太史公曰く:五帝、三代の記録は、古い。殷以前の諸侯は譜に記すことができず、周以来はやや記すことができる。孔子は史文に基づいて春秋を編み、元年を紀し、時日月を正す、その詳細なることよ。尚書の序は略し、年月なし;或いはややあるも、多く欠け、記録できない。故に疑わしきは疑いとして伝え、その慎重さよ。
余は諜記を読み、黄帝以来に年数あり。その暦譜諜の五徳の伝の終始を稽えれば、古文は皆異なり、乖離す。夫子がその年月を論じ編まざるは、虚ならんや!ここに五帝繫諜、尚書を集めて世紀とし、黄帝以来より共和に至るを世表とす。
| 帝王世國號 | 顓頊屬 | 俈屬 | 堯屬 | 舜屬 | 夏屬 | 殷屬 | 周屬 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 黃帝號有熊。 | 黃帝生昌意。 | 黃帝生玄囂。 | 黃帝生玄囂。 | 黃帝生昌意。 | 黃帝生昌意。 | 黃帝生玄囂。 | 黃帝生玄囂。 |
| 帝顓頊,黃帝孫。起黃帝,至顓頊三世,〔號高陽〕。 | 昌意生顓頊。為高陽氏。 | 玄囂生蟜極。 | 玄囂生蟜極。 | 昌意生顓頊。顓頊生窮蟬。 | 昌意生顓頊。 | 玄囂生蟜極。蟜極生高辛。 | 玄囂生蟜極。蟜極生高辛。 |
| 帝俈,黃帝曾孫。起黃帝,至帝俈四世。號高辛。 | 蟜極生高辛,為帝俈。 | 蟜極生高辛。高辛生放勛。 | 窮蟬は敬康を生んだ。敬康は句望を生んだ。 | 高辛は禼を生んだ。禼は殷の祖となった。 | 高辛は后稷を生んだ。后稷は周の祖となった。 | ||
| 帝堯。黄帝から始まり、俈の子まで五代。号は唐。 | 放勛が堯となった。 | 句望は蟜牛を生んだ。蟜牛は瞽叟を生んだ。 | 禼は昭明を生んだ。 | 后稷は不窋を生んだ。 | |||
| 帝舜は、黄帝の玄孫の玄孫。号は虞。 | 瞽叟は重華を生んだ。これが帝舜である。 | 顓頊は鯀を生んだ。鯀は文命を生んだ。 | 昭明は相土を生んだ。 | 不窋は鞠を生んだ。 | |||
| 帝禹は、黄帝の耳孫。号は夏。 | 文命、これが禹である。 | 相土は昌若を生んだ。 | 鞠は公劉を生んだ。 | ||||
| 帝啟は、有扈を討ち、甘誓を作った。 | 昌若は曹圉を生んだ。 | 公劉は慶節を生んだ。 | |||||
| 帝太康 | 曹圉は冥を生んだ。 | 慶節は皇僕を生んだ。 | |||||
| 帝仲康は、太康の弟。 | 冥は振を生んだ。 | 皇僕は差弗を生んだ。 | |||||
| 帝相 | 振は微を生んだ。 | 差弗は毀渝を生んだ。 | |||||
| 帝少康 | 微生が報丁を生む。 | 毀渝が公非を生む。 | |||||
| 帝予 | 報丁が報乙を生む。 | 公非が高圉を生む。 | |||||
| 帝槐 | 報乙が報丙を生む。 | 高圉が亞圉を生む。 | |||||
| 帝芒 | 報丙が主壬を生む。 | 亞圉が公祖類を生む。 | |||||
| 帝泄 | 主壬が主癸を生む。 | 公祖類が太王亶父を生む。 | |||||
| 帝不降 | 主癸が天乙を生む。これが殷湯である。 | 亶父が季歷を生む。 | |||||
| 帝扃は不降の弟。 | 季歷が文王昌を生む。易卦を増やす。 | ||||||
| 帝廑 | 文王昌が武王發を生む。 | ||||||
| 帝孔甲は不降の子。鬼神を好み、淫乱で徳を好まず、二龍が去る。 | |||||||
| 帝皋 | |||||||
| 帝發 | |||||||
| 帝履癸。これが桀である。 |
禹より桀まで十七世、黄帝より桀まで二十世。
殷の湯、夏氏に代わる、黄帝より湯まで十七世。
| 帝外丙は湯の太子。太丁が早く卒したため、次弟の外丙を立てる。 |
| 帝仲壬は外丙の弟。 |
