微 子啓
微子開 (漢の景帝の諱啓を避けて、啓を開と改む) は、殷の帝乙の長子にして帝紂の庶兄なり。紂既に立つ、明らかならず、政に淫乱す。微子数諫すれども、紂聴かず。及びて祖伊、周の西伯 昌 の徳を修むるを以て、黎 国 を滅ぼすを聞き、禍の至らんことを懼れ、以て紂に告ぐ。紂曰く、「我が 生 くるや天に命有らざるや。 是 れ何をか 能 くせん」と。ここに於いて微子、紂の終に諫むべからざるを度り、之に死せんと欲し、及び去らんとすれども、未だ自ら決する能わず。 乃 ち太師・少師に問いて曰く、「殷に治政有らず、四 方 を治めず。我が祖遂に上に陳び、紂は酒に沈湎し、婦人を用い、下に湯の徳を乱敗す。殷既に小大よく草窃姦宄を 好 み、卿士師師度に非ざれば、皆罪 辜 有り。乃ち 維 獲無く、小民乃ち 并 び興り、相い敵讎と 為 る。今殷其れ典喪せんとす。水に渉るが 若 く津涯無し。殷遂に喪び、今に至る」と。曰く、「太師、少師、我其れ発して往かんか。吾が家喪に保たんか。今女故無く予に告ぐ、顛躋す。之を如何せん」と。太師若く曰く、「王子、天篤く下に災いし殷国を 亡 ぼさんとす。乃ち 畏 るるを畏れず、老長を用いず。今殷民乃ち神祇の祀を陋淫す。今誠に国を治むるを得ば、国治まり身死すとも恨み無し。死するも、終に治むるを得ず。去るに如かず」と。遂に亡ぶ。
箕子は、紂の親戚なり。紂始めて象箸を 作 る。箕子嘆いて曰く、「彼象箸を為せば、必ず玉桮を為さん。桮を為せば、則ち必ず遠方の珍怪の物を思いて之を御せん。輿馬宮室の漸は此より始まる。振るうべからず」と。紂淫泆を為す。箕子諫むれども聴かず。或人曰く、「去るべし」と。箕子曰く、「人臣として諫めて聴かれずして去るは、是れ君の 悪 を彰わして自ら民に説くなり。吾忍びて為さず」と。乃ち髪を被り狂を 詳 りて奴と為る。遂に隠れて琴を鼓して以て自ら悲しむ。故に之を伝えて箕子操と曰う。
王子比干も、亦た紂の親戚なり。箕子の諫めて聴かれずして奴と為るを見て、則ち曰く、「君過有りて死を以て争わざれば、則ち百姓何の辜か有らん」と。乃ち直言して紂を諫む。紂怒りて曰く、「吾聞く、聖人の心に七竅有りと。信に諸れ有るか」と。乃ち遂に王子比干を殺し、其の心を刳りて視る。
微子曰く、「父子は骨肉有り、 而 して臣主は義を以て属す。故に父過有れば、子三諫して聴かれず、則ち随いて之に号す。人臣三諫して聴かれず、則ち其の義以て去るべし」と。ここに於いて太師・少師乃ち微子を勧めて去らしむ。遂に 行 く。
周の武王、紂を伐ち殷を克つ。微子乃ち其の祭器を持して軍門に造り、肉袒面縛し、左に羊を牽き、右に茅を把り、膝行して前に進み以て告ぐ。ここに於いて武王乃ち微子を釈し、其の位を故の如くに復す。
武王、紂の子武庚祿父を封じて以て殷の祀を続けしめ、管叔・蔡叔をして 傅 相たらしむ。
武王既に殷を克ち、箕子を訪問す。
武王曰く、「 於乎 、維れ 天陰 に下民を定め、其の居を相和す。我其の常倫の序する所を知らず」と。
箕子対えて曰く、「昔に在りて鯀、鴻水を 陻 ぎ、其の五行を 汨 せり。帝乃ち震怒し、鴻範九等に従わず、 常倫斁 る。鯀則ち殛死し、禹乃ち嗣いで興る。天乃ち禹に鴻範九等を 錫 い、常倫序す。
