史記

巻一百二十一 儒林列傳 第六十一

太史公が曰く、余は功令を読み、学官の道を広く励ますに至りて、未だ嘗て書を廃して嘆かざるは無し。曰く、ああ、周室衰えて関雎作られ、幽厲微にして礼楽壊れ、諸侯恣に行い、政は彊国より出づ。故に孔子は王路の廃れ邪道の興るを閔み、ここに詩書を論次し、礼楽を修起す。斉に適きて韶を聞き、三月肉の味を知らず。衛より魯に返り、然る後に楽正しく、雅頌各々其の所を得たり。世混濁して用いること能わず、是を以て仲尼は七十余君に干るも遇うる所無く、「苟も我を用うる者有らば、期月のみ」と曰えり。西に狩して麟を獲、曰く「吾が道窮まれり」。故に史記に因りて春秋を作り、以て王法に当てんとす、其の辞微にして指博く、後世の学者多く録す。

原文太史公曰:余讀功令,至於廣厲學官之路,未嘗不廢書而嘆也。曰:嗟乎!夫周室衰而關雎作,幽厲微而禮樂壞,諸侯恣行,政由彊國。故孔子閔王路廢而邪道興,於是論次詩書,修起禮樂。適齊聞韶,三月不知肉味。自衛返魯,然後樂正,雅頌各得其所。世以混濁莫能用,是以仲尼干七十餘君無所遇,曰「茍有用我者,期月而已矣」。西狩獲麟,曰「吾道窮矣」。故因史記作春秋,以當王法,其辭微而指博,後世學者多錄焉。

孔子卒して後、七十子の徒散じて諸侯に游し、大なる者は師傅卿相と為り、小なる者は士大夫に友教し、或いは隠れて見えず。故に子路は衛に居り、子張は陳に居り、澹臺子羽は楚に居り、子夏は西河に居り、子貢は斉に終わる。田子方、段干木、呉起、禽滑釐の属の如きは、皆子夏の倫に業を受けて、王者の師と為る。是の時独り魏の文侯好学す。後に陵遅して始皇帝に至り、天下並びに戦国に争い、儒術既に絀けたり、然れども斉魯の間、学者独り廃せず。威・宣の際に於いて、孟子・荀卿の列は、咸く夫子の業を遵びて之を潤色し、学を以て当世に顕る。

原文自孔子卒後,七十子之徒散游諸侯,大者為師傅卿相,小者友教士大夫,或隱而不見。故子路居衛,子張居陳,澹臺子羽居楚,子夏居西河,子貢終於齊。如田子方、段干木、吳起、禽滑釐之屬,皆受業於子夏之倫,為王者師。是時獨魏文侯好學。后陵遲以至于始皇,天下并爭於戰國,懦術既絀焉,然齊魯之閒,學者獨不廢也。於威、宣之際,孟子、荀卿之列,咸遵夫子之業而潤色之,以學顯於當世。

秦の季世に及び、詩書を焚き、術士を阬し、六藝此より缺く。陳涉の王たるや、魯の諸儒孔氏の礼器を持ちて往き陳王に帰す。ここにおいて孔甲は陳涉の博士と為り、遂に涉と俱に死す。陳涉は匹夫より起り、瓦合の徒を駆りて適戍し、旬月にして楚に王たるも、半歳を満たずして竟に滅亡す、其の事至って微浅なり、然るに縉紳先生の徒孔子の礼器を負いて往き質を委ね臣と為るは、何ぞや。秦其の業を焚くを以て、怨を積みて憤りを陳王に発せしなり。

原文及至秦之季世,焚詩書,阬術士,六藝從此缺焉。陳涉之王也,而魯諸儒持孔氏之禮器往歸陳王。於是孔甲為陳涉博士,卒與涉俱死。陳涉起匹夫,驅瓦合適戍,旬月以王楚,不滿半歲竟滅亡,其事至微淺,然而縉紳先生之徒負孔子禮器往委質為臣者,何也?以秦焚其業,積怨而發憤于陳王也。

