南齊書

卷一 本紀第一

卷一 本紀第一

太祖高皇帝の諱いみなは道成、字あざなは紹伯、姓は蕭氏、幼名は鬬將であり、漢の相国蕭何の二十四世の孫である。蕭何の子である酇定侯の延が侍中の彪を生み、彪が公府掾の章を生み、章が皓を生み、皓が仰を生み、仰が御史大夫の望之を生み、望之が光禄大夫の育を生み、育が御史中丞の紹を生み、紹が光禄勲の閎を生み、閎が済陰太守の闡を生み、闡が呉郡太守の永を生み、永が中山相の苞を生み、苞が博士の周を生み、周が蛇丘長の矯を生み、矯が州従事の逵を生み、逵が孝廉の休を生み、休が広陵府丞の豹を生み、豹が太中大夫の裔を生み、裔が淮陰令の整を生み、整が即丘令の儁を生み、儁が輔国参軍の楽子を生み、宋の昇明二年九月に太常を追贈され、皇考を生んだ。蕭何は沛に居住し、侍中の彪は免官して東海蘭陵県中都郷中都里に居住した。晋の元康元年、東海を分割して蘭陵郡とした。中朝の乱の際、淮陰令の整(字は公斉)が長江を渡り、晋陵武進県の東城里に居住した。江左に寓居した者は、皆故郷の地名を僑置し、南の名を加えたため、ここに至って南蘭陵蘭陵の人となった。

原文太祖高皇帝諱道成,字紹伯,姓蕭氏,小諱鬬將,漢相國蕭何二十四世孫也。何子酇定侯延生侍中彪,彪生公府掾章,章生皓,皓生仰,仰生御史大夫望之,望之生光祿大夫育,育生御史中丞紹,紹生光祿勳閎,閎生濟陰太守闡,闡生吳郡太守永,永生中山相苞,苞生博士周,周生蛇丘長矯,矯生州從事逵,逵生孝廉休,休生廣陵府丞豹,豹生太中大夫裔,裔生淮陰令整,整生即丘令儁,儁生輔國參軍樂子,宋昇明二年九月贈太常,生皇考。蕭何居沛,侍中彪免官居東海蘭陵縣中都鄉中都里。晉元康元年,分東海為蘭陵郡。中朝亂,淮陰令整字公齊,過江居晉陵武進縣之東城里。寓居江左者,皆僑置本土,加以南名,於是為南蘭陵蘭陵人也。

皇考の諱は承之、字は嗣伯である。若い頃から大志を持ち、才力は人に優れ、同族の丹陽尹の摹之や北兖州刺史の源之からも共に知遇と重用を受けた。初め建威府参軍となり、義熙年間、蜀の賊である譙縦が平定されたばかりの頃、皇考は揚武将軍、安固・汶山二郡太守に転じ、民衆の慰撫に長じた。

原文皇考諱承之,字嗣伯。少有大志,才力過人,宗人丹陽尹摹之、北兖州刺史源之竝見知重。初為建威府參軍,義熙中,蜀賊譙縱初平,皇考遷揚武將軍、安固汶山二郡太守,善於綏撫。

元嘉初年、威烈将軍、済南太守に転任した。七年、右将軍の到彦之が北伐で大敗し、敵が勝ちに乗じて青州の諸郡国を破った。別部隊の将帥である安平公乙旃眷が済南を侵攻したが、皇考は数百の兵を率いて防戦し、これを撃退した。敵軍が大挙集結すると、皇考は兵を伏せさせて城門を開かせた。部下が諫めて言うには、「賊は多く我々は少ないのに、どうしてこれほど軽敵なのですか」と。皇考は言った。「今日、孤立した城を守り、事態は既に危急である。もしさらに弱さを見せれば、必ず屠られるだろう。強さを見せて待つのみである」。敵は伏兵があると疑い、ついに引き上げた。青州刺史の蕭思話が要地を放棄して険阻な地に拠ろうとしたが、皇考は強く諫めて従わず、思話は拠り所を失って敗走した。翌年、征南大将軍の檀道済が寿張で転戦して帰還し、滑台が陥落し、兖州刺史の竺霊秀が罪に問われた。宋の文帝は皇考に城を全うした功績があるとして、都督の長沙王義欣に親書を送り、「承之は民政でも武勇の才に劣らない。今、兖州に任じようと思うが、□□檀征南に詳しく検討させよ」と言った。皇考と道済には旧知の間柄がなかったため、事は立ち消えとなった。輔国鎮北中兵参軍、員外郎に転じた。

