巻130

史記

巻一百三十 太史公自序 第七十

昔、顓頊の時に、南正の重に命じて天を司らせ、北正の黎に命じて地を司らせた。唐虞の際には、重黎の後を紹いで、再びこれを典めさせ、夏・商に至るまで、故に重黎氏は代々天地を序した。その周に在る者は、程伯休甫がその後である。周の宣王の時に当たり、その職守を失って司馬氏となった。司馬氏は代々周の史を典めた。恵王・襄王の間、司馬氏は周を去って晋に適った。晋の中軍の随会が秦に奔ると、司馬氏は少梁に入った。

司馬氏が周を去って晋に適って以来、分散し、ある者は衛に在り、ある者は趙に在り、ある者は秦に在った。その衛に在る者は、中山の相となった。趙に在る者は、剣術の論を伝えて顕れ、蒯聵がその後である。秦に在る者は錯と名乗り、張儀と論争し、ここに恵王は錯を使わして蜀を伐たせ、遂にこれを抜き、よってこれを守った。錯の孫の靳は、武安君白起に仕えた。そして少梁は名を改めて夏陽と曰う。靳は武安君とともに趙の長平の軍を坑い、帰還して彼とともに杜郵で賜死し、華池に葬られた。靳の孫の昌は、昌は秦の主鉄官となり、始皇の時に当たった。蒯聵の玄孫の卬は武信君の将となり朝歌を徇った。諸侯が相王たる時、卬を殷に王とした。漢が楚を伐つ時、卬は漢に帰し、その地を河内郡とした。昌は無澤を生み、無澤は漢の市長となった。無澤は喜を生み、喜は五大夫となり、卒し、皆高門に葬られた。喜は談を生み、談は太史公となった。

司馬談

太史公は天官を唐都に学び、易を楊何に受け、道論を黄子に習った。太史公は建元・元封の間に仕え、学者がその意を達せず師が悖るを愍み、乃ち六家の要指を論じて曰く。

太史公は天官を掌るも、民を治めず。子有りて遷と曰う。

司馬遷

遷は龍門に生まれ、河山の陽に耕牧した。年十歳にして則ち古文を誦す。二十にして南に江・淮を游し、会稽に上り、禹穴を探り、九疑を闚い、沅・湘に浮かぶ。北に汶・泗を渉り、業を講じ斉・魯の都にて、孔子の遺風を観、鄒・嶧にて郷射す。鄱・薛・彭城に戹困し、梁・楚を過ぎて以て帰る。ここに於いて遷は仕えて郎中となり、奉使して西征し巴・蜀以南を、南に邛・笮・昆明を略し、還りて命に報いる。

この歳、天子始めて漢家の封を建つ。而して太史公は周南に留滞し、従事するを得ず。故に憤りを発して将に卒せんとす。而して子の遷は適使より反り、河洛の間にて父を見る。太史公は遷の手を執りて泣いて曰く、「余が先は周室の太史なり。上世より嘗て虞夏に功名を顕わし、天官事を典む。後世中衰し、予に於いて絶つか。汝復た太史とならば、則ち吾が祖を継がん。今天子は千歳の統を接ぎ、泰山に封ず。而して余は従行するを得ず。是れ命なるかな、命なるかな。余死なば、汝必ず太史となれ。太史となりては、吾が論著せんと欲する所を忘るるなかれ。且つ夫れ孝は親に事うるに始まり、君に事うるに中り、身を立つるに終わる。名を後世に揚げ、以て父母を顕わす。此れ孝の大なる者なり。夫れ天下周公を称誦するは、其の文武の徳を論歌し、周邵の風を宣べ、太王王季の思慮に達し、爰に公劉に及び、以て后稷を尊ぶ能くするを言うなり。幽厲の後、王道缺け、礼楽衰う。孔子は旧を修め廃を起し、詩書を論じ、春秋を作る。則ち学者今に至るまでこれを則とす。麟を獲て以来四百有余歳、而して諸侯相兼し、史記放絶す。今漢興り、海内一統し、明主賢君忠臣死義の士、余太史として論載せずんば、天下の史文を廃せん。余甚だ懼る。汝其れ念えよ」。遷は首を俯して涕を流し曰く、「小子不敏なり。請う先人の次ぐる所の旧聞を悉く論じ、敢えて闕かざらん」。

卒して三歳にして遷は太史令となり、史記石室金匱の書を紬す。五年にして太初元年に当たり、十一月甲子朔旦冬至、天暦始めて改まり、明堂に建て、諸神紀を受く。

太史公曰く、「先人の言有り、『周公卒して五百歳にして孔子有り。孔子卒して後今に至るまで五百歳、能く世を紹ぎ明らかにし、易伝を正し、春秋を継ぎ、詩書礼楽の際を本とす者有らんや』と。意は斯に在るか。意は斯に在るか。小子何ぞ敢えて譲らんや」。