高皇帝が項籍を誅し、兵を挙げて魯を囲んだ時、魯中の諸儒は尚も講誦して礼楽を習い、弦歌の音絶えず、これ聖人の遺せる教化、礼楽を好む国なるにあらずや。故に孔子、陳に在りて曰く、「帰らんかな、帰らんかな、吾が党の小子は狂簡にして、斐然として章を成すも、以て之を裁する所以を知らず」と。夫れ斉魯の間、文学に於けるは、古より以来、その天性なり。故に漢興りて、然る後に諸儒始めてその経芸を修め、大射郷飲の礼を講習す。叔孫通、漢の礼儀を作り、因って太常となり、諸生弟子共に定むる者、咸く選首と為り、ここに喟然として嘆き学に興る。然れども尚ほ干戈有り、四海を平定するも、亦未だ暇あらずして庠序の事に遑わず。孝惠・呂后の時、公卿は皆武力有功の臣なり。孝文の時は頗る徴用す、然れども孝文帝は本より刑名の言を好む。孝景に至りては、儒者を用いず、而して竇太后は又黄老の術を好む、故に諸博士は官を具えて問を待つも、未だ進む者無し。

原文及高皇帝誅項籍,舉兵圍魯,魯中諸儒尚講誦習禮樂,弦歌之音不絕,豈非聖人之遺化,好禮樂之國哉?故孔子在陳曰:「歸與!歸與!吾黨之小子狂簡,斐然成章,不知所以裁之。」夫齊魯之閒於文學,自古以來,其天性也。故漢興,然後諸儒始得修其經藝,講習大射鄉飲之禮。叔孫通作漢禮儀,因為太常,諸生弟子共定者,咸為選首,於是喟然嘆興於學。然尚有干戈,平定四海,亦未暇遑庠序之事也。孝惠、呂后時,公卿皆武力有功之臣。孝文時頗徵用,然孝文帝本好刑名之言。及至孝景,不任儒者,而竇太后又好黃老之術,故諸博士具官待問,未有進者。

今上即位に及び、趙綰・王臧の属は儒学を明らかにし、而上も亦之に向かう、ここに方正賢良文学の士を招く。是よりの後、詩を言うは魯に於いては申培公、斉に於いては轅固生、燕に於いては韓太傅。尚書を言うは済南の伏生よりす。礼を言うは魯の高堂生よりす。易を言うは菑川の田生よりす。春秋を言うは斉魯に於いては胡毋生、趙に於いては董仲舒よりす。竇太后崩じ、武安侯田蚡丞相と為り、黄老・刑名百家の言を絀き、文学儒者数百人を延び、而して公孫弘は春秋を以て白衣にして天子の三公と為り、平津侯に封ぜらる。天下の学士靡然として風に向かう。

原文及今上即位,趙綰、王臧之屬明儒學,而上亦鄉之,於是招方正賢良文學之士。自是之后,言詩於魯則申培公,於齊則轅固生,於燕則韓太傅。言尚書自濟南伏生。言禮自魯高堂生。言易自菑川田生。言春秋於齊魯自胡毋生,於趙自董仲舒。及竇太后崩,武安侯田蚡為丞相,絀黃老、刑名百家之言,延文學儒者數百人,而公孫弘以春秋白衣為天子三公,封以平津侯。天下之學士靡然鄉風矣。