原文元嘉初,徙為威烈將軍、濟南太守。七年,右將軍到彥之北伐大敗,虜乘勝破青部諸郡國,別帥安平公乙旃眷寇濟南,皇考率數百人拒戰,退之。虜眾大集,皇考使偃兵開城門。眾諫曰:「賊眾我寡,何輕敵之甚!」皇考曰:「今日懸守窮城,事已危急,若復示弱,必為所屠,惟當見彊待之耳。」虜疑有伏兵,遂引去。青州刺史蕭思話欲委鎮保險,皇考固諫不從,思話失據潰走。明年,征南大將軍檀道濟於壽張轉戰班師,滑臺陷沒,兖州刺史竺靈秀抵罪。宋文帝以皇考有全城之功,手書與都督長沙王義欣曰:「承之理民直亦不在武幹後,今擬為兖州,□□檀征南詳之。」皇考與道濟無素故,事遂寢。遷輔國鎮北中兵參軍、員外郎。

十年、蕭思話が梁州刺史となると、皇考はその横野府司馬、漢中太守となった。氐族の首長楊難当が漢川を侵攻し、梁州刺史の甄法護は城を捨てて逃走した。思話は襄陽に到着したが進軍せず、皇考は軽装の軍を率いて先行し、黄金山で氐の偽魏興太守薛健を攻撃し、これを撃破した。黄金山は張魯の旧い戍で、南は漢川に接し、北は駅道に臨み、極めて険固な地である。健が敗走すると、皇考はただちにこれを占拠した。氐の偽梁・秦二州刺史趙温は先に州城を占拠していたが、皇考の到着を聞くと、小城に退いて拠り、薛健は下桃城に退いて屯し、柴営を築いた。皇考は軍を率いてこれと対峙し、二里の距離を置いた。健と偽馮翊太守の蒲早子が全力で出撃したが、皇考はこれを大破し、健らは営を閉ざして守り、出撃しようとしなかった。思話が続いて到着すると、賊はようやくやや退いた。皇考は進軍して峨公山に至ったが、左衛将軍、沙州刺史の呂平の大軍に包囲され数日が経過した。建武将軍の蕭汪之、平西督護の段虯らが到着し、内外から奮撃してこれを大破した。難当はまた、息子の和に歩騎一万余りを率いさせ、漢水の両岸に挟み撃ちの陣を敷き、趙温を救援させ、皇考を攻撃させた。四十余日対峙した。賊は皆、犀の鎧を着ており、刀や矢では傷つけられなかった。皇考は軍中に命じて、数尺の長さの槊を切断し、大斧でその柄を叩かせた。賊はこれに耐えられず、ついに営を焼いて退却した。皇考は南城まで追撃し、諸軍はその後から進撃し、連戦連勝して梁州は平定された。詔が下り、「承之は命令を受けて先鋒を務め、危険を冒して深く侵入し、全軍を率いて繰り返し勝利し、その忠誠と果断を奮った。龍驤将軍に任ずるべし」と言った。府に従って寧朔司馬に転じ、太守は元の通りであった。

