周書

巻019

卷十九 列傳第十一 達奚武 子震 侯莫陳順 豆盧寧 宇文貴 楊忠 王雄

達奚武

原文 達奚武

達奚武、字は成興、代の人である。祖父の眷は、魏の懐荒鎮将であった。父の長は、汧城鎮将であった。

原文 達奚武字成興,代人也。祖眷,魏懷荒鎮將。父長,汧城鎮將。

武は若くして豪放磊落、馬を走らせ弓を射ることを好み、賀抜岳に知られた。岳が関右を征した時、別将に抜擢し、武は遂に心を尽くして彼に仕えた。戦功により羽林監・子都督ととくに任ぜられた。岳が侯莫陳悦に害された時、武は趙貴と共に岳の遺体を収めて平涼に帰り、共に太祖を推戴した。悦を平定した後、中散大夫・都督に任ぜられ、須昌県伯に封ぜられ、邑三百戸を賜った。魏の孝武帝が関中に入ると、直寝を授かり、大丞相府中兵参軍に転じた。大統初年、外任して東秦州刺史となり、散騎常侍さんきじょうじを加えられ、爵位を公に進めた。

原文 武少倜儻,好馳射,為賀拔岳所知。岳征關右,引為別將,武遂委心事之。以戰功拜羽林監、子都督。及岳為侯莫陳悅所害,武與趙貴收岳屍歸平涼,同翊戴太祖。從平悅,除中散大夫、都督,封須昌縣伯,邑三百戶。魏孝武入關,授直寢,轉大丞相府中兵參軍。大統初,出為東秦州刺史,加散騎常侍,進爵為公。

斉の神武帝が竇泰・高敖曹と三道に分かれて侵攻して来た時、太祖は兵力を集中して竇泰を撃とうとしたが、諸将の多くは異議を唱え、唯だ武と蘇綽のみが太祖の意に同調し、遂に竇泰を生け捕りにした。斉の神武帝はそこで退却した。太祖が弘農を攻略しようとし、武に騎兵二騎を従えて偵察させたところ、武は敵の斥候騎兵と遭遇し、直ちに交戦して六人の首級を斬り、三人を捕虜にして帰還した。斉の神武帝が沙苑に向かうと、太祖は再び武に偵察を命じた。武は三騎を従え、皆敵の衣服を着用した。日暮れに至り、敵陣から百歩の所で下馬し、潜んで音を聞き、敵の軍号を聞き取った。そこで馬に乗って陣営を巡り、夜警の者の如く振る舞い、法に従わぬ者があれば、往々にして鞭打った。敵の情勢を詳細に知り、太祖に報告した。太祖は深くこれを称賛した。遂に従って敵を撃破した。大都督に任ぜられ、爵位を高陽郡公に進め、車騎大将軍・儀同三司を拝命した。

原文 齊神武與竇泰、高敖曹三道來侵,太祖欲并兵擊竇泰,諸將多異議,唯武及蘇綽與太祖意同,遂擒之。齊神武乃退。太祖進圖弘農,遣武從兩騎覘候動靜,武與其候騎遇,即便交戰,斬六級,獲三人而反。齊神武趣沙苑,太祖復遣武覘之。武從三騎,皆衣敵人衣服。至日暮,去營百步,下馬潛聽,得其軍號。因上馬歷營,若警夜者,有不如法者,往往撻之。具知敵之情狀,以告太祖。太祖深嘉焉。遂從破之。除大都督,進爵高陽郡公,拜車騎大將軍、儀同三司。

四年、太祖が洛陽らくようを救援した時、武は騎兵一千を率いて前鋒となった。穀城に至り、李弼と共に莫多婁貸文を破った。河橋に進軍し、武はまた力戦し、その司徒しと高敖曹を斬った。侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に遷った。外任して北雍州刺史となった。再び邙山で戦い、時に大軍は不利となり、斉の神武帝が勝ちに乗じて陝まで進軍した。武は兵を率いてこれを防ぎ、敵を退却させた。久しくして、位を進めて大将軍となった。

原文 四年,太祖援洛陽,武率騎一千為前鋒。至穀城,與李弼破莫多婁貸文。進至河橋,武又力戰,斬其司徒高敖曹。遷侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司。出為北雍州刺史。復戰邙山,時大軍不利,齊神武乘勝進至陝。武率兵禦之,乃退。久之,進位大將軍。

十七年、詔により武は兵三万を率いて漢川を経略した。梁の将軍楊賢が武興を以て降伏し、梁深が白馬を以て降伏したので、武は兵を分けてその城を守った。梁の梁州刺史・宜豊侯蕭循が南鄭を固守したので、武はこれを数旬にわたって包囲し、循は遂に降服を請い、武は包囲を解いた。時に梁の武陵王蕭紀がその将軍楊乾運らに兵一万余りを率いて循を救援させたため、循は再び城に拠って出撃しなくなった。援軍が到着し、内外から敵を受けることを恐れ、武は精騎三千を選りすぐり、白馬において乾運を迎撃し、これを大破した。乾運は敗走した。武はそこで蜀しょく軍の捕虜と首級を城下に並べた。循は援軍が破られたことを知り、降伏し、配下の男女三万口を率いて朝廷に入り、剣閣以北は悉く平定された。翌年、武は軍を整えて京師に帰還した。朝廷の議論は当初、武を柱国に任じようとしたが、武は人に言うには、「私が柱国となるのは、元子孝の前であるべきではない」と。固辞して受けなかった。大将軍として出鎮して玉壁を守った。武は地形の要害を測り、楽昌・胡営・新城の三つの防塁を築いた。斉の将軍高苟子が千騎で新城を攻撃したので、武はこれを邀撃し、その兵を悉く捕虜とした。

原文 十七年,詔武率兵三萬,經畧漢川。梁將楊賢以武興降,梁深以白馬降,武分兵守其城。梁梁州刺史、宜豐侯蕭循固守南鄭,武圍之數旬,循乃請服,武為解圍。會梁武陵王蕭紀遣其將楊乾運等將兵萬餘人救循,循於是更據城不出。恐援軍之至,表裏受敵,乃簡精騎三千,逆擊乾運於白馬,大破之。乾運退走。武乃陳蜀軍俘級於城下。循知援軍被破,乃降,率所部男女三萬口入朝,自劍以北悉平。明年,武振旅還京師。朝議初欲以武為柱國,武謂人曰:「我作柱國,不應在元子孝前。」固辭不受。以大將軍出鎮玉壁。武乃量地形勝,立樂昌、胡營、新城三防。齊將高苟子以千騎攻新城,武邀擊之,悉虜其眾。

孝閔帝が即位すると、柱国・大司寇を拝命した。斉の北豫よ州刺史司馬消難が州を挙げて帰順したので、詔により武は楊忠と共に消難を迎えて帰還した。武成帝の初年、大宗伯に転じ、鄭国公に進封され、邑一万戸を賜った。斉の将軍斛律敦が汾・絳を侵したので、武は一万騎を以てこれを防ぎ、敦は退却した。武は栢壁城を築き、開府の権厳・薛羽生を留めて守らせた。

原文 孝閔帝踐阼,拜柱國、大司寇。齊北豫州刺史司馬消難舉州來附,詔武與楊忠迎消難以歸。武成初,轉大宗伯,進封鄭國公,邑萬戶。齊將斛律敦侵汾、絳,武以萬騎禦之,敦退。武築栢壁城,留開府權嚴、薛羽生守之。

保定三年、太保に遷った。その年、大軍が東征した。随公楊忠が突厥を率いて北道より進み、武は三万騎を率いて東道より進み、晋陽で会合することを期した。武が平陽に至った時、期日に遅れて進まず、忠は既に帰還していたが、武はまだ知らなかった。斉の将軍斛律明月が武に書を送り、「鴻鵠は既に寥廓に翔びかけり、羅者なお沮沢を視る」と言った。武は書を見て、軍を返した。外任して同州刺史となった。翌年、晋公宇文護に従って東征した。時に尉遅迥が洛陽を包囲していたが、敵に敗れた。武は斉王宇文憲と共に邙山でこれを防いだ。夜になると、軍を収めた。憲は明朝を待って再戦しようとしたが、武は帰還を主張し、固く争って決まらなかった。武は言う、「洛陽の軍は散り、人心は動揺している。もし夜を利用して速やかに帰還しなければ、明日には帰れなくなるであろう。私は軍旅に長くあり、形勢をよく見てきた。大王は若くして事を経ておらず、どうして数営の兵士を一朝にして棄てることができようか」と。憲はこれに従い、全軍を挙げて帰還した。天和三年、太傅に転じた。

原文 保定三年,遷太保。其年,大軍東伐。隨公楊忠引突厥自北道,武以三萬騎自東道,期會晉陽。武至平陽,後期不進,而忠已還,武尚未知。齊將斛律明月遺武書曰:「鴻鶴已翔於寥廓,羅者猶視於沮澤也。」武覽書,乃班師。出為同州刺史。明年,從晉公護東伐。時尉遲迥圍洛陽,為敵所敗。武與齊王憲於邙山禦之。至夜,收軍。憲欲待明更戰,武欲還,固爭未決。武曰:「洛陽軍散,人情駭動。若不因夜速還,明日欲歸不得。武在軍旅久矣,備見形勢。大王少年未經事,豈可將數營士眾,一旦棄之乎。」憲從之,遂全軍而返。天和三年,轉太傅。

