周書

巻018

卷十八 列傳第十 王羆 王思政

王羆

原文 王羆

王羆は字を熊羆といい、京兆霸は城の人で、漢代の河南尹王遵の後裔であり、代々州郡の名門であった。羆は剛直で朴訥、物事を公平に扱い、州郡の人々は彼を敬い畏れた。北魏の太和年間、殿中將軍に任じられた。先に南岐・東益の氐羌が反乱し、官軍は戦いに利あらず、そこで羆に羽林五千を率いさせて梁州を鎮守させ、諸賊を討伐平定させた。帰還後、右將軍・西河内史に任じられたが、辞退して受けなかった。当時の人々が彼に言うには、「西河は大邦であり、俸禄も豊かである。どうして辞退するのか」と。羆は言った、「京洛の材木は、すべて西河から出る。朝貴で邸宅を営む者は、皆求め借りる。もし私的に調達すれば、力に堪えず、もし民間から徴発すれば、また法に背く。このゆえに辞退するのだ」と。

原文 王羆字熊羆,京兆霸城人,漢河南尹王遵之後,世為州郡著姓。羆剛直木彊,處物平當,州郡敬憚之。魏太和中,除殿中將軍。先是南岐、東益氐羌反叛,王師戰不利,乃令羆領羽林五千鎮梁州,討平諸賊。還,授右將軍、西河內史。辭不拜。時人謂之曰:「西河大邦,俸祿殷厚,何為致辭?」羆曰:「京洛材木,盡出西河,朝貴營第宅者,皆有求假。如其私辦,即力所不堪,若科發民間,又違法憲。以此辭耳。」

梁の将軍曹義宗が荊州を包囲したので、詔勅により羆は別将の裴衍とともに兵を率いて救援に赴いた。そこで梁軍と戦い、これを大破した。当時は諸方で動乱が沸き起こり、各地は荒廃していた。荊州は新たに寇難を経ており、とりわけ慰撫を必要としていた。羆を荊州刺史とし、撫軍將軍の号を加えた。梁は再び曹義宗に数万の兵を率いさせて荊州を包囲させ、水を堰き止めて城に注ぎ、水没しないのは数板ばかりとなった。当時は内外に憂い多く、救援の暇がなく、そこで羆に鉄券を与え、城が全うされれば本州刺史を授けると約束した。城中の食糧が尽きると、羆は粥を煮て、将士と均等に分けて食べた。出戦するたびに、常に甲冑を身につけず、大声で叫んだ、「荊州城は、孝文皇帝が置かれたものだ。天がもし国家を祐さず、賊の矢を王羆に当たらせるならば、そうでなければ、王羆は必ず賊を破る」と。幾度も戦陣を経たが、傷つくこともなかった。三年を経て、義宗はようやく退いた。霸城縣公に進封された。まもなく車騎大將軍・涇州刺史に転じた。赴任しないうちに、太祖が兵を徴発して勤王の挙に出ようとしたので、先駆けて命を尽くさんことを請い、そこで大都督ととくとなり、華州を鎮守した。

原文 梁將曹義宗圍荊州,勑羆與別將裴衍率兵赴救。遂與梁人戰,大破之。于時諸方鼎沸,所在凋殘。荊州新經寇難,尤藉慰撫。以羆為荊州刺史,進號撫軍將軍。梁復遣曹義宗眾數萬圍荊州,堰水灌城,不沒者數板。時既內外多虞,未遑救援,乃遺羆鐵券,云城全當授本州刺史。城中糧盡,羆煮粥,與將士均分而食之。每出戰,嘗不擐甲冑,大呼曰:「荊州城,孝文皇帝所置。天若不祐國家,使賊箭中王羆;不爾,王羆須破賊。」屢經戰陣,亦不被傷。彌歷三年,義宗方退。進封霸城縣公。尋遷車騎大將軍、涇州刺史。未及之部,屬太祖徵兵為勤王之舉,請前驅効命,遂為大都督,鎮華州。

