史記

巻七十一 樗里子甘茂列傳 第十一

樗里子

原文樗里子

樗里子は、名を疾といい、秦の恵王の弟であり、恵王とは母を異にする。母は韓の女である。樗里子は滑稽にして智謀多く、秦人は彼を「智囊」と号した。

原文樗里子者,名疾,秦惠王之弟也,與惠王異母。母,韓女也。樗里子滑稽多智,秦人號曰「智囊」。

秦の恵王八年、樗里子に右更の爵位を与え、将として曲沃を伐たせ、その民をことごとく出させ、その城を取り、地を秦に帰せしめた。秦の恵王二十五年、樗里子を将として趙を伐たせ、趙の将軍荘豹を虜とし、藺を抜いた。明年、魏章を助けて楚を攻め、楚の将屈丐を破り、漢中の地を取った。秦は樗里子を封じ、号して厳君と為した。

原文秦惠王八年,爵樗里子右更,使將而伐曲沃,盡出其人,取其城,地入秦。秦惠王二十五年,使樗里子為將伐趙,虜趙將軍莊豹,拔藺。明年,助魏章攻楚,敗楚將屈丐,取漢中地。秦封樗里子,號為嚴君。

秦の恵王が卒し、太子の武王が立ち、張儀と魏章を逐い、代わりに樗里子と甘茂を左右の丞相とした。秦は甘茂をして韓を攻めさせ、宜陽を抜いた。樗里子に車百乗を以て周に入らせた。周は卒を以てこれを迎え、その意甚だ敬った。楚王は怒り、周を譲り、その秦の客を重んずることを責めた。游騰が周のために楚王に説いて言うには、「知伯が仇猶を伐つに、これに広車を遺し、因って兵を以てこれに随い、仇猶は遂に亡んだ。何ぞや、備え無き故なり。斉の桓公が蔡を伐つに、号して楚を誅すと曰い、その実は蔡を襲うなり。今の秦は、虎狼の国、樗里子に車百乗を以て周に入らせ、周は仇猶と蔡のことを観るが故に、長戟を前に居らせ、強弩を後にし、名は疾を衛うと曰い、而して実はこれを囚うるなり。且つ周は豈にその社稷を憂えざるを得んや、一旦亡国して大王を憂わしむるを恐るるなり」と。楚王は乃ち悦んだ。

原文秦惠王卒,太子武王立,逐張儀、魏章,而以樗里子、甘茂為左右丞相。秦使甘茂攻韓,拔宜陽。使樗里子以車百乘入周。周以卒迎之,意甚敬。楚王怒,讓周,以其重秦客。游騰為周說楚王曰:「知伯之伐仇猶,遺之廣車,因隨之以兵,仇猶遂亡。何則?無備故也。齊桓公伐蔡,號曰誅楚,其實襲蔡。今秦,虎狼之國,使樗里子以車百乘入周,周以仇猶、蔡觀焉,故使長戟居前,彊弩在後,名曰衛疾,而實囚之。且夫周豈能無憂其社稷哉?恐一旦亡國以憂大王。」楚王乃悅。

秦の武王が卒し、昭王が立ち、樗里子はまた益々尊重された。

原文秦武王卒,昭王立,樗里子又益尊重。

昭王元年、樗里子は蒲を伐たんとした。蒲の守は恐れ、胡衍に請うた。胡衍は蒲のために樗里子に謂って言うには、「公の蒲を攻むるは、秦のためか、魏のためか。魏のためならば善し、秦のためならば頼みとすべからず。夫れ衛の衛たる所以は、蒲によるなり。今蒲を伐って魏に入れば、衛は必ず折れてこれに従わん。魏が西河の外を亡くして取る所無きは、兵弱きなり。今衛を魏に併せば、魏は必ず強し。魏強きの日、西河の外は必ず危うからん。且つ秦王は将に公の事を観んとし、秦を害して魏に利するを見れば、王は必ず公を罪せん」と。樗里子が言うには、「奈何」と。胡衍が言うには、「公は蒲を釈して攻めず、臣試みに公のために入りてこれを言い、以て衛君に徳せしめん」と。樗里子が言うには、「善し」と。胡衍は蒲に入り、その守に謂って言うには、「樗里子は蒲の病を知り、その言うには必ず蒲を抜かんと。衍は能く釈して蒲を攻めざらしめん」と。蒲の守は恐れ、因って再拝して言うには、「願わくは以て請わん」と。因って金三百斤を献じ、言うには、「秦兵苟も退かば、必ず子を衛君に言い、子をして南面せしめん」と。故に胡衍は蒲において金を受け、以て自ら衛に貴ばれた。ここにおいて遂に蒲を解いて去った。還って皮氏を撃つも、皮氏は未だ降らず、また去った。

