宋史

本紀第三 太祖三

太祖三

開宝五年

五年春正月壬辰の朔、雨雪、殿に御せず。鉄を以て浮屠及び佛像を鑄ることを禁ず。庚子、前盧氏縣尉鄢陵の許永、年七十有五、自ら言うに父瓊は年九十九、兩兄皆八十餘、一官を乞いて以て養いを便にすと。因って瓊を召して厚く之に賜い、永をして鄢陵令を授けしむ。壬寅、州縣の小吏及び直力人を省く。乙巳、襄州の歳貢魚を罷む。

二月丙子、詔して沿河十七州各に河隄判官一員を置かしむ。庚辰、鳳州七房銀冶を以て開寶監と為す。庚寅、兵部侍郎劉熙古を以て参知政事と為す。

閏月壬辰、禮部進士安守亮等諸科合わせて三十八人を試し、講武殿に召して対せしめ、始めて榜を放つ。庚戌、密州を升めて安化軍節度と為す。

三月庚午、潁州龍騎指揮使仇興及び兵士に錢を賜う。辛未、占城國王波美稅、使を遣わして来たり方物を献ず。壬申、教船池に幸して戦を習わしむ。乙酉、殿中侍御史張穆、贓に坐して市に棄つ。

夏四月庚寅の朔、三佛齊國主釋利烏耶、使を遣わして来たり方物を献ず。丙午、使を遣わして水災田を檢視せしむ。丙寅、使を遣わして諸州に虎を捕らしむ。

五月庚申、恩赦侯劉鋹に錢一百五十萬を賜う。乙丑、近臣に命じて晴を祈らしむ。併せて廣南州十三、縣三十九。丙寅、嶺南の採珠媚川都卒を罷めて静江軍と為す。辛未、河、濮陽に決す。命じて潁州團練使曹翰をして往きて之を塞がしむ。甲戌、霖雨を以て、後宮五十餘人を出だし、賜予を以て之を遣わす。丁亥、河南・北淫雨、澶・滑・濟・鄆・曹・濮の六州大水。

六月己丑、河、陽武に決し、汴、穀熟に決す。丁酉、詔す:淫雨河決、沿河の民田に水害を為す者有らば、有司具に聞きて租を除けと。戊申、陽武の隄を修す。

秋七月己未、右拾遺張恂、贓に坐して市に棄つ。癸未、邕・容等州の獠人乱を作す。

八月庚寅、高麗國王王昭、使を遣わして方物を献ず。己亥、廣州行營都監朱憲、大いに獠賊を容州に破る。癸卯、宿州を升めて保靜軍節度と為し、密州を罷めて仍び防禦と為す。

九月丁巳の朔、日食有り。癸酉、李崇矩、鎮國軍節度使を以て罷む。

冬十月庚子、河陽節度使張仁超の第に幸して疾を視る。甲辰、道流を試み、才なき者は勒して俗に歸らしむ。

十一月己未、李継明・薬継清が英州において獠賊を大破す。癸亥、僧道の天文地理を習うことを禁ず。己巳、挙人の寄応を禁ず。庚辰、参知政事薛居正・呂余慶に命じ、淮・湖・嶺・しょくの転運使を兼ねしむ。

十二月乙酉朔、雪を祈る。己亥、近郊に畋猟す。開封尹光義、疾を暴発す。すなわちその第に赴き之を視る。甲寅、内班董延諤、監務として芻粟を盗みしに坐し、杖殺す。詔して、令録に合入する者は引見の後方に注すべしとす。乙卯、大雨雪。

是歳、大いに饑う。

開宝六年

六年春正月丙辰朔、殿に御せず。蜀水陸転運計度使を置く。癸酉、魏県の河を修す。

二月丙戌朔、棣州兵馬監押・殿直傅延翰、謀反を図り、誅に伏す。丙申、曹州饑う。太倉の米二万石を漕し之を振恤す。己亥、呉越国、銀装花舫・金香師子を進む。

三月乙卯朔、周鄭王、房州にて殂す。上、素服を着し哀を発し、朝を十日間輟め、諡して恭帝と曰う。慶陵の側に還葬せしめ、陵を順陵と曰う。己未、密州を復して安化軍節度となす。庚申、講武殿において進士を覆試し、宋準及び下第の徐士廉ら諸科百二十七人に及第を賜う。乙亥、宋準らに宴銭二十万を賜う。大食国、使いを遣わし来たりて献ず。翰林学士・知貢挙李昉、試人を失当に坐し、責めて太常少卿を授く。王事に死せる朝臣の子陸坦らを試み、進士出身を賜う。丙子、相国寺に幸し新修の塔を観る。

