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宋史
志第三十八 地理一 京城 京畿路 京東路京東東路 京東西路 京西路京西北路 京西南路
京城
唐室既に衰へ、五代迭りに興り、五十餘年、八姓を更易し、宇縣分裂して、之を一にする能はざるもの莫し。宋太祖周の禪を受け、初めに州百一十一、縣六百三十八、戸九十六萬七千三百五十三を有つ。
建隆四年、荊南を取り、州・府三(江陵府、歸、峽)を得、縣一十七、戸一十四萬二千三百。
湖南を平げ、州一十五、監一(潭、衡、邵、郴、道、永、全、岳、澧、朗、蔣、辰、錦、溪、敘、桂陽監)を得、縣六十六、戸九萬七千三百八十八。
乾德三年、蜀を平げ、州・府四十六(益、彭、眉、嘉、邛、蜀、綿、漢、資、簡、梓、黎、雅、陵、戎、瀘、維、茂、昌、榮、果、閬、渠、合、龍、普、利、興、文、巴、劍、蓬、壁、夔、忠、萬、集、開、渝、涪、黔、施、達、洋、興元府)を得、縣一百九十八、戸五十三萬四千三十九。
開寶四年、廣南を平げ、州六十(廣、韶、潮、循、封、端、英、連、雄、龔、惠、康、恩、春、瀧、勤、新、髙、潘、雷、羅、辨、桂、賀、昭、梧、蒙、恭、象、富、融、宜、柳、嚴、思唐、邕、澄、貴、蠻、橫、賓、欽、潯、容、牢、白、廉、黨、繡、郁林、藤、竇、義、禺、順、瓊、崖、儋、萬安、振)を得、縣二百一十四、戸一十七萬二百六十三。
八年、江南を平げ、州一十九、軍三(升、宣、歙、池、洪、潤、常、鄂、筠、饒、信、虔、吉、袁、撫、江、汀、建、劍、江陰、雄遠、建昌軍)を得、縣一百八、戸六十五萬五千六十五。
其の末年を計へば、凡そ州二百九十七、縣一千八十六、戸三百九萬五百四有り。
太宗太平興國三年、陳洪進地を獻じ、州二(漳、泉)を得、縣十四、戸十五萬一千九百七十八;錢俶朝に入り、州十三、軍一(杭、蘇、越、湖、衢、婺、台、明、温、秀、睦、福、處、衣錦)を得、縣八十六、戸五十五萬六百八十。
四年、太原を平げ、州十、軍一(併、汾、嵐、憲、忻、代、遼、沁、隆、石、寶興)を得、縣四十、戸三萬五千二百二十。
七年、李繼捧來朝し、州四(夏、銀、綏、宥;雍熙元年、復た四州を繼捧に授け、自後職方に領せられず)を得、縣八。
雍熙中、天下閏年圖を上る、州・府・軍・監幾くんば四百に及ぶ。是に至りて、天下既に一にして、疆理幾くんば漢・唐の舊に復し、其れ職方氏に入らざるは、唯だ燕・雲十六州のみ。
至道三年、天下を分ちて十五路と爲し、天聖に十八に析け、元豐又た二十三に析く:曰く京東東・西、曰く京西南・北、曰く河北東・西、曰く永興、曰く秦鳳、曰く河東、曰く淮南東・西、曰く兩浙、曰く江南東・西、曰く荊湖南・北、曰く成都、曰く梓・利・夔、曰く福建、曰く廣南東・西。東南は海に際し、西は巴僰を盡くし、北は三關を極む、東西六千四百八十五里、南北一萬一千六百二十里。崇寧四年、復た京畿路を置く。大觀元年、別に黔南路を置く。三年、黔南を廣西に併せ、廣西黔南を以て名と爲す。四年、仍舊として廣南西路と爲す。是の時に當たり、天下に戸二千八十八萬二千二百五十八、口四千六百七十三萬四千七百八十四有り(天下主客戸:至道末より四百一十三萬一千五百七十六、天禧五年、主戸六百三萬九千三百三十一、客戸は預からず。嘉祐八年に至り、主戸一千二百四十六萬二千五百三十一、口二千六百四十二萬一千六百五十一。治平三年に至り、天下主客戸一千四百一十八萬一千四百八十六、口二千五十萬六千九百八十。熙寧十年、戸一千四百二十四萬五千二百七十、口三千八十萬七千二百十一。元祐元年、戸一千七百九十五萬七千九十二、口四千七萬二千六百六。紹聖元年、戸一千九百一十二萬九百二十一、口四千二百五十六萬六千二百四十三。元符三年、戸一千九百九十六萬八百一十二、口四千四百九十一萬四千九百九十一。崇寧元年、戸二千二十六萬四千三百七、口四千五百三十二萬四千一百五十四)。各府・州下の戸口は總數と少しく異なり、姑く兩存す。
西漢の盛時に比べても、むしろ増している。隋・唐の版図は広大であったが、戸口はすべて及ばなかった。宣和四年に至り、さらに燕山府及び雲中府路を設置し、天下は二十六路に分かれ、京府四、府三十、州二百五十四、監六十三、県一千二百三十四となり、極めて盛んな状態であったと言えよう。
おおよそ宋が天下を有すること三百余年、建隆初年より治平末年まで百四年、州郡の沿革に大きな増減はなかった。熙寧年間になって初めて領土拡張に努め、種諤が先に綏州を取ると、韓絳が続いて銀州を取り、王韶は熙河を取り、章惇は懿州・洽州を取り、謝景温は徽州・誠州を取り、熊本は南平を取り、郭逵は広源を取り、最後に李憲が蘭州を取り、沈括は葭蘆・米脂・浮図・安疆などの砦を取った。かつて河東の辺境七百里の地を遼人に与えたことがあったが、当時王安石が議したのは、「我らはこれを取るであろう、むしろ暫く与えておくのだ」という考えであった。元祐年間に政策が変更されると、葭蘆など四つの砦を夏人に与え、境界の画定は長く定まらなかった。紹聖年間には分画を廃し、諸路に命じてそれぞれ勢いに乗じて攻め討ち、進んで築城させた。三年秋八月より元符二年冬までに、陝西・河東において州一(安西)、
軍二(晉寧、綏德)、
関三(龍平、會寧、金城)、
城九(安西、平夏、威戎、興平、定邊、威羌、金湯、白豹、會川)、
砦二十八(平羌、平戎、殄羌、暖泉、米脂、克戎、安疆、橫山、綏遠、寧羌、靈平、髙平、西平、新泉、蕩羌、通峽、天都、臨羌、定戎、龕谷、大和、通秦、寧河、彌川、寧遠、神泉、烏龍)、
堡十(開光、通塞、石門、通會、大和、通秦、寧河、彌川、寧川、三交)を築き、さらに青唐(鄯州)、
邈川(湟州)、
寧塞(廓州)、
龍支(宗哥城)
などの城を取った。建中靖国年間には吐蕃の旧領をすべて返還し、民力を少し休ませた。崇寧年間になって急に以前の議論を変え、専ら紹述(神宗の新法継承)を事とし、蔡京がまず童貫・王厚を任用して、再び湟州・鄯州・廓州の三州二十余りの堡塁を取った。陶節夫・鐘傳・刑恕・胡宗回・曾孝序の徒は、また互いに事実を捏造し虚構を弄し、元符年間の封域の外にまで奔走した。重和年間に至るまでに、靖夏(涇原)、
制戎(鄜延)、
制羌(西寧)
