箕子は、紂の親戚なり。紂始めて象箸を作る。箕子嘆いて曰く、「彼象箸を為せば、必ず玉桮を為さん。桮を為せば、則ち必ず遠方の珍怪の物を思いて之を御せん。輿馬宮室の漸は此より始まる。振るうべからず」と。紂淫泆を為す。箕子諫むるも聴かず。或人曰く、「去るべし」と。箕子曰く、「人臣の諫めて聴かれずして去るは、是れ君の悪を彰らかにして民に自ら説くなり。吾之を為すに忍びず」と。乃ち髪を被り狂を詳りて奴と為る。遂に隠れて琴を鼓し以て自ら悲しむ。故に之を伝えて箕子操と曰う。
王子比干も、亦た紂の親戚なり。箕子の諫めて聴かれずして奴と為るを見て、則ち曰く、「君過有りて死を以て争わざれば、則ち百姓何の辜か有らん」と。乃ち直言して紂を諫む。紂怒りて曰く、「吾聖人の心に七竅有りと聞く。信に之れ諸か有るか」と。乃ち遂に王子比干を殺し、其の心を刳きて視る。
微子曰く、「父子は骨肉有り、而して臣主は義を以て属す。故に父過有れば、子三諫して聴かれず、則ち随いて之に号す。人臣三諫して聴かれず、則ち其の義は以て去るべし」と。ここにおいて太師・少師乃ち微子に去るを勧め、遂に行く。
周の武王が紂を伐ち殷を克つと、微子は祭器を捧げて軍門に至り、肌脱ぎとなり手を縛り、左に羊を牽き、右に茅を把り、膝行して進み告げた。ここにおいて武王は微子を釈放し、その位を元の如くに復した。
武王は紂の子武庚祿父を封じて殷の祭祀を継がせ、管叔・蔡叔を傅相としてこれを補佐させた。
武王は殷を克った後、箕子を訪問した。
武王が言うには、「嗚呼、天はひそかに下民を定め、その住まいを和らげるが、私はその常なる倫理の秩序を知らない。」
箕子が答えて言うには、「昔、鯀が洪水を防ごうとして五行を乱したので、帝は怒り、洪範九等に従わず、常なる倫理は廃れた。鯀は誅殺され、禹が継いで興った。天は禹に洪範九等を授け、常なる倫理が秩序立てられた。
「第一は五行、第二は五事、第三は八政、第四は五紀、第五は皇極、第六は三徳、第七は稽疑、第八は庶徴、第九は嚮用五福、畏用六極。
「五行とは、第一は水、第二は火、第三は木、第四は金、第五は土である。水は潤下といい、火は炎上といい、木は曲直といい、金は従革といい、土は稼穡という。潤下は鹹を作し、炎上は苦を作し、曲直は酸を作し、従革は辛を作し、稼穡は甘を作す。
「五事とは、第一は貌、第二は言、第三は視、第四は聴、第五は思である。貌は恭といい、言は従といい、視は明といい、聴は聡といい、思は叡という。恭は粛を作し、従は治を作し、明は智を作し、聡は謀を作し、叡は聖を作す。
「八政とは、第一は食、第二は貨、第三は祀、第四は司空、第五は司徒、第六は司寇、第七は賓、第八は師である。
「五紀とは、第一は歳、第二は月、第三は日、第四は星辰、第五は暦数である。