武は貧賤の時、奢侈を好み華美な装飾を好んだ。重職に就いてからは、威儀を飾らず、外出には常に単騎で、左右に僅か一、二人を従えるのみであった。外門に戟を立てず、常に昼間も一つの扉を閉ざしていた。ある者が武に言うには、「公は群臣の上位にあり、功名は世に蓋い、出入りの儀仗衛兵は、人々の注視に相応しいものであるべきです。何故このように軽率なのですか」と。武は言う、「そなたの言うことは、私の心ではない。私が布衣であった時、富貴を望んだであろうか、突然昔のことを忘れることはできない。況や天下は未だ平らかでなく、国の恩に報いていない。どうして過度に威儀を整えることができようか」と。言った者は慚じて退いた。

原文 武賤時,奢侈好華飾。及居重位,不持威儀,行常單馬,左右止一兩人而已。外門不施戟,恆晝掩一扉。或謂武曰:「公位冠羣后,功名蓋世,出入儀衞,須稱具瞻,何輕率若是?」武曰:「子之言,非吾心也。吾在布衣,豈望富貴,不可頓忘疇昔。且天下未平,國恩未報,安可過事威容乎。」言者慙而退。

武が同州にいた時、旱魃が続いた。高祖こうそは武に勅して華岳を祀らせた。岳廟は旧来山下にあり、常に祈禱が行われていた。武は僚属に言う、「私は三公の位にありながら、陰陽を調和させることができず、盛んな農耕の月に長く慈雨が絶え、天子は心を労し、百姓は恐れ惑っている。重職を辱うけている以上、憂いと責務は実に深い。常人と同じく、常の祭祀の場所にあってはならず、必ずや峰に登って誠を尽くし、その霊妙な奥深きを尋ねねばならない」と。華岳は高峻で、千仞の壁が立ち、岩道は険絶し、人跡は稀であった。武は六十歳を超えていたが、僅か数人を連れ、藤を攀じ枝にすがり、そしてようやく登ることができた。そこで頭を地に付けて祈請し、百姓の切なる誠を陳べた。夜になっても帰れず、即ち岳上に草を敷いて宿った。夢に白衣の人が来て、武の手を執り言うには、「大変にご苦労、甚だ賞賛に値する」と。武は驚いて目覚め、一層謹み敬った。朝になると、雲霧が四方から湧き起こり、やがて慈雨が降り、遠近を潤した。高祖はこれを聞き、璽書を以て武を労うには、「公は年尊く徳重く、朕を補佐し調和させてきた。近頃陰陽が順序を失い、時雨が降らず、公に命じて祈らせたが、ただ廟所で行うと言った。公が危険を憚らず、遂に遠く高峰に登ろうとは思わなかった。しかし神道は聡明で、幽かなる所も照らさず、公の至誠に感じ、慈雨がこれに応じた。聞いて賞賛し、忘れずにいる。今、公に雑綵百匹を賜う。公は善く嘉謀を考え、朕の及ばぬ所を補え。坐して道を論ずる意義を念い、再び筋骨を煩わせるな」と。

原文 武之在同州也,時屬天旱,高祖勑武祀華岳,岳廟舊在山下,常所禱祈。武謂僚屬曰:「吾備位三公,不能燮理陰陽,遂使盛農之月,久絕甘雨,天子勞心,百姓惶懼。忝寄既重,憂責實深。不可同於眾人,在常祀之所,必須登峯展誠,尋其靈奧。」岳既高峻,千仞壁立,巖路嶮絕,人跡罕通。武年踰六十,唯將數人,攀藤援枝,然後得上。於是稽首祈請,陳百姓懇誠。晚不得還,即於岳上藉草而宿。夢見一白衣人來,執武手曰:「快辛苦,甚相嘉尚。」武遂驚覺,益用祗肅。至旦,雲霧四起,俄而澍雨,遠近霑洽。高祖聞之,璽書勞武曰:「公年尊德重,弼諧朕躬。比以陰陽𠍴序,時雨不降,命公求祈,止言廟所。不謂公不憚危險,遂乃遠陟高峯。但神道聰明,無幽不燭,感公至誠,甘澤斯應。聞之嘉賞,無忘于懷。今賜公雜綵百疋,公其善思嘉猷,匡朕不逮。念坐而論道之義,勿復更煩筋力也。」

武は性分として貪欲で吝嗇であった。大司寇であった時、庫に万釘の金帯があり、当時これを宝物としていたが、武は庫に入った際、これを取って帰った。主管者が晋公宇文護に報告したが、武の勲功を考慮し、その過ちを明らかにせず、かえってこれを賜った。当時の論評は深くこれを卑しんだ。五年十月、薨去した。六十七歳であった。太傅・十五州諸軍事・同州刺史を追贈された。諡して桓といった。子の震が後を嗣いだ。

原文 武性貪恡,其為大司寇也,在庫有萬釘金帶,當時寶之,武因入庫,乃取以歸。主者白晉公護,以武勳,不彰其過,因而賜之。時論深鄙焉。五年十月,薨,年六十七。贈太傅、十五州諸軍事、同州刺史。諡曰桓。子震嗣。

子の震

原文 子震

李震は字を猛略という。若い頃より驍ぎょう勇で、騎射に巧み、走れば奔馬に追いつき、膂力は人に優れていた。大統の初め、員外散騎常侍として起家した。太祖(宇文泰)がかつて渭北で狩猟を催した時、兎が太祖の前を過ぎた。震は諸将と競ってこれを射ようとし、馬が倒れて墜落したが、震の足はよろめかず、歩いて走りながらこれを射て、一発で兎に命中させた。振り返ると馬がようやく立ち上がったので、身を翻して飛び乗った。太祖は喜んで言った。「この父にしてこの子あり!」武用の雑色絹百段を賜った。十六年、昌邑県公に封ぜられ、一千戸を領した。累進して撫軍将軍・銀青光禄大夫・通直散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍となった。世宗(宇文毓)の初め、儀同・右中大夫に任ぜられ、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、普寧県公に改封された。武成(北周明帝の年号)の初め、広平郡公に爵位を進められ、華州刺史に任ぜられた。震は膏粱の家に生まれながらも、若くして武芸を習い、さらに民を導き俗を訓おしえることに、治世の才幹を大いに示した。任期満了で朝廷に戻る際、民衆に慕われた。

原文 震字猛畧。少驍勇,便騎射,走及奔馬,膂力過人。大統初,起家員外散騎常侍。太祖嘗於渭北校獵,時有兔過太祖前,震與諸將競射之,馬倒而墜,震足不傾躓,因步走射之,一發中兔。顧馬纔起,遂回身騰上。太祖喜曰:「非此父不生此子!」賜武雜綵一百段。十六年,封昌邑縣公,一千戶。累遷撫軍將軍、銀青光祿大夫、通直散騎常侍、車騎大將軍、儀同三司、散騎常侍。世宗初,拜儀同、〔司〕右中大夫,加驃騎大將軍、開府儀同三司,改封普寧縣公。武〈(平)〉〔成〕初,進爵廣平郡公,除華州刺史。震雖生自膏腴,少習武藝,然導民訓俗,頗有治方。秩滿還朝,為百姓所戀。

保定四年、大軍が東征した時、諸将は皆敗走したが、震は敵と交戦し、軍を独り全うさせた。天和元年、大将軍に進位し、衆を率いて稽胡を征伐し、これを撃破した。六年、柱国に任ぜられた。建徳の初め、鄭国公の爵位を襲い、外任として金州総管・十一州九防諸軍事・金州刺史となった。四年、高祖(武帝宇文邕)に従って東征し、前三軍総管となった。五年、また東征に従い、歩騎一万を率いて統軍川を守り、義寧・烏蘇の二鎮を攻略し、幷州を撃破した。上柱国に進位した。引き続き鄴平定に従い、妾二人・女楽一部及び珍玩などを賜り、大宗伯に任ぜられた。震の父(李弼)もかつてこの職にあったので、当時の論評はこれを栄誉とした。宣政年間、外任として原州総管・三州二鎮諸軍事・原州刺史となった。まもなく罷免されて帰京した。隋の開皇の初め、自宅で薨去した。

原文 保定四年,大軍東討,諸將皆奔退,震與敵交戰,軍遂獨全。天和元年,進位大將軍,率眾征稽胡,破之。六年,拜柱國。建德初,襲爵鄭國公,出為金州總管、十一州九防諸軍事、金州刺史。四年,從高祖東伐,為前三軍總管。五年,又從東伐,率步騎一萬守統軍川,攻克義寧、烏蘇二鎮,破幷州。進位上柱國。仍從平鄴,賜妾二人、女樂一部及珍玩等,拜大宗伯。震父嘗為此職,時論榮之。宣政中,出為原州總管、三州二鎮諸軍事、原州刺史。尋罷歸。隋開皇初,薨於家。

震の弟の惎は、車騎将軍・渭南県子であった。大象の末、益州刺史となり、王謙とともに蜀に拠って兵を起こした。まもなく敗れ、誅殺された。

原文 震弟惎,車騎將軍、渭南縣子。大象末,為益州刺史,與王謙據蜀起兵。尋敗,被誅。

侯莫陳順

原文 侯莫陳順

侯莫陳順は、太保・梁国公の崇の兄である。若い頃より豪侠で、志操と器量があった。初め爾朱栄に仕えて統軍となり、後に賀抜勝に従って井陘を鎮守した。武泰の初め、葛栄を討ち、邢杲を平定し、韓婁を征伐し、いずれも功績があった。軽車将軍・羽林監に任ぜられた。また元顥撃破に従い、寧朔将軍・越騎校尉こういに進んだ。普泰元年、持節・征西将軍に任ぜられ、木門県子に封ぜられ、邑三百戸を賜った。まもなく散騎常侍・千牛備身・衛将軍・閤内大都督を加えられた。魏の孝武帝に従って関中に入った。順は太祖(宇文泰)と同郷であり、平素から親しく交わり、かつその弟の崇が先に関中にいたので、太祖は彼に会って大いに喜んだ。そこで彭城郡公に爵位を進め、邑一千戸を賜った。

