宋史

列傳第五十九 楊偕 王沿 杜杞 楊畋 周湛 徐的 姚仲孫 陳太素 馬尋 杜曾 李虚己 張傅 兪獻卿 陳從易 楊大雅

楊偕

楊偕、字は次公、坊州中部の人である。唐の左僕射楊於陵の六世の孫。父の守慶は、広南の劉氏に仕え、帰朝して坊州司馬となり、ここに家を定めた。偕は若くして終南山で种放に学び、進士に挙げられ、坊州軍事推官・汧源県知事として任官し、再び漢州軍事判官に転じた。道で術士に会い、「あなたは世に瓦石を黄金に化する者がいることをご存知か」と言われ、偕に試してみせると、既に効験があり、その術を授けようとした。偕は言った、「私は吏の俸禄に従っており、どうして黄金を化することをなそうか」。術士は言った、「あなたの志がこのようでは、私の及ぶところではない」。戸を出ると、行方が分からなくなった。

在官中、しばしば時政について上書し、また自らの著した文論を上程した。学士院に召されて試験を受けたが及第せず、永興軍節度推官に改められた。また陝西の辺事について上書し、再び召されて試験を受けたが赴かず、直ちに秘書省著作佐郎に遷り、審刑院詳議官となり、再び太常博士に遷った。宋綬が推薦して監察御史とし、殿中侍御史に改めた。曹修古と連名で上疏し、劉従德の遺奏による恩典が甚だ濫りであると述べ、太常博士・舒州税監に貶された。尚書祠部員外郎として光州知事となり、侍御史に改め、三司度支判官となった。

時に郭皇后が廃されると、偕は孔道輔・范仲淹と共に強く諫めた。道輔・仲淹が既に外任に出されると、偕は罰金のみで留まったが、願わくは道輔らと共に貶されんことをと上言したが、返答がなかった。富民陳氏の娘が選ばれて宮中に入り、后とされようとしたので、偕は再び上疏して諫めた。尚書戸部員外郎兼侍御史知雑事となる。馬季良が罪により滁州に斥けられたが、自ら致仕を得たと称した。偕は、致仕は賢者を優遇するために用いるもので、罪人を寵するべきではないと論じ、またしばしば昇降の弊を論じ、仁宗は嘉納した。吏部流内銓を判じ、三司度支副使に転じ、天章閣待制・河北転運使に抜擢された。定州知事夏守恩の贓数万を按問し、守恩は嶺南に流された。翌年、母の喪に服し、喪に終わることを願ったが許されず、龍図閣直学士・河中府知事に進んだ。

元昊が反すると、劉平・石元孫が戦没した。偕はこれを聞き、偽りの書状を馳せて延州に告げて言った、「朝廷より救兵十万が至った」。近隣の郡県に命じて大いに芻糧・什器を備えさせて待たせた。書状が届く頃には、賊は既に解いて去っていた。夏竦が陝西経略使となり、土兵を増置し、戍兵と交替させて京師の守衛に帰らせることを請うた。偕は言った、「今まさに関中の財用が乏しい折、再び土兵を増やせば、徒らに国用を消耗するのみである。今賊の勢いはまさに盛んであり、たとえ大いに土兵を増やしても、なお戍兵を減らして東帰させることはできず、ただ竦が敗事を恐れ、兵が少ないことを口実にしようとしているだけである」。竦はまた偕が不忠で、辺境の計略を沮むと上奏し、偕はますます力強く争った。時に陝西では五保を立てることを議し、偕はまた民を擾すものと考え、上疏してこれを罷めるよう請うた。陝州に転じ、また河東都転運使に転じた。詔して三路の民を大いに選び、兵として募ることを命じた。偕はまた言った、「方今兵は少なくない。もし多くして練らなければ、その勢いは敗れやすく、また国を困窮させて供給が難しくなる」。時の論者はただ兵を多くすることを務めたが、偕の論は常にこのようであった。

枢密直学士・へい州知事に進んだ。元昊が侵入すると、密詔して偕に強壮な者一万人を選び、麟州・府州に策応させることを命じた。偕は上奏した、「師を出して陣に臨むに、紀律がなければ士卒は命を用いない。今農卒を発して辺境に赴かせるにあたり、路上での逃亡や陣前での退縮・号令に従わぬことを慮り、軍法をもって処することを請う」。詔してその請いの通りとした。并州の人は大いに驚き畏れ、都転運使文彦博が上奏してこれを罷めた。中官で軍事に預かり平素より横暴な者がおり、前の帥はこれを優遇していた。偕が至ると、一様に法によって裁き、その部兵を率いて副総管に従い河外に赴くことを命じ、戒めて言った、「賊に遇い戦わんとする時は、一切副総管の節度に従え」。中人は服さず、檄を捧げて訴えた。偕は叱して言った、「汝は主帥の命に違えば即時に斬首されることを知らぬか」。監軍は怖れて汗し、知らずに笏を落とし、翌日病気を告げ、間もなく遂に卒した。ここにおいて軍政は粛然とした。

元昊が河北を大いに掠め、詔して寧遠砦を修築させた。偕は言う、寧遠砦は河外にあり、麟州・豊州の間に介在し、水泉がなく守ることができない。嵐州に新麟州を建てることを請う、白塔の地に砦を建て兵を屯することができると。「遷することに五つの利があり、遷さざることには三つの害がある。国用を省き、民力を惜しむ、これが一の利である。内に岢嵐・石府州沿河一帯の賊の出路を防ぐ、これが二の利である。我がその要地を占めれば、河の氷が合しても賊は敢えて河を越えて東に来ず、これが三の利である。商旅が往来して貨財を通ずる、これが四の利である。河が凍る時、屯する兵馬五七千人を得て軍勢を張る、これが五の利である。今麟州では束の芻・斗の粟を転輸するに、費用は千銭に値し、もし因循として遷さざれば、河東の民は調発に困窮して止む時なく、これが一の害である。孤塁をもって敵を餌とする、これが二の害である。道路が艱阻で、援兵が継ぎ難い、これが三の害である。かつ州の四面の属羌は賊に駆脅されて蕩然として一空となり、ただ孤塁が残るのみで、あたかも四肢ことごとく廃れて、ただ頭面と心腹のみが存するが如きである。今契丹はまた西賊と共謀し、氷が合するのを待って河東を攻めんとしている。もし朝廷が防禦の計を思わずして寧遠砦を修すれば、これは虚名を求めて大患を忽せにするものである。況んや霊・夏の二州は皆漢・唐の郡であり、一旦これを棄つるに、一麟州何ぞ惜しむに足らんや」。書が奏上されると、帝は輔臣に謂って言った、「麟州は古の郡である。咸平年中、嘗て寇兵の攻囲を受け、守れぬものではない。今急にこれを棄てんとすれば、これは退いて河を界とせんとするものである。偕に諭して速やかに寧遠を修復し、以て麟州を援けしむべし」。

翌年、左司郎中・本路経略安撫招討使に改め、銭五十万を賜った。偕は朝廷に六事を列挙した。一、中人をして軍事に預からしめず。二、麟州を遷す。三、便宜を以て事に従う。四、冗師を出す。五、武士を募る。六、捕援を専らにする。かつ言った、「臣の言を用いるならば命を受け、然らずば已む」。朝廷は従わず、偕は累次上奏して止まず、遂に邢州知事を罷め、滄州に転じた。面して兵事を論ずることを求め、召還され、隔日に入対することを命じられた。

偕が并州に在った日、嘗て『八陣図』を論じ、神楯・劈陣刀を進上した。その法は外に車を環らし、内に楯を比べるものであった。この時、帝は歩卒五百を以て、その法の通りに庭に布陣させ、これを善しとし、その法を諸路に下した。その後王吉は果たして偕の刀楯の法を用いて兔毛川で元昊を破った。久しくして、翰林侍読学士・審官院知事に遷り、また左司郎中とした。元昊が和を乞うても臣と称さないので、偕は連年師を出し、国力が日に蹙まると考え、宜しく権宜としてこれを許し、徐々に誅滅の計を図るべきであるとした。諫官王素・欧陽修・蔡襄が累章して劾奏した、「偕の職は従官であり、国のために賊を討たんと思わず、元昊の臣たらざる請いを助け、罪は誅に当たる。陛下は未だ忍びて戮を加えず、これを出だすことを請う、京師に留めて処すべからず」。帝はその章を偕に示すと、偕は自ら安からず、越州知事を求めたが、道中で杭州に改められた。時に蔡襄が謁告して杭州を過ぎ、軽率に里市を遊んだので、或る者が偕に朝廷に言うべきだと言った。答えて言った、「蔡襄は嘗て公事に縁って私を抵ったが、私が私怨をもって報いることができようか」。また『太平可致十象図』を上程した。

