孝文
孝文皇帝は、高祖の中子である。高祖十一年の春、既に陳豨の軍を破り、代の地を平定し、代王に立てられ、中都を都とした。太后薄氏の子である。即位して十七年、高后八年七月、高后が崩じた。九月、諸呂の呂産らが乱を起こそうとし、劉氏を危うくせんとしたが、大臣たちが共にこれを誅し、代王を召し立てて立とうと謀った。事は呂后語の中にある。
丞相陳平、太尉周勃らは人をやって代王を迎えさせた。代王は左右の郎中令張武らに問うた。張武らが議して言うには、「漢の大臣は皆、故高帝の時の大将であり、兵事に習熟し、謀略と欺瞞が多い。彼らの属する意図はこれだけではなく、ただ高帝と呂太后の威を畏れているだけである。今、既に諸呂を誅し、新たに京師で血を啜っている。これは大王を迎えることを名目としているが、実は信じるに足らない。願わくは大王は病と称して行かず、その変を観察されたい」と。中尉宋昌が進み出て言うには、「群臣の議は皆、誤りである。そもそも秦がその政を失い、諸侯豪傑が一斉に起こり、人々自らが天下を得たと思う者は万を数えたが、しかし遂に天子の位に登った者は劉氏である。天下が望みを絶った、これが一つ。高帝が王子や子弟を封じた土地は犬牙の如く互いに制し合い、これいわゆる盤石の宗である。天下はその強さに服した、これが二つ。漢が興り、秦の苛政を除き、法令を簡約し、徳恵を施したので、人々は自ら安んじ、動揺させ難い、これが三つ。そもそも呂太后の厳しさをもって、諸呂を三王に立て、権を擅にし専制したが、しかし太尉が一つの節を持って北軍に入り、一声呼べば兵士は皆左袒し、劉氏のために立ち、諸呂に叛き、遂にこれを滅ぼした。これは天の授けるところであって、人の力ではない。今、大臣たちが変を起こそうとしても、百姓はこれに使われず、その徒党はどうして専一でありえようか。今、内には朱虚侯・東牟侯の親族があり、外には呉・楚・淮南・瑯邪・斉・代の強さを畏れている。今、高帝の子はただ淮南王と大王だけであり、大王はまた年長で、賢聖仁孝、天下に聞こえている。故に大臣たちは天下の心に因って大王を迎え立てようとしているのであり、大王は疑うことなかれ」と。代王は太后に報告してこれを計り、なお躊躇して決めなかった。亀で占うと、卦兆は大横を得た。占いの言葉に言う、「大横庚庚、余は天王と為り、夏啓以て光らん」。代王が言うには、「寡人は固より既に王である。また何の王というのか」。卜人が言うには、「いわゆる天王とは天子のことである」。ここにおいて代王は太后の弟薄昭を遣わして絳侯に会わせた。絳侯らは詳しく昭に、王を迎え立てる所以の意を言った。薄昭が帰って報告して言うには、「信ずべきです。疑うべきものはありません」。代王は笑って宋昌に言うには、「果たして公の言う通りであった」。ここにおいて宋昌に参乗を命じ、張武ら六人に伝車に乗って長安に詣でさせた。高陵に至って休止し、宋昌を先に馳せて長安に行かせ、変を観察させた。