原文 侯莫陳順,太保、梁國公崇之兄也。少豪俠,有志度。初事爾朱榮為統軍,後從賀拔勝鎮井陘。武泰初,討葛榮,平邢杲,征韓婁,皆有功。拜輕車將軍、羽林監。又從破元顥,進寧朔將軍、越騎校尉。普泰元年,除持節、征西將軍,封木門縣子,邑三百戶。尋加散騎常侍、千牛備身、衞將軍、閤內大都督。從魏孝武入關。順與太祖同里閈,素相友善,且其弟崇先在關中,太祖見之甚歡。乃進爵彭城郡公,邑一千戶。

大統元年、衛尉卿に任ぜられ、儀同三司を授けられた。梁仚定が河州を包囲攻撃した時、順を大都督とし、趙貴とともにこれを討ち破り、ただちに河州の事務を代行した。後に太祖に従って沙苑を破り、功により邑千戸を加増された。

原文 大統元年,拜衞尉卿,授儀同三司。及梁仚定圍逼河州,以順為大都督,與趙貴討破之,即行河州事。後從太祖破沙苑,以功增邑千戶。

四年、魏の文帝が東征した時、順は太尉の王盟・僕射の周惠達らとともに長安ちょうあんに留まって鎮守した。その時、趙青雀が反乱を起こし、王盟と周惠達は魏の太子を奉じて渭水の北に出て駐屯した。順は渭橋で賊と戦い、しばしばこれを破ったので、賊は出撃できなくなった。魏の文帝が帰還すると、自ら順の手を執って言った。「渭橋の戦いでは、卿に並外れた力があった。」そこで身に着けていた金鏤の玉梁帯を解いて賜った。

原文 四年,魏文帝東討,與太尉王盟、僕射周惠達等留鎮長安。時趙青雀反,盟及惠達奉魏太子出次渭北。順於渭橋與賊戰,頻破之,賊不敢出。魏文帝還,親執順手曰:「渭橋之戰,卿有殊力。」便解所服金鏤玉梁帶賜之。

南岐州の氐族の苻安寿が太白王を自称し、武都を攻め落とし、州郡が騒然となった。再び順を大都督として、これを討伐に向かわせた。賊は要害に兵を駐屯させ、軍は進むことができなかった。順はそこで反間の計を設け、その腹心を離間させ、確かな賞を掲げて、その徒党を誘い出した。安寿は勢いが窮まったことを悟り、ついに部落一千家を率いて軍に赴き、帰順した。当時、順の弟の崇も彭城郡公に封ぜられていたので、順を河間郡公に封じた。翌年、驃騎大将軍・開府儀同三司・行西夏州事・安平郡公を加えられた。十六年、大将軍に任ぜられ、外任として荊州総管・山南道五十二州諸軍事・荊州刺史となった。孝閔帝が即位すると、少師に任ぜられ、柱国に進位した。その年に薨去した。

原文 南岐州氐苻安壽自號太白王,攻破武都,州郡騷動。復以順為大都督,往討之。而賊屯兵要險,軍不得進。順乃設反間,離其腹心;立信賞,誘其徒屬。安壽知勢窮迫,遂率部落一千家,赴軍款附。時順弟崇又封彭城郡公,封順河間郡公。明年,加驃騎大將軍、開府儀同三司、行西夏州事、安平郡公。十六年,拜大將軍,出為荊州總管、山南道五十二州諸軍事、荊州刺史。孝閔帝踐阼,拜少師,進位柱國。其年薨。

豆盧寧

原文 豆盧寧

豆盧寧は字を永安といい、昌黎郡徒何県の人である。その先祖は本来慕容氏を姓とし、前燕の支族であった。高祖の豆盧勝は、燕に仕えていたが、皇始(北魏道武帝の年号)の初め、北魏に帰順し、長楽郡太守に任ぜられ、豆盧氏の姓を賜った。あるいは難を避けて改姓したともいう。父の豆盧長は、柔玄鎮の鎮将であり、威厳と重みがあり、当時に称えられた。武成(北周明帝の年号)の初め、寧の顕著な勲功により、柱国大将軍・少保・涪陵郡公を追贈された。

原文 豆盧寧字永安,昌黎徒何人。其先本姓慕容氏,前燕之支庶也。高祖勝,以燕。皇始初,歸魏,授長樂郡守,賜姓豆盧氏,或云避難改焉。父長,柔玄鎮將,有威重,見稱於時。武成初,以寧著勳,追贈柱國大將軍、少保、涪陵郡公。

寧は若い頃より驍勇果断で志気があり、身長八尺、容姿端麗で、騎射に巧みであった。永安(北魏孝荘帝の年号)年間、別将として爾朱天光に従って関中に入り、都督を加えられた。また万俟醜奴を破った功により、霊寿県男の爵位を賜った。かつて梁仚定と平涼川で出会い、互いに射術を競った。百歩の距離に莎草を懸けてこれを射ると、七発して五発が命中した。仚定はその技量に感服し、甚だ厚く贈り物をした。天光が敗れた後、侯莫陳悦が反乱を起こし、太祖が悦を討伐した時、寧は李弼とともに衆を率いて太祖に帰順した。

原文 寧少驍果,有志氣,身長八尺,美容儀,善騎射。永安中,以別將隨爾朱天光入關,加授都督。又以破万俟醜奴功,賜爵靈壽縣男。嘗與梁仚定遇於平涼川,相與肄射。乃於百步懸莎草以射之,七發五中。定服其能,贈遺甚厚。天光敗後,侯莫陳悅反,太祖討悅,寧與李弼率眾歸太祖。

魏の孝武帝が西遷した時、奉迎の功により、河陽県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。大統元年、前将軍に任ぜられ、侯に爵位を進め、邑三百戸を加増された。顕州刺史・顕州大中正に転じた。まもなく撫軍将軍・銀青光禄大夫に任ぜられ、公に爵位を進め、邑五百戸を加増された。鎮東将軍・金紫光禄大夫を授けられた。太祖に従って竇泰を生け捕り、弘農を回復し、沙苑を破り、武衛大将軍に任ぜられ、大都督を兼ねた。まもなく車騎大将軍・儀同三司に進み、邑八百戸を加増された。北華州刺史に任ぜられ、在任わずかのうちに、廉潔公平で著名となった。散騎常侍を加えられた。七年、于謹に従って上郡で稽胡の帥(首領)劉平伏を破った。梁仚定が反乱を起こした時、寧を軍司とし、隴右諸軍事を監督させた。賊が平定されると、侍中・使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司に進位した。九年、太祖に従って高仲密を迎え、東魏と邙山で戦い、左衛将軍に転じ、范陽郡公に爵位を進め、邑四百戸を加増された。十六年、大将軍に任ぜられた。羌族の帥の傍乞鉄怱及び鄭五醜らが反乱を起こしたので、寧は衆を率いてこれを討ち平定した。魏の恭帝二年、武陽郡公に改封され、尚書右僕射に転じた。梁の将軍の王琳がその将の侯方児・潘純陁を派遣して江陵を侵したので、寧は蔡祐・鄭永らとともにこれを討ち、方児らは逃走した。三年、武興の氐族及び固道の氐族の魏大王らが相呼応して反乱を起こしたので、寧は再びこれを討ち平定した。孝閔帝が即位すると、柱国大将軍を授けられた。武成の初め、外任として同州刺史となった。再び諸軍を督して稽胡の郝阿保・劉桑徳らを討伐し、これを破った。軍が帰還すると、大司寇に転じ、楚国公に進封され、邑一万戸を領し、別に塩亭県一千戸を食邑とし、その租税を収めた。保定四年、岐州刺史を授けられた。大軍の東征に際し、寧は病を押して従軍した。五年、同州で薨去した。時に六十六歳であった。太保・同鄜等十州諸軍事・同州刺史を追贈された。諡は昭といった。

原文 魏孝武西遷,以奉迎勳,封河陽縣伯,邑五百戶。大統元年,除前將軍,進爵為侯,增邑三百戶。遷顯州刺史、顯州大中正。尋拜撫軍將軍、銀青光祿大夫,進爵為公,增邑五百戶。授鎮東將軍、金紫光祿大夫。從太祖擒竇泰,復弘農,破沙苑,除武衞大將軍,兼大都督。尋進車騎大將軍、儀同三司,增邑八百戶。拜北華州刺史,在州未幾,以廉平著稱。加散騎常侍。七年,從于謹破稽胡帥劉平伏於上郡。及梁仚定反,以寧為軍司,監隴右諸軍事。賊平,進位侍中、使持節、驃騎大將軍、開府儀同三司。九年,從太祖迎高仲密,與東魏戰於邙山,遷左衞將軍,進爵范陽郡公,增邑四百戶。十六年,拜大將軍。羌帥傍乞鐵〈(忽)〉〔怱〕及鄭五醜等反叛,寧率眾討平之。魏恭帝二年,改封武陽郡公,遷尚書右僕射。梁將王琳遣其將侯方兒、潘純陁寇江陵,寧與蔡祐、鄭永等討之,方兒等遁走。三年,武興氐及固〈(查)〉〔道〕氐魏大王等,相應反叛,寧復討平之。孝閔帝踐阼,授柱國大將軍。武成初,出為同州刺史。復督諸軍討稽胡郝阿保、劉桑德等,破之。軍還,遷大司寇,進封楚國公,邑萬戶,別食鹽亭縣一千戶,收其租賦。保定四年,授岐州刺史。屬大兵東討,寧輿疾從軍。五年,薨於同州,時年六十六。贈太保、同鄜等十州諸軍事、同州刺史。諡曰昭。

