巻002

史記

卷二 夏本紀第二

夏の禹は、名を文命という。禹の父は鯀といい、鯀の父は帝顓頊といい、顓頊の父は昌意といい、昌意の父は黄帝である。禹は、黄帝の玄孫にして帝顓頊の孫である。禹の曾祖父の昌意および父の鯀は皆、帝位に就くことができず、人臣となった。

帝堯の時に当たり、洪水は天を覆い、浩浩として山を包み陵を覆い、下民はその憂いにあった。堯は水を治めることのできる者を求めると、群臣の四嶽は皆、鯀が適任であると言った。堯は言った、「鯀は人として命に背き族を滅ぼす者である。不可である。」四嶽は言った、「これに等しい者で鯀より賢い者は未だいません。願わくは帝よ、彼を試みられよ。」ここにおいて堯は四嶽の言を聞き入れ、鯀を用いて水を治めさせた。九年経っても水は止まず、功業は成らなかった。ここにおいて帝堯は人を求め、改めて舜を得た。舜が登用され、天子の政 つか を摂行し、巡狩した。行って鯀の治水が成果のないのを見ると、乃ち鯀を羽山に誅して死に至らしめた。天下は皆、舜の誅罰を是とした。ここにおいて舜は鯀の子の禹を挙げ、そして鯀の事業を継がせた。

堯が崩じると、帝舜は四嶽に問うて言った、「美事なる堯の事業を成し遂げる者があれば、官に就かせようか。」皆が言った、「伯禹を 司空 しくう とすれば、美事なる堯の功 を成し遂げることができます。」舜は言った、「ああ、その通りだ。」禹に命じて言った、「汝は水土を平らげよ。これを努めよ。」禹は拝礼して頭を地につけ、契、后稷、皋陶に譲った。舜は言った、「汝は往って汝の事を見よ。」

禹の人となりは敏捷でよく勤勉であり、その徳は みちび 理に背かず、その仁は親しむべく、その言葉は信じるに足る。声は音律となり、身は尺度となり、それに称して出でる。勤勉として厳かであり、綱紀となった。

禹は乃ち遂に益、后稷と共に帝命を奉じ、諸侯百姓に命じて人徒を興して土を敷き、山を行き木に標を立て、高山大川を定めた。禹は先人父の鯀が功業を成さず誅されたことを悲しみ、乃ち身を労し思いを焦がし、外に居ること十三年、家の門を過ぎても敢えて入らなかった。衣食を せま くし、鬼神に孝を尽くした。宮室を卑しくし、費用を溝淢に尽くした。陸を行くには車に乗り、水を行くには船に乗り、泥を行くには橇に乗り、山を行くには檋に乗った。左に準縄を執り、右に規矩を執り、四時を載せて、以て九州を開き、九道を通じ、九沢に堤を築き、九山を測量した。益に命じて衆庶に稲を とも えさせ、低湿な地に植えさせた。后稷に命じて衆庶に得難き食物を与えさせた。食糧が少なければ、余りあるものを調節して互いに与え、以て諸侯を均しくした。禹は乃ち行って土地の相に適した産物を貢物とし、及び山川の便利を定めた。

禹の巡行は冀州から始まった。冀州は、既に壺口に功を載せ、梁山及び岐山を治めた。既に太原を修め、岳陽に至った。覃懷に功を いた し、衡漳に至った。その土は白い柔土である。賦は上上と上中が交錯し、田は中中である。常水、 えい 水が既に従い、大陸沢が既に耕作された。鳥夷は皮服を貢ぐ。右に碣石を挟み、海に入る。

済水と黄河の間が沇州である。九河が既に河道を成し、雷夏沢が既に沢となり、雍水、沮水が合流し、桑土に既に蚕が飼われ、ここにおいて民は丘を下りて平地に住むことができた。その土は黒く肥沃で、草は茂り木は伸びる。田は中下、賦は貞 (下下) で、耕作すること十三年にして乃ち他州と同じになった。その貢物は漆と絹糸であり、その篚 (籠) には織文 (模様織物) を入れる。済水、漯水を舟で下り、黄河に通じる。

海と泰山の間が青州である。堣夷が既に経略され、濰水、淄水がその河道を成した。その土は白く肥沃で、海辺には広く塩湿地が広がり、その田は塩鹹地である。田は上下、賦は中上である。その貢物は塩と細葛 であり、海産物は雑多である。泰山の谷間からは絹糸、麻、鉛、松、怪石を産し、萊夷は牧畜を業とし、その篚には酓 (檿) の糸を入れる。汶水を舟で下り、済水に通じる。