初め一に曰く五行、二に曰く五事、三に曰く八政、四に曰く五紀、五に曰く皇極、六に曰く三徳、七に曰く 稽疑 、八に曰く 庶徴 、九に曰く 嚮 めて五福を用い、畏れて六極を用う。
五行:一に曰く水、二に曰く火、三に曰く木、四に曰く金、五に曰く土。水は潤下と曰い、火は炎上と曰い、木は曲直と曰い、金は従革と曰い、土は稼穡と曰う。潤下は鹹を作し、炎上は苦を作し、曲直は酸を作し、従革は辛を作し、稼穡は甘を作す。
五事:一に曰く貌、二に曰く言、三に曰く視、四に曰く聴、五に曰く思。貌は恭と曰い、言は従と曰い、視は明と曰い、聴は聡と曰い、思は叡と曰う。恭は粛を作し、従は治を作し、明は智を作し、聡は 謀 を作し、叡は聖を作す。
八政:一に曰く食、二に曰く貨、三に曰く祀、四に曰く 司空 、五に曰く 司徒 、六に曰く司寇、七に曰く賓、八に曰く師。
五紀:一に曰く歳、二に曰く月、三に曰く日、四に曰く星辰、五に曰く暦数。
「皇極:皇 (天子) はその極 (中正の道) を建て、時に五福を 斂 めて、以て庶民に傅く錫う。時にその庶民は汝の極に 于 り、汝に保極を錫う。 凡 そ 厥 の庶民、淫朋 (みだりに徒 党 を組むこと) 有ること 毋 く、人比徳 (私的に結びつくこと) 有ること毋く、 惟 れ皇極を作す。凡そ厥の庶民、 猷 有り為有り 守 有る者は、 汝則 ち之を念え。極に 協 わず、 咎 を離れざるも、皇則ち之を受く。而して安んじて而も 色 を和らげ、曰く『予の好む所は徳なり』と、汝則ち之に福を錫う。時に人は 斯 に其れ皇の極を維つ。 寡 を 侮 ること毋く、而も高明 (高位高名の者) を畏れよ。人の能有り為有る者は、其の行いを 羞 めしめて、而して国其れ昌う。凡そ厥の正人 (長たる者) は、既に富みて方に穀 (善) からしむ。 汝能 くして好きを而の家に有らしむること能わざれば、時に人は斯に其の辜を為す。其の好まざるに于ては、 汝仮令 い之に福を錫うとも、其れ汝に用いて咎を為さん。 偏 ること毋く 頗 くこと毋く、王の義に 遵 え。好みを作すこと毋く、王の道に遵え。悪みを作すこと毋く、王の 路 に遵え。偏ること毋く党すること毋く、王道は 蕩蕩 たり。党すること毋く偏ること毋く、王道は 平平 なり。 反 くこと毋く 側 ること毋く、王道は正直なり。其の極有るに 会 い、其の極有るに帰せよ。曰く、王極の傅言 (ひろく伝わる言葉) は、是 夷 らかに 是訓 え、帝 (天帝) に于て其れ 順 う。凡そ厥の庶民、極の傅言は、是に順い是を行い、以て天子の 光 に近づく。曰く、天子は民の父母を作し、以て天下の王と為る。
「三徳:一に曰く正直、二に曰く 剛克 、三に曰く 柔克 。 平康 は正直、 彊 にして友ならざれば剛克、 内 に友あれば柔克、 沈漸 は剛克、高明は柔克。惟れ辟 (へき、君主) 福を作し、惟れ辟威を作し、惟れ辟玉食 (ぎょくしょく、美食) す。臣に作福作威玉食すること有ること毋し。臣に作福作威玉食すること有らば、其れ而の家に害し、而の国に 凶 なり。 人用 いて側頗辟 (そくはへき、かたよって邪になる) し、民用いて 僭 忒 (しんとく、みだれて過ちを犯す) 。