原文十年,蕭思話為梁州刺史,皇考為其橫野府司馬、漢中太守。氐帥楊難當寇漢川,梁州刺史甄法護棄城走,思話至襄陽不進,皇考輕軍前行,攻氐偽魏興太守薛健於黃金山,剋之。黃金山,張魯舊戍,南接漢川,北枕驛道,險固之極。健既潰散,皇考即據之。氐偽梁、秦二州刺史趙溫先據州城,聞皇考至,退據小城,薛健退屯下桃城,立柴營,皇考引軍與對壘,相去二里。健與偽馮翊太守蒲(旱)〔早〕子悉力出戰,皇考大破之,健等閉營自守不敢出,思話繼至,賊乃稍退。皇考進至峨公山,為左衞將軍、沙州刺史呂平大眾所圍積日,建武將軍蕭汪之、平西督護段虯等至,表裏奮擊,大破之。難當又遣息和領步騎萬餘人,夾漢水兩岸,援趙溫,攻逼皇考。相拒四十餘日。賊皆衣犀甲,刀箭不能傷。皇考命軍中斷槊長數尺,以大斧搥其後,賊不能當,乃焚營退。皇考追至南城,眾軍自後而進,連戰皆捷,梁州平。詔曰:「承之稟命先驅,蒙險深入,全軍屢剋,奮其忠果,可龍驤將軍。」隨府轉寧朔司馬,太守如故。

入朝して太子屯騎校尉となった。文帝は氐平定の功労により、青州の欠員を皇考に任せようとした。彭城王義康が政権を握っていたが、皇考はこれに迎合しなかったため、江夏王司徒中兵参軍、龍驤将軍、南泰山太守に転じ、晋興県五等男に封ぜられ、三百四十戸を領した。右軍将軍に転じた。元嘉二十四年に死去、六十四歳であった。梁州の官民は彼を慕い、峨公山に廟を建てて祭祀した。昇明二年、散騎常侍、金紫光禄大夫を追贈された。

原文入為太子屯騎校尉。文帝以平氐之勞,青州缺,將欲授用。彭城王義康秉政,皇考不附,乃轉為江夏王司徒中兵參軍、龍驤將軍、南泰山太守,封晉興縣五等男,邑三百四十戶。遷右軍將軍。元嘉二十四年殂,年六十四。梁土民思之,於峨公山立廟祭祀。昇明二年,贈散騎常侍、金紫光祿大夫。

太祖は元嘉四年丁卯の年に生まれた。容姿は英傑で異なり、龍のような額と鐘のような声、鱗のような文様が全身にあった。儒者の雷次宗が鶏籠山に学問所を設立し、太祖は十三歳で学業を受け、礼と左氏春秋を修めた。十七年、宋の大将軍彭城王義康が罷免され、豫章に鎮守した際、皇考が兵を率いて防衛に当たり、太祖は学業を捨てて南行した。十九年、竟陵の蛮が蜂起ほうきし、文帝は太祖に偏軍を率いて沔北の蛮を討伐させた。二十一年、索虜を討伐し、丘檻山に至り、これを撃破して敗走させた。二十三年、雍州刺史の蕭思話が襄陽に鎮守し、太祖を従軍させるよう上奏し、沔北を守備させ、樊・鄧の諸山の蛮を討伐し、その集落を破った。初め左軍中兵参軍となった。二十七年、索虜が汝南の戍主陳憲を包囲した。朝廷は寧朔将軍の臧質、安蛮司馬の劉康祖を派遣して救援させ、文帝は太祖に命じて旨を伝えさせ、指揮権を授けた。敵主の拓跋燾が彭城に向かっていると聞き、質らは軍を返して救援に向かい、盱眙に至った。太祖は質の別軍の主将である胡宗之ら五軍、歩騎数千人を率いて先鋒を務めたが、燾は既に密かに淮水を渡っており、莞山の下で突然遭遇し、合戦して敗北し、淮水沿いに敗走した。宗之らは皆、捕らえられた。太祖は質のもとに戻って固守し、敵に攻囲され、非常に危急であったが、事態が収まると、京師に帰還した。二十九年、偏軍を率いて仇池を征伐した。梁州の西境には以前から武興戍があり、晋の隆安年間に氐に属していた。武興の西北には蘭皋戍があり、仇池から二百里の距離である。太祖は二つの砦を攻撃し、いずれもこれを破った。ついに谷口から関中に入り、長安まで八十里のところまで来た時、梁州刺史の劉秀之が司馬の馬注を派遣して太祖を助け、談堤城を攻撃させ、これを陥落させた。敵の偽河間公は逃走した。敵の援軍が到着し、太祖の軍は疲弊し兵力も少なく、また文帝の崩御を聞いたため、城を焼いて南鄭に帰還した。晋興県五等男の爵位を襲封した。孝建初年、江夏王大司馬参軍に任じられ、府に従って太宰に転じ、員外郎、直閤中書舎人、西陽王撫軍参軍、建康令に転じた。新安王子鸞が大いに寵愛されていたため、僚佐を簡選し、北中郎中兵参軍となった。陳太后の喪に服したが、喪が明けると武烈将軍に起用され、再び建康令となり、中兵参軍は元の通りであった。景和の世に、後軍将軍に任じられた。明帝が即位した時、右軍将軍となった。

