后稷
周の后稷は、名を棄という。その母は有邰氏の女で、姜原という。姜原は帝嚳の元妃であった。姜原が野に出て、巨人の足跡を見つけ、心に嬉しく思い、それを踏みつけようとしたところ、踏むと身が動いて妊娠したようになった。月満ちて子を生んだが、不吉だと思い、狭い路地に棄てた。馬や牛が通りかかっても皆避けて踏まず、林の中に移し置くと、ちょうど山林に人が多かったので、移し去った。そして渠の中の氷の上に棄てると、飛ぶ鳥がその翼で覆い薦を敷いた。姜原は神だと思い、遂に収養して育てた。初めに棄てようとしたので、名を棄とつけた。
棄が幼い時、巨人の志のように高かった。その遊戯は、種を植え樹木や麻・菽を好み、麻・菽は美しかった。成人すると、遂に耕作農事を好み、土地の適宜を観察し、穀物に適した所で耕作し、民は皆これを法則とした。帝堯がこれを聞き、棄を挙げて農師とし、天下はその利益を得て、功績があった。帝舜が言うには、「棄よ、民衆が初めて飢えた時、汝后稷が百穀を播いた。」棄を邰に封じ、号を后稷といい、別に姓を姫氏とした。后稷の興隆は、陶唐・虞・夏の時代にあり、皆良い徳があった。
不窋、鞠、公劉
后稷が卒し、子の不窋が立つ。不窋の末年、夏后氏の政衰え、稷の官を去り務めず、不窋はその官を失い、戎狄の間に奔る。不窋が卒し、子の鞠が立つ。鞠が卒し、子の公劉が立つ。公劉は戎狄の間に在りながらも、復た后稷の業を修め、耕種に務め、地の宜しきを行い、漆・沮より渭を渡り、材用を取り、行く者は資を有し、居る者は畜積有り、民その慶に頼る。百姓これを懐き、多く徙りて保ち帰る。周道の興は此より始まる、故に詩人は歌楽してその徳を思う。公劉が卒し、子の慶節が立ち、豳に国す。
慶節、皇仆、差弗、毀隃、公非、高圉、亞圉、公叔祖類、古公亶父
慶節が卒し、子の皇仆が立つ。皇仆が卒し、子の差弗が立つ。差弗が卒し、子の毀隃が立つ。毀隃が卒し、子の公非が立つ。公非が卒し、子の高圉が立つ。高圉が卒し、子の亞圉が立つ。亞圉が卒し、子の公叔祖類が立つ。公叔祖類が卒し、子の古公亶父が立つ。古公亶父は復た后稷・公劉の業を修め、徳を積み義を行い、国人皆これを戴く。薰育の戎狄これ攻め、財物を得んと欲す、これを与う。已にして復た攻め、地と民を得んと欲す。民皆怒り、戦わんと欲す。古公曰く、「民有りて君を立てるは、将に以て之を利せんとす。今戎狄の攻戦する所は、吾が地と民とを以てす。民の我に在るも、彼に在るも、何ぞ異ならん。民我が故を以て戦わんと欲し、人の父子を殺して之を君とせんは、予忍びて為さず」と。乃ち私属と遂に豳を去り、漆・沮を渡り、梁山を踰え、岐下に止まる。豳人は国を挙げて老を扶け弱を携え、尽く復た古公に帰る岐下に。及び他の旁国古公の仁を聞き、亦多く之に帰す。ここにおいて古公は乃ち戎狄の俗を貶め、而して城郭室屋を営筑し、而して邑を別けて之に居らしむ。五官有司を作す。民皆歌楽して之を頌え、その徳を頌う。
季
古公には長子がいて太伯といい、次を虞仲といった。太姜が末子の季歴を生んだ。季歴は太任を娶ったが、二人とも賢婦人であり、昌を生んだ。昌には聖なる瑞兆があった。古公は言った、「我が世に必ず興る者があるであろう。それは昌においてか」と。長子の太伯と虞仲は、古公が季歴を立てて昌に伝えようと欲していることを知り、二人は荊蛮の地へ逃亡し、身に文身を施し髪を断ち、季歴に譲ったのである。
古公が卒すると、季歴が立ち、これを公季という。公季は古公の遺した道を修め、行義に篤く、諸侯はこれに従った。
周文王
公季が卒すると、子の昌が立ち、これを西伯という。西伯は文王と称され、后稷・公劉の業を遵奉し、古公・公季の法を則り、仁に篤く、老を敬い、少を慈しんだ。賢者には礼を尽くして下し、日が中天になっても食事の暇もなく士を待ったので、士はこれによって多く帰附した。伯夷・叔齊は孤竹にいたが、西伯がよく老を養うと聞き、どうして帰らぬことがあろうかと、共に帰った。太顛・閎夭・散宜生・鬻子・辛甲大夫の徒も皆、帰ったのである。
崇侯虎が殷の紂王に西伯を讒言して言った、「西伯は善を積み徳を重ね、諸侯は皆これに向かっています。帝に不利となろう」と。帝紂はそこで西伯を羑里に囚えた。閎夭の徒はこれを憂えた。そこで有莘氏の美女、驪戎の文馬、有熊の九駟、その他の奇怪な物を求め、殷の寵臣費仲を通じて紂に献上した。紂は大いに喜び、言った、「この一つの物だけでも西伯を釈放するに足る。ましてやその多いことよ」と。そこで西伯を赦し、これに弓矢と斧鉞を賜い、西伯に征伐を行うことを許した。そして言った、「西伯を讒言したのは、崇侯虎である」と。西伯はそこで洛西の地を献上し、紂に炮烙の刑を廃するよう請うた。紂はこれを許した。
西伯はひそかに善行を施し、諸侯は皆、争いの裁決を求めて来た。ここにおいて虞・芮の者が訴訟があって決することができず、周に行った。国境に入ると、耕す者は皆、畦道を譲り、民の風俗は皆、年長者を譲った。虞・芮の者は西伯に会わずして、皆、恥じ、互いに言うには、「我々の争いは、周人の恥じるところである。どこへ行こうか、ただ辱めを受けるだけだ」と。そこで帰り、共に譲って去った。諸侯はこれを聞き、「西伯はまさに天命を受けた君主であろう」と言った。
翌年、犬戎を討った。翌年、密須を討った。翌年、耆国を破った。殷の祖伊はこれを聞き、恐れて帝紂に告げた。紂は言った、「天命があるではないか。これが何を為せようか」と。翌年、邘を討った。翌年、崇侯虎を討った。そして豊邑を造営し、岐山の下から都を豊に移した。翌年、西伯が崩じ、太子発が立ち、これが武王である。