「稽疑: 卜筮人 を択びて建立す。乃ち卜筮に命じて、曰く雨、曰く 済 、曰く 涕 、曰く霧、曰く克、曰く貞、曰く悔、凡て七。卜は五、占は之を用いるに二、衍貣 (えんとく、推衍して決める) 。時に人を立てて卜筮と為し、三人占えば則ち二人の言に従う。汝則ち大疑有らば、謀を汝の心に及び、謀を卿士に及び、謀を庶人に及び、謀を卜筮に及ぼす。汝則ち従い、亀従い、筮従い、卿士従い、庶民従う、是を之れ大同と謂い、而して身其れ 康彊 にして、而して子孫其れ 逢吉 せん。汝則ち従い、亀従い、筮従い、 卿士逆 い、庶民逆う、吉。卿士従い、亀従い、筮従い、汝則ち逆い、庶民逆う、吉。庶民従い、亀従い、筮従い、汝則ち逆い、卿士逆う、吉。汝則ち従い、亀従い、筮逆い、卿士逆い、庶民逆う、内 (ない、国内の事) を作せば吉、外 (がい、国外の事) を作せば凶。亀筮共に人に 違 えば、静を用うれば吉、作すを用うれば凶。
「庶徴:曰く雨、曰く 陽 、曰く 奥 、曰く寒、曰く風、曰く時。五者来り備わり、各其の序に以てすれば、 庶草繁廡 す。一極めて備われば、凶。一極めて亡ければ、凶。曰く 休徴 :曰く 肅 は時に雨の若く、曰く治は時に暘 (よう、晴れ) の若く、曰く知は時に奥 (おう、暖か) の若く、曰く謀は時に寒の若く、曰く聖は時に風の若し。曰く 咎徴 :曰く狂は常に雨の若く、曰く僭は常に暘の若く、曰く 舒 は常に奥の若く、曰く急は常に寒の若く、曰く霧は常に風の若し。王は歳に維ち、卿士は月に維ち、 師尹 は日に維つ。 歳月日時易 わること毋ければ、 百穀用 いて成り、治用いて明らかに、畯民 (しゅんみん、農民) 用いて 章 に、家用いて平康なり。日月歳時既に易われば、百穀用いて成らず、治用いて 昏 く明らかならず、畯民用いて微え、家用いて 寧 からず。庶民は星に維つ。星には風を好む有り、星には雨を好む有り。日月の行りには、冬有り夏有り。月の星に従えば、則ち風雨を以てす。
「五福:一に曰く寿、二に曰く富、三に曰く康寧、四に曰く攸好徳 (ゆうこうとく、徳を好むこと) 、五に曰く考終命 (こうしゅうめい、天寿を全うする) 。六極:一に曰く凶短折 (きょうたんせつ、夭折) 、二に曰く疾、三に曰く憂、四に曰く貧、五に曰く悪、六に曰く弱。」
ここにおいて武王は乃ち箕子を朝鮮に封じて臣とせざりき。
其の後、箕子周に朝し、故き殷の虚 (きょ、廃墟) を過ぎ、宮室の毀壊し、 禾黍 の生いるを 感 い、箕子之を 傷 み、 哭 せんと欲すれば則ち不可、泣かんと欲すれば其の婦人に近きを為し、乃ち 麦秀 の詩を作りて以て之を 謌詠 せり。其の詩に曰く「麦秀 漸漸 たる 兮 、 禾黍油油 たり。彼の 狡僮 兮、我と好きを 與 えず兮!」と。所謂る狡童は、紂なり。殷の民之を聞き、皆之が為に 流涕 せり。