「皇極:皇は其の極を建つ、時に五福を斂めて、用て其の庶民に傅へ錫ふ、時に其の庶民を女の極に于り、女に保極を錫ふ。凡そ厥の庶民、淫朋有ること毋く、人比徳有ること毋く、皇の極を作す。凡そ厥の庶民、猷有り為有り守有るは、女則ち之を念ふ。極に協せず、咎に離れざるは、皇則ち之を受く。而して安んじて而して色す、曰く予が好む所の徳と、女則ち之に福を錫ふ。時に人斯れ其れ皇の極を維ぐ。寡を侮りて髙明を畏ること毋かれ。人の能有り為有るは、其の行を羞しめて、而して国其れ昌ふ。凡そ厥の正人、既に富みて方に穀す。女能くして好を而の家に有らしむること能はざれば、時に人斯れ其の辜を為す。其の好むこと毋きに于りては、女雖も之に福を錫ふとも、其れ女に用て咎を為さん。偏ること毋く頗ること毋く、王の義に遵ふ。好を作すこと毋く、王の道に遵ふ。悪を作すこと毋く、王の路に遵ふ。偏ること毋く党ること毋く、王道蕩蕩たり。党ること毋く偏ること毋く、王道平平たり。反ること毋く側ること毋く、王道正直たり。其の極有るを会し、其の極有るに帰す。曰く王極の傅言は、是れ夷し是れ訓し、帝に于りて其れ順なり。凡そ厥の庶民、極の傅言は、是れ順ひ是れ行ひ、以て天子の光に近づく。曰く天子民の父母を作し、以て天下の王と為る。
「三徳:一に曰く正直、二に曰く剛克、三に曰く柔克。平康は正直、彊にして友ならざるは剛克、内に友するは柔克、沈漸は剛克、髙明は柔克。惟れ辟は福を作し、惟れ辟は威を作し、惟れ辟は玉食す。臣に作福作威玉食すること有ること毋し。臣に作福作威玉食すること有らば、其れ而の家に害し、而の国に凶なり、人用て側頗辟し、民用て僭忒す。
「稽疑:卜筮人を択びて建立す。乃ち卜筮を命ず、曰く雨、曰く済、曰く涕、曰く霧、曰く克、曰く貞、曰く悔、凡そ七つ。卜は五、占は之を用て二、衍貣す。時に人を立てて卜筮と為し、三人占はば則ち二人の言に従ふ。女則ち大疑有らば、謀を女の心に及び、謀を卿士に及び、謀を庶人に及び、謀を卜筮に及ぼす。女則ち従ひ、亀従ひ、筮従ひ、卿士従ひ、庶民従ふ、是れ之を大同と謂ひ、而して身其れ康彊く、而して子孫其れ吉に逢はん。女則ち従ひ、亀従ひ、筮従ひ、卿士逆ひ、庶民逆ふ、吉。卿士従ひ、亀従ひ、筮従ひ、女則ち逆ひ、庶民逆ふ、吉。庶民従ひ、亀従ひ、筮従ひ、女則ち逆ひ、卿士逆ふ、吉。女則ち従ひ、亀従ひ、筮逆ひ、卿士逆ひ、庶民逆ふ、内を作せば吉、外を作せば凶。亀筮共に人に違へば、静を用ゐれば吉、作を用ゐれば凶。
「庶徴:曰く雨、曰く陽、曰く奥、曰く寒、曰く風、曰く時。五者備はり来たり、各其の序に以てす、庶草繁廡す。一極めて備はれば、凶。一極めて亡ければ、凶。曰く休徴:曰く肅、時に雨の若く、曰く治、時に暘の若く、曰く知、時に奥の若く、曰く謀、時に寒の若く、曰く聖、時に風の若し。曰く咎徴:曰く狂、常に雨の若く、曰く僭、常に暘の若く、曰く舒、常に奥の若く、曰く急、常に寒の若く、曰く霧、常に風の若し。王は歳を維ぎ、卿士は月を維ぎ、師尹は日を維ぐ。歳月日時易ること毋く、百穀用て成り、治用て明らかに、畯民用て章かに、家用て平康なり。日月歳時既に易れば、百穀用て成らず、治用て昏く明らかならず、畯民用て微なり、家用て寧からず。庶民は星を維ぐ、星に風を好む有り、星に雨を好む有り。日月の行ひに、冬有り夏有り。月の星に従ふは、則ち風雨を以てす。
「五福:一に曰く壽、二に曰く富、三に曰く康寧、四に曰く攸好徳、五に曰く考終命。六極:一に曰く凶短折、二に曰く疾、三に曰く憂、四に曰く貧、五に曰く悪、六に曰く弱。」
そこで武王は箕子を朝鮮に封じたが、臣下とはしなかった。