初め、李寧に子が無かったので、弟の永恩の子・勣を養子とした。後に実子の讃が生まれると、親族は皆、讃を後継ぎとするよう請うた。寧は言った、「兄弟の子は、我が子と同じである。どうして選別しようか」と。そこで勣を世子とした。世間はこれを称えた。寧が薨ずると、勣が爵位を襲い、若くして顕位を歴任し、大象の末、上柱国・利州総管となった。讃は寧の勲功により、建德初め、華陽県侯の爵を賜り、累進して開府儀同大将軍となり、武陽郡公に進爵した。

原文 初,寧未有子,養弟永恩子勣。及生子讚,親屬皆請讚為嗣。寧曰:「兄弟之子,猶子也,吾何擇焉。」遂以勣為世子。世以此稱之。及寧薨,勣襲爵,少歷顯位,大象末,上柱國、利州總管。讚以寧勳,建德初,賜爵華陽縣侯。累遷開府儀同大將軍、進爵武陽郡公。

永恩は若くして識見と度量があり、当時の人々に称えられた。初め寧に従って侯莫陳悦に仕え、後に寧と共に太祖(宇文泰)に帰順し、殄寇将軍を授けられた。魏の孝武帝を迎えた功により、新興県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。幾度も征討に従い、いずれも功績があり、龍驤将軍・中散大夫に任ぜられた。大統八年、直寝・右親信都督に任ぜられ、まもなく都督に転じ、通直散騎常侍を加えられた。十六年、使持節・車騎大将軍・儀同三司に任ぜられた。魏の廃帝元年、驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。二年、成州刺史として出向した。魏の恭帝元年、龍支県侯に進爵した。三年、大将軍・安政公の史寧が突厥可汗に従って吐谷渾に入った際、永恩に騎兵五千を率いて河州・鄯州の二州を鎮守させ、辺防とした。孝閔帝が即位すると、鄯州刺史を授けられ、沃野県公に改封され、邑一千戸を加増された。まもなく隴右総管府長史に転じた。武成元年、都督利沙文三州諸軍事・利州刺史に遷った。時に文州の蛮が反乱したので、永恩は兵を率いてこれを撃破した。保定元年、召されて司会中大夫となった。二年、再び出向して隴右総管府長史となった。李寧は佐命の元勲として楚国公に封ぜられた際、先に封ぜられていた武陽郡三千戸を沃野の封邑に加えるよう請うた。詔はこれを許した。また邑を加増され、前の分と合わせて四千五百戸となった。まもなく官のまま卒した。享年四十八。少保・幽冀等五州諸軍事・幽州刺史を追贈され、諡を敬といった。子の通が後を嗣いだ。

原文 永恩少有識度,為時輩所稱。初隨寧事侯莫陳悅,後與寧俱歸太祖,授殄寇將軍。以迎魏孝武功,封新興縣伯,邑五百戶。屢逢征討,皆有功,拜龍驤將軍、中散大夫。大統八年,除直寢、右親信都督,尋轉都督,加通直散騎常侍。十六年,拜使持節、車騎大將軍、儀同三司。魏廢帝元年,進位驃騎大將軍、開府儀同三司。二年,出為成州刺史。魏恭帝元年,進爵龍〈(來)〉〔支〕縣侯。三年,大將軍、安政公史寧隨突厥可汗入吐谷渾,令永恩率騎五千鎮河、鄯二州,以為邊防。孝閔帝踐祚,授鄯州刺史,改封沃野縣公,增邑一千戶。尋轉隴右總管府長史。武成元年,遷都督利沙文三州諸軍事、利州刺史。時文州蠻叛,永恩率兵擊破之。保定元年,入為司會中大夫。二年,復出為隴右總管府長史。寧以佐命元勳封楚國公,請以先封武陽郡三千戶益沃野之封,詔許焉。又增邑并前四千五百戶。尋卒官,年四十八。贈少保、幽冀等五州諸軍事、幽州刺史。諡曰敬。子通嗣。

宇文貴

原文 宇文貴

宇文貴、字は永貴。その先祖は昌黎郡大棘の人である。夏州に移り住んだ。父は莫豆干。保定年間、貴の顕著な勲功により、柱国大将軍・少傅・夏州刺史・安平郡公を追贈された。貴の母が貴を懐妊した初め、老人が一人の児を抱いて授け、「汝にこの子を与える。長寿で貴い者たらしめん」と言う夢を見た。生まれてみると、その形貌は夢に見た児に似ていたので、永貴と字したのである。

原文 宇文貴字永貴,其先昌黎大棘人也。徙居夏州。父莫豆干。保定中,以貴著勳,追贈柱國大將軍、少傅、夏州刺史、安平郡公。貴母初孕貴,夢有老人抱一兒授之曰:「賜爾是子,俾壽且貴。」及生,形類所夢,故以永貴字之。

貴は若くして師に従い学問を受けたが、かつて書を置いて嘆いて言った、「男児たるものは剣を提げ馬に汗して公侯となるべきであり、どうして先生のように博士になることができようか」と。正光の末、破六汗抜陵が夏州を包囲した時、刺史の源子雍が城に拠って固守し、貴を統軍として救援に向かわせた。前後数十戦し、軍中は皆その勇を服した。後に子雍を送り返す途中、賊の帥である叱干麒麟・薛崇礼らが各所に屯集し、出兵して邀撃したが、貴は奮撃して、常にこれを破った。武騎常侍に任ぜられた。また子雍に従って葛栄を討ち、軍は敗れて鄴に奔り、葛栄に包囲された。賊は屡々攻めて来たが、貴は常に縄で城を下りて出戦し、賊はその鋒鋭に当たる者はいなかった。しかし凶徒は実に多く、包囲は久しく解けなかった。貴はそこで地下道から潜り出て北行し、爾朱栄に会い、賊軍の情勢を陳述した。栄は深くこれを容れた。そこで栄に従って滏口で葛栄を擒らえ、別将を加えられた。また元天穆に従って邢杲を平定し、都督に転じた。元顥が洛陽に入ると、貴は郷兵を率いて爾朱栄に従い河橋を焼き、力戦して功績があった。征虜将軍を加えられ、革融県侯に封ぜられ、邑一千戸を賜った。郢州刺史に任ぜられ、召されて武衛将軍・閤内大都督となった。

原文 貴少從師受學,嘗輟書歎曰:「男兒當提劍汗馬以取公侯,何能如先生為博士也!」正光末,破六汗拔陵圍夏州,刺史源子雍嬰城固守,以貴為統軍救之。前後數十戰,軍中咸服其勇。後送子雍還,賊帥叱干麒麟、薛崇禮等處處屯聚,出兵邀截,貴每奮擊,輒破之。除武騎常侍。又從子雍討葛榮,軍敗奔鄴,為榮所圍。賊屢來攻,貴每縋而出戰,賊莫敢當其鋒。然兇徒寔繁,圍久不解。貴乃於地道潛出,北見爾朱榮,陳賊兵勢,榮深納之。因從榮擒葛榮於滏口,加別將。又從元天穆平邢杲,轉都督。元顥入洛,貴率鄉兵從爾朱榮焚河橋,力戰有功。加征虜將軍,封革融縣侯,邑一千戶。除郢州刺史,入為武衞將軍、〈(關)〉〔閤〕內大都督。

魏の孝武帝に従って西遷し、化政郡公に進爵した。大統初め、右衛将軍に遷った。貴は騎射に優れ、将帥の才があった。太祖(宇文泰)もまた宗室であることを重んじ、非常に親しく重任した。三年、車騎大将軍・儀同三司に進んだ。独孤信と共に洛陽に入った。

原文 從魏孝武西遷,進爵化政郡公。大統初,遷右衞將軍。貴善騎射,有將率才。太祖又以宗室,甚親委之。三年,進車騎大將軍、儀同三司。與獨孤信入洛陽。

東魏の潁州長史賀若統が潁川を拠って降って来た。東魏はその将の堯雄・趙育・是云宝に衆二万を率いて潁川を攻撃させた。貴は洛陽から歩騎二千を率いてこれを救援し、軍を陽翟に駐屯させた。堯雄らは既に馬橋を渡り、潁川から三十里の所にいた。東魏の行台任祥がまた衆四万余を率いて堯雄と合流した。諸将は皆、敵が多く我が寡ないので、鋒鋭を争うべきではないと言った。貴は言った、「兵機は倚伏するもので、固より常理をもって論ずることはできない。古人が寡をもって衆を制することができたのは、皆、事前に成敗を看破し、必ず然るべき策を決断したからである。私は事を成すには暗いが、それでも進軍して賀若と合流するのが、計略の上策であると思う。諸軍に説明しよう。堯雄らは必ずや、潁川が孤立して危うく、勢いとして敵ではないと考え、また我らが寡弱で単独で進軍すると見なすだろう。もし全力を挙げて潁川を攻めれば、指を指すようにして破ることができる。潁川を陥落させれば、直ちに任祥の軍と合流し、悪党同士が互いに助け合い、害は更に甚だしくなる。我らが今陽翟に屯兵しているのは、まさにその数の中に入っているようなものだ。もし賀若が一旦陥落すれば、我々はここに坐して何を為すというのか。進んで潁川を占拠すれば、城があって守ることができる。堯雄が我らが入城するのを見れば、不意を突かれ、進むには狐疑し、退くには退けない。その後に諸軍と力を尽くしてこれを撃てば、どこへ行って勝たないことがあろうか。疑わないでほしい」と。そこで潁川に入った。堯雄らが少し前進すると、貴は千人を率いて城を背に陣を布き、堯雄と合戦した。貴の馬が流れ矢に当たったので、短兵を持って歩戦した。士卒は命を用いた。堯雄は大敗して軽装で逃走し、趙育は陣中で降伏した。その輜重を鹵獲し、一万余人を捕虜としたが、全て釈放して帰還させた。任祥は堯雄の敗北を聞き、遂に進軍しようとしなかった。まもなく儀同の怡峯が騎兵五百を率いて貴の下に赴いた。貴は勝ちに乗じて任祥を逼迫した。任祥は退いて宛陵を守り、貴は追撃してこれに及んだ。日が暮れたので、陣を結んで相持した。翌朝合戦し、捕虜と斬首は甚だ多かった。任祥の軍が敗れると、是云宝も降伏した。