周武王
西伯は即位して五十年であった。その羑里に囚われた時、おそらく易の八卦を増やして六十四卦としたのであろう。詩人が西伯を称えるのは、おそらく天命を受けた年に王と称して虞・芮の訴訟を裁断したからである。その後十年で崩じ、諡して文王とした。法度を改め、正朔を制定した。古公を追尊して太王とし、公季を王季とした。おそらく王者の瑞祥は太王から興ったのであろう。
武王が即位すると、太公望を師とし、周公旦を補佐とし、召公・畢公の徒が王の左右に仕え、文王の遺業を修めた。
九年、武王は畢に上って祭祀を行った。東へ兵を観兵し、盟津に至った。文王の木主を作り、車に載せて中軍に置いた。武王は自ら太子発と称し、文王を奉じて伐つことを言い、敢えて自ら専断しないと述べた。そこで司馬・司徒・司空・諸節に告げて言った、「斉しく慄よ、信じよ。我は無知であるが、先祖に徳ある臣があり、小子は先人の功績を受け継ぎ、賞罰を尽くして立て、その功績を定めよう」。こうして師を興した。師尚父が号令して言った、「総て爾らの衆庶よ、爾らの舟楫とともに、後至る者は斬る」。武王が河を渡り、中流に至ると、白魚が躍り上がって王の舟の中に入った。武王はうつむいてこれを取り、祭祀に用いた。渡り終えると、火が上から下へ覆い、王の屋上に至り、流れて烏となり、その色は赤く、その声は魄のようであった。この時、期せずして盟津に会した諸侯は八百諸侯であった。諸侯は皆言った、「紂を伐つべし」。武王は言った、「汝らは天命を知らず、未だ可からず」。そこで師を還して帰った。
二年を経て、紂の昏乱暴虐がますます甚だしいと聞き、王子比干を殺し、箕子を囚えた。太師疵・少師彊がその楽器を抱えて周に奔った。ここにおいて武王は諸侯に遍く告げて言った、「殷に重罪あり、畢く伐たざるべからず」。そこで文王に遵い、遂に戎車三百乗、虎賁三千人、甲士四万五千人を率い、東へ向かって紂を伐った。十一年十二月戊午、師はことごとく盟津を渡り、諸侯は皆会した。言った、「孳孳として怠るなかれ」。武王はそこで『太誓』を作り、衆庶に告げて言った、「今殷王紂はその婦人の言を用い、自ら天に絶ち、その三正を毀壊し、その王父母弟を離逖し、その先祖の楽を断棄し、淫声を作り、正声を変乱して用い、婦人を怡説す。故に今我が発、維れ天罰を行わんとす。勉めよ夫子、再びすべからず、三たびすべからず」。
二月甲子の昧爽、武王は朝して商郊牧野に至り、そこで誓った。武王は左に黄鉞を杖き、右に白旄を秉り、以て麾した。言った、「遠きかな西土の人」。武王は言った、「嗟、我が国に冢君あり、司徒・司馬・司空、亞旅・師氏、千夫長・百夫長、及び庸・蜀・羌・髳・微・纑・彭・濮の人、爾らの戈を称げ、爾らの干を比べ、爾らの矛を立てよ、我その誓いをなさん」。王は言った、「古人に言有り『牝鶏晨をなさず。牝鶏の晨をなすは、惟れ家の索ぶるなり』。今殷王紂は維れ婦人の言を用い、自らその先祖の肆祀を棄てて答えず、昏くその家国を棄て、その王父母弟を遺して用いず、乃ち維れ四方の多罪逋逃を是れ崇め是れ長び、是れ信じ是れ使い、百姓に暴虐を俾て、商国に姦軌を行わしむ。今我が発、維れ天の罰を行わんとす。今日の事、六歩七歩を過ぎず、乃ち止まって斉えよ、夫子勉めよ。四伐五伐六伐七伐を過ぎず、乃ち止まって斉えよ、勉めよ夫子。尚れ桓桓たり、虎の如く羆の如く、豺の如く離の如く、商郊に於いて、克ちて奔るを御がず、以て西土に役せしめよ、勉めよ夫子。爾の勉めざる所は、其れ爾の身に戮有らん」。誓い已り、諸侯の兵会する者、車四千乗、牧野に師を陳いた。
帝紂は武王の来襲を聞き、また兵七十万人を発して武王を防がせた。武王は師尚父に百夫を率いて敵陣に挑ませ、大卒をもって帝紂の軍を突き崩した。紂の軍は衆多であったが、皆戦う心がなく、心の中で武王の速やかな進入を望んでいた。紂の軍は皆矛先を転じて戦い、武王の進路を開いた。武王が突撃すると、紂の兵は皆崩れて紂に背いた。紂は逃げ、引き返して鹿台の上に登り、珠玉を衣に包み、自ら火中に身を投じて死んだ。武王は大白旗を掲げて諸侯を指揮し、諸侯は皆武王に拝礼した。武王は諸侯に揖し、諸侯は皆従った。武王が商の国都に至ると、商国の百姓は皆郊外で待っていた。ここにおいて武王は群臣に命じて商の百姓に告げさせた、「上天が吉慶を降された」。商人は皆再拝稽首し、武王もまた答拝した。遂に入城し、紂の死んだ場所に至った。武王は自ら矢を射かけ、三発放ってから下車し、軽剣でこれを撃ち、黄鉞で紂の首を斬り、大白旗に掲げた。やがて紂の寵妾二人のところに至ると、二人の女は皆首を吊って自殺していた。武王はまた三発矢を射かけ、剣で撃ち、玄鉞で首を斬り、その首を小白旗に掲げた。武王はその後出て軍に戻った。
その翌日、道を清め、社と商紂の宮殿を修復した。期日に及んで、百夫が罕旗を担いで先導した。武王の弟叔振鐸は常車を奉じて進み、周公旦は大鉞を握り、畢公は小鉞を握って、武王を挟んで護衛した。散宜生・太顛・閎夭は皆剣を執って武王を衛した。社に入ると、社の南の大卒の左に立ち、左右の者皆従った。毛叔鄭は明水を奉じ、衛康叔封は筵を敷き、召公奭は采を捧げ、師尚父は犠牲を牽いた。尹佚が策祝して曰く、「殷の末孫季紂は、先王の明徳を絶ち廃し、神祇を侮蔑して祀らず、商邑の百姓に昏暴を加え、その罪状は天皇上帝に顕著に聞こえている」。ここにおいて武王は再拝稽首し、曰く、「大命を膺け受け、殷を革め、天の明命を受く」。武王はまた再拝稽首し、乃ち退出した。