公孫弘が学官となって、道が鬱滞していることを悼み、そこで上奏して言うには、「丞相・御史が申し上げます。詔に曰く、『礼をもって民を導き、楽をもって風化させることを聞く。婚姻は、家屋に住む者の大いなる倫理である。今、礼は廃れ楽は崩れている。朕は甚だこれを憂う。故に天下の方正博聞の士を詳しく延いて、皆朝廷に登らしめる。礼官に学を勧め、講議して洽聞し礼を興し、以て天下の先と為すべし。太常に議せしめ、博士弟子とともに、郷里の化を崇め、以て賢材を広むることを得しめよ』と。謹んで太常臧・博士平らと議して曰く、三代の道を聞くに、郷里に教えあり、夏は校と曰い、殷は序と曰い、周は庠と曰う。その善を勧むるは、これを朝廷に顕わし、その悪を懲らすは、これに刑罰を加う。故に教化の行わるるは、首善を建つるは京師より始め、内より外に及ぶ。今、陛下は至徳を昭かにし、大明を開き、天地に配し、人倫を本とし、学を勧め礼を修め、化を崇め賢を励まし、以て四方を風化せしむるは、太平の原なり。古は政教未だ洽からず、その礼備わらず。旧官に因ってこれを興すことを請う。博士官のために弟子五十人を置き、その身を復す。太常は民の年十八以上で、儀状端正なる者を択び、博士弟子に補す。郡国県道邑に文学を好み、長上を敬い、政教を粛にし、郷里に順い、出入りして聞くところに悖らざる者あれば、令・相・長・丞にその属する二千石に上らしめ、二千石は謹んで察して可なる者を、計吏とともに当に太常に詣らしめ、弟子の如くに受業を得しむ。一年ごとに皆試し、一芸以上を通ずる能う者は、文学掌故の欠員に補す。その高弟で郎中と為すべき者は、太常が籍に記して奏上す。即ち秀才異等あれば、すなわちその名を以て聞かしむ。その学に事えざる者、若しくは下材にして一芸を通ずる能わざる者は、すなわちこれを罷め、諸の不称なる者を罰することを請う。臣謹んで案ずるに、詔書律令の下るものは、天人分際を明らかにし、古今の義を通じ、文章は爾雅にして、訓辞は深厚、恩施は甚だ美なり。小吏は浅聞にして、これを究め宣べる能わず、以て明らかに布告して下に諭すこと無し。治礼は次いで治掌故と為し、文学礼義を以て官と為し、遷留滞す。その秩比二百石以上、及び吏百石で一芸以上を通ずる者を選択し、左右内史・大行の卒史に補すことを請う。比百石以下は、郡太守の卒史に補す。皆各二人、辺郡は一人。先ず誦むこと多き者を用い、若し足らざれば、乃ち掌故を択びて中二千石の属に補し、文学掌故を郡の属に補し、員を備う。功令に著すことを請う。他は律令の如し」と。詔して曰く、「可」と。これより以来、公卿大夫士吏は斌斌として文学の士多し。

原文公孫弘為學官,悼道之郁滯,乃請曰:「丞相御史言:制曰『蓋聞導民以禮,風之以樂。婚姻者,居屋之大倫也。今禮廢樂崩,朕甚愍焉。故詳延天下方正博聞之士,咸登諸朝。其令禮官勸學,講議洽聞興禮,以為天下先。太常議,與博士弟子,崇鄉里之化,以廣賢材焉』。謹與太常臧、博士平等議曰:聞三代之道,鄉里有教,夏曰校,殷曰序,周曰庠。其勸善也,顯之朝廷;其懲惡也,加之刑罰。故教化之行也,建首善自京師始,由內及外。今陛下昭至德,開大明,配天地,本人倫,勸學修禮,崇化厲賢,以風四方,太平之原也。古者政教未洽,不備其禮,請因舊官而興焉。為博士官置弟子五十人,復其身。太常擇民年十八已上,儀狀端正者,補博士弟子。郡國縣道邑有好文學,敬長上,肅政教,順鄉里,出入不悖所聞者,令相長丞上屬所二千石,二千石謹察可者,當與計偕,詣太常,得受業如弟子。一歲皆輒試,能通一藝以上,補文學掌故缺;其高弟可以為郎中者,太常籍奏。即有秀才異等,輒以名聞。其不事學若下材及不能通一藝,輒罷之,而請諸不稱者罰。臣謹案詔書律令下者,明天人分際,通古今之義,文章爾雅,訓辭深厚,恩施甚美。小吏淺聞,不能究宣,無以明布諭下。治禮次治掌故,以文學禮義為官,遷留滯。請選擇其秩比二百石以上,及吏百石通一藝以上,補左右內史、大行卒史;比百石已下,補郡太守卒史:皆各二人,邊郡一人。先用誦多者,若不足,乃擇掌故補中二千石屬,文學掌故補郡屬,備員。請著功令。佗如律令。」制曰:「可。」自此以來,則公卿大夫士吏斌斌多文學之士矣。

