巻038

 おとろ 子啓

微子開 (漢の景帝の諱啓を避けて、啓を開と改む) は、殷の帝乙の長子にして帝紂の庶兄なり。紂既に立つ、明らかならず、政に淫乱す。微子数諫すれども、紂聴かず。及びて祖伊、周の西伯 さか の徳を修むるを以て、黎 くに を滅ぼすを聞き、禍の至らんことを懼れ、以て紂に告ぐ。紂曰く、「我が くるや天に命有らざるや。 これ れ何をか くせん」と。ここに於いて微子、紂の終に諫むべからざるを度り、之に死せんと欲し、及び去らんとすれども、未だ自ら決する能わず。 すなわ ち太師・少師に問いて曰く、「殷に治政有らず、四 まさ を治めず。我が祖遂に上に陳び、紂は酒に沈湎し、婦人を用い、下に湯の徳を乱敗す。殷既に小大よく草窃姦宄を み、卿士師師度に非ざれば、皆罪 つみ 有り。乃ち たも 獲無く、小民乃ち へい び興り、相い敵讎と わざ る。今殷其れ典喪せんとす。水に渉るが ごと く津涯無し。殷遂に喪び、今に至る」と。曰く、「太師、少師、我其れ発して往かんか。吾が家喪に保たんか。今女故無く予に告ぐ、顛躋す。之を如何せん」と。太師若く曰く、「王子、天篤く下に災いし殷国を ぼさんとす。乃ち おそ るるを畏れず、老長を用いず。今殷民乃ち神祇の祀を陋淫す。今誠に国を治むるを得ば、国治まり身死すとも恨み無し。死するも、終に治むるを得ず。去るに如かず」と。遂に亡ぶ。

箕子は、紂の親戚なり。紂始めて象箸を る。箕子嘆いて曰く、「彼象箸を為せば、必ず玉桮を為さん。桮を為せば、則ち必ず遠方の珍怪の物を思いて之を御せん。輿馬宮室の漸は此より始まる。振るうべからず」と。紂淫泆を為す。箕子諫むれども聴かず。或人曰く、「去るべし」と。箕子曰く、「人臣として諫めて聴かれずして去るは、是れ君の にく を彰わして自ら民に説くなり。吾忍びて為さず」と。乃ち髪を被り狂を いつわ りて奴と為る。遂に隠れて琴を鼓して以て自ら悲しむ。故に之を伝えて箕子操と曰う。

王子比干も、亦た紂の親戚なり。箕子の諫めて聴かれずして奴と為るを見て、則ち曰く、「君過有りて死を以て争わざれば、則ち百姓何の辜か有らん」と。乃ち直言して紂を諫む。紂怒りて曰く、「吾聞く、聖人の心に七竅有りと。信に諸れ有るか」と。乃ち遂に王子比干を殺し、其の心を刳りて視る。

微子曰く、「父子は骨肉有り、 しか して臣主は義を以て属す。故に父過有れば、子三諫して聴かれず、則ち随いて之に号す。人臣三諫して聴かれず、則ち其の義以て去るべし」と。ここに於いて太師・少師乃ち微子を勧めて去らしむ。遂に めぐ く。

周の武王、紂を伐ち殷を克つ。微子乃ち其の祭器を持して軍門に造り、肉袒面縛し、左に羊を牽き、右に茅を把り、膝行して前に進み以て告ぐ。ここに於いて武王乃ち微子を釈し、其の位を故の如くに復す。

武王、紂の子武庚祿父を封じて以て殷の祀を続けしめ、管叔・蔡叔をして あまね 相たらしむ。

武王既に殷を克ち、箕子を訪問す。

武王曰く、「 於乎 ああ 、維れ 天陰 ひそか に下民を定め、其の居を相和す。我其の常倫の序する所を知らず」と。

箕子対えて曰く、「昔に在りて鯀、鴻水を ふさ ぎ、其の五行を みだ せり。帝乃ち震怒し、鴻範九等に従わず、 常倫斁 やぶ る。鯀則ち殛死し、禹乃ち嗣いで興る。天乃ち禹に鴻範九等を たま い、常倫序す。