の三城を築いたが、夏人は次第に衰えたものの、民力もまた疲弊した。西方の事がようやく定まると、北方の争いがすぐに起こった。崇寧以来、益州・梓州・夔州・黔州・広西・荊湖南・荊湖北が互いに模倣しあい、領土を拡大し、安寧な年はなく、建てられた州・軍・関・城・砦・堡は多く、枚挙にいとまがない。その後、燕山・雲中の両路を建てたが、ほぼ三年を経ずして禍変が起こり、中原は動乱に陥り、旧来の府は陥落し、職方の記すところは、散逸して考証できなくなった。
高宗は慌てふためいて江を渡り、呉会(江南)に駐蹕し、中原・陝右はすべて金の手に落ち、東は長淮を境とし、西は商州・秦州の半分を割き、散関を以て境界とし、残されたのは、両浙・両淮・江東・江西・湖南・湖北・西蜀・福建・広東・広西の十五路のみで、戸一千二百六十六万九千六百八十四を有した(これは寧宗嘉定十一年の数である)。
建国して江左にあり、また百五十年を経て、徳祐丙子の年に至り、遂に我が皇元の版図に併せて帰し、天下始めて復た一に合せり。
今、元豊の定むる所に據り、併せて京畿を二十四路と爲し、首に之を京師にし、帝都を重んずるなり。終わりに之を燕・雲にし、其の既に得て旋って失ふを以て、故に後に附して見す。而して凡そ四京の城闕宮室、及び南渡行在の所、其の考ふべき者を篇首に冠し、『地理志』と爲す云ふ。
東京
東京は汴の開封である。梁は東都と爲し、後唐にて罷め、晉は復た東京と爲し、宋は周の舊に因りて都と爲す。建隆三年、皇城の東北隅を廣め、有司に命じて洛陽の宮殿を畫かしめ、圖に按じて之を修む。皇居始めて壯麗なり。雍熙三年、宮城を廣めんと欲し、詔して殿前指揮使劉延翰等に經度せしむ。居民多く徙るを欲せざるを以て、遂に罷む。宮城周回五里。
南の三門:中央を乾元と曰う(宋初は梁・晉の旧に依り、明德と名づけ、太平興国三年に丹鳳と改め、大中祥符八年に正陽と改め、明道二年に宣徳と改む。雍熙元年に今の名に改む)。
東は左掖と曰ひ、西は右掖と曰ふ。東西面の門は東華・西華と曰ふ(旧名は寬仁・神獸、開寶三年に今の名に改む)。熙寧十年、また東華門の北を謻門と改む。
北の一門を拱宸と曰う(旧名は玄武、大中祥符五年に今の名に改む)、熙寧十年、門内の西横門を臨華と改む。
乾元門の内側で正南の門を大慶と曰い、東と西の横門を左・右の升龍と曰う。左右の北門の内側に各二門あり、左・右の長慶と曰う。熙寧年間に、左・右の長慶隔門を改めて左・右の嘉肅と曰う。
左及び右の銀臺。東華門内の一門を左承天と曰ふ、祥符乾德六年に名を賜ひ、大中祥符元年正月、天書其の上に降り、詔して「祥符」の二字を加へて之を増修す。
西華門の内に一門あり、右承天と曰ふ。左承天門の内、道の北の門を宣祐と曰ふ(旧名は光天、大中祥符八年に大寧と改め、明道元年に今の名に改む)。
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正南門の内なる正殿を大慶と曰い、東・西の門を左・右太和と曰う。宋初は日華・月華と曰い、大中祥符八年に今の名に改む。
正衙の殿を文徳と曰ふ、宋初は文明と曰ひ、雍熙元年に今の名に改む。熙寧の間、南門を端禮と改む。
両掖門は東上閣門・西上閣門と称し、東門・西門は左嘉福門・右嘉福門と称す(宋初は左勤政門・右勤政門と称し、明道元年十月に今の名に改む)。
大慶殿は旧名を崇元と称し、乾徳四年に重修し、乾元と改称し、太平興国九年に朝元と改め、大中祥符八年に天安と改め、明道三年に今の名に改めた。
北に紫宸殿あり、旧名は崇德、明道元年に改む、
視朝の前殿なり。西に垂拱殿あり、旧名は長春、明道元年に改む。
常日に視朝する所なり。次に西に皇儀殿あり、開寶四年に滋福と名を賜ひ、明道元年十月に改む。
又次に西に集英殿あり、旧名は廣政、開寶三年に大明と曰ひ、淳化年間に含光と曰ひ、大中祥符八年に會慶と名づけ、明道元年十月に今の名に改む。
宴殿なり。殿後に需雲殿あり、旧名は玉華、後に瓊華と改め、熙甯初年に今の名に改む。
東に升平樓あり、旧名は紫雲、明道元年に改む。
宮中に観宴する所なり。宮後に崇政殿あり、旧名は簡賢講武、太平興國二年に今の名に改む。熙寧年間に、北横門を通極と改む。
閲事する所なり。殿後に景福殿あり、殿の西に殿北向きあり、延和と曰ひ、便坐殿なり、大中祥符七年に、後苑東門及び北向き便殿成り、宣和門・承明殿と名を賜ひ、明道元年に端明と改め、二年に今の名に改む。
凡そ殿に門ある者は、皆殿名に随ふ。
宮中に又延慶、旧名は萬歳、大中祥符七年に改む。
安福、観文、旧名は集聖、明道二年に肅儀と改め、慶暦八年に今の名に改む。
淸景、慶雲、玉京等の殿、壽寧堂、旧名は淸淨、明道元年に改む。
延春閣。旧名は萬春、寶元元年に改む。
福寧殿は即ち延慶、明道元年に改む。
東西に門あり、左・右昭慶と曰ふ。観文殿の西門を延眞と曰ひ、其の東の眞君殿を積慶と曰ひ、前に感眞閣を建つ。又龍圖閣あり、下に資政・崇和・宣德・述古の殿あり。天章閣の下に群玉・蕊珠の二殿あり、後に寶文閣あり、即ち壽昌閣、慶暦元年に改む。
閣の東西に嘉徳殿・延康殿の二殿があり、前に景輝門がある。後苑の東門を甯陽と称し、即ち宣和門であり、明道元年に改称された。
苑内に崇聖殿・太淸樓があり、その西にまた宜聖殿・化成殿(即ち玉宸殿、明道元年に改称)がある。
金華殿・西涼殿・淸心殿等の殿、翔鸞閣・儀鳳閣の二閣、華景亭・翠芳亭・瑤津亭の三亭がある。延福宮に穆淸殿があり、延慶殿の北に柔儀殿がある。初めは殿名がなく、章獻太后が崇徽と命名し、明道元年に寶慈と改め、景祐二年に今の名に改めた。
崇徽殿の北に欽明殿がある。旧名は天和殿、明道元年に觀文殿と改め、また淸居殿と改め、治平三年に今の名に改めた。
延福宮の北に廣聖宮があり、天聖二年に建立し、長寧宮と称した。
景祐二年に改称した。内に太淸殿・玉淸殿・沖和殿・集福殿・會祥殿の五殿があり、後苑に流杯殿を建てた。明道元年八月、文德殿の修造が完成した。この夜、禁中で火災が発生し、崇徳殿・長春殿・滋福殿・會慶殿・延慶殿・崇徽殿・天和殿・承明殿の八殿に延焼した。宰相呂夷簡を修茸大内使に任命し、樞密副使楊崇勳をその副使とし、京東西路・河北路・淮南路・江東西路の工匠を発して役務に充て、内より乗輿の器物を出し、左藏庫より緡錢二十萬を換えてその費用を補助した。これにより諸殿の名を改めた。