夏四月丁亥、開封尹光義・天平軍節度使石守信らを召し、苑中において花を賞で射を習わしむ。辛丑、盧多遜を江南国信使として遣わす。甲辰、占城国王悉利陀盤印茶、使いを遣わし来たりて方物を献ず。丙午、黎州保塞蛮、来たりて帰附す。戊申、詔して五代史を修せしむ。

五月庚申、劉熙古、戸部尚書を以て致仕す。詔す:中書の吏は権を擅にし姦贓多し、兼ねて流内の州県官を用いよと。己巳、交州丁璉、使いを遣わし方物を貢ぐ。玉津園に幸し麦刈りを観る。辛巳、右拾遺馬適を殺す。

六月辛卯、在京の百司の吏を閲し、農と為す者四百人を黜く。癸巳、占城国、使いを遣わし方物を献ず。隰州巡検使李謙溥、北漢の七砦を抜く。癸卯、雷有鄰、宰相趙普が堂吏胡賛らを党とし不法なりと告ぐ。賛及び李可度、並びに杖し、籍没す。庚戌、詔して参知政事と宰相趙普に分かって印を知り班を押し奏事せしむ。

秋七月壬子朔、詔して諸州府に司寇参軍を置き、進士・明経の者を以て之となす。丙辰、広南の無名率銭を減ず。

八月乙酉、成都府の偽蜀嫁装税を罷む。辛卯、布衣王沢方に同学究出身を賜う。丁酉、泗州推官侯済、判を試みるに仮手に坐し、杖し、除名す。甲辰、趙普を罷めて河陽三城節度使・同平章事と為す。辛酉、都亭駅に幸す。

九月丁卯、余慶、尚書左丞を以て罷む。己巳、光義を封じて晋王と為し、侍中を兼ね、徳昭を同中書門下平章事と為し、薛居正を門下侍郎・同平章政事と為し、戸部侍郎・枢密副使沈義倫を中書侍郎・同平章事と為し、石守信に侍中を兼ねしめ、盧多遜を中書舎人・参知政事と為す。壬申、詔して晋王光義の班を宰相の上とす。

冬十月甲申、周恭帝を葬る。朝を視ず。丁亥、玉津園に幸し稼を観る。戊子、流星、文昌・北斗より出づ。甲辰、諸官吏の姦贓を特赦す。

十一月癸丑、詔して常参官にして進士及第の者各一人の文学を挙げしむ。

十二月壬午、近臣をして雪を祈らしむ。丙午、前中書舎人・参知政事の多遜(ドゥオスン)を起復して視事せしむ。開宝通礼を行ふ。僧侶の度牒どちょうを制限する法を定め、諸州の僧籍が百人に達すれば毎年一人の得度を許す。

開宝七年

七年春正月庚戌、殿に御せず。庚申、占城国(チャンパ)王波美税(ポー・ミー・トエ)が使者を遣わして方物を献ず。斉州に野蚕、繭を成す。癸亥、左拾遺の秦亶(シン・ダン)・太子中允の呂鵠(リョ・コク)ともに贓罪に坐し、死をゆるされ、杖刑に処せられて除名せらる。

二月庚戌朔、日食あり。丙戌、日に二つの黒子あり。癸卯、近臣をして雨を祈らしむ。詔す:詩・書・易の三経学究は、三経・三伝の資格に準じて官に叙せらるべし。乙巳、太子中舎の胡徳沖(コ・トクチュウ)、官銭を隠匿した罪に坐し、棄市に処せらる。

三月乙丑、三仏斉国(シュリーヴィジャヤ)王が使者を遣わして方物を献ず。

夏四月丙午、使者を遣わして嶺南の民田を検視せしむ。

五月戊申朔、殿中侍御史の李瑩(リ・エイ)、南唐より賄賂を受けた罪に坐し、右賛善大夫に責授せらる。甲寅、布衣の斉得一(セイ・トクイツ)を以て章丘主簿となす。乙丑、詔す:二重の価格を以て売買する者は枉法の罪に論ずべし。丙寅、講武池に幸して水戦の習練を観る。丙子、また講武池に幸し、遂に玉津園に幸す。