申公

原文申公

申公は、魯の人である。高祖が魯を過ぎた時、申公は弟子として師に従い、魯の南宮において高祖に謁見した。呂太后の時、申公は長安に遊学し、劉郢と同師であった。やがて郢が楚王となると、申公に命じてその太子戊の傅と為した。戊は学を好まず、申公を憎んだ。王郢が卒すると、戊が立ちて楚王となり、申公を胥靡とした。申公はこれを恥じ、魯に帰り、退居して家で教え、終身門を出ず、また賓客を謝絶し、ただ王命召すのみならば往く。弟子として遠方より至り受業する者百余人。申公は独り詩経を以て訓として教え、伝(疑)は無く、疑わしきは則ち闕いて伝えず。

原文申公者,魯人也。高祖過魯,申公以弟子從師入見高祖于魯南宮。呂太后時,申公游學長安,與劉郢同師。已而郢為楚王,令申公傅其太子戊。戊不好學,疾申公。及王郢卒,戊立為楚王,胥靡申公。申公恥之,歸魯,退居家教,終身不出門,復謝絕賓客,獨王命召之乃往。弟子自遠方至受業者百餘人。申公獨以詩經為訓以教,無傳(疑),疑者則闕不傳。

蘭陵の王臧は既に詩経を受けて、孝景帝に仕えて太子少傅となったが、免ぜられて去った。今上(武帝)が初めて即位すると、臧は上書して宿衛を願い出て、累遷し、一年のうちに郎中令となった。また代の趙綰もかつて申公より詩経を受けており、綰は御史大夫となった。綰と臧は天子に請い、明堂を立てて諸侯を朝せしめようとしたが、その事を成就できず、師の申公を推挙した。そこで天子は使者を遣わし、束帛に璧を加え、安車駟馬をもって申公を迎えさせ、弟子二人に軺伝に乗って従わせた。到着して、天子に謁見した。天子が治乱の事を問うと、申公は時に既に八十余歳で老いており、答えて言うには、「治を行う者は多言に在らず、ただ力行如何にあるかを見よ」と。この時、天子は文詞を好んでいたが、申公の答えを見て、黙然とした。しかし既に招致したので、太中大夫と為し、魯邸に宿させ、明堂の事を議させた。太皇竇太后は老子の言を好み、儒術を悦ばず、趙綰・王臧の過失を得て以て上を譲ると、上は因って明堂の事を廃し、趙綰・王臧を尽く吏に下し、後に皆自殺した。申公もまた疾を以て免ぜられて帰り、数年して卒した。

原文蘭陵王臧既受詩,以事孝景帝為太子少傅,免去。今上初即位,臧乃上書宿衛上,累遷,一歲中為郎中令。及代趙綰亦嘗受詩申公,綰為御史大夫。綰、臧請天子,欲立明堂以朝諸侯,不能就其事,乃言師申公。於是天子使使束帛加璧安車駟馬迎申公,弟子二人乘軺傳從。至,見天子。天子問治亂之事,申公時已八十餘,老,對曰:「為治者不在多言,顧力行何如耳。」是時天子方好文詞,見申公對,默然。然已招致,則以為太中大夫,舍魯邸,議明堂事。太皇竇太后好老子言,不說儒術,得趙綰、王臧之過以讓上,上因廢明堂事,盡下趙綰、王臧吏,後皆自殺。申公亦疾免以歸,數年卒。

弟子で博士となった者は十余人いる:孔安国は臨淮太守に至り、周霸は膠西内史に至り、夏寛は城陽内史に至り、碭の魯賜は東海太守に至り、蘭陵の繆生は長沙内史に至り、徐偃は膠西中尉となり、鄒人の闕門慶忌は膠東内史となった。その官を治め民を治めること皆廉節有り、その好学を称せられた。学官の弟子は行い備わらざる者もあったが、大夫・郎中・掌故に至る者は百数を数えた。詩を言うこと異なるも、多く申公に本づく。

原文弟子為博士者十餘人:孔安國至臨淮太守,周霸至膠西內史,夏寬至城陽內史,碭魯賜至東海太守,蘭陵繆生至長沙內史,徐偃為膠西中尉,鄒人闕門慶忌為膠東內史。其治官民皆有廉節,稱其好學。學官弟子行雖不備,而至於大夫、郎中、掌故以百數。言詩雖殊,多本於申公。