初め一に曰く五行、二に曰く五事、三に曰く八政、四に曰く五紀、五に曰く皇極、六に曰く三徳、七に曰く 稽疑 けいぎ 、八に曰く 庶徴 しょちょう 、九に曰く すす めて五福を用い、畏れて六極を用う。

五行:一に曰く水、二に曰く火、三に曰く木、四に曰く金、五に曰く土。水は潤下と曰い、火は炎上と曰い、木は曲直と曰い、金は従革と曰い、土は稼穡と曰う。潤下は鹹を作し、炎上は苦を作し、曲直は酸を作し、従革は辛を作し、稼穡は甘を作す。

五事:一に曰く貌、二に曰く言、三に曰く視、四に曰く聴、五に曰く思。貌は恭と曰い、言は従と曰い、視は明と曰い、聴は聡と曰い、思は叡と曰う。恭は粛を作し、従は治を作し、明は智を作し、聡は はかりごと を作し、叡は聖を作す。

八政:一に曰く食、二に曰く貨、三に曰く祀、四に曰く 司空 しくう 、五に曰く 司徒 しと 、六に曰く司寇、七に曰く賓、八に曰く師。

五紀:一に曰く歳、二に曰く月、三に曰く日、四に曰く星辰、五に曰く暦数。

「皇極:皇 (天子) はその極 (中正の道) を建て、時に五福を あつ めて、以て庶民に傅く錫う。時にその庶民は汝の極に り、汝に保極を錫う。 すべ の庶民、淫朋 (みだりに徒 たむろ を組むこと) 有ること く、人比徳 (私的に結びつくこと) 有ること毋く、 れ皇極を作す。凡そ厥の庶民、 はかりごと 有り為有り まもり 有る者は、 汝則 すなわ ち之を念え。極に かな わず、 とが を離れざるも、皇則ち之を受く。而して安んじて而も おももち を和らげ、曰く『予の好む所は徳なり』と、汝則ち之に福を錫う。時に人は ここ に其れ皇の極を維つ。 あなど ること毋く、而も高明 (高位高名の者) を畏れよ。人の能有り為有る者は、其の行いを すす めしめて、而して国其れ昌う。凡そ厥の正人 (長たる者) は、既に富みて方に穀 (善) からしむ。 汝能 くして好きを而の家に有らしむること能わざれば、時に人は斯に其の辜を為す。其の好まざるに于ては、 汝仮令 たと い之に福を錫うとも、其れ汝に用いて咎を為さん。 かたよ ること毋く かたむ くこと毋く、王の義に したが え。好みを作すこと毋く、王の道に遵え。悪みを作すこと毋く、王の みち に遵え。偏ること毋く党すること毋く、王道は 蕩蕩 ひろびろ たり。党すること毋く偏ること毋く、王道は 平平 たいら なり。 そむ くこと毋く かたよ ること毋く、王道は正直なり。其の極有るに い、其の極有るに帰せよ。曰く、王極の傅言 (ひろく伝わる言葉) は、是 やす らかに 是訓 おし え、帝 (天帝) に于て其れ したが う。凡そ厥の庶民、極の傅言は、是に順い是を行い、以て天子の ひかり に近づく。曰く、天子は民の父母を作し、以て天下の王と為る。

「三徳:一に曰く正直、二に曰く 剛克 ごうこく 、三に曰く 柔克 じゅうこく 平康 へいこう は正直、 きょう にして友ならざれば剛克、 うち に友あれば柔克、 沈漸 ちんざん は剛克、高明は柔克。惟れ辟 (へき、君主) 福を作し、惟れ辟威を作し、惟れ辟玉食 (ぎょくしょく、美食) す。臣に作福作威玉食すること有ること毋し。臣に作福作威玉食すること有らば、其れ而の家に害し、而の国に きょう なり。 人用 もち いて側頗辟 (そくはへき、かたよって邪になる) し、民用いて しん (しんとく、みだれて過ちを犯す)