商紂の子祿父に殷の余民を封じた。武王は殷が初めて平定され未だ安定せず、乃ち弟の管叔鮮・蔡叔度をして祿父を輔け殷を治めさせた。やがて召公に命じて箕子の囚を釈放させた。畢公に命じて百姓の囚を釈放させ、商容の閭に表を立てた。南宮括に命じて鹿台の財を散じ、鉅橋の粟を発して、貧弱な民や隷を救済させた。南宮括・史佚に命じて九鼎と宝玉を展示させた。閎夭に命じて比干の墓を封じさせた。宗祝に命じて軍中で祭祀を行わせた。乃ち兵を罷めて西に帰還した。行く途次に狩猟し、政事を記録し、『武成』を作った。諸侯を封じ、宗廟の彝器を分け与え、『分殷之器物』を作った。武王は先聖王を追思し、乃ち神農の後を焦に、黄帝の後を祝に、帝堯の後を薊に、帝舜の後を陳に、大禹の後を杞に褒めて封じた。ここにおいて功臣謀士を封じ、師尚父を首封とした。尚父を営丘に封じ、斉と曰う。弟周公旦を曲阜に封じ、魯と曰う。召公奭を燕に封じた。弟叔鮮を管に、弟叔度を蔡に封じた。その余は各々順次に封を受けた。
武王は九牧の君を召し、豳の丘に登り、商邑を望んだ。武王が周に至ると、夜も寝ずに過ごした。周公旦が王の居所に来て、「何故眠られぬか」と問うた。王は曰く、「汝に告げよう。天は殷を饗けず、我が父発が生まれる前から今に至る六十年、麋鹿が牧に在り、飛鴻が野に満ちている。天が殷を享けず、今や成功したのである。天が殷を建てた時、名ある民三百六十人を登用したが、顕れることもなく、また滅ぼし去ることもなく、今日に至っている。我は未だ天保を定めず、何の暇があって眠れようか」。王は曰く、「天保を定め、天室に依り、悉く悪しき者を求め、殷王受に従って貶める。日夜労して我が西土を定め、我は顕かに服従し、徳が方に明らかになる。洛汭より伊汭に延び、平易で堅固ならず、これ夏の居たところである。我は南に三涂を望み、北に嶽の鄙を望み、顧みて河有り、雒・伊を望み、天室に遠からざらん」。周の居を雒邑に営んで後に去った。馬を華山の陽に放ち、牛を桃林の虚に放ち、干戈を伏せ、兵を振り返り旅を解いて、天下に再び用いないことを示した。
武王は既に殷を平定した後、二年を経て、箕子に殷が滅んだ所以を問うた。箕子は殷の悪事を口にするに忍びず、存亡の国の道を以て告げた。武王もまた恥じたので、天道を以て問うた。
武王が病んだ。天下は未だ集まらず、群公は懼れ、穆卜を行い、周公は乃ち祓齋し、自ら質となり、武王に代わらんと欲した。武王は病癒した。後に崩じ、太子誦が代わって立ち、是を成王と為す。
周の成王
成王は幼く、周は初めて天下を定め、周公は諸侯が周に叛くを恐れ、公は乃ち摂政して国を執り行った。管叔・蔡叔ら群弟は周公を疑い、武庚と共に乱を起こし、周に叛いた。周公は成王の命を奉じ、武庚・管叔を伐ち誅し、蔡叔を放った。微子開を以て殷の後を代えさせ、宋に国を建てた。殷の余民を頗る収め、以て武王の少弟封を衛康叔に封じた。晋の唐叔は嘉穀を得て、之を成王に献じ、成王は以て周公に兵所に帰した。周公は禾を東土に受け、魯天子の命に応じた。初め、管・蔡が周に叛き、周公が之を討ち、三年にして畢く定まった。故に初めに『大誥』を作り、次に『微子之命』を作り、次に『帰禾』、次に『嘉禾』、次に『康誥』・『酒誥』・『梓材』を作り、其の事は周公の篇に在り。周公は行政七年、成王が成長し、周公は政を成王に返し、北面して群臣の位に就いた。
成王は豊に在り、召公をして復た洛邑を営ませ、武王の意の如くせしめた。周公は復た卜して申し視、卒に営筑し、九鼎を居く。曰く「此れ天下の中、四方の貢を入るる道里均し」と。『召誥』・『洛誥』を作る。成王は既に殷の遺民を遷し、周公は王命を以て告げ、『多士』・『無佚』を作る。召公は保と為り、周公は師と為り、東伐して淮夷を伐ち、奄を残し、其の君薄泵を遷す。成王は奄より帰り、宗周に在り、『多方』を作る。既に殷の命を絀き、淮夷を襲い、豊に帰り、『周官』を作る。礼楽を興し正し、度制は是に於いて改まり、而して民和睦し、頌声興る。成王は既に東夷を伐ち、息慎来り賀し、王は栄伯に賜いて『賄息慎之命』を作らしむ。
周の康王
成王が崩ぜんとするに当たり、太子釗の任に堪えぬことを懼れ、乃ち召公・畢公に命じて諸侯を率い太子を輔け立てしむ。成王既に崩ずると、二公は諸侯を率い、太子釗を以て先王の廟に見え、文王・武王の王業を為す所以の不易なるを申し告げ、務めて節儉に在り、多く欲すること毋く、以て篤信を以て之に臨むべしとし、『顧命』を作る。太子釗遂に立ち、是を康王と為す。康王即位し、遍く諸侯に告げ、文武の業を以て宣告して之を申べ、『康誥』を作る。故に成康の際、天下安寧し、刑錯すること四十餘年用いず。康王、策を作りしむるに畢公を命じて居里を分かち、周郊を成し、『畢命』を作る。
周の昭王
康王卒し、子の昭王瑕立つ。昭王の時、王道微かに缺く。昭王南に巡狩して返らず、江上に卒す。其の卒するを赴告せず、之を諱むなり。昭王の子満を立て、是を穆王と為す。
周の穆王
穆王が即位したとき、春秋(年齢)すでに五十であった。王道が衰え微んだので、穆王は文王・武王の道が欠けていることを憂い、伯臩に命じて太仆の国の政を戒めさせ、『臩命』を作らせた。再び安寧となった。