原文 東魏潁州〈(刺)〉〔長〕史賀若統據潁川來降,東魏遣其將堯雄、趙育、是云寶率眾二萬攻潁。貴自洛陽率步騎二千救之,軍次陽翟。雄等已度馬橋,去潁川三十里,東魏行臺任祥又率眾四萬餘,與雄合。諸將咸以彼眾我寡,不可爭鋒。貴曰:「兵機倚伏,固不可以常理論。古人能以寡制眾者,皆由預覩成敗,決必然之策耳。吾雖闇於成事,然謂進與賀若合勢,為計之上者。請為諸軍說之。堯雄等必以為潁川孤危,勢非其敵,又謂吾寡弱獨進,若悉力以攻潁,必指掌可破。既陷潁川,便與任祥軍合,同惡相濟,為害更甚。吾今屯兵陽翟,便是入其數內。若賀若一陷,吾輩坐此何為。進據潁川,有城可守。雄見吾入城,出其不意,進則狐疑,退則不可。然後與諸軍盡力擊之,何往不克。願勿疑也。」遂入潁川。雄等稍前,貴率千人背城為陳,與雄合戰,貴馬中流矢,乃短兵步鬭。士眾用命。雄大敗輕走,趙育於陳降,獲其輜重,俘萬餘人,盡放令還。任祥聞雄敗,遂不敢進。尋而儀同怡峯率騎五百赴貴,貴乘勝逼祥。祥退保宛陵,追及之。會日暝,結陳相持。明旦合戰,俘斬甚多。祥軍既敗,是云寶亦降。

軍が帰還した。魏の文帝が天遊園にいて、金の巵を侯(的)の上に置き、公卿に射させ、命中した者にこれを賜わろうとした。貴は一発で命中させた。帝は笑って言った、「養由基の妙技も、まさにこのようなものだろう」と。侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。夏州・岐州の二州刺史を歴任した。十六年、中外府左長史に遷り、大将軍に進位した。

原文 師還。魏文帝在天遊園,以金巵置侯上,命公卿射中者,即以賜之。貴一發而中。帝笑曰:「由基之妙,正當爾耳。」進侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司。歷夏岐二州刺史。十六年,遷中外府左長史,進位大將軍。

宕昌王の梁弥定が宗族の獠甘に追逐されて、来奔した。また羌の酋長の傍乞鉄怱が、梁仚定の反乱後に乗じて渠株川を占拠し、種族数千家を擁し、渭州の民鄭五醜と共に諸羌を扇動して同反し、険阻な地に柵を十数か所設置していた。太祖(宇文泰)は貴に豆盧寧・史寧を率いてこれを討たせた。貴らは鉄怱及び五醜を擒らえて斬った。史寧はまた別に獠甘を撃ち、これを破って、弥定を(宕昌王に)納めた。また渠株川に岷州を設置した。朝廷はその功績を称え、粟坂に碑を立ててその績を記した。

原文 宕昌王梁彌定為宗人獠甘所逐,來奔。又有羌酋傍乞鐵怱因梁仚定反後,據有渠株川,擁種類數千家,與渭州民鄭五醜扇惑諸羌同反,憑險置柵者十餘所。太祖令貴與豆盧寧、史寧討之。貴等擒斬鐵怱及五醜。史寧又別擊獠甘,破之,乃納彌定。并於渠株川置岷州。朝廷美其功,遂於粟坂立碑,以紀其績。

魏の廃帝の初め、岐州刺史として出向した。二年、大都督・興西蓋等六州諸軍事・興州刺史を授けられた。先に興州の氐が反乱していたが、貴が州に着任してから、人心は次第に落ち着いた。貴は上表して梁州に屯田を設置することを請い、数州が豊かで足りるようになった。三年、詔により貴が尉遅迥に代わって蜀を鎮守することとなった。時に隆州の人で開府の李光賜が塩亭で反乱し、その党の帛玉成・寇食堂・譙淹・蒲皓・馬術らと共に隆州を攻囲した。州人の李祏もまた衆を集めて反乱し、開府の張遁が挙兵してこれに応じた。貴はそこで開府の叱奴興に命じて隆州を救援させ、また開府の成亜に命じて李祏及び張遁を撃たせた。窮地に陥った彼らは遂に降伏し、捕らえて京師に送った。都督益潼等八州諸軍事・益州刺史に任ぜられ、そのまま小司徒を加えられた。先に蜀では劫盗が多かったので、貴は任侠で傑出した健者を召し、遊軍二十四部に任命して、その督捕を命じた。これによってかなり鎮静した。

原文 魏廢帝初,出為岐州刺史。二年,授大都督、興西蓋等六州諸軍事、興州刺史。先是興州氐反,自貴至州,人情稍定。貴表請於梁州置屯田,數州豐足。三年,詔貴代尉遲迥鎮蜀。時隆州人開府李光賜反於鹽亭,與其黨帛玉成、寇食堂、譙淹、蒲皓、馬術等攻圍隆州。州人李祏亦聚眾反,開府張遁舉兵應之。貴乃命開府叱奴興救隆州,又令開府成亞擊祏及遁。勢蹙遂降,執送京師。除都督益潼等八州諸軍事、益州刺史,就加小司徒。先是蜀人多劫盜,貴乃召任俠傑健者,署為遊軍二十四部,令其督捕,由是頗息。

孝閔帝が践祚すると、柱国に進位し、御正中大夫に任ぜられた。武成の初め、賀蘭祥とともに吐谷渾を討った。軍が帰還すると、許国公に進封され、邑一万戸を賜った。旧爵は一子に回封された。大司空しくうに遷り、小冢宰を治め、大司徒を歴任し、太保に遷った。

原文 孝閔帝踐阼,進位柱國,拜御正中大夫。武成初,與賀蘭祥討吐谷渾。軍還,進封許國公,邑萬戶。舊爵廻封一子。遷大司空,治小冢宰,歷大司徒,遷太保。

宇文貴は音楽を好み、囲碁に耽溺し、留連して倦むことを知らなかった。しかし施しを好み士を愛し、当時の人々はこれを大いに称えた。保定の末、突厥に使いして皇后を迎えた。天和二年、張掖に至って還る途中、薨去した。太傅を追贈され、諡して穆といった。

原文 貴好音樂,耽弈碁,留連不倦。然好施愛士,時人頗以此稱之。保定之末,使突厥迎皇后。天和二年,還至張掖,薨。贈太傅,諡曰穆。

子の宇文善が嗣いだ。開府儀同三司・大将軍・柱国・洛州刺史を歴任した。罪により免官されたが、まもなく本官に復し、大宗伯に除せられた。大象の末、上柱国に進位した。宇文善の弟の宇文忻は、若くして父の軍功により化政郡公の爵を賜った。驍勇にして人に絶倫し、将帥の才略があった。大象の末、位は上柱国に至り、英国公に進封された。宇文忻の弟の宇文愷は、若くして学を好み、文章を綴ることをよく解し、雑芸に多く通じ、特に精巧な思慮に長けていた。また父の軍功により双泉県伯の爵を賜った。まもなく祖父の爵である安平郡公を襲った。右侍上士より起家し、やがて御正中大夫に遷った。保定年間、位は上開府に至った。

原文 子善嗣。歷位開府儀同三司、大將軍、柱國、洛州刺史。以罪免,尋復本官,除大宗伯。大象末,進位上柱國。善弟忻,少以父軍功賜爵化政郡公。驍勇絕倫,有將帥才畧。大象末,位至上柱國,進封英國公。忻弟愷,少好學,頗解屬文,雜藝多通,尤精巧思。亦以父軍功賜爵雙泉縣伯。尋襲祖爵安平郡公。起家右侍上士,稍遷御正中大夫。保定中,位至上開府。

是云宝と趙育が到着すると、初めともに車騎大将軍・儀同三司に任ぜられた。宝は後に累遷して大将軍・都督涼甘瓜州諸軍事・涼州刺史に至り、洞城郡公の爵を賜った。世宗の時、吐谷渾が涼州に侵逼し、宝はこれと戦って利あらず、ついに陣中に没した。

原文 是云寶、趙育既至,初並拜車騎大將軍、儀同三司。寶後累遷至大將軍、都督涼甘瓜州諸軍、涼州刺史,賜爵洞城郡公。世宗時,吐谷渾侵逼涼州,寶與戰不利,遂歿於陣。

楊忠

原文 楊忠

楊忠は、弘農郡華陰県の人である。小名は奴奴といった。高祖の楊元寿は、北魏の初め、武川鎮の司馬となり、神武の樹頹に因って家を定めた。祖父の楊烈は、龍驤将軍・太原郡守であった。父の楊禎は、軍功により建遠将軍に除せられた。魏末の喪乱に属し、中山に避地し、義徒を結集して鮮于脩礼を討ち、ついにそのために死んだ。保定年間、楊忠の勲功により、柱国大将軍、少保、興城郡公を追贈された。