昌は渭橋に至ると、丞相以下皆迎えた。宋昌は還って報告した。代王は馳せて渭橋に至り、群臣は拝謁して臣と称した。代王は下車して拝した。太尉の勃が進み出て言うには、「願わくは間言を請わん。」宋昌が言うには、「言わんとする所が公ならば、公に言え。言わんとする所が私ならば、王者は私を受けない。」太尉は乃ち跪いて天子の璽符を上った。代王は謝して言うには、「代邸に至ってこれを議せん。」遂に馳せて代邸に入った。群臣は従って至った。丞相の陳平、太尉の周勃、大将軍の陳武、御史大夫の張蒼、宗正の劉郢、朱虚侯の劉章、東牟侯の劉興居、典客の劉揭は皆再拝して言うには、「子の弘等は皆孝惠帝の子に非ず、宗廟を奉ずるに当たらず。臣謹んで陰安侯・列侯・頃王后と瑯邪王及び宗室・大臣・列侯・吏二千石と議して曰く、『大王は高帝の長子、宜しく高帝の嗣と為すべし。』と。願わくは大王即時に天子の位に即かれん。」代王が言うには、「高帝の宗廟を奉ずるは、重き事なり。寡人は不佞にして、宗廟に称するに足らず。願わくは楚王に計りて宜しき者を請わん、寡人は敢えて当たらざるなり。」群臣は皆伏して固く請う。代王は西に向かって譲ること三度、南に向かって譲ること再び。丞相の平等は皆言うには、「臣伏してこれを計るに、大王が高帝の宗廟を奉ずるは最も称するに宜しく、天下の諸侯万民も以て宜しと為す。臣等は宗廟社稷のために計り、敢えて忽にせず。願わくは大王幸いに臣等の言を聴かれん。臣謹んで天子の璽符を奉じ、再拝して上る。」代王が言うには、「宗室将相王列侯、以て寡人に宜しき者莫しと為すならば、寡人は敢えて辞せず。」遂に天子の位に即いた。
群臣は礼に次いで侍した。乃ち太仆の嬰と東牟侯の興居を使わして宮を清め、天子の法駕を奉じて、代邸に迎えた。皇帝は即日の夕べに未央宮に入った。乃ち夜に宋昌を拝して衛将軍と為し、南北の軍を鎮撫させた。張武を以て郎中令と為し、殿中を行わせた。還って前殿に坐した。ここにおいて夜に詔書を下して曰く、「間者諸呂が事を用い権を擅にして、大逆を謀り、以て劉氏の宗廟を危うくせんと欲す。将相列侯宗室大臣のこれを誅するに頼り、皆その辜に伏す。朕初めて即位す。其れ天下を赦し、民に爵一級を賜い、女子百戸に牛酒を賜い、酺五日を賜う。」
孝文皇帝元年十月庚戌、故の琅邪王の沢を徙立して燕王と為す。
辛亥、皇帝即阼し、高廟を謁す。右丞相の平は徙って左丞相と為り、太尉の勃は右丞相と為り、大将軍の灌嬰は太尉と為る。諸呂の奪いし斉楚の故地は、皆復たこれに与う。
壬子、車騎将軍の薄昭を遣わして皇太后を代に迎えしむ。皇帝曰く、「呂産自ら置いて相国と為り、呂禄は上将軍と為り、擅に矯りて灌将軍の嬰を遣わし兵を将いて斉を撃たしめ、劉氏に代わらんと欲す。嬰は滎陽に留まり撃たず、諸侯と合謀して以て呂氏を誅す。呂産は不善を為さんと欲す。丞相の陳平と太尉の周勃は謀りて呂産等の軍を奪う。朱虚侯の劉章はまず呂産等を捕う。太尉は身みずから襄平侯の通を率い、節を持ち詔を承けて北軍に入る。典客の劉揭は身みずから趙王呂禄の印を奪う。太尉の勃に万戸を益封し、金五千斤を賜う。丞相の陳平、灌将軍の嬰には邑各三千戸、金二千斤を賜う。朱虚侯の劉章、襄平侯の通、東牟侯の劉興居には邑各二千戸、金千斤を賜う。典客の揭を封じて陽信侯と為し、金千斤を賜う。」