「稽疑: 卜筮人 ぼくぜいにん を択びて建立す。乃ち卜筮に命じて、曰く雨、曰く せい 、曰く てい 、曰く霧、曰く克、曰く貞、曰く悔、凡て七。卜は五、占は之を用いるに二、衍貣 (えんとく、推衍して決める) 。時に人を立てて卜筮と為し、三人占えば則ち二人の言に従う。汝則ち大疑有らば、謀を汝の心に及び、謀を卿士に及び、謀を庶人に及び、謀を卜筮に及ぼす。汝則ち従い、亀従い、筮従い、卿士従い、庶民従う、是を之れ大同と謂い、而して身其れ 康彊 こうきょう にして、而して子孫其れ 逢吉 ほうきつ せん。汝則ち従い、亀従い、筮従い、 卿士逆 さから い、庶民逆う、吉。卿士従い、亀従い、筮従い、汝則ち逆い、庶民逆う、吉。庶民従い、亀従い、筮従い、汝則ち逆い、卿士逆う、吉。汝則ち従い、亀従い、筮逆い、卿士逆い、庶民逆う、内 (ない、国内の事) を作せば吉、外 (がい、国外の事) を作せば凶。亀筮共に人に たが えば、静を用うれば吉、作すを用うれば凶。

「庶徴:曰く雨、曰く よう 、曰く おう 、曰く寒、曰く風、曰く時。五者来り備わり、各其の序に以てすれば、 庶草繁廡 はんぶ す。一極めて備われば、凶。一極めて亡ければ、凶。曰く 休徴 きゅうちょう :曰く しゅく は時に雨の若く、曰く治は時に暘 (よう、晴れ) の若く、曰く知は時に奥 (おう、暖か) の若く、曰く謀は時に寒の若く、曰く聖は時に風の若し。曰く 咎徴 きゅうちょう :曰く狂は常に雨の若く、曰く僭は常に暘の若く、曰く じょ は常に奥の若く、曰く急は常に寒の若く、曰く霧は常に風の若し。王は歳に維ち、卿士は月に維ち、 師尹 しいん は日に維つ。 歳月日時易 わること毋ければ、 百穀用 もち いて成り、治用いて明らかに、畯民 (しゅんみん、農民) 用いて あきらか に、家用いて平康なり。日月歳時既に易われば、百穀用いて成らず、治用いて くら く明らかならず、畯民用いて微え、家用いて やす からず。庶民は星に維つ。星には風を好む有り、星には雨を好む有り。日月の行りには、冬有り夏有り。月の星に従えば、則ち風雨を以てす。

「五福:一に曰く寿、二に曰く富、三に曰く康寧、四に曰く攸好徳 (ゆうこうとく、徳を好むこと) 、五に曰く考終命 (こうしゅうめい、天寿を全うする) 。六極:一に曰く凶短折 (きょうたんせつ、夭折) 、二に曰く疾、三に曰く憂、四に曰く貧、五に曰く悪、六に曰く弱。」

ここにおいて武王は乃ち箕子を朝鮮に封じて臣とせざりき。

其の後、箕子周に朝し、故き殷の虚 (きょ、廃墟) を過ぎ、宮室の毀壊し、 禾黍 かしょ の生いるを おも い、箕子之を いた み、 こく せんと欲すれば則ち不可、泣かんと欲すれば其の婦人に近きを為し、乃ち 麦秀 ばくしゅう の詩を作りて以て之を 謌詠 かえい せり。其の詩に曰く「麦秀 漸漸 せんせん たる けい 禾黍油油 ゆうゆう たり。彼の 狡僮 こうどう 兮、我と好きを あた えず兮!」と。所謂る狡童は、紂なり。殷の民之を聞き、皆之が為に 流涕 りゅうてい せり。