穆王が犬戎を征伐しようとしたとき、祭公謀父が諫めて言うには、「なりませぬ。先王は徳を輝かせて兵を見せびらかしませんでした。そもそも兵はしまっておいて時機に応じて動かすもので、動かせば威があり、見せびらかせば侮られ、侮られれば畏れられません。それゆえ周文公の頌に、『干戈を載せてしまい、弓矢を櫜に納め、我は懿徳を求め、これを時夏(この中国)に広め、まことに王はこれを保つ』とあります。先王の民に対するのは、その徳を盛んに正し、その性を厚くし、その財を豊かにしその求めるものを満たし、その器用を利するようにし、利害の向かうところを明らかにし、文徳をもってこれを修め、民に利を務めて害を避けさせ、徳を懐き威を畏れるようにさせたので、世を保ってますます大いになることができたのです。昔、我が先王は代々后稷として虞・夏に服事しました。夏が衰えたとき、稷(農事)を棄てて務めなかったので、我が先王の不窋は官を失い、自ら戎狄の間に逃れました。業を怠ることを敢えてせず、時にその徳を積み重ね、その業績を遵修し、その訓典を修め、朝夕慎み勤め、敦篤をもって守り、忠信をもって奉じました。代々徳を積み、前人に辱かしめることはありませんでした。文王・武王に至っては、前人の光明を明らかにし、これに慈和を加え、神に事え民を保ち、喜ばない者はありませんでした。商王の帝辛は民に大いに悪を行い、庶民は耐えられず、武王を歓呼して載せ、ついに商牧において戎(戦い)を致しました。それゆえ先王は武を務めたのではなく、民の苦しみを憂い慰めてその害を除いたのです。そもそも先王の制度では、邦内は甸服、邦外は侯服、侯衛は賓服、夷蠻は要服、戎翟は荒服です。甸服は祭を、侯服は祀を、賓服は享を、要服は貢を、荒服は王(朝覲)をします。日ごとに祭、月ごとに祀、季節ごとに享、年ごとに貢、一代の終わりに王(朝覲)します。先王が順序に従って祀りを求めるのは、祭がないならば意(志)を修め、祀がないならば言(号令)を修め、享がないならば文(典法)を修め、貢がないならば名(尊卑の名分)を修め、王(朝覲)がないならば徳を修め、順序が整ってなお至らないものがあれば刑を修めるのです。ここに祭をしないものには刑を、祀をしないものには伐を、享をしないものには征を、貢をしないものには譲(責め)を、王(朝覲)をしないものには告(文告)を加えます。ここに刑罰の法があり、攻伐の兵があり、征討の備えがあり、威譲の命があり、文告の辞があるのです。令を布き辞を陳べてなお至らないものがあれば、徳を増して修め、遠くで民を労することはありません。これによって近くは聴かないものなく、遠くは服さないものはありませんでした。今、大畢・伯士が終わって以来、犬戎氏はその職(貢)をもって王(朝覲)に来ています。天子が『我は必ず享をしないことを理由にこれを征し、かつその兵を見せびらかそう』と言われるのは、先王の訓えを廃し、王業がほとんど頓挫するのではないでしょうか。私は聞きます、犬戎は敦厚を樹て、旧徳に従って終始を守り純固であると。彼らには我らを防ぐだけのものがあるでしょう」と。王はついにこれを征し、四頭の白狼と四頭の白鹿を得て帰った。これより荒服の者は来なくなった。
諸侯に和睦しない者がいたので、甫侯が王に言上し、『修刑辟』を作った。王は言うには、「ああ、来たれ!国と土を持つ者よ、汝らに祥(善)き刑を告げよう。今、汝らが百姓を安んずるには、何を選ぶか、その人(人材)でなくて何か、何を敬うか、その刑でなくて何か、何を居(処)するか、その宜しきことでなくて何か。両造(原告・被告)が具われば、師(士師)が五辞(五種の供述)を聴く。五辞が簡明で信実ならば、五刑によって正す。五刑に合わなければ、五罰によって正す。五罰に服さなければ、五過によって正す。五過の疵(欠点)は、官獄(公務上の罪)と内獄(私的な罪)とがあり、その罪を調べて実証し、その過ちに均しくする。五刑の疑わしいものは赦し、五罰の疑わしいものは赦す。よく審らかにして決せよ。簡明で信実であることは衆にあり、訊問には稽考(証拠)がある。簡明でなければ疑わしく、共に天威を厳かにせよ。黥刑の罪で疑わしく赦すときは、その罰は百率(鍰)とし、その罪を調べて実証する。劓刑の罪で疑わしく赦すときは、その罰は倍灑(二百鍰)とし、その罪を調べて実証する。臏刑の罪で疑わしく赦すときは、その罰は倍差(五百鍰)とし、その罪を調べて実証する。宮刑の罪で疑わしく赦すときは、その罰は五百率(鍰)とし、その罪を調べて実証する。大辟の罪で疑わしく赦すときは、その罰は千率(鍰)とし、その罪を調べて実証する。墨罰の類は千、劓罰の類は千、臏罰の類は五百、宮罰の類は三百、大辟の罰の類は二百:五刑の類は三千である」と。これを甫刑と命じた。
周の共王
穆王が立つこと五十五年、崩じ、子の共王繄扈が立つ。共王が涇のほとりに遊ぶとき、密康公が従い、三人の女が彼のもとに奔った。その母が言うには、「必ず王に致せ。獣は三つで群れとなり、人は三人で衆となり、女は三人で粲となる。王の田猟は群れを取らず、公の行いは衆を下さず、王の御すは一族を参じない。粲は美しい物である。衆が美物を汝に帰する、汝は何の徳をもってこれに堪えようか。王でさえ堪えられない、まして汝のような小醜であろうか。小醜が物を備えるは、終には必ず亡ぶ。」康公は献上せず、一年にして、共王は密を滅ぼす。共王崩じ、子の懿王艱が立つ。
周の懿王
懿王の時、王室は遂に衰え、詩人が刺を作る。
周の夷王
懿王崩じ、共王の弟の辟方が立つ、これが孝王である。孝王崩じ、諸侯は再び懿王の太子の燮を立てる、これが夷王である。
周の厲王