その後、箕子が周に朝見する途中、かつての殷の都の跡を通り、宮室が壊れ、禾黍が生えているのを見て感傷にふけり、泣きたいがそれはならず、涙を流すのも婦人のようだと思い、そこで麦秀の詩を作って歌い詠んだ。その詩に言う、「麦の穂が青青としているよ、禾黍は油々と茂っている。あの狡猾な童よ、私に好意を示さないとは!」いわゆる狡猾な童とは、紂のことである。殷の民はこれを聞き、皆涙を流した。
武王が崩じ、成王が幼少であったので、周公旦が代わって政務を執り国を治めた。管叔・蔡叔がこれを疑い、武庚と共に乱を起こし、成王と周公を襲おうとした。周公は成王の命を受けて武庚を誅し、管叔を殺し、蔡叔を追放した後、微子開に殷の後を継がせ、その祖先の祭祀を奉じさせ、微子の命を作ってこれを明らかにし、宋に国を建てさせた。微子はもとより仁賢であったので、武庚に代わり、殷の残った民は大いに彼を敬愛した。
微子開が卒去すると、その弟の衍を立てた。これが微仲である。微仲が卒去すると、子の宋公稽が立った。宋公稽が卒去すると、子の丁公申が立った。丁公申が卒去すると、子の湣公共が立った。湣公共が卒去すると、弟の煬公熙が立った。煬公が即位すると、湣公の子の鮒祀が煬公を弑して自ら立ち、「私が立つべきである」と言い、これが厲公である。厲公が卒去すると、子の釐公挙が立った。
宋釐公
釐公十七年、周の厲王が彘に奔出した。二十八年、釐公卒し、子の惠公覵立つ。
宋の惠公
惠公四年、周の宣王即位す。三十年、惠公卒し、子の哀公立つ。哀公元年卒し、子の戴公立つ。
宋の戴公
戴公二十九年、周の幽王、犬戎に殺され、秦始めて諸侯の列に列せられる。
三十四年、戴公が卒し、子の武公司空が立つ。武公は女を生み、魯の惠公の夫人となり、魯の桓公を生む。十八年、武公が卒し、子の宣公力が立つ。
宋の宣公
宣公には太子與夷がいた。十九年、宣公が病み、その弟の和に譲りて曰く、「父死して子継ぎ、兄死して弟及ぶは、天下の通義なり。我れ其れ和を立てん」と。和も亦た三たび譲りて之を受けしむ。宣公卒し、弟の和が立ち、是を穆公と為す。
宋の穆公
穆公九年、病み、大司馬の孔父を召して謂ひて曰く、「先君宣公は太子與夷を捨てて我を立てたり、我敢へて忘れず。我死すれば、必ず與夷を立てよ」と。孔父曰く、「羣臣皆公子馮を立てんと願ふ」と。穆公曰く、「馮を立てること毋れ、我宣公に負くべからず」と。是に於て穆公は馮をして出でて鄭に居らしむ。八月庚辰、穆公卒し、兄宣公の子與夷が立ち、是を殤公と為す。君子之を聞きて曰く、「宋の宣公は人を知ると謂ふべし、其の弟を立てて義を成し、然して卒に其の子復た之を享く」と。
宋の殤公
殤公元年、衛の公子州吁がその君完を弑して自立し、諸侯に認められんと欲し、宋に告げて曰く「馮は鄭にあり、必ず乱を為さん、我とともにこれを伐つべし」と。宋はこれを許し、ともに鄭を伐ち、東門に至って還る。二年、鄭は宋を伐ち、以て東門の役に報ゆ。その後諸侯数たび来たりて侵伐す。
九年、大司馬孔父嘉の妻は美しく、出でて、道にて太宰華督に遇う。督は悦び、目を凝らしてこれを観る。督は孔父の妻を利せんと欲し、乃ち人をして国中に宣言せしめて曰く「殤公即位十年のみ、而して十一戦、民苦しみ堪えず、皆孔父の為す所なり、我まさに孔父を殺して以て民を寧んぜん」と。是の歳、魯その君隠公を弑す。十年、華督は孔父を攻め殺し、その妻を取る。殤公怒る、遂に殤公を弑し、而して穆公の子馮を鄭より迎えてこれを立てる。是を荘公と為す。