六月丙申、河中府に饑饉あり、粟三万石を発してこれをすくふ。己亥、淮水溢れて泗州城に入る。壬寅、安陽河溢れ、皆民居を壊す。

秋七月壬子、講武池に幸して水戦の習練を観、遂に玉津園に幸す。丙辰、南丹州の溪洞の酋帥莫洪燕(モ・ホンエン)内附す。詔して成都府の塩銭を減ず。庚午、太子中允の李仁友(リ・ジンユウ)、不法に坐し、棄市に処せらる。

八月戊寅、呉越国王が使者を遣わして来朝貢す。丁亥、呉越に江南を伐つことを諭す。戊子、陳州、芝草を貢ぐ、一本四十九茎。己丑、講武池に幸し、水戦を習ふ軍士に銭を賜ふ。戊戌、殿中丞の趙象(チョウ・ショウ)、擅自に税を課した罪に坐し、除名せらる。甲辰、講武池に幸し、水戦の習練を観、遂に玉津園に幸す。

九月癸亥、宣徽南院使・義成軍節度使の曹彬(ソウ・ヒン)を西南路行営馬歩軍戦櫂都部署と為し、山南東道節度使の潘美(ハン・ビ)を都監と為し、潁州団練使の曹翰(ソウ・カン)を先鋒都指揮使と為し、兵十万を将いて荊南より出で、以て江南を伐たしむ。将に行かんとす、曹彬・潘美を召し、これを戒めて曰く「城陥の日、慎んで殺戮することなかれ。困鬬こんとうせば、則ち李煜(リ・イク)の一門、害を加うべからず」。丁卯、知制誥の李穆(リ・ボク)を江南国信使と為す。

冬十月甲申、迎春苑に幸し、汴隄に登り戦艦の東下するを観る。丙戌、また迎春苑に幸し、汴隄に登り諸軍の戦を習ふを観、遂に東水門に幸し、戦櫂を発して東下せしむ。江南より絹数万、御衣・金帯・器用数百事を進む。壬辰、曹彬等、舟師・歩騎を将いて江陵を発し、水陸並びに進む。丁酉、呉越王銭俶(セン・シュク)を昇州東南行営招撫制置使と為す。己亥、曹彬、峡口を収め下し、指揮使の王仁震・王宴・銭興を獲る。

閏月己酉、池州を克つ。丁巳、銅陵に於いて江南軍を破る。庚申、宰相・参知政事に命じて日暦を更に知らしむ。壬戌、彬等、蕪湖・当塗の両県を抜き、采石に軍を駐む。癸亥、詔して湖南の新製茶を減ず。甲子、薛居正(セツ・キョセイ)等、新編五代史を上る。器幣を賜ふこと差等あり。丁卯、彬、采石に於いて江南軍を破り、兵馬部署の楊収(ヨウ・シュウ)・都監の孫震(ソン・シン)等千人をとりこにし、浮梁を為して以て渡る。

十一月癸未、李従善(リ・ジュウゼン)の部下及び江南水軍一千三百九十人にげい刑を施し、帰化軍と為す。甲申、詔して剣南・山南等道の属県主簿を省く。丁亥、秦・晋旱魃かんばつあり、蒲・陝・晋・絳・同・解の六州の逋賦ふふを免じ、関西諸州はその半を免ず。己丑、漢陽軍知軍の李恕(リ・ジョ)、鄂に於いて江南水軍を破る。甲午、曹彬、新林砦に於いて江南軍を破る。辛丑、雄州知州の孫全興(ソン・ゼンコウ)をして涿州の修好の書に答へしむ。壬寅、大食国(アラビア)が使者を遣わして方物を献ず。

十二月己酉、彬、白鷺洲に於いて江南軍を破る。辛亥、近臣をして雪を祈らしむ。甲子、呉越王、兵を帥いて常州を囲み、その人馬を獲、ついで利城砦を抜く。丙寅、彬、新林港に於いて江南軍を破る。己巳、左拾遺の劉祺(リュウ・キ)、賄賂を受けた罪に坐し、面に黥し、杖して沙門島に配流す。庚午、北漢、晋州を寇し、守臣の武守琦(ブ・シュキ)、洪洞に於いてこれを破る。壬申、呉越王、常州北界に於いて江南軍を破る。