魏の孝武帝が西遷すると、驃騎大將軍に任じ、侍中・開府を加えられた。かつて州城を修築中で未完成のとき、梯子が城外にあった。齊の神武帝(高歓)が韓軌・司馬子如を河東から夜間に渡河させて羆を襲撃させたが、羆はそれに気づかなかった。夜明け近くになると、韓軌の兵はすでに梯子に乗って城内に入っていた。羆はまだ寝床に起きず、閤外に騒がしい声があるのを聞くと、裸身に髻を露わにし、裸足で、一本の白棒を持ち、大声で叫びながら飛び出した。敵はこれを見て驚き、東門まで追い詰められ、左右の兵が少しずつ集まり、合戦してこれを破った。韓軌の兵は城壁を投げ出して逃げ去った。当時関中は大飢饉であり、民間から穀物を徴税して軍費に充てた。隠匿する者があれば、互いに告げさせるように命じ、多くは鞭打ちの刑に処され、このため人々は逃散した。ただ羆だけは人々に信頼されており、隠匿する者なく、諸州に劣らぬ粟を得たが、怨みの声はなかった。

原文 魏孝武西遷,拜驃騎大將軍,加侍中、開府。嘗修州城未畢,梯在外。齊神武遣韓軌、司馬子如從河東宵濟襲羆,羆不之覺。比曉,軌眾已乘梯入城。羆尚臥未起,聞閤外洶洶有聲,便袒身露髻徒跣,持一白挺,大呼而出。敵見之驚,逐至東門,左右稍集,合戰破之。軌眾遂投城遁走。時關中大饑,徵稅民間穀食,以供軍費。或隱匿者,令遞相告,多被篣棰,以是人有逃散。唯羆信著於人,莫有隱者,得粟不少諸州,而無怨讟。

沙苑の戦いにおいて、齊の神武帝の軍馬は非常に盛んであった。太祖は華州が要衝であるため、使者を遣わして羆を労い、守備を強化するよう命じた。羆は使者に言った、「老いた羆が道に臥せば、子狐(貆)どもがどうして通れようか」と。太祖はこれを聞いて雄壮と感じた。齊の神武帝が城下に至り、羆に言った、「どうして早く降伏しないのか」と。羆は大声で叫んだ、「この城は王羆の墓だ。生死はここにあり、死にたい者は来い」と。齊の神武帝はついに攻撃を敢えてしなかった。

原文 沙苑之役,齊神武士馬甚盛。太祖以華州衝要,遣使勞羆,令加守備。羆語使人曰:「老羆當道臥,貆子安得過!」太祖聞而壯之。及齊神武至城下,謂羆曰:「何不早降?」羆乃大呼曰:「此城是王羆冢,生死在此,欲死者來。」齊神武遂不敢攻。

時に茹茹(柔然)が黄河を渡って南侵し、斥候の騎兵はすでに豳州に至っていた。朝廷はその深入りを憂慮し、兵馬を徴発して京城に駐屯させ、諸街巷に塹壕を掘り、侵攻に備えた。左僕射周惠達が羆を召してこれを協議した。羆は命令に応じず、その使者に言った、「もし茹茹が渭水の北に至れば、王羆が郷里の者を率いて自らこれを破る。国家の兵馬を煩わすことはない。どうして天子の城中で、このような騒ぎを起こすのか。周家の小児(周惠達を指す)が臆病なためにこうなったのだ」と。羆が権勢を軽侮し、正義を守って曲げないのは、皆この類いであった。まもなく、河東に還鎮した。

原文 時茹茹渡河南寇,候騎已至豳州。朝廷慮其深入,乃徵發士馬,屯守京城,塹諸街巷,以備侵軼。左僕射周惠達召羆議之。羆不應命,謂其使曰:「若茹茹至渭北者,王羆率鄉里自破之,不煩國家兵馬。何為天子城中,遂作如此驚動。由周家小兒恇怯致此。」羆輕侮權勢,守正不回,皆此類也。未幾,還鎮河東。