上大夫壺遂曰く、「昔、孔子は何を為して春秋を作るや」。太史公曰く、「余聞く、董生の曰く、『周道衰廃し、孔子は魯の司寇となり、諸侯之を害し、大夫之を壅ぐ。孔子は言の用いられざるを知り、道の行われざるを知る。是を非み二百四十二年の中を、以て天下の儀表と為し、天子を貶し、諸侯を退け、大夫を討ち、以て王事に達するのみ』と。子曰く、『我れ之を空言に載せんと欲するは、之を行事に見るが如く深切著明ならざるに如かず』と。夫れ春秋は、上は三王の道を明らかにし、下は人事の紀を弁じ、嫌疑を別ち、是非を明らかにし、猶 を定め、善を善とし悪を悪とし、賢を賢とし不肖を賤しみ、亡国を存し、絶世を継ぎ、敝を補い廃を起す。王道の大なる者なり。易は天地陰陽四時五行を著す。故に変に長ず。礼は人倫を経紀す。故に行いに長ず。書は先王の事を記す。故に政に長ず。詩は山川谿谷禽獣草木牝牡雌雄を記す。故に風に長ず。楽は楽の立つ所以を楽む。故に和に長ず。春秋は是非を弁ず。故に人を治むるに長ず。是の故に礼は以て人を節し、楽は以て和を発し、書は以て事を道い、詩は以て意を達し、易は以て化を道い、春秋は以て義を道う。乱世を撥して之を正に反すは、春秋に近きは莫し。春秋の文は数万を成し、その指は数千。万物の散聚皆春秋に在り。春秋の中に、君を しい すること三十六、国を亡ぼすこと五十二、諸侯奔走して其の社稷を保つことを得ざる者は数うべからず。其の所以を察すれば、皆其の本を失えるのみ。故に易に曰く『之を豪釐に失えば、千里に差す』と。故に曰く『臣君を しい し、子父を しい するは、一旦一夕の故に非ず、其の漸久し』と。故に国を有つ者は春秋を知らざるべからず。前に讒有りて見えず、後に賊有りて知らず。人臣たる者は春秋を知らざるべからず。経事を守りて其の宜を知らず、変事に遭いて其の権を知らず。人君父として春秋の義に通ぜざる者は、必ず首悪の名を蒙る。人臣子として春秋の義に通ぜざる者は、必ず篡 しい の誅に陥り、死罪の名を負う。其の実皆善と為すも、之を為して其の義を知らず、空言を被りて敢えて辞せず。夫れ礼義の旨に通ぜざれば、君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらずに至る。夫れ君君たらずんば則ち犯し、臣臣たらずんば則ち誅せられ、父父たらずんば則ち道無く、子子たらずんば則ち孝ならず。此の四つの行いは、天下の大過なり。天下の大過を以て之に予うれば、則ち受け而して敢えて辞せず。故に春秋は、礼義の大宗なり。夫れ礼は未然の前に禁じ、法は已然の後に施す。法の為す所の用は見易く、礼の為す所の禁は知り難し」。

壺遂曰く、「孔子の時、上に明君無く、下に任用を得ず。故に春秋を作り、空文を垂れて礼義を断じ、一王の法に当てんとす。今夫子上は明天子に遇い、下は職を守るを得、万事既に具わり、咸く各其の宜に序せらる。夫子の論ずる所は、何を以て明らかにせんと欲するや」。

太史公曰く、「唯唯、否否、然らず。余之を先人に聞くに曰く、『伏羲至純厚にして、易の八卦を作る。堯舜の盛は、尚書之を載せ、礼楽焉に作る。湯武の隆は、詩人之を歌う。春秋は善を采り悪を貶し、三代の徳を推し、周室を褒む。独り刺譏のみに非ざるなり。』漢興りて以来、明天子に至り、符瑞を獲、封禅し、正朔を改め、服色を易え、命を穆清に受け、沢流れて極まり無く、海外殊俗、重訳して塞に款き、来たりて献見を請う者は、道うに勝えず。臣下百官力めて聖徳を誦すれども、猶其の意を宣べ尽くす能わず。且つ士賢能にして用いられざるは、国ある者の恥なり。主上明聖にして徳布聞せざるは、有司の過ちなり。且つ余嘗て其の官を掌る。明聖盛徳を載せず、功臣世家賢大夫の業を述べずんば、先人の言を堕す。罪是より大なるは莫し。余の所謂る故事を述べ、其の世伝を整斉するは、所謂る作に非ざるなり。而るに君之を春秋に比す。謬りなり。」

ここに於いて其の文を論次す。七年にして太史公李陵の禍に遭い、縲紲に幽せらる。乃ち喟然として嘆きて曰く、「是れ余の罪なるかな。是れ余の罪なるかな。身毀れて用いられず。」退きて深く惟うに曰く、「夫れ詩書の隠約なる者は、其の志を遂げんとするの思を欲するなり。昔、西伯羑里に拘せられて周易を演じ、孔子陳蔡に戹せられて春秋を作り、屈原放逐せられて離騷を著し、左丘明失明して国語有り、孫子臏脚して兵法を論じ、不韋蜀に遷りて呂覧を世に伝え、韓非秦に囚われて説難・孤憤す。詩三百篇は、大抵賢聖発憤の為に作る所なり。此の人皆意に鬱結する所有り、其の道を通ずるを得ざるなり。故に往事を述べて来者を思うなり。」ここに於いて卒に陶唐以来を述べ、麟に至りて止む。黄帝より始む。