轅固生

原文轅固生

清河王太傅の轅固生は、斉の人である。詩経を治めて、孝景帝の時に博士となった。黄生と景帝の前で争論した。黄生が言うには、「湯・武は受命に非ず、乃ち弑である」と。轅固生が言うには、「然らず。夫れ桀・紂は虐乱にして、天下の心は皆湯・武に帰す。湯・武は天下の心と与にし桀・紂を誅す。桀・紂の民はその為に使わずして湯・武に帰す。湯・武は已むを得ずして立ち、受命に非ずして何ぞや」と。黄生が言うには、「冠は雖も敝るも、必ず首に加う。履は雖も新たなりとも、必ず足に関す。何ぞや、上下の分なり。今桀・紂は道を失うと雖も、然れども君上なり。湯・武は聖と雖も、臣下なり。夫れ主に失行有り、臣下は正言を以て過を匡め天子を尊ぶ能わず、反って過に因りて之を誅し、代わり立ち南面に践むは、弑に非ずして何ぞや」と。轅固生が言うには、「必ず若し云う所の如くならば、是れ高帝が秦に代わり天子の位に即くは、非なるか」と。ここにおいて景帝が言うには、「肉を食らいて馬肝を食らわざるも、味を知らざると為さず。学を言う者は湯・武の受命を言わざるも、愚と為さず」と。遂に罷めた。是れより後の学者は敢えて受命放殺を明らかにする者無し。

原文清河王太傅轅固生者,齊人也。以治詩,孝景時為博士。與黃生爭論景帝前。黃生曰:「湯武非受命,乃弒也。」轅固生曰:「不然。夫桀紂虐亂,天下之心皆歸湯武,湯武與天下之心而誅桀紂,桀紂之民不為之使而歸湯武,湯武不得已而立,非受命為何?」黃生曰:「冠雖敝,必加於首;履雖新,必關於足。何者,上下之分也。今桀紂雖失道,然君上也;湯武雖聖,臣下也。夫主有失行,臣下不能正言匡過以尊天子,反因過而誅之,代立踐南面,非弒而何也?」轅固生曰:「必若所云,是高帝代秦即天子之位,非邪?」於是景帝曰:「食肉不食馬肝,不為不知味;言學者無言湯武受命,不為愚。」遂罷。是後學者莫敢明受命放殺者。

竇太后は老子の書を好み、轅固生を召して老子の書を問うた。固が言うには、「此れは家人の言なるのみ」と。太后怒って言うには、「安んぞ司空城旦の書を得んや」と。乃ち固をして圏に入り豕を刺さしめた。景帝は太后の怒りと固の直言無罪なるを知り、乃ち固に利兵を仮し、圏に下りて豕を刺さしめると、正しくその心に中り、一刺しにして、豕は手に応じて倒れた。太后は黙然として、復た罪する所無く、之を罷めた。居ること頃くして、景帝は固を廉直と以て、清河王太傅に拝した。久しくして、病みて免ぜられた。

原文竇太后好老子書,召轅固生問老子書。固曰:「此是家人言耳。」太后怒曰:「安得司空城旦書乎?」乃使固入圈刺豕。景帝知太后怒而固直言無罪,乃假固利兵,下圈刺豕,正中其心,一刺,豕應手而倒。太后默然,無以復罪,罷之。居頃之,景帝以固為廉直,拜為清河王太傅。久之,病免。

今上(武帝)が初めて即位した時、また賢良として轅固を召し出した。諸々の諂う儒者たちは多く轅固を憎み誹り、「固は老いた」と言って、罷免して帰らせた。その時、轅固はすでに九十余歳であった。轅固が召された時、薛の人公孫弘もまた召され、横目で轅固を見た。轅固は言った、「公孫子よ、正しい学問を務めて以て言え、曲がった学問を以て世に阿るなかれ」と。これより後、斉で詩を言う者は皆轅固生を本とするようになった。諸々の斉の人で詩によって顕貴となった者は、皆轅固の弟子である。