原文 楊忠,弘農華陰人也。小名奴奴。高祖元壽,魏初,為武川鎮司馬,因家於神武樹頹焉。祖烈,龍驤將軍、太原郡守。父禎,以軍功除建遠將軍。屬魏末喪亂,避地中山,結義徒以討鮮于脩禮,遂死之。保定中,以忠勳,追贈柱國大將軍,少保、興城郡公。

楊忠は鬚髯が美しく、身長七尺八寸、容貌は瑰偉で、武芸は人に絶倫し、識量は沈深にして、将帥の略があった。十八歳の時、泰山に客遊した。梁の軍が郡を攻め陥としたのに会い、捕らえられて江左に至った。梁に五年在り、北海王元顥に従って洛陽に入り、直閤将軍に除せられた。元顥が敗れると、爾朱度律が召して帳下の統軍とした。爾朱兆が軽騎を率いて幷州より洛陽に入った時、楊忠はこれに参与した。昌県伯の爵を賜り、都督に任ぜられ、また別に小黄県伯に封ぜられた。独孤信に従って梁の下溠戍を破り、南陽を平定し、ともに功があった。

原文 忠美髭髯,身長七尺八寸,狀貌瓌偉,武藝絕倫,識量沉深,有將帥之畧。年十八,客遊泰山。會梁兵攻郡,陷之,遂被執至江左。在梁五年,從北海王顥入洛,除直閤將軍。顥敗,爾朱度律召為帳下統軍。及爾朱兆以輕騎自幷州入洛陽,忠時預焉。賜爵昌縣伯,拜都督,又別封小黃縣伯。從獨孤信破梁下溠戍,平南陽,並有功。

斉の神武帝(高歓)が兵を挙げて内侮すると、楊忠は当時独孤信に従って洛陽におり、魏の孝武帝に従って西遷し、侯爵に進んだ。引き続き潼関を平定し、回洛城を破るのに従った。安西将軍・銀青光禄大夫に除せられた。東魏の荊州刺史辛纂が穣城に拠ると、楊忠は独孤信に従ってこれを討ち、辛纂は戦いに敗れて退走した。独孤信は楊忠に都督の康洛児・元長生とともに前駆となることを命じ、その城に馳せ至り、門の者を叱って言った、「今や大軍已に至る。城の中に内応あり。汝ら生きんと求むれば、何ぞ避けて走らざるや」と。門の者は尽く散った。楊忠は洛児・長生とともに城に乗り込んで入り、弓を引き絞って大声で呼ばわり、辛纂の兵衛百余りも敢えて防ぐ者なく、辛纂を斬って示し、城中は慴服した。半年ほど経ち、東魏の逼迫により、独孤信とともに梁に奔った。梁の武帝は深くこれを奇とし、文徳主帥・関外侯とした。

原文 及齊神武舉兵內侮,忠時隨信在洛,遂從魏孝武西遷,進爵為侯。仍從平潼關,破回洛城。除安西將軍、銀青光祿大夫。東魏荊州刺史辛纂據穰城,忠從獨孤信討之,纂戰敗退走。信令忠與都督康洛兒、元長生為前驅,馳至其城,叱門者曰:「今大軍已至,城中有應,爾等求活,何不避走!」門者盡散。忠與洛兒、長生乘城而入,彎弓大呼,纂兵衞百餘人莫之敢禦,斬纂以狥,城中懾服。居半歲,以東魏之逼,與信奔梁。梁武帝深奇之,以為〈(大)〉〔文〕德主帥、關外侯。

大統三年、独孤信とともに帰朝した。太祖(宇文泰)は召して帳下に居らせた。かつて太祖に従って龍門で狩りをした時、楊忠は独りで一頭の猛獣に当たり、左にその腰を挟み、右にその舌を抜いた。太祖はこれを壮とした。北臺では猛獣を「揜于」と言うので、これを以って字とした。竇泰を擒えるのに従い、沙苑を破った。征西将軍・金紫光禄大夫に遷り、襄城県公に進爵した。河橋の役では、楊忠は壮士五人と力を合わせて橋を守って戦い、敵は遂に進むことを敢えなかった。功により左光禄大夫・雲州刺史に除せられ、大都督を兼ねた。また李遠とともに黒水の稽胡を破り、怡峯とともに玉壁の包囲を解き、洛州刺史に転じた。邙山の戦いでは、先鋒として陣に突入した。大都督に除せられ、車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍に進んだ。母の蓋氏を追封して北海郡君とした。まもなく都督朔燕顕蔚四州諸軍事・朔州刺史に除せられ、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられた。東魏が潁川を包囲した時、蛮帥の田柱清が険阻に拠って乱を起こしたので、楊忠は兵を率いてこれを討平した。

原文 大統三年,與信俱歸闕。太祖召居帳下。嘗從太祖狩於龍門,忠獨當一猛獸,左挾其腰,右拔其舌。太祖壯之。北臺謂猛獸為「揜于」,因以字之。從擒竇泰,破沙苑。遷征西將軍、金紫光祿大夫,進爵襄城縣公。河橋之役,忠與壯士五人力戰守橋,敵人遂不敢進。以功除左光祿大夫、雲州刺史,兼大都督。又與李遠破黑水稽胡,并與怡峯解玉壁圍,轉洛州刺史。邙山之戰,先登陷陳。除大都督,進車騎大將軍、儀同三司、散騎常侍。追封母蓋氏為北海郡君。尋除都督朔燕顯蔚四州諸軍事、朔州刺史,加侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司。及東魏圍潁川,蠻帥〈(日)〉〔田〕柱清據險為亂,忠率兵討平之。

時に侯景が長江を渡り、梁の武帝が喪敗すると、その西義陽郡守の馬伯符が下溠城を以って降伏した。朝廷はこれに乗じ、漢水・沔水の地域を経略せんとし、楊忠に都督三荊二襄二広南雍平信随江二郢淅十五州諸軍事を授け、穣城に鎮させた。馬伯符を郷導として、梁の斉興郡及び昌州を攻め、いずれもこれを陥とした。梁の雍州刺史・岳陽王蕭詧は藩附を称していたが、なお武心を抱いていた。楊忠は樊城より漢水の畔で兵を閲し、旗を替えながら次々に進ませ、実は騎兵二千であったが、蕭詧が楼に登ってこれを望むと、三万と思い、恐れて服した。

原文 時侯景渡江,梁武喪敗,其西義陽郡守馬伯符以下溠城降。朝廷因之,將經畧漢、沔,乃授忠都督三荊二襄二廣南雍平信隨江二郢淅十五州諸軍事,鎮穰城。以伯符為鄉導,攻梁齊興郡及昌州,皆克之。梁雍州刺史、岳陽王蕭詧雖稱藩附,而尚有貳心。忠自樊城觀兵於漢濱,易旗遞進,實騎二千,詧登樓望之,以為三萬也,懼而服焉。

梁の司州刺史柳仲礼はその長史の馬岫に安陸を守らせ、自ら兵騎一万を率いて襄陽を寇した。初め、梁の竟陵郡守の孫暠がその郡を以って帰附したので、太祖は大都督の符貴を遣わしてこれを鎮守させた。柳仲礼が到着すると、孫暠は符貴を捕らえて降伏した。柳仲礼はさらに進んでその将の王叔孫を遣わし、孫暠とともに守らせた。太祖は怒り、楊忠に命じて衆を率いて南伐させた。梁の随郡を攻めてこれを陥とし、その守将の桓和を捕らえた。通過する城戍は、風を望んで請服した。楊忠は進んで安陸を包囲した。柳仲礼は随郡が陥ったと聞き、安陸が守れぬことを恐れ、馳せ帰って援けに赴いた。諸将は柳仲礼が到着すれば安陸は陥ち難かろうと恐れ、急ぎこれを攻めることを請うた。楊忠は言った、「攻守の勢は異なり、卒にわかに抜くべからず。もし日を引きいて師を労すれば、表裏敵を受くれば、計に非ず。南人は多く水軍に習い、野戦に閑ならず。柳仲礼の回師は近き路に在り。吾れ其の不意に出で、奇兵を以ってこれを襲わば、彼は怠り我は奮い、一挙必ず克つ。然らば安陸は攻めずして自ら抜け、諸城は檄を伝えて定まるべし」と。ここにおいて騎兵二千を選び、枚を銜んで夜進し、淙頭において柳仲礼に遇った。楊忠は自ら陣に突入し、柳仲礼を擒え、その衆を悉く俘虜した。馬岫は安陸を以って降り、王叔孫は孫暠を斬り、竟陵を以って降り、いずれも楊忠の策の如くであった。梁の元帝は使いを遣わして子の蕭方略を質とし、併せて載書を送り、魏をして石城を限界とし、梁は安陸を以って界とせんことを請うた。ここにおいて師を旋した。陳留郡公に進爵した。