開寶八年

八年春正月甲戌の朔、出師のため、殿に御せず。丙子、池州知事樊若水、江南軍を州界にて破る。田欽祚、江南軍を溧水にて破り、其の都統使李雄を斬る。乙酉、長春殿に御し、宰相に謂ひて曰く、「朕、臣たる者の多く終わりを全うせざるを見る。豈に忠孝薄くして厚福を享くる無きや」と。宰相居正等頓首して謝す。庚寅、曹彬、昇州城南の水砦を抜く。

二月癸丑、彬、江南軍を白鷺洲にて破る。乙卯、昇州の關城を抜く。丁巳、太子中允徐昭文、人を抑へて物を售しむるに坐し、籍を除かる。甲子、揚州知事侯陟、江南軍を宣化鎮にて破る。戊辰、進士を講武殿にて覆試し、王嗣宗等三十一人、諸科紀自成等三十四人に及第を賜ふ。

三月乙酉、王嗣宗等に宴錢二十萬を賜ふ。己丑、雨を祈ることを命ず。庚寅、彬、江南軍を江中にて破る。己亥、契丹、使克沙骨慎思を遣はし書を以て和を講ぜんと來る。潞州知事藥繼能、北漢の鷹澗堡を抜く。辛丑、契丹使を講武殿に召して習射を觀せしむ。壬寅、内侍王繼恩を遣はし兵を領して昇州に赴かしむ。大食國、使を遣はし來朝獻す。

夏四月乙巳、東水磑に幸す。癸丑、都亭驛に幸し新戰船を閱す。丁巳、吳越王、常州を抜く。壬戌、彬等、江南軍を秦淮の北にて破る。戊辰、玉津園に幸し稻を植ふるを觀、遂に講武池に幸し水戰を習ふを觀る。庚午、詔して嶺南の盜贓十貫以上に滿つる者は死すとす。西水磑に幸す。

五月壬申の朔、吳越國王錢俶を以て太師・尚書令しょうしょれいを守らしめ、食邑を益す。桂陽監知事張侃、前官の隱沒せる羨銀を發し、兵部郎中董樞・右讚善大夫孔璘を追ひて罪し、之を殺し、太子洗馬趙瑜は杖を加へ海島に配す。侃は賞を受け、屯田員外郎に遷る。辛巳、晴を祈る。甲申、江南の寧遠軍及び沿江の砦並びに降る。乙酉、詔して武岡・長沙等十縣の民にして賊に鹵掠せられたる者は其の逋租を蠲し、仍ほ復を一年給す。甲午、安南都護丁璉、使を遣はし來貢す。辛丑、河、濮州に決す。

六月壬寅、曹彬等、使を遣はし言ふ、江南軍を其の城下にて破ると。丁未、宋州觀察判官崔絢・錄事參軍馬德休並びに贓に坐し市に棄つ。辛亥、河、澶州頓丘に決す。甲子、彗、柳に出で、長さ四丈、辰の方東方に見ゆ。

秋七月辛未の朔、日食有り。庚辰、閣門使郝崇信・太常丞呂端を遣はし契丹に使はす。癸未、西天東印土王子穰結說囉來朝獻す。甲申、詔して吳越王に班師せしむ。己亥、山後兩林鬼主・懷化將軍勿尼等來朝獻す。

八月乙卯、東水磑に幸し魚を觀、遂に北園に幸す。辛酉、詔して今年の貢舉を權停す。壬戌、契丹、左衛大將軍耶律德等を遣はし御衣・玉帶・名馬を致す。西南蕃順化王子若廢等來り名馬を獻ず。癸亥、丁德裕、潤州兵を城下にて破る。

九月壬申、近郊に狩し、兔を逐ふに、馬蹶けて地に墜ち、因り佩刀を引きて馬を刺し殺す。既にして之を悔ひて曰く、「吾、天下の主たり、輕く事として畋獵し、又何ぞ馬を罪せんや」と。是より遂に復た獵せず。戊寅、潤州降る。

冬十月己亥の朔、江南主、徐鉉・周惟簡を遣はし來り師を緩めんことを乞ふ。辛亥、詔して郡國の令佐に、民に孝悌力田・奇材異行ある者或は文武に用ふべき者あれば察して闕に遣はせしむ。丁巳、西京の宮闕を修す。江南主、銀五萬兩・絹五萬匹を貢し、師を緩めんことを乞ふ。戊午、潤州鎮海軍節度を改めて鎮江軍節度とす。晉王の北園に幸す。己未、曹彬、都虞候劉遇を遣はし江南軍を皖口にて破り、其の將朱令贇・王暉を擒ふ。

