昔、顓頊の時にあって、南正の重に命じて天を司らせ、北正の黎に命じて地を司らせた。唐虞の際には、重黎の後を紹いで、復た之を典とさせ、夏商に至るまで、故に重黎氏は代々天地を序した。其の周に在るや、程伯休甫は其の後なり。周の宣王の時に当たり、其の守を失いて司馬氏と為る。司馬氏は代々周の史を典とした。恵王・襄王の間、司馬氏は周を去りて晋に適く。晋の中軍随会は秦に奔り、而して司馬氏は少梁に入る。
司馬氏が周を去りて晋に適いてより、分散し、或いは衛に在り、或いは趙に在り、或いは秦に在り。其の衛に在る者は、中山の相と為る。趙に在る者は、剣論を伝うるを以て顕れ、蒯聵は其の後なり。秦に在る者は錯と名づけ、張儀と論を争い、是に於いて恵王錯をして将と為り蜀を伐たしむ、遂に抜き、因りて之を守る。錯の孫の靳は、武安君白起に事う。而して少梁は更めて夏陽と名づく。靳は武安君と趙の長平の軍を阬し、還りて之と俱に杜郵に賜死せられ、華池に葬る。靳の孫の昌は、昌は秦の主鉄官と為り、始皇の時に当たる。蒯聵の玄孫の卬は武信君の将と為りて朝歌を徇う。諸侯の相王たるや、卬を殷に王とす。漢の楚を伐つに及び、卬は漢に帰し、其の地を以て河内郡と為す。昌は無沢を生み、無沢は漢の市長と為る。無沢は喜を生み、喜は五大夫と為り、卒し、皆高門に葬る。喜は談を生み、談は太史公と為る。
司馬談
太史公(司馬談)は唐都に天官(天文暦法)を学び、楊何に易を受け、黄子に道論を習った。太史公は建元から元封の間に仕え、学者がその意を達せず師の説に背くことを憂い、六家の要旨を論じて曰く。
太史公は天官を掌るのみで、民を治めることはなかった。子に遷という者がいた。
司馬遷
遷は龍門に生まれ、河山の南で耕作・牧畜した。十歳で古文を誦し、二十歳で南に遊び江・淮を巡り、会稽に登り禹穴を探り、九疑を窺い、沅・湘に浮かび、北は汶・泗を渡り、斉・魯の都で学業を講じ、孔子の遺風を観、鄒・嶧で郷射を行い、鄱・薛・彭城で困窮し、梁・楚を経て帰った。ここにおいて遷は郎中に仕え、命を奉じて西征し巴・蜀以南を略し、南は邛・笮・昆明を略し、還って命に報いた。
この年、天子(武帝)は初めて漢家の封禅を行い、太史公は周南に留まって従事できず、憤りを発してまさに死のうとした。時に子の遷はちょうど使いから帰り、河洛の間で父に会った。太史公は遷の手を執って泣き、「我が先祖は周室の太史である。上世より虞夏に功名を顕わし、天官の事を司った。後世は中衰し、我において絶えるのか。汝が再び太史となれば、我が祖を継ぐことになる。今、天子は千年の統を継ぎ、泰山に封禅するのに、我は従行できぬ。これが命か、命か。我が死んだら、汝は必ず太史となれ。太史となったら、我が論著せんとしたことを忘れるな。そもそも孝は親に事えることに始まり、君に事えることに中り、身を立てることに終わる。名を後世に揚げて父母を顕わす、これが孝の大なるものである。天下が周公を称誦するのは、その文武の徳を論じ歌い、周邵の風を宣べ、太王・王季の思慮に達し、公劉に及び、后稷を尊んだからである。幽厲の後、王道は欠け、礼楽は衰え、孔子は旧を修め廃を起こし、詩書を論じ春秋を作ったので、学者は今に至るまでこれを則としている。獲麟以来四百有余年、諸侯は相兼し、史記は放絶した。今、漢が興り海内一統となり、明主・賢君・忠臣・死義の士を、我が太史として論載せず、天下の史文を廃するのは、我は甚だ懼れる。汝は心に留めよ」と。遷は首を垂れて涙を流し、「小子不敏なり、先人の次いだ旧聞を悉く論じ、敢えて闕かざらんことを請う」と申し上げた。
父の死後三年にして司馬遷は太史令となり、石室金匱の書を綴って史記を編んだ。五年にして太初元年に当たり、十一月甲子の朔旦冬至に、天暦は始めて改まり、明堂に建てられ、諸神は紀を受けた。
太史公は言う。「先人の言葉に、『周公が卒してより五百歳にして孔子あり。孔子が卒して後より今に至るまで五百歳、よく世を紹明し、易伝を正し、春秋を継ぎ、詩書礼楽の際を本とすべき者あらんか』と。意はここに在るか。意はここに在るか。小子何ぞ敢えて譲らんや。」