目録

本紀

昔、黄帝は天に法り地に則り、四聖序に遵い、各法度を成す。唐堯位を遜り、虞舜台せず。厥の美は帝功、万世之を載す。五帝本紀第一を作る。

禹の功は、九州之に同く、唐虞の際に光り、徳苗裔に流る。夏桀淫驕にして、乃ち鳴条に放たる。夏本紀第二を作る。

契商を作り、爰に成湯に及ぶ。太甲桐に居り、徳阿衡に盛ん。武丁説を得て、乃ち高宗と称す。帝辛湛湎して、諸侯享せず。殷本紀第三を作る。

棄稷を作り、徳西伯に盛ん。武王牧野にて、実に天下を撫す。幽厲昏乱にして、既に酆鎬を喪い、陵遅して赧に至り、洛邑祀らず。周本紀第四を作る。

秦の先は、伯翳禹を佐く。穆公義を思い、豪の旅を悼む。人を以て殉と為し、詩黄鳥を歌う。昭襄帝を業とす。秦本紀第五を作る。

始皇既に立ち、六国を へい 兼し、鋒を銷き鐻を鑄き、干革を偃せしめ、尊号を称して帝と為り、武を矜り力を任す。二世運を受け、子嬰虜に降る。始皇本紀第六を作る。

秦其の道を失い、豪桀 へい び擾る。項梁之を業とし、子羽之を接ぐ。慶を殺し趙を救い、諸侯之を立つ。嬰を誅し懷に背き、天下之を非とす。項羽本紀第七を作る。

子羽暴虐にして、漢功徳を行なう。憤発して蜀漢よりし、還りて三秦を定め、籍を誅し帝を業とし、天下惟だ寧く、制を改め俗を易う。高祖本紀第八を作る。

惠早く霣ち、諸呂台せず。禄・産を崇彊し、諸侯之を謀る。隠を殺し友を幽し、大臣洞疑し、遂に宗禍に及ぶ。呂太后本紀第九を作る。

漢既に初め興り、継嗣明らかならず、王を迎えて祚を践ましむ。天下心に帰す。肉刑を蠲除し、関梁を開通し、恩を広く施し博く、厥れ太宗と称す。孝文本紀第十を作る。

諸侯驕恣し、呉首めて乱を為す。京師誅を行ない、七国辜に伏す。天下翕然として、大いに安んじ殷富なり。孝景本紀第十一を作る。

漢朝興起して五世、隆盛は建元に在り、外には夷狄を攘い、内には法度を修め、封禅を行い、正朔を改め、服色を易う。今上本紀第十二を作る。

三代は尚し、年紀は考うべからず、蓋し譜牒旧聞よりこれを取り、本を茲に於いて、是に略推し、三代世表第一を作る。

幽厲の後、周室衰微し、諸侯政を専らにし、春秋に紀さざる所あり。而して譜牒経略し、五覇盛衰を更え、周世の相先後する意を睹んと欲し、十二諸侯年表第二を作る。

春秋の後、陪臣政を秉り、彊国相王す。以て秦に至り、卒に諸夏を併し、封地を滅ぼし、其の号を擅にする。六国年表第三を作る。

秦既に暴虐にして、楚人難を発し、項氏遂に乱れ、漢乃ち義を扶けて征伐す。八年の間、天下三たび嬗り、事繁く変衆し、故に詳しく秦楚の際月表第四を著す。

漢興已来、太初百年に至るまで、諸侯廃立分削し、譜紀明らかならず、有司踵を靡かず、彊弱の原云く世を以てす。漢興已来諸侯年表第五を作る。

高祖の元功、輔臣股肱、符を剖ちて爵し、沢苗裔に流る。其の昭穆を忘れ、或いは身を殺し国を隕す。高祖功臣侯者年表第六を作る。

惠景の間、功臣宗属の爵邑を申す。惠景間侯者年表第七を作る。

北には彊胡を討ち、南には勁越を誅し、夷蛮を征伐し、武功爰に列す。建元以来侯者年表第八を作る。

諸侯既に彊く、七国従たり、子弟衆多にして、爵封邑無し。恩を推し義を行い、其の勢銷弱し、徳京師に帰す。王子侯者年表第九を作る。

国に賢相良将有り、民の師表なり。漢興以来の将相名臣年表を見るに、賢者は其の治を記し、不賢者は其の事を彰す。漢興以来将相名臣年表第十を作る。

三代の礼は、損益する所各殊務なり。然れども要は性情に近く、王道に通ぜんことを以てす。故に礼は人の質に因りて之が節文を為し、略古今の変に協す。礼書第一を作る。

楽は、風俗を移し易うる所以なり。雅頌の声興るより、則ち已に鄭衛の音を好む。鄭衛の音の来たる所久し。人情の感ずる所、遠俗則ち懐く。楽書を比して来古を述べ、楽書第二を作る。