また慈徳殿があり、楊太后の居所で、景祐元年に名を賜った。
觀稼殿は後苑にあり、稲作を見る所で、景祐二年に創建された。
延義閣は崇政殿の西にある。
邇英閣は崇政殿の西南にあり、侍臣が講読する所である。延義閣と同様に、景祐三年に名を賜った。
隆儒殿は邇英閣の後の小殿で、皇祐三年に初めて名を賜った。
慈壽殿は皇太后の居所で、治平元年に名を賜った。
慶壽宮・保慈宮は熙寧二年に建立された。玉華殿は後苑にある。
基春殿は熙寧七年に建立され、玉華殿の後ろにある。
睿思殿は熙寧八年に建立された。
承極殿は、元豊三年に建立された。
崇慶・隆祐の二宮は、元祐元年に建立された。
睿成宮は、神宗が居住された東宮であり、紹聖二年に名を賜った。
宣和殿は、睿思殿の後方にあり、紹聖二年四月に殿が完成した。その東側には別に小殿があり、凝芳と曰い、その西は瓊芳と曰い、前は重熙と曰い、後は環碧と曰う。元符三年に廃され、崇寧初年に再建され、大観三年、徽宗が記を撰して石に刻ませたが、実は蔡京がこれを作ったものである。
聖瑞宮は、皇太妃の御在所であり、これにより宮の名とした。顕謨閣は、元符元年に建立され、神宗の御集を蔵した。建中靖国元年、熙明と改称し、まもなく旧名に復した。
玉虚殿は、元符初年に建立された。
玉華閣は、大観初年に建立され、宣和殿の後方にある。
親蠶宮は、政和元年に建立された。
燕寧殿は、延福宮の北にあり、仁宗慈聖光献皇后の御容を奉安した。
延福宮は、政和三年春、大内の北、拱辰門の外に新たに造営された。旧宮は後苑の西南にあり、今その地は百司の供給所となっており、内酒坊・裁造院・油醋柴炭鞍轡等の庫はすべて他処に移し、また二つの僧寺・二つの軍営を遷して新宮を造営した。初め南向きで、殿は宮名に因み延福と曰い、次は蕊珠と曰い、亭は碧琅玕と曰う。その東門は晨暉と曰い、その西門は麗澤と曰う。宮の左にはさらに二位を並べた。その殿には穆清・成平・会寧・睿謨・凝和・昆玉・群玉があり、その東閣には蕙馥
・報瓊・蟠桃・春錦・疊瓊・芬芳・麗玉・寒香・拂雲・偃蓋・翠葆・鉛英・雲錦・蘭薰・摘金があり、その西閣には繁英・雪香・披芳・鉛華・瓊華・文綺・絳萼・穠華・緑綺・瑤碧・清陰・秋香・叢玉・扶玉・絳雲がある。会寧の北には、石を積んで山とし、山上に殿があり翠微と曰い、傍らに二つの亭がある。雲巋と曰い、層巘と曰う。凝和の次にある閣は明春と曰い、その高さは一百一十尺を超える。閣の側に殿が二つある。玉英と曰い、玉澗と曰う。その背後は城に接し、土を築き杏を植え、杏岡と名付け、茅を覆って亭とし、万竿の竹を植え、その下に水を引いた。宮の右には二つの閣を補佐として建て、宴春と曰い、広さ十二丈、舞台が四列、山亭が三つ聳える。円池を穿って海とし、海を跨いで二つの亭を建て、石梁を架けて山に登り、亭は飛華と曰い、横に渡ること四百尺余、縦に数えて二百六十七尺ある。また泉を疏浚して湖とし、湖中に堤を築いて亭に接し、堤中に梁を設けて湖を通じ、梁の上にはさらに茅亭・鶴莊・鹿砦・孔翠などの柵があり、蹄や尾の動くもの数千、嘉花名木は類を聚めて区別し、幽勝たることあたかも自然の成せるが如く、西は麗澤に至り、塵境に類しない。初め、蔡京が童貫・楊戩・賈詳・藍従熙・何䐶らに命じて宮の役事を分掌させたが、五人はそれぞれ制度を異にし、沿襲を務めなかったので、「延福五位」と号した。東西は大内に配し、南北はやや劣る。その東は景龍門に直し、西は天波門に抵る。宮の東西二つの横門は、いずれも禁門の法に倣い、いわゆる晨暉・麗澤であるが、晨暉門の出入りが最も多い。その後また旧城を跨いで修築し、「延福第六位」と号した。城を跨ぐ外に壕を浚い、深いところは水三尺、東は景龍門橋、西は天波門橋、二橋の下には石を積んで固め、舟を引いて相通じ、橋上の人物は外から通行しても気付かぬという、名付けて景龍江と曰う。その後さらにこれを開き、東は景龍門を過ぎて封丘門に至る。景龍江の北に龍徳宮がある。初め、元符三年、懿親宅の潜邸を以てこれとし、景龍江を造るに及んで、江の両岸はみな奇花珍木、殿宇が比比として対峙し、中途に壺春堂があり、絶岸から龍徳宮に至る。その地は歳時に次第に展拓し、後には都城の一隅を尽くし、名付けて擷芳園と曰う。山水は美秀、林麓は暢茂、楼観は参差として、なお艮嶽・延福の如し。宮は旧城にあり、ここに附載する。
保和殿は、政和三年四月に造営を始め、九月に殿が完成し、総計七十五間の屋舎である。
玉清神霄宮は、政和三年に建立され、旧名は玉清和陽、福寧殿の東にあり、七年に今の名に改めた。
上清宝籙宮は、政和五年に造営され、景龍門の東、景暉門の対面にある。既にまた仁済・輔正の二亭を宮前に造り、道士に命じて民に符薬を施させ、徽宗は時に皇城に登ってこれを俯瞰した。また景龍門を開き、城上に複道を作り、宝籙宮に通じ、斎醮の路を便利にし、徽宗はしばしば複道を往来した。この年十二月、初めて景龍門の上下に灯りを張り、「預賞」と名付けた。その翌年、期門の事変が起こったのである。
萬歳山艮嶽。政和七年、上淸寶籙宮の東において初めて萬歳山を造営す。山の周囲は十余里、その最高の一峰は九十歩、上に介と曰う亭あり、東・西の二嶺に分かれ、直接に南山に連なる。山の東には萼緑華堂あり、書館・八仙館・紫石岩・棲眞嶝・覽秀軒・龍吟堂あり。山の南には則ち壽山の両峰並び峙ち、鴈池・噰噰亭あり、北は直に絳霄樓に至る。山の西には藥寮あり、西莊あり、巣雲亭あり、白龍沜・濯龍峽、蟠秀・練光・跨雲亭、羅漢岩あり。又西に萬松嶺あり、半嶺に倚翠と曰う樓あり、上下に両關を設け、關下に平地あり、大方沼を鑿ち、中に両洲を作る:東は蘆渚と爲し、亭は浮陽と曰う。西は梅渚と爲し、亭は雪浪と曰う。西に流れて鳳池と爲り、東に出でて鴈池と爲り、中に二館を分つ、東は流碧と曰い、西は環山と曰い、巣鳳と曰う閣あり、三秀と曰う堂あり、東池の後に揮雪廳あり。復た嶝道より上りて介亭に至り、亭の左に復た極目・蕭森と曰う亭あり、右に復た麗雲・半山と曰う亭あり。