上大夫の壺遂が言う。「昔、孔子は何のために春秋を作ったのか。」太史公は言う。「私は董生から聞いた。『周の道が衰え廃れ、孔子が魯の司寇となると、諸侯はこれを害し、大夫はこれを塞いだ。孔子は言を用いられず、道の行われぬことを知り、二百四十二年の中の是非を論じ、以て天下の儀表とし、天子を貶し、諸侯を退け、大夫を討ち、王事を通達させるのみであった』と。子は言う。『私はこれを空言に載せんよりは、事行に見るがごとく深切著明ならしめんと欲する』と。そもそも春秋は、上は三王の道を明らかにし、下は人事の紀を弁じ、嫌疑を別ち、是非を明らかにし、猶豫を定め、善を善とし悪を悪とし、賢を賢とし不肖を賤し、亡国を存し、絶世を継ぎ、弊を補い廃を起こす、王道の大なるものである。易は天地陰陽四時五行を著す故に変に長け、礼は人倫を経紀する故に行に長け、書は先王の事を記す故に政に長け、詩は山川谿谷禽獣草木牝牡雌雄を記す故に風に長け、楽は楽の立つ所以を記す故に和に長け、春秋は是非を弁ずる故に人を治めるに長けている。故に礼は以て人を節し、楽は以て和を発し、書は以て事を道い、詩は以て意を達し、易は以て化を道い、春秋は以て義を道う。乱世を撥って正に反すは、春秋に近きは莫し。春秋の文は数万を成し、その指は数千。万物の散聚皆春秋に在り。春秋の中に、君を弑すること三十六、国を亡ぼすこと五十二、諸侯奔走してその社稷を保てざる者は数え勝たず。その所以を察すれば、皆その本を失えるが故である。故に易に『毫釐を失えば、千里に差す』と言う。故に『臣君を弑し、子父を弑するは、一旦一夕の故に非ず、その漸久し』と言う。故に国を持つ者は春秋を知らざるべからず、前に讒有りて見えず、後に賊有りて知らざるが故である。人臣たる者は春秋を知らざるべからず、経事を守りてその宜しきを知らず、変事に遭いてその権を知らざるが故である。人君父たる者にして春秋の義に通ぜざれば、必ず首悪の名を蒙る。人臣子たる者にして春秋の義に通ぜざれば、必ず簒弑の誅に陥り、死罪の名を得る。その実は皆善を為さんと以為えども、それを行うにその義を知らず、空言を被りて敢えて辞せざるが故である。礼義の旨に通ぜざれば、君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらずに至る。そもそも君君たらずすれば犯され、臣臣たらずすれば誅せられ、父父たらずすれば無道、子子たらずすれば不孝である。この四つの行いは、天下の大過である。天下の大過を以てこれに与うれば、則ち受け敢えて辞せず。故に春秋は、礼義の大宗である。そもそも礼は未然の前に禁じ、法は已然の後に施す。法の為す所の用は見易く、礼の禁ずる所は知り難い。」
壺遂が言う。「孔子の時は、上に明君無く、下に任用を得ず、故に春秋を作り、空文を垂れて礼義を断じ、一王の法に当てた。今、夫子は上に明天子に遇い、下に職を守るを得、万事既に具わり、咸く各その宜しきに序せられている。夫子の論ずる所は、何を以て明らかにせんと欲するのか。」
太史公曰く、「唯唯、否否、然らず。余、之を先人に聞く、『伏羲は至純厚にして、易の八卦を作る。堯舜の盛は、尚書之を載せ、礼楽焉に作る。湯武の隆は、詩人之を歌う。春秋は善を採り悪を貶し、三代の徳を推し、周室を褒む、独り刺譏するのみに非ざるなり』と。漢興りて以来、明天子に至り、符瑞を獲、封禅し、正朔を改め、服色を易え、命を穆清に受け、沢流れて極まり無く、海外殊俗、重訳して塞に款き、来たりて献見を請う者は、道ふに勝えず。臣下百官、力を尽くして聖徳を誦すれども、猶其の意を宣べ尽くす能はざるなり。且つ士賢能にして用いられざるは、国ある者の恥なり。主上明聖にして徳布聞せざるは、有司の過ちなり。且つ余嘗て其の官を掌る、明聖盛徳を廃して載せず、功臣世家賢大夫の業を滅して述べず、先人の言を堕すは、罪大なるは莫し。余の所謂る故事を述べ、其の世伝を整斉するは、所謂る作るに非ざるなり。而るに君之を春秋に比すは、謬りなり」と。