羆の性質は倹約で率直、身なりを飾らなかった。かつて臺使(朝廷の使者)があり、羆が食事を供した。使者が薄い餅の縁を裂いた。羆は言った、「耕し種を収穫するまで、その労はすでに深い。搗き炊きして作り上げるまで、力を用いること少なくない。このように選り好みするとは、まだ飢えていないのだろう」と。左右の者に命じてこれを撤去させた。使者は愕然として大いに恥じた。また客が羆と瓜を食べたとき、〔客が瓜を削ぎ〕皮を厚く削ぎすぎたので、羆はこれを嫌った。瓜の皮が地面に落ちると、手を伸ばして地面から取り、食べた。客は大いに恥じ入った。性質はまた厳しくせっかちで、かつて私情を挟んで事を陳べる役人があったが、羆は鞭打ちを命じる暇もなく、自ら靴を取り、それを持ってこれを打った。宴会があるたびに、自ら酒肉を秤量し、将士に分け与えた。当時の人々はその公平さを尊び、その卑小さを嗤った。大統七年、鎮所で卒去し、太尉を追贈された。

原文 羆性儉率,不事邊幅。嘗有臺使,羆為其設食。使乃裂其薄餅緣。羆曰:「耕種收穫,其功已深;舂爨造成,用力不少。乃爾選擇,當是未饑。」命左右撤去之。使者愕然大慙。又有客與羆食瓜,〔客削瓜〕侵膚稍厚,羆意嫌之。及瓜皮落地,乃引手就地,取而食之。客甚有愧色。性又嚴急,嘗有吏挾私陳事者,羆不暇命捶扑,乃手自取鞾履,持以擊之。每至享會,親自秤量酒肉,分給將士。時人尚其均平,嗤其鄙碎。大統七年,卒於鎮,贈太尉。

子の慶遠は、弱冠にして功臣の子として直閤將軍に任じられた。王羆より先に卒去し、孫の述が嗣いだ。

原文 子慶遠,弱冠以功臣子拜直閤將軍。先羆卒,孫述嗣。

孫の述

原文 孫述

述は字を長述といい、幼少より聡明で機敏、識見と度量があった。八歳のとき、太祖がこれを見て奇異とし、言った、「王公にこのような孫あり、不朽とするに足る」と。すぐに鎮遠將軍とし、太子舍人に任じた。祖父の喪により職を去った。述は幼くして父を喪い、王羆に養育された。喪に服したとき、礼の規範に深く合致した。当時は東西が争い、戦乱が始まったばかりで、喪に遭った群官は、卒哭の後、皆起用されて政務を見させられた。述は礼制を終えることを請い、言葉と道理は懇切であった。太祖は中使を遣わして様子を見させ、その哀痛による衰弱を知り、特にこれを許した。喪が終わると、扶風郡公の爵を襲封し、累進して上大將軍となった。

原文 述字長述,少聰敏,有識度。年八歲,太祖見而奇之,曰:「王公有此孫,足為不朽。」即以為鎮遠將軍,拜太子舍人。以祖憂去職。述幼喪父,為羆所鞠養。及居喪,深合禮度。于時東西交爭,金革方始,羣官遭喪者,卒哭之後,皆起令視事。述請終禮制,辭理懇切。太祖令中使就視,知其哀毀,乃特許之。喪畢,襲爵扶風郡公,累遷上大將軍。

王思政

原文 王思政

王思政は字を思政といい、太原祁の人である。容貌は魁偉で、謀略策を有していた。北魏の正光年間、員外散騎侍郎として初任官した。万俟醜奴・宿勤明達らが関右を擾乱した際、北海王元顥が兵を率いてこれを討伐し、思政を従軍させるよう上奏した。軍事に関するすべての謀議は、彼とともに参酌した。

原文 王思政字思政,太原祁人。容貌魁偉,有籌策。魏正光中,解褐員外散騎侍郎。屬万俟醜奴、宿勤明達等擾亂關右,北海王顥率兵討之,啟思政隨軍。軍事所有謀議,竝與之參詳。