還り、太常寺・司農寺を判じ、右諫議大夫に改める。老齢を請い、尚書工部侍郎のまま致仕す。その帰郷に際し、特に宴を賜う。嘗て召し出されて問われ、拝礼せずに賜物を受く。卒す。遺奏として『兵論』一篇を献ず。帝これを憐れみ、特に兵部侍郎を贈官す。偕の性は剛直にして忠朴、敢えて大言を為し、数度上書して天下の事を論ずるも、議者は迂闊にして用い難しと為す。人と合うこと少なく、殊に古今の兵法を喜び、『兵書』十五巻、文集十巻有り。子に忱・慥有り、皆雋才有るも早世す。

王沿

王沿、字は聖源、大名府館陶県の人。少時に『春秋』を修む。進士に及第し、秘書省校書郎を試み、歴て彭城・新昌二県の知県を為し、相州観察推官に改め、宗城県知県を為す。張知白その才を薦め、著作佐郎に擢でられ、入朝して審刑院詳議官と為り、再び太常博士に遷る。上書して論ず:

「漢・唐の初め、兵革やっと定まり、未だ辺圉を治める暇無く、則ち意を屈して和を講ず。承平の後、我が力余り有りて、而して外侮已まず、則ち兵を以て之を治む。孝武の匈奴に対する、太宗の突厥頡利に対するが是なり。宋興ること七十年、而して契丹数度深州・趙州・貝州・魏州の間を侵す。先朝は征調の已まざるを患い、故に己を屈して之と盟す。然れども彼は戈矛を耒耜と為し、剽虜を商賈と為す。而して我が塁は堅からず、兵は練らずして、規規として盟歃の間に在り、豈に久安の策たるを得んや。

夫れ敵を善く禦ぐ者は、必ず農を務め辺を実にするの計を思う。河北は天下の根本、其の民は儉嗇勤苦、地方数千里、古より豊実と号す。今其の地、十三は契丹の所有と為り、余り征賦を出す者は、七分のみ。魏の史起は十二渠を鑿ち、漳水を引きて斥鹵の田を溉ぎ、而して河内は饒足す。唐の至徳の後、渠廃れ、而して相州・魏州・磁州・洺州の地にて漳水に並ぶ者は、累ね決溢に遭い、今皆斥鹵にして耕すべからず。故に沿辺の郡県は、数度租税を蠲免し、而して又牧監の芻地は、民田数百千頃を占む。是れ河北の地、十に其の七有りと雖も、而して賦を得るの実は、四分のみ。四分の力を以て、十万の防秋の師に給すれば、生民困まざるを得ず。且つ牧監は馬数万を養い、徒らに芻豢を耗し、未だ嘗て其の用を獲ず。壮なる者を択びて軍に配し、衰える者は之を河南に徙し、孳息する者は之を民間に養わしむることを請う。諸の坰牧を罷め、其の地を以て屯田と為し、役卒・刑徒を発して之を田せしめ、歳に用いて穀数十万斛を獲るべし。夫れ漳水一石、其の泥数斗、古人は以て利と為し、今人は以て害と為す、用うると用いざるとに係るのみ。願わくは民を募りて十二渠を復せしめよ。渠復すれば則ち水分れ、水分れば則ち奔決の患無し。之を以て灌溉すれば、数郡の瘠鹵の田をして膏腴に変ぜしむるを得べし。是くの如くすれば、則ち民は十倍に富み、而して帑廩余り有らん。此を以て敵を馭せば、何を求めて不可ならんや。」

詔して河北転運使に規度せしむ。而して洺州通判王軫言う:「漳河は岸高くして水下り、疏導易からず。又其の流濁り、田を溉ぐべからず。」と。沿は方に監察御史に遷り、即ち上書して軫の説を駁す。帝は之を嘉するも而も即ち行わず。語は『河渠志』に在り。時に枢密副使晏殊は笏を以て従者を撃ち歯を折り、開封府知府陳堯咨・判官張宗誨は日に酒を嗜み事を惰る。沿は皆之を弾奏す。天聖五年、関陝を安撫し、諸県の秋税十二三を減ず。還り、開封府推官と為る。又河朔の饑民を体量し、至る所詔を俟たず、官廩を発して之を済す。就いて転運副使を除く。上言す:

「本朝の兵刑を制するは、未だ古に幾からず。契丹と通好して三十年、二辺に常に重兵を屯し、坐して国用を耗し、而して之を処する所以を知らず。河北の強壮を教え、以て就糧禁卒の闕を代わらしむることを請う。廂軍の招集を罷め、其の冗なる者を隷して屯田を作らしめよ。之を数年行えば、禁卒は当に漸く銷減すべく、而して強壮は悉く精兵と為らん。

古は『刑国平らかなれば、中典を用う』と。而るに比者、赦を以て罪を処するに、多く律より重し。絹を以て罪を估する者は、赦は緡直を以て之に代え、律は髡鈦に坐して役せしむる者を、赦はげい竄して卒と為す。比諸州の上言する所、謫卒甚だ多く、衣食足らず、願わくは復た謫さざらんとする者七十余州。律を以て之を言えば、皆是に至らず。是れ繁文を以て之を罔し、而して理に置くなり。誠に願わくは深文を削りて正律を用い、銭を以て罪を定むる者は、悉く絹估に従い、黥竄して卒と為す者は、只だ髡釱に従わしめよ。此れ所謂れ勝残去殺、百年を待たずしてなる者なり。」

詔を被りて真定府に於いて曹汭の獄を鞫す。殿中侍御史に遷る。母喪服除き、尚書工部員外郎・邢州知州に改め、復た起用されて河北転運使と為る。二牧監を奏して罷め、地を以て民に賦す。相・衛・邢・趙の水を導きて天平渠・景祐渠等の諸渠に下し、田数万頃を溉ぐ。因りて闕に詣でて事を奏し、所著の『春秋集伝』十六巻を上り、復た上書して『春秋』を以て時事を論ず。直昭文館を授けられ、三司戸部副使と為り、塩鉄に徙り、兵部員外郎・天章閣待制・陝西都転運使に遷る。時に朝廷将に卒戍を減じて内地に就食せんとし、詔して知州・総管・鈐轄等と議せしむ。沿は即ち卒数万を減ずるを奏す。枢密院知事李諮は以て不可と為し、復た下して沿辺都監に議せしむ。沿上疏して曰く:「兵機は当に廊廟の上に在るべく、豈に小人に責め取るべきや!」諮其の言を悪み、奏して之を罷め、滑州知州に降し、成徳軍に徙す。学校を建て、郷飲酒礼を行ふ。

刑部郎中・河東都転運使に遷り、龍図閣直学士を加えられ、并州知州と為る。時に元昊数度河東を寇す。豊州を徙すを建議す。報いず、已にして州果たして陥つ。枢密直学士・右司郎中に進み、涇原路経略・安撫・招討使兼渭州知州と為る。屯兵を増し、城中甚だ隘し。乃ち西関城五里を築く。涇州観察使に改む。元昊入寇す。副都総管葛懐敏兵を率いて出でて捍ぐ。沿は懐敏に教え、兵を率いて瓦亭に拠りて之を待たしむ。懐敏兵を進めて鎮戎に至る。沿は書を以て戒めて入る勿れ、第に城を背にして砦を為し、羸師を以て賊を誘い、賊至れば、伏兵を発して之を撃てば功有るべしと。懐敏聴かず、進みて定川に至り、果たして為に敗る。賊乗勝して渭州を犯す。沿は州人を率いて城に乗り、多く旗幟を張りて疑兵と為す。賊遂に引き去る。懐敏の敗に坐し、復た龍図閣直学士・刑部郎中・虢州知州と為り、尋で天章閣待制に降り、而して権御史中丞賈昌朝の奏する所と為り、待制を落とす。未だ幾もなく、成徳軍知軍に徙し、待制を復し、又河中府に徙し、卒す。

