巻050

史記

巻五十 楚元王世家 第二十

劉交

楚元王劉交は、高祖の同母の末弟であり、字は游という。

高祖の兄弟は四人、長兄は伯、伯は早くに亡くなった。初め高祖が微賤の時、嘗て事を避け、時々賓客を連れて長兄の妻の元で食事をした。嫂は叔父 (高祖) を嫌い、叔父が客と来ると、嫂は羹が尽きたふりをして、釜を鳴らしたので、賓客はその故をもって去った。後に釜の中を見るとまだ羹があったので、高祖はここからその嫂を怨んだ。高祖が帝となった時、兄弟を封じたが、伯の子だけは封じられなかった。太上皇が言上すると、高祖は言った、「私は封じるのを忘れたのではない、その母が長者でないからだ」と。そこでその子の信を羹頡侯に封じた。そして次兄の仲を代に王とした。

高祖六年、既に楚王韓信を陳で捕らえたので、弟の交を楚王とし、彭城に都した。即位して二十三年で卒し、子の夷王郢が立った。夷王四年で卒し、子の王戊が立った。

王戊が立って二十年、冬、薄太后の喪服の間に私通した罪に坐し、東海郡を削られた。春、戊は呉王と謀りを合わせて反し、その相の張尚、太傅の趙夷吾が諫めたが、聞き入れなかった。戊は張尚、趙夷吾を殺し、兵を起こして呉と共に西進して梁を攻め、棘壁を破った。昌邑の南に至り、漢の将軍周亜夫と戦った。漢が呉楚の糧道を断ったので、士卒は飢え、呉王は逃走し、楚王戊は自殺し、軍は遂に漢に降った。

漢が既に呉楚を平定した後、孝景帝は徳侯の子に呉を継がせようとし、元王の子の礼に楚を継がせようとした。竇太后が言った、「呉王は老人であった、宗室の模範となるべきであった。今、先頭に立って七国を率い、天下を紛乱させたのに、どうしてその後を継がせようか」と。呉を継がせることは許さず、楚の後を立てることは許した。この時、礼は漢の宗正であった。そこで礼を楚王に拝し、元王の宗廟を奉じさせた。これが楚の文王である。

文王が立って三年で卒し、子の安王道が立った。安王二十二年で卒し、子の襄王注が立った。襄王が立って十四年で卒し、子の王純が代わって立った。王純が立って、地節二年、宦官が上書して楚王の謀反を告げたので、王は自殺し、国は除かれ、漢に編入されて彭城郡となった。

劉遂

趙王劉遂は、その父は高祖の中子で、名は友、諡は「幽」という。幽王は憂い死したので、故に「幽」とした。高后は呂禄を趙に王としたが、一年で高后が崩じた。大臣が諸呂の呂禄らを誅し、そこで幽王の子の遂を趙王に立てた。

孝文帝が即位して二年、遂の弟の辟彊を立て、趙の河間郡を取って河間王とし、これが文王である。立って十三年で卒し、子の哀王福が立った。一年で卒し、子がなく、後が絶え、国は除かれ、漢に帰した。

遂が趙に王となって二十六年、孝景帝の時に晁錯の事に坐して趙王の常山郡を削った。呉楚が反すると、趙王遂はこれと謀りを合わせて兵を起こした。その相の建徳、内史の王悍が諫めたが、聞き入れなかった。遂は建徳、王悍を焼き殺し、兵を発してその西の境界に駐屯させ、呉と共に西進するのを待とうとした。北では匈奴に使いを出し、連合して漢を攻めようとした。漢は曲周侯酈寄を遣わしてこれを撃たせた。趙王遂は還り、城を守って邯鄲に籠り、七月にわたって対峙した。呉楚が梁で敗れ、西進できなくなった。匈奴はこれを聞き、やはり止まり、漢の辺境に入ろうとしなかった。欒布が斉を破って還ると、兵を合わせて水を引いて趙の城を灌漑した。趙の城は壊れ、趙王は自殺し、邯鄲は遂に降った。趙幽王は後が絶えた。

評論

太史公曰く、国が将に興らんとする時は、必ず禎祥があり、君子が用いられて小人が退く。国が将に亡びんとする時は、賢人は隠れ、乱臣は貴くなる。もし楚王戊が申公を刑罰せず、その言に従い、趙が防与先生を任用していたならば、どうして さん 奪殺害の謀があり、天下の辱めとなったであろうか。賢人よ、賢人よ。内に質実なものがなければ、どうしてこれを用いることができようか。甚だしいかな、「安危は出令に在り、存亡は所任に在り」とは、誠にこの言葉である。

【索隠述賛】漢は同姓を封じ、楚は令名有り。既に韓信を滅ぼし、彭城に王たり。穆生は醴を置き、韋孟は程を作す。王戊は徳を棄て、呉と兵を連ねる。太后は礼を命じ、楚の罪軽き為なり。文襄継ぎ立ち、世に才英を挺す。如何に趙遂、代に厥の声を殞す!興亡の兆、任する所宜しく明らかなべし。

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