原文今上初即位,復以賢良徵固。諸諛儒多疾毀固,曰「固老」,罷歸之。時固已九十餘矣。固之徵也,薛人公孫弘亦徵,側目而視固。固曰:「公孫子,務正學以言,無曲學以阿世!」自是之後,齊言詩皆本轅固生也。諸齊人以詩顯貴,皆固之弟子也。

韓生

原文韓生

韓生は、燕の人である。孝文帝の時に博士となり、景帝の時に常山王の太傅となった。韓生は詩の意味を推し広めて内外伝を数万言作り、その言葉は斉・魯の間のものと頗る異なるが、その帰するところは同じである。淮南の賁生がこれを受け継いだ。これより後、燕・趙の間で詩を言う者は韓生による。韓生の孫の商は今上(武帝)の博士となった。

原文韓生者,燕人也。孝文帝時為博士,景帝時為常山王太傅。韓生推詩之意而為內外傳數萬言,其語頗與齊魯閒殊,然其歸一也。淮南賁生受之。自是之後,而燕趙閒言詩者由韓生。韓生孫商為今上博士。

伏生

原文伏生

伏生は、済南の人である。かつて秦の博士であった。孝文帝の時、尚書を治めることのできる者を求めようとしたが、天下にいなかった。そこで伏生が治められることを聞き、召し出そうとした。この時、伏生は年九十余、老いて行くことができなかった。そこで詔して太常に命じ、掌故の晁錯を使わして往きてこれを受けさせた。秦の時に書を焚やした時、伏生は壁にこれを蔵した。その後、兵が大いに起こり、流亡し、漢が定まった後、伏生がその書を求めたが、数十篇を亡くし、ただ二十九篇を得ただけであった。すなわちこれを以て斉・魯の間に教えた。学者はこれによって尚書を言うことが頗るできるようになり、山東の諸大師は尚書に渉って教えない者はなかった。

原文伏生者,濟南人也。故為秦博士。孝文帝時,欲求能治尚書者,天下無有,乃聞伏生能治,欲召之。是時伏生年九十餘,老,不能行,於是乃詔太常使掌故晁錯往受之。秦時焚書,伏生壁藏之。其後兵大起,流亡,漢定,伏生求其書,亡數十篇,獨得二十九篇,即以教于齊魯之閒。學者由是頗能言尚書,諸山東大師無不涉尚書以教矣。

伏生は済南の張生及び歐陽生に教え、歐陽生は千乗の兒寬に教えた。兒寬は既に尚書に通じ、文学をもって郡の挙に応じ、博士に詣でて学業を受け、孔安國に学業を受けた。兒寬は貧しく資用がなく、常に弟子の都養となり、また時々間を縫って傭賃し、以て衣食を給した。行くときは常に経書を帯び、止息すれば則ちこれを誦習した。試みに第次を以て、廷尉史に補せられた。この時張湯は正に学を向け、以て奏讞掾と為し、古法を以て疑わしき大獄を議決し、而して寬を愛幸した。寬は人となり温良、廉智有り、自ら持し、而して善く著書・書奏し、文に敏なるも、口は発明することができなかった。湯は以て長者と為し、数えこれを称誉した。湯が御史大夫と為るに及び、兒寬を以て掾と為し、之を天子に薦めた。天子見問し、之を説んだ。張湯の死後六年、兒寬の位は御史大夫に至った。九年にして官にて卒した。寬は三公の位に在り、和良を以て意を承け従容として久しく得たるも、然れども匡諫する所無し。官に於いては、官属これを易し、尽力せざりき。張生も亦た博士と為った。而して伏生の孫は尚書を治むるを以て徴されたるも、明らかにすることができなかった。

原文伏生教濟南張生及歐陽生,歐陽生教千乘兒寬。兒寬既通尚書,以文學應郡舉,詣博士受業,受業孔安國。兒寬貧無資用,常為弟子都養,及時時閒行傭賃,以給衣食。行常帶經,止息則誦習之。以試第次,補廷尉史。是時張湯方鄉學,以為奏讞掾,以古法議決疑大獄,而愛幸寬。寬為人溫良,有廉智,自持,而善著書、書奏,敏於文,口不能發明也。湯以為長者,數稱譽之。及湯為御史大夫,以兒寬為掾,薦之天子。天子見問,說之。張湯死后六年,兒寬位至御史大夫。九年而以官卒。寬在三公位,以和良承意從容得久,然無有所匡諫;於官,官屬易之,不為盡力。張生亦為博士。而伏生孫以治尚書徵,不能明也。