沿は当世の事を建明するを好み、而其の論多く齟齬す。初め河北の水利を興し、諸渠を導きて民田を溉ぐ。論者は以て益無しと為す。已にして邢州の民に渠水を争いて人を殺すに至る者有り。然る後に人の知る所、沿の建つる所は利と為る。嘗て『春秋』の法を以て事を断ずるを論ず。然れども真定の獄、人は以て沿の傅致する所と為す。文集二十巻、『唐志』二十一卷有り。子に鼎有り。

子 鼎

楊鼎は、字を鼎臣といい、進士に及第して累進して太常博士となった。王堯臣が三司を統轄したとき、勾當公事に推挙され、しばしば上書して時政の得失を論じた。当時、天子は吏治が弛緩していることを憂い、監司が職務を果たさず、范仲淹らが政権を執っていたので、諸路の使者を選んで不法を糾挙させ、楊鼎を江東刑獄提点とした。楊鼎は転運使の楊紘・判官の王綽と競って官吏を摘発し、微細な隠れた罪まで容赦しなかった。そこで管下の官吏は彼らを怨み、「三虎」と目した。仁宗はこれを聞き、快く思わず、後に傅惟幾が江東に使節として赴くとき、「三虎」のまねをしてはならないと戒めた。范仲淹らが罷免されると、楊鼎と楊紘・王綽はいずれも人から非難され、当時楊鼎は両浙刑獄提点であったが、降格されて深州知州となった。

王則が貝州で反乱を起こすと、深州の兵卒の龐旦とその仲間が、元日に軍校を殺し、武器庫の兵器を奪ってこれに呼応しようと謀った。前日に告発者があった。楊鼎は夜に檄を出し、軍校に外邑の事務を代行させ、ひそかに備えを整えた。翌日、官僚たちを集めて酒宴を開き、いつもと変わらぬ様子でいると、反乱党は驚いて敢えて動かなかった。楊鼎は実情を探り出し、ゆるやかに首謀者十八人を捕らえて獄に送った。獄が整い、転運使の到着を待って審判を決しようとした。到着前に、軍中が騒然として囚人の奪取を謀った。楊鼎はそこで官僚たちに言った、「私は諸君に迷惑をかけまい」と。ただ一人で命じて囚人の中の凶暴な者数人を取り出し、市中で斬首した。人々は皆顔色を失い、一郡は平穏となった。転運使が到着したとき、未決の囚人は半分で、訊問すると、皆誅殺された。

翌年、河北は大飢饉となり、人々は互いに食い合い、楊鼎は救済の経営に尽力した。建州に転任し、その地の風俗では子を多く産んでも育てないので、楊鼎は条教を定めて禁止した。当時、茶や塩を密売する者が多く、楊鼎はすべて杖罰して追放した。監司がたびたび意見したが、楊鼎は改めなかった。河北刑獄提点に転じ、奸悪な贓罪を取り締まることますます厳しく、弾劾・推挙するのに貴勢を避けなかった。召されて開封府判官となり、塩鉄判官に改め、累進して司封員外郎・淮南両浙荊湖制置発運副使となった。内侍の楊永徳が、汴河沿いに舗を設けて漕運の船を牽引するよう奏請し、毎年六万の兵卒を節減できると言った。楊鼎は議して不可とした。楊永徳は横暴で狡猾であり、執政はその奏請に逆らいにくく、三司判官一名に楊永徳を伴わせて楊鼎と議論させた。楊鼎は八つの難点を挙げ、楊永徳は再び反論できなかった。楊鼎はそこで上疏して言った、「陛下が臣を用いられるなら、小人の言を過信して、妄りに改変し、国計を誤るべきではありません」と。そこで楊永徳の言は用いられなかった。

二年在任して、ついに発運使となった。前任の使者は多く南方の物産を漁って買い求め、上計して京師に行く際、権貴に贈り物をした。楊鼎はまったく買い求めず、ただひたすら吏事に精励し、事の大小を問わず、必ず自ら処理した。綱吏を徴発するときは、漕路の遠近を考慮し、先後を定めて成法とし、労逸を均等にして、吏が軽重をつけられないようにした。官船は私的積載を禁じていたが、船兵が自給する術がなく、官米を盗んで悪事を働いていた。商売をして自ら生計を立てられる者がいたが、市人は法に従って、負債を償おうとしなかった。楊鼎は州県に移文して督促して償わせ、船人に自給の道を与え、悪事を働かせず、運ぶ米も不足することがなかった。入朝して三司塩鉄副使となった。たびたび包拯と議論して争い、少しも屈しなかった。包拯はもともと強情であったが、楊鼎をどうすることもできなかった。刑部郎中・天章閣待制・河北都転運使に遷り、河東に転任して使となり、死去した。

楊鼎は清廉で欺かず、かつて自分の子を任用しようとしたとき、族人が年齢を増して早く仕官させようとしたが、楊鼎は許さなかった。父が死ぬと、財産を諸子に分け与えようとしたが、楊鼎はすべて弟に譲った。かつて臨邛県知事を務めたとき、転運使が新繁県の代理を命じたが、新繁には多くの職田があり、一斗の粟も私に入れなかった。契丹に使節として赴き、千匹の絹を得たが、族人に分け与え、一日で尽きた。赴任先では民を煩わせず、ただ飲食や日用品を買うときは、値段を増やして償った。継母に孝行し、孤児の甥を非常に大切に育て、自らの生活は質素倹約であった。官職にあっては明敏で、強直で屈せず、推挙した士は多くが有名となり、終生面識のない者もいた。しかし性来猜疑心が強く、巡察の際には薬に至るまで、自ら鍵をかけた。潞州の八義館に至り、病気が発作し、人事不省となった。左右の者が慌てて薬箱を開けたが、すべて表示がなく、誰も進めることができず、そのまま死去した。初め、楊鼎と弟の楊はともに才気があり、上書して事を論じるのを好み、仁宗はこれを称賛し、楊豫は軽率であるが、楊鼎の言うことは多く採用できると考えた。楊豫は人となり束縛を好まず、大理寺丞として伊闕県知事となり、優れた政績があった。官を棄てて江湖の間を漂い、財貨を殖やして自給し、死去した。

杜杞

杜杞は、字を偉長という。父の杜鎬は、蔭補により将作監主簿となり、建陽県知事となった。強敏で才があった。閩の風俗では、年老いて子を産むと育てなかった。杜杞は五保に相互監察させ、犯した者は重罪に処した。累進して尚書虞部員外郎・横州知事となった。当時、安化蛮が辺境を寇し、宜州知事の王世寧を殺害したので、出兵して討伐した。杜杞は言った、「嶺南の諸郡には城郭や甲兵の備えがなく、牧守に適才がいない。横州は邕・欽・廉三郡の咽喉であり、地勢が険阻で、兵を屯させて援軍とすることができる。邕管は内は広源を制し、外は交阯を抑えるので、権変に通じ嶺外の事情に練達した文臣を選び、牧守として辺境の事を経略させることを願う」と。真州通判に改め、解州知事に転じ、権発遣度支判官となった。京西で盗賊が起こり、商・鄧・均・房を掠め、光化軍を焼いたので、京西転運・按察使に任じられた。数か月在任して、賊は平定された。

ちょうど広西の区希範が白崖山蛮の蒙趕を誘って反乱を起こし、数千の徒党を集め、環州・帯溪普義鎮寧砦を襲撃して破り、嶺外が騒然とした。杜杞は刑部員外郎・直集賢院・広南西路転運按察安撫使に抜擢された。真州に到着したとき、まず急遽書を送って蛮を諭し、自新することを許した。宜州に至ったが、蛮は来なかった。杜杞は州の兵士を得て、獄の囚人を出し、枷を外して、洞窟に入って賊を説得させたが、聞き入れなかった。そこで兵を率いて白崖・黄坭・九居山砦および五峒を攻め破り、蓄積を焼き払い、百余級を斬首し、環州を奪還した。賊は散り散りに逃げ、区希範は荔波洞に逃げた。杜杞は使者を遣わして誘い、蒙趕は降伏してきた。杜杞は将佐に言った、「賊は窮迫して我に降ったのであり、威が制しきれなければ恩も懐柔できず、たびたび叛く原因となる。尽く殺すのがよい」と。そこで牛馬を屠り、曼陀羅酒を造り、環州で大宴会を開き、伏兵を起こして、七十余人を誅殺した。三日後、また区希範を捕らえ、塩漬けにして諸蛮に送り、老病のため釈放した者は、わずか百余人であった。御史の梅摯が杜杞が降伏者を殺して信義を失ったと弾劾し、詔で戒め諭され、両浙転運使となった。翌年、河北に転じ、天章閣待制・環慶路経略安撫使・慶州知事に任じられた。杜杞は上言した、「降伏者を殺したのは臣であり、罪を得ても辞しません。将吏の功労がまだ記録されていないので、臣は命を受けることができません」と。そこで賞を行った。蕃酋が千余の衆を率いて内附したが、夏人が兵を出して酋を求め、辺境の民戸を脅かし、馬牛を掠奪した。詔で杜杞を責めた。杜杞は言った、「彼らは誓いを違えて兵を挙げたので、酋を与えることはできません」と。そこで夏人に檄を移し、掠奪したものを償わなければ酋は得られないとし、やがて兵も引き上げた。