夷王が崩じ、子の厲王胡が立つ。厲王が即位して三十年、利を好み、榮夷公に近づく。大夫の芮良夫が厲王を諫めて曰く、「王室はまさに卑しくなろうとするか。夫れ榮公は専利を好んで大難を知らず。夫れ利は、百物の生ずる所、天地の載する所にして、しかもこれを専有すれば、その害多し。天地百物皆これより取らんとす、どうして専有できようか。怒らしむる所甚だ多く、大難を備えず。これをもって王を教うれば、王はまさに久しからんや。夫れ人を王とする者は、利を導きてこれを上下に布かんとする者なり。神人百物をして極を得ざることなからしめ、なお日々に怵惕して怨みの来るを懼る。故に『頌』に曰く『文なる后稷を思い、よく彼の天に配し、我が蒸民を立て、爾の極に匪ならざるは莫し』と。大雅に曰く『錫を陳べて周を載す』と。これは利を布かずして難を懼れたからではないか、故に周を載せて今に至る。今王が専利を学ぶ、それよろしきか。匹夫が専利すれば、なおこれを盗と謂い、王にしてこれを行えば、その帰する所鮮からん。榮公を用いれば、周必ず敗れん」と。厲王は聴かず、ついに榮公を卿士とし、事を用いしむ。
王は暴虐侈傲を行い、国人王を謗る。召公諫めて曰く、「民命に堪えず」と。王怒り、衛の巫を得て、謗る者を監せしめ、告げればすなわちこれを殺す。その謗り鮮く、諸侯朝せず。三十四年、王ますます厳しく、国人敢えて言う者なく、道路目をもってす。厲王喜び、召公に告げて曰く、「吾謗りを弭ぐこと能くす、すなわち敢えて言わず」と。召公曰く、「これはこれを障るなり。民の口を防ぐは、水を防ぐに甚だし。水壅きて潰れば、人を傷ること必ず多く、民もまたこれの如し。この故に水を治むる者はこれを決して導かしめ、民を治むる者はこれを宣べて言わしむ。故に天子政を聴くに、公卿より列士に至るまで詩を献ぜしめ、瞽は曲を献じ、史は書を献じ、師は箴し、瞍は賦し、矇は誦し、百工諫め、庶人語を伝え、近臣規を尽くし、親戚補察し、瞽史教誨し、耆艾これを修め、しかる後に王斟酌す、これをもって事行なわれて悖らず。民の口あるは、土に山川あるがごとし、財用ここより出ず:その原隰衍沃あるがごとし、衣食ここより生ず。口の宣言するや、善敗ここより興る。善を行ない敗を備うるは、財用衣食を産する所以なり。夫れ民心にこれを慮り口にこれを宣べ、成りてこれを行なう。もしその口を壅がんか、それ与に能く幾何ぞ」と。王聴かず。ここにおいて国に敢えて言を出す者なく、三年にしてすなわち相与に畔き、厲王を襲う。厲王出奔して彘に至る。
周の宣王
厲王の太子静は召公の家に匿われ、国人これを聞き、すなわちこれを囲む。召公曰く、「昔吾しばしば王を諫むるも、王従わず、もってこの難に及ぶ。今王の太子を殺せば、王まさに我を以て讎とし懟怒せんか。夫れ君に事うる者は、険にして讎懟せず、怨みて怒らず、まして王に事うるにおいてをや」と。すなわちその子をもって王太子に代え、太子ついに脱するを得る。
召公と周公の二相が政務を執り行い、「共和」と号した。共和十四年、厲王は彘で死去した。太子の静は召公の家で成長し、二相は共に彼を立てて王とし、これが宣王である。宣王が即位すると、二相がこれを補佐し、政治を修め、文王・武王・成王・康王の遺風に法り、諸侯は再び周を宗主とした。十二年、魯の武公が来朝した。
宣王は千畝で籍田の礼を行わず、虢の文公が諫めて不可であると言ったが、王は聞き入れなかった。三十九年、千畝で戦い、王の軍は姜氏の戎に敗れた。
宣王は南国の師を失った後、太原で民を調査した。仲山甫が諫めて言うには、「民を調査すべきではない」。宣王は聞き入れず、ついに民を調査した。
周の幽王
四十六年、宣王が崩じ、子の幽王宮湦(また湦と作す)が立った。幽王二年、西周の三川が皆震動した。伯陽甫が言うには、「周はまさに滅びようとしている。天地の気はその秩序を失わない。もしその秩序を過ぎれば、民がそれを乱すのである。陽が伏して出ることができず、陰が迫って蒸発できなければ、地震が起こる。今、三川が実際に震動したのは、陽がその居所を失って陰を鎮圧しているためである。陽が失って陰の中にあると、水源は必ず塞がる。水源が塞がれば、国は必ず滅びる。水土が潤って民が用いるのである。土が潤うところがなければ、民は財用に乏しくなり、滅びないでどうして待てようか。昔、伊水・洛水が涸れて夏が滅び、黄河が涸れて商が滅びた。今、周の徳は二代の末世のようであり、その川の水源もまた塞がっている。塞がれば必ず涸れる。国は必ず山川に依る。山が崩れ川が涸れるのは、亡国の徴である。川が涸れれば必ず山が崩れる。もし国が滅びるとしても十年を過ぎず、数は一紀である。天が見棄てるものは、その紀を過ぎない」。この年、三川は涸れ、岐山は崩れた。