ここに於いて其の文を論次す。七年にして太史公、李陵の禍に遭い、縲紲に幽せらる。乃ち喟然として嘆きて曰く、「是れ余の罪なるかな。是れ余の罪なるかな。身毀れて用いられず」と。退きて深く惟ひて曰く、「夫れ詩書の隠約なる者は、其の志の思ひを遂げんと欲するなり。昔、西伯は羑里に拘はれ、周易を演じ、孔子は陳蔡に戹せられ、春秋を作り、屈原は放逐せられ、離騷を著し、左丘は明を失ひ、厥に国語有り、孫子は臏脚せられ、兵法を論じ、不韋は蜀に遷され、世に呂覧を伝へ、韓非は秦に囚はれ、説難・孤憤す。詩三百篇は、大抵賢聖の憤りを発して為す所の作るなり。此の人皆意に鬱結する所有り、其の道を通ずるを得ざるなり。故に往事を述べて、来者を思ふなり」と。ここに於いて卒に陶唐以来を述べ、麟に至りて止む。黄帝より始む。
目録
本紀
維れ昔、黄帝は天に法り地に則り、四聖序に遵ひ、各法度を成す。唐堯は位を遜り、虞舜は台せず。厥れ帝功を美しみ、万世之を載す。五帝本紀第一を作る。
禹の功績は、九州を同じくし、唐虞の世を輝かせ、その徳は末裔にまで流れた。夏の桀は淫乱で驕り、ついに鳴條に放逐された。夏本紀第二を作る。
契が商を起こし、成湯に及んだ。太甲は桐に居し、その徳は阿衡(伊尹)によって盛んとなった。武丁は傅説を得て、高宗と称された。帝辛(紂)は酒に溺れ、諸侯は朝貢しなかった。殷本紀第三を作る。
棄が稷(農官)となり、その徳は西伯(文王)に至って盛んとなった。武王は牧野で天下を実に撫でた。幽王・厲王は昏乱で、すでに酆・鎬を喪い、衰微して赧王に至り、洛邑では祭祀が絶えた。周本紀第四を作る。
秦の先祖は、伯翳が禹を補佐した。穆公は義を思い、殽の戦いの軍を悼んだ。人を以て殉葬とし、詩に黄鳥が歌われた。昭襄王は帝業の基を築いた。秦本紀第五を作る。
始皇が即位し、六国を併合し、武器を溶かして鐘鐻を鋳造し、干戈を収め、尊号を称して帝と号し、武力を誇りて力を任せた。二世が天命を受け、子嬰は虜に降った。始皇本紀第六を作る。
秦がその道を失い、豪傑が共に擾乱す。項梁これを業とし、子羽これを継ぐ。慶を殺し趙を救い、諸侯これを立てる。嬰を誅し懐に背き、天下これを非とす。項羽本紀第七を作る。
子羽暴虐にして、漢は功徳を行ふ。蜀漢より憤発し、還りて三秦を定む。籍を誅し帝を業とし、天下惟だ寧く、制を改め俗を易ふ。高祖本紀第八を作る。
恵帝早く霣ち、諸呂台はず。禄・産を崇彊し、諸侯これを謀る。隠を殺し友を幽し、大臣洞疑し、遂に宗禍に及ぶ。呂太后本紀第九を作る。
漢既に初め興り、継嗣明らかならず、王を迎えて践祚し、天下心に帰す。肉刑を蠲除し、関梁を開通し、恩を広く施し博く、厥れ太宗と称す。孝文本紀第十を作る。
諸侯驕恣し、呉首めて乱を為す。京師誅を行ひ、七国辜に伏し、天下翕然として、大いに安んじ殷富なり。孝景本紀第十一を作る。
漢朝興起して五世、隆盛は建元に在り、外には夷狄を攘い、内には法度を修め、封禅を行い、正朔を改め、服色を易う。今上本紀第十二を作る。
表
三代は尚し、年紀は考うべからず、蓋し之を譜牒旧聞に取り、茲を本とし、是に於いて略推す。三代世表第一を作る。
幽厲の後、周室衰微し、諸侯政を専らにし、春秋に紀さざる所あり。而して譜牒経略し、五霸盛衰を更え、周世の相先後するの意を睹んと欲す。十二諸侯年表第二を作る。
春秋の後、陪臣政を秉り、彊国相王たり。以て秦に至り、卒に諸夏を并せ、封地を滅ぼし、其の号を擅にす。六国年表第三を作る。
秦は既に暴虐であり、楚人が難を発し、項氏は遂に乱を起こし、漢は義を扶けて征伐した。八年の間に、天下は三たび嬗り、事は繁く変は衆し。故に詳しく秦楚の際月表第四を著す。
漢の興り已来、太初百年に至るまで、諸侯は廃立分削し、譜紀は明らかならず、有司は踵を靡かせ、彊弱の原は世を以て云ふ。漢興已来諸侯年表第五を作る。