武王崩じ、 成王少 わか く、周公旦政を代わり行い国に たる。管・蔡之を疑い、乃ち武庚と とも に乱を作し、成王・周公を襲わんと欲す。周公既に成王の命を けて武庚を誅し、管叔を殺し、蔡叔を はら い、乃ち微子開に命じて殷の後を代わらしめ、其の 先祀 せんし ほう ぜしめ、微子の命を作りて以て之を べ、宋に国せしむ。 微子故 もと より能く仁賢なりしが、乃ち武庚に代わる。故に殷の余民甚だ之を 戴愛 たいあい せり。

微子開卒す。其の 弟衍 えん を立てる。是を微仲と為す。微仲卒す。子の宋公稽立つ。宋公稽卒す。子の丁公申立つ。丁公申卒す。子の 湣公共 びんこうきょう 立つ。湣公共卒す。弟の 煬公熙 ようこうき 立つ。煬公即位す。湣公の 子鮒祀 ふし 煬公を しい して而自ら立ち、「我当に立つべし」と曰う。是を厲公と為す。厲公卒す。子の 釐公挙 きこうきょ 立つ。

宋の釐公

釐公十七年、周の 厲王彘 に出奔す。二十八年、釐公卒す。子の 惠公覵 けこうけん 立つ。

宋の惠公

惠公四年、周の宣王即位す。三十年、惠公卒す。子の哀公立つ。哀公元年卒す。子の戴公立つ。

宋の戴公

戴公二十九年、周の幽王犬戎の為に殺さる。秦始めて諸侯に れっ せらる。

三十四年、戴公卒し、子の武公 司空 しくう 立つ。武公は女を生み、魯の惠公の夫人となり、魯の桓公を生む。十八年、武公卒し、子の宣公力立つ。

宋の宣公

宣公には太子與夷あり。十九年、宣公病み、其の弟和に譲りて曰く、「父死して子継ぎ、兄死して弟及ぶは、天下の通義なり。我其れ和を立つべし」と。和も亦た三たび譲りて之を受く。宣公卒し、弟和立つ、是を穆公と為す。

宋の穆公

穆公九年、病み、大司馬孔父を召して謂ひて曰く、「先君宣公は太子與夷を捨てて我を立てたり、我敢えて忘れず。我死せば、必ず與夷を立てよ」と。孔父曰く、「羣臣皆公子馮を立てんと願ふ」と。穆公曰く、「馮を立つる毋かれ、我以て宣公に負ふべからず」と。是に於て穆公は馮をして出でて鄭に居らしむ。八月庚辰、穆公卒し、兄宣公の子與夷立つ、是を殤公と為す。君子之を聞きて曰く、「宋の宣公は人を知ると謂ふべし、其の弟を立てて義を成す、然して卒に其の子復た之を享く」と。

宋の殤公

殤公元年、衛の公子州吁其の君完を しい して自ら立ち、諸侯を得んと欲し、使をして宋に告げて曰く、「馮鄭に在り、必ず乱を為さん、我と与に之を伐つべし」と。宋之を許し、与に鄭を伐ち、東門に至りて還る。二年、鄭宋を伐ち、以て東門の役に報ゆ。其の後諸侯数たび来たり侵伐す。

九年、大司馬孔父嘉の妻好し、出づるに、道にて太宰華督に遇ふ、督説び、目して之を観る。督孔父の妻を利し、乃ち人をして国中に宣言せしめて曰く、「殤公即位十年のみ、而して十一戦す、民苦しみ堪へず、皆孔父之を為す、我将に孔父を殺して以て民を寧んぜん」と。是の歳、魯其の君隱公を しい す。十年、華督孔父を攻めて殺し、其の妻を取る。殤公怒り、遂に殤公を しい し、而して穆公の子馮を鄭より迎へて之を立て、是を莊公と為す。