原文太祖以元嘉四年丁卯歲生。姿表英異,龍顙鍾聲,鱗文遍體。儒士雷次宗立學於鷄籠山,太祖年十三,受業,治禮及左氏春秋。十七年,宋大將軍彭城王義康被黜,鎮豫章,皇考領兵防守,太祖舍業南行。十九年,竟陵蠻動,文帝遣太祖領偏軍討沔北蠻。二十一年,伐索虜,至丘檻山,竝破走。二十三年,雍州刺史蕭思話鎮襄陽,啟太祖自隨,戍沔北,討樊、鄧諸山蠻,破其聚落。初為左軍中兵參軍。二十七年,索虜圍汝南戍主陳憲,臺遣寧朔將軍臧質、安蠻司馬劉康祖救之,文帝使太祖宣旨,授節度。聞虜主拓跋燾向彭城,質等回軍救援,至盱眙,太祖與質別軍主胡宗之等五軍,步騎數千人前驅,燾已潛過淮,卒相遇於莞山下,合戰敗績,緣淮奔退,宗之等皆陷沒。太祖還就質固守,為虜所攻圍,甚危急,事寧,還京師。二十九年,領偏軍征仇池。梁州西界舊有武興戍,晉隆安中沒屬氐;武興西北有蘭皋戍,去仇池二百里。太祖擊二壘,皆破之。遂從谷口入關,未至長安八十里,梁州刺史劉秀之遣司馬馬注助太祖攻談堤城,拔之,虜偽河閒公奔走。虜救兵至,太祖軍力疲少,又聞文帝崩,乃燒城還南鄭。襲爵晉興縣五等男。孝建初,除江夏王大司馬參軍,隨府轉太宰,遷員外郎、直閤中書舍人、西(陵)〔陽〕王撫軍參軍、建康令。新安王子鸞有盛寵,簡選僚佐,為北(軍)中郎中兵參軍。陳太后憂,起為武烈將軍,復為建康令,中兵如故。景和世,除後軍將軍。值明帝立,為右軍將軍。

当時、四方で反乱が起こり、会稽太守の尋陽王子房や東方の諸郡が皆挙兵した。明帝は太祖を輔国将軍に加え、軍を率いて東方を討伐させた。晋陵に至り、賊の先鋒将である程捍、孫曇瓘らと戦い、一日で賊の十二の砦を破った。軍を分けて諸県を平定し、晋陵太守の袁摽は城を捨てて逃走し、東方の諸城は相次いで敗走散乱した。

原文時四方反叛,會稽太守尋陽王子房及東諸郡皆起兵,明帝加太祖輔國將軍,率眾東討。至晉陵,與賊前鋒將程捍、孫曇瓘等戰,一日破賊十二壘。分軍定諸縣,晉陵太守袁摽棄城走,東境諸城相繼奔散。