時に魏の孝武帝が藩王であったとき、かねてよりその名を聞き、元顥の軍が帰還すると、賓客として招き、厚く遇した。帝位に即くと、心膂として委ね、安東將軍に遷した。策定の功に預かり、祁縣侯に封じられた。まもなく齊の神武帝がひそかに異心を抱くと、帝は思政を大事に任じうるとし、中軍大將軍・大都督に任じ、宿衛兵を総管させた。思政は帝に言上した、「高歓の心は、道行く人も皆知るところです。洛陽らくようは四面敵を受ける地で、武を用いる地ではありません。関中には崤・函の固さがあり、一人で万夫を防ぐことができます。しかも士馬は精強で、糧食の蓄積も豊かです。進んでは逆命を討ち除き、退いでは関・河を保拠できます。宇文夏州(宇文泰)は同盟を糾合し、功績を立てんと願っています。もし車駕が西幸されるのを聞けば、必ず奔走して奉迎するでしょう。天府の資産を藉り、既成の業に乗じ、一二年の間に、戦陣を習い、耕桑を勧め、旧京を修復すれば、どうして克服できぬことがありましょうか」と。帝は深くこれを認めた。齊の神武帝の兵が河北に至ると、帝は西遷した。太原郡公に進爵した。

原文 時魏孝武在藩,素聞其名,顥軍還,乃引為賓客,遇之甚厚。及登大位,委以心膂,遷安東將軍。預定策功,封祁縣侯。俄而齊神武潛有異圖,帝以思政可任大事,拜中軍大將軍、大都督,總宿衞兵。思政乃言於帝曰:「高歡之心,行路所共知矣。洛陽四面受敵,非用武之地。關中有崤、函之固,一人可禦萬夫。且士馬精彊,糧儲委積,進可以討除逆命,退可以保據關、河。宇文夏州糾合同盟,願立功効。若聞車駕西幸,必當奔走奉迎。藉天府之資,因已成之業,一二年間,習戰陣,勸耕桑,修舊京,何慮不克。」帝深然之。及齊神武兵至河北,帝乃西遷。進爵太原郡公。

大統の後、思政は任用され委ねられていたが、自ら相府(宇文泰の幕府)の旧臣ではないことを以て、常に安からず思った。太祖がかつて同州で、群公と宴を催したとき、錦の敷物や雑綾絹数段を取り出し、諸将に樗蒱をさせてこれを取らせた。品物が尽きると、太祖はまた身に着けていた金帯を解き、諸人に順に擲させて言った、「先に盧(最高の目)を得た者に、これを与える」と。群公が順に擲したが、得る者なく、次に思政の番となった。思政は顔を引き締めて跪坐し、自ら誓って言った、「王思政は旅人として朝廷に帰順し、宰相より国士の遇いを受け、まさに心を尽くして命を効し、知己に報いんと願うところです。もしこの誠が実あるならば、宰相に知らしめ賜わるならば、願わくは擲して即座に盧とならんことを。もし内に尽くさぬ心あれば、神霊もまたこれを明らかにし、盧とならざらしめ、ただちに身を殺して奉じる所に謝すべきです」と。言葉と気概は慷慨として、一座はみな驚いた。すぐに佩いていた刀を抜き、膝の上に横たえ、樗蒲の賽を掴み、腿を打ってこれを擲った。太祖が止めようとしたときには、すでに盧を擲していた。ゆるやかに拝礼して受け取った。この後より、太祖の期待と信頼は一層深くなった。

原文 大統之後,思政雖被任委,自以非相府之舊,每不自安。太祖曾在同州,與羣公宴集,出錦𦋺及雜綾絹數段,命諸將樗蒱取之。物既盡,太祖又解所服金帶,令諸人遍擲,曰:「先得盧者,即與之。」羣公將遍,莫有得者。次至思政,乃歛容跪坐而自誓曰:「王思政羇旅歸朝,蒙宰相國士之遇,方願盡心効命,上報知己。若此誠有實,令宰相賜知者,願擲即為盧;若內懷不盡,神靈亦當明之,使不作也,便當殺身以謝所奉。」辭氣慷慨,一坐盡驚。即拔所佩刀,橫於膝上,攬樗蒱,拊髀擲之。比太祖止之,已擲為盧矣。徐乃拜而受。自此之後,太祖期寄更深。