兵なくしては強くならず、徳なくしては栄えない。黄帝・湯王・武王はこれによって興り、桀王・紂王・二世皇帝はこれによって滅んだ。慎まざるべけんや。司馬法の由来する所は古く、太公望・孫子・呉子・王子成甫がこれを継承して明らかにし、近世に切実に迫り、人の変わりゆく極みを究めた。律書第三を作る。

律は陰に居て陽を治め、暦は陽に居て陰を治む。律と暦は互いに治め合い、その間には微細な隙もない。五家の説は互いに異なるが、ただ太初暦の論が優れている。暦書第四を作る。

星気を説く書は、多くは禨祥 (吉凶の兆し) を雑えて経典に合わない。その文を推し、その応ずる所を考うるに、大差はない。これらを集めてその事跡を論じ、軌度 (天体の運行法則) に照らして検証し、順序を付ける。天官書第五を作る。

天命を受けて王となる者、封禅を行う符瑞は稀にしか用いられない。用いられるときは、あらゆる神霊を祭らぬことはない。諸神および名山大川に対する礼の由来を遡って記す。封禅書第六を作る。

禹が川を浚って以来、九州は安寧を得た。そして宣防宮 (武帝の治水事業) に至り、堤防を決めて溝渠を通じた。河渠書第七を作る。

貨幣の流通は、農と商を通じ合わせるためである。その極みに至れば、巧みを弄し、兼併して殖え、機会と利を争い、本業を捨てて末業に趨く。事変を観るために平準書を作る。第八。

世家

太伯は歴 (父の古公亶父) を避けて、江蛮の地に赴いた。文王・武王の興りは、古公の王業の跡による。闔廬が王僚を しい し、荊楚を賓服させた。夫差は斉を破ったが、子胥を鴟夷 (皮袋) に詰めて殺した。伯嚭を信じて越に親しんだため、呉国は遂に滅んだ。太伯の譲りを称え、呉世家第一を作る。

申・呂の国は衰えたが、尚父 (太公望) は微賤の身であった。遂に西伯 (文王) に帰し、文王・武王の師となった。その功は群公の冠たり、幽玄の機微を妙に権衡した。白髪の老将として、斉の営丘に封ぜられて祭祀を享けた。柯の盟いを背かず、桓公はこれによって昌え、九たび諸侯を会合させ、覇者の功業は顕著に現れた。田・闞 (田常と闞止) が寵を争い、姜姓の斉はついに滅亡した。尚父の謀略を称え、斉太公世家第二を作る。

これに依り、これに背く者があっても、周公はこれを安んじた。文徳を奮い起こし、天下はこれに和した。成王を輔翼し、諸侯は周を宗とした。隠公・桓公の時代、どうしてこのようなこと (魯の内乱) が起こったのか。三桓 (季孫・叔孫・孟孫) が強さを争い、魯はついに栄えなかった。旦 (周公) の金縢の書を称え、周公世家第三を作る。

武王は紂を克ったが、天下はまだ和協せずして崩じた。成王は幼く、管叔・蔡叔はこれを疑い、淮夷はこれに叛いた。ここにおいて召公が徳を率い、王室を安んじて集め、以て東土を寧んじた。燕王噲が禅譲したことが、かえって禍乱を成した。甘棠の詩を称え、燕世家第四を作る。

管叔・蔡叔は武庚を輔佐し、旧商の地を鎮めようとした。周公旦が摂政となると、二叔 (管叔・蔡叔) はこれに従わず。管叔鮮を殺し蔡叔度を放逐し、周公は盟約を結んだ。太任 (文王の母) の十人の子 (武王ら兄弟) があり、周はこれによって宗族が強かった。管叔仲 (蔡叔?) の過ちを悔いたことを称え、管蔡世家第五を作る。

王の後裔が絶えることなく、舜と禹について言い伝えがある。その徳が美しく明らかであれば、子孫はその功業を蒙る。百世にわたって祭祀を享け、周代には陳・杞の国があったが、楚が実にこれを滅ぼした。斉の田氏が既に興ったが、舜は何と偉大な人物であったか。陳杞世家第六を作る。

殷の余民を収め、康叔封が初めて邑を建てた。商の乱を戒め、酒や材木についての訓戒を与えた。宣公朔が生まれると、衛は傾いて安寧でなくなった。南子が蒯聵を憎み、子と父が名を易えた (出公輒と父蒯聵の争い) 。周の徳が衰え微かになり、戦国時代が強くなると、衛は小国として弱かったが、角 (衛君角) だけが最後に滅亡した。あの康誥を喜び、衛世家第七を作る。