原文 梁司州刺史柳仲禮留其長史馬岫守安陸,自率兵騎一萬寇襄陽。初,梁竟陵郡守孫暠以其郡來附,太祖命大都督符貴往鎮之。及仲禮至,暠乃執貴以降。仲禮又進遣其將王叔孫與暠同守。太祖怒,乃令忠帥眾南伐。攻梁隨郡,克之,獲其守將桓和。所過城戍,望風請服。忠乃進圍安陸。仲禮聞隨郡陷,恐安陸不守,遂馳歸赴援。諸將恐仲禮至則安陸難下,請急攻之。忠曰:「攻守勢殊,未可卒拔。若引日勞師,表裏受敵,非計也。南人多習水軍,不閑野戰。仲禮回師在近路,吾出其不意,以奇兵襲之,彼怠我奮,一舉必克,則安陸不攻自拔,諸城可傳檄而定也。」於是選騎二千,銜枚夜進,遇仲禮於淙頭。忠親自陷陳,擒仲禮,悉俘其眾。馬岫以安陸降,王叔孫斬孫暠,以竟陵降,皆如忠所策。梁元帝遣使送子方畧為質,并送載書,請魏以石城為限,梁以安陸為界。乃旋師。進爵陳留郡公。

十七年、梁の元帝がその兄の邵陵王蕭綸を逼迫した。蕭綸は北へ渡り、かつての西陵郡守の羊思達とともに随・陸の土豪の段珍宝・夏侯珍洽を要し、謀を合わせて質を斉に送り、来たりて寇掠せんとした。汝南城主の李素は、蕭綸の旧吏であり、門を開いてこれを納れた。梁の元帝が密かに太祖に報じたので、太祖は楊忠を遣わして衆を督してこれを討たせた。詰旦に城に臨み、日昃ひぐれにしてこれを陥とした。蕭綸を擒え、その罪を数えてこれを殺した。併せてその安楽侯蕭昉を獲、これもまた殺した。初め、楊忠が柳仲礼を擒えた時、これを遇するに甚だ厚かった。柳仲礼が京師に至ると、楊忠を太祖に讒して、軍中において大いに金宝珍玩などを取りしと云った。太祖はこれを覆按しようとしたが、その功の高きを惜しみ、楊忠を出した。楊忠は忿恚し、柳仲礼を殺さなかったことを悔いた。故にここに至り蕭綸らを獲て、併せて戮を加えたのである。楊忠は一年おきに再び挙兵し、漢東の地を尽く平定した。寛をもって衆を御し、新たに帰附した者の心を甚だ得た。

原文 十七年,梁元帝逼其兄邵陵王綸。綸北度,與其前西陵郡守羊思達要隨、陸土豪段珍寶、夏侯珍洽,合謀送質於齊,欲來寇掠。汝南城主李素,綸故吏也,開門納焉。梁元帝密報太祖,太祖乃遣忠督眾討之。詰旦陵城,日昃而尅。擒蕭綸,數其罪而殺之;并獲其安樂侯昉,亦殺之。初,忠之擒柳仲禮,遇之甚厚。仲禮至京師,乃譖忠於太祖,言其在軍大取金寶珍玩等。太祖欲覆按之,惜其功高,乃出忠。忠忿恚,悔不殺仲禮。故至此獲綸等,竝加戮焉。忠間歲再舉,盡定漢東之地。寬以御眾,甚得新附之心。

魏の恭帝の初め、普六如氏の姓を賜り、同州の事務を代行した。于謹が江陵を討伐した際、楊忠は前軍となり、江津に駐屯して退路を遮断した。梁人は象の鼻に刃を縛り付けて戦ったが、忠がこれを射ると、二頭の象は逆に走り去った。江陵が平定されると、朝廷は蕭詧を梁主として立て、忠に穣城を鎮守させて掎角の勢いを成させた。別に沔曲の諸蛮を討伐し、ことごとくこれを平定した。

原文 魏恭帝初,賜姓普六如氏,行同州事。及于謹伐江陵,忠為前軍,屯江津,遏其走路。梁人束刃於象鼻以戰,忠射之,二象反走。及江陵平,朝廷立蕭詧為梁〈(王)〉〔主〕,令忠鎮穰城以為掎角之勢。別討沔曲諸蠻,皆克之。

孝閔帝が即位すると、召されて小宗伯となった。斉人が東境を侵すと、忠は出鎮して蒲坂を守った。司馬消難が降伏を請うと、忠は柱国達奚武とともにこれを救援した。ここに共に騎士五千を率い、人ごとに馬一匹を兼ね、間道より斉の境内五百里を馳せ入った。前後三度の使者を消難のもとに遣わしたが、皆返事はなかった。北豫州から三十里のところで、武は変事を疑い、引き返そうとした。忠は言った、「進んで死するはあれど、退いて生きるはなし」と。ただ千騎を率いて夜に城下に急行した。四面は切り立って絶え、ただ柝を打つ音のみが聞こえた。武が自ら来て、数百騎を率いて西に向かった。忠は残りの騎兵を抑えて動かず、門が開くのを待って入城し、急ぎ使いを出して武を召し寄せた。時に斉の鎮城将伏敬遠が甲士二千人を率いて東の城壁を占拠し、烽火を上げて厳重に警戒した。武はこれを恐れ、城を守ろうとせず、多くの財帛を奪い取り、消難とその配下を先に帰還させた。忠は三千騎を率いて殿軍となり、洛南に到ると、皆鞍を解いて臥した。斉の軍勢が追撃してきて、洛北に至った。忠は将士に言った、「ただ飽食せよ、今は死地にあり、賊は必ずや水を渡って我が鋒に当たることはあるまい」と。斉兵は水を渡るふりをしたが、忠が駆け出してこれを撃とうとすると、斉兵は近づかず、ゆるやかに引き揚げて帰還した。武は嘆じて言った、「達奚武は自ら天下の健児と思っていたが、今日は服した」と。位を進めて柱国大将軍となった。武成元年、随国公に進封され、邑一万戸を賜り、別に竟陵県一千戸を食み、その租賦を収めた。まもなく御正中大夫を治めた。

原文 孝閔帝踐阼,入為小宗伯。齊人寇東境,忠出鎮蒲坂。及司馬消難請降,忠與柱國達奚武援之。於是共率騎士五千,人兼馬一疋,從間道馳入齊境五百里。前後遣三使報消難而皆不反命。去〔北〕豫州三十里,武疑有變,欲還。忠曰:「有進死,無退生。」獨以千騎夜趨城下,四面峭絕,徒聞擊柝之聲。武親來,麾數百騎以西。忠勒餘騎不動,候門開而入,乃馳遣召武。時齊鎮城伏敬遠勒甲士二千人據東陴,舉烽嚴警。武憚之,不欲保城,乃多取財帛,以消難及其屬先歸。忠以三千騎為殿,到洛南,皆解鞍而臥。齊眾來追,至於洛北。忠謂將士曰:「但飽食,今在死地,賊必不敢渡水當吾鋒。」齊兵陽若渡水,忠馳將擊之,齊兵不敢逼,遂徐引而還。武歎曰:「達奚武自是天下健兒,今日服矣!」進位柱國大將軍。武成元年,進封隨國公,邑萬戶,別食竟陵縣一千戶,收其租賦。尋治御正中大夫。

保定二年、大司空に遷った。時に朝廷の議論では突厥とともに斉を伐とうとし、公卿は皆言った、「斉氏は天下の半分の地を持ち、国は富み兵は強い。もし漠北より幷州に入るのは、極めて険阻であり、かつ大将斛律明月は容易に対抗できる者ではない。今その巣窟を探ろうとすれば、十万の兵なくしてはならぬ」と。忠のみは言った、「師は和に克つのであって衆にあるのではない、一万騎で足りる。明月は小僧に過ぎず、何ができようか」と。三年、ついに忠を元帥とし、大将軍楊纂・李穆・王傑・爾朱敏および開府元寿・田弘・慕容延ら十余人を皆その配下とした。また達奚武に歩騎三万を率いさせ、南道より進軍し、晋陽で会合することを期した。忠は敏を留めて什賁を占拠させ、河上に遊兵を置いた。忠は武川より出撃し、故宅を過ぎて先祖を祭り、将士に饗応し、二十余りの鎮を席巻した。斉人は陘嶺の隘路を守ったが、忠は奇兵を放って奮撃し、これを大破した。また楊纂を留めて霊丘に駐屯させ、後詰めとした。突厥の木汗可汗・控地頭可汗・歩離可汗らが十万騎を率いて来会した。四年正月朔、晋陽を攻撃した。この時大雪が数十日続き、風寒は惨烈で、斉人はその精鋭を尽くし、鬨の声を上げて出撃した。突厥は震駭し、西山に引き上げて戦おうとしなかった。衆は皆顔色を失った。忠はその衆に命じて言った、「事の勢いは天にあり、衆寡を意とするなかれ」と。そこで七百人を率いて歩戦し、死者は十のうち四、五に及んだ。武が後期して到着しなかったため、ついに軍を返した。斉人もまた敢えて迫らなかった。突厥はここに兵を放って大いに掠奪し、晋陽から平城まで七百余里にわたり、人畜に残るものなく、捕虜や斬首は甚だ多かった。高祖は使者を遣わして夏州で忠を迎え労った。京師に至ると、手厚く宴を賜い物を与えた。高祖は忠を太傅としようとしたが、晋公宇文護はその己に附かないことを難じ、ついに総管涇豳霊雲塩顕六州諸軍事・涇州刺史に拝した。