海、泰山及び淮水の間が徐州である。淮水、沂水が治まり、蒙山、羽山に耕作が行われた。大野沢が既に水たまりとなり、東原が平らかに定まった。その土は赤く粘り気のある肥沃な土で、草木は次第に茂り覆う。その田は上中、賦は中中である。貢物は五色の土であり、羽山の谷間の夏狄 (長い尾羽の雉) 、嶧山の南面の孤生の桐、泗水のほとりの浮き磬、淮夷の蠙珠 (真珠) と臮魚 (魚名) 、その篚には玄色と白絹の織物を入れる。淮水、泗水を舟で下り、黄河に通じる。

淮水と海の間が揚州である。彭蠡沢が既に水たまりとなり、陽鳥 (雁などの渡り鳥) の棲む所となった。三江が既に海に入り、震沢が安定した。竹箭が既に生い茂る。その草は夭夭として柔らかく、その木は高く聳え、その土は泥である。田は下下、賦は下上と下中が交錯する。貢物は三品の金属、瑤、琨 (美玉) 、竹箭、象牙、皮革、羽毛、旄牛尾であり、島夷は草の衣を着け、その篚には織貝 (貝殻模様の織物) を入れ、その包みには橘、柚を入れて錫 (賜) の貢物とする。江と海に沿って物資を均し、淮水、泗水に通じる。

荊山から衡山の南までが荊州である。江、漢は海に朝宗する。九江は甚だ中程にあり、沱水、涔水が既に河道を成し、雲土、夢の地が治められた。その土は泥である。田は下中、賦は上下である。貢物は羽毛、旄牛尾、象牙、皮革、三品の金属、杶 (香木) 、榦 (柘) 、栝 (檜) 、柏、礪石、砥石、砮石 (石鏃) 、丹砂、箘簬 (竹名) 、楛 (木名) であり、三つの国はその名産を貢ぎ、包んだ匭に菁茅 (祭祀用の茅) を入れ、その篚には玄色と浅紅色の絹、玉を貫く組紐を入れ、九江からは大亀が入貢される。江、沱、涔、漢を舟で下り、雒水を越え、南河に至る。

荊山と黄河の間が 州である。伊水、雒水、瀍水、澗水が既に黄河に入り、滎沢 (滎播) が既に水たまりとなり、荷沢に通じ、明都沢に及んだ。その土は柔土で、下層の土は肥沃な黒硬土である。田は中上、賦は上中と上下が交錯する。貢物は漆、絹糸、細葛布、苧麻布であり、その篚には細い綿絮を入れ、錫 (賜) の貢物として磬を磨く石 (磬錯) を貢ぐ。雒水を舟で下り、黄河に達する。

華陽山と黒水の間が梁州である。汶山・嶓冢山は既に開墾され、沱水・涔水は既に河道が通じ、蔡山・蒙山は旅祭を終え、和夷の地に功績を収めた。その土は青黒い。田は下上、賦は下中と三錯。貢物は璆玉・鉄・銀・鏤・砮石・磬、熊・羆・狐・貍、織皮である。西傾山より桓水に沿って来て、潜水を舟行し、沔水を越え、渭水に入り、黄河を横断する。

黒水と西河の間が雍州である。弱水は既に西に流れ、涇水は渭水の入り口に連なる。漆水・沮水は既に従い、灃水もこれに合流する。荊山・岐山は既に旅祭を終え、終南山・敦物山から鳥鼠山に至る。原隰の地に功績を収め、都野沢に至る。三危山は既に平定され、三苗は大いに秩 を得た。その土は黄色い壌土である。田は上上、賦は中下。貢物は璆玉・琳玉・琅玕である。積石山より舟行し、龍門の西河に至り、渭水の入り口で合流する。織皮の産地である崑崙・析支・渠搜、西戎はこれにより序列を得た。

九つの山脈を治める。汧山から岐山を経て荊山に至り、黄河を越える。壺口山・雷首山から太嶽山に至る。砥柱山・析城山から王屋山に至る。太行山・常山から碣石山に至り、海に入る。西傾山・朱圉山・鳥鼠山から太華山に至る。熊耳山・外方山・桐柏山から負尾山に至る。嶓冢山を治め、荊山に至る。内方山から大別山に至る。汶山の南から衡山に至り、九江を過ぎ、敷浅原に至る。