三年、幽王は褒姒を寵愛した。褒姒は子の伯服を生み、幽王は太子を廃そうと欲した。太子の母は申侯の娘であり、后となっていた。後に幽王は褒姒を得て、これを愛し、申后を廃し、併せて太子宜臼を退け、褒姒を后とし、伯服を太子としようとした。周の太史伯陽が史記を読んで言うには、「周は滅びるであろう」と。昔、夏后氏の衰えた時、二匹の神龍が夏の帝の庭に止まって言うには、「我らは褒の二君である」と。夏の帝は、これを殺すか、去らせるか、止まらせるかを占ったが、吉とはならなかった。その漦を請い求めてこれを蔵めることを占うと、吉となった。そこで幣を布き、策を以て告げると、龍は去り、漦だけが残った。これを櫝に納めて去った。夏が滅び、この器は殷に伝わった。殷が滅び、またこの器は周に伝わった。三代に至るまで、敢えてこれを開く者はなく、厲王の末年に至って、開いてこれを見た。漦が庭に流れ出し、除くことができなかった。厲王は婦人に裸でこれを囃した。漦は玄黿に化け、王の後宮に入った。後宮の童妾(少女)が既に齔(歯が生え替わる年頃)でこれに遭い、既に笄(かんざしをさす年頃)になって孕み、夫なくして子を生んだ。恐れてこれを棄てた。宣王の時の童女の謡に曰く、「厭弧箕服、実に周国を亡ぼす」と。そこで宣王がこれを聞き、この器を売る夫婦があったので、宣王はこれを捕らえて殺させた。二人は道中に逃れ、かつて後宮の童妾が棄てた妖子が道に現れているのを見て、その夜泣きを聞き、哀れんでこれを拾った。夫婦は遂に逃亡し、褒に奔った。褒の人が罪を犯し、童妾が棄てた女子を王に献上して罪を贖おうと請うた。棄てられた女子は褒から出たので、これを褒姒という。幽王三年の時、王の後宮でこれを見て愛し、子の伯服を生み、遂に申后及び太子を廃し、褒姒を后とし、伯服を太子とした。太史伯陽が言うには、「禍は成った、如何ともしがたい」と。
褒姒は笑うことを好まなかった。幽王は彼女を笑わせようと万方手を尽くしたが、故に笑わなかった。幽王は烽燧と大鼓を設け、寇が来れば烽火を挙げた。諸侯が悉く来たが、来ても寇はおらず、褒姒はそこで大笑いした。幽王はこれを喜び、幾度も烽火を挙げた。その後は信じられなくなり、諸侯は次第に来なくなった。
幽王は虢石父を卿とし、政事を用いさせた。国人は皆怨んだ。石父は人となり佞巧で、諛うことを善くし、利を好んだ。王はこれを用いた。また申后を廃し、太子を退けた。申侯は怒り、繒及び西夷の犬戎と共に幽王を攻めた。幽王は烽火を挙げて兵を徴したが、兵は来る者がなかった。遂に幽王を驪山の下で殺し、褒姒を虜とし、周の賂(財宝)を尽く取り去った。そこで諸侯は申侯に就き、共に故幽王の太子宜臼を立てた。これが平王であり、以て周の祀りを奉じた。
周平王
平王が立ち、東に遷って雒邑に都し、戎寇を避けた。平王の時、周室は衰微し、諸侯は強きが弱きを併せ、斉・楚・秦・晋が始めて大となり、政は方伯より出た。
四十九年、魯の隠公即位す。
周の桓王
五十一年、平王崩ず、太子洩父早く死す、其の子林を立てる、是を桓王と為す。桓王は平王の孫なり。
桓王三年、鄭の莊公朝す、桓王禮せず。五年、鄭怨み、魯と許田を易ふ。許田は天子の太山に用事する田なり。八年、魯隠公を殺し、桓公を立てる。十三年、鄭を伐つ、鄭射して桓王を傷つけ、桓王去りて歸る。
周の莊王
二十三年、桓王崩じ、子の莊王佗立つ。莊王四年、周公黒肩、莊王を殺さんとして王子克を立てんと欲す。辛伯、王に告ぐ。王、周公を殺す。王子克、燕に奔る。
周釐王
十五年、莊王崩じ、子の釐王胡斉立つ。釐王三年、斉桓公始めて覇をなす。
周恵王
五年、釐王崩じ、子の恵王閬立つ。恵王二年。初め、莊王の嬖姫姚、子穨を生む。穨、寵有り。恵王即位に及び、其の大臣の園を奪いて囿と為す。故に大夫辺伯等五人乱を為し、謀りて燕・衛の師を召し、恵王を伐たんとす。恵王、温に犇る。已にして鄭の櫟に居る。釐王の弟穨を立てて王と為す。楽及び徧舞す。鄭・虢の君怒る。四年、鄭と虢の君、王穨を伐ち殺し、復た恵王を入る。恵王十年、斉桓公に賜いて伯と為す。
周襄王
二十五年、恵王崩じ、子の襄王鄭立つ。襄王の母は早く死に、後母を恵后と曰う。恵后は叔帯を生み、恵王に寵愛され、襄王は之を畏れた。三年、叔帯は戎・翟と謀りて襄王を伐たんとし、襄王は叔帯を誅せんと欲す。叔帯は斉に奔る。斉の桓公、管仲をして戎を周に平げしめ、隰朋をして戎を晋に平げしむ。王は上卿の礼を以て管仲を遇す。管仲辞して曰く、「臣は賤しき有司なり。天子の二守たる国氏・高氏在り。若し春秋の節に来たりて王命を承くるに、何を以てか礼せん。陪臣敢えて辞す」と。王曰く、「舅氏、余は乃ちの勲を嘉す。朕が命に逆うなかれ」と。管仲遂に下卿の礼を受けて還る。九年、斉の桓公卒す。十二年、叔帯復た周に帰る。
十三年、鄭、滑を伐つ。王、游孫・伯服をして滑を請わしむ。鄭人、之を囚う。鄭の文公、恵王の入りて厲公に爵を与えざるを怨み、又た襄王の衛滑に与するを怨む。故に伯服を囚う。王怒り、将に翟を以て鄭を伐たんとす。富辰諫めて曰く、「凡そ我が周の東徙するや、晋・鄭に依る。子穨の乱は、又た鄭の由りて定まる。今、小怨を以て之を棄つるは」と。王聴かず。十五年、王、翟師を降して鄭を伐たしむ。王、翟人に徳し、将に其の女を以て后と為さんとす。富辰諫めて曰く、「平・桓・荘・恵は皆鄭の労を受けたり。王、親親を棄てて翟に従うは、従うべからず」と。王聴かず。十六年、王、翟后を絀く。翟人来たりて誅し、譚伯を殺す。富辰曰く、「吾数え諫むるも従わず。此の如くにして出でざれば、王以て我を懟と為さんか」と。乃ち其の属を以て之に死す。
初め、恵后、王子帯を立てんと欲す。故に党を以て翟人を開く。翟人遂に周に入る。襄王、出奔して鄭に至る。鄭、王を汜に居らしむ。子帯立って王と為り、襄王の絀けし翟后を取って温に居る。十七年、襄王、急を晋に告ぐ。晋の文公、王を納れて叔帯を誅す。襄王乃ち晋の文公に珪鬯弓矢を賜い、伯と為し、河内の地を以て晋に与う。二十年、晋の文公、襄王を召す。襄王、之に河陽・践土に会す。諸侯畢に朝す。書に諱して「天王河陽に狩す」と曰う。
二十四年、晋の文公卒す。
三十一年、秦の穆公卒す。
周の頃王、周の匡王、周の定王