驃騎將軍に轉ず。精兵を募り、獨孤信に從ひて洛陽を取らしめ、仍なほ信と共に之を鎮す。河橋の戰に及び、思政は馬を下り、長矟を用ひて左右に橫擊し、一擊にして數人を踣たふす。時に陣に陷ること既に深く、從ふ者死に盡き、思政は重創を被り悶絶す。會たまたま日暮れ、敵將軍を收めんとす。思政は久しく軍旅を經、每戰に唯破弊の甲を著るのみ、敵人將帥に非ずと疑ひ、故に免る。帳下督雷五安有り、戰處に於て哭きて思政を求め、會ふに其已に蘇よみがへれるに、遂に相得たり。乃ち衣を割きて創を裹つつみ、思政を扶けて馬に上らしめ、夜久しくして方はじめて還るを得たり。仍弘農を鎮す。思政は玉壁の地險要に在るを以て、城を築かんことを請ふ。即ち自ら營度し、移りて之を鎮す。幷州刺史に遷り、仍玉壁を鎮す。八年、東魏來り寇す。思政守禦に備有り、敵人晝夜攻圍すれども、卒つひに克つこと能はず、乃ち軍を收めて還る。全城の功を以て、驃騎大將軍を受く。復た思政を命じて弘農を鎮せしむ。是に於て城郭を修め、樓櫓を起し、田農を營み、芻秣を積み、凡そ以て守禦すべき者は、皆備はりたり。弘農の備有るは、思政より始まるなり。

原文 轉驃騎將軍。令募精兵,從獨孤信取洛陽,仍共信鎮之。及河橋之戰,思政下馬,用長矟左右橫擊,一擊踣數人。時陷〈(害)〉〔陣〕既深,從者死盡,思政被重創悶絕。會日暮,敵將收軍。思政久經軍旅,每戰唯著破弊甲,敵人疑非將帥,故免。有帳下督雷五安於戰處哭求思政,會其已蘇,遂相得。乃割衣裹創,扶思政上馬,夜久方得還。仍鎮弘農。思政以玉壁地在險要,請築城。即自營度,移鎮之。遷幷州刺史,仍鎮玉壁。八年,東魏來寇,思政守禦有備,敵人晝夜攻圍,卒不能克,乃收軍還。以全城功,受驃騎大將軍。復命思政鎮弘農。於是修城郭,起樓櫓,營田農,積芻秣,凡可以守禦者,皆具焉。弘農之有備,自思政始也。

十二年、特進・荊州刺史を加ふ。州境卑濕にして、城壍多く壞る。思政方まさに都督藺小歡を命じて工匠を督せしめ之を繕治せしむ。黄金三十斤を掘得し、夜中密かに之を送る。旦に至り、思政佐吏を召し金を以て之を示し、曰く「人臣私あるべからず」と、悉く金を封じて上る。太祖之を嘉し、錢二十萬を賜ふ。思政の玉壁を去るや、太祖代はるべき者を舉げしむるを命ず。思政乃ち進めて所部の都督韋孝寬をす。其の後東魏來り寇す。孝寬卒つひに能く城を全うす。時論其の人を知るを稱す。

原文 十二年,加特進、荊州刺史。州境卑濕,城壍多壞。思政方命都督藺小歡督工匠繕治之。掘得黃金三十斤,夜中密送之。至旦,思政召佐吏以金示之,曰「人臣不宜有私」,悉封金送上。太祖嘉之,賜錢二十萬。思政之去玉壁也,太祖命舉代己者,思政乃進所部都督韋孝寬。其後東魏來寇,孝寬卒能全城。時論稱其知人。

十三年、侯景東魏に叛き、兵を擁して梁・鄭に在り、東魏に攻めらる。景乃ち援を請ひ師を乞ふ。當時即ち應接せず。思政以爲く、若し機に因りて進取せずんば、後悔及ぶこと無からんと。即ち荊州の步騎萬餘を率ひ、魯關より陽翟に向ふ。思政入りて潁川を守る。景兵を引きて豫よ州に向ひ、外には地を略すと稱し、乃ち密かに款を遣はして梁に送る。思政諸軍を分布し、景の七州十二鎮を據る。太祖乃ち景に授けたる使持節・太傅・大將軍・兼中書令・河南大行臺・河南諸軍事を以て、回らせて思政に授く。思政竝びに譲りて受けず。頻りに使をして敦喻せしむれども、唯河南諸軍事を受くのみ。