ああ箕子よ、ああ箕子よ。正しい言葉が用いられず、かえって奴隷となった。武庚が死んだ後、周は微子を封じた。襄公は泓の水で傷つき、君子は誰が称えようか。景公の謙譲の徳により、熒惑 (火星) が退行した。剔成 (宋君剔成) が暴虐で、宋はついに滅亡した。微子が太師に問うたことを喜び、宋世家第八を作る。

武王既に崩じ、叔虞は唐に邑す。君子は名を譏り、卒に武公を滅ぼす。驪姫の愛、乱する者五世、重耳は意を得ず、乃ち能く覇を成す。六卿権を専らにし、晋国以て秏す。文公の珪鬯を錫るを嘉し、晋世家第九を作る。

重黎業を之にし、呉回之を接ぐ、殷の季世、粥子之に牒す。周は熊繹を用い、熊渠是を続く。荘王の賢、乃ち国を陳に復し、既に鄭伯を赦し、師を華元に班す。懐王客死し、蘭は屈原を咎む、諛を好み讒を信じ、楚は秦に併さる。荘王の義を嘉し、楚世家第十を作る。

少康の子、実に南海に賓し、文身断髪、黿鱓と与に処し、既に封禺を守り、禹の祀を奉ず。句踐彼に困し、乃ち種・蠡を用う。句踐夷蛮にして能く其の徳を修め、彊き呉を滅ぼして周室を尊ぶを嘉し、越王句踐世家第十一を作る。

桓公の東、太史是を用う。及び周の禾を侵すに及び、王人は是を議す。祭仲盟を要し、鄭久しく昌えず。子産の仁、世を紹ぎて賢と称せらる。三晋侵伐し、鄭は韓に納る。厲公の恵王を納るるを嘉し、鄭世家第十二を作る。

維れ驥・騄耳、乃ち造父を章す。趙夙は献に事え、衰其の緒を継ぐ。文を佐けて王を尊び、卒に晋の輔と為る。襄子困辱し、乃ち智伯を禽す。主父生縛せられ、餓死して爵を探る。王遷は辟淫し、良将は是れ斥けらる。鞅の周の乱を討つを嘉し、趙世家第十三を作る。

畢萬魏に爵し、卜人の之を知る。及び絳干を戮するに及び、戎翟之と和す。文侯義を慕い、子夏之に師す。恵王自ら矜り、斉・秦之を攻む。既に信陵を疑い、諸侯之を罷む。卒に大梁を亡ぼし、王假之を廝す。武の晋文を佐けて霸道を申すを嘉し、魏世家第十四を作る。

韓厥陰徳有り、趙武攸に興る。絶を紹ぎ廃を立て、晋人之を宗とす。昭侯列に顕れ、申子之を用う。非を疑いて信ぜず、秦人之を襲う。厥の晋を輔け周天子の賦を匡うるを嘉し、韓世家第十五を作る。

完子難を避け、斉に適きて援と為り、陰に五世に施し、斉人之を歌う。成子政を得、田和侯と為る。王建心を動かし、乃ち共に遷る。威・宣の濁世を撥てて独り周を宗とする能きを嘉し、田敬仲完世家第十六を作る。

周室既に衰え、諸侯恣に行う。仲尼礼廃楽崩を悼み、経術を追修し、以て王道に達し、乱世を匡して之を正に反し、其の文辞を見るに、天下の為に儀法を制し、六芸の統紀を後世に垂る。孔子世家第十七を作る。

桀・紂其の道を失いて湯・武作る。周其の道を失いて春秋作る。秦其の政を失き、而して陳涉跡を発し、諸侯難を作し、風起り雲蒸し、卒に秦族を亡ぼす。天下の端、自ら発難よりす。陳涉世家第十八を作る。

成皋の台、薄氏始めて基く。意を詘めて代に適き、厥れ諸竇を崇む。栗姬貴に偩い、王氏乃ち遂ぐ。陳後太だ驕り、卒に子夫を尊ぶ。夫の徳の斯の若きを嘉し、外戚世家十九を作る。

漢既に謀を譎し、信を陳に禽す。越・荊剽軽なり、乃ち弟交を封じて楚王と為し、爰に彭城に都し、以て淮泗を彊くし、漢の宗藩と為る。戊邪に溺れ、礼復た之を紹ぐ。游の祖を輔くるを嘉し、楚元王世家二十を作る。

維れ祖師旅、劉賈是と与にす。布に襲わるる為に、其の荊・呉を喪う。営陵呂を激し、乃ち瑯邪に王す。午を怵て斉を信じ、往て帰らず、遂に関に入り、遭いて孝文を立て、復た燕に王することを獲る。天下未だ集まらず、賈・澤は族を以て、漢の藩輔と為る。荊燕世家第二十一を作る。

天下已に平ぎ、親属既に寡し。悼恵先ず壮し、実に東土を鎮む。哀王擅に興り、諸呂に怒りを発し、駟鈞暴戾にして、京師許さず。厲の内淫、禍主父に成る。肥の股肱たるを嘉し、斉悼恵王世家第二十二を作る。