此の後より、魯の周霸・孔安國、雒陽の賈嘉、頗る尚書の事を言う能くす。孔氏に古文尚書有り、而して安國は今文を以てこれを読み、因りて以て其の家を起こす。逸書十余篇を得たり、蓋し尚書は是より滋多し。

原文自此之後,魯周霸、孔安國,雒陽賈嘉,頗能言尚書事。孔氏有古文尚書,而安國以今文讀之,因以起其家。逸書得十餘篇,蓋尚書滋多於是矣。

諸学者多く礼を言う、而して魯の高堂生最も本なり。礼は固より孔子の時より其の経具わらず、及び秦の書を焚くに至り、書散亡して益々多し、今に於いて独り士礼有り、高堂生これを言う能くす。

原文諸學者多言禮,而魯高堂生最本。禮固自孔子時而其經不具,及至秦焚書,書散亡益多,於今獨有士禮,高堂生能言之。

而して魯の徐生は容を善くす。孝文帝の時、徐生は容を以て礼官大夫と為る。子に伝え孫の延・徐襄に至る。襄は其の天姿容を善くするも、礼経を通ずる能わず。延は頗る能くするも、未だ善からず。襄は容を以て漢の礼官大夫と為り、広陵内史に至る。延及び徐氏の弟子公戶滿意・桓生・単次、皆嘗て漢の礼官大夫と為る。而して瑕丘の蕭奮は礼を以て淮陽太守と為る。是の後礼を言い容を為す能くする者は、徐氏より出ず。

原文而魯徐生善為容。孝文帝時,徐生以容為禮官大夫。傳子至孫延、徐襄。襄,其天姿善為容,不能通禮經;延頗能,未善也。襄以容為漢禮官大夫,至廣陵內史。延及徐氏弟子公戶滿意、桓生、單次,皆嘗為漢禮官大夫。而瑕丘蕭奮以禮為淮陽太守。是後能言禮為容者,由徐氏焉。

魯の商瞿が孔子に易を受くるより、孔子卒し、商瞿易を伝え、六世斉人田何に至り、字は子莊、而して漢興る。田何は東武人王同子仲に伝え、子仲は菑川人楊何に伝う。何は易を以て、元光元年徴され、官は中大夫に至る。斉人即墨成は易を以て城陽相に至る。広川人孟但は易を以て太子門大夫と為る。魯人周霸、莒人衡胡、臨菑人主父偃、皆易を以て二千石に至る。然れども要するに易を言う者は楊何の家に本づく。

原文自魯商瞿受易孔子,孔子卒,商瞿傳易,六世至齊人田何,字子莊,而漢興。田何傳東武人王同子仲,子仲傳菑川人楊何。何以易,元光元年徵,官至中大夫。齊人即墨成以易至城陽相。廣川人孟但以易為太子門大夫。魯人周霸,莒人衡胡,臨菑人主父偃,皆以易至二千石。然要言易者本於楊何之家。

董仲舒

原文董仲舒

董仲舒は広川の人である。『春秋』を治めて、孝景帝の時に博士となった。帷を下ろして講誦し、弟子は久しきを以て次第に相受業し、或いはその面を見ること莫き者あり、蓋し三年の間董仲舒は舎園を観ず、その精なること此の如し。進退容止、礼に非ざれば行わず、学士皆師としてこれを尊んだ。今上即位し、江都の相となる。『春秋』の災異の変を以て陰陽の錯行する所以を推し、故に雨を求むるには諸陽を閉じ、諸陰を縦し、その雨を止むるはこれに反す。これを一国に行うも、未だ得ざる所欲有らざりき。中だ廃せられて中大夫となり、舎に居て、災異の記を著す。是の時遼東の高廟災有り、主父偃これを疾み、その書を取って天子に奏す。天子諸生を召してその書を示すに、刺譏有り。董仲舒の弟子呂歩舒はその師の書たるを知らず、以て下愚と為す。ここに於て董仲舒を吏に下し、死に当たるも、詔してこれを赦す。ここに於て董仲舒竟に敢えて復た災異を言わず。