九つの河川を治める。弱水を合黎山に至らしめ、余波は流沙に入る。黒水を治め、三危山に至らしめ、南海に入る。黄河を積石山より治め、龍門に至り、南は華陰に至り、東は砥柱に至り、また東は盟津に至り、東は雒水の入り口を過ぎ、大邳山に至り、北は降水を過ぎ、大陸沢に至り、北に分かれて九河となり、共に逆河となって海に入る。嶓冢山より漾水を治め、東流して漢水となり、また東は蒼浪の水となり、三澨を過ぎ、大別山に入り、南は長江に入り、東は彭蠡沢に匯り、東は北江となり、海に入る。汶山より長江を治め、東に分かれて沱水となり、また東は醴水に至り、九江を過ぎ、東陵に至り、東へ北に迆って匯水に合流し、東は中江となり、海に入る。沇水を治め、東は済水となり、黄河に入り、溢れて滎沢となり、東は陶丘の北より出て、また東は荷水に至り、また東北は汶水に合流し、また東北は海に入る。淮水を桐柏山より治め、東は泗水・沂水に合流し、東は海に入る。渭水を鳥鼠同穴山より治め、東は灃水に合流し、また東北は涇水に至り、東は漆水・沮水を過ぎ、黄河に入る。雒水を熊耳山より治め、東北は㵎水・瀍水に合流し、また東は伊水に合流し、東北は黄河に入る。

ここに ああ いて九州は同じく治まり、四方の奥地も既に居住し、九山は旅祭が行われ、九川は源が清められ、九沢は堤防が築かれ、四海は会同した。六府は甚だ整い、諸々の土地が交わって正され、財賦を慎んで致し、皆三壤の法則に従い、中国に賦を定め、土地と姓を賜う。「徳を敬い先とし、朕の行いを拒まない。」

天子の都より外方五百里を甸服と定める。百里は賦として稲束を納め、二百里は穂を納め、三百里は藁を納めて役務に服し、四百里は粟を納め、五百里は米を納める。甸服の外五百里を侯服とする。百里は采邑、二百里は任国、三百里は諸侯である。侯服の外五百里を綏服とする。三百里は文教を掌り、二百里は武威を奮い起こして守衛する。綏服の外五百里を要服とする。三百里は夷、二百里は蔡である。要服の外五百里を荒服とする。三百里は蠻、二百里は流である。

東は海に漸くまで、西は流沙に被わるまで、北・南に至るまで、声教は四海に及んだ。ここに於いて帝舜は禹に玄圭を賜い、以て成功を天下に告げた。天下はここに於いて大いに太平に治まった。

皋陶は士 (刑法官) となりて民を治めた。帝舜の朝に、禹・伯夷・皋陶が相い語りて帝の前に在った。皋陶がその謀を述べて曰く、「その道徳を信じ、謀を明らかにして輔け和す。」禹曰く、「然り、如何にせん。」皋陶曰く、「於、その身を慎み修め、思慮を長くし、九族を厚く序列し、衆々の賢明を高く翼とし、近く可なるは遠く在るも己に在り。」禹は美言を拝して曰く、「然り。」皋陶曰く、「於、人を知るに在り、民を安んずるに在り。」禹曰く、「 ああ 、皆此の如くならば、惟だ帝も其れ之を難しとす。人を知れば則ち智、よく人を官す。能く民を安んずれば則ち恵、黎民之を懐く。能く知り能く恵むならば、何ぞ驩兜を憂えん、何ぞ有苗を遷さん、何ぞ巧言善色の佞人を畏れん。」皋陶曰く、「然り、於、亦た行いに九徳有り、亦た其の徳有るを言う。」乃ち言いて曰く、「事に始めて事とす。寬にして栗、柔にして立、愿にして共、治にして敬、擾にして毅、直にして溫、簡にして廉、剛にして實、彊にして義。其の常なる有るを章らかにす、吉きかな。日に三徳を宣べ、蚤夜に明を たす けて家を有つ。日に厳しく振るい敬って六徳を備え、采を あき らかにして国を有つ。 あつ まって受け普く施し、 九徳 みな みな 事え、俊乂官に在り、百吏肅謹たり。邪淫奇謀を教うること かれ。其の人に非ざる者其の官に居らば、是れ天事を乱すと謂う。天討は罪有り、五刑五用かな。吾が言いたし可く行わるるか。」禹曰く、「 なんじ の言は致して績む可く行わる。」皋陶曰く、「余未だ知ること有らず、道を たす けんと思うのみ。」