原文 十三年,侯景叛東魏,擁兵梁、鄭,為東魏所攻。景乃請援乞師。當時未即應接。思政以為若不因機進取,後悔無及。即率荊州步騎萬餘,從魯關向陽翟。思政入守潁川。景引兵向豫州,外稱略地,乃密遣送款於梁。思政分布諸軍,據景七州十二鎮。太祖乃以所授景使持節、太傅、大將軍、兼中書令、河南大行臺、河南諸軍事,回授思政。思政竝讓不受。頻使敦喻,唯受河南諸軍事。

東魏の太尉高嶽・行臺慕容紹宗・儀同劉豐生等、步騎十萬を率ひて來り潁川を攻む。城內鼓を臥ふせ旗を偃ふし、人の無きが若し。嶽其の衆を恃み、一戰にして屠る可しと謂ひ、乃ち四面より鼓噪して上る。思政城中の驍ぎょう勇を選び、門を開きて出で突く。嶽の衆敢へて當らず、軍を引きて亂れ退く。嶽卒にわかに攻む可からざるを知り、乃ち多く營壘を修む。又地勢高き處に隨ひ、土山を築きて以て城中に臨む。飛梯火車、晝夜之を攻む。思政亦た火䂎を作り、迅風に因り便に之を土山に投ず。又火箭を以て之を射ち、其の攻具を燒く。仍勇士を募り、縋つりて出で戰ふ。嶽の衆披靡し、其の土山を守る人も亦た山を棄てて走る。齊の文襄更に嶽に兵を益し、洧水を堰きて以て城を灌そそぐ。城中水泉涌き溢れ、防止す可からず。釜を懸けて炊き、糧力俱に竭く。慕容紹宗・劉豐生及び其の將慕容永珍共に樓船に乘じて以て城內を望み、善射の者をして俯して城中を射しむ。俄しばらくして大風暴起り、船乃ち飄ただよひて城下に至る。城上の人長鈎を以て船を牽き、弓弩亂れ射つ。紹宗窮急にして、水に投じて死す。豐生土山に向ひて浮かび、復た矢に中りて斃る。永珍を生擒す。思政之に謂ひて曰く、「僕が破亡するは、晷き漏に在り。誠に卿を殺すこと益無きを知るれども、然れども人臣の節は、之を守りて以て死す。」乃ち涕を流して之を斬る。并へいせて紹宗等の尸を收め、禮を以て埋瘞す。

原文 東魏太尉高嶽、行臺慕容紹宗、儀同劉豐生等,率步騎十萬來攻潁川。城內臥鼓偃旗,若無人者。嶽恃其眾,謂一戰可屠,乃四面鼓噪而上。思政選城中驍勇,開門出突。嶽眾不敢當,引軍亂退。嶽知不可卒攻,乃多修營壘。又隨地勢高處,築土山以臨城中。飛梯火車,晝夜攻之。思政亦作火䂎,因迅風便投之土山。又以火箭射之,燒其攻具。仍募勇士,縋而出戰。嶽眾披靡,其守土山人亦棄山而走。齊文襄更益嶽兵,堰洧水以灌城。城中水泉涌溢,不可防止。懸釜而炊,糧力俱竭。慕容紹宗、劉豐生及其將慕容永珍共乘樓船以望城內,令善射者俯射城中。俄而大風暴起,船乃飄至城下。城上人以長鈎牽船,弓弩亂發。紹宗窮急,投水而死。豐生浮向土山,復中矢而斃。生擒永珍。思政謂之曰:「僕之破亡,在於晷漏。誠知殺卿無益,然人臣之節,守之以死。」乃流涕斬之。并收紹宗等尸,以禮埋瘞。