北に景龍江を俯し、江の上流を引きて山間に注がしむ。西に行きて漱瓊軒と爲り、又石間を行きて煉丹・凝觀・圜山亭と爲り、下に江際を視れば、髙陽酒肆及び淸澌閣を見る。北岸に勝筠菴・躡雲臺・蕭閑館・飛岑亭あり。支流別れて山莊と爲り、回溪と爲る。又た南山の外に小山を爲し、二里に横たはり、芙蓉城と曰い、巧妙を窮む。而して景龍江の外は、則ち諸館舍特に精なり。其の北又た瑤華宮の火災に因り、其の地を取りて大池を作り、名づけて曲江と曰い、池中に蓬壺と曰う堂あり、東は封丘門に盡きて止む。其の西は則ち天波門橋より水を引きて直に西し、殆ど半里、江乃ち南に折れ、又た北に折る。南に折るる者は閶闔門を過ぎ、復道と爲り、茂德帝姬の宅に通ず。北に折るる者は四五里、之を龍德宮に属す。宣和四年、徽宗自ら《艮嶽記》を作り、以爲へらく山は國の艮に在るを以て、故に艮嶽と名づく。蔡條謂ふ、初め鳳凰山と名づけ、後神降り、其の詩に「艮嶽排空霄」有り、因りて艮嶽と改名すと。宣和六年、詔して金芝の艮岳の萬壽峰に産するを以て、又た壽嶽と改名す。蔡絛謂ふ、南山成り、又た壽嶽と改名すと。岳の正門の名を陽華と曰ふ、故亦た陽華宮と號す。政和より靖康に訖るまで、十余年を積累し、四方の花竹奇石、悉く斯に聚まり、樓臺亭館、雖も略ぼ前に記す所の如きも、而して月に増し日に益し、殆ど数計すべからず。宣和五年、朱勔太湖に於て石を取り、髙廣数丈、大舟を以て載せ、千夫を以て挽き、河を鑿ち橋を断ち、堰を毀ち閘を拆き、数月にして乃至り、「昭功敷慶神運石」の號を賜ふ、是年、初めて燕地を得たる故なり。勔此に縁りて節度使を授かる。大抵群閹の興築は肯て已むことなし。徽宗晩歳、苑囿の衆なるを患へ、國力支ふる能はざるに、数に厭惡の語有り、是に由りて稍々止むことを得たり。及金人再び至り、城を圍むこと日久しく、欽宗命じて山禽水鳥十余萬を取らしめ、盡く之を汴河に投じ、其の之く所を聽す。屋を拆きて薪と爲し、石を鑿ちて炮と爲し、竹を伐ちて笓籬と爲す。又た大鹿数百千頭を取りて之を殺し、以て衞士に啖はしむと云ふ。
舊城周回二十里一百五十五歩。東二門:北は望春と曰ひ、宋初は和政と名づく。
南は麗景と曰ふ。南面三門:中は朱雀と曰ひ、東は保康と曰ふ、大中祥符五年に創建す。
西は崇明と曰ふ。西二門:南は宜秋と曰ひ、北は閶闔と曰ふ。北三門:中は景龍と曰ひ、東は安遠と曰ひ、西は天波と曰ふ。以上宋初は梁・晉の舊名に仍り、太平興國四年に至り今の名に改む。
新城周回五十里百六十五歩。大中祥符九年に増築し、元豐元年に重修し、政和六年、官司をして國の南に京城を展築し、官司軍營を移置せしむることを詔す。舊城週四十八里二百三十三歩、周顯德三年に築く。
南三門:中は南薰と曰ひ、東は宣化と曰ひ、西は安上と曰ふ。東二門:南は朝陽と曰ひ、北は含輝と曰ふ。太平興國四年に寅賓と改め、後復す。
西二門:南は順天と曰ひ、北は金耀と曰ふ。北四門:中は通天と曰ひ、天聖初に寧德と改め、後復す。
東は長景と曰ひ、次東は永泰と曰ひ、西は安肅と曰ふ。初め衞州門と號す。以上皆周の舊名に因る、太平興國四年に至り、今の名に改む。
汴河上水門、南は大通と曰ひ、太平興國四年に名を賜ひ、天聖初、順濟と改め、後今の名に復す。
北は宣澤と曰ふ。舊南北水門皆大通と曰ひ、熙寧十年に改む。
汴河下、南は上善と曰ひ、北は通津と曰ふ。天聖初、廣津と改め、熙寧十年に復す。
惠民河、上は普濟と曰ひ、下は廣利と曰ふ。廣濟河、上は咸豐と曰ひ、下は善利と曰ふ、舊名咸通。
上南門は永順と曰ふ。熙寧十年に名を賜ふ。
其の後又た金耀門の南に開遠門を置く。舊名通遠。以上皆太平興國四年に名を賜ひ、天聖初に今の名に改む。
西京
西京。唐の顯慶年間に東都と爲り、開元に河南府と改め、宋では西京と爲し、山陵(皇陵)在り。宮城の周囲は九里三百歩。城南に三門有り:中を五鳳樓と曰い、東を興教と曰い、西を光政と曰う。隋・唐の舊名に因る。
東に一門有り、蒼龍と曰う。西に一門有り、金虎と曰う。北に一門有り、拱宸と曰う。舊名は玄武、大中祥符五年に改む。五鳳樓の内、東西の門を左・右永泰と曰い、門外の道の北に鸞和門有り、太平興國三年、車輅院の門を以て改む。
右永泰門の西に永福門有り。興教・光政門の内に各三門有り、曰く:左・右安禮、左・右興善、左・右銀臺。蒼龍・金虎門の内の第二の隔門を膺福・千秋と曰う。膺福門の内、道の北の門を建禮と曰う。
正殿を太極と曰い、舊名は明堂、太平興國三年に改む。
殿前に日・月樓、日華・月華門有り、又三門有り、太極殿門と曰う。後に殿有り天興と曰い、次いで北の殿を武德と曰う。西に三重の門有り、曰く:應天、乾元、敷政。内に文明殿有り、旁に東上閣門・西上閣門有り、前に左・右延福門有り。後また殿有り垂拱と曰い、殿の北に通天門有り、柱廊の北に明福門有り、門内に天福殿有り、殿の北に寢殿有り太淸と曰い、第二の殿を思政と曰い、第三の殿を延春と曰う。東また廣壽殿有り、視朝の所なり。北の第二殿を明德と曰い、第三殿を天和と曰い、第四殿を崇徽と曰う。天福殿の西に金鸞殿有り、殿の南廊に対すに彰善門有り。殿の北の第二殿を壽昌と曰い、第三殿を玉華と曰い、第四殿を長壽と曰い、第五殿を甘露と曰い、第六殿を乾陽と曰い、第七殿を善興と曰う。西に射弓殿有り。千秋門の内に含光殿有り。拱宸門の内西の偏に保寧門有り、門内に講武殿有り、北また殿有り相對す。内園に長春殿・淑景亭・十字亭・九江池・砌臺・娑羅亭有り。宮城の東西に夾城有り、各三里餘。東に二門:南を賓曜と曰い、北を啓明と曰う。西に二門:南を金曜と曰い、北を乾通と曰う。宮室合わせて九千九百九十余區。夾城内及び内城の北は、皆左右の禁軍の處する所なり。
皇城の周囲は十八里二百五十八歩。南面に三門:中を端門と曰い、東西を左・右掖門と曰う。東に一門有り、宣仁と曰う。西に三門有り:南を麗景と曰い、金曜と相直し、中を開化と曰い、乾通と相直し;北を應福と曰う。内は皆諸司の處する所なり。
京城の周囲は五十二里九十六歩。隋の大業元年に築き、唐の長壽二年に增築す。