杜杞は記憶力が強く、書伝を広く博覧し、陰陽数術の学に通じ、自ら四十六歳で死ぬと言った。ある日、厠に座っていると、区希範と蒙趕が前に現れて冤罪を訴えた。杜杞は叱って言った、「お前たちは狂って僭称し、命に叛き、法により誅殺されるべきであり、まだ訴えることができようか」と。間もなく死去した。奏議十二巻がある。

兄の植は、文雅をもって知られ、累任して監司となり、少府監で終わった。弟の樞もまた強敏で、比部員外郎となった。張彥方という者がおり、温成皇后の母である越国夫人の客であった。奸利の罪で死罪と論ぜられ、その言葉が越国夫人に連座した。開封府は敢えて徹底的に追及せず、執政も皇后の縁故ゆえに、再び詰問しなかった。獄事が上奏されると、中書は樞を遣わして慮問させたが、樞は公然と駁正しようとすると言い立てた。急いで諫官の陳升之に代えさせたので、権勢ある者たちは樞を切歯して恨んだ。これ以前、御史中丞の王挙正が百官の班列を留めて張堯佐の宣徽使任命を論じた際、樞は班列を出てその理由を問うたことがあった。この時は、すでに数ヶ月経っていたが、このことを罪として樞を処し、衡州の税監に左遷し、そこで死去した。

楊畋

楊畋は、字を樂道といい、保静軍節度使・重勳の曾孫である。進士に及第し、秘書省校書郎・并州録事参軍に任じられ、再び遷って大理寺丞・岳州知州となった。慶暦三年、湖南の徭人・唐和らが州県を劫掠したため、殿中丞に抜擢され、本路刑獄を提点し、専ら盗賊の事を治めた。そこで才勇の者を募り、深く峒に入って討撃した。しかし南方は久しく兵を知らず、士卒は多く畏れ慄いた。孤漿峒で戦った時、前軍が敗れ、大軍は悉く潰走し、畋は岩下に倒れ、浅草に身を寄せて死を免れた。ついに衆を励まして六峒を平定し、その功により、太常博士に遷った。間もなく、部将の胡元が戦死したことを連座して、太平州知州に降格された。一年余りして、賊はますます横行した。帝は御史を派遣して視察させたが、戻って言うには、「畋はかつて山下で戦い、人々は喜んで彼に用いられた。今、賊を殄滅しようとすれば、畋でなければならない」と。そこで東染院使・荊湖南路兵馬鈐轄を授けた。賊は畋が来ると聞き、皆恐れて、嶺南を越えて遁走した。また韶州・連州などに詔して彼らを招安させた。そこで賊と約して峒から出させ、田を与えて民とし、一方で転運使は官と財貨を与え、人質を納めて帰還させようとした。畋は言った。「賊は湖・広を剽攻すること七年、殺害した者は数え切れない。今、財貨と食糧を飽かせて峒穴に拠らせれば、その勢いもって間もなく必ず再び乱を起こすであろう。」翌年の春、賊は果たして再び陽山に出た。畋は直ちに衆を率いて嶺外に出て、夏・秋にわたり、凡そ十五戦し、賊は潰走し、畋は瘴気の病にかかって帰還した。蛮が平定されると、旧官に戻ることを願い、尚書屯田員外郎・直史館・随州知州に改められた。

召還されて、三司戸部判官となり、河東に奉使した。父の喪に服す際、儂智高が邕州を陥落させたので、都門外に召し出されたが、喪服であることを理由に拝謁を辞退した。仁宗は服飾と御巾を賜い、便殿で対面させた。即日、起居舎人・知諫院・広南東西路体量安撫・経制賊盗に任じられた。畋が韶州に至ると、張忠が戦死し、智高が広州から沙頭に軍を返し、渡河しようとしていた。畋は蘇緘に英州を放棄させ、蔣偕に糧食の備蓄を焼かせ、また開贇・岑宗閔・王従政を召し出して韶州に退保させた。賊の勢いはますます熾烈となり、畋は抗することができず、ついに蔣偕・王正倫を殺害され、陳曙を破られ、再び邕州を占拠された。畋はこれにより知諫院を落とされ、鄂州知州となり、再び屯田員外郎・光化軍知軍に降格された。翌年、また太常博士に降格され、年末に邠州に移された。

起居舎人に復し、河東転運使となった。入朝して三司戸部副使となり、吏部員外郎に遷った。契丹に奉使するよう命じられたが、曾伯祖父の業がかつて虜に陥ったことがあるとして、辞退して行かなかった。河北は旧来、土絹をもって軍装に給していたが、三司使の張方平が他州の絹に替えようとした。畋は既に連署して上奏していたが、外議が喧しく、また密かにその不可を陳述した。久しくして、天章閣待制兼侍読・判吏部流内銓に抜擢された。上言して言うには、「願わくば宗室の賢者を選び、禁中で侍膳させ、宗廟のためを計らわれんことを。」

嘉祐三年の冬、河北で地震があった。翌年、元旦に日食があった。再び上疏して言うには、「漢の成帝の時、日食・地震があり、哀帝・平帝の世には、嫡嗣が屡々絶えた。これは天が戒めを示されたのである。陛下は早く皇嗣を立てて、天意に答えるべきである。」と。知制誥に改められた。李珣が防禦使から観察使に、劉永年が団練使から防禦使に遷る際、畋が制誥を起草すべきところ、詞頭を封還した。そこで言うには、「祖宗の故事では、郭進が西山を戍り、董遵誨・姚内斌が環・慶を守り、強寇と対峙すること各々十余年、転官や移鎮は一度もなかった。名器を重んじたのである。今、珣らは寸尺の功もなく、ただ外戚の故をもってこれを除するのは、恐らく祖宗の意に非ざるであろう。」と。返答がなく、詔して他の舎人に制誥を起草させた。しかし范鎮が言うには、「朝廷がもし畋の言を是とするならば、珣らの遷官を罷めるべきであり、もし非とするならば、乞う、再び畋に命詞させられよ。」と。許されなかった。龍図閣直学士に進み、再び知諫院となった。

嘉祐六年、京師に大水があり、畋は上言した。「『洪範五行伝』に曰く、『宗廟を簡略にすれば、水は下を潤さず。』また曰く、『聴くこと聡明ならざれば、その罰は常に水。』去年の夏秋の交わり、久雨が農作物を損ない、澶州で黄河が決壊し、東南の数路、大水が災いとなった。陛下が御位に臨まれて以来、直諫を受け容れられており、聴くこと聡明ならざるに非ず。孝をもって親に事えており、宗廟を簡略にしているに非ず。しかし災異が数多く現れるのは、臣の愚見では、万機を聴くことに、必ず審らかならざる失いがあり、七廟の享けに、必ず順ならざる失いがあるからであろう。惟うに陛下が積み思案してこれを矯正されんことを。」そこでその上章を礼官と両制に下して考議させたが、皆が言うには、南郊で三聖を並べて配侑し、温成皇后の廟を立てたことは、いずれも経礼に違背していると。そこで詔して、「今後、南郊では太祖皇帝を定めて配侑し、温成廟を祠殿に改める。」とした。

旧制では、内侍は十年に一度遷官した。枢密院はこれを僥倖として、年数を倍に定め直した。畋は言った。「文臣は七遷する間に、内侍はようやく一度の磨勘を得るに過ぎず、不均等である。文武官僚の例のように、その年考を増すべきである。」そこで詔して、南班以上は旧制のままとし、功労なくかつ罪に坐して流刑になった者は、即ちその年数を倍にする、とした。議者は、畋が士人を閹寺に比べたのは失当であると言った。死去し、右諫議大夫を追贈された。