十二月、上(文帝)は言う、「法は、治の正すところであり、暴を禁じ善人を率いる所以である。今、法を犯した者は既に論じられ、しかして罪なき父母妻子同産(兄弟)を連座させ、及び収帑(家族を没収すること)とするのは、朕は甚だ取らざるところである。これを議せよ。」と。有司は皆言う、「民は自ら治めることができず、故に法を以てこれを禁ずるのである。相坐(連座)して収(没収)するのは、その心を累わせ、法を犯すことを重んじさせる所以であり、その来たるところ遠い。従前のままが便である。」と。上は言う、「朕は聞く、法が正しければ民は愨み、罪が当たれば民は従うと。且つ夫れ、民を牧(治)めてこれを善に導く者は、吏である。その既に導くことができず、また不正の法を以てこれを罪するのは、これは却って民を害して暴を為す者である。何を以てこれを禁じようか。朕はその便を見ず、よくこれを計れ。」と。有司は皆言う、「陛下は大いなる恵みを加えられ、徳甚だ盛んにして、臣等の及ぶところではありません。詔書を奉じ、収帑及び諸々の相坐の律令を除くことを請う。」と。
正月、有司が言う、「早く太子を立てるのは、宗廟を尊ぶ所以です。太子を立てることを請う。」と。上は言う、「朕は既に徳なく、上帝神明は未だ歆享せず、天下の人民には未だ満足の志がない。今、仮令天下の賢聖有徳の人を博く求めて天下を禅ることはできずとも、しかるに予め太子を立てるというのは、これ我が不徳を重くするものである。天下に何と言おうか。これを安んぜよ。」と。有司は言う、「予め太子を立てるのは、宗廟社稷を重んじ、天下を忘れない所以です。」と。上は言う、「楚王は季父であり、春秋(年齢)高く、天下の義理を閲すること多く、国家の大體に明るい。呉王は朕にとっては兄であり、恵み仁くして徳を好む。淮南王は弟であり、徳を秉って朕に陪う。どうして予め備えていないと言えようか!諸侯王・宗室・昆弟(兄弟)に功臣多く、賢多く及び有徳義の者あり、もし有徳を挙げて朕の終められざるに陪えしむれば、これは社稷の霊、天下の福である。今、選挙せずして、しかして必ず子と曰うのは、人は朕を賢有徳の者を忘れて専ら子に専らすと為すであろう、天下を憂うる所以ではない。朕は甚だ取らざるところである。」と。有司は皆固く請うて言う、「古え殷周は国を持ち、治安は皆千余歳、古え天下を持つ者でこれより長きはなく、この道を用いたのである。嗣を立てるには必ず子とし、その来たるところ遠い。高帝は親しく士大夫を率い、始めて天下を平らげ、諸侯を建て、帝たる者の太祖と為された。諸侯王及び列侯で始めて国を受けた者も皆またその国の祖と為る。子孫継嗣し、世々絶えることなく、天下の大義である、故に高帝はこれを設けて海内を撫された。今、宜しく建つべきを釈てて、更に諸侯及び宗室の中から選ぶのは、高帝の志ではない。更に議するに宜しからず。子某最も長く、純厚慈仁、請う、これをもって太子と為すことを建つ。」と。上は乃ちこれを許す。よって天下の民で父の後を代わるべき者に爵各一級を賜い、将軍薄昭を軹侯に封ず。
三月、有司が皇后を立てることを請う。薄太后が言う、「諸侯は皆同姓である、太子の母を立てて皇后とせよ。」と。皇后の姓は竇氏である。上は后を立てる故に、天下の鰥寡孤独窮困及び年八十以上、孤児九歳以下の者に布帛米肉をそれぞれ数有るごとに賜う。上は代より来たり、初めて即位し、徳恵を天下に施し、諸侯四夷を填撫して皆洽く驩び、乃ち代より来たる功臣を循う。上は言う、「方に大臣の諸呂を誅して朕を迎えし時、朕は狐疑し、皆朕を止めしが、唯だ中尉宋昌のみ朕を勧めしにより、朕は以て宗廟を保奉するを得たり。既に昌を尊んで衛将軍と為す、昌を封じて壮武侯と為せ。朕に従いし者六人、官は皆九卿に至る。」と。