十一月辛未、江南主、徐鉉等を遣はし再び表を奉り師を緩めんことを乞ふ、報へず。甲申、曹彬、夜に江南軍を城下にて破る。丙戌、校書郎宋準・殿直邢文慶を以て賀契丹正旦使に充つ。乙未、曹彬、昇州を克ち、其の國主煜を俘へ、江南平ぐ。凡そ州十九・軍三・縣一百八十・戶六十五萬五千六十を得。新龍興寺を臨視す。

十二月庚子、惠民河に幸し堰を築くを觀る。辛丑、江南を赦し、復を一年とす。兵戈經る所は二歳とす。戊申、三佛齊、使を遣はし來り方物を獻ず。己酉、龍興寺に幸す。辛亥、開封府諸縣の今年の秋租を十の三を免ず。己未、恩赦侯劉鋹を以て彭城郡公とす。甲子、契丹、使耶律烏正を遣はし來り正旦を賀す。丁卯、吳越國王、長春節に朝覲せんことを乞ふ、之に從ふ。

開寶九年

九年春正月辛未、明德門に御し、樓下にて李煜を見る、獻俘の儀を用ひず。壬申、大赦し、死罪一等を減ず。乙亥、李煜を封じて違命侯とし、子弟臣僚の班爵差有り。己卯、江南昭武軍節度使留後盧絳、州縣を焚掠す。庚辰、詔して西京に郊す。癸巳、晉王、文武を率ひ尊號を上る、允さず。

二月癸卯、三たび上表すも、許さず。庚戌、曹彬を以て枢密使と為す。辛亥、徳昭に命じて呉越国王銭俶を宋州にて迎え労う。契丹、使者耶律延寧を遣わし、御衣・玉帯・名馬・散馬・白鶻を奉りて長春節を賀す。乙卯、呉越王、内客省使丁徳裕の貪婪なるを奏し、房州刺史に貶す。丁巳、礼賢宅を観る。戊午、盧多遜を以て吏部侍郎と為し、仍参知政事とす。己未、呉越国王銭俶、子惟濬らを偕にして崇徳殿に朝し、銀絹を万計にて進む。俶に衣帯鞍馬を賜い、遂に礼賢宅を以て之に居らしめ、長安ちょうあん殿にて宴す。壬戌、銭俶、賀平昇州の銀絹・乳香・呉綾・紬綿・銭茶・犀象・香薬を進む、皆億万計なり。甲子、晋王・呉越国王並びに其の子らを召し苑中にて射せしめ、俶、御衣・寿星・通犀帯及び金器を進む。丁卯、礼賢宅に幸し、俶に金器及び銀絨を倍万にて賜う。

三月己巳、俶、南郊を助ける銀絹・乳香を万計にて進む。庚午、俶に剣履上殿、詔書不名を賜う。癸酉、皇子徳芳を以て検校太保・貴州防禦使と為し、中書侍郎・同平章事沈義倫を大内都部署と為し、右衛大将軍王仁贍に留司・三司を権判せしめ開封府事を兼ね知らしむ。丙子、西京に幸す。己卯、鞏県に次ぎ、安陵を拝し、号慟隕絶すること久し。庚辰、河南府の民に今年の田租の半を賜い、奉陵戸は一年を復す。辛巳、洛陽らくように至る。庚寅、大雨、近臣を分ち命じて諸祠廟に詣り晴を祈らしむ。辛卯、広化寺に幸し、無畏三蔵塔を開く。

夏四月己亥、雨霽ゆ。庚子、圜丘に事有り、廻って五鳳楼に御し大赦す、十悪・故殺者は原まず、貶降責免者は量移して叙用し、諸流配及び逋欠は悉く放ち、諸官未だ恩を贈らざる者は悉く賞を覃ぶ。壬寅、大宴し、親王・近臣・列校に襲衣・金帯・鞍馬・器幣を賜うこと差有り。丙午、駕還る。辛亥、上洛より至る。丁巳、曹翰、江州を抜き、之を屠り、牙校宋徳明・胡則らを擒う。詔して晋王の食邑を益し、光美・徳昭並びに開府儀同三司を加え、徳芳の食邑を益し、薛居正・沈義倫に光禄大夫を加え、枢密使曹彬・宣徽北院使潘美に特進を加え、呉越国王銭俶の食邑を益し、内外文武臣僚咸に階封を進む。己未、令を著して旬仮を休沐と為す。丙寅、大食国王珂黎拂、使者蒲希密を遣わし来たり方物を献ず。