楚人我が 滎陽 けいよう を囲み、相守ること三年、蕭何は山西を填撫し、計を推し兵に踵き、糧食を給して絶えず、百姓をして漢を愛し、楚と為るを楽しましむ。蕭相国世家第二十三を作る。

韓信と共に魏を定め、趙を破り斉を抜き、遂に楚人を弱めた。蕭何の相国を継ぎ、変えず革めず、民衆は安寧を得た。曹参の功を誇らず能を矜らないことを嘉し、曹相国世家第二十四を作る。

帷幄の中に籌を運らし、形なきに勝を制す、子房はその事を計謀し、知られず、勇功なく、難を易きに図り、大を細きに為す。留侯世家第二十五を作る。

六奇既に用いられ、諸侯漢に賓従す。呂氏の事、陳平が本謀たり、終に宗廟を安んじ、社稷を定む。陳丞相世家第二十六を作る。

諸呂は従 (合従) を為し、京師を弱めんと謀るも、周勃は経に反して権に合す。呉楚の兵、周亜夫は昌邑に駐し、以て斉趙を扼し、出でて梁に委す。絳侯世家第二十七を作る。

七国叛逆し、京師を蕃屏するも、梁のみが捍ぐ。驕愛し功を矜り、幾くんか禍に獲られんとす。其の能く呉楚を距ぐるを嘉し、梁孝王世家第二十八を作る。

五宗既に王たり、親属洽和し、諸侯大小藩と為り、爰に其の宜を得、僭擬の事稍衰貶す。五宗世家第二十九を作る。

三子の王たる、文辞観るべし。三王世家第三十を作る。

列傳

末世利を争うも、彼は義に奔る。国を譲り餓死し、天下之を称す。伯夷列傳第一を作る。

晏子は儉なり、夷吾は則ち奢なり。斉桓は以て覇たり、景公は以て治まる。管晏列傳第二を作る。

李耳は無為にして自ら化し、清浄にして自ら正す。韓非は事情を揣り、勢理に循う。老子韓非列傳第三を作る。

古より王者に司馬法有り、穰苴能く之を申明す。司馬穰苴列傳第四を作る。

信・廉・仁・勇ならざれば兵を伝え剣を論ずる能わず、道と符を同じくし、内は以て身を治め、外は以て応変す、君子徳に比ぶ。孫子呉起列傳第五を作る。

太子建讒に遇い、爰に伍奢に及び、伍尚既に父を匡し、伍員呉に奔る。伍子胥列傳第六を作る。

孔氏文を述べ、弟子業を興し、咸く師傅と為り、仁を崇め義を厲す。仲尼弟子列傳第七を作る。

鞅は衛を去り秦に赴き、その術を明らかにし、孝公を強く覇たらしめ、後世その法を遵奉す。商君列傳第八を作る。

天下は衡秦の飽くことを知らざるを患えしが、蘇子は諸侯を存し、約従して貪彊を抑うることを能くす。蘇秦列傳第九を作る。

六国既に従親すれども、張儀はその説を明らかにし、復た諸侯を散解せしむ。張儀列傳第十を作る。

秦の東に攘って諸侯に雄たる所以は、樗裏・甘茂の策なり。樗裏甘茂列傳第十一を作る。

河山を苞み、大梁を囲み、諸侯をして手を斂めて秦に事えしむるは、魏冉の功なり。穰侯列傳第十二を作る。

南に鄢郢を抜き、北に長平を摧き、遂に邯鄲を囲むは、武安を率とす。荊を破り趙を滅ぼすは、王翦の計なり。白起王翦列傳第十三を作る。

儒墨の遺文を獵り、禮義の統紀を明らかにし、惠王の利端を絶ち、往世の興衰を列す。孟子荀卿列傳第十四を作る。

好客喜士、士は薛に帰し、齊の為に楚魏を捍ぐ。孟嘗君列傳第十五を作る。

馮亭を以て権を爭い、楚に如きて邯鄲の囲みを救い、其の君をして復た諸侯に称せしむ。平原君虞卿列傳第十六を作る。

富貴を以て貧賤に下り、賢能を不肖に詘することを能くするは、唯だ信陵君のみ之を行い得たり。魏公子列傳第十七を作る。

身を以て君に徇い、遂に彊秦を脱し、馳説の士をして南郷して楚に走らしむるは、黃歇の義なり。春申君列傳第十八を作る。

魏齊に忍ぶことを能くし、而して彊秦に威を信ぜしめ、賢を推し位を譲るは、二子之れ有り。范睢蔡澤列傳第十九を作る。

其の謀を率行し、五国の兵を連ね、弱き燕の為に彊き齊の讎を報い、其の先君の恥を雪ぐ。樂毅列傳第二十を作る。

意を彊秦に信じ、而して體を廉子に屈し、以て其の君に徇い、倶に諸侯に重からしむることを能くす。廉頗藺相如列傳第二十一を作る。

湣王既に臨淄を失い莒に奔るも、唯だ田單のみ即墨を用いて騎劫を破り走らせ、遂に齊の社稷を存す。田單列傳第二十二を作る。

詭説を設けて囲城の患を解き、爵禄を軽んじ、肆志を楽しむ。魯仲連鄒陽列傳第二十三を作る。