上は言う、「列侯で高帝に従い蜀・漢中に入った者六十八人は皆益封し各三百戸、故吏二千石以上で高帝に従った潁川守尊等十人は食邑六百戸、淮陽守申徒嘉等十人は五百戸、衛尉定等十人は四百戸を賜う。淮南王の舅父趙兼を周陽侯に封じ、斉王の舅父駟鈞を清郭侯に封ず。」と。秋、故常山丞相蔡兼を樊侯に封ず。
或る人が右丞相に説いて曰く、「君はもと諸呂を誅し、代王を迎えた。今またその功を誇り、上賞を受け、尊位に処する。禍い将に身に及ばんとす」と。右丞相勃は乃ち病を謝して免罷し、左丞相平専ら丞相となる。
二年十月、丞相平卒す。復た絳侯勃を以て丞相と為す。上曰く、「朕聞く、古者は諸侯国を建つること千余歳、各々その地を守り、時に従い貢ぎを入る。民労苦せず、上下歓欣し、遺徳有ること無しと。今列侯多く長安に居し、邑遠く、吏卒輸送の費苦しく、而して列侯も亦その民を教え馴らす由無し。其れ列侯をして国に之かしめよ。吏たり及び詔の止む所なる者は、太子を遣わすべし」と。
十一月晦、日食有り。十二月望、日又食す。上曰く、「朕之を聞く、天蒸民を生じ、之が為に君を置き以て養い治む。人主徳無く、政を布くこと均しからざれば、則ち天は之に災を以て示し、以て治まらざるを誡む。乃ち十一月晦、日食有り、適に天に見ゆ。災い孰か大なるか是れに大なる。朕宗廟を保ち、微眇の身を以て兆民君王の上に託す。天下の治乱は朕一人に在り。唯だ二三の執政は猶吾が股肱なり。朕下は群生を理め育つること能わず、上は三光の明を累わす。其れ徳無きこと大なり。令至る、其れ悉く朕の過失及び知見思う所の及ばざるを思い、以て朕に告げよ。及び賢良方正能く直言極諫する者を挙げ、以て朕の逮ばざるを匡うべし。因りて各々其の職任を飭し、務めて繇費を省み以て民に便ならしめよ。朕既に遠く徳を施すこと能わず、故に憪然として外人之に非有るを念う。是を以て設備未だ息まず。今縱え辺の屯戍を罷むること能わずと雖も、而して又兵を飭し衛を厚くす。其れ衛将軍の軍を罷めよ。太仆見馬遺る所の財足る。余は皆以て伝置に給せよ」と。
正月、上曰く、「農は天下の本なり。其れ籍田を開け。朕親ら率いて耕し、以て宗廟の粢盛に給せん」と。
三月、有司皇子を立てて諸侯王と為さんことを請う。上曰く、「趙幽王幽死す。朕甚だ之を憐む。已に其の長子遂を立てて趙王と為す。遂の弟辟彊及び斉悼恵王の子朱虚侯章・東牟侯興居功有り。王と為すべし」と。乃ち趙幽王の少子辟彊を立てて河間王と為し、斉の劇郡を以て朱虚侯を立てて城陽王と為し、東牟侯を立てて済北王と為し、皇子武を代王と為し、子参を太原王と為し、子揖を梁王と為す。
上(文帝)曰く、「古、天下を治むるには、朝に進善の旌・誹謗の木あり、以て治道を通じ諫者を来たす所以なり。今、法に誹謗妖言の罪あり、是れ衆臣をして敢えて情を尽くさしめず、而上(朕)過失を聞く由なからしむるなり。将に何を以てか遠方の賢良を来たさん。其れ之を除け。民或いは上を祝詛し以て相約結し、而して後相謾くも、吏之を以て大逆と為し、其れ他言有りて、而して吏又之を以て誹謗と為す。此れ細民の愚にして知無く、死に抵る、朕甚だ取らざる所なり。今より以来、此れを犯す者有らば、治を聴すこと勿れ」。
九月、初めて郡国守相と銅虎符・竹使符を為す。