三十二年、襄王崩ず、子の頃王壬臣立つ。頃王六年、崩ず、子の匡王班立つ。匡王六年、崩ず、弟の瑜立つ、是を定王と為す。
定王元年、楚の莊王陸渾の戎を伐ち、洛に次ぐ、人をして九鼎を問わしむ。王、王孫滿をして応設して辞を以てせしむ、楚兵乃ち去る。十年、楚の莊王鄭を囲む、鄭伯降る、已にして之を復す。十六年、楚の莊王卒す。
周の簡王
二十一年、定王崩じ、子の簡王夷立つ。簡王十三年、晋其の君厲公を殺し、子周を周より迎へ、立てて悼公と為す。
周の靈王
十四年、簡王崩じ、子の靈王泄心立つ。靈王二十四年、齊の崔杼其の君莊公を弑す。
周の景王、周の悼王、周の敬王
二十七年、靈王崩じ、子の景王貴立つ。景王十八年、后太子聖にして蚤く卒す。二十年、景王子朝を愛し、之を立たんと欲す。會ひて崩じ、子丐の黨與爭ひて立つ。國人長子猛を立てて王と為す。子朝猛を攻めて殺す。猛を悼王と為す。晉人子朝を攻めて丐を立て、是を敬王と為す。
敬王元年、晋人が敬王を入れたが、子朝が自立し、敬王は入ることができず、沢に居た。四年、晋が諸侯を率いて敬王を周に入れ、子朝は臣となり、諸侯は周の城を築いた。十六年、子朝の徒が再び乱を起こし、敬王は晋に奔った。十七年、晋の定公は遂に敬王を周に入れた。
三十九年、斉の田常がその君簡公を殺した。
四十一年、楚が陳を滅ぼした。孔子卒す。
周の元王、周の貞定王
四十二年、敬王崩じ、子の元王仁立つ。元王八年、崩じ、子の定王介立つ。
定王十六年に、三晉が智伯を滅ぼし、その地を分有した。
周の哀王、周の思王、周の考王
二十八年、定王が崩じ、長子の去疾が立ち、これが哀王である。哀王が立って三月、弟の叔が哀王を襲撃して殺し、自ら立ち、これが思王である。思王が立って五月、末弟の嵬が思王を攻め殺して自ら立ち、これが考王である。この三王は皆、定王の子である。
周の威烈王
考王十五年、崩じ、子の威烈王午が立った。
考王はその弟を河南に封じ、これが桓公となり、周公の官職を継がせた。桓公が卒すると、子の威公が代わって立った。威公が卒すると、子の惠公が代わって立ち、その少子を鞏に封じて王に奉じさせ、東周惠公と号した。
威烈王の二十三年、九鼎が震動した。韓・魏・趙を諸侯と命じた。
周安王
二十四年、崩じ、子の安王驕が立った。この歳、盗が楚の聲王を殺した。
周烈王
安王は二十六年間在位して崩じ、子の烈王喜が立つ。烈王の二年、周の太史儋が秦の献公に謁見して言うには、「初め周と秦国は合して別れ、別れて五百年にして再び合し、合して十七年で霸王が出るであろう」。
周顯王
十年、烈王が崩じ、弟の扁が立つ。これが顯王である。顯王の五年、秦の献公を賀し、献公は伯と称される。九年、文武の胙を秦の孝公に致す。二十五年、秦が諸侯を周に会す。二十六年、周が伯を秦の孝公に致す。三十三年、秦の惠王を賀す。三十五年、文武の胙を秦の惠王に致す。四十四年、秦の惠王が王と称す。その後諸侯は皆王となる。
周慎靚王、周赧王
四十八年、顯王が崩じ、子の慎靚王定が立つ。慎靚王は六年間在位して崩じ、子の赧王延が立つ。王赧の時に東西周は分かれて治まる。王赧は都を西周に遷す。
西周武公の共太子が死に、五人の庶子がいたが、嫡子が立てられなかった。司馬翦が楚王に言うには、「公子咎に土地を与えて援助し、太子に立てるよう請うたほうがよい」と。左成が言うには、「いけない。周が聞き入れなければ、公の知略が行き詰まり、周との交わりが疎遠になる。周の君主が誰を立てたいと思っているかを探り、それを密かに翦に告げ、翦に楚が土地を与えて援助するよう請わせるのがよい」と。果たして公子咎が太子に立てられた。
八年、秦が宜陽を攻めると、楚はこれを救援した。しかし楚は周が秦に味方したことを理由に、周を討伐しようとした。蘇代が周のために楚王に説いて言うには、「どうして周が秦の災いだと言うのですか。周が秦に味方するのは楚以上だと言うのは、周を秦に組み入れさせようとする意図で、だから『周秦』と言うのです。周はその関係が解けないと知れば、必ず秦に入ります。これは秦が周を手に入れるための巧妙な策です。王のためを思えば、周が秦に従うならそれに善処し、従わない場合も善処すると言って、周と秦の関係を疎遠にすべきです。周が秦と絶交すれば、必ず郢に入ってくるでしょう」。
秦が二周の間を借道して、韓を討伐しようとした。周は借道すれば韓を恐れ、借道しなければ秦を恐れた。史厭が周君に言うには、「なぜ人をやって韓の公叔に『秦が敢えて周を無視して韓を伐つのは、東周を信じているからだ。公はなぜ周に土地を与え、人質を出して楚に使者を遣わさないのか』と言わせないのですか。秦は必ず楚を疑い周を信じなくなり、そうすれば韓は伐たれません。また秦には『韓が無理に周に土地を与えるのは、周を秦に疑わせようとするためで、周は敢えて受け取れません』と言いなさい。秦は必ず言い訳ができず、周に受け取るなと命じるでしょう。こうして韓から土地を受け取りながら、秦の言うことを聞くことになります」。
秦が西周君を召し寄せた。西周君は行くのを嫌がり、そこで人をやって韓王に言わせた。「秦が西周君を召し寄せるのは、王の南陽を攻めさせるためです。王はなぜ南陽に出兵なさらないのですか。周君はそれを口実にして秦に行かずに済みます。周君が秦に入らなければ、秦は必ず河を越えて南陽を攻めることはできません」。
東周と西周が戦い、韓は西周を救援した。ある者が東周のために韓王に説いて言うには、「西周はもと天子の国であり、名器や重宝が多い。王は兵を動かさずに出陣しなければ、東周に恩を売ることができ、しかも西周の宝物は必ず全て手に入れることができます」。