| 帝太甲は故太子太丁の子。淫乱で、伊尹が桐宮に放逐する。三年後、悔い改めて自ら責め、伊尹が迎えて復位させる。 |
| 帝沃丁。伊尹が卒す。 |
| 帝太庚は沃丁の弟。 |
| 帝小甲は太庚の弟。殷の道が衰え、諸侯の中には来ない者もいた。 |
| 帝雍己は小甲の弟。 |
| 帝太戊は雍己の弟。桑と穀が生えたことで、中宗と称された。 |
| 帝中丁 |
| 帝外壬は中丁の弟。 |
| 帝河亶甲は外壬の弟。 |
| 帝祖乙 |
| 帝祖辛 |
| 帝沃甲は祖辛の弟。 |
| 帝祖丁は祖辛の子。 |
| 帝南庚は沃甲の子。 |
| 帝陽甲は祖丁の子。 |
| 帝盤庚は陽甲の弟。河南に遷都した。 |
| 帝小辛は盤庚の弟。 |
| 帝小乙は小辛の弟。 |
| 帝武丁。雉が鼎の耳に登って鳴いた。傅説を得た。高宗と称された。 |
| 帝祖庚 |
| 帝甲は祖庚の弟。淫らであった。 |
| 帝廩辛 |
| 帝庚丁は廩辛の弟。殷が河北に遷都した。 |
| 帝武乙。神を軽んじて雷に打たれて死んだ。 |
| 帝太丁 |
| 帝乙。殷がさらに衰えた。 |
| 帝辛、これが紂である。殺された。 |
湯より紂まで二十九世、黄帝より紂まで四十六世。
周の武王が殷を滅ぼし、黄帝から武王まで十九代である。
| 成王誦 | 魯周公旦は武王の弟。初めて封じられた。 | 齊太公尚は文王、武王の師。初めて封じられた。 | 晉唐叔虞は武王の子。初めて封じられた。 | 秦悪来は紂を助けた。父の飛廉は力があった。 | 楚熊繹。繹の父の鬻熊は文王に仕えた。初めて封じられた。 | 宋の微子啓は、紂王の庶兄である。初めて封じられた。 | 衛の康叔は、武王の弟である。初めて封じられた。 | 陳の胡公満は、舜の子孫である。初めて封じられた。 | 蔡の叔度は、武王の弟である。初めて封じられた。 | 曹の叔振鐸は、武王の弟である。初めて封じられた。 | 燕の召公奭は、周の同姓である。初めて封じられた。 |
| 康王釗は、刑罰を廃して四十余年。 | 魯公伯禽 | 丁公呂伋 | 晉侯燮 | 女防 | 熊乂 | 微仲は、啓の弟。 | 康伯 | 申公 | 蔡仲 | 九代目で恵侯に至る。 | |
| 昭王瑕は、南巡して帰らず。訃報を出さず、これを避けた。 | 考公 | 乙公 | 武侯 | 旁皋 | 熊黮 | 宋公 | 孝伯 | 相公 | 蔡伯 | 太伯 | |
| 穆王満は、甫刑を作り、荒服は至らず。 | 煬公は、考公の弟。 | 癸公 | 成侯 | 大几 | 熊勝 | 丁公 | 嗣伯 | 孝公 | 宮侯 | 仲君 | |
| 恭王伊扈 | 幽公 | 哀公 | 厲侯 | 大駱 | 熊煬 | 湣公(丁公の弟) | 疌伯 | 慎公 | 厲侯 | 宮伯 | |
| 懿王堅(周の道が衰え、詩人が諷刺の詩を作る) | 魏公 | 胡公 | 靖侯 | 非子 | 熊渠 | 煬公(湣公の弟) | 靖伯 | 幽公 | 武侯 | 孝伯 | |
| 孝王方,懿王の弟。 | 厲公 | 獻公,胡公を弑す。 | 秦侯 | 熊無康 | 厲公 | 貞伯 | 釐公 | 夷伯 | |||
| 夷王燮,懿王の子。 | 獻公,厲公の弟。 | 武公 | 公伯 | 熊鷙紅 | 釐公 | 頃侯 | |||||
| 厲王胡,悪名高く、乱に遭い、出奔し、遂に彘で死す。 | 真公 | 秦仲 | 熊延,紅の弟。 | 釐侯 | |||||||
| 共和,二伯が行政を執る。 | 武公,真公の弟。 | 熊勇 |
張夫子が褚先生に問うた。「『詩』には、契も后稷も父なくして生まれたとあります。ところが諸々の伝記を調べると、いずれも父があったとし、その父は皆、黄帝の子だといいます。これは『詩』の記述と食い違うのではありませんか。」