齊の文襄之を聞き、乃ち步騎十一萬を率ひて來り攻む。自ら堰下に至り、士卒を督勵す。水壯さかなり、城北面遂に崩る。水便ち滿ち溢れ、足を措くの地無し。思政事濟まざるを知り、左右を率ひて土山に據り、之に謂ひて曰く、「吾國の重任を受け、本望難を平げ功を立てんとす。精誠感ずる無く、遂に王命を辱しむ。今力屈け道窮まり、計出す所無し。唯當に死を效し、以て朝恩に謝すべし。」因りて天を仰ぎて大哭す。左右皆號慟す。思政西に向ひて再拜し、便ち自刎せんとす。是に先だち、齊の文襄城中の人に告げて曰く、「能く王大將軍を生致する者有らば、侯に封じ重く賞す。若し大將軍身に損傷有らば、親近左右皆大戮に從はん。」都督駱訓思政に謂ひて曰く、「公常に訓等に語りて、但だ我が頭を將もちて降らば、富貴を得るのみならず、亦た一城の人を活かすと。今高相既に此の言有り、公豈に城中の士卒を哀しまざらんや!」固く共に之を止め、引決するを得ず。齊の文襄其の常侍趙彥深を遣はし土山に就き手を執り意を申さしむ。文襄に引見せらる。辭氣慷慨にして、撓屈の容無し。文襄其の事に忠なるを以て、禮遇甚だ厚し。

原文 齊文襄聞之,乃率步騎十一萬來攻。自至堰下,督勵士卒。水壯,城北面遂崩。水便滿溢,無措足之地。思政知事不濟,率左右據土山,謂之曰:「吾受國重任,本望平難立功。精誠無感,遂辱王命。今力屈道窮,計無所出。唯當効死,以謝朝恩。」因仰天大哭。左右皆號慟。思政西向再拜,便欲自刎。先是,齊文襄告城中人曰:「有能生致王大將軍者,封侯,重賞。若大將軍身有損傷,親近左右,皆從大戮。」都督駱訓謂思政曰:「公常語訓等,但將我頭降,非但得富貴,亦是活一城人。今高相既有此言,公豈不哀城中士卒也!」固共止之,不得引決。齊文襄遣其常侍趙彥深就土山執手申意。引見文襄,辭氣慷慨,無撓屈之容。文襄以其忠於所事,禮遇甚厚。

思政初め潁川に入る、士卒八千人、城既に外援無く、亦た叛く者無し。思政常に勤王を務めとし、資產を營まず。嘗て園地を賜はらる。思政出征の後、家人桑果を種うう。還りて見て怒りて曰く、「匈奴未だ滅びず、去病家を辭く。況んや大賊未だ平らかならず、何事ぞ產業を爲さんや!」左右を命じて拔きて之を棄てしむ。故に身陷るるの後、家に畜積無し。齊の禪を受くるに及び、都官尚書と爲す。子秉。

原文 思政初入潁川,士卒八千人,城既無外援,亦無叛者。思政常以勤王為務,不營資產。嘗被賜園地,思政出征後,家人種桑果。及還,見而怒曰:「匈奴未滅,去病辭家,況大賊未平,何事產業!」命左右拔而棄之。故身陷之後,家無畜積。及齊受禪,以為都官尚書。子秉。

史臣曰く

原文 史臣曰

史臣曰く:王羆剛峭餘有り、弘雅未だ足らず。情は儉率に安んじ、志は公平に在り。既にして節を危城に奮はし、辭を勍敵に抗す。梁人爲に之が爲に退舍し、高氏敢へて兵を加へず。此を以て稱せらるるは、信に虚しからず。述門風を隕さず、亦た稱す可し。王思政有事の秋に驅馳し、功名の際に慷慨す。策名霸府に及び、潁川に作鎮し、縈帶の險を設け、守禦の術を修め、一城の衆を以て、傾國の師に抗し、疲乏の兵を率ひて、勁勇の卒に當たり、猶能く亟しばしば大敵を摧き、屢しばしば奇功を建つ。忠節本朝に冠たり、義聲隣聽に動く。運窮まり事蹙せまるれども、城陷り身囚はる、壯志高風、亦た百世に奮ふに足る。

原文 史臣曰:王羆剛峭有餘,弘雅未足。情安儉率,志在公平。既而奮節危城,抗辭勍敵,梁人為之退舍,高氏不敢加兵。以此見稱,信非虛。述不隕門風,亦足稱也。王思政驅馳有事之秋,慷慨功名之際。及乎策名霸府,作鎮潁川,設縈帶之險,修守禦之術,以一城之眾,抗傾國之師,率疲乏之兵,當勁勇之卒,猶能亟摧大敵,屢建奇功。忠節冠於本朝,義聲動於隣聽。雖運窮事蹙,城陷身囚,壯志高風,亦足奮於百世矣。