三年十月丁酉晦、日に食有り。十一月、上曰く、「前日詔して列侯を遣わして国に就かしむるも、或いは辞して未だ行かず。丞相は朕の重んずる所なり、其れ朕が為に列侯を率いて国に就かしめよ」。絳侯周勃、丞相を免ぜられて国に就く。太尉潁陰侯灌嬰を以て丞相と為す。太尉の官を罷め、丞相に属す。四月、城陽王劉章薨ず。淮南王劉長、従者魏敬と与に辟陽侯審食其を殺す。
五月、匈奴北地に入り、河南に居りて寇と為る。帝初めて甘泉に幸す。六月、帝曰く、「漢と匈奴は昆弟と約し、辺境を害せしめざるを以て、匈奴に輸遺する所甚だ厚し。今、右賢王其の国を離れ、衆を将いて河南の降地に居り、常の故に非ず、往来して塞に近づき、吏卒を捕殺し、保塞の蛮夷を駆り、令して其の故に居ることを得ざらしめ、辺吏を陵轢し、入りて盗み、甚だ敖にして道無し、約に非ざるなり。其れ辺吏の騎八万五千を発して高奴に詣らしめ、丞相潁陰侯灌嬰を遣わして匈奴を撃たしめよ」。匈奴去る。中尉の材官を発して衛将軍の軍に属せしめ、長安に軍す。
辛卯、帝甘泉より高奴に至り、因りて太原に幸し、故群臣を見、皆之に賜う。功を挙げ賞を行い、諸民里に牛酒を賜う。晋陽・中都の民を三歳復す。太原に遊留すること十余日。
済北王興居は帝が代(匈奴征伐)に向かうと聞き、胡を撃たんと欲し、乃ち反し、兵を発して滎陽を襲わんとした。ここにおいて詔して丞相の兵を罷め、棘蒲侯陳武を大將軍と為し、十万を将いて往きて之を撃たしむ。祁侯賀を將軍と為し、滎陽に軍す。七月辛亥、帝は太原より長安に至る。乃ち有司に詔して曰く、「済北王は徳に背き上に反し、吏民を詿誤し、大逆を為す。済北の吏民・兵卒は未だ至らざるに先んじて自ら定まり、及び軍地・邑を以て降る者は、皆之を赦し、官爵を復す。王興居と去来したる者も、亦之を赦す」と。八月、済北軍を破り、其の王を虜う。王と反したる済北の諸吏民を赦す。
六年、有司言う、淮南王長は先帝の法を廃し、天子の詔を聴かず、居処に度なく、出入天子に擬し、法令を擅に為し、棘蒲侯の太子奇と謀反し、人を遣わして閩越及び匈奴に使わし、其の兵を発し、以て宗廟社稷を危うくせんと欲す、と。群臣議し、皆曰く「長は市に棄つべし」と。帝は王に法を致すに忍びず、其の罪を赦し、廃して王と為さず。群臣請う、王を蜀の厳道・邛都に処せんことを、帝之を許す。長は処所に到らざるに、行きて病み死す。上之を憐れむ。後十六年、淮南王長を追尊して謚を厲王と為し、其の子三人を立てて淮南王・衡山王・廬江王と為す。
十三年夏、上曰く、「蓋し聞く、天道は禍は怨より起こり、福は徳より興ると。百官の非は、宜しく朕が躬より由るべし。今祕祝の官は過を下に移し、以て吾が不徳を彰わす、朕甚だ取らざる所なり。其れ之を除け」と。
五月、斉の太倉令淳于公は罪有りて刑に当たる。詔獄に逮えられて長安に徙え繫がる。太倉公は男児無く、女五人あり。太倉公将に行かんとして逮えに会い、其の女を罵りて曰く、「子を生むも男を生まず、緩急有るも益無し」と。其の少女緹縈自ら傷みて泣き、乃ち其の父に随いて長安に至り、上書して曰く、「妾が父は吏と為り、斉中皆其の廉平を称す。今法に坐して刑に当たる。妾傷む、夫れ死者は復た生くる可からず、刑者は復た属する可からざるを。復た過ちを改め新たに為さんと欲すと雖も、其の道由る無し。妾願わくは没入して官婢と為り、父の刑罪を贖い、以て自新するを得しめん」と。書、天子に奏す。天子其の意を憐れみ悲しみ、乃ち詔して曰く、「蓋し聞く、有虞氏の時、衣冠を画き章服を異にして以て僇と為すも、而して民犯さず。