徐州刺史の薛安都が彭城で反乱を起こし、甥の索兒が淮陰を侵し、山陽太守の程天祚が城を挙げて叛き、徐州刺史の申令孫もまた降伏したため、太祖(蕭道成)を召してこれを討たせた。当時、太祖は東方の賊を平定して帰還したばかりで、また南方討伐に向かうことになっており、新亭に出陣して駐屯し、前軍はすでに出発していた。しかし索兒が睢陵から淮河を渡り、騎兵・歩兵合わせて一万余りで、朝廷軍の主将孫耿を撃ち殺し、兵を放って前軍の張永の陣営に迫り、救援を求めてきた。明帝は賊が渡河したと聞くと、急いで太祖を追い返して救援に向かわせ、破釜に駐屯させた。索兒は鍾離に向かい、張永は寧朔将軍の王寛を派遣して盱眙を占拠させ、その帰路を遮断した。索兒は朝廷軍の主将高道慶を撃破し、石鼈でこれを敗走させ、西へ帰還しようとした。王寛と軍主の任農夫は先に白鵠澗を占拠し、張永は太祖を派遣して王寛を急ぎ督戦させた。索兒は東から太祖を邀撃し、前進を阻んだ。太祖は太鼓を鳴らして行進し陣を構え、まっすぐに王寛の陣営に入った。索兒はこれを見て攻撃を敢行できなかった。数日を経て、索兒は軍を率いて石梁に駐屯し、太祖はこれを追って葛冢に至った。斥候の騎兵が戻って賊が来たと報告したので、太祖は軍を駐屯させて陣営を引き、両翼に騎兵を配置して陣営の外で待ち受けた。間もなく、賊の騎兵・歩兵が突然到来し、さらに火車を数道押し出して攻撃してきた。一日中相対した後、軽兵を出して賊の西側を攻撃し、騎兵に命じてその背後を挟撃させると、賊軍は大敗し、追撃してその武器を鹵獲した。進軍して石梁澗の北に駐屯した。索兒は夜に千人を派遣して陣営を襲撃した。陣営内は騒然としたが、太祖は寝たまま起き上がらず、左右に命令して部署ごとに動かないようにさせた。しばらくして賊は散った。太祖は石梁の西南の高地に陣を築いて南道と連絡し、賊の退路を断つことを提案した。索兒は果たしてこれを争いに来たので、太祖は軍を率いてこれを撃破し、賊の馬は互いに踏みつけ合って死んだ。索兒は鍾離へ逃げ、太祖は黯黮まで追撃してから帰還した。驍騎将軍に任じられ、西陽県侯に封ぜられ、封邑六百戸を与えられた。

原文徐州刺史薛安都反彭城,從子索兒寇淮陰,山陽太守程天祚舉城叛,徐州刺史申令孫又降,徵太祖討之。時太祖平東賊還,又將南討,出次新亭,前軍已發,而索兒自睢陵渡淮,馬步萬餘人,擊殺臺軍主孫耿,縱兵逼前軍張永營,告急。明帝聞賊渡,遽追太祖往救之,屯破釜。索兒向鍾離,永遣寧朔將軍王寬據盱眙,遏其歸路。索兒擊破臺軍主高道慶,走之於石鼈,將西歸。王寬與軍主任農夫先據白鵠澗,張永遣太祖馳督寬,索兒東要擊太祖,使不得前。太祖鼓行結陣,直入寬壘,索兒望見不敢發。經數日,索兒引軍頓石梁,太祖追之至葛冢,候騎還云賊至,太祖乃頓軍引管,分兩馬軍夾營外以待之。俄頃,賊馬步奄至,又推火車數道攻戰。相持移日,乃出輕兵攻賊西,使馬軍合擊其後,賊眾大敗,追奔獲其器仗。進屯石梁澗北。索兒夜遣千人來斫營,營中驚,太祖臥不起,宣令左右案部不得動,須臾賊散。太祖議欲於石梁西南高地築壘通南道,斷賊走路,索兒果來爭之,太祖率軍擊破之,賊馬自相踐藉死。索兒走向鍾離,太祖追至黯黮而還。除驍騎將軍,封西陽縣侯,邑六百戶。

巴陵王の衛軍司馬に転任し、会稽に駐屯する王に従った。江州刺史の晋安王劉子勛が臨川内史の張淹を派遣し、鄱陽の山道から三呉に入らせた。朝廷軍の主将沈思仁は偽の龍驤将軍任皇、鎮西参軍劉越緒とそれぞれ険要の地を占拠して対峙していた。明帝は太祖に三千人を率いて討伐するよう命じた。当時、朝廷の武器・甲冑はすべて南方討伐に充てられており、太祖の軍の装備は乏しかった。そこで棕櫚の皮を編んで馬具を作り、竹を割って寄生(馬具の装飾)とし、夜に火を掲げて進軍した。賊はこれを見て恐れ、戦わずして逃走した。帰還後、桂陽王の征北司馬、南東海太守、行南徐州事に任じられた。