宋の莊公

莊公元年、華督相と為る。九年、鄭の祭仲を執へ、要して以て突を立てて鄭君と為さんとす。祭仲許し、竟に突を立てる。十九年、莊公卒し、子の湣公捷立つ。

宋の湣公

湣公七年、齊の桓公即位す。九年、宋水あり、魯臧文仲をして往きて水を弔はしむ。湣公自ら罪して曰く、「寡人以て鬼神に事ふること能はず、政修まらざるを以て、故に水す」と。臧文仲此の言を善しとす。此の言は乃ち公子子魚の湣公に教ふる所なり。

十年夏、宋魯を伐ち、乗丘に戦ふ、魯宋の南宮萬を生虜す。宋人萬を請ふ、萬宋に帰る。十一年秋、湣公南宮萬と狩し、因りて博を以て行を争ひ、湣公怒り、之を辱めて曰く、「始め吾若を敬す、今若は、魯の虜なり」と。萬力あり、此の言を病み、遂に局を以て湣公を蒙沢に殺す。大夫仇牧之を聞き、兵を以て公門に造る。萬牧と搏ち、牧の歯門闔に著きて死す。因りて太宰華督を殺し、乃ち更に公子游を立てて君と為す。諸公子蕭に奔る、公子御說亳に奔る。萬の弟南宮牛兵を将ひて亳を囲む。冬、蕭及び宋の諸公子共に南宮牛を撃ち殺し、宋の新君游を しい して湣公の弟御說を立て、是を桓公と為す。宋の萬陳に奔る。宋人賂を以て陳に請ふ。陳人婦人をして之に醇酒を飲ましめ、革を以て之を裹み、宋に帰す。宋人萬を醢す。

宋の桓公

桓公二年、諸侯宋を伐ち、郊に至りて去る。三年、齊の桓公始めて覇を為す。二十三年、衛の公子燬を齊より迎へ、之を立て、是を衛の文公と為す。文公の女弟桓公の夫人と為る。秦の穆公即位す。三十年、桓公病み、太子茲甫其の庶兄目夷に譲りて嗣と為さんとす。桓公太子の意を義とし、竟に聴かず。三十一年春、桓公卒し、太子茲甫立つ、是を襄公と為す。其の庶兄目夷を以て相と為す。未だ葬らずして、齊の桓公諸侯と葵丘に会す、襄公往きて会す。

襄公七年、宋の地に茀星が雨の如く降り、雨と共に降下す。六鶂退きて飛ぶは、風疾しきなり。

八年、齊の桓公卒す。宋、盟會を爲さんと欲す。十二年春、宋の襄公、鹿上に盟を爲し、以て楚に諸侯を求めんとす。楚人、之を許す。公子目夷諫めて曰く、「小國盟を爭ふは、禍なり」と。聽かず。秋、諸侯、宋公と會して盂に盟す。目夷曰く、「禍其れ此に在らんか。君の欲すること已に甚だし、何を以てか之に堪へん」と。是に於て楚、宋の襄公を執へて以て宋を伐つ。冬、亳に會し、以て宋公を釋す。子魚曰く、「禍猶ほ未だならず」と。十三年夏、宋、鄭を伐つ。子魚曰く、「禍此に在り」と。秋、楚、宋を伐ちて以て鄭を救ふ。襄公將に戰はんとす。子魚諫めて曰く、「天の商を棄つること久し。不可なり」と。冬十一月、襄公、楚の成王と泓に戰ふ。楚人未だ濟はざるに、目夷曰く、「彼衆我寡。其の未だ濟はざるに及んで之を撃て」と。公聽かず。已に濟ひて未だ陳せざるに、又曰く、「撃つべし」と。公曰く、「其の已に陳するを待て」と。陳成る。宋人之を撃つ。宋師大敗し、襄公股を傷つく。國人皆公を怨む。公曰く、「君子は人を阸に困しめず、成列せざるを鼓せず」と。子魚曰く、「兵は勝を以て功と爲す。何ぞ常言と與にせんや。必ず公の言の如くならば、即ち奴事するのみ。又何ぞ戰ふを爲さんや」と。