五月己巳、東水磑に幸し、遂に飛龍院に幸し、金水河にて漁を観る。甲戌、司勲員外郎和峴を遣わし江南路に往き採訪せしむ。盧絳を殺す。庚辰、講武池に幸し、遂に玉津園に幸し稼を観る。宋州大風、城楼・官民舍を壊すこと幾五千間。甲申、閣門副使田守奇らを以て賀契丹生辰使を充てしむ。晋州より北漢の嵐・石・憲三州巡検使王洪武ら来たり献ず。

六月庚子、歩みて晋王邸に至り、機輪を作らしめ、金水河を輓きて邸中に注ぎ池と為す。癸卯、呉越王、銀・絹・綿を倍万計にて進む。乙卯、熒惑南斗に入る。

秋七月戊辰、晋王第に幸し新池を観る。丙子、京兆尹光美第に幸し疾を視る。戊寅、再び光美第に幸す。泉州節度使陳洪進、朝覲を乞う。丙戌、近臣に命じて晴を祈らしむ。丁亥、先代帝王及び五嶽四瀆の祠廟を修するを命ず。庚寅、光美第に幸す。

八月乙未朔、呉越国王、射火箭軍士を進む。己亥、新龍興寺に幸す。辛丑、太子中允郭思齊、贓に坐し市に棄つ。乙巳、等覚院に幸し、遂に東染院に幸し、工人に銭を賜う。又た控鶴営に幸し習射を観、帛を賜うこと差有り。又た開宝寺に幸し蔵経を観る。丁未、侍衛馬軍都指揮使党進・宣徽北院使潘美を遣わし北漢を伐たしむ。丙辰、使者を遣わし兵を率い五道に分かちて太原に入らしむ。

九月甲子、綾錦院に幸す。庚午、権高麗国事王伷、使者を遣わし来朝し献ず。党進、太原城北にて北漢軍を敗る。辛巳、忻・代行営都監郭進に命じ山後諸州の民を遷らしむ。庚寅、城南池亭に幸し、遂に礼賢宅に幸し、又た晋王第に幸す。

冬十月甲午朔旦、文武百官に衣を賜うこと差有り。丁酉、兵馬監押馬継恩、兵を率い河東界に入り、四十余砦を焚蕩す。己亥、西教場に幸す。庚子、鎮州巡検郭進、寿陽県を焚き、九千人を俘う。辛丑、晋・隰巡検穆彦璋、河東に入り、二千余人を俘う。党進、太原城北にて北漢軍を敗る。己酉、呉越王、馴象を献ず。癸丑夕、帝万歳殿に崩ず、年五十、殿西階に殯す、諡して英武聖文神徳皇帝と曰い、廟号太祖。太平興国二年四月乙卯、永昌陵に葬る。大中祥符元年、尊諡を加えて啓運立極英武睿文神徳聖功至明大孝皇帝と曰う。

帝は性孝友節倹、質任自然、矯飾を事とせず。受禅の初め、頗る微行を好み、或いは其の軽出を諫む。曰く「帝王の興るは、自ら天命有り、周世宗、諸将に方面大耳の者を見て皆之を殺す、我終日側に侍りて、害する能わざるなり」と。既にして微行愈々数し、諫有れば、輒ち之に語して曰く「天命有る者は任せて自ら之を為さしむ、汝を禁ぜざるなり」と。一日、朝を罷め、便殿に坐し、楽しまざること久し。左右其の故を請う。曰く「爾、天子と為るは容易ならんと謂うや。早作に乗快し一事を誤りて決せし故に、楽しまざるのみ」と。汴京新宮成り、正殿に御し坐し、諸門を洞開せしめ、左右に謂いて曰く「此れ我心の如し、少しく邪曲有れば、人皆之を見る」と。