原文昭王元年,樗里子將伐蒲。蒲守恐,請胡衍。胡衍為蒲謂樗里子曰:「公之攻蒲,為秦乎?為魏乎?為魏則善矣,為秦則不為賴矣。夫衛之所以為衛者,以蒲也。今伐蒲入於魏,衛必折而從之。魏亡西河之外而無以取者,兵弱也。今并衛於魏,魏必彊。魏彊之日,西河之外必危矣。且秦王將觀公之事,害秦而利魏,王必罪公。」樗里子曰:「柰何?」胡衍曰:「公釋蒲勿攻,臣試為公入言之,以德衛君。」樗里子曰:「善。」胡衍入蒲,謂其守曰:「樗里子知蒲之病矣,其言曰必拔蒲。衍能令釋蒲勿攻。」蒲守恐,因再拜曰:「願以請。」因效金三百斤,曰:「秦兵茍退,請必言子於衛君,使子為南面。」故胡衍受金於蒲以自貴於衛。於是遂解蒲而去。還擊皮氏,皮氏未降,又去。

昭王七年、樗里子卒し、渭南の章臺の東に葬る。曰く、「後百年、是に当に天子の宮我が墓を夾む有らん」と。樗里子疾の室は昭王廟の西、渭南の陰郷樗里に在り、故に俗にこれを樗里子と謂う。漢興に至り、長楽宮はその東に在り、未央宮はその西に在り、武庫は正しくその墓に直る。秦人の諺に曰く、「力は則ち任鄙、智は則ち樗里」と。

原文昭王七年,樗里子卒,葬于渭南章臺之東。曰:「後百歲,是當有天子之宮夾我墓。」樗里子疾室在於昭王廟西渭南陰鄉樗裏,故俗謂之樗里子。至漢興,長樂宮在其東,未央宮在其西,武庫正直其墓。秦人諺曰:「力則任鄙,智則樗裏。」

甘茂

原文甘茂

甘茂は下蔡の人である。下蔡の史挙先生に仕え、百家の学説を学んだ。張儀・樗里子を通じて秦の恵王に謁見を求めた。王は彼に会って喜び、将軍とし、魏章を補佐して漢中の地をほぼ平定させた。

原文甘茂者,下蔡人也。事下蔡史舉先生,學百家之說。因張儀、樗里子而求見秦惠王。王見而說之,使將,而佐魏章略定漢中地。

恵王が崩じ、武王が立つと、張儀・魏章は去り、東の魏へ赴いた。蜀侯煇と相の壮が反乱を起こしたので、秦は甘茂を遣わして蜀を平定させた。帰還すると、甘茂を左丞相とし、樗里子を右丞相とした。