宋の荘公
荘公元年、華督相と為る。九年、鄭の祭仲を執り、要して以て突を立てて鄭の君と為さんことを求む。祭仲許す、竟に突を立てる。十九年、荘公卒す、子の湣公捷立つ。
宋の湣公
湣公七年、斉の桓公が即位した。九年、宋に洪水があり、魯は臧文仲を遣わして水害を弔問させた。湣公は自ら罪を認めて言うには、「寡人は鬼神に仕えることができず、政治を修めなかったので、洪水が起こったのである」。臧文仲はこの言葉を善しとした。この言葉は公子の子魚が湣公に教えたものであった。
十年の夏、宋は魯を討ち、乗丘で戦い、魯は生け捕りにして宋の南宮萬を得た。宋人が萬を請うと、萬は宋に帰った。十一年の秋、湣公が南宮萬と狩猟し、博戯の際に先後を争い、湣公は怒り、彼を辱めて言うには、「初めはお前を敬ったが、今のお前は魯の虜囚である」。萬は力が強く、この言葉を恨み、遂に局(盤)をもって湣公を蒙沢で殺した。大夫の仇牧がこれを聞き、兵を率いて公の門に至った。萬が牧と組み打ちし、牧の歯が門の扉に突き刺さって死んだ。そこで太宰の華督をも殺し、公子の游を更めて君に立てた。諸公子は蕭に奔り、公子の御説は亳に奔った。萬の弟の南宮牛が兵を率いて亳を包囲した。冬、蕭および宋の諸公子が共に南宮牛を撃ち殺し、宋の新君の游を弑して湣公の弟の御説を立てた。これが桓公である。宋の萬は陳に奔った。宋人は賄賂をもって陳に請うた。陳人は婦人に醇酒を飲ませ、革で包んで、宋に帰した。宋人は萬を醢(塩漬けの肉醤)にした。
宋の桓公
桓公二年、諸侯が宋を伐ち、郊外まで来て去った。三年、斉の桓公が初めて覇を唱えた。二十三年、衛の公子の燬を斉から迎え、これを立てた。これが衛の文公である。文公の妹が桓公の夫人となった。秦の穆公が即位した。三十年、桓公が病み、太子の茲甫がその庶兄の目夷に嗣を譲ろうとした。桓公は太子の志を義とし、結局聞き入れなかった。三十一年の春、桓公が卒し、太子の茲甫が立った。これが襄公である。その庶兄の目夷を相とした。未だ葬らずして、斉の桓公が諸侯と葵丘で会合し、襄公は往って会した。
襄公七年、宋の地に茀星が雨の如く降り、雨と共に下る。六鶂が退きて飛ぶは、風疾しきなり。
八年、齊の桓公卒す。宋は盟会を為さんと欲す。十二年春、宋の襄公は鹿上にて盟を為し、楚に諸侯を求む。楚人これに許す。公子目夷諫めて曰く、「小国盟を争うは禍なり」と。聴かず。秋、諸侯会して宋公と盂にて盟す。目夷曰く、「禍其れ此に在らんか。君の欲すること已に甚だし、何を以てか之に堪えん」と。ここにおいて楚は宋の襄公を執りて宋を伐つ。冬、亳に会し、以て宋公を釈す。子魚曰く、「禍猶ほ未だならず」と。十三年夏、宋は鄭を伐つ。子魚曰く、「禍此に在り」と。秋、楚は宋を伐ちて鄭を救う。襄公将に戦わんとす。子魚諫めて曰く、「天の商を棄つること久し。不可なり」と。冬十一月、襄公は楚の成王と泓にて戦う。楚人未だ済わず。目夷曰く、「彼は衆、我は寡なり。其の未だ済わざるに及びて之を撃て」と。公聴かず。已に済えども未だ陳せず。又曰く、「撃つべし」と。公曰く、「其の已に陳するを待て」と。陳成る。宋人之を撃つ。宋師大いに敗る。襄公股を傷つく。国人皆公を怨む。公曰く、「君子は人を阸に困しめず、成列せざるを鼓せず」と。子魚曰く、「兵は勝ちを以て功と為す。何ぞ常言と為さんや。必ずや公の言の如くならば、即ち奴事するのみ。又何ぞ戦いを為さんや」と。