何ぞ則ち、至治なり。今法に肉刑三有り、而して姦止まず。其の咎安くにか在る。乃ち朕が徳薄くして教え明らかならざるか。吾甚だ自ら愧ず。故に夫れ馴道純ならずして愚民之に陥る。『詩』に曰く『愷悌君子は、民の父母なり』と。今人過ち有り、教え未だ施さずして刑加わる。或いは行いを改めて善を為さんと欲すと雖も、道由る無し。朕甚だ之を憐れむ。夫れ刑、支體を断ち、肌膚を刻むに至り、終身息まず。何ぞ其れ楚痛にして徳ならざるの甚だしきや。豈に民の父母と称するの意ならんや。其れ肉刑を除け」と。
上曰く、「農は天下の本なり。務、此れより大なるは莫し。今勤めて身を事に従事するも租税の賦有り。是れ本末を為す者に以て異なる無く、其れ農を勧むるの道備わらず。其れ田の租税を除け」と。
十四年の冬、匈奴は謀りて辺境に入り寇と為らんとし、朝那塞を攻め、北地都尉卬を殺す。上は乃ち三将軍を遣わして隴西・北地・上郡に軍せしめ、中尉周舍を衛将軍と為し、郎中令張武を車騎将軍と為し、渭北に軍し、車千乗、騎卒十万。帝自ら軍を労し、兵を勒して教令を申べ、軍吏卒に賜う。帝自ら将として匈奴を撃たんと欲す。群臣諫むるも、皆聴かず。皇太后固く帝に要す。帝乃ち止む。ここにおいて東陽侯張相如を大将軍と為し、成侯赤を内史と為し、欒布を将軍と為し、匈奴を撃たしむ。匈奴遁走す。
春、上曰く、「朕犠牲珪幣を執り獲て以て上帝宗廟に事へること、今に至るまで十四年、歴日綿長、不敏不明を以て久しく天下を撫臨する、朕甚だ自ら愧づ。其れ諸祀の墠場珪幣を広く増せよ。昔、先王は遠く施して其の報を求めず、望祀して其の福を祈らず、賢を右にし戚を左にし、民を先にし己を後にす、至明の極みなり。今吾聞く、祠官の祝釈は、皆福を朕躬に帰し、百姓の為にせずと。朕甚だ之を愧づ。夫れ朕の不徳を以て、躬に独り其の福を享け美しむは、百姓与からず、是れ吾が不徳を重くす。其れ祠官に令して敬を致さしめ、祈る所無からしめよ」と。
是の時、北平侯張蒼丞相と為り、方に律暦を明らかにす。魯の人公孫臣上書して終始伝五徳の事を陳べ、言う方今土徳の時、土徳は応に黄龍見るべし、正朔服色制度を改正すべしと。天子其の事を下して丞相と議わしむ。丞相推して以て今水徳、始めて正に十月上黒の事を明らかにすと為し、以て其の言是に非ずと為し、之を罷むるを請う。
十五年、黄龍成紀に見ゆ。天子乃ち復た魯の公孫臣を召し、以て博士と為し、土徳の事を申明せしむ。ここにおいて上乃ち詔を下して曰く、「異物の神有りて成紀に見ゆ。民に害無く、歳以て年有り。朕親しく郊祀して上帝諸神に礼す。礼官議せよ、労を以て朕を諱むること無かれ」と。有司礼官皆曰く、「古者、天子夏に躬親して礼し上帝を郊に祀る。故に郊と曰う」と。ここにおいて天子始めて雍に幸し、郊にて五帝を見、孟夏四月を以て礼に答う。趙の人新垣平望気を以て見え、因りて上に説き渭陽に五廟を設立せんとす。周鼎を出さんと欲し、当に玉英見るべし。
十六年、上親しく郊にて渭陽五帝廟を見、亦た夏を以て礼に答え、尚赤とす。
十七年、玉杯を得、刻して曰く「人主延壽」と。ここにおいて天子始めて更めて元年と為し、天下に大酺を令す。その歳、新垣平の事覚え、三族を夷す。