南に三門:中を定鼎と曰い、東を長夏と曰い、西を厚載と曰う。東に三門:中を羅門と曰い、南を建春と曰い、北を上東と曰う。西に一門有り、關門と曰う。北に二門:東を安喜と曰い、西を徽安と曰う。政和元年十一月、大内を重修し、六年九月に工を畢ぬ。朱勝非言ふ:「政和年間、諸陵を朝謁するを議し、有司に敕して西幸の備へを預め爲さしむ。蔡攸の妻の兄宋昪を以て京西都漕と爲し、西京大内を修治せしむ。屋を合するに數千間、盡く眞漆を以て飾りと爲す。工役甚だ大にして、費不貲なり。而して漆飾の法は、須らく骨灰を地と爲す。科買督迫し、灰價日増し、一斤數千に至る。是に於て四郊の塚墓、悉く發掘せられ、人骨を取て灰と爲す。」
南京
南京。大中祥符七年、應天府を建て南京と爲す。宮城の周囲は二里三百一十六歩。門を重熙・頒慶と曰う。殿を歸德と曰う。元豐六年、度僧牒を賜ひ外城門及び西橋等を修す。
京城の周囲は一十五里四十歩。東に二門:南を延和と曰い、北を昭仁と曰う。西に二門:南を順成と曰い、北を回鑾と曰う。南に一門有り、崇禮と曰う。北に一門有り、靜安と曰う。中に隔城有り、又門二有り:東を承慶と曰い、西を祥輝と曰う。其の東又に関城有り、南北各一門。
北京。慶暦二年、大名府を建て北京と爲す。宮城の周囲は三里一百九十八歩、即ち眞宗の駐蹕行宮なり。城南に三門:中を順豫と曰い、東を省風と曰い、西を展義と曰う。東に一門有り、東安と曰う。西に一門有り、西安と曰う。順豫門の内東西に各一門有り、左・右保成と曰う。次いで北に班瑞殿有り、殿前東西に門二有り:東を凝祥と曰い、西を麗澤と曰う。殿の東南に時巡殿門有り、次いで北に時巡殿有り、次に靖方殿有り、次に慶寧殿有り。時巡殿前東西に門二有り:東を景淸と曰い、西を景和と曰う。京城の周囲は四十八里二百六歩、門一十七。熙甯九年、正南の南河門を改正して景風と曰い、南磚を亨嘉と曰い、鼓角を阜昌と曰う。正北の北河門を安平と曰い、北磚を耀德と曰う。正東の冠氏門を華景と曰い、冠氏第二重を春祺と曰い、子城東を泰通と曰う。正西の魏縣門を寶成と曰い、魏縣第二重を利和と曰い、子城西を宣澤と曰う。東南の朝城門を安流と曰い、朝城第二重を巽齊と曰う。西南の觀音門を安正と曰い、觀音第二重を靜方と曰う。上水關を善利と曰い、下水關を永濟と曰う。内城に創置する北門を靖武と曰う。鵩(按:字誤か)元豐七年、善利・永濟關を廢す。
行在所。建炎三年閏八月、髙宗建康より臨安に如き、州治を以て行宮と爲す。宮室の制度皆簡省に從ひ、華飾を尚ばず。垂拱・大慶・文德・紫宸・祥曦・集英の六殿は、事に隨ひて名を易ふるも、實は一殿なり。重華・慈福・壽慈・壽康の四宮、重壽・寧福の二殿は、時に隨ひて額を異にするも、實は德壽一宮なり。延和・崇政・復古・選德の四殿は、本射殿なり。慈寧殿は、紹興九年、太后の歸期有るを以て建つ。
欽先孝思殿は、十五年に建つ、崇政殿の東に在り。
翠寒堂は、孝宗の作なり。
損齋は、紹興末年(紹興末)に建てられ、経史の書を貯蔵し、静坐(燕坐)する場所とした。
東宮は、麗正門の内にあり、孝宗、莊文太子、景獻太子、光宗が皆常にここに居住した。
講筵所と資善堂は、行宮門の内にあり、書院に因って作られた。
天章、龍圖、寶文、顯猷、徽猷、敷文、煥章、華文、寶謨の九閣は、実は天章一閣である。
京畿路
京畿路。皇祐五年(1053年)、京東路の曹州、京西路の陳州、許州、鄭州、滑州を輔郡とし、畿内に隷属させ、開封府と合わせて四十二県とし、京畿路転運使及び提点刑獄を設置してこれを総轄させた。至和二年(1055年)、京畿路転運使・提点刑獄を廃止した。曹、陳、許、鄭、滑の各州はそれぞれ本路に隷属させ、輔郡としては従前通りとした。崇寧四年(1105年)、京畿路に再び転運使及び提点刑獄を設置した。先に、開封府界を京畿路に改めたが、この年、さらに京畿の四面に四輔郡を設置した:潁昌府を南輔とし、鄭州を西輔とし、澶州を北輔とし、開封府襄邑県に拱州を建てて東輔とし、いずれも京畿に属させた。大観四年(1110年)、四輔を廃止し、許州、鄭州、澶州は京西路及び河北路に還属させ、拱州を廃して、再び襄邑県を開封府に隷属させた。政和四年(1114年)、襄邑県が再び拱州となり、後に潁昌府、鄭州、開德府とともに再び東、南、西、北の輔となった。宣和二年(1120年)、四輔を廃止し、潁昌府、鄭州、開德府はそれぞれ旧隷に戻し、拱州は京東西路に隷属させ、旧開封府界は従前通り京畿とした。
開封府
開封府。崇寧年間の戸数は二十六万一千百十七戸、口数は四十四万二千九百四十人。貢納品は方紋綾、方紋紗、藨席、麻黄、酸棗仁。県は十六:開封県(赤)。
祥符県(赤)。東魏の浚儀県。大中祥符三年(1010年)に改称。
尉氏県(畿)。
陳留県(畿)。
雍丘県(畿)。
封丘県(畿)。
中牟県(畿)。宣和三年(1121年)、紂王城を青陽城に改めた。
陽武県(畿)。
延津は、畿内。旧称は酸棗県、政和七年に改称。
長垣は、隋の匡城県。建隆元年、鶴丘と改め、後にまた改称。
東明は、畿内。本来は東明鎮、乾徳元年に設置。
扶溝は、畿内。
觌焉陵は、畿内。
考城は、畿内。崇寧四年、太康とともに拱州に隷属。大観四年、拱州を廃し、二県は再び当路に隷属。
太康は、畿内。宣和二年、再び拱州に隷属、六年、なお京畿に隷属。
咸平は、畿内。旧称は通許鎮、陳留に隷属、咸平五年に県を設置。
京東路
京東路。至道三年、応天・兗・徐・曹・青・鄆・密・斉・済・沂・登・萊・単・濮・濰・淄の各州、淮陽軍・広済軍・清平軍・宣化軍、萊蕪監・利国監をもって京東路とした。熙寧七年、東・西の両路に分割:青・淄・濰・萊・登・密・沂・徐州、淮陽軍を東路とし;鄆・兗・斉・濮・曹・済・単州、南京を西路とした。元豊元年、西路の斉州を割いて東路に属させ、東路の徐州を割いて西路に属させた。元祐元年、諸提点刑獄は路を分かたず、京東東路・京東西路はともに京東路とし、京西南路・京西北路はともに京西路とし、秦鳳等路・永興軍等路はともに陝府西路とし、河北西路・河北東路はともに河北路とし、淮南西路・淮南東路はともに淮南路としたが、その後なお両路に分割した。
京東東路
東路。府一、済南。州七:青、密、沂、登、萊、濰、淄。軍一、淮陽。県三十八。
青州
青州、望。北海郡、鎮海軍節度。建隆三年、北海県をもって軍を置く。淳化五年、軍名を改む。慶暦二年、初めて京東東路安撫使を置く。崇寧戸九万五千百五十八、口十六万二千八百三十七。貢は仙紋綾・梨・棗。県六:益都、望。