原文董仲舒,廣川人也。以治春秋,孝景時為博士。下帷講誦,弟子傳以久次相受業,或莫見其面,蓋三年董仲舒不觀於舍園,其精如此。進退容止,非禮不行,學士皆師尊之。今上即位,為江都相。以春秋災異之變推陰陽所以錯行,故求雨閉諸陽,縱諸陰,其止雨反是。行之一國,未嘗不得所欲。中廢為中大夫,居舍,著災異之記。是時遼東高廟災,主父偃疾之,取其書奏之天子。天子召諸生示其書,有刺譏。董仲舒弟子呂步舒不知其師書,以為下愚。於是下董仲舒吏,當死,詔赦之。於是董仲舒竟不敢復言災異。

董仲舒は人となり廉直なり。是の時方に外に四夷を攘い、公孫弘の『春秋』を治むるは董仲舒に如かず、而るに弘は世に希いて用事し、位公卿に至る。董仲舒は弘を以て従諛と為す。弘これを疾み、乃ち上に言いて曰く、「独り董仲舒をして膠西王の相たらしむべし」と。膠西王は素より董仲舒に行有るを聞き、亦た善くこれを待遇す。董仲舒久しくして罪を獲んことを恐れ、疾を以て免じ家に居る。卒に至るまで、終に産業を治めず、以て学を修め書を著すを事とす。故に漢興より五世の間に至るまで、唯だ董仲舒名有りて『春秋』に明るきを為し、その伝は公羊氏なり。

原文董仲舒為人廉直。是時方外攘四夷,公孫弘治春秋不如董仲舒,而弘希世用事,位至公卿。董仲舒以弘為從諛。弘疾之,乃言上曰:「獨董仲舒可使相繆西王。」膠西王素聞董仲舒有行,亦善待之。董仲舒恐久獲罪,疾免居家。至卒,終不治產業,以修學著書為事。故漢興至于五世之閒,唯董仲舒名為明於春秋,其傳公羊氏也。

胡毋生

原文胡毋生

胡毋生は斉の人である。孝景帝の時に博士となり、老いて帰り教授す。斉にて『春秋』を言う者は多く胡毋生に受け、公孫弘も亦た頗るこれを受く。

原文胡毋生,齊人也。孝景時為博士,以老歸教授。齊之言春秋者多受胡毋生,公孫弘亦頗受焉。

瑕丘の江生は穀梁春秋を修めた。公孫弘が用いられてより、嘗てその義を集めて比べたが、遂に董仲舒を用いた。

原文瑕丘江生為穀梁春秋。自公孫弘得用,嘗集比其義,卒用董仲舒。

仲舒の弟子で遂に達した者は、蘭陵の褚大、廣川の殷忠、溫の呂步舒である。褚大は梁の相に至った。歩舒は長史に至り、節を持ち使わされて淮南の獄を決し、諸侯に対して擅に専断し、上報せず、春秋の義を以てこれを正したが、天子は皆以て是と為した。弟子で通じた者は、命大夫に至るまであり、郎・謁者・掌故を為す者は百数を以て数う。而して董仲舒の子及び孫は皆学を以て大官に至った。

原文仲舒弟子遂者:蘭陵褚大,廣川殷忠,溫呂步舒。褚大至梁相。步舒至長史,持節使決淮南獄,於諸侯擅專斷,不報,以春秋之義正之,天子皆以為是。弟子通者,至於命大夫;為郎、謁者、掌故者以百數。而董仲舒子及孫皆以學至大官。

【索隠述賛】孔氏の衰え、経書の緒乱る。諸の六学を言うは、始めて炎漢よりす。令を著し官を立て、四方鶬腕す。曲台の壁を壊し、書礼の冠たり。易を伝え詩を言い、雲蒸り霧散ず。化を興し理を致す、鴻猷克く賛す。

原文【索隱述贊】孔氏之衰,經書緒亂。言諸六學,始自炎漢。著令立官,四方鶬腕。曲台壞壁,書禮之冠。傳易言詩,雲蒸霧散。興化致理,鴻猷克贊。