い、時に列をなして奏上した。例えば陳執中の家人が婢を殺した件では、ついに坐して免職させ、王拱辰の宣徽使、李淑の翰林学士を奪い、また王徳用・程戡が枢密を領し、宦官の石全彬・閻士良が昇進した時など、皆その罪を数えて奏上したのである。
李絢
李絢、字は公素、邛州依政の人。若い頃は放蕩で行いを省みず、兄の綯が彼に書を教え、課業を厳しくして出かけると、絢は相変わらず遊び回り、夕方になって綯が帰ると、絢はゆっくりと書を取り出して見て、一度通すだけで数千言を誦したので、綯はこれを奇異に思った。やや長ずると、文を綴ることができ、特に歌詩をよくした。かつて事に坐して繫がれたが、やがて逃げ去った。
進士に及第し、再び大理評事・邠州通判に任じられた。元昊が延州を犯すと、辺境一帯は皆恐れた。邠州の城壁は完備しておらず、絢がちょうど守を代行していたので、直ちに民を発動して城を修治した。僚吏は皆、上に言って返答を待つべきだと言ったが、絢は聞き入れなかった。帝はこれを聞いて喜び、そこで詔して他の州にも悉く守備を整えさせた。還って太子中允・直集賢院となり、開封府推官・三司度支判官を歴任し、京西転運使となった。この時、范雍は河南府知事、王挙正は許州知事、任中師は陳州知事、任布は河陽府知事であり、皆二府の旧臣であったが、絢は皆不才として上奏した。
間もなく、召されて起居注を修め、在京刑獄を糾察した。時に宰相杜衍が各々知名の士を抜擢して台省に置いたため、衍を憎む者は絢をその党と指弾した。絢はかつて陸経を推薦したが、経は贓罪に坐して貶された。また任布が絢が京西で苛察であると上言したため、出されて潤州知州となった。太常丞に改め、洪州に移った。時に五溪蛮が湖南を寇し、転運使を選ぶこととなり、帝が言うには、「館職で酒をよく飲む者は誰か、今どこにいるか。」輔臣が理解しないと、帝は言った、「往年邠州を城した者である。その人材は用いることができる。」輔臣が絢と答えたので、遂に湖南転運使に任じた。絢は駅馬に乗って邵州に至り、諸部に兵を按じて動かぬよう戒め、人を遣わして蛮に禍福を諭させると、蛮は兵を罷めて約束を受けた。
再び起居注を修め、権判三司塩鉄勾院となり、再び在京刑獄を糾察した。右正言・知制誥として契丹に奉使し、審官院知事となり、龍図閣直学士・起居舎人・権知開封府に遷り、治績に能名があった。絢が夜に酔い、朝に奏事する時も酒が醒めていなかったので、帝が言うには、「開封府の事は煩劇である。どうして酒に沈湎することができようか。」提挙在京諸司庫務に改め、権判吏部流内銓となった。初め、慈孝寺で章献太后の神御物が亡くなった時、盗人が捕まったが、絢が誤ってこれを釈放したため、詰責されて蘇州知州となり、赴任せずに卒した。
絢は疎明で楽易であり、若い頃四方を周遊し、世務に頗る練達していた。便宜を言う上書を数度行った。仁宗の年齢が高く、継嗣がなかったため、絢は高禖を祀って還る際に賦を献上し、大意は嬖寵を遠ざけ賢良に近づければ、神が福を降し子孫が繁衍すると言った。帝は嘉してこれを納れた。性は酒を嗜み、ついに病で死んだ。
何中立
何中立、字は公南、許州長社の人。幼少より機敏で才気煥発、狄遵度と交遊し、遵度は言った、「美才である!」その父の棐は遂に娘を妻とした。進士及び第し、大理評事に授かり、僉書鎮安・武勝二鎮節度判官を歴任し、殿中丞に遷り、召されて学士院で試され、集賢校理となった。太常博士・修起居注に改め、祠部員外郎・知制誥に遷り、権発遣開封府事となった。