畋は将家の出であるが、節を折り曲げて学問を好み、士大夫に称えられた。山下で蛮を討った時、家からの手紙が届くと、即座に焼き捨て、士卒と苦楽を共にし、諸峒を破った。しかし嶺南で用いられた時は、功績なくして斥けられ、名声は遂に衰えた。性情は廉直で謹み畏れ、毎度奏事する際、必ず封を数回開けてからでなければ上奏しなかった。自らの生活は甚だ倹約で、郡で客をもてなす時も、監司であっても、菜や果物を数器出すだけであった。死去した時、家に余財はなく、特に黄金二百両を賜った。その後、端平年間に講読官を追贈し、御筆の飛白書の扇を、使者を遣わして特に賜り、その柩に置かせた。

周湛

周湛は、字を文淵といい、鄧州穣県の人である。進士甲科に及第し、開州推官となった。身言書判に中り、秘書省著作佐郎・戎州通判に改められた。当地の風俗は医を知らず、病む者は祈禱や巫祝を事としていたので、湛は古い方書を取って石に刻んで教え、巫を行う者を禁じた。これより人々は初めて医薬を用いるようになった。累遷して尚書都官員外郎・虔州知州となり、広南東路刑獄を提点した。

初め、江・湖の民は良人を略取し、嶺外に売り奴婢と為すことがあった。徐湛が到着すると、方略を設けて捜索捕縛し、また自ら陳述することを許し、男女二千六百人を得て、飲食を与えて家に還した。京西路に転じ、鄧州の美陽堰は毎年数十万の工役を徴発し、州県の職田を灌漑したが、民には利益が及ばず、湛はこれを廃止するよう上奏した。塩鉄判官となり、三司の帳簿は膨大で煩雑であり、吏胥が分離して弊害や欺瞞を為していた。湛は勘同法を立て、天下の計帳を毎年七千減らした。江南西路転運使となり、州県の簿領案牘は混雑して秩序がなく、多くは亡失し、民の訴訟は証拠がなく、長く決せられなかった。湛は番号を立て、月日によって順序付け、詔によってその法を諸路に下した。また、徭役と賦税が均等でなく、百姓が巧みに隠匿するため、詭名挾佃の類十二事を条挙し、かつ民に自ら言うことを許し、隠戸三十万を括出した。

還って戸部判官となり、また夔州路転運使となった。雲安の塩井は毎年民に薪茅を賦課し、破産に至っても責め立てを止めなかった。湛は塩課を免除して薪茅の輸送を省いた。塩鉄勾院を判じ、太常少卿として昭文館に直し、江淮制置発運使となった。陛辞の際、仁宗は京師で賄賂を受け取らないよう戒めた。湛は恐れ謹んで答えて言った、「臣は聖訓を蒙り、苟も権要に附いて進身を謀ることは致しません」。湛は煩劇な政務を治め、その要を得ることができ、赴任先では利害を条上することを好み、前後数十百事に至った。天資強記で、吏胥が前に満ちていても、一度見ればその姓名を識った。大江は舒州の長風沙を通るが、その地は最も険しく、石牌湾と呼ばれた。湛は三十万の工役を動員し、十里の河を開鑿してこれを避けさせ、人々は利益とした。

度支副使に任じられた。旧制では、発運司が軍将を三司に保任すると、考覆することなく皆昇進させていた。この時、名を上った者三十五人について、湛はその濫りを全て覆勘した。右諫議大夫に拝された。契丹に使するよう命じられたが、辞して行かなかった。

襄州を知事した。襄人は陶瓦を作るのが不得手で、多くは竹屋を建て、歳月を経て官道を侵し占拠し、軒や廡が互いに迫り、火災がしばしば害をなした。湛が到着すると、その侵した所を測量し、全て撤去して壊した。これより火災の患いは無くなった。しかし豪族は不便に思い、提点刑獄の李穆が湛が人を擾乱すると奏上したため、相州知事に転じた。右司諫の吳及が上疏して言った、「湛が居民の邸宅を削減したのは、公のためである。百姓が官地を侵し、主司がこれを禁めるのは、その職責である。況んや湛が律令を明らかにし、信をもって民を約し、法を奉じて事を行い、百姓は自ら罪を知って訴えなかったと聞く。郡の従事高直温は、夏竦の子婿である。竦の邸店が最も広かったので、穆に讒言を加え、かつ湛が若干株の木を伐採したと言う。昔の民居が官道を侵越し、木は道の傍らにあった。侵地を正せば、木は道の中央にあり、当然切り払うべきである。また湛は楸や桐を千余本植え、戸に水を貯えることを課し、火の禁令を厳しくした。また民居の中から多くの人が汲む旧井戸四つを得て、廃れていたものを復興させ、人はその利益を得た。道傍の井戸が、かえって民居の下にあるなら、その侵越は明白ではないか。願わくは執政大臣に詔して、湛と穆の是非を弁正させ、明らかに賞罰を垂れさせたい。もし湛が既に行った命令を、追改することを憚るなら、それは風俗を傷つけ敗り、後患を残すことになり、追改するに及ばない。湛が大郡を守ることは、湛にとって重きも軽きもないが、国家の挙措が未だ安からざる所があれば、職を奉ずる者はどうして勧められようか」。未幾にして卒した。湛は人となり脱易で、威儀に乏しかったが、弩を射るのが巧みで、屋を隔てても的に当てたという。

徐的

徐的、字は公準、建州建安の人である。進士に擢第し、欽州軍事推官を補された。欽州の土地は煩鬱で、多くは瘴癘で死んだ。的は転運使鄭天監に会い、「州を水辺に移せば患いが無くなりましょう。請うらくは転じて上聞させてください」と請うた。従われ、天監は奏上して的を留め役事を辦させた。的は短衣を着て棒を持ち、役夫と共に労苦を共にし、城郭を築き、楼櫓を立てて戦守に備えた。地を画して軍民を住まわせ、府舎・倉庫・溝渠・店舗などの類を設け、民は皆便利とした。

大理寺丞に遷り、呉県知事となり、梁山軍に移り、常州を通判した。凶年に属し、米を出して粥とし、飢えた者に食べさせた。累遷して尚書屯田員外郎・臨江軍知事となり、広南西路提点刑獄に擢げられた。安化州の蛮が将吏を攻め殺し、配下の兵卒は誅殺を恐れ、謀反しようとした。的は宜州に馳せ至り、慰撫して諭して言った、「お前たちは恐れるな。力を出して賊を討てば、なお功を立てて自ら贖うことができる。もし朝に叛けば夕に死ぬ。計ではない」。衆は皆手を束ねて命令を聴いた。澄海軍・忠敢軍を復活させるよう奏上し、後いずれもその用を得た。舒州知事に改め、荊湖北路転運使に転じた。辰州蛮の彭士義が寇掠したが、的は恩信を示して開諭し、蛮の徒党は悔い改めて帰順した。

江陵府事を摂行した。城中には悪少年が多く、盗みをしようと、しばしば夜に放火し、火は一夜に十数回発生した。的はその悪少年の姓名を籍に記し、互いに保任させて言った、「お前たちは互いに監視せよ。そうでなければ、皆お前たちの罪である」。火は遂に止んだ。太子洗馬の歐陽景は狡猾で横暴で法に従わず、里人の害となっていた。的はその奸を発覚させ、嶺外に追放した。兵部員外郎として淮南・江・浙・荊湖制置発運副使となった。泰州の海安・如皋県の漕河を通すよう奏上した。詔はまだ下らなかったが、的は便宜を以て兵夫を調発して浚治し、滞った塩三百万を出し、計八百万緡の銭を得た。遂に制置発運使となった。

軍賊の王倫が山東で起こり、転じて淮南を掠めた。的は兵を集めてこれを待った。会に青州が裨将の傅永吉を改めて派遣し、歴陽に追い入れて殺した。的は賞を与えられ、工部郎中に遷った。また泰州の西溪河を治め、積塩を出し、直昭文館を加えられた。區希範と蒙趕が衡湘を寇したので、的を招撫せよと命じた。到着して二晩過ごすと、会に蛮酋が相継いで出降した。三司は郊祀が近いため、召還して計事すべきとし、還ると、蛮は再び叛いた。度支副使・荊湖南路安撫使に任じられ、桂陽に至ると、降る者が再び多かった。欽景・石硋・華陰・水頭の諸洞で降らなかった者を、的は皆討ち平らげ、その酋長熊可清ら千余級を斬った。桂陽で卒した。