帝舜、禹に謂いて曰く、「女も亦た昌言せよ。」禹拝して曰く、「於、予何をか言わん。予は日々 孳孳 しし と思う。」皋陶、禹を難じて曰く、「何をか孳孳と謂う。」禹曰く、「鴻水天に滔き、浩浩として山を懷き陵を のぼ らせ、下民皆水に服す。予は陸行には車に乗り、水行には舟に乗り、泥行には橇に乗り、山行には檋に乗り、山を行くには木に しるし を付く。益と与に衆庶に稻と鮮食を与う。以て九川を決して四海に致し、畎澮を浚って之を川に致す。稷と与に衆庶に得難き食を与う。食少なければ、有餘を調えて不足を補い、居を徙す。衆民乃ち定まり、萬国治まる。」皋陶曰く、「然り、此れ しか して美なり。」

禹曰く、「於、帝よ、位に在るを慎め、爾の止む所を安んぜよ。徳を輔ければ、天下大いに応ず。意を清くして以て上帝の命を待ち昭らかにせば、天其れ重ねて命して きを用いん。」帝曰く、「吁、臣よ、臣よ。臣は朕が股肱耳目たり。予は左右して民有らんと欲す、女之を輔けよ。余は古人の象、日月星辰を観んと欲し、文繡服色を作らんと欲す、女之を明らかにせよ。予は六律五聲八音を聞かんと欲し、 来始滑 りしつ より、以て五言を出入せしめんと欲す、女之を聴け。予即ち きみ たらば、女予を ただ はら え。女面を へつら うこと無く、退いて予を謗ること無かれ。四輔の臣を敬え。諸々の衆なる讒嬖の臣、君の徳誠に施さば皆清し。」禹曰く、「然り。帝即ち時にあらざれば、善悪を同じく布かば則ち功無し。」

帝曰く、「丹朱の ごう たるが ごと くあること無かれ。惟だ慢游を是れ好み、水無くして舟を行い、 とも に家に淫し、以て其の世を絶つ。予は是に順う能わず。」禹曰く、「予は塗山に めと り、 辛壬癸甲 しんじんきこう に及ぶ。啓を生み、予子とせず、以て故に水土の功を成す能う。五服を輔け成し、五千里に至り、州十二師、外は四海に薄り、咸五長を建て、各其の功を道く。苗の頑なる者は即ち功せず、帝其れ念えよ。」帝曰く、「吾が徳を道くは、乃ち女の功の之を序ぐるなり。」

皋陶はここに於いて禹の徳を敬い、民に皆禹に則らしめた。言に如かざれば、刑之に従う。舜の徳は大いに明らかになった。

ここに於いて夔が楽を行ふと、祖考 (祖先の霊) が至り、群后 (諸侯) 相譲り、鳥獸翔舞ひ、簫韶九成 (音楽が九度繰り返される) して、鳳皇来儀し、百獸率ひて舞ひ、百官信に諧ふ。帝 (舜) これを用ひて歌を作りて曰く、「天の命に陟り、時に維り幾に維る」と。乃ち歌ひて曰く、「股肱喜び哉、元首起き哉、百工熙き哉」と。皋陶、手を拝し首を稽して言を揚げて曰く、「念へ哉、率ひて事を興すに、乃ち憲を慎み、敬へ哉」と。乃ち更めて歌ひて曰く、「元首明らかなる哉、股肱良き哉、庶事康き哉」と。又歌ひて曰く、「元首叢脞なる哉、股肱惰る哉、萬事墮つる哉」と。帝拝して曰く、「然り、往きて欽め哉」と。ここに於いて天下皆禹の明らかなる度数聲樂を宗とし、山川の神主と爲る。

帝舜、天に禹を薦げて嗣と爲す。十七年にして帝舜崩ず。三年の喪畢りて、禹、舜の子商均を陽城に辟 (避) けて辭す。天下の諸侯皆商均を去りて禹に朝す。禹ここに於いて遂に天子の位に即き、南面して天下に朝し、國號を夏后と曰ひ、姓を姒氏とす。