楚の成王は已に鄭を救い、鄭之を享く。去りて鄭の二姫を取って帰る。叔瞻曰く、「成王礼無し。其れ没せざらんか。礼を為して卒に別無きに至る。以て其の遂に覇たらざるを知る有り」と。
是の年、晋の公子重耳、宋を過ぐ。襄公は楚に傷つけられたるを以て、晋の援を得んと欲し、重耳を厚く礼して馬二十乗を以てす。
十四年夏、襄公は泓にて傷つき病みて竟に卒す。子の成公王臣立つ。
宋の成公
成公元年、晋の文公が即位した。三年、楚との盟約を背き晋に親しんだ、文公に恩徳があったからである。四年、楚の成王が宋を討伐し、宋は晋に危急を告げた。五年、晋の文公が宋を救援し、楚軍は去った。九年、晋の文公が卒去した。十一年、楚の太子商臣がその父成王を弑して代わりに立った。十六年、秦の穆公が卒去した。
十七年、成公が卒去した。成公の弟の御が太子及び大司馬公孫固を殺して自ら君位に即いた。宋の人々が共に君の御を殺し、成公の少子杵臼を立てた、これが昭公である。
宋の昭公
昭公四年、宋が長翟の縁斯を長丘で破った。七年、楚の荘王が即位した。
九年、昭公は道に外れ、国人は従わなかった。昭公の弟鮑革は賢明で士を敬った。以前、襄公の夫人が公子鮑と通じようとしたが、許されず、そこで彼を助けて国に施しを行わせ、大夫華元を右師とした。昭公が狩りに出たとき、夫人王姫が衛伯に命じて昭公杵臼を攻め殺させた。弟鮑革が立ち、これが文公である。
宋の文公
文公元年、晋が諸侯を率いて宋を伐ち、君を弑したことを責めた。文公が定まって立ったと聞き、去った。二年、昭公の子が文公の同母弟須と武・繆・戴・莊・桓の族とともに乱を起こしたので、文公はこれをことごとく誅し、武・繆の族を追放した。
四年の春、楚が鄭に命じて宋を伐たせた。宋は華元を将とし、鄭は宋を破り、華元を囚えた。華元が戦いに臨むとき、羊を殺して士卒に食べさせたが、その御者の羊羹が行き渡らなかったので、恨みを抱き、鄭軍に馳せ入ったため、宋軍は敗れ、華元が囚われたのである。宋は兵車百乗と文馬四百匹で華元を贖おうとした。まだ全部渡さないうちに、華元は逃れて宋に帰った。
十四年、楚の荘王が鄭を包囲した。鄭伯は楚に降ったが、楚はまた彼を釈放した。
十六年、楚の使者が宋を通過したが、宋には以前からの仇があり、楚の使者を捕らえた。九月、楚の荘王が宋を包囲した。十七年、楚は宋を包囲して五ヶ月が経っても解かず、宋の城中は危急で食糧がなくなり、華元は夜ひそかに楚の将軍子反に会見した。子反が荘王に報告した。王が「城中はどうか」と問うと、「骨を割いて炊き、子を交換して食らう」と答えた。荘王は「誠にその言葉の通りだ!我が軍にも二日の食糧しかない」と言った。信義の故に、ついに兵を収めて去った。
二十二年、文公が卒去し、子の共公瑕が立った。厚葬を始めた。君子は華元が臣としての道を尽くさなかったことを譏った。
宋の共公