論じて曰く、宋の承平の時、書生で兵事を知る者は少なく、偕・沿は数度上書して辺事を言い、策画論議には得失があり、確かに皆一時の俊であった。畋は将家の子から力学して進士に第し、再び徭賊を討ち、前は勝ち後は敗れたが、兵家の常である。杞・的は共に宜州蛮征討で功を立てたが、杞は降伏者を殺して信を失い、的は恩をもって招き寄せた。その優劣はおおよそ見える。湛は強敏で、赴任先に治績があり、史は善射と称するが、これも文臣で武事を習った者であろうか。鼎は性孝友で、自らの暮らしは甚だ倹約であったが、財には疎く、官に居て清廉明辨であり、土俗に子を生んでも育てない者がいれば直ちに禁じた。ただ吏の奸を摘発して衆怒を買い、ある者は「虎」と目したが、果たしてそうであろうか。

姚仲孫

姚仲孫、字は茂宗、本は曹南の著姓であり、曾祖父の仁嗣は陳州商水令となり、そこで家を定めた。父の曄は進士第一に挙げられ、官は著作佐郎に至った。仲孫は早く孤となり、母に孝事した。進士に擢第し、許州司理参軍を補された。民婦の馬氏の夫が殺され、里胥がかつて求めても夫が応じなかったことを指して、里胥が殺したと思い、官は捕らえて辞服させた。仲孫はその冤罪を疑い、知州の王嗣宗は怒って言った、「お前は敢えて自らその責を負うのか」。仲孫は言った、「どうか急いで決断せず、徐々に弁明できることを望みます」。後二ヶ月して、果たして真の殺人者を得た。

邢州推官に転じ、資州に移る。転運使が檄を飛ばして仲孫を富順監に詣でさせ、疑獄を按ずるに、数十人を全活す。資州は二守を更へ、皆惽老にして、事多く仲孫に決す。大理寺丞・建昌県知事に改む。初め、建昌は茶を運びて南康に抵るも、或は露積して道に在り、間もなく霖潦に敗れ、主吏至りて破産して償ふ能はず。仲孫、券を作り、吏民に山木を輸せしめ、即ち高阜を以て倉と為し、邑人之を利す。彭州通判に移る。嘗て天下久しく事無きを以て、兵備を弛むべからずとし、因りて前世の禦戎料敵の策を上り、名づけて『防邊龜鑒』と曰ふ。睦州通判、滁州に移る。歳旱饑し、詔有りて官粟を発して以て民を賑ふも、主吏時に給せず。仲孫既に州に至り、直ちに主吏を劾し、夜に丁籍を索めて尽く之を与ふ。累遷して尚書屯田員外郎に至る。

王鬷益州を守り、州事通判に辟く。召されて右司諫と為る。入内都知閻文応都知を求むるに、仲孫其の罪を数へ、上に白して曰く、「方に帝太廟に斎宿せしに、文応医官を叱し、声行在に聞こゆ。郭皇后暴に薨じ、中外文応の毒を置けるを疑はざる莫し」と。文応を出して泰州兵馬鈐轄と為し、又疾と称して留まるに、復た論奏し、乃ち亟に去る。

起居舍人を以て諫院を知り、国子監を管勾し、尚書戸部員外郎を以て侍御史知雑事を兼ぬ。時に諫議大夫十二員、仲孫曰く、「諫議大夫は蓋し朝廷の選なり、歳月を以て序進すべからず。今諸寺卿より前行郎中に至るまで三十五員、近職に貼する者は猶ほ数に在らず、若し年労を以て授くれば、則ち数年之外、諫議大夫員益々多し。請ふ其の選を艱しくし、以て材望の臣を処し、余は悉く次に卿監を補はしむ」と。乃ち詔して当選する者は奏して旨を聴かしむ。是に先だち、諸路復た提点刑獄を置き、朝に還る者多く省府官に擢げらる。仲孫請ふ其の課を第して三等と為し之を升黜し、即ち詔して仲孫に考課の法を司らしむ。

歴て三司戸部・度支・塩鉄副使、進みて天章閣待制・河北都転運使と為る。大いに城壘兵備を修め、仁宗詔を賜ひて之を褒む。権に澶州を知り、河明公埽を壊し、浮橋を絶つ。仲孫親しく役を堤上に総べ、埽一夕にして復た完し。権に大名府を知り、夜に禁兵を領して金堤の決河を塞ぐ。是の歳、澶・魏大いに水有りと雖も、民患に及ばず。進みて礼部郎中・龍図閣学士、陝西都転運使に移る。未だ行かず、権に三司使事を知る。西北辺備に属し、兵を募り屯を益し及び賞賜・聘問の費、計ふるに勝へず。仲孫心を悉くして経度し、病と雖も、未だ嘗て輒ち事を廃せず。小吏文符を詐るに坐し、出でて蔡州を知る。母憂に因りて一目を喪ひ、卒す。

陳太素

陳太素、字は仲華、河南緱氏の人。進士第に中る。嘗て大理詳断官と為り、審刑に入りて詳議官と為り、権に大理少卿、又大理事を判ず。刑法に任ずること二十余年、朝廷大獄疑有れば、必ず召して与に議す。太素人情を推原し、以て法意に傅し、衆皆釋然として、自ら及ばずと為す。号して法令に明習すと雖も、然れども論建する所、亦或は中らざる有り。毎に案牘に臨み、至りて寝食を忘れ、大寒暑も変ぜず。子弟或は之を止むるも、答へて曰く、「囹圄の苦、豈に我に甚だしからずや」と。歴て江陰軍・兗州・明州を知り、治跡有り。大理に在り、耳疾有り、数へて罷めんことを求むるも、執政職に任ずと為して、許さず。累官して尚書兵部郎中に至り、卒す。

太素家行修治し、尤も刑名を論ずるを喜ぶ。常に有司法を議するは、文に拠りて直く断ずべく、曲く法に当らんことを求むべからずと為す。法に典当せんことを求むれば、是れ乱る所以なり。

馬尋 杜曾 附

同時に馬尋有る者、須城の人。『毛詩』学究に挙げられ、累ねて大理寺を判じ、明習法律を以て称せらる。歴て両浙陝西刑獄を提点し、広東淮南両浙転運使、湖・撫・汝・襄・洪・宣・鄧・滑の八州を知る。襄州饑し、人或は群を成して富家に入り囷粟を掠む。獄吏強盗を以て之を鞫く。尋曰く、「此れ死を脱れんとするのみ、其の情強盗と異なり」と。奏して減死を得、論著して例と為す。終に司農卿。

又杜曾と為る者、濮州の人。吏と為りて法を知ると号す。嘗て言ふ、「国朝唐の大中の制に因り、故殺、人既に傷けられ未だ死せず、既に死して更に生くるも、皆な既に殺せしが如く論ず。夫れ人を殺す者は死し、人を傷つくる者は刑す、是れ先王易へざるの典なり。律に謀殺既に傷つくるは則ち絞すと雖も、蓋し其の処心積慮、陰に賊害を致すを甚だしと為すのみ。故殺に至りては、初め殺意無く、其の既に死するを須ちて、乃ち殺名有り。苟も殺名無くして殺法を用ゐば、則ち謀殺と孰れをか弁ぜん。大中の制行はれてより、幾何人を殺すかを知らず。請ふ格して用ゐざらしむ」と。又言ふ、「近世の赦令、人を殺し既に傷けて未だ死せざる者は、皆な原減を得、律意に非ず。請ふ傷つくる者は律の保辜法に従ひ、死限内の者は既に殺せしが如く論じ、赦す勿れ」と。皆な著して令と為す。

李虚己

李虚己、字は公受、五世の祖盈、光州より王潮に従ひ閩に徙り、遂に建安に家す。父寅、清節有り、江南李氏に仕へ、諸司使に至る。江南国除かれ、殿前承旨を授くるも、辞して拝せず。時に偽官皆な留まって京師に入るも、寅の母独り江南に在り。乃ち其の長子を遣はして帰養せしむ。進士に挙げられ、起家して衢州司理参軍と為る。母老ゆるを以て、官を棄てて帰る。虚己亦た進士第に中り、歴て沈丘県尉、城固県を知り、大理評事に改め、累遷して殿中丞、淮南茶場を提挙す。召されて栄州を知らしむ。未だ行かず、遂州に改む。