武王崩じ、 成王少 く、周公旦政を代わり行い国に 当 たる。管・蔡之を疑い、乃ち武庚と 与 に乱を作し、成王・周公を襲わんと欲す。周公既に成王の命を 承 けて武庚を誅し、管叔を殺し、蔡叔を 放 い、乃ち微子開に命じて殷の後を代わらしめ、其の 先祀 を 奉 ぜしめ、微子の命を作りて以て之を 申 べ、宋に国せしむ。 微子故 より能く仁賢なりしが、乃ち武庚に代わる。故に殷の余民甚だ之を 戴愛 せり。
微子開卒す。其の 弟衍 を立てる。是を微仲と為す。微仲卒す。子の宋公稽立つ。宋公稽卒す。子の丁公申立つ。丁公申卒す。子の 湣公共 立つ。湣公共卒す。弟の 煬公熙 立つ。煬公即位す。湣公の 子鮒祀 煬公を 弑 して而自ら立ち、「我当に立つべし」と曰う。是を厲公と為す。厲公卒す。子の 釐公挙 立つ。
宋の釐公
釐公十七年、周の 厲王彘 に出奔す。二十八年、釐公卒す。子の 惠公覵 立つ。
宋の惠公
惠公四年、周の宣王即位す。三十年、惠公卒す。子の哀公立つ。哀公元年卒す。子の戴公立つ。
宋の戴公
戴公二十九年、周の幽王犬戎の為に殺さる。秦始めて諸侯に 列 せらる。
三十四年、戴公卒し、子の武公 司空 立つ。武公は女を生み、魯の惠公の夫人となり、魯の桓公を生む。十八年、武公卒し、子の宣公力立つ。
宋の宣公
宣公には太子與夷あり。十九年、宣公病み、其の弟和に譲りて曰く、「父死して子継ぎ、兄死して弟及ぶは、天下の通義なり。我其れ和を立つべし」と。和も亦た三たび譲りて之を受く。宣公卒し、弟和立つ、是を穆公と為す。
宋の穆公
穆公九年、病み、大司馬孔父を召して謂ひて曰く、「先君宣公は太子與夷を捨てて我を立てたり、我敢えて忘れず。我死せば、必ず與夷を立てよ」と。孔父曰く、「羣臣皆公子馮を立てんと願ふ」と。穆公曰く、「馮を立つる毋かれ、我以て宣公に負ふべからず」と。是に於て穆公は馮をして出でて鄭に居らしむ。八月庚辰、穆公卒し、兄宣公の子與夷立つ、是を殤公と為す。君子之を聞きて曰く、「宋の宣公は人を知ると謂ふべし、其の弟を立てて義を成す、然して卒に其の子復た之を享く」と。
宋の殤公
殤公元年、衛の公子州吁其の君完を 弑 して自ら立ち、諸侯を得んと欲し、使をして宋に告げて曰く、「馮鄭に在り、必ず乱を為さん、我と与に之を伐つべし」と。宋之を許し、与に鄭を伐ち、東門に至りて還る。二年、鄭宋を伐ち、以て東門の役に報ゆ。其の後諸侯数たび来たり侵伐す。
九年、大司馬孔父嘉の妻好し、出づるに、道にて太宰華督に遇ふ、督説び、目して之を観る。督孔父の妻を利し、乃ち人をして国中に宣言せしめて曰く、「殤公即位十年のみ、而して十一戦す、民苦しみ堪へず、皆孔父之を為す、我将に孔父を殺して以て民を寧んぜん」と。是の歳、魯其の君隱公を 弑 す。十年、華督孔父を攻めて殺し、其の妻を取る。殤公怒り、遂に殤公を 弑 し、而して穆公の子馮を鄭より迎へて之を立て、是を莊公と為す。
宋の莊公
莊公元年、華督相と為る。九年、鄭の祭仲を執へ、要して以て突を立てて鄭君と為さんとす。祭仲許し、竟に突を立てる。十九年、莊公卒し、子の湣公捷立つ。
宋の湣公