原文 保定二年,遷大司空。時朝議將與突厥伐齊,公卿咸曰:「齊氏地半天下,國富兵強。若從漠北入幷州,極為險阻,且大將斛律明月未易可當。今欲探其巢窟,非十萬不可。」忠獨曰:「師克在和不在眾,萬騎足矣。明月豎子,亦何能為。」三年,乃以忠為元帥,大將軍楊纂、李穆、王傑、爾朱敏及開府元壽、田弘、慕容延等十餘人皆隸焉。又令達奚武帥步騎三萬,自南道而進,期會晉陽。忠乃留敏據什賁,遊兵河上。忠出武川,過故宅,祭先人,饗將士,席卷二十餘鎮。齊人守陘嶺之隘,忠縱奇兵奮擊,大破之。又留楊纂屯靈丘為後拒。突厥木汗可汗控〈(也)〉〔地〕頭可汗、步〈(雖)〉〔離〕可汗等,以十萬騎來會。四年正月朔,攻晉陽。是時大雪數旬,風寒慘烈,齊人乃悉其精銳,鼓噪而出。突厥震駭,引上西山不肯戰。眾皆失色。忠令其眾曰:「事勢在天,無以眾寡為意。」乃率七百人步戰,死者十四五。以武後期不至,乃班師。齊人亦不敢逼。突厥於是縱兵大掠,自晉陽至〈(欒)〉〔平〕城七百餘里,人畜無孑遺,俘斬甚眾。高祖遣使迎勞忠於夏州。及至京師,厚加宴賜。高祖將以忠為太傅,晉公護以其不附己,難之,乃拜總管涇〈(幽)〉〔豳〕靈雲鹽顯六州諸軍事、涇州刺史。

この年、大軍がまた東征し、晋公護は洛陽より出撃し、忠に沃野より出撃して突厥に応接するよう命じた。時に軍糧は既に少なく、諸将はこれを憂えたが、計略は出なかった。忠は言った、「権をもって事を成すべきである」と。そこで稽胡の諸首領を招き誘い、皆を座につかせた。王傑に盛大な軍容を整えさせ、鼓を鳴らして来させた。忠は陽に怪しんでこれを問うた。傑は言った、「大冢宰(宇文護)は既に洛陽を平定され、天子は銀州・夏州の間の生胡が騒動していると聞き、故に傑をして公のもとに就き討伐せしめられるのです」と。また突厥の使者に馳せ至らせて告げさせた、「可汗はさらに幷州に入り、兵馬十余万を長城の下に留めている。故に公に問わしめる、もし稽胡が服従せず、公と共にこれを破ろうと欲するならば」と。座にいる者は皆恐れ、忠は慰撫してこれを帰した。ここにおいて諸胡は相率いて帰順し、輸送する物資は積み重なった。晋公護が先に退却したため、忠もまた兵を罷めて鎮に還った。また政績が称えられるべきとして、詔により銭三十万・布五百匹・穀二千斛を賜った。

原文 是歲,大軍又東伐,晉公護出洛陽,令忠出沃野以應接突厥。時軍糧既少,諸將憂之,而計無所出。忠曰:「當權以濟事耳。」乃招誘稽胡諸首領,咸令在坐。使王傑盛軍容,鳴鼓而至。忠陽怪而問之。傑曰:「大冢宰已平洛陽,天子聞銀、夏之間生胡擾動,故使傑就公討之。」又令突厥使者馳至而告曰:「可汗更入幷州,留兵馬十餘萬在長城下,故遣問公,若有稽胡不服,欲來共公破之。」坐者皆懼,忠慰喻而遣之。於是諸胡相率歸命,饋輸填積。屬晉公護先退,忠亦罷兵還鎮。又以政績可稱,詔賜錢三十萬、布五百疋、穀二千斛。

天和三年、病により京に還った。高祖および晋公護はたびたび見舞いに臨んだ。まもなく薨じ、年六十二。太保・同朔等十三州諸軍事・同州刺史を追贈され、本官はもとのままとした。諡して桓といった。子の堅が嗣いだ。

原文 天和三年,以疾還京。高祖及晉公護屢臨視焉。尋薨,年六十二,贈太保、同朔等十三州諸軍事、同州刺史,本官如故。諡曰桓。子堅嗣。

弟の整は、建徳年間に開府・陳留郡公となり、高祖に従って斉を平定し、幷州で歿した。整が王事に死したことを以て、詔してその子智積にその官爵を襲封させた。整の弟慧は、大象の末に大宗伯・竟陵県公となった。慧の弟の嵩は、忠の勲功により、興城郡公の爵を賜り、早く卒した。嵩の弟の達もまた忠の勲功により、周郡公の爵を得た。

原文 弟整,建德中,開府、陳留郡公,從高祖平齊,歿於幷州。以整死王事,詔其子智積襲其官爵。整弟〈(惠)〉〔慧〕,大象末,大宗伯、竟陵縣公。〈(惠)〉〔慧〕弟嵩,以忠勳,賜爵興城郡公,早卒。嵩弟達,亦以忠勳,爵周郡公。

王雄

原文 王雄

王雄は字を胡布頭といい、太原の人である。父の崙は雄の傑出した勲功により、柱国大将軍・少傅・安康郡公を追贈された。

原文 王雄字胡布頭,太原人也。父崙以雄〈(傑)〉著勳,追贈柱國大將軍、少傅、安康郡公。

雄は儀容魁偉で、若くして謀略があった。永安の末、賀抜岳に従って関中に入り、征西将軍・金紫光禄大夫に任じられた。魏の孝武帝が西遷すると、都督を授けられ、臨貞県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。大統初め、爵を進めて公とし、邑二百戸を増やされた。武衛将軍に拝し、驃騎将軍を加えられ、邑八百戸を増やされ、大都督に進んだ。まもなく儀同三司に拝し、邑三百戸を増やされた。開府儀同三司に遷り、侍中を加えられ、出て岐州刺史となった。武威郡公に爵を進め、大将軍に位を進め、同州の事務を代行した。十七年、雄は軍を率いて子午谷より出撃し、梁の上津・魏興を包囲した。翌年、これを攻略し、その地を東梁州とした。まもなくまた叛いたため、また雄にこれを討伐させた。魏の恭帝元年、可頻氏の姓を賜った。孝閔帝が即位すると、少傅を授けられ、邑二千戸を増やされ、柱国大将軍に位を進めた。武成初め、庸国公に進封され、邑一万戸を賜った。まもなく出て涇州総管諸軍事・涇州刺史となった。

原文 雄儀貌魁梧,少有謀畧。永安末,從賀拔岳入關,除征西將軍、金紫光祿大夫。魏孝武西遷,授都督,封臨貞縣伯,邑五百戶。大統初,進爵為公,增邑二百戶。拜武衞將軍,加驃騎將軍,增邑八百戶,進大都督。尋拜儀同三司,增邑三百戶。遷開府儀同三司,加侍中,出為岐州刺史。進爵武威郡公,進位大將軍,行同州事。十七年,雄率軍出子午谷,圍梁上津、魏興。明年,克之,以其地為東梁州。尋而復叛,又令雄討之。魏恭帝元年,賜姓可頻氏。孝閔帝踐阼,授少傅,增邑二千戶,進位柱國大將軍。武成初,進封庸國公,邑萬戶。尋出為涇州總管諸軍事、涇州刺史。

保定四年、晋公護に従って東征した。雄は途中で病に遇い、自力で進軍した。邙山に至り、斉の将斛律明月と交戦した。雄は馬を馳せてこれを衝き、三人を殺し、明月は退走したので、雄はこれを追った。明月の左右は皆散り、矢もまた尽き、ただ一人の奴と一本の矢が残っているのみであった。雄が矛を構えて明月に及ばぬこと一丈余り、言った、「惜しいことだ、お前を殺し得ぬが、ただ天子にお目にかかるがよい」と。明月はそこで雄を射て、額に命中させた。雄は馬に抱きついて退走し、陣営に至って薨じた。時に年五十八。使持節・太保・同華等二十州諸軍事・同州刺史を追贈され、諡して忠といった。子の謙が嗣いだ。別に伝がある。

原文 保定四年,從晉公護東征。雄在塗遇病,乃自力而進。至邙山,與齊將斛律明月接戰。雄馳馬衝之,殺三人,明月退走,雄追之。明月左右皆散,矢又盡,惟餘一奴一矢在焉。雄按矟不及明月者丈餘,曰:「惜爾不殺得,但任爾見天子。」明月乃射雄,中額,抱馬退走,至營而薨。時年五十八。贈使持節、太保、同華等二十州諸軍事、同州刺史,諡曰忠。子謙嗣,自有傳。

史評

原文 史評

史臣曰く、太祖は喪乱の際に接し、戦争の余に乗じ、平涼に発跡し、関右を撫征す。時に外虞は孔熾にして、内難は方に殷なり、羽檄交馳し、戎軒屡駕す。終に能く逋孽を蕩清し、鴻基を克く固うす。廟謨に稟算すと雖も、実に将帥に責成す。達奚武等は竝びに勇略を兼資し、咸に風雲に会す。或いは中権に績を効し、或いは方面に功を立て、休慼を均分し、艱難を同済す。国の爪牙、朝の禦侮の者と謂うべし。而して武は太祖に規を協し、小関に儁を得たり、周瑜赤壁の謀、賈詡烏巣の策、何ぞ以て尚ぶべけん。一言にして邦を興す、斯れ近し。

原文 史臣曰:太祖接喪亂之際,乘戰爭之餘,發迹平涼,撫征關右。于時外虞孔熾,內難方殷,羽檄交馳,戎軒屢駕。終能蕩清逋孽,克固鴻基。雖稟筭於廟謨,實責成於將帥。達奚武等竝兼資勇畧,〈(感)〉〔咸〕會風雲。或効績中權,或立功方面,均分休慼,同濟艱難。可謂國之爪牙,朝之禦侮者也。而武協規太祖,得儁小〈(間)〉〔關〕,周瑜赤壁之謀,賈詡烏巢之策,何能以尚。一言興邦,斯近之矣。