原文惠王卒,武王立。張儀、魏章去,東之魏。蜀侯煇、相壯反,秦使甘茂定蜀。還,而以甘茂為左丞相,以樗里子為右丞相。

秦の武王三年、王は甘茂に言った。「寡人は車を容れて三川を通り、周室を窺い、そうして死んでも朽ち果てぬ思いがしたい。」甘茂は言った。「魏へ行き、韓を伐つことを約束させてください。向寿に補佐として随行させましょう。」甘茂が到着すると、向寿に言った。「あなたは帰り、王にこう言いなさい。『魏は臣に従いましたが、どうか王は伐たないでください』と。事が成れば、すべてあなたの功績とします。」向寿が帰って王に告げると、王は息壤で甘茂を迎えた。甘茂が到着し、王がその理由を問うと、答えて言った。「宜陽は大県で、上党・南陽の蓄積が久しい。名は県ですが、実は郡です。今、王は幾重もの険阻を背にし、千里を行軍してこれを攻めるのは難しい。昔、曾参が費にいた時、魯人に曾参と同姓同名の者が人を殺し、人がその母に告げて『曾参が人を殺した』と言うと、母は織りを続けて平然としていた。しばらくして、また一人が告げて『曾参が人を殺した』と言うと、母はなお織りを続けて平然としていた。しばらくしてまた一人が告げて『曾参が人を殺した』と言うと、母は杼を投げ出し機から降り、垣を越えて逃げた。曾参の賢さとその母の彼を信じる心をもってしても、三人が疑えば母は恐れたのである。今、臣の賢さは曾参に及ばず、王の臣を信じる心も曾参の母が曾参を信じるほどではない。臣を疑う者は三人に限らない。臣は大王が杼を投げ出されることを恐れる。そもそも張儀が西は巴蜀の地を併せ、北は西河の外を開き、南は上庸を取った時、天下は張子を多く称えず、先王を賢とした。魏の文侯が楽羊に将軍として中山を攻めさせ、三年でこれを抜いた。楽羊が帰って功績を論じると、文侯は彼に謗りの書を一箱示した。楽羊は再拝稽首して言った。『これは臣の功績ではなく、主君の力です。』今、臣は旅の臣である。樗里子・公孫奭の二人が韓を抱えて議論すれば、王は必ずそれを聞かれるであろう。それは王が魏王を欺き、臣が公仲侈の怨みを受けることになる。」王は言った。「寡人は聞かない。あなたと盟を結ぼう。」ついに丞相甘茂に兵を率いさせて宜陽を伐たせた。五月経っても抜けず、樗里子・公孫奭が果たしてこれを争った。武王は甘茂を召し、兵をやめようとした。甘茂は言った。「息壤の約束がそこにあります。」王は言った。「確かにある。」そこで大いに兵を起こし、甘茂にこれを撃たせた。首級六万を斬り、ついに宜陽を抜いた。韓の襄王は公仲侈を遣わして謝罪させ、秦と講和した。

原文秦武王三年,謂甘茂曰:「寡人欲容車通三川,以窺周室,而寡人死不朽矣。」甘茂曰:「請之魏,約以伐韓,而令向壽輔行。」甘茂至,謂向壽曰:「子歸,言之於王曰『魏聽臣矣,然願王勿伐』。事成,盡以為子功。」向壽歸,以告王,王迎甘茂於息壤。甘茂至,王問其故。對曰:「宜陽,大縣也,上黨、南陽積之久矣。名曰縣,其實郡也。今王倍數險,行千里攻之,難。昔曾參之處費,魯人有與曾參同姓名者殺人,人告其母曰『曾參殺人』,其母織自若也。頃之,一人又告之曰『曾參殺人』,其母尚織自若也。頃又一人告之曰『曾參殺人』,其母投杼下機,踰墻而走。夫以曾參之賢與其母信之也,三人疑之,其母懼焉。今臣之賢不若曾參,王之信臣又不如曾參之母信曾參也,疑臣者非特三人,臣恐大王之投杼也。始張儀西并巴蜀之地,北開西河之外,南取上庸,天下不以多張子而以賢先王。魏文侯令樂羊將而攻中山,三年而拔之。樂羊返而論功,文侯示之謗書一篋。樂羊再拜稽首曰:『此非臣之功也,主君之力也。』今臣,羈旅之臣也。樗里子、公孫奭二人者挾韓而議之,王必聽之,是王欺魏王而臣受公仲侈之怨也。」王曰:「寡人不聽也,請與子盟。」卒使丞相甘茂將兵伐宜陽。五月而不拔,樗里子、公孫奭果爭之。武王召甘茂,欲罷兵。甘茂曰:「息壤在彼。」王曰:「有之。」因大悉起兵,使甘茂擊之。斬首六萬,遂拔宜陽。韓襄王使公仲侈入謝,與秦平。

武王はついに周に至り、周で卒した。その弟が立ち、昭王となった。王の母の宣太后は楚の女である。楚の懐王は以前、秦が丹陽で楚を破ったのに韓が救わなかったことを怨み、兵をもって韓の雍氏を囲んだ。韓は公仲侈を遣わして秦に急を告げた。秦の昭王は新たに立ち、太后は楚人であるため、救おうとしなかった。公仲は甘茂に頼み、茂は韓のために秦の昭王に言った。「公仲は秦の救援を得られる見込みがあるから、敢えて楚に抗しているのです。今、雍氏が囲まれ、秦軍が殽を下りなければ、公仲は仰向いて朝せず、公叔は国を挙げて南の楚と合従するでしょう。楚・韓が一つとなり、魏氏は敢えて従わないわけにはいかず、そうなれば秦を伐つ形勢が出来上がります。坐して伐たれるのと、人を伐つのと、どちらが有利か分かりません。」秦王は言った。「よろしい。」そこで殽に軍を下して韓を救った。楚軍は去った。