共公十年、華元は楚の将軍子重と親しくし、また晋の将軍欒書とも親しくして、晋と楚の両方と盟約を結んだ。十三年、共公が卒去した。華元は右師となり、魚石は左師となった。司馬の唐山が太子肥を攻め殺し、華元をも殺そうとしたので、華元は晋に奔ったが、魚石がこれを止め、黄河に至ってから引き返し、唐山を誅殺した。そして共公の少子の戌を立てた。これが平公である。
宋の平公
平公三年、楚の共王が宋の彭城を抜き、宋の左師魚石に封じた。四年、諸侯が共に魚石を誅し、彭城を宋に帰した。三十五年、楚の公子圍がその君を弑して自ら立ち、霊王となった。四十四年、平公卒し、子の元公佐が立つ。
宋の元公
元公三年、楚の公子棄疾が霊王を弑して自ら立ち、平王となった。八年、宋に火災あり。十年、元公は信なく、詐りて諸公子を殺し、大夫の華氏・向氏が乱を起こす。楚の平王の太子建が来奔し、諸華氏が相攻め乱れるを見て、建は去りて鄭に如く。十五年、元公は魯の昭公が季氏を避けて外に居るため、そのために魯に入ることを求め、行道中に卒し、子の景公頭曼が立つ。
景公十六年、魯の陽虎来奔し、已にして復た去る。二十五年、孔子が宋を過ぐ。宋の司馬桓魋之を悪み、孔子を殺さんと欲す。孔子は微服して去る。三十年、曹は宋に倍き、又た晋に倍く。宋は曹を伐ち、晋は救わず、遂に曹を滅ぼして之を有つ。三十六年、斉の田常が簡公を弑す。
三十七年、楚の恵王が陳を滅ぼす。熒惑心を守る。心は宋の分野なり。景公之を憂う。司星の子韋曰く、「相に移すべし」と。景公曰く、「相は吾が股肱なり」と。曰く、「民に移すべし」と。景公曰く、「君たる者は民を待つ」と。曰く、「歳に移すべし」と。景公曰く、「歳饑えて民困せば、吾誰が為に君たらんや」と。子韋曰く、「天高くして卑きを聴く。君に君人たるの言三つ有り、熒惑宜しく動く有るべし」と。是に於いて之を候うに、果たして三度徙る。
六十四年、景公卒す。宋の公子特、太子を攻め殺して自ら立ち、是を昭公と爲す。昭公は、元公の曾庶孫なり。昭公の父は公孫糾、糾の父は公子褍秦、褍秦は即ち元公の少子なり。景公、昭公の父糾を殺せし故に、昭公、太子を怨み殺して自ら立つ。
昭公四十七年卒し、子の悼公購由立つ。悼公八年卒し、子の休公田立つ。休公田二十三年卒し、子の辟公辟兵立つ。辟公三年卒し、子の剔成立つ。剔成四十一年、剔成の弟偃、剔成を攻め襲ひ、剔成敗れて齊に奔り、偃自ら立ちて宋君と爲る。
君偃十一年、自ら王と爲る。東に齊を敗り、五城を取る。南に楚を敗り、地三百里を取る。西に魏軍を敗る。乃ち齊・魏と敵國と爲る。血を盛ること韋囊にし、縣けて之を射り、命じて「天を射る」と曰ふ。酒婦人に淫す。羣臣諫むる者は輒ち之を射る。是に於て諸矦皆「桀宋」と曰ふ。「宋其れ復た紂の爲す所に爲らんとす、誅せざる可からず」と。齊に告げて宋を伐たしむ。王偃立つこと四十七年、齊の湣王、魏・楚と宋を伐ち、王偃を殺し、遂に宋を滅ぼして其の地を三分す。
司馬遷評
太史公曰く、孔子は「微子去り、箕子奴と爲り、比干諫めて死す、殷に三仁有り」と稱す。春秋は宋の亂を譏りて宣公太子を廢して弟を立てしより始まる、國以て寧からざること十世とす。襄公の時、仁義を行ひ修め、盟主たらんと欲す。其の大夫正考父之を美し、故に契・湯・髙宗を追ひ道ひ、殷の興る所以を、商頌を作る。襄公既に泓に敗れたりと雖も、而して君子或ひは以て多しと爲すは、中國禮義を闕くを傷み、之を褒むるなり、宋襄の禮讓有るなり。