呉越の銭俶来朝す、宰相以下咸に俶を留めて其の地を取らんことを請うも、帝聴かず、俶を帰国せしむ。及辞するに、群臣の俶を留むる章疏数十軸を取り、封識して俶に遺し、途中密かに観るを戒む。俶途に届きて啓き視るに、皆己を留めて遣わさざるの章なり。俶是より感懼し、江南平らぎ、遂に土を納るるを乞う。南漢の劉鋹其の国に在り、酖を置くを好みて以て臣下を毒す。既に朝に帰し、従って講武池に幸す。帝卮酒を酌みて鋹に賜う。鋹毒有るを疑い、杯を捧げて泣きて曰く「臣が罪は赦さるべからざるに在り、陛下既に臣を以て不死に待つ、願わくは大梁の布衣と為り、太平の盛を観ん、未だ敢て此の酒を飲まず」と。帝笑いて之に謂いて曰く「朕人腹中に赤心を推す、寧くんぞ爾ならんや」と。即ち鋹の酒を取りて自ら飲み、別に酌みて以て鋹に賜う。

王彦升、韓通を擅に殺す、佐命に預かるも、終身節鉞を与えず。王全斌、蜀に入り、貪恣に降を殺す、大功有るも、即ち貶絀を加う。

宮中の葦簾、縁に青布を用う。常服の衣、浣濯すること再に至る。魏国長公主の襦に翠羽を飾るも、復用せざるを戒め、又之を教えて曰く「汝富貴に生長す、当に福を惜しむを念うべし」と。孟昶の宝装の溺器を見て、摏きて之を砕き、曰く「汝七宝を以て此れを飾る、当に何の器を以て食を貯えん。為す所此の如きは、亡びざらんや何を待たん」と。

晚年に書を好み、嘗て二典(尭典・舜典)を読みて歎じて曰く、「尭・舜が四凶を罪するや、ただ投竄に従ふのみ。何ぞ近代の法網の密なるや」と。宰相に謂ひて曰く、「五代の諸侯跋扈し、枉法にて人を殺す者有り。朝廷之を置きて問はず。人命は至重なり。藩鎮を姑息する、かくの如くならんや。今より諸州大辟を決するは、案を録して奏聞し、刑部に付して之を覆視せしむべし」と。遂に令として著はす。

乾德と改元するに先立ち、宰相に諭して曰く、「年号は須らく前代の未だ有らざる者を択ぶべし」と。三年、蜀平ぐ。蜀の宮人内に入る。帝其の鏡の背に「乾德四年鑄」と志せるを見て、竇儀等を召して之を詰む。儀対へて曰く、「此れ必ず蜀の物なり。蜀主嘗て此の号有り」と。乃ち大いに喜びて曰く、「相を作るには須らく読書人を要す」と。是より大いに儒者を重んず。

杜太后の命を受け、位を太宗に伝ふ。太宗嘗て病篤し。帝往きて之を視、親しく艾を灼きて為す。太宗痛みを覚ゆ。帝亦た艾を取りて自ら灸す。毎に近臣に対し言ふ、「太宗は龍行虎歩、生時に異有り。他日必ず太平の天子たらん。福徳吾の及ばざる所なり」と云ふ。

紀の讃

讃に曰く、昔尭・舜は禅譲を以てし、湯・武は征伐を以てし、皆南面して天下を有てり。四聖人の者往き、世道升降し、否泰推移す。斯の民塗炭の秋に当り、皇天眷みて民主を求め、亦惟だ其の斯の世を済ふを責むるのみ。使へば其れ必ず四聖人の才を得て、而して後に其の行事を之に畀ふとせば、則ち生民平治の期、殆んど日無からん。

五代乱極まり、宋太祖介冑の中より起り、九五の位を践む。其の国を得るを原れば、晋・漢・周を視るも亦豈に甚だ相絶へんや。其の号令を発し令を施すに及び、名藩大将は俯首して命を聴き、四方列国は次第に削平せらる。此れ人力の易く致す所に非ず。建隆以来、藩鎮の兵権を釈き、贓吏を縄するに重法を以てし、以て濁乱の源を塞ぐ。州郡の司牧より下は令録・幕職に至るまで、躬自ら引対す。農を務め学を興し、罰を慎み斂を薄くし、世と休息し、丕平に迄る。治定まり功成り、礼を制し楽を作す。位に在ること十有七年の間にして、三百余載の基、子孫に伝へ、世に典則有り。遂に三代而降り、声名文物の治、道徳仁義の風を考論するに、宋は漢・唐に於て、蓋し譲る所無し。嗚呼、創業垂統の君、規模かくの如し。亦た遠きと謂ふ可し。