王赧が成君に謂う。楚が雍氏を囲み、韓が甲冑と粟を東周に徴発せんとす。東周君恐れて、蘇代を召して之を告ぐ。代曰く、「君何ぞ是に患うる。臣韓をして甲冑と粟を周に徴発せしめず、又能く君の為に高都を得ん」と。周君曰く、「子苟くも能くせば、請う国を以て子に聴かん」と。代韓の相国に見えて曰く、「楚が雍氏を囲むは、期三月なり。今五月にして抜く能わず、是れ楚の病むなり。今相国乃ち甲冑と粟を周に徴発するは、是れ楚に病を告ぐるなり」と。韓の相国曰く、「善し。使者已に行われり」と。代曰く、「何ぞ周に高都を与えざる」と。韓の相国大いに怒りて曰く、「吾甲冑と粟を周に徴発せざるも亦已に多し。何の故ぞ周に高都を与えん」と。代曰く、「周に高都を与うるは、是れ周折れて韓に入るなり。秦之を聞けば必ず大いに怒りて周を忿り、即ち周の使を通ぜず。是れ獘れたる高都を以て完き周を得るなり。何ぞ与えざる」と。相国曰く、「善し」と。果たして周に高都を与う。
三十四年、蘇厲周君に謂いて曰く、「秦が韓・魏を破り、師武を撲ち、北に趙の藺・離石を取るは、皆白起なり。是れ兵を用いるに善く、又天命有り。今又兵を将いて塞を出でて梁を攻めんとす。梁破るれば則ち周危うし。君何ぞ人をして白起を説かしめざる。曰く『楚に養由基と有る者、善く射る者なり。柳葉を去ること百歩にして之を射れば、百発百中す。左右の観者数千人、皆曰く善く射ると。一人其の旁に立ちて曰く「善し、射を教うべし」と。養由基怒り、弓を釈き剣を搤えて曰く「客安んぞ能く我をして射を教えしむる」と。客曰く「吾が子をして左を支え右を詘るを教うるに非ざるなり。夫れ柳葉を去ること百歩にして之を射り、百発百中すと雖も、善を以て息まず、少焉にして気衰え力倦み、弓撥ね矢鉤れば、一発中たざる者、百発尽きて息む」と。今韓・魏を破り、師武を撲ち、北に趙の藺・離石を取るは、公の功多し。今又兵を将いて塞を出で、両周を過ぎ、韓を倍き、梁を攻む。一挙して得ざれば、前功尽きて棄つ。公病を称して出でざるに如かず』と」と。
四十二年、秦華陽の約を破る。馬犯周君に謂いて曰く、「請う梁をして周に城せしめん」と。乃ち梁王に謂いて曰く、「周王病みて若し死せば、則ち犯必ず死す。犯請う九鼎を以て自ら王に入らん。王九鼎を受けて而して犯を図れ」と。梁王曰く、「善し」と。遂に之に卒を与え、周を戍ると言う。因りて秦王に謂いて曰く、「梁周を戍するに非ざるなり、将に周を伐たんとす。王試みに兵を出して境を以て之を観よ」と。秦果たして兵を出す。又梁王に謂いて曰く、「周王病甚だし。犯請う後可にして之を復せん。今王卒をして周に之かしむるは、諸侯皆心を生ず。後事を挙ぐるに且つ信ぜられず。卒をして周の城を為さしめて、以て事端を匿すに若かず」と。梁王曰く、「善し」と。遂に周に城せしむ。
四十五年、周君の秦客周聚に謂いて曰く、「公秦王の孝を誉むるに若かず。因りて応を以て太后の養地と為さん。秦王必ず喜ばん。是れ公秦と交わる有り。交善くすれば、周君必ず公の功と為さん。交悪しくすれば、周君を勧めて秦に入らしむる者必ず罪有らん」と。秦周を攻む。而して周聚秦王に謂いて曰く、「王の為に計る者は周を攻めず。周を攻むるは、実は以て利と為すに足らず、声は天下を畏れしむ。天下声を以て秦を畏るれば、必ず東に斉と合す。兵周に獘る。天下を斉に合すれば、則ち秦王たらず。天下秦を獂れんと欲し、王を勧めて周を攻む。秦天下と獂るれば、則ち令行われず」と。
五十八年、三晉(韓・魏・趙)は秦に抗した。周はその相國を秦に遣わしたが、秦が軽んじたため、その行き先から引き返した。ある客が相國に言うには、「秦の軽重(評価)は未だ知るべからず。秦は三國の内情を知りたがっている。公は急いで秦王に謁見し『王のために東方の変動を探らせてください』と言うのがよい。秦王は必ず公を重んじるであろう。公を重んじることは、すなわち秦が周を重んじることであり、周はこれによって秦と結ぶことができる。齊が重んじるならば、もともと周聚がいて齊と結んでいるのだから、これで周は常に大国との交わりを失わないことになる」と。秦は周を信じ、兵を発して三晉を攻めた。
五十九年、秦は韓の陽城・負黍を取った。西周は恐れ、秦に背き、諸侯と合従を約し、天下の精鋭を率いて伊闕から出て秦を攻め、秦が陽城に通じることを得ざらしめようとした。秦の昭王は怒り、将軍摎を遣わして西周を攻めさせた。西周君は秦に奔り、頓首して罪を受け、その邑三十六、口三万をことごとく献じた。秦はその献上を受け入れ、その君を周に帰した。
周君(西周君)・王赧が卒し、周の民は遂に東へ逃亡した。秦は九鼎の宝器を取り、西周公を憚狐に遷した。後七年、秦の莊襄王が東周を滅ぼした。東西周ともに秦に帰し、周は祭祀を絶った。
太史公曰く
太史公曰く、学者は皆、周が紂を伐ち洛邑に居たと称するが、その実を綜べれば然らず。武王がこれを営み、成王が召公に命じて居所を占わせ、九鼎をそこに置いたが、周は再び豊・鎬に都した。犬戎が幽王を破るに至り、周は初めて東遷して洛邑に移った。いわゆる「周公、畢に葬る」とは、畢は鎬の東南、杜中にある。秦が周を滅ぼした。漢が興って九十有余年、天子が泰山に封禅せんとし、東巡狩して河南に至り、周の苗裔を求め、その後裔の嘉に三十里の地を封じ、号して周子南君と曰い、列侯に比し、その先祖の祭祀を奉ぜしめた。