湣公七年、齊の桓公即位す。九年、宋水あり、魯臧文仲をして往きて水を弔はしむ。湣公自ら罪して曰く、「寡人以て鬼神に事ふること能はず、政修まらざるを以て、故に水す」と。臧文仲此の言を善しとす。此の言は乃ち公子子魚の湣公に教ふる所なり。
十年夏、宋魯を伐ち、乗丘に戦ふ、魯宋の南宮萬を生虜す。宋人萬を請ふ、萬宋に帰る。十一年秋、湣公南宮萬と狩し、因りて博を以て行を争ひ、湣公怒り、之を辱めて曰く、「始め吾若を敬す、今若は、魯の虜なり」と。萬力あり、此の言を病み、遂に局を以て湣公を蒙沢に殺す。大夫仇牧之を聞き、兵を以て公門に造る。萬牧と搏ち、牧の歯門闔に著きて死す。因りて太宰華督を殺し、乃ち更に公子游を立てて君と為す。諸公子蕭に奔る、公子御說亳に奔る。萬の弟南宮牛兵を将ひて亳を囲む。冬、蕭及び宋の諸公子共に南宮牛を撃ち殺し、宋の新君游を 弑 して湣公の弟御說を立て、是を桓公と為す。宋の萬陳に奔る。宋人賂を以て陳に請ふ。陳人婦人をして之に醇酒を飲ましめ、革を以て之を裹み、宋に帰す。宋人萬を醢す。
宋の桓公
桓公二年、諸侯宋を伐ち、郊に至りて去る。三年、齊の桓公始めて覇を為す。二十三年、衛の公子燬を齊より迎へ、之を立て、是を衛の文公と為す。文公の女弟桓公の夫人と為る。秦の穆公即位す。三十年、桓公病み、太子茲甫其の庶兄目夷に譲りて嗣と為さんとす。桓公太子の意を義とし、竟に聴かず。三十一年春、桓公卒し、太子茲甫立つ、是を襄公と為す。其の庶兄目夷を以て相と為す。未だ葬らずして、齊の桓公諸侯と葵丘に会す、襄公往きて会す。
襄公七年、宋の地に茀星が雨の如く降り、雨と共に降下す。六鶂退きて飛ぶは、風疾しきなり。
八年、齊の桓公卒す。宋、盟會を爲さんと欲す。十二年春、宋の襄公、鹿上に盟を爲し、以て楚に諸侯を求めんとす。楚人、之を許す。公子目夷諫めて曰く、「小國盟を爭ふは、禍なり」と。聽かず。秋、諸侯、宋公と會して盂に盟す。目夷曰く、「禍其れ此に在らんか。君の欲すること已に甚だし、何を以てか之に堪へん」と。是に於て楚、宋の襄公を執へて以て宋を伐つ。冬、亳に會し、以て宋公を釋す。子魚曰く、「禍猶ほ未だならず」と。十三年夏、宋、鄭を伐つ。子魚曰く、「禍此に在り」と。秋、楚、宋を伐ちて以て鄭を救ふ。襄公將に戰はんとす。子魚諫めて曰く、「天の商を棄つること久し。不可なり」と。冬十一月、襄公、楚の成王と泓に戰ふ。楚人未だ濟はざるに、目夷曰く、「彼衆我寡。其の未だ濟はざるに及んで之を撃て」と。公聽かず。已に濟ひて未だ陳せざるに、又曰く、「撃つべし」と。公曰く、「其の已に陳するを待て」と。陳成る。宋人之を撃つ。宋師大敗し、襄公股を傷つく。國人皆公を怨む。公曰く、「君子は人を阸に困しめず、成列せざるを鼓せず」と。子魚曰く、「兵は勝を以て功と爲す。何ぞ常言と與にせんや。必ず公の言の如くならば、即ち奴事するのみ。又何ぞ戰ふを爲さんや」と。
楚の成王、已に鄭を救ひ、鄭之を享す。去りて鄭の二姬を取つて以て歸る。叔瞻曰く、「成王禮無し。其れ沒せざらんか。禮を爲して卒に無別に於く。以て其の霸を遂げざるを知る有り」と。
是の年、 晉 の公子重耳、宋に過ぐ。襄公、楚に傷つけられたるを以て、 晉 の援を得んと欲し、重耳を厚禮して馬二十乘を以てす。