原文遷巴陵王衞軍司馬,隨鎮會稽。江州刺史晉安王子勛遣臨川內史張淹自鄱陽嶠道入三吳,臺軍主沈思仁與偽龍驤將軍任皇、鎮西參軍劉越緒各據險相守。明帝遣太祖領三千人討之。時朝廷器甲皆充南討,太祖軍容寡闕,乃編椶皮為馬具裝,析竹為寄生,夜舉火進軍,賊望見恐懼,未戰而走。還除桂陽王征北司馬、南東海太守、行南徐州事。

当初、明帝は張永と沈攸之に大軍を率いさせて薛安都を説得して降伏させようとしたが、太祖に言った。「私は今これに乗じて北方を討伐しようと思うが、卿はどう思うか。」太祖は答えた。「安都は才識は足りず、狡猾さは余っている者です。手綱を長く取って緩やかに御するならば、必ずや子を朝廷に遣わしてくるでしょう。今、兵をもって逼迫すれば、彼は恐れて策を巡らすことになり、国の利益にはならない恐れがあります。」帝は言った。「諸軍は猛鋭であり、どこへ行っても打ち破れない。卿はいつも策を弄するが、余計なことを言わないでくれ。」安都は兵が来たのを見て、果たして索虜(北魏)を引き入れ、張永らは彭城で敗北した。淮南が孤立して弱体化したため、太祖を仮の冠軍将軍、持節、都督北討前鋒諸軍事とし、淮陰に駐屯させた。

原文初,明帝遣張永、沈攸之以眾喻降薛安都,謂太祖曰:「吾今因此北討,卿意以為何如?」太祖對曰:「安都才識不足,狡猾有餘。若長轡緩御,則必遣子入朝;今以兵逼之,彼將懼而為計,恐非國之利也。」帝曰:「眾軍猛銳,何往不剋。卿每杖策,幸勿多言。」安都見兵至,果引索虜,永等敗於彭城。淮南孤弱,以太祖為假冠軍將軍、持節、都督北討前鋒諸軍事,鎮淮陰。

泰始三年、沈攸之と呉喜が睢口で北方に敗れ、諸城の守備兵は大小を問わずすべて敗走して帰還した。虜(北魏軍)はついに淮北に進み、角城を包囲した。守将の賈法度は力が弱く対抗できなかった。諸将は太祖に岸を渡って救援するよう勧めたが、太祖は許さず、軍主の高道慶に数百張りの弩を持たせて淮河に浮かぶ軍艦に乗せ、遠くから城外の虜を射させた。弩を一度放つと数百本の矢が一斉に飛び、虜の騎兵は互いに引き合って避けた。そこで進撃を命じると、城の包囲は即座に解けた。督南兗徐二州諸軍事、南兖州刺史に転任し、持節、仮冠軍、督北討の職は従前の通りとした。五年、督兖、青、冀三州の職務を加えられた。六年、黄門侍郎に任じられ、越騎校尉を兼任したが、拝命しなかった。再び冠軍将軍を授けられ、本来の職務に留まった。

原文泰始三年,沈攸之、吳喜北敗於睢口,諸城戍大小悉奔歸,虜遂(退)〔進〕至淮北,圍角城,戍主賈法度力弱不敵。諸將勸太祖渡岸救之,太祖不許,遣軍主高道慶將數百張弩浮艦淮中,遙射城外虜,弩一發數百箭俱去,虜騎相引避之,乃命進戰,城圍即解。遷督南兖徐二州諸軍事、南兖州刺史,持節、假冠軍、督北討如故。五年,進督兖、青、冀三州。六年,除黃門侍郎,領越騎校尉,不拜。復授冠軍將軍,留本任。