楚の成王、已に鄭を救ひ、鄭之を享す。去りて鄭の二姬を取つて以て歸る。叔瞻曰く、「成王禮無し。其れ沒せざらんか。禮を爲して卒に無別に於く。以て其の霸を遂げざるを知る有り」と。

是の年、 しん の公子重耳、宋に過ぐ。襄公、楚に傷つけられたるを以て、 しん の援を得んと欲し、重耳を厚禮して馬二十乘を以てす。

十四年夏、襄公、泓に傷つきて病み、竟に卒す。子の成公王臣立つ。

宋の成公

成公元年、 しん の文公即位す。三年、楚の盟を倍きて しん に親しむは、文公に德有るを以てなり。四年、楚の成王、宋を伐つ。宋、 しん に急を告ぐ。五年、 しん の文公、宋を救ふ。楚兵去る。九年、 しん の文公卒す。十一年、楚の太子商臣、其の父成王を しい して代はりて立つ。十六年、秦の穆公卒す。

十七年、成公卒す。成公の弟御、太子及び大司馬公孫固を殺して自ら立ちて君と爲る。宋人共に君御を殺し、成公の少子杵臼を立てる。是を昭公と爲す。

宋の昭公

昭公四年、宋、長翟の緣斯を長丘に敗る。七年、楚の莊王即位す。

九年、昭公道無く、國人附かず。昭公の弟鮑革賢にして士を下す。先づ、襄公夫人、公子鮑に通ぜんと欲す。可からず。乃ち之を助けて國に施し、大夫華元を因りて右師と爲す。昭公獵に出づ。夫人王姬、衛伯をして攻め殺さしめて昭公杵臼を殺す。弟鮑革立つ。是を文公と爲す。

宋の文公

文公元年、 しん 、諸侯を率ひて宋を伐ち、君を しい したるを責む。文公の定立を聞き、乃ち去る。二年、昭公の子、文公の母弟須と武・繆・戴・莊・桓の族と因りて亂を爲す。文公盡く之を誅し、武・繆の族を出す。

四年春、楚、鄭を命じて宋を伐たしむ。宋、華元をして將と爲す。鄭、宋を敗り、華元を囚ふ。華元の將に戰はんとするや、羊を殺して以て士に食はしむ。其の御羊羹に及ばず。故に怨み、馳せて鄭軍に入る。故に宋師敗れ、華元を得て囚ふ。宋、兵車百乘・文馬四百匹を以て華元を贖ふ。未だ盡く入らざるに、華元亡れて宋に歸る。

十四年、楚の莊王、鄭を圍む。鄭伯、楚に降る。楚復た之を釋す。

十六年、楚の使者が宋を通過したが、宋には以前からの仇があり、楚の使者を捕らえた。九月、楚の荘王が宋を包囲した。十七年、楚が宋を包囲すること五月に及んで解かず、宋の城中は危急となり、食糧が尽きた。華元は夜ひそかに楚の将子反に会見した。子反が荘王に告げた。王が「城中はどうか」と問うと、「骨を割いて炊き、子を交換して食う」と答えた。荘王は「誠に言う通りだ。我が軍にも二日の糧しかない」と言った。信義の故に、ついに兵を収めて去った。

二十二年、文公が卒し、子の共公瑕が立った。厚葬を始めた。君子は華元が臣たる道を尽くさなかったと譏った。

宋の共公

共公十年、華元は楚の将子重と親しく、また晋の将欒書とも親しく、両方と晋楚の盟を結んだ。十三年、共公が卒した。華元は右師となり、魚石は左師となった。司馬唐山が太子肥を攻め殺し、華元をも殺そうとした。華元は晋に奔ったが、魚石がこれを止め、河に至って引き返し、唐山を誅した。そして共公の少子戌を立てた。これが平公である。