寿光、望。
臨朐県、緊(四等県)。
博興県、上(三等県)。
千乗県、上。
臨淄県、上。
密州
密州、上。本来は防禦州。建隆元年(960年)、再び防禦州となる。開宝五年(972年)、安化軍節度に昇格。後に防禦州に降格。六年(973年)、再び節度となる。崇寧年間の戸数十四万四千五百六十七、口数三十二万七千三百四十。貢納は絹、牛黄。県五:諸城県、望(二等県)。
安丘県、望。唐代は輔郡、後梁は安丘と改め、後晋は膠西県とした。開宝四年(971年)、現在の名前に復す。
莒県、望。
高密県、上。
膠西県。元祐三年(1088年)、板橋鎮を膠西県とし、臨海軍使を兼ねる。
済南府
済南府、上、済南郡、興徳軍節度。本来は斉州。先に京東路に属す。咸平四年(1001年)、臨済県を廃す。元豊元年(1078年)、京東東路に割属。政和六年(1116年)、府に昇格。崇寧年間の戸数十三万三千三百二十一、口数二十一万四千六十七。貢納は綿、絹、陽起石、防風。県五:歴城県、緊。
禹城県、緊。
章丘県、中(五等県)。景德三年(1006年)、章丘県に清平軍を置く。熙寧二年(1069年)に軍を廃し、県治に軍使を置く。
長清県、中。至道二年(996年)、城を刺楡に移す。
臨邑県。中県。建隆元年(960年)、黄河が公乗渡口で決壊し、城を破壊した。三年(962年)、治所を孫耿鎮に移した。政和元年(1111年)、望県に昇格した。
沂州
沂州、上州、琅琊郡、防禦州。崇寧年間の戸数八万二千八百九十三、人口十六万五千二百三十。貢物は仙霊脾、紫石英、茯苓、鍾乳石。県五つ。臨沂県、望県。
承県、望県。
沂水県、望県。
費県、望県。
新泰県。中県。
登州
登州、上州、東牟郡、防禦州。崇寧年間の戸数八万一千二百七十三、人口十七万三千四百八十四。貢物は金、牛黄、石器。県四つ。蓬萊県、望県。
文登県、中県。
黄県、望県。
牟平県。緊県。乳山、閻家口の二つの砦がある。
萊州
萊州、中州、東萊郡、防禦州。崇寧年間の戸数九万七千四百二十七、人口十九万八千九百八。貢物は牛黄、海藻、牡蠣、石器。県四つ。掖県、望県。
萊陽県、望県。
膠水県、望(上県に次ぐ等級)。
即墨県、中(中県)。
濰州。
濰州、上州、団練州。建隆三年(962年)、青州北海県を以て北海軍を建て、昌邑県を置きこれに隷属させた。乾徳三年(965年)、州に昇格し、さらに昌楽県を増設した。崇寧年間(1102-1106)の戸数四万四千六百七十七、口数十万九千五百四十九。貢物は綜糸(組み糸)・素絁(無文の絹)。県は三つ:北海県、望。
昌邑県、望。本来は隋の都昌県、後に廃止。建隆三年(962年)、再設置。
昌楽県。緊(緊県)。本来は唐の営丘県、後に廃止。乾徳年間(963-968)中、安仁県を再設置し、まもなく改称。
淄州。
淄州、上州、淄川郡、軍事州。崇寧年間の戸数六万一千百五十二、口数九万八千六百十。貢物は綾・防風(薬草)・長理石(石材)。県は四つ:淄川県、望。
長山県、中。
鄒平県、中下(中県の下)。景德元年(1004年)、済陽廃県の治所に移転。
高苑県。下(下県)。景德三年(1006年)、県を以て宣化軍を置く。熙寧三年(1070年)、軍を廃して県とし、州に隷属させ、県の治所に軍使を置いた。
淮陽軍。
淮陽軍、下州と同等。太平興国七年(982年)、徐州下邳県を以て軍を建て、併せて宿遷県を属させた。崇寧年間の戸数七万六千八百八十七、口数十五万四千百三十。貢物は絹。県は二つ:下邳県、望。
宿遷県、中。
京東西路。
西路。府四つ:應天、襲慶、興仁、東平。州五つ:徐、濟、單、濮、拱。軍一、廣濟。縣四十三。
應天府
應天府、河南郡、歸德軍節度。本来は唐宋州なり。至道年中、京東路に属す。景德三年、應天府に昇格す。大中祥符七年、南京と建つ。熙寧五年、西路に分属す。崇寧戸七万九千七百四十一、口十五万七千四百四。貢物は絹。縣六:寧陵、畿。楚丘とともに拱州に隷す。大観四年、再び来隷す。政和四年、また撥して拱州に隷す。宣和六年、再び来隷す。
宋城、赤。
穀熟、畿。
下邑、畿。
虞城、畿。
楚丘、畿。
襲慶府
襲慶府、魯郡、泰寧軍節度。本来は兗州なり。大中祥符元年、大都督に昇格す。政和八年、府に昇格す。崇寧戸七万一千七百七十七、口二十一万七千七百三十四。貢物は大花綾、墨、雲母、紫石英、防風、茯苓。縣七:瑕、上。大観四年、瑕丘縣を以て瑕縣とす。
奉符、上。本来は漢の乾封縣なり。開寶五年、治所を岱嶽鎭に移す。大中祥符元年改む。
泗水、上。
龔、上。大観四年、龔丘縣を以て龔縣とす。
仙源、中上。魏の曲阜縣なり。大中祥符五年改む。
萊蕪、中。
鄒縣。下縣。熙寧五年,省爲鎭,併入仙源縣。元豐七年復置。
監一處,萊蕪監。主管鐵冶。
徐州
徐州,大都督府,彭城郡,武寧軍節度。原本隸屬京東路,元豐元年,割屬京東西路。崇甯年間戸數六萬四千四百三十,人口一十五萬二千二百三十七。貢品爲雙絲綾、槹木、絹。轄縣五:彭城縣,望縣。
蕭縣,望縣。
滕縣,緊縣。
豐縣。緊縣。
監二處:寶豐監,元豐六年設置,鑄造銅錢,八年廢止。
利國監。主管鐵冶。
興仁府
興仁府,輔郡,濟陰郡,彰信軍節度。原本是曹州。建中靖國元年,改賜軍額爲興仁。崇甯元年,升曹州爲興仁府,仍舊節度。大觀二年,以拱州爲東輔,升爲都督府。政和元年,罷都督府,復爲輔郡。崇甯年間戸數三萬五千九百八十,人口六萬六千九百三十一。貢品爲絹、葶藶子。轄縣四:濟陰縣,望縣。宛亭縣,望縣。元祐元年,改冤句縣爲宛亭縣。
乘氏縣,緊縣。
南華縣。上縣。
東平府
東平府は、東平郡、天平軍節度の地である。本来は鄆州であった。慶暦二年、初めて京東西路安撫使を置いた。大観元年、大都督府に昇格した。政和四年、安撫使を応天府に移した。宣和元年、東平府と改称した。崇寧年間の戸数は十三万三百五戸、人口は三十九万六千六十三人。貢物は絹、阿膠である。県は六つ:須城県、望県。陽穀県、望県。景德三年、孟店に移転した。
中都県、緊県。
壽張県、上県。
東阿県、緊県。
平陰県。上県。
監一つ、東平監。宣和二年に再設置。政和三年に廃止。
濟州