明帝は常々、太祖に人臣の相ではないと疑念を抱き、民間では「蕭道成が天子となるだろう」という流言が広まっていたので、明帝はますます疑いを深め、冠軍将軍の呉喜に三千人を率いさせて北方に派遣し、呉喜に軍を破釜に留め置かせ、自ら銀の壺に入れた酒を持って太祖に賜った。太祖は軍服姿で門を出て迎え、すぐに酌んで飲んだ。呉喜が帰還すると、帝の心はようやく和らいだ。七年、京師に召還された。部下は召還に応じないよう勧めたが、太祖は言った。「諸卿は事態を見通せていない。主上は自ら諸弟を誅殺したが、それは太子が幼弱であるため、万歳(崩御)後のことを考えてのことであり、他の一族に関わることではない。ただ速やかに出発すべきであり、事を緩めれば必ず疑われることになる。今、骨肉が互いに害し合っているのは、もとより長く続く運命ではなく、禍難が起ころうとしているのだ。まさに卿らと力を合わせる時である。」散騎常侍、太子左衛率に任じられた。当時、世祖(蕭賾)は功績により別に贛県に封ぜられることになっていたが、太祖は一門で二つの封を受けることを固辞して受けず、詔によって許された。封邑二百戸を加増された。

原文明帝常嫌太祖非人臣相,而民間流言,云「蕭道成當為天子」,明帝愈以為疑,遣冠軍將軍吳喜以三千人北使,令喜留軍破釜,自持銀壺酒封賜太祖。太祖戎衣出門迎,即酌飲之。喜還,帝意乃悅。七年,徵還京師,部下勸勿就徵,太祖曰:「諸卿闇於見事。主上自誅諸弟,為太子稚弱,作萬歲後計,何關佗族。惟應速發,事緩必見疑。今骨肉相害,自非靈長之運,禍難將興,方與卿等勠力耳。」拜散騎常侍、太子左衞率。時世祖以功當別封贛縣,太祖以一門二封,固辭不受,詔許之。加邑二百戶。

明帝が崩御し、遺詔によって右衛将軍に任じられ、衛尉を兼任し、兵五百人を加えられた。尚書令の袁粲、護軍の褚淵、領軍の劉勔と共に機密事項を執り行った。また別に東北選事を管轄した。まもなく衛尉の職を解かれ、侍中を加えられ、石頭戍軍事を兼任した。

原文明帝崩,遺詔為右衞將軍,領衞尉,加兵五百人。與尚書令袁粲、護軍褚淵、領軍劉勔共掌機事。又別領東北選事。尋解衞尉,加侍中,領石頭戍軍事。

明帝が宗室や外戚を誅殺したが、江州刺史の桂陽王劉休範は凡庸な人物であったため命を全うした。蒼梧王(後廃帝劉昱)が即位すると、さらに帝位を窺う野心を抱き、密かに左右の宦官と後堂で馬を走らせる練習をし、亡命者を招き集めた。元徽二年五月、尋陽で挙兵し、官民を収奪・略奪して、数日で整え、兵二万人、騎兵五百騎を擁した。盆口から出発し、すべて商旅の船を用いた。大雷の守将杜道欣、鵲頭の守将劉諐期が変事を報告し、朝廷は惶恐した。太祖と護軍の褚淵、征北将軍の張永、領軍の劉勔、僕射の劉秉、游撃将軍の戴明宝、驍騎将軍の阮佃夫、右軍将軍の王道隆、中書舎人の孫千齢、員外郎の楊運長が中書省に集まって協議したが、発言する者はいなかった。太祖は言った。「かつて上流(長江上流)で謀反が起きた時は、すべて対応が遅れたために敗北に至った。休範は必ずや過去の失敗を深く戒め、軽兵を率いて急ぎ下り、我が方の無備に乗じるだろう。今、事態に対応する策としては、遠方に気を取られるべきではない。もし一部の軍が規律を失えば、大いに人心を沮喪させる。新亭と白下に駐屯し、宮掖、東府、石頭を堅守して待つべきである。賊は千里の孤軍で、後方に補給物資がなく、戦いを求めることもできず、自然に瓦解する。私は新亭に駐屯してその鋒先に当たりたい。征北将軍(張永)は現有の軍勢で白下を守るべきである。中堂は以前から兵を置く場所であり、領軍(劉勔)は宣陽門に駐屯して諸軍を指揮統制すべきである。諸貴人は殿中に安座し、右軍将軍以下の者は競って出る必要はない。私が先鋒となって賊を必ず破る。」そこで筆を求めて意見を書き、皆が同意を注記した。中書舎人の孫千齢は休範と密約があったため、ただ一人言った。「従来通り軍を派遣して梁山と魯顯の間に拠るべきです。右衛将軍が白下に出なければ、南州に進んで駐屯すべきです。」太祖は厳しい表情で言った。「賊は今や近くに迫っている。梁山にどうして到達できようか。新亭は兵家の要衝であり、私はここで死を以て国に報いようとしているのだ。平時ならば屈して従うこともできようが、今はできない。」座を立つと、太祖は劉勔を見て言った。「領軍はすでに私の意見に同意した。変更はできない。」そこで単身で白服を着て新亭に出た。太祖は使持節、都督征討諸軍、平南将軍を加えられ、鼓吹一部を加えられた。