維れ高祖の元功、輔臣股肱、符を剖ちて爵し、澤は苗裔に流るるも、其の昭穆を忘れ、或は身を殺し國を隕す。高祖功臣侯者年表第六を作る。
惠景の閒、維れ功臣宗屬の爵邑を申し、惠景閒侯者年表第七を作る。
北には彊胡を討ち、南には勁越を誅し、夷蠻を征伐し、武功爰に列す。建元以來侯者年表第八を作る。
諸侯が既に強大となり、七国が合従を為し、子弟多く、爵位と封邑なく、恩を推し行い義を行えば、その勢いは銷弱し、徳は京師に帰す。王子侯者年表第九を作る。
国に賢相良将あれば、民の師表なり。漢興以来の将相名臣年表を見るに、賢者はその治を記し、不賢者はその事を彰す。漢興以来将相名臣年表第十を作る。
書
三代の礼は、損益各々殊なる務めありと雖も、然れども要は性情に近く、王道に通ぜんことを以てす。故に礼は人の質に因りて之が節文を為し、略古今の変に協う。礼書第一を作る。
楽は、風俗を移し易うる所以なり。雅頌の声興りてより、則ち已に鄭衛の音を好む。鄭衛の音の由来する所久し。人情の感ずる所、遠俗を懐う。楽書を比して来古を述べ、楽書第二を作る。
兵なくしては強くならず、徳なくしては栄えない。黄帝・湯王・武王はこれによって興り、桀王・紂王・二世皇帝はこれによって滅んだ。慎まざるべけんや。司馬法の由来する所は古く、太公望・孫子・呉子・王子成甫がこれを継いで明らかにし、近世に切実に迫り、人の変化を極めた。律書第三を作る。
律は陰に居て陽を治め、暦は陽に居て陰を治む。律と暦は互いに治め合い、その間には毫厘の隙もない。五家の文は互いに異なるが、ただ太初元年の論が根本である。暦書第四を作る。
星気に関する書物は多くは禨祥の説が混じり、経典に合わない。その文を推し、その応ずる所を考うるに、大差はない。これらを集めてその事跡を論じ、軌度に照らして検証し、順序を立てて天官書第五を作る。
天命を受けて王となる者、封禅の符瑞は稀に用いられる。用いられるときは、あらゆる神霊を祭らぬことはない。諸神および名山大川に対する礼の由来を遡り、封禅書第六を作る。
大禹が川を浚って、九州はこれによって安寧を得た。そして宣防に至り、堤防を築き、溝渠を通じた。河渠書第七を作る。
貨幣の流通は農商を通じさせるが、その極みに至れば巧みを弄し、兼併して殖え、機利を争い、本を去って末に趨く。平準書を作りて事変を観る、第八。
世家
太伯は歴を避け、江蠻に適す。文武の興る攸、古公の王跡なり。闔廬は僚を弒し、荊楚を賓服せしむ。夫差は齊を克つも、子胥は鴟夷す。嚭を信じ越に親しみ、吳國既に滅ぶ。伯の譲を嘉し、呉世家第一を作る。
申・呂は肖えり、尚父は側微なりしも、卒に西伯に帰し、文武の師と為る。功は群公に冠たり、幽に権を繆す。番番たる黄髪、爰に營丘を饗く。柯の盟に背かず、桓公以て昌え、九たび諸侯に合し、霸功顯彰す。田・闞寵を爭い、姜姓解いて亡ぶ。父の謀を嘉し、齊太公世家第二を作る。
之に依り之に違ひ、周公之を綏く。憤發して文德をなし、天下之に和す。成王を輔翼し、諸侯周を宗とす。隱桓の際、是れ獨り何ぞや。三桓彊を爭ひ、魯乃ち昌えず。旦の金縢を嘉し、周公世家第三を作る。
武王は紂を討ち、天下は未だ協わずして崩じた。成王は既に幼く、管蔡はこれを疑い、淮夷はこれに叛いた。ここにおいて召公は徳を率い、王室を安んじて集め、以て東土を寧んじた。燕噲の禅譲は、かえって禍乱を成した。甘棠の詩を嘉し、燕世家第四を作る。
管蔡は武庚を相し、旧商を寧んぜんとす。及んで旦が政を摂ると、二叔は饗わず。鮮を殺し度を放ち、周公は盟を為す。大任十子、周は以て宗彊し。仲の過ちを悔いるを嘉し、管蔡世家第五を作る。
王后は絶えず、舜禹は是れ説ぶ。維れ徳の休明なる、苗裔は烈を蒙る。百世享祀し、爰に周の陳杞、楚実に之を滅す。斉田既に起これば、舜何の人ぞ。陳杞世家第六を作る。
殷の余民を収め、叔封始めて邑す。商の乱を申すに、酒材是れ告ぐ。及んで朔の生まるるに、衛は頃し寧からず。南子は蒯聵を悪み、子父は名を易う。周の徳は卑微、戦国既に彊く、衛は小弱を以て、角独り後に亡ぶ。彼の康誥を喜び、衛世家第七を作る。