辞を作りて諷諫し、類を連ねて義を争ふ、離騷に之れ有り。屈原賈生列傳第二十四を作る。

子楚に親を結び、諸侯の士をして斐然として争ひて秦に事へ入らしむ。呂不韋列傳第二十五を作る。

曹子の匕首、魯は其の田を獲、齊は其の信を明らかにす。 譲は義として二心を為さず。刺客列傳第二十六を作る。

其の畫を明らかにし、時に因りて秦を推し、遂に海内に意を得たり、斯れ謀首と為る。李斯列傳第二十七を作る。

秦の為に地を開き衆を益し、北は匈奴を靡き、河に拠りて塞と為し、山に因りて固と為し、榆中を建つ。蒙恬列傳第二十八を作る。

趙を填め常山を塞ぎて河内を廣くし、楚の權を弱め、漢王の信を天下に明らかにす。張耳陳餘列傳第二十九を作る。

西河・上黨の兵を収め、從ひて彭城に至る。越の梁地を侵掠して項羽を苦しむ。魏豹彭越列傳第三十を作る。

淮南を以て楚に叛き漢に歸し、漢用て大司馬殷を得、卒に子羽を垓下に破る。黥布列傳第三十一を作る。

楚人我を京索に迫るに、信は魏趙を拔き、燕齊を定め、漢をして三分の天下に其の二有らしめ、以て項籍を滅ぼす。淮陰侯列傳第三十二を作る。

楚漢鞏洛に距り、韓信潁川を填め、盧綰は籍の糧餉を絶つ。韓信盧綰列傳第三十三を作る。

諸侯項王に畔き、齊のみ子羽と城陽を連ね、漢以て間を得て遂に彭城に入る。田儋列傳第三十四を作る。

城を攻め野に戰ひ、功を獲て歸報す、噲・商力有り、獨り鞭策のみに非ず、又之と難を脱す。樊酈列傳第三十五を作る。

漢既に初めて定まり、文理未だ明らかならず、蒼は主計と為り、度量を整齊し、律暦を序す。張丞相列傳第三十六を作る。

言を結び使を通じ、諸侯を約懷す。諸侯咸く親しみ、漢に歸して藩輔と為る。酈生陸賈列傳第三十七を作る。

秦楚の事を詳しく知らんと欲し、周緤は常に高祖に従い、諸侯を平定す。傅靳蒯成列傳第三十八を作る。

彊族を徙し、関中に都し、匈奴と和約す。朝廷の礼を明らかにし、宗廟の儀法を次ぐ。劉敬叔孫通列傳第三十九を作る。

剛を摧きて柔と作る能く、卒に列臣と為る。欒公は埶に劫かされずして死に倍せず。季布欒布列傳第四十を作る。

敢えて顔色を犯し以て主義に達し、其の身を顧みず、国家の為に長畫を樹つ。袁盎晁錯列傳第四十一を作る。

法を守りて大理を失わず、古の賢人を言ひ、主の明を増す。張釋之馮唐列傳第四十二を作る。

敦厚慈孝にして、言に訥にして、行に敏なり、務めて鞠躬に在り、君子の長者なり。萬石張叔列傳第四十三を作る。

節を守りて切直、義は以て廉を言ふに足り、行は以て賢を厲すに足り、重権を任ずるも以て非理に撓ぐべからず。田叔列傳第四十四を作る。

扁鵲は医を言ひ、方者の宗と為り、数を守りて精明なり。後世序を循りて、易ふる能はざるも、倉公は近しと謂ふべし。扁鵲倉公列傳第四十五を作る。

仲の みや より出で、厥の濞は呉に王たり、漢の初定に遭ひ、以て江淮の閒を填撫す。呉王濞列傳第四十六を作る。

呉楚乱を為すに、宗属唯だ嬰賢にして士を喜び、士之に嚮ひ、師を率ゐて山東 滎陽 けいよう に抗す。魏其武安列傳第四十七を作る。

智は以て近世の変に応ずるに足り、寬は以て人を用ふるに足る。韓長孺列傳第四十八を作る。

勇は敵に当たるにあり、士卒を仁愛し、号令煩はならず、師徒之に嚮ふ。李將軍列傳第四十九を作る。

三代以来、匈奴常に中国の患害と為る。彊弱の時を知らんと欲し、設備征討す。匈奴列傳第五十を作る。

塞を直くし、河南を廣くし、祁連を破り、西國を通じ、北胡を靡かす。衛將軍驃騎列傳第五十一を作る。

大臣宗室侈靡を以て相高ぶるも、唯だ弘は節を用ひ衣食を為して百吏に先んず。平津侯列傳第五十二を作る。

漢が既に中国を平定した後、趙佗は楊越を集めて南の藩屏を保ち、貢ぎ物を納めた。南越列傳第五十三を作る。

呉の叛逆に際し、甌人は劉濞を斬り、封禺を守って臣となった。東越列傳第五十四を作る。

燕の太子丹の散乱した者たちが遼東の間にあり、衛満はその亡民を収容し、海東に集まり、真番を集めて塞を守り外臣となった。朝鮮列傳第五十五を作る。