濟州は、上州、濟陽郡、防禦州である。戸数五万七百十八戸、人口十五万九千百三十七人。貢物は阿膠。県は四つ:鉅野県、望県。
任城県、望県。
金鄕県、望県。
鄆城県、望県。
單州
單州は、上州、碭郡、建隆元年に團練州に昇格した。崇寧年間の戸数六万一千四百九戸、人口十一万六千九百六十九人。貢物は蛇床、防風。県は四つ:單父県、望県。
碭山県、望県。
成武県、緊県。
魚臺県。上県。
濮州。
濮州は上州、濮陽郡、団練州。崇寧年間の戸数三万一千七百四十七、口数五万二千六百八十一。貢納は絹。県四つを管轄する:鄄城県は望県。
雷澤県は緊県。
臨濮県は上県。
范県。上県。
拱州。
拱州は保慶軍節度。本来は開封府襄邑県。崇寧四年に州として建てられ、軍額を賜り、東輔となった。開封府の考城・太康、応天府の寧陵・楚丘・柘城を隷属させた。大観四年、拱州を廃し、再び襄邑県とし、開封府に帰属させた。政和四年、再び州とし、また輔郡となった。宣和二年、輔郡を廃し、依然として京東西路に隷属し、襄邑・太康・寧陵を属県とし、その他は旧隷に帰した。六年、また寧陵を応天府に、太康を開封府に帰属させ、柘城を割いて隷属させた。県二つ:襄邑県は畿県。
柘城県。畿県。
広済軍。
広済軍。乾徳元年、発運務を設置。開宝九年、転運司に改める。太平興国二年、軍として建てられた。四年、曹・澶・濮・済の四州の地を割き、再び県を設置してこれに隷属させた。熙寧四年に軍を廃し、定陶県を曹州に隷属させた。元祐元年、再び軍とする。県一つ、定陶県。上県。
開封府、京東路は東西両路に分かれ、兗・豫・青・徐の地域を得、虚・危・房・心・奎・婁の星宿の分野に当たり、西は大梁に抵り、南は淮・泗を極め、東北は海に至り、塩・鉄・絹・石の豊かさがある。その風俗は礼義を重んじ、耕織に勤しみ、浚郊は四方に通じる要地にあるため、都として建てられた。政教の出づる所、五方の民が雑居する。睢陽は漕運の舟路に当たり、定陶は東方輸送の要衝であったが、その後黄河が清水を截ち、やや艱難に陥った。兗・済の山沢は険しく遠く、盗賊が隠れ集まることもある。営丘は東道の雄であり、富み栄えると称され、物産は特に盛んである。登・萊・高密は海の北に背負い、楚の商人が集まり、民性は強情で争訟や闘いを好む。おおむね東人はみな朴訥で純直であり、甚だしい者は固陋に陥るが、経学に専念する士が多い。下邳の風俗は淮楚にやや類似している。
京西路。
京西路。旧来は南・北両路に分かれ、後に一路に併合された。熙寧五年、再び南・北両路に分かれる。
京西南路。
南路。府一、襄陽。州七:鄧、隨、金、房、均、郢、唐。軍一、光化。縣三十一。
襄陽府
襄陽府、望、襄陽郡、山南東道節度。元は襄州。宣和元年、府に昇格す。崇甯の戸八萬七千三百七、口十九萬二千六百五。麝香、白穀、漆器を貢す。縣六:襄陽、緊。
鄧城、望。
谷城、緊。
宜城、中下。
中盧、中下。隋の義淸縣。太平興國元年に改む。紹興五年、南漳に省併さる。
南漳。中下。
鄧州
鄧州、望、南陽郡、武勝軍節度。舊は上郡。政和二年、望郡に昇格す。建隆初、臨瀨縣を廃す。崇甯の戸十一萬四千一百二十七、口二十九萬七千五百五十。白菊花を貢す。縣五:穰、上。
南陽、中下。慶暦四年、方城縣を廃して鎭とし、これに併入す。元豐元年、縣に改め、唐州に隷す。
内鄕、中下。
順陽。中下。太平興國六年、順陽鎭を縣に昇格す。
淅川。中下。
隨州
随州、上州、漢東郡、崇信軍節度。乾徳五年、崇義軍節度に昇格す。太平興国元年、今の名に改む。崇寧戸三万八百四、口六万七千二十一。貢物は絹、綾、葛、覆盆子。県三:随県、上県。熙寧元年、光化県を廃し鎮となし、これに編入す。
唐城県、中下県。
棗陽県、中下県。
金州
金州、上州、安康郡、乾徳五年、昭化軍節度に改む。崇寧戸三万九千六百三十六、口六万五千六百七十四。貢物は麩金、麝香、枳殻実、杜仲、白膠香、黄檗。県五:西城県、下県。
洵陽県、中県。乾徳四年、淯陽県を廃し、これに編入す。
漢陰県、中県。
石泉県、下県。
平利県、下県。熙寧六年、廃して鎮とし西城県に編入す、元祐年間に復す。
房州
房州、下州、房陵郡、保康軍節度。開宝年中、上庸、永清の二県を廃す。雍熙三年、ともに軍とす。崇寧戸三万三千百五十一、口四万七千九百四十一。貢物は麝香、紵布、鐘乳石、筍。県二:房陵県、上県。
竹山県、下県。
均州
均州、上州、武當郡、武當軍節度。本来は防禦州。乾徳六年、上州防禦に移す。宣和元年、軍額を賜う。崇寧戸三万百七、口四万四千七百九十六。貢物は麝香。県二:武當県、上県。
鄖郷県、上県。
郢州
郢州は上州、富水郡、防禦州である。崇寧年間の戸数四万七千二百八十一、口数七万八千七百二十七。貢物は白紵。県は二つ:長寿県、上県。
京山県。下県。
唐州
唐州は上州、淮安郡、建隆元年に団練州に昇格した。開宝五年に平氏県を廃止。崇寧年間の戸数八万九千九百五十五、口数二十万二千百七十二。貢物は絹。県は五つ:泌陽県、中下県。
湖陽県、中下県。銀塲がある。
比陽県、中下県。
桐柏県、下県。開宝六年に治所を淮瀆の旧廟に移した。
方城県。下県。後魏の県。慶暦四年に廃止して鎮とし、鄧州南陽県に編入。元豊元年に再び県となり、本州に隷属。
光化軍
光化軍は下州と同等。乾徳二年、襄州陰城鎮を以て軍を建て、谷城県の三郷を分離し、乾徳県を設置してこれに隷属させた。熙寧五年に軍を廃止し、乾徳県を光化県と改めて襄州に隷属させた。元祐初年に再び軍となる。県一、乾徳県。望県。
京西北路
北路。府は四つ:河南府、潁昌府、淮寧府、順昌府。州は五つ:鄭州、滑州、孟州、蔡州、汝州。軍一、信陽軍。県六十三。
河南府
河南府、洛陽郡、梁・晋の旧制により西京とした。熙寧五年、京西北路に分属。崇寧年間の戸数十二万七千七百六十七、口数二十三万三千二百八十。貢物は蜜、蠟、瓷器。県十六:河南県、赤県。
洛陽県、赤県。熙寧五年、河南県に併合され、元祐二年に復旧。永安県、赤県。陵寢を奉る。景德四年、鎮を昇格して県とする。
偃師県、畿県。慶暦二年に廃止、四年に復旧、熙寧五年、緱氏県に併合され、八年、再設置し、緱氏県を廃して鎮とし、これに隷属させる。
潁陽県、畿県。慶暦二年、廃止されて鎮となり、四年、復旧。熙寧二年、登封県に併合され、元祐二年、再設置。