時に太宗政事に精励し、嘗て手書累ねて二十余紙に曰く、「公勤潔己・法を奉じて奸を除き・恵愛を以て民に臨む者は、乃ち労績と為すに書く可く、月奉を実銭を以て給す」と。命有司群臣を択び治最を聞こゆる者を以て之を賜ひ、仍て諭して曰く、「奸を除くの要は、法を奉ずるに在り、因りて以て事を生ず可からず」と。時に虚己賜はるるに被り、因りて詩を献じて自ら陳ぶ父子の遭遇、祖母に栄及ぶことを。帝悦び、為に其の紙尾に批して曰く、「虚己古に学び官に入り、親を栄し事を生し、書を奉じて郡と為り、親規を布かんと欲す。朕良二千石を得たり」と。遂に五品服を賜ひ、又其の祖母に銭五十万を賜ひ、命す翰林学士張洎両制・三館の儒臣を会して遍く批詔を閲せしむ。其の後南郊の恩を以て群臣の母妻を封ずるに、虚己又請ふ其の妻の封を罷めて以て祖母に授けしむ。詔して悉く之を封じ、世以て栄と為す。

時に使者を遣わして川峡の官吏の能否を察せしむるに、州多く治まらず、唯だ虚己と薛顔・邵曄・查道数人のみ、能く職を任じて称せらる。再び遷りて尚書屯田員外郎となる。親に便ならしむるを以て、洪州通判を請う。是の時寅は既に謝して帰り、春秋高く、寅の母尚だ恙無く、虚己は両方を挙げて迎え侍す。寅、豫章に至り、其の山水を楽しみて曰く、「此れ以て吾が身を終ふるべし」と。遂に州の東湖に臨み、第宇を築きて居る。虚己は侍御史となり、出でて荊湖南路刑獄を提点し、淮南転運副使に徙り、累遷して兵部郎中となり、龍図閣待制となり、歴て大理寺を判ず。久しくして、外補を求め、真宗其の儒雅にして循謹なるを称し、特だ右諫議大夫に遷す。数月にして、出でて河中府を知る。召されて権御史中丞とす。未だ幾もなく、疾を以て辞し、給事中に進み、洪州を知る。尚書工部侍郎に遷り、池州に徙る。南京分司を求め、卒す。初め、寅の老を請ふや、年未だ六十ならず。虚己分司して帰るや、年六十九。其の季虚舟は仕えて餘幹県令に至り、法に坐して免官し、復た仕を言はず。

初め、太宗既に虚己に銭を賜ふ。翌日、宰相に語りて曰く、「虚己の詩思嘉すべし、予銭五十緡なり」と。宰相対ふるに、所予は乃ち五十万なりと以てす。帝其の誤れるを知り、是より詔して群臣の章を献ずる者は閣門受けず、皆中書門下より閲して上らしむ。然れども論者虚己父子の行篤く、家甚だ貧しきを謂ひ、人主一時の誤りと雖も、殆ど天賜なりとす。寅は親に事ふるに孝に、家を治むるに法有り、閨門の内肅如たり。虚己・虚舟又孝友清慎を以て其の家を世ふ。虚舟の子寬は尚書金部郎中となり、定は司農少卿となり、吏として頗る能名有り。

虚己は詩を為すを喜び、数同年の進士曾致堯及び其の婿晏殊と唱和す。初め、致堯謂ひて曰く、「子が詞詩は工なりと雖も、音韻猶啞なり」と。虚己未だ悟らず。後沈休文の所謂「前に浮声有らば、則ち後須らく切響を須ふ」を得て、遂に格律に精し。『雅正集』十巻有り。

張傅

張傅、字は岩卿、唐初の功臣公謹の裔なり。祖播は亳州団練副使となり、子孫因って譙人と為る。傅は進士及第し、稍く遷りて秘書省著作佐郎・奉符県知県となる。時に方に会真宮・天書観を修し、及び嶽祠を増治し、事を弁ずるに称せられ、銭二十万を賜ふ。宰相向敏中東嶽帝号を冊して還り、之を薦め、楚州を知らしむ。時に歳饑に会し、発運使に書を貽りて糧を貸すを求め、報へず。因りて歎きて曰く、「民溝壑に転死せん、報を待つ可けんや」と。乃ち上供倉粟を発して賑貸し、活く所万計に以てす。因りて章を拝して罪を待つ。詔して之を奨す。

江西刑獄を提点し、江東に徙り、就いて転運使を除し、入りて権三司塩鉄判官とす。時に河済北に決し、民多く害せらる。命じて京東を安撫せしむ。累遷して工部郎中となり、出でて両浙転運使と為り、荊湖北路に改め、復た塩鉄判官と為り、再び兵部に遷り、陝西転運使と為り、江・淮発運使に徙る。未だ至らざるに、召し還る。西京兵食乏しきを奏するに属し、因りて言ふ、馮翊・華陰積粟多し、二十万石を運ぶ可く、三門より下りて之を済すべしと。遂に留めて侍御史知雑事と為し、吏部流内銓を判じ、三司度支副使に進む。疾を以て外を請ひ、太常少卿に遷り、応天府を知る。月を踰へて、右諫議大夫と為り、青州に徙り、給事中に遷り、鄆州を知り、復た応天府を知り、遂に工部侍郎を以て致仕し、卒す。

傅は強力に事を治め、七たび監司と為り、至る所簿書を審核し、奸隠を勾擿し、州県之を憚る。傅曰く、「奚ぞ我を憚るぞ。吾が事事に察を致す所以の者は、正に州県を愛するが故なり。吏敢えて慢せざれば、則ち州県復た法を犯さざるなり」と。人亦然りと為す。天禧中、術士有りて自ら数百歳を言ひ、少時嘗て秦悼王家に遊び、歴て唐粛宗・代宗朝を見る。是より禁中に出入し、尊重を見、人敢えて其の偽を詰る者無し。傅之を見て、唐事を以て訊ぬ。術士語屈す。

俞献卿

俞献卿、字は諫臣、歙の人。少く兄献可と文学を以て知名たり。皆進士第に中る。献可は吏称有り、歴て吏部郎中・龍図閣待制となる。献卿は起家して安豊県尉を補す。僧貴寧有り、財を積みて甚だ厚し。其の徒之を殺し、県に詣りて師出遊せりと紿言す。献卿曰く、「吾寧と善し、告げずして去る、豈に異有らんや」と。其の徒色動き、因りて之を執り、其の瘞せし所の屍を得る。一県大いに驚く。再び調して昭州軍事推官となる。時に宜州陳進の乱に会し、象州守事に任ぜず。転運使檄をして献卿を往かせて之を佐けしむ。及び至るに、守城を棄てんと謀る。献卿曰く、「難に臨み苟も免れんとす、可ならんや。賊至らば、尚当に力を撃つべし。勝たざれば、死有るのみ。奈何ぞ棄て去らん」と。初め、昭州緡錢を積みて巨万なり。献卿尽く用ひて平糴し、積穀数万に至る。是に及び大兵至り、之に頼りて軍に饋す。改めて大理寺寺丞と為り、本寺詳断官と為る。歴て慎・仁和二県を知り、再び遷りて太常博士となり、南雄州を知り、潮州に徙る。

殿中侍御史を除し、三司塩鉄判官と為る。上言す、「天下の穀帛日を逐うて耗し、物価日を逐うて高し。民力の屈せざらんことを欲するも、得可からざるなり。今天下穀帛の直、祥符初に比し数倍を増す。人皆謂ふ、稻苗未だ立たずして和糴し、桑葉未だ吐かずして和買すと。荊湖・江・淮の間より、民愁ひて聊か無く、転運使務めて刻剝して其の数を増し、歳益々歳を益す。又時に非ざる調率営造一切の費用、皆民に出づ。是を以て物価積もりて高く、民力積もりて困むなり。陛下誠に景德中西・北二辺通好最盛の時の一歳の用を較ぶるに、天禧五年、凡そ官吏の要冗、財用の盈縮、力役の多寡、賊盗の増減、較然として其の利害を知る可し。況んや天禧以来、日侈日にし、又前より甚だし。夫れ卮盈たざる者は漏れ下に在り、木茂からざる者は蠹内に在り。陛下宜く其の彼に損有り、此に益無きを知り、公卿大臣と朝夕図議して之を救正すべし」と。帝其の言を納れ、諸宮観の兵衛を罷むるを為し、又官を命じて無名の費を除かしむるに巨万を以て計る。