ああ箕子よ、ああ箕子よ。正言用いられず、乃ち反って奴と為る。武庚既に死し、周は微子を封ず。襄公は泓に傷つき、君子孰か称せん。景公の謙徳、熒惑退行す。剔成暴虐、宋乃ち滅亡す。微子の太師に問うを喜び、宋世家第八を作る。
武王既に崩じ、叔虞唐に邑す。君子名を譏り、卒に武公を滅ぼす。驪姫の愛、乱れる者五世、重耳意を得ず、乃ち能く覇を成す。六卿権を専らにし、晋国以て秏す。文公の珪鬯を錫るを嘉し、晋世家第九を作る。
重黎之を業とし、呉回之を接ぐ。殷の季世、粥子之を牒す。周熊繹を用い、熊渠是を続く。荘王の賢、乃ち国を陳に復し、既に鄭伯を赦し、師を華元に班す。懐王客死し、蘭屈原を咎む。諛を好み讒を信じ、楚秦に併さる。荘王の義を嘉し、楚世家第十を作る。
少康の子、実に南海に賓し、文身断髪、黿鱓と処を同じくし、既に封禺を守り、禹の祀を奉ず。句踐彼に困し、乃ち種・蠡を用う。句踐夷蛮にして能く其の徳を修め、彊き呉を滅ぼして周室を尊ぶを嘉し、越王句踐世家第十一を作る。
桓公の東、太史是を用う。及び周禾を侵すに及び、王人は是を議す。祭仲盟を要し、鄭久しく昌えず。子産の仁、世を紹ぎて賢と称さる。三晋侵伐し、鄭韓に納る。厲公の恵王を納るるを嘉し、鄭世家第十二を作る。
維れ驥騄耳、乃ち造父を章す。趙夙献に事え、衰其の緒を継ぐ。文を佐けて王を尊び、卒に晋の輔と為る。襄子困辱し、乃ち智伯を禽す。主父生け縛られ、餓死して爵を探る。王遷淫に辟き、良将是を斥く。鞅の周乱を討つを嘉し、趙世家第十三を作る。
畢萬は魏に封ぜられ、卜人の知るところとなった。また絳が干を戮し、戎翟と和した。文侯は義を慕い、子夏を師とした。惠王は自ら矜り、齊・秦はこれを攻めた。既に信陵を疑い、諸侯はこれを罷めた。遂に大梁を亡ぼし、王假は廝の身となった。武が晉の文公を佐けて霸道を申したことを嘉し、魏世家第十四を作る。
韓厥の陰徳により、趙武は興った。絶えたものを紹ぎ、廃したものを立て、晉人はこれを宗とした。昭侯は列に顯れ、申子はこれを用いた。非を疑って信ぜず、秦人はこれを襲った。厥が晉を輔け周の天子の賦を匡したことを嘉し、韓世家第十五を作る。
完は難を避け、齊に適して援と為り、陰に五世に施し、齊人はこれを歌った。成子は政を得、田和は侯と為った。王建は心を動かし、乃ち共に遷った。威・宣が濁世を撥して獨り周を宗とし能くしたことを嘉し、田敬仲完世家第十六を作る。
周室既に衰え、諸侯恣に行う。仲尼は禮廢樂崩を悼み、經術を追修し、以て王道に達し、亂世を匡して之を正に反し、其の文辭を見れば、天下の爲に儀法を制し、六藝の統紀を後世に垂れた。孔子世家第十七を作る。
桀・紂其の道を失いて湯・武作る。周其の道を失いて春秋作る。秦其の政を失き、而して陳涉發跡し、諸侯難を作り、風起雲蒸し、卒に秦族を亡ぼす。天下の端、自ら涉發難す。陳涉世家第十八を作る。
成皋の台にて、薄氏は初めて基を置く。意を詘して代に適し、その崇は諸竇に至る。栗姬は貴に偩い、王氏は乃ち遂ぐ。陳后は太だ驕り、卒に子夫を尊ぶ。夫の徳の斯の如きを嘉し、外戚世家第十九を作る。
漢既に謀を譎し、信を陳に禽う。越荊は剽軽なり、乃ち弟交を封じて楚王と為し、爰に彭城に都し、以て淮泗を彊くし、漢の宗藩と為る。戊は邪に溺れ、礼復た之を紹ぐ。游の祖を輔くるを嘉し、楚元王世家第二十を作る。
維れ祖の師旅、劉賈是れ与る。布に襲わるる為り、其の荊・呉を喪う。営陵は呂を激し、乃ち瑯邪に王す。午を怵て斉を信じ、往きて帰らず、遂に西に関に入り、孝文の立つに遭い、復た燕に王するを得る。天下未だ集まらず、賈・澤は族を以て、漢の藩輔と為る。荊燕世家第二十一を作る。
天下已に平らぎ、親属既に寡し。悼惠先ず壮し、実に東土を鎮む。哀王は興を擅にし、諸呂に怒りを発し、駟鈞は暴戾にして、京師は許さず。厲は内に淫し、禍は主父に成る。肥の股肱を嘉し、斉悼恵王世家第二十二を作る。