十四年夏、襄公、泓に傷つきて病み、竟に卒す。子の成公王臣立つ。
宋の成公
成公元年、 晉 の文公即位す。三年、楚の盟を倍きて 晉 に親しむは、文公に德有るを以てなり。四年、楚の成王、宋を伐つ。宋、 晉 に急を告ぐ。五年、 晉 の文公、宋を救ふ。楚兵去る。九年、 晉 の文公卒す。十一年、楚の太子商臣、其の父成王を 弑 して代はりて立つ。十六年、秦の穆公卒す。
十七年、成公卒す。成公の弟御、太子及び大司馬公孫固を殺して自ら立ちて君と爲る。宋人共に君御を殺し、成公の少子杵臼を立てる。是を昭公と爲す。
宋の昭公
昭公四年、宋、長翟の緣斯を長丘に敗る。七年、楚の莊王即位す。
九年、昭公道無く、國人附かず。昭公の弟鮑革賢にして士を下す。先づ、襄公夫人、公子鮑に通ぜんと欲す。可からず。乃ち之を助けて國に施し、大夫華元を因りて右師と爲す。昭公獵に出づ。夫人王姬、衛伯をして攻め殺さしめて昭公杵臼を殺す。弟鮑革立つ。是を文公と爲す。
宋の文公
文公元年、 晉 、諸侯を率ひて宋を伐ち、君を 弑 したるを責む。文公の定立を聞き、乃ち去る。二年、昭公の子、文公の母弟須と武・繆・戴・莊・桓の族と因りて亂を爲す。文公盡く之を誅し、武・繆の族を出す。
四年春、楚、鄭を命じて宋を伐たしむ。宋、華元をして將と爲す。鄭、宋を敗り、華元を囚ふ。華元の將に戰はんとするや、羊を殺して以て士に食はしむ。其の御羊羹に及ばず。故に怨み、馳せて鄭軍に入る。故に宋師敗れ、華元を得て囚ふ。宋、兵車百乘・文馬四百匹を以て華元を贖ふ。未だ盡く入らざるに、華元亡れて宋に歸る。
十四年、楚の莊王、鄭を圍む。鄭伯、楚に降る。楚復た之を釋す。
十六年、楚の使者が宋を通過したが、宋には以前からの仇があり、楚の使者を捕らえた。九月、楚の荘王が宋を包囲した。十七年、楚が宋を包囲すること五月に及んで解かず、宋の城中は危急となり、食糧が尽きた。華元は夜ひそかに楚の将子反に会見した。子反が荘王に告げた。王が「城中はどうか」と問うと、「骨を割いて炊き、子を交換して食う」と答えた。荘王は「誠に言う通りだ。我が軍にも二日の糧しかない」と言った。信義の故に、ついに兵を収めて去った。
二十二年、文公が卒し、子の共公瑕が立った。厚葬を始めた。君子は華元が臣たる道を尽くさなかったと譏った。
宋の共公
共公十年、華元は楚の将子重と親しく、また晋の将欒書とも親しく、両方と晋楚の盟を結んだ。十三年、共公が卒した。華元は右師となり、魚石は左師となった。司馬唐山が太子肥を攻め殺し、華元をも殺そうとした。華元は晋に奔ったが、魚石がこれを止め、河に至って引き返し、唐山を誅した。そして共公の少子戌を立てた。これが平公である。
宋の平公
平公三年、楚の共王が宋の彭城を抜き、宋の左師魚石に封じた。四年、諸侯が共に魚石を誅し、彭城を宋に帰した。三十五年、楚の公子囲がその君を 弑 して自ら立ち、霊王となった。四十四年、平公が卒し、子の元公佐が立った。
宋の元公