鞏県、畿県。
密県、畿県。崇寧四年、鄭州に割譲して隷属させ、宣和二年、府に復帰して隷属。
新安県、畿県。
福昌県、畿県。熙寧五年、壽安県に併合され、元祐元年、再び県となる。
伊陽県、畿県。熙寧二年、欒川冶鎮を割いて虢州盧氏県に入れる。五年、伊闕県を廃止して鎮とし河南県に入れ、六年、伊陽県に改めて隷属させる。
澠池県、畿県。景祐四年、鐵門鎮を延禧と改称。
永寧県、畿県。
長水県、畿県。
壽安県、畿県。慶暦三年、廃止されて鎮となり、四年、復旧。
河淸県、畿県。開寶元年、治所を白波鎮に移す。熙寧八年閏四月、鉄監を設置。
登封県、畿県。
監一、阜財監。熙寧七年設置、銅銭を鋳造。
潁昌府
潁昌府は次府、許昌郡、忠武軍節度の治所である。本来は許州であった。元豊三年に府に昇格した。崇寧四年、南輔とされ、京畿に隷属した。大観四年、輔郡の制を廃止した。政和四年、再び輔郡となり、京畿に隷属した。宣和二年、再び輔郡の制を廃止し、従前通り京西北路に隷属した。崇寧時の戸数は六万六千四十一戸、人口は十六万百九十三人である。貢納品は絹と藨席である。県は七つを管轄する。長社県は次赤である。熙寧四年、許田県を廃して鎮とし、長社県に編入した。
郾城県は次畿である。
陽翟県は次畿である。
長葛県は次畿である。
臨潁県は次畿である。
舞陽県は次畿である。
郟県は中県である。元来は汝州に隷属していたが、崇寧四年に当府に転属した。
鄭州
鄭州は輔、滎陽郡、奉寧軍節度の治所である。熙寧五年、州を廃止し、管城県と新鄭県を開封府に隷属させた。滎陽県と滎沢県を廃して鎮とし管城県に編入し、原武県を廃して鎮とし陽武県に編入した。元豊八年、州を復活させた。元祐元年、旧来の節度使を復し、滎陽・滎沢・原武を再び県とし、滑州と共に京西路に隷属させた。崇寧四年、西輔として建てられた。大観四年、輔郡の制を廃止した。政和四年、再び輔郡とした。宣和二年、再び廃止した。崇寧時の戸数は三万九百七十六戸、人口は四万一千八百四十八人である。貢納品は絹と麻黄である。県は五つを管轄する。管城県は望県である。
滎沢県は中県である。
原武県は上県である。
新鄭県は上県である。
滎陽県は緊県である。
滑州
滑州は輔、霊河郡。太平興国初年に武成軍節度に改める。熙寧五年、州を廃し、県はともに開封府に隷属させる。元豊四年、旧に復し、県は再び来隷する。元祐元年、旧節度に還す。崇寧の戸二万六千五百二十二、口八万一千九百八十八。貢物は絹。県三:白馬、中。熙寧三年、霊河県を廃してこれに隷属させる。
韋城、望。
胙城。緊。
孟州
孟州、望。河陽三城節度。政和二年、済源郡に改める。崇寧の戸三万三千四百八十一、口七万一百六十九。貢物は梁米。県六:河陽、望。
済源、望。
温、望。
汜水、上。熙寧五年、河陰に省併する。元豊二年復置する。大中祥符四年、武牢関を行慶と改称する。
河陰、中。
王屋。中。熙寧五年、河南より来隷する。
蔡州
蔡州、緊、汝南郡、淮康軍節度。崇寧の戸九万八千五百二、口十八万五千十三。貢物は綾。県十:汝陽、上。
上蔡、上。
新蔡、中。
褒信、中。
遂平県、中県。
新息県、中県。
確山県、中県。隋の朗山県。大中祥符五年に改称。
真陽県、中県。
西平県、中県。
平輿県、中県。
淮寧府
淮寧府、輔、淮陽郡、鎮安軍節度。本来は陳州。政和三年、輔を上に改む。宣和元年、府に昇格。崇寧戸三万二千九十四、口十五万九千六百一十七。貢物は槹・絹。県五:宛丘県、緊県。
項城県、上県。
商水県、中県。
西華県、中県。南頓県、中県。熙寧六年、廃して鎮とし、商水・項城の二県に併入。元祐元年に復活。
順昌府
順昌府、上府、汝陰郡、旧防禦州、後に団練州。開宝六年、再び防禦州となる。元豊二年、順昌軍節度に昇格。旧潁州、政和六年、府に改称。崇寧戸七万八千百七十四、口十六万六百二十八。貢物は槹・絁・綿。県四:汝陰県、望県。開宝六年、州城の東南十里に治所を移す。
泰和県、望県。
潁上県、緊県。
沈丘県。緊(上県に次ぐ格)。
汝州
汝州は、輔(四輔の一)に属し、臨汝郡の称を帯び、陸海軍節度使が置かれた。本来は防禦州であった。政和四年(1114年)、軍号を賜った。崇寧年間(1102-1106年)の戸数は四万一千五百八十七戸、人口は十四万一千四百九十五人。貢納品は絁(粗絹)と絹である。五県を管轄する:梁県は中県。
襄城県は緊県。
葉県は上県。
魯山県は中県。
寶豊県は中県。旧名は龍興県。熙寧五年(1072年)、廃止されて鎮とされ、魯山県に編入された。元祐元年(1086年)に復活。宣和二年(1120年)、寶豊県と改称された。
信陽軍
信陽軍は、下州と同等の扱いである。開寶九年(976年)、義陽軍に降格し、鐘山県を廃止した。太平興国元年(976年)、信陽軍と改称された。崇寧年間の戸数は九千九百五十四戸、人口は二万五十人。貢納品は紵布(苧麻布)である。二県を管轄する:信陽県は中下県。
羅山県は中下県。開寶九年に廃止されたが、雍熙二年(985年)に再設置された。
論(史臣の論評)
京西南路・京北路は、本来は京西路であり、概ね『禹貢』に記される冀州・豫州・荊州・兗州・梁州の五州の領域に当たり、その中でも豫州の地が多くを占める。天文の分野では井宿・柳宿・星宿・張宿・角宿・亢宿・氐宿の分野に相当する。東は汝水・潁水に至り、西は陝服(陝州一帯)に接し、南は鄢・郢の地を経略し、北は黄河の渡し場に達する。絹・麻・漆・綿の産地である。そして洛邑は天地の中心に位置し、民性は安らかでのんびりとしており、多くの衣冠旧族(名門の子孫)がいる。しかし土地は狭く痩せており、生計を立てるのに逼迫している。盟津・滎陽・滑臺・宛丘・汝陰・潁川・臨汝は二京(開封と洛陽)の間に位置し、その風俗はかなり似通っている。唐州・鄧州・汝州・蔡州には概ね多くの未墾地がある。これは唐末の動乱以来、土着の民が少ないためである。太宗は晋・雲・朔の民を京・洛・鄭・汝の地に移住させ、墾田はかなり広がり、多くの民が富を築いたが、それは倹約・吝嗇によるものであろうか。襄陽は汴京の南の巨鎮であり、淮安・随・棗陽・西城・武当・上庸・東梁・信陽は、その習俗は荊楚の地に近い。