原文武王竟至周,而卒於周。其弟立,為昭王。王母宣太后,楚女也。楚懷王怨前秦敗楚於丹陽而韓不救,乃以兵圍韓雍氏。韓使公仲侈告急於秦。秦昭王新立,太后楚人,不肯救。公仲因甘茂,茂為韓言於秦昭王曰:「公仲方有得秦救,故敢捍楚也。今雍氏圍,秦師不下殽,公仲且仰首而不朝,公叔且以國南合於楚。楚、韓為一,魏氏不敢不聽,然則伐秦之形成矣。不識坐而待伐孰與伐人之利?」秦王曰:「善。」乃下師於殽以救韓。楚兵去。

秦は向壽をして宜陽を平定せしめ、樗里子と甘茂をして魏の皮氏を伐たしむ。向壽は宣太后の外戚にして、昭王と少時より共に成長せし故、任用せらる。向壽楚に赴く。楚は秦が向壽を貴ぶを聞き、厚く向壽に事ふ。向壽は秦の為に宜陽を守り、将に韓を伐たんとす。韓の公仲、蘇代をして向壽に謂はしめて曰く、「禽困れて車を覆す。公韓を破り、公仲を辱しむれば、公仲国を収めて復た秦に事へ、自ら必ず封ぜらるべきと為す。今公楚と解口の地を結び、小令尹に杜陽を封ず。秦楚合し、復た韓を攻めば、韓必ず亡ぶ。韓亡びなば、公仲将に躬ら其の私徒を率ひて秦を閼せんとす。願くは公熟慮せよ」と。向壽曰く、「吾が秦楚を合するは、以て韓に当らんと為すに非ず。子寿の為に之を公仲に謁し、秦韓の交は合す可しと曰へ」と。蘇代対へて曰く、「願くは公に謁す有り。人曰く、其の貴き所以を貴ぶ者は貴し。王の公を愛習するは、公孫奭に如かず。其の智公を能くするは、甘茂に如かず。今二人者皆秦事に親しむを得ずして、公独り王と国を主断するは何ぞや。彼れ之を失ふ所以有り。公孫奭は韓に党し、甘茂は魏に党す。故に王信ぜざるなり。今秦楚強を争ふに、公楚に党せば、是れ公孫奭・甘茂と同道なり。公何を以て之に異ならん。人皆楚の善く変ずるを言ふに、公必ず之を亡ぼさんとす。是れ自ら責を為すなり。公王と其の変を謀り、韓を善くして以て楚に備ふるに如かず。然らば則ち患無し。韓氏必ず先づ国を以て公孫奭に従ひ、而して後に国を甘茂に委ぬ。韓は公の讎なり。今公韓を善くして以て楚に備ふと言ふは、是れ外挙讎を僻めざるなり」と。向壽曰く、「然り。吾甚だ韓を合せんと欲す」と。対へて曰く、「甘茂公仲に武遂を許し、宜陽の民を反せしむ。今公徒ら之を収むるは甚だ難し」と。向壽曰く、「然らば奈何。武遂終に得可からざるか」と。対へて曰く、「公何ぞ秦を以て韓の為に楚に潁川を求めざる。此れ韓の寄地なり。公求め之を得なば、是れ令楚に行はれ、其の地を以て韓に徳すなり。公求め之を得ざれば、是れ韓楚の怨解けずして交は秦に走るなり。秦楚強を争ふに、公徐ろに楚を過ぎて以て韓を収む。此れ秦に利有り」と。向壽曰く、「奈何」と。対へて曰く、「此れ善き事なり。甘茂は魏を以て斉を取らんと欲し、公孫奭は韓を以て斉を取らんと欲す。今公宜陽を取りて以て功と為し、楚韓を収めて以て之を安んじ、而して斉魏の罪を誅せば、是れ以て公孫奭・甘茂事無からしむるなり」と。