唐蒙が使いとして夜郎を略通し、邛・笮の君長が内臣となり官吏を受けることを請うた。西南夷列傳第五十六を作る。

子虛の事、大人賦の説は、靡麗で誇張が多いが、その趣旨は風諫にあり、無為に帰する。司馬相如列傳第五十七を作る。

黥布が叛逆し、その子の劉長がその国を治め、江淮の南を鎮め、剽悍な楚の庶民を安んじた。淮南衡山列傳第五十八を作る。

法を奉じ理に循う官吏は、功を伐らず能を矜らず、百姓に称えられることもなく、また過ちもない。循吏列傳第五十九を作る。

衣冠を正して朝廷に立ち、群臣が浮説を言う者なく、汲長孺はこれを矜った。人を薦めることを好み、長者と称えられ、壮にして うるおい があった。汲鄭列傳第六十を作る。

孔子が卒して以来、京師には庠序を尊ぶ者なく、ただ建元・元狩の間のみ、文辞が燦然としていた。儒林列傳第六十一を作る。

民は本を背き巧みなことが多く、姦軌は法を弄び、善人では教化できず、ただ一切を厳しく削ることでしか均斉できなかった。酷吏列傳第六十二を作る。

漢が大夏に使者を通じるようになると、西の極めて遠い蛮族も、首を伸ばして内に向かい、中国を見ようとした。大宛列傳第六十三を作る。

緦麻の喪にある者を救い、不足する者を振るうのは、仁者に取るべきところあり。信を既にせず、言を倍かさずは、義者に取るべきところあり。游俠列傳第六十四を作る。

人君に事えて主の耳目を喜ばせ、主の顔色を和らげ、親近を得るのは、ただ色愛によるだけでなく、能もまた各々長ずるところがある。佞幸列傳第六十五を作る。

世俗に流されず、勢利を争わず、上下に凝滞する所なく、人もこれを害せず、道を用いる。滑稽列傳第六十六を作る。

斉・楚・秦・趙に日者 (占い師) がおり、各々用いる風俗がある。その大旨を循って観ようとして、日者列傳第六十七を作る。

三王は亀卜を同じくせず、四夷はそれぞれ卜法を異にするが、いずれも吉凶を決するのに用いる。その要略を窺い、亀策列傳第六十八を作る。

布衣匹夫の者であっても、政治を害せず、百姓を妨げず、取るも与えるも時に従って財富を殖やすものは、智者も採るべきところがある。貨殖列傳第六十九を作る。

我が漢は五帝の末流を継ぎ、三代の絶えた業績に接する。周の道は廃れ、秦は古文を撥ね除け、詩書を焚滅したので、明堂・石室・金匱・玉版の図籍は散乱した。ここにおいて漢が興り、蕭何は律令を整え、韓信は軍法を明らかにし、張蒼は章程を作り、叔孫通は禮儀を定めた。すると文学彬彬として次第に進み、詩書は往々にして間から出るようになった。曹參が蓋公を薦めて黄老を言わせて以来、賈生・晁錯は申・商の学を明らかにし、公孫弘は儒をもって顕われた。百年の間、天下の遺文古事はことごとく太史公の許に集まらぬものはなかった。太史公は父子相継いでその職を纂修した。曰く、「ああ、我が先人は嘗てこの事を掌り、唐虞の世に顕われ、周に至って再びこれを典した。故に司馬氏は代々天官を主る。我に至るまで、謹んで念え、謹んで念えよ」と。天下に散失した旧聞を網羅し、王跡の興るところを原初に遡り終わりを察し、盛んなるを見て衰えを観、行事を論考し、三代を略推し、秦漢を録し、上は軒轅に記し、下は今に至るまで、十二本紀を著し、既に科条としてこれを整えた。時代を同じくし世を異にするもの、年の差が明らかでないものについては、十表を作る。禮楽の損益、律歴の改易、兵権・山川・鬼神、天人の際、弊を承けて変を通ずるものについては、八書を作る。二十八宿が北辰をめぐり、三十の輻が一つの轂に共するが如く、運行窮まりなく、輔弼股肱の臣がこれに配する。忠信をもって道を行い、主上に奉ずるものについては、三十世家を作る。義を扶け俶儻として、己が時を失わず、天下に功名を立てるものについては、七十列傳を作る。凡そ百三十篇、五十二万六千五百字、これを太史公書と為す。序略を以て遺を拾い闕を補い、一家の言を成し、六経の異傳に協わせ、百家の雑語を整斉し、これを名山に蔵し、副本を京師に置き、後世の聖人君子を俟つ。第七十。

太史公曰く、余は黄帝以来を述べて太初に至って終わる。百三十篇。

原本を確認する(ウィキソース):史記 巻130