宋の平公

平公三年、楚の共王が宋の彭城を抜き、宋の左師魚石に封じた。四年、諸侯が共に魚石を誅し、彭城を宋に帰した。三十五年、楚の公子囲がその君を しい して自ら立ち、霊王となった。四十四年、平公が卒し、子の元公佐が立った。

宋の元公

元公三年、楚の公子棄疾が霊王を しい し、自ら立って平王となった。八年、宋で火災があった。十年、元公は信義がなく、詐りをもって諸公子を殺したため、大夫の華氏・向氏が乱を起こした。楚の平王の太子建が来奔したが、諸華氏が相攻撃して乱れているのを見て、建は去って鄭に行った。十五年、元公は魯の昭公が季氏を避けて国外に居るのを助け、魯に入国させることを求めて行き、道中で卒した。子の景公頭曼が立った。

景公十六年、魯の陽虎が来奔したが、やがて去った。二十五年、孔子が宋を通過した。宋の司馬桓魋がこれを憎み、孔子を殺そうとした。孔子は微服して去った。三十年、曹が宋に背き、また晋にも背いた。宋が曹を伐ち、晋は救わず、ついに曹を滅ぼしてこれを有した。三十六年、斉の田常が簡公を しい した。

三十七年、楚の恵王が陳を滅ぼした。熒惑が心宿を守った。心宿は宋の分野である。景公はこれを憂えた。司星の子韋が言うには、「宰相に移すことができます」と。景公は「宰相はわが股肱である」と言った。「民に移すことができます」と言うと、景公は「君主は民に依って立つ」と言った。「歳 (収穫) に移すことができます」と言うと、景公は「凶作で民が困窮すれば、私は誰のために君たるのか」と言った。子韋は「天は高くして下を聴く。君には君主たるべき言葉が三つある。熒惑は動くべきである」と言った。そこでこれを観測すると、果たして三度移動した。

六十四年、景公が卒した。宋の公子特が太子を攻め殺して自ら立ち、昭公となった。昭公とは、元公の曾庶孫である。昭公の父は公孫糾、糾の父は公子褍秦、褍秦はすなわち元公の少子である。景公が昭公の父糾を殺したので、昭公は怨んで太子を殺して自ら立ったのである。

昭公は四十七年で卒し、子の悼公購由が立った。悼公は八年で卒し、子の休公田が立った。休公田は二十三年で卒し、子の辟公辟兵が立った。辟公は三年で卒し、子の剔成が立った。剔成四十一年、剔成の弟偃が剔成を攻め襲い、剔成は敗れて斉に奔り、偃は自ら宋君となった。

君偃十一年、自ら王と称した。東は斉を破って五城を取った。南は楚を破って三百里の地を取った。西は魏軍を破り、ついに斉・魏と敵国となった。血を革袋に盛り、これを掲げて射ち、「射天」と名付けた。酒と婦人に淫した。群臣で諫める者はすぐに射た。そこで諸侯は皆「桀宋」と言った。「宋は再び紂の行いをする。誅伐せざるべからず」と。斉に告げて宋を伐たせた。王偃が立って四十七年、斉の湣王が魏・楚とともに宋を伐ち、王偃を殺し、ついに宋を滅ぼしてその地を三分した。

司馬遷の評

太史公曰く、孔子は「微子は去り、箕子は奴隷となり、比干は諫めて死す。殷に三仁あり」と称えられた。『春秋』は宋の乱が宣公が太子を廃して弟を立てたことに始まり、国が安寧でなかったことが十世に及んだことを譏っている。襄公の時、仁義を修め行い、盟主たらんとした。その大夫正考父がこれを称え、契・湯・高宗を追慕し、殷の興った所以を道って『商頌』を作った。襄公は泓で敗れたが、君子の中にはこれを多く評価する者もあり、中国に礼義が欠けていることを傷み、褒めたのである。宋襄公の礼譲の精神を。

この作品は全世界において公有領域に属する。何故ならば、作者の没後百年を経過し、かつ作品が1931年1月1日より前に出版されたからである。

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