原文秦使向壽平宜陽,而使樗里子、甘茂伐魏皮氏。向壽者,宣太后外族也,而與昭王少相長,故任用。向壽如楚,楚聞秦之貴向壽,而厚事向壽。向壽為秦守宜陽,將以伐韓。韓公仲使蘇代謂向壽曰:「禽困覆車。公破韓,辱公仲,公仲收國復事秦,自以為必可以封。今公與楚解口地,封小令尹以杜陽。秦楚合,復攻韓,韓必亡。韓亡,公仲且躬率其私徒以閼於秦。願公孰慮之也。」向壽曰:「吾合秦楚非以當韓也,子為壽謁之公仲,曰秦韓之交可合也。」蘇代對曰:「願有謁於公。人曰貴其所以貴者貴。王之愛習公也,不如公孫奭;其智能公也,不如甘茂。今二人者皆不得親於秦事,而公獨與王主斷於國者何?彼有以失之也。公孫奭黨於韓,而甘茂黨於魏,故王不信也。今秦楚爭彊而公黨於楚,是與公孫奭、甘茂同道也,公何以異之?人皆言楚之善變也,而公必亡之,是自為責也。公不如與王謀其變也,善韓以備楚,如此則無患矣。韓氏必先以國從公孫奭而後委國於甘茂。韓,公之讎也。今公言善韓以備楚,是外舉不僻讎也。」向壽曰:「然,吾甚欲韓合。」對曰:「甘茂許公仲以武遂,反宜陽之民,今公徒收之,甚難。」向壽曰:「然則奈何?武遂終不可得也?」對曰:「公奚不以秦為韓求潁川於楚?此韓之寄地也。公求而得之,是令行於楚而以其地德韓也。公求而不得,是韓楚之怨不解而交走秦也。秦楚爭彊,而公徐過楚以收韓,此利於秦。」向壽曰:「柰何?」對曰:「此善事也。甘茂欲以魏取齊,公孫奭欲以韓取齊。今公取宜陽以為功,收楚韓以安之,而誅齊魏之罪,是以公孫奭、甘茂無事也。」

甘茂遂に秦の昭王に言ひて、武遂を以て復た韓に帰せしむ。向壽・公孫奭之を争ふも、能はざるを得ず。向壽・公孫奭此れより怨み、甘茂を讒す。茂懼れ、魏の蒲阪を伐つを輟め、亡び去る。樗里子魏と講じ、兵を罷む。

原文甘茂竟言秦昭王,以武遂復歸之韓。向壽、公孫奭爭之,不能得。向壽、公孫奭由此怨,讒甘茂。茂懼,輟伐魏蒲阪,亡去。樗里子與魏講,罷兵。

甘茂が秦を亡れて斉に奔ったとき、蘇代に逢った。蘇代は斉のために秦に使していた。甘茂は言った、「臣は秦に罪を得て、懼れて逃げ隠れ、身を容れるところがない。臣は聞く、貧しい人の娘と富める人の娘が一緒に糸を績んでいると、貧しい人の娘が言う、『私は燭を買うものがないが、あなたの燭の光は幸い余りがある。あなたは余った光を私に分けてくだされば、あなたの明るさを損なうことなく、私も一つの便りを得ましょう』と。今、臣は困窮しておりますが、あなたはちょうど秦に使いし、権勢の道に当たっておられます。茂の妻子はそこにおります。どうかあなたの余った光で彼らを振るい起こしてください」と。蘇代は承諾した。そこで秦に使いをした。その後、秦王を説いて言った、「甘茂は並みの士ではありません。彼が秦に居たときは、累代にわたって重用されました。殽の塞から鬼谷に至るまで、その地形の険易をことごとく明らかに知っております。彼がもし斉と約して韓・魏を引き入れ、秦を図るならば、秦の利益にはなりません」。秦王は言った、「ではどうすればよいか」。蘇代は言った、「王は、礼を厚くし、禄を豊かにして彼を迎え、彼が来たら鬼谷に置き、終身出さないようにするのがよろしいでしょう」。秦王は言った、「よかろう」。すぐに上卿の位を賜り、相印を持って斉から迎えようとした。甘茂は行かなかった。蘇代が斉の湣王に言った、「甘茂は賢人です。今、秦が上卿を賜り、相印を持って迎えようとしています。甘茂は王の賜りを徳とし、王の臣となることを好んでいますので、辞して行かないのです。今、王はどうか彼を礼遇なさいますように」。斉王は言った、「よかろう」。そこで上卿の位に就けて処遇した。秦はそこで甘茂の家族を復活させて、斉に取り入ろうとした。