帝禹立ちて皋陶を挙げて之を薦め、且つ政を授けんとす。而して皋陶卒す。皋陶の後を英・六に封じ、或は許に在り。而して後に益を挙げ、政を之に任す。

十年、帝禹東に巡狩し、會稽に至りて崩ず。天下を益に授く。三年の喪畢りて、益、帝禹の子啓に譲り、箕山の陽に辟居す。禹の子啓賢にして、天下意を屬す。禹の崩ずるに及び、益に授くといへども、益の禹を佐くる日淺く、天下未だ洽はらず。故に諸侯皆益を去りて啓に朝し、曰く「吾が君は帝禹の子なり」と。ここに於いて啓遂に天子の位に即く。是を夏后帝啓と爲す。

夏后帝啓は、禹の子なり。其の母は塗山氏の女なり。

有扈氏服はざれば、啓之を伐ち、甘に大戰す。將に戰はんとし、甘誓を作り、乃ち六卿を召して之を申す。啓曰く、「嗟、六事の人、予誓ひて女に告ぐ。有扈氏、五行を威侮し、三正を怠棄す。天用ひて其の命を勦絕す。今予維れ天の罰を行ふを共にす。左は左に攻めず、右は右に攻めざれば、女命を共にせず。御は其の馬の政に非ざれば、女命を共にせず。命を用ひれば、祖に賞す。命を用ひざれば、社に僇す。予則ち女を帑僇せん」と。遂に有扈氏を滅ぼす。天下咸く朝す。

太康

夏后帝啓崩じ、子帝太康立つ。帝太康國を失ひ、昆弟五人、洛汭に須 (待) ち、五子之歌を作る。

中康

太康崩じ、弟中康立つ。是を帝中康と爲す。帝中康の時、羲・和湎淫し、時を廢し日を亂す。胤往きて之を征し、胤征を作る。

相より孔甲に至る

中康崩じ、子帝相立つ。帝相崩じ、子帝少康立つ。帝少康崩じ、子帝予立つ。帝予崩じ、子帝槐立つ。帝槐崩じ、子帝芒立つ。帝芒崩じ、子帝泄立つ。帝泄崩じ、子帝不降立つ。帝不降崩じ、弟帝扃立つ。帝扃崩じ、子帝廑立つ。帝廑崩じ、帝不降の子孔甲を立てる。是を帝孔甲と爲す。帝孔甲立ちて、方鬼神を好み、事淫亂を事とす。夏后氏德衰へ、諸侯之に畔く。天龍二を降す。雌雄有り。孔甲食はす能はず。未だ豢龍氏を得ず。陶唐既に衰へ、其の後に劉累有り。擾龍を豢龍氏に學び、以て孔甲に事ふ。孔甲之に姓を賜ひて御龍氏と曰ひ、豕韋の後を受く。龍一雌死す。以て夏后に食はす。夏后使ひて求めしむ。懼れて遷り去る。

皋より桀に至る

孔甲崩じ、子帝皋立つ。帝皋崩じ、子帝發立つ。帝發崩じ、子帝履癸立つ。是を桀と爲す。帝桀の時、孔甲以來より諸侯夏に畔くこと多し。桀德を務めずして武を以て百姓を傷け、百姓堪へず。乃ち湯を召して之を夏臺に囚ふ。已にして之を釋す。湯德を修め、諸侯皆湯に歸す。湯遂に兵を率ひて以て夏桀を伐つ。桀鳴條に走り、遂に放たれて死す。桀人に謂ひて曰く、「吾悔しむ、湯を夏臺に殺さざるに、此に至らしむるを」と。湯乃ち天子の位に踐み、夏に代はりて天下に朝す。湯夏の後を封ず。周に至りて杞に封ぜらる。

太史公の論

太史公曰く、禹は姒姓なり、其の後分封し、国を以て姓と為す、故に夏后氏、有扈氏、有男氏、斟尋氏、彤城氏、襃氏、費氏、杞氏、繒氏、辛氏、冥氏、斟戈氏有り。孔子夏の時を正す、学者多く夏小正を伝ふと云ふ。虞・夏の時より、貢賦備はれり。或は言ふ、禹諸侯を江南に会し、功を計りて崩じ、因りて焉に葬り、命けて会稽と曰ふ。会稽とは、会計なり。

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