原文明帝誅戮蕃戚,江州刺史桂陽王休範以人凡獲全。及蒼梧王立,更有窺窬之望,密與左右閹人於後堂習馳馬,招聚亡命。元徽二年五月,舉兵於尋陽,收略官民,數日便辦,眾二萬人,騎五百匹。發盆口,悉乘商旅船舫。大雷戍主杜道欣、鵲頭戍主劉諐期告變,朝廷惶駭。太祖與護軍褚淵、征北張永、領軍劉勔、僕射劉秉、游擊將軍戴明寶、驍騎將軍阮佃夫、右軍將軍王道隆、中書舍人孫千齡、員外郎楊運長集中書省計議,莫有言者。太祖曰:「昔上流謀逆,皆因淹緩,至於覆敗。休範必遠懲前失,輕兵急下,乘我無備。今應變之術,不宜念遠,若偏師失律,則大沮眾心。宜頓新亭、白下,堅守宮掖、東府、石頭以待。賊千里孤軍,後無委積,求戰不得,自然瓦解。我請頓新亭以當其鋒;征北可以見甲守白下;中堂舊是置兵地,領軍宜屯宣陽門為諸軍節度;諸貴安坐殿中,右軍諸人不須競出,我自前驅,破賊必矣。」因索筆下議,竝注同。中書舍人孫千齡與休範有密契,獨曰:「宜依舊遣軍據梁山、魯顯閒,右衞若不出白下,則應進頓南州。」太祖正色曰:「賊今已近,梁山豈可得至。新亭既是兵衝,所以欲死報國耳。常日乃可屈曲相從,今不得也。」座起,太祖顧謂劉勔曰:「領軍已同鄙議,不可改易。」乃單車白服出新亭。加太祖使持節、都督征討諸軍、平南將軍,加鼓吹一部。

新亭の城塁の修築がまだ完了しないうちに、賊の前軍がすでに到来した。太祖はちょうど衣を解いて高臥しており、これによって衆心を安定させた。そこで白虎幡を求め、西の城壁に登り、寧朔将軍の高道慶、羽林監の陳顕達、員外郎の王敬則に命じて船で賊と水戦させ、新林から赤岸にかけて大破し、その船艦を焼き、死傷者は甚だ多かった。賊は歩兵で新林に上陸した。太祖は急使を走らせて劉勔に報告し、大小の桁橋を急いで開き、淮中の船をすべて北岸に渡らせるよう命じた。

原文治新亭城壘未畢,賊前軍已至,太祖方解衣高臥,以安眾心。乃索白虎幡,登西垣,使寧朔將軍高道慶、羽林監陳顯達、員外郎王敬則浮舸與賊水戰,自新林至赤岸,大破之,燒其船艦,死傷甚眾。賊步上新林,太祖馳使報劉勔,急開大小桁,撥淮中船舫,悉渡北岸。

劉休範は肩輿に乗って軍勢を率いて陣営の南に至り、上(皇帝)は寧朔将軍の黄回と馬軍主の周盤龍に歩