原文甘茂之亡秦奔齊,逢蘇代。代為齊使於秦。甘茂曰:「臣得罪於秦,懼而遯逃,無所容跡。臣聞貧人女與富人女會績,貧人女曰:『我無以買燭,而子之燭光幸有餘,子可分我餘光,無損子明而得一斯便焉。』今臣困而君方使秦而當路矣。茂之妻子在焉,願君以餘光振之。」蘇代許諾。遂致使於秦。已,因說秦王曰:「甘茂,非常士也。其居於秦,累世重矣。自殽塞及至鬼谷,其地形險易皆明知之。彼以齊約韓魏反以圖秦,非秦之利也。」秦王曰:「然則柰何?」蘇代曰:「王不若重其贄,厚其祿以迎之,使彼來則置之鬼谷,終身勿出。」秦王曰:「善。」即賜之上卿,以相印迎之於齊。甘茂不往。蘇代謂齊湣王曰:「夫甘茂,賢人也。今秦賜之上卿,以相印迎之。甘茂德王之賜,好為王臣,故辭而不往。今王何以禮之?」齊王曰:「善。」即位之上卿而處之。秦因復甘茂之家以市於齊。

斉は甘茂を楚に使わせた。楚の懐王は新たに秦と婚姻を結んで仲睦まじかった。秦は甘茂が楚にいることを聞き、人をやって楚王に言わせた、「甘茂を秦に送ってほしい」。楚王は范蜎に問うて言った、「寡人は秦に相を置きたいが、誰がよいか」。答えて言った、「臣には見当がつきません」。楚王は言った、「寡人は甘茂を相にしたいが、よいか」。答えて言った、「なりません。史挙は下蔡の監門でしたが、大には君に仕えることをせず、小には家を治めることをせず、苟且で卑賤で廉恥なく世に聞こえています。甘茂は彼に事えて順調でした。故に恵王の明察、武王の聡明、張儀の弁舌があっても、甘茂は彼らに事え、十の官を取っても罪を得ませんでした。茂は確かに賢者ですが、秦の相にはなりません。秦に賢相がいることは、楚の国の利益ではありません。かつて王は越に召滑を用いましたが、内では章義の難を起こし、越国は乱れ、故に楚は南に厲門を塞ぎ、江東に郡を置きました。王の功績がこのようになったのは、越国が乱れ、楚が治まったからです。今、王は越に用いることを知りながら、秦に用いることを忘れている。臣は王の過ちが大きいと思います。では、王がもし秦に相を置きたいなら、向寿ほど適した者はありません。向寿は秦王にとって親しい間柄で、幼いときは同じ衣を着、長じては同じ車に乗り、政事を聴いております。王が必ず向寿を秦の相とすれば、楚の国の利益となります」。そこで使者をやって秦に向寿を相とするよう請うた。秦はついに向寿を相とした。そして甘茂はついに再び秦に入ることができず、魏で卒した。

原文齊使甘茂於楚,楚懷王新與秦合婚而驩。而秦聞甘茂在楚,使人謂楚王曰:「願送甘茂於秦。」楚王問於范蜎曰:「寡人欲置相於秦,孰可?」對曰:「臣不足以識之。」楚王曰:「寡人欲相甘茂,可乎?」對曰:「不可。夫史舉,下蔡之監門也,大不為事君,小不為家室,以茍賤不廉聞於世,甘茂事之順焉。故惠王之明,武王之察,張儀之辯,而甘茂事之,取十官而無罪。茂誠賢者也,然不可相於秦。夫秦之有賢相,非楚國之利也。且王前嘗用召滑於越,而內行章義之難,越國亂,故楚南塞厲門而郡江東。計王之功所以能如此者,越國亂而楚治也。今王知用諸越而忘用諸秦,臣以王為鉅過矣。然則王若欲置相於秦,則莫若向壽者可。夫向壽之於秦王,親也,少與之同衣,長與之同車,以聽事。王必相向壽於秦,則楚國之利也。」於是使使請秦相向壽於秦。秦卒相向壽。而甘茂竟不得復入秦,卒於魏。