褚先生は答えた。「そうではない。『詩』が契は卵から、后稷は巨人の足跡によって生まれたと言うのは、彼らに天命があったことを示そうとしたにすぎない。そもそも鬼神だけで人は成らず、人を介して生まれる。どうして本当に父なくして生まれようか。ある書は父ありと言い、ある書は父なしと言う。信ずべきは信として伝え、疑わしいものは疑いとして伝える。だから二通りの言い方が残るのだ。堯は契と后稷がともに賢人で天の生んだ者だと知り、契には七十里を封じた。十余世の後、湯に至って天下の王となった。后稷の子孫もまた後に王となることを堯は知っていたから、さらに百里を加封した。その家は千年近く続き、文王の代に天下を有した。
『詩伝』にはこうある。『湯の祖の契は父なくして生まれた。契の母が姉妹と玄丘の水で沐浴していると、燕が卵をくわえて落とした。母はそれを拾って口に含み、誤って飲み込んで契を生んだ。契は生まれながら賢く、堯は彼を司徒に立て、姓を子氏とした。子とは滋であり、滋とはますます大きくなる意である。詩人はこれをたたえて「殷社芒芒、天命玄鳥、降而生商」とうたった。商は質であり、殷の号である。文王の祖の后稷もまた父なくして生まれた。母の姜嫄が外で大人の足跡を見て踏み、身ごもって后稷を生んだ。姜嫄は父なしの子として道に捨てたが、牛羊は避けて踏まなかった。山に抱えて行けば山がこれを養い、大沢に捨てれば鳥が翼で覆って餌を与えた。姜嫄は怪しんで、この子は天子の器だと悟り、取り戻して育てた。堯はその賢才を知り、大農に立て、姓を姫氏とした。姫とは本の意である。詩人はまた「厥初生民」とたたえ、后稷のはじまりを深く述べた。』
孔子は言う。『昔、堯が契に子氏を命じたのは、後に湯が出るゆえである。后稷に姫氏を命じたのは、後に文王が出るゆえである。太王が季歴を立てたのは、天の瑞を明らかにしたのであり、太伯が呉へ去ったのは源流を生んだのである。』天命は語り難く、聖人でなければ見通せない。舜・禹・契・后稷はいずれも黄帝の子孫である。黄帝は天命を受けて天下を治め、その徳沢は後世に深く及んだ。だから子孫がまた天子として立ったのであり、これは天が有徳の者に報いたということだ。人々はそれを知らず、ただ布衣の匹夫から偶然に起こったと思う。しかし布衣の匹夫が、理由もなく天下の王となれるものか。そこには天命があるのだ。」
「黄帝の後裔が、どうしてこれほど長く天下の王者たりえたのでしょうか。」
褚先生は言った。「伝には、天下の万民のために命をあがない救う者を帝といい、万世の福があるという。黄帝がそれである。五政を明らかにし、礼義を修め、天の時に応じて兵を挙げ征伐して功を立てる者を王といい、千世の福がある。蜀王も黄帝の後裔で、いまも漢の西南五千里にあって、しばしば来朝し漢に貢を納める。これも先祖の徳が後世へ流れているからではないか。道徳の実践をどうして軽んじられよう。人君たる者はよくこれを見よ。漢の大将軍霍子孟、名は光、これもまた黄帝の後裔である。これは博聞で遠見のある者には語れるが、見聞の浅い者には説き難い。なぜなら古く諸侯は国名を姓としたからだ。霍とは国名である。武王が弟の叔処を霍に封じ、のち晋の献公が霍公を滅ぼした。その後裔は庶民となって平陽に住んだ。平陽は河東にあり、河東は晋の地で、のち衛国に分かれた。『詩』によって言えば、これもまた周代のこととして説明できる。周は后稷に始まり、后稷は父なくして生まれたとされる。だが三代の世伝では、后稷には高辛という父がいた。高辛は黄帝の曾孫である。『黄帝終始伝』にはこうある。『漢が興って百余年、背丈の高からず低からぬ者が白燕の郷から出て天下の政を執り、幼主の時に車を進めようとする。』霍将軍は本来、平陽の白燕の出である。私が郎官だった時、方士の考功と旗亭の下で会った際に彼が私に語った。なんと偉大なことではないか。」