後二年、上曰く「朕既に明ならず、遠く徳を能わず、是を以て方外の国或いは寧息せず。夫れ四荒の外其の生を安んぜず、封畿の内勤労して処らず、二者の咎、皆朕の徳薄くして遠く達せざるに自るなり。間者累年、匈奴並びに辺境を暴し、多く吏民を殺し、辺臣兵吏又吾が内志を諭する能わず、以て吾が不徳を重くす。夫れ久しく難を結び兵を連ね、中外の国将に何を以て自ら寧からんや。今朕夙に興き夜に寐、天下に勤労し、万民を憂苦し、之が為に怛惕して安からず、未だ嘗て一日も心に忘れず、故に使者を遣わし冠蓋相望み、軼を道に結び、以て朕の意を単于に諭す。今単于古の道に反り、社稷の安を計り、万民の利を便にし、親しく朕と俱に細過を棄て、之と大道に偕し、兄弟の義を結び、以て天下の元元の民を全うす。和親已に定まり、今年より始まる」と。
後六年冬、匈奴三万人上郡に入り、三万人雲中に入る。中大夫令勉を以て車騎将軍と為し、飛狐に軍す。故楚相蘇意を将軍と為し、句注に軍す。将軍張武北地に屯す。河内守周亜夫を将軍と為し、細柳に居る。宗正劉礼を将軍と為し、霸上に居る。祝茲侯棘門に軍す。以て胡に備う。数月、胡人去り、亦罷む。
天下旱魃し、蝗あり。帝恵を加う。諸侯に入貢せしめず、山沢を弛め、諸の服御狗馬を減じ、郎吏の員を損じ、倉庾を発して貧民を振ひ、民爵を売るを得しむ。
孝文帝代より来たり、即位二十三年、宮室苑囿狗馬服御増益する所無く、不便あれば、輒ち弛めて民に利せしむ。嘗て露台を作らんと欲し、匠を召して之を計らしむ、直百金。上曰く「百金は中民十家の産なり、吾先帝の宮室を奉じ、常に之を羞じるを恐る、何を以て台を為さんや」と。上常に綈衣を衣、幸する所の慎夫人、衣地を曳くことを得ざらしめ、幃帳文繡することを得ざらしめ、以て敦樸を示し、天下の先と為す。霸陵を治むるに皆瓦器を以てし、金銀銅錫を以て飾ることを得ざらしめ、墳を治めず、省めんと欲し、民を煩わすこと無からしむ。南越王尉佗自ら立って武帝と為るも、然れども上尉佗兄弟を召して貴び、以て徳を以て之に報い、佗遂に帝号を去り臣と称す。匈奴と和親し、匈奴約に背き入り盗むも、然れども辺に備守を令し、兵を発して深入せず、百姓を煩苦するを悪む。呉王病を詐りて朝せず、就いて幾杖を賜う。群臣袁盎等の如き称説切なりと雖も、常に仮借して之を用う。群臣張武等の如き賂遺金銭を受け、覚え、上乃ち御府の金銭を発して之を賜い、以て其の心を愧じしめ、吏に下さず。専ら務めて徳を以て民を化す、是を以て海内殷富にして、礼義に興る。
後七年六月己亥、帝は未央宮にて崩御す。遺詔して曰く、「朕聞く、蓋し天下万物の萌生するは、死なざるは莫しと。死は天地の理、物の自然なる者、何ぞ甚だ哀しむべけんや。当今の時、世は咸な生を嘉しみて死を悪み、厚葬以て業を破り、重服以て生を傷つく、吾は甚だ取らざる所なり。且つ朕既に徳無く、以て百姓を佐くる無し。今崩ずるに、又た重服久しく臨むことを使ひ、以て寒暑の数を離れ、人の父子を哀しみ、長幼の志を傷つけ、其の飲食を損じ、鬼神の祭祀を絶ち、以て吾が不徳を重くす、天下を謂ふ何ぞや。朕宗廟を保つことを獲、眇々たる身を以て天下君王の上に託すること、二十有餘年なり。天地の霊、社稷の福に頼り、方内安寧、兵革有ること莫し。朕既に敏ならず、常に行ひ過ぐるを畏れ、以て先帝の遺徳を羞づ。年久長なるを維れども、終わらざるを懼る。今乃ち幸ひに天年を以て、復た高廟に供養するを得たり。朕の明らかならざるも之を嘉しむ、其れ何ぞ哀悲すること有らんや。