甘茂には孫がいて甘羅という。

原文甘茂有孫曰甘羅。

甘羅

原文甘羅

甘羅は甘茂の孫である。茂が死んだ後、甘羅は十二歳で、秦の相・文信侯呂不韋に仕えた。

原文甘羅者,甘茂孫也。茂既死後,甘羅年十二,事秦相文信侯呂不韋。

秦の始皇帝は剛成君蔡澤を燕に使いさせ、三年にして燕王喜は太子丹を人質として秦に入らせた。秦は張唐を遣わして燕の相とならせ、燕と共に趙を伐って河間の地を広げようとした。張唐が文信侯に言うには、「臣はかつて秦の昭王のために趙を伐ちましたが、趙は臣を怨み、『張唐を得た者には百里の地を与える』と言っております。今燕に行くには必ず趙を通らねばなりません。臣は行くことができません」と。文信侯は快からず、強いる術がなかった。甘羅が言うには、「君侯はどうしてそれほど不快なのですか」と。文信侯は言うには、「私は剛成君蔡澤に燕に仕えさせて三年になるが、燕の太子丹はすでに人質として入ってきた。私は自ら張卿(張唐)に燕の相となるよう請うたが、彼は行くことを肯じない」と。甘羅が言うには、「臣が行かせてみせましょう」と。文信侯は叱って言うには、「退け!私が自ら請うても肯じないのに、お前ごときがどうして行かせることができようか」と。甘羅が言うには、「大項橐は七歳で孔子の師となったと申します。今、臣はここに生まれて十二歳になります。君はどうか臣を試してみてください。どうして急いでお叱りになるのですか」と。そこで甘羅は張卿に会って言うには、「卿の功は武安君(白起)と比べてどちらが上か」と。張卿は言うには、「武安君は南では強楚を挫き、北では燕・趙を威圧し、戦えば勝ち攻めれば取り、城を破り邑を堕とすこと数知れず、臣の功は及ばない」と。甘羅が言うには、「応侯(范雎)が秦で用いられた時と、文信侯(呂不韋)が専権を握る今とでは、どちらが専らに信任されているか」と。張卿は言うには、「応侯は文信侯ほどの専権はない」と。甘羅が言うには、「卿ははっきりとその不如を知っているか」と。張卿は言うには、「知っている」と。甘羅が言うには、「応侯が趙を攻めようとした時、武安君がそれを難じたため、咸陽を去ること七里の杜郵で立ったまま死んだ。今、文信侯が自ら卿に燕の相となるよう請うているのに卿が行くことを肯じない。臣には卿の死ぬ所がわからない」と。張唐は言うには、「どうか童子(甘羅)の言う通りに行かせてほしい」と。命じて装いを整え旅支度をさせた。

原文秦始皇帝使剛成君蔡澤於燕,三年而燕王喜使太子丹入質於秦。秦使張唐往相燕,欲與燕共伐趙以廣河閒之地。張唐謂文信侯曰:「臣嘗為秦昭王伐趙,趙怨臣,曰:『得唐者與百里之地。』今之燕必經趙,臣不可以行。」文信侯不快,未有以彊也。甘羅曰:「君侯何不快之甚也?」文信侯曰:「吾令剛成君蔡澤事燕三年,燕太子丹已入質矣,吾自請張卿相燕而不肯行。」甘羅曰:「臣請行之。」文信侯叱曰:「去!我身自請之而不肯,女焉能行之?」甘羅曰:「大項橐生七歲為孔子師。今臣生十二歲於茲矣,君其試臣,何遽叱乎?」於是甘羅見張卿曰:「卿之功孰與武安君?」卿曰:「武安君南挫彊楚,北威燕、趙,戰勝攻取,破城墮邑,不知其數,臣之功不如也。」甘羅曰:「應侯之用於秦也,孰與文信侯專?」張卿曰:「應侯不如文信侯專。」甘羅曰:「卿明知其不如文信侯專與?」曰:「知之。」甘羅曰:「應侯欲攻趙,武安君難之,去咸陽七里而立死於杜郵。今文信侯自請卿相燕而不肯行,臣不知卿所死處矣。」張唐曰:「請因孺子行。」令裝治行。