元公三年、楚の公子棄疾が霊王を 弑 し、自ら立って平王となった。八年、宋で火災があった。十年、元公は信義がなく、詐りをもって諸公子を殺したため、大夫の華氏・向氏が乱を起こした。楚の平王の太子建が来奔したが、諸華氏が相攻撃して乱れているのを見て、建は去って鄭に行った。十五年、元公は魯の昭公が季氏を避けて国外に居るのを助け、魯に入国させることを求めて行き、道中で卒した。子の景公頭曼が立った。
景公十六年、魯の陽虎が来奔したが、やがて去った。二十五年、孔子が宋を通過した。宋の司馬桓魋がこれを憎み、孔子を殺そうとした。孔子は微服して去った。三十年、曹が宋に背き、また晋にも背いた。宋が曹を伐ち、晋は救わず、ついに曹を滅ぼしてこれを有した。三十六年、斉の田常が簡公を 弑 した。
三十七年、楚の恵王が陳を滅ぼした。熒惑が心宿を守った。心宿は宋の分野である。景公はこれを憂えた。司星の子韋が言うには、「宰相に移すことができます」と。景公は「宰相はわが股肱である」と言った。「民に移すことができます」と言うと、景公は「君主は民に依って立つ」と言った。「歳 (収穫) に移すことができます」と言うと、景公は「凶作で民が困窮すれば、私は誰のために君たるのか」と言った。子韋は「天は高くして下を聴く。君には君主たるべき言葉が三つある。熒惑は動くべきである」と言った。そこでこれを観測すると、果たして三度移動した。
六十四年、景公が卒した。宋の公子特が太子を攻め殺して自ら立ち、昭公となった。昭公とは、元公の曾庶孫である。昭公の父は公孫糾、糾の父は公子褍秦、褍秦はすなわち元公の少子である。景公が昭公の父糾を殺したので、昭公は怨んで太子を殺して自ら立ったのである。
昭公は四十七年で卒し、子の悼公購由が立った。悼公は八年で卒し、子の休公田が立った。休公田は二十三年で卒し、子の辟公辟兵が立った。辟公は三年で卒し、子の剔成が立った。剔成四十一年、剔成の弟偃が剔成を攻め襲い、剔成は敗れて斉に奔り、偃は自ら宋君となった。
君偃十一年、自ら王と称した。東は斉を破って五城を取った。南は楚を破って三百里の地を取った。西は魏軍を破り、ついに斉・魏と敵国となった。血を革袋に盛り、これを掲げて射ち、「射天」と名付けた。酒と婦人に淫した。群臣で諫める者はすぐに射た。そこで諸侯は皆「桀宋」と言った。「宋は再び紂の行いをする。誅伐せざるべからず」と。斉に告げて宋を伐たせた。王偃が立って四十七年、斉の湣王が魏・楚とともに宋を伐ち、王偃を殺し、ついに宋を滅ぼしてその地を三分した。
司馬遷の評
太史公曰く、孔子は「微子は去り、箕子は奴隷となり、比干は諫めて死す。殷に三仁あり」と称えられた。『春秋』は宋の乱が宣公が太子を廃して弟を立てたことに始まり、国が安寧でなかったことが十世に及んだことを譏っている。襄公の時、仁義を修め行い、盟主たらんとした。その大夫正考父がこれを称え、契・湯・高宗を追慕し、殷の興った所以を道って『商頌』を作った。襄公は泓で敗れたが、君子の中にはこれを多く評価する者もあり、中国に礼義が欠けていることを傷み、褒めたのである。宋襄公の礼譲の精神を。
この作品は全世界において公有領域に属する。何故ならば、作者の没後百年を経過し、かつ作品が1931年1月1日より前に出版されたからである。