其れ天下の吏民に令し、令到るに臨み三日を出だし、皆服を釈せよ。婦を取り女を嫁し祠祀し酒を飲み肉を食ふ者を禁むる毋れ。自ら喪事に服し臨むに当たる者は、皆践むこと無からしめよ。绖帯三寸を過ぐること無く、車及び兵器を布くこと無く、民男女を発して宮殿に哭臨せしむること無かれ。宮殿中に臨むに当たる者は、皆旦夕に各十五声を挙げ、礼畢りて罷めよ。旦夕臨む時に非ざれば、擅に哭するを得ざるを禁ぜよ。已に下り、大紅十五日、小紅十四日、纖七日服し、服を釈せよ。佗の令中に在らざる者は、皆此の令に比率して事に従へ。天下に布告し、朕が意を明知せしめよ。霸陵の山川は其の故に因り、改むる所有ること毋れ。夫人以下少使に帰せしめよ。」と。中尉亞夫をして車騎將軍と為し、屬國悍を将屯將軍と為し、郎中令武を復土將軍と為し、近縣の見卒萬六千人を発し、内史卒萬五千人を発し、藏郭穿復土を將軍武に属せしむ。
乙巳、群臣皆頓首して尊號を上りて孝文皇帝と曰ふ。
太子高廟に即帝位す。丁未、號を襲ひて皇帝と曰ふ。
孝景皇帝元年十月、御史に制詔して曰く、「蓋し聞く、古者は祖に功有りて宗に徳有り、礼楽を制する各由有りと。歌ふ者は、徳を発する所以なり。舞ふ者は、功を明らかにする所以なり。高廟酎に、武徳・文始・五行の舞を奏す。孝惠廟酎に、文始・五行の舞を奏す。孝文皇帝天下に臨み、関梁を通じ、遠方を異にせず。誹謗を除き、肉刑を去り、長老を賞賜し、孤独を収恤し、以て群生を育つ。嗜欲を減じ、献を受けず、其の利を私せず。罪人を帑せず、無罪を誅せず。(肉)[宮]刑を除き、美人を出だし、人の世を絶つことを重んず。朕既に敏ならず、識ること能はず。此れ皆上古の及ばざる所にして、孝文皇帝親しく之を行へり。徳厚く天地に侔ひ、利沢四海に施し、福を獲ざる莫し。明らかなること日月に象るも、廟楽称せず。朕甚だ懼る。其れ孝文皇帝廟の為に昭徳の舞を為し、以て休徳を明らかにせよ。然る後に祖宗の功徳竹帛に著はれ、萬世に施こり、永永窮ること無からん、朕甚だ之を嘉す。其れ丞相・列侯・中二千石・禮官と具はり禮儀を奏せよ。」と。丞相臣嘉等言ふ、「陛下永く孝道を思ひ、昭徳の舞を立て以て孝文皇帝の盛徳を明らかにせんとす。皆臣嘉等の愚の及ばざる所なり。臣謹みて議す。世の功は高皇帝より大なる莫く、徳は孝文皇帝より盛んなる莫し。高皇廟は宜しく帝者の太祖の廟と為すべく、孝文皇帝廟は宜しく帝者の太宗の廟と為すべし。天子は宜しく世々祖宗の廟に献ずべし。郡國諸侯は宜しく各孝文皇帝の為に太宗の廟を立つべし。諸侯王列侯使者天子に侍祠し、歳々祖宗の廟に献ず。請ふ竹帛に著し、天下に宣布せん。」と。制して曰く、「可。」
評論
太史公が曰く、孔子は言う「必ず一世を経て然る後に仁となる。善人の国を治めること百年、亦た以て残を勝ち殺を去るべし」と。誠に是の言なるかな。漢興りて、孝文に至ること四十余載、徳至って盛んなり。廩廩として正朔を改め服色を易え封禅を行わんとすれども、謙譲にして未だ今に成らず。嗚呼、豈に仁ならざらんや。
【索隠述賛】孝文代に在りしとき、兆大横に遇う。宋昌冊を建て、絳侯奉迎す。南面して譲り、天下誠に帰す。農を務めて籍を先にし、徳を布き兵を偃ぐ。帑を除き謗を削ぎ、政簡にして刑清し。綈衣以て俗に率い、露臺の営みを罷む。法は張武に寛く、獄は緹縈を恤しむ。霸陵故の如く、千年頌声あり。