出発の日が決まった時、甘羅は文信侯に言うには、「臣に車五乗を貸してください。張唐に先立って趙に報せに行かせてください」と。文信侯はそこで入朝して始皇に言上した。「昔の甘茂の孫、甘羅は年少ではありますが、名家の子孫であり、諸侯も皆その名を知っております。今、張唐は病気と称して行こうとしませんでしたが、甘羅が説得して行かせました。今、趙に先んじて報せに行きたいと願っております。どうか彼を派遣することをお許しください」と。始皇は甘羅を召し出し、趙に使いさせた。趙の襄王は郊外に出て甘羅を迎えた。甘羅は趙王を説いて言うには、「王は燕の太子丹が秦に入質したことをお聞きになりましたか」と。趙王は言うには、「聞いた」と。甘羅が言うには、「張唐が燕の相となることをお聞きになりましたか」と。趙王は言うには、「聞いた」と。「燕の太子丹が秦に入ったということは、燕が秦を欺かないということです。張唐が燕の相となるということは、秦が燕を欺かないということです。燕と秦が互いに欺かないとなれば、趙を伐つことは危ういことです。燕と秦が互いに欺かないのは、他に理由はなく、趙を攻めて河間の地を広げようとしているからです。王はむしろ臣に五城を賜って河間の地を広げ、燕の太子を帰国させてください。そして強き趙と共に弱き燕を攻めましょう」と。趙王は直ちに自ら五城を割いて河間の地を広げた。秦は燕の太子を帰国させた。趙は燕を攻め、上谷の三十城を得て、そのうち十一城を秦に与えた。

原文行有日,甘羅謂文信侯曰:「借臣車五乘,請為張唐先報趙。」文信侯乃入言之於始皇曰:「昔甘茂之孫甘羅,年少耳,然名家之子孫,諸侯皆聞之。今者張唐欲稱疾不肯行,甘羅說而行之。今願先報趙,請許遣之。」始皇召見,使甘羅於趙。趙襄王郊迎甘羅。甘羅說趙王曰:「王聞燕太子丹入質秦歟?」曰:「聞之。」曰:「聞張唐相燕歟?」曰:「聞之。」「燕太子丹入秦者,燕不欺秦也。張唐相燕者,秦不欺燕也。燕、秦不相欺者,伐趙,危矣。燕、秦不相欺無異故,欲攻趙而廣河閒。王不如齎臣五城以廣河閒,請歸燕太子,與彊趙攻弱燕。」趙王立自割五城以廣河閒。秦歸燕太子。趙攻燕,得上谷三十城,令秦有十一。

甘羅は帰って秦に報告した。そこで甘羅を上卿に封じ、かつての甘茂の田宅を改めて彼に賜った。

原文甘羅還報秦,乃封甘羅以為上卿,復以始甘茂田宅賜之。

評論

原文評論

太史公曰く、樗里子は骨肉の縁によって重んぜられたのは、もとより道理であるが、秦の人々はその知恵を称えたので、ここに多く採録した。甘茂は下蔡の里巷から起り、諸侯に名を顕わし、強斉・強楚を重んじさせた。甘羅は年少であったが、一つの奇計を出して、その名声は後世にまで称えられた。篤実な行いの君子とは言えないまでも、これまた戦国の策士である。秦の強盛な時、天下は特に謀略と詐術に走ったのであろうか。

原文太史公曰:樗里子以骨肉重,固其理,而秦人稱其智,故頗采焉。甘茂起下蔡閭閻,顯名諸侯,重彊齊楚。甘羅年少,然出一奇計,聲稱後世。雖非篤行之君子,然亦戰國之策士也。方秦之彊時,天下尤趨謀詐哉。

【索隠述賛】厳君の名は疾、その号は「智嚢」。既に親しみ且つ重んぜられ、兵を称して外に攘う。甘茂と並び相たり、初め魏章を佐く。始め向寿を推し、乃ち宜陽を攻む。甘羅妙歳、卒に張唐を起す。

原文【索隱述贊】嚴君名疾,厥號「智囊」。既親且重,稱兵外攘。甘茂並相,初佐魏章。始推向壽,乃攻宜陽。甘羅妙歲,卒起張唐。