楚人我が滎陽を囲み、相守ること三年。蕭何は山西を填撫し、計を推し兵に踵ぎ、糧食を給して絶えず、百姓をして漢を愛し、楚と為るを楽しましむ。蕭相国世家第二十三を作る。
韓信と共に魏を定め、趙を破り斉を抜き、遂に楚人を弱くす。蕭何の相国を継ぎ、変えず革めず、黎民これにより寧んず。曹参の功を伐たず能を矜らざるを嘉し、曹相国世家第二十四を作る。
帷幄の中に籌を運らし、無形のうちに勝を制す、子房は事を計謀し、知る名無く、勇む功無く、難きを易きに図り、大なるを細なるに為す。留侯世家第二十五を作る。
六奇既に用いられ、諸侯漢に賓従す。呂氏の事、陳平これを本謀と為し、終に宗廟を安んじ、社稷を定む。陳丞相世家第二十六を作る。
諸呂従(縦)を為し、京師を弱くせんと謀るも、周勃は経に反して権に合す。呉楚の兵、周亜夫は昌邑に駐まり、以て斉趙を戹め、出でて梁に委す。絳侯世家第二十七を作る。
七国叛逆し、蕃屏京師するも、梁のみこれを捍ぐ。驕愛し功を矜り、幾くんか禍に獲られんとす。其の能く呉楚を距むを嘉し、梁孝王世家第二十八を作る。
五宗が既に王となり、親族は和合し、諸侯の大小は藩屏となり、ここにその宜しきを得て、僭擬の事は漸く衰え貶められた。五宗世家第二十九を作る。
三子の王たるや、文辞観るべきものあり。三王世家第三十を作る。
列傳
末世に利を争うも、彼は義に奔る。国を譲りて餓死し、天下これを称す。伯夷列傳第一を作る。
晏子は儉なり、夷吾は則ち奢りなり。齊桓は以て覇たり、景公は以て治まる。管晏列傳第二を作る。
李耳は無為にして自ら化し、清浄にして自ら正す。韓非は事情を推し量り、勢理に従う。老子韓非列傳第三を作る。
古より王者にして司馬法あり、穰苴能くこれを申し明かす。司馬穰苴列傳第四を作る。
信・廉・仁・勇ならざれば兵を伝え剣を論ずる能わず、道と符を同じくし、内は身を治め、外は変に応ずるに足り、君子は徳に比す。孫子呉起列傳第五を作る。
建、讒に遇い、爰に子奢に及び、尚既に父を匡し、伍員、呉に奔る。伍子胥列傳第六を作る。
孔氏文を述べ、弟子業を興し、咸く師傅たり、仁を崇め義を厲す。仲尼弟子列傳第七を作る。
鞅は衛を去り秦に赴き、その術を明らかにし、孝公を強く覇たらしめ、後世その法に従う。商君列傳第八を作る。
天下は衡秦の飽くことを知らぬことを患え、蘇子は諸侯を存し、約従して貪強を抑える。蘇秦列傳第九を作る。
六国が既に従親し、張儀はその説を明らかにし、再び諸侯を散解させる。張儀列傳第十を作る。
秦が東に雄諸侯を攘う所以は、樗裏・甘茂の策による。樗裏甘茂列傳第十一を作る。
河山を苞み、大梁を囲み、諸侯をして斂手して秦に事えしめたるは、魏冉の功である。穰侯列傳第十二を作る。
南方に鄢・郢を抜き、北方に長平を摧き、遂に邯鄲を囲み、武安君(白起)がこれを率い、荊(楚)を破り趙を滅ぼすは、王翦の計なり。白起・王翦列傳第十三を作る。
儒・墨の遺文を捜り、礼義の統紀を明らかにし、恵王(梁の恵王)の利端を絶ち、往世の興衰を列ねる。孟子・荀卿列傳第十四を作る。
客を好み士を喜び、士は薛に帰し、斉のために楚・魏を捍ぐ。孟嘗君列傳第十五を作る。
権を以て馮亭を争い、楚に赴きて邯鄲の囲みを救い、その君をして復た諸侯に称せしむ。平原君・虞卿列傳第十六を作る。
富貴を以て貧賤に下り、賢能を不肖に詘することを能くするは、信陵君のみこれを能く行う。魏公子列傳第十七を作る。
身を以て君に殉じ、遂に強秦を脱し、馳説の士をして南郷して楚に走らしめたるは、黄歇の義なり。春申君列傳第十八を作る。
魏斉に忍び、而して強秦に威を信ぜしめ、賢を推して位を譲る、二子之れ有り。范雎蔡澤列傳第十九を作る。
其の謀を率いて行い、五国の兵を連ね、弱き燕の為に強斉の讎を報い、其の先君の恥を雪ぐ。楽毅列傳第二十を作る。
強秦に意を信ぜしめ、而して廉子に体を屈し、以て其の君に殉じ、倶に諸侯に重からしむ。廉頗藺相如列傳第二十一を作る。