淮・浙の塩利登らず。命じて献卿を往かせて之を経度せしめ、新法を更め立つ。歳に塩課緡錢を増すこと甚だ衆し。時に其の兄塩鉄副使と為るに会し、開封府判官に徙る。朝廷陝西転運使を択ぶ。宰相連ねて数人を進むるも、旨に称せず。他日、献卿擬する所の中に在り。帝曰く、「此れを以て陝西転運使を除く可し」と。時に辺吏多く事に因りて功を邀ふ。涇原路鈐轄擅に武延川に於て辺壕を鑿ち、堡砦を置く。献卿度るに必ず寇患を招かんとし、亟に檄をして之を罷む。未だ幾もなく、賊果たして至り、将士を殺し、鑿せし所の壕を塞ぎて去る。京西に徙る。因りて入対し、甚だ趙振将帥に堪ふるを言ひ、范仲淹・明鎬大用す可きを言ひ、及び辺策を条上すること甚だ備はる。

福建転運使に任ぜられ、還って三司塩鉄勾院を判じ、累遷して尚書刑部郎中・直史館・知荊南となり、戸部・度支・塩鉄副使を歴任し、右諫議大夫・集賢院学士として杭州を治めた。暴風が起こり、江潮が溢れて堤防が決壊すると、献卿は大いに卒を発して西山を穿ち、堤防を数十里築き、民は便利とした。還って、勾当三班院となり、知通進銀台司を経て、最後に応天府を治め、刑部侍郎の官で致仕し、卒した。

陳従易

陳従易、字は簡夫、泉州晋江の人。進士に及第し、嵐州団練推官となり、再び調任されて彭州軍事推官となった。王均が成都を盗み拠り、連綿して綿・漢諸郡を陥落させると、彭州の者が兵馬都監を殺害してこれに応じようと謀った。時に従易は州事を摂行し、その首謀者を斬り、残党を召して禍福を説き、これを赦免すると、衆は皆呼んで喜んだ。そこで将吏を率い励まし、守備の器械を厳しく整え、家僮に命じて屋舎の後に薪を積ませ、「我が力は守るに足らず、ここに死すべし」と言った。賊はその備え有るを聞き、敢えて境内に入らなかった。賊が平定されると、安撫使王欽若がその状況を上聞し、召されて秘書省著作佐郎・大理寺詳断官となった。太常博士に遷り、出て邵武軍を治めた。『冊府元亀』の編纂に預かり、監察御史に改めた。真宗が近臣を崇和殿に宴し、従易を召して預からせ、詩を賦して旨に叶った。侍御史に遷り、刑部員外郎・直史館・知虔州に改めた。歳に大飢饉が起こり、杖を持って民の穀物を盗み取る者があった時、一切死罪を減じて論ずるよう請い、生かされた者は凡そ千余人に及んだ。

天禧年中、別頭進士を推薦送致して実情に合わなかった罪に坐し、工部員外郎に降格した。父が老齢のため、郷里の郡を求めた。宰相寇準は彼が己を疎んじるのを憎み、吉州に任じたが、従易は対面の際に自ら申し出て福州に改めた。未だ赴任せず、父の喪に遭い、服喪を終えると、在京刑獄を糾察し、出て湖南転運使となり、転じて荊南を治め、太常少卿・直昭文館・知広州に抜擢された。またかつて太清楼の書物の文字を校課した際、誤りでないのに従易が妄りに削除したと判じた罪に坐し、直史館に降格した。翌年復職した。広州に三年在任し、清徳をもって聞こえた。入朝して左司郎中・知制誥となった。

初め、景德の後、文士は彫靡を以て互いに誇り、一時の学者はこれに傾いたが、従易のみは変わらず守った。楊大雅と厚く善くし、皆古を好み篤く行い、時に朝廷は文章の弊を矯正しようとしたので、二人を並べて進用し、天下に風を示した。史館修撰を兼ね、左諫議大夫に遷った。契丹に使すことを命ぜられたが、年老いを理由に辞して行かなかった。また職を辞して郡の補任を請い、龍図閣直学士・知杭州に進み、卒した。

従易は学を好み記憶力が強く、人となり激直で寛容さに欠け、是非を弁別することを喜び、多く人を面と向かって折伏し、或いはその過ちを咎めても、従易は終に変わらなかった。王欽若が最も彼を善くし、嘗て人に謂って「数日簡夫に会わざれば、忽忽として悦ばず」と言った。欽若が廃されて南京に居た時、丁謂がまさに権勢を振るい、人々は謂を畏れ、敢えて欽若に往き見る者無かった。従易が湖南に使わんとし、彼を訪ねようとしたが、汴水が旱魃で涸れたので、遂に謂に告げて「従易が湖外に使わんとするは、貧しきのみならず、また王公が宋に在る故、就いて省みんとするなり。今汴水涸れ、義として他道より進むべからず、幸いに公は少しく留まるを許せ」と言った。謂は即ち大いに喜んで「王公の門にて、独り君のみ我を知る者なり」と言い、留めて権糾察刑獄とさせたが、従易は敢えて当たらぬとし、乃ち館に帰ることを聴き、汴水が通じて乃ち行かせた。時に寇準が道州に貶せられ、謂はまた従易に謂って「廬陵(寇準)の事は、以て憾みを釈くべし」と言った。従易は対えて「故相として事えんのみ」と答えた。謂は慚愧の色を示した。その行いと志は多く此の類いである。著書に『泉山集』二十巻、『中書製稿』五巻、『西清奏議』三巻。

楊大雅

楊大雅、字は子正、唐の靖恭諸楊虞卿の後裔。虞卿の孫承休は、唐の天祐初め、尚書刑部員外郎として呉越国の冊礼副使となり、楊行密が江・淮を拠るに及び、道が阻まれて帰還できず、遂に銭塘に家を定めた。大雅は承休の四世孫である。銭俶が帰朝すると、その一族を率いて宋州に寓居した。大雅は平素より学を好み、日に数万言を誦し、飲食する時も巻を釈かず。進士に及第し、新息・鄢陵県主簿を歴任し、光禄寺丞・知新昌県に改め、転じて潯州を治め、在京商税を監し、再び遷って秘書丞となった。

咸平年中、交趾が犀を献上した際、賦を奏上し、召されて試みられ、太常博士に遷った。久しくして、また上書して自らを薦め、為した文を献じ、再び召されて試みられた。直集賢院となり、出て筠・袁二州を治め、開封府界諸県鎮事を提挙し、三司監鉄判官となり、越州を治め、淮南路刑獄を提点した。還朝し、国子監生を試験し、推薦を誤った罪に坐し、累次降格して陳州酒を監した。転じて常州を治め、三司都磨勘司・戸部勾院を判じた。集賢殿修撰・知応天府に遷った。還朝し、在京刑獄を糾察し、兵部郎中知制誥となった。大雅は初め侃と名乗ったが、この時、真宗の藩邸の諱を避け、詔により改めた。二年居て、右諫議大夫・集賢院学士・知亳州を拝し、卒した。

大雅は朴学を以て自ら信じ、阿附する所無く、直集賢院として二十五年遷らなかったが、その後に出た者は往々にして栄顕に至った。或いはその世に背き自ら守るを笑う者もあったが、大雅は歎じて「我は世に学ぶことなく、聖人に学ぶ、これによりて此に至る。我が所有する所は、敢えて人に薦めず、而して嘗て天子に自ら献ぜり」と言った。天禧年中、淮南に使いし、江に沿って部内を巡按し、金陵の境上を過ぎる時、風に遭って舟が覆り、傍らの卒に救われて岸に至ったが、冠服は尽く失った。時に丁謂が金陵を鎮め、人を遣わして衣一襲を贈ったが、大雅は辞して受けず、謂はこれを慊と為した。宰相王欽若もまた彼を悦ばなかった。晩年に陳従易と並んで知制誥に命ぜられた。大雅は嘗て転対の機に因り、『原治』十七篇を上った。著書に『大隠集』三十巻、『西垣集』五巻、『職林』二十巻、『両漢博聞』十二巻。

論じて曰く、仲孫は才力を以て時に自ら奮い、事を論じて効を著し、能吏と号せられた。太素・尋・曾は法意を知る能く、理官の良き者なり。虚己・献卿は朝に立つこと微なりと雖も、卓犖たる大節有り、及び他官と為り、至る所に吏称有り。若し従易の憾みを釈くの言を拒み、大雅の襲衣の遺を辞するや、卒に権奸をして愧歉せしむ、抑また尚ぶべきか。