初め、慈孝寺の章献皇太后の神御服器を盗んだ者がおり、既に捕縛されたが、李絢が属吏に任せ、拷問してもその真情を得られず、すぐに釈放した。中立が着任すると、人々がまた捕らえて来た。中立は言った、「これは真の盗人である。」徹底的に取り調べると、ついに罪を認めた。兵部員外郎に遷り、在京刑獄を糾察した。龍図閣直学士・秦州知州に任じられた。言事者が治辺の才ではないとし、慶州知州に改められた。上奏して言うには、「臣が秦州に堪えられなければ、慶州にも堪えられません。汝州を守りたい。」返答がなかった。戍卒が大校が賄賂を受け取ったと告げると、中立は言った、「これは必ずや他の怨恨を抱いているのだ。」卒を鞭打って追放した。ある者が言った、「奸を許してよいのか。」中立は言った、「部曲が短所を握って上を制することができるならば、人は自ら安んじられなくなる。」還って太常寺を判じ、刑部郎中に遷り、枢密直学士・許州知州に進み、陳州知州に改められた。大水が来るとの流言があり、住民は皆恐れたが、中立はこれを捕らえて誅した。また杭州に移り、突然中風で卒した。
中立は頗る文詞を自ら喜んだが、酒を嗜み品行がなかった。慶曆年間、集賢校理蘇舜欽が進奏院を監し、賽神会を行い、参加者は皆一時の知名士であり、中立もまた招きの中にいた。やがて辞して行かず、後に舜欽らが罪を得た際、中立は力を尽くしたのである。
沈邈
沈邈は、字を子山といい、信州弋陽の人である。進士に及第し、初めて官に就き大理評事を補任され、侯官県知事となり、広州通判を経て、累遷して都官員外郎となり、真州・福州の知州を歴任した。慶曆初年、侍御史となった。時に呂夷簡が宰相を罷免され、輔臣(宰相級の大臣)は皆官位を進められたが、邈は言う、「爵禄は臣下を勧めるためのものであり、功績なくして授けるのは濫発である。今、辺境はたびたび警報があり、廟堂(朝廷)の謀略が外侮を挫くものがあるとは聞かない。名目なく官位を進めるならば、臣下は何によって勧められるのか」と。また論じて言う、「夏竦が枢密使に任ぜられたが、竦は内侍の劉従願と内密に交わる。従願が内で狡猾を助け、竦が外で機密事務を専断すれば、奸党が思い通りになり、人主の権力は失われるであろう」と。その言は甚だ切直であった。権塩鉄判官となり、兵部員外郎に転じた。時に諸路の転運使に按察使を加えて選任する際、邈は張昷之・王素と共に真っ先に選ばれた。邈は直史館を加えられ、京東路の按察使となった。一年余りして、入朝して侍御史知雑事となった。間もなく、天章閣待制に抜擢され、澶州知州となり、河北都転運使に転じ、さらに陝西都転運使に転じ、その年のうちに、刑部郎中を加えられ、延州知州となり、卒した。
邈は疏爽で治才があったが、しかし性格にやや行いを慎むところがなかった。広州にいた時、毎年劉王山に遊び、賓客友人を集めて酒を縦に飲み、また里巷の婦女と、笑い話をして隔てがなかった。
論じて曰く、慶曆以来、諫官・御史を任じ、名声と風采があり、時に推重された者は、呉奎・王陶の輩から、何中立・沈邈の輩に至るまで、凡そ数十人である。その陳べる所を観れば、およそ虚しく得たものではない。劉元瑜が宦官を論じたのは、真に仁人の言であり、その最も優れたものか。李絢・何中立・沈邈もまた美才があり、通顕の位に至ったが、しかし皆酒の過失によって自らを累わし、故に貶められずにはいられなかったのである。