湣王既に臨淄を失いて莒に奔るも、唯だ田単即墨を用いて騎劫を破り走らせ、遂に斉の社稷を存す。田単列傳第二十二を作る。
詭説を設けて囲城の患を解き、爵禄を軽んじ、肆志を楽しむ。魯仲連鄒陽列傳第二十三を作る。
辞を作りて諷諫し、類を連ねて義を争う、離騷にこれ有り。屈原賈生列傳第二十四を作る。
子楚の親を結び、諸侯の士をして斐然として争いて秦に事へ入らしむ。呂不韋列傳第二十五を作る。
曹子の匕首、魯は其の田を得、齊は其の信を明らかにす。豫讓は義として二心を為さず。刺客列傳第二十六を作る。
其の畫を明らかにし、時に因りて秦を推し、遂に意を海内に得る。斯は謀首と為る。李斯列傳第二十七を作る。
秦のために土地を開き民衆を増やし、北は匈奴を靡かせ、河を拠り所として塞とし、山に因って固め、榆中を建てた。蒙恬列傳第二十八を作る。
趙を填め常山を塞ぎて河内を広げ、楚の権力を弱め、漢王の信を天下に明らかにした。張耳陳餘列傳第二十九を作る。
西河・上党の兵を収め、従って彭城に至り、越が梁の地を侵掠して項羽を苦しめた。魏豹彭越列傳第三十を作る。
淮南を以て楚に叛き漢に帰し、漢が大司馬殷を用い、遂に子羽を垓下に破った。黥布列傳第三十一を作る。
楚人が我を京索に迫る中、信が魏・趙を抜き、燕・斉を定め、漢に天下の三分の二を持たせ、以て項籍を滅ぼした。淮陰侯列傳第三十二を作る。
楚と漢が鞏洛にて相対峙し、韓信は潁川を鎮め、盧綰は項籍の糧道を断った。韓信盧綰列傳第三十三を作る。
諸侯が項王に叛いたが、斉のみが城陽にて子羽(項羽)と連なり、漢はその隙に乗じて彭城に入ることができた。田儋列傳第三十四を作る。
城を攻め野に戦い、功を獲て帰り報ずるに、樊噲・酈商の力あり、ただ鞭策を加えたのみならず、また彼らと共に難を脱した。樊酈列傳第三十五を作る。
漢が既に初めて定まった時、礼文の条理は未だ明らかでなく、張蒼が主計となり、度量を整え、律暦を序した。張丞相列傳第三十六を作る。
言葉を結び使者を通じ、諸侯を約し懐かしめ、諸侯は皆親しみ、漢に帰して藩輔となった。酈生陸賈列傳第三十七を作る。
秦楚の事を詳しく知らんと欲し、周緤は常に高祖に従い、諸侯を平定す。傅靳蒯成列傳第三十八を作る。
強族を移し、関中に都し、匈奴と和約し、朝廷の礼を明らかにし、宗廟の儀法を次ぐ。劉敬叔孫通列傳第三十九を作る。
剛を摧きて柔と為す能く、卒に列臣と為る。欒公は勢に劫かされずして死に倍せず。季布欒布列傳第四十を作る。
敢えて顔色を犯して以て主の義に達し、其の身を顧みず、国家の為に長画を樹つ。袁盎晁錯列傳第四十一を作る。
法を守りて大理を失わず、古の賢人を言ひて、主の明を増す。張釋之馮唐列傳第四十二を作る。
敦厚にして慈孝、言に訥にして行いに敏、務めて鞠躬に在り、君子の長者なり。万石張叔列傳第四十三を作る。
節を守りて切直、義は以て廉を言うに足り、行いは以て賢を厲するに足り、重権を任ずるも以て非理に撓ぐべからず。田叔列傳第四十四を作る。
扁鵲は医を言い、方を行う者の宗と為り、数を守りて精明なり。後世序を循うも、能く易うるなし。而して倉公は近しと謂うべし。扁鵲倉公列傳第四十五を作る。
維うに仲の省、其の濞は呉に王たり、漢の初定に遭い、以て江淮の間を填撫す。呉王濞列傳第四十六を作る。
呉楚乱を為すに、宗属唯だ嬰賢にして士を喜ぶ。士之に嚮き、師を率いて山東滎陽に抗す。魏其武安列傳第四十七を作る。
智は近世の変に応ずるに足り、寛は人を用いるに足る。韓長孺列伝第四十八を作る。
勇は敵に当たるに勇み、仁は士卒を愛し、号令は煩わしからず、師徒はこれに従う。李将軍列伝第四十九を作る。
三代以来、匈奴は常に中国の患害たり。その強弱の時を知らんと欲し、設備征討す。匈奴列伝第五十を作る。
塞を直くし、河南を広め、祁連を破り、西国を通じ、北胡を靡かす。衛将軍驃騎列伝第五十一を作る。
大臣宗室は侈靡を以て相高ぶるに、弘のみ節を用い衣食を節し、百吏の先となる。平津侯列伝第五十二を作る。
漢が既に中国を平定した後、趙佗は楊越を集めて南の藩屏を保ち、貢ぎ物を納めた。南越列傳第五十三を作る。
呉の叛逆の際、甌人が劉濞を斬り、封禺を守って臣となった。東越列傳第五十四を作る。
燕の太子丹の散乱した勢力が遼東の間にあり、衛満はその亡民を収容し、海東に集まり、真番を集めて塞を守り、外臣となった。朝鮮列傳第五十五を作る。
唐蒙が使者として夜郎を略通し、邛・笮の君長が内臣となり官吏を受けることを請うた。西南夷列傳第五十六を作る。
子虛の事、大人の賦の説は、靡麗で誇張が多いが、その趣旨は風諫にあり、無為に帰する。司馬相如列傳第五十七を作る。
黥布が叛逆し、子長がその国を治めて、江淮の南を鎮め、剽悍な楚の庶民を安んず。淮南衡山列傳第五十八を作る。
法を奉じ理を循る吏は、功を伐たず能を矜らず、百姓に称せられず、また過行もなし。循吏列傳第五十九を作る。
衣冠を正して朝廷に立ち、群臣敢えて浮説を言う者なく、長孺はこれを矜る。人を薦むるを好み、長者と称せられ、壮にして溉あり。汲鄭列傳第六十を作る。
孔子の卒してより、京師に庠序を崇ぐる者なく、ただ建元・元狩の間に至りて、文辞粲如たり。儒林列傳第六十一を作る。
民は本を倍き巧多く、姦軌法を弄び、善人も以て化す能わず、ただ一切厳削を以てのみ之を斉うるを能くす。酷吏列傳第六十二を作る。
漢が既に大夏と使者を通じ、西の極みの遠き蛮夷も首を伸ばして内に郷い、中国を観んと欲す。大宛列傳第六十三を作る。
緦を以て人を救い、贍わざる者を振わしむるは、仁者に有りや。既に信せず、言を倍せざるは、義者に取る有り。游俠列傳第六十四を作る。
人君に事えて主の耳目を説ばしめ、主の顏色を和らげ、親近を獲るは、独り色愛のみに非ず、能も亦各々長ずる所あり。佞幸列傳第六十五を作る。
世俗に流れず、埶利を争わず、上下に凝滞する所なく、人も之を害せず、以て道を用う。滑稽列傳第六十六を作る。
斉・楚・秦・趙に日者あり、各々俗の用うる所を用う。其の大旨を循り観んと欲し、日者列傳第六十七を作る。
三王は亀卜を同じくせず、四夷は各々卜法を異にするが、然れども各々吉凶を決する。その要を略かに窺い、亀策列傳第六十八を作る。
布衣匹夫の者、政を害せず、百姓を妨げず、取ると与うるに時を以てし財富を息む、智者も采る所あり。貨殖列傳第六十九を作る。
我が漢は五帝の末流を継ぎ、三代の絶業に接す。周道廃れ、秦は古文を撥去し、詩書を焚滅せし故に、明堂石室金匱玉版の図籍散乱す。ここに於いて漢興り、蕭何は律令を次ぎ、韓信は軍法を申し、張蒼は章程を為し、叔孫通は禮儀を定む。則ち文学彬彬として稍く進み、詩書往々にして間出ず。曹参蓋公を薦めて黄老を言わしめてより、而して賈生・晁錯は申・商を明らかにし、公孫弘は儒を以て顕わる。百年の間、天下の遺文古事、畢く太史公に集まらざるはなし。太史公仍り父子相継ぎてその職を纂ぐ。曰く、「於戲、余惟うに先人は嘗てこの事を掌り、唐虞に顕れ、周に至りて復たこれを典る。故に司馬氏は世に天官を主る。余に至るまで、欽んで念え、欽んで念え」と。天下の放失せる旧聞を網羅し、王跡の興る所、その始めを原ねその終わりを察し、盛んなるを見て衰えを観、行事を論考し、三代を略かに推し、秦漢を録し、上は軒轅に記し、下は茲に至る。十二本紀を著し、既に科条せり。時に併せ世を異にし、年の差明らかならざるを、十表を作る。礼楽の損益、律暦の改易、兵権山川鬼神、天人の際、敝を承けて変を通ずるを、八書を作る。二十八宿北辰を環り、三十輻一轂を共にし、運行窮まり無く、輔拂股肱の臣これに配す。忠信道を行い、以て主上に奉ずるを、三十世家を作る。義を扶け俶儻として、己に時を失わしめず、天下に功名を立てるを、七十列傳を作る。凡そ百三十篇、五十二万六千五百字、太史公書と為す。序略して、以て遺を拾い闕を補い、一家の言を成し、六経の異傳に協い、百家の雑語を整斉し、これを名山に蔵し、副本を京師に置き、後世の聖人君子を俟つ。第七十。
太史公曰く、余は黄帝より以来を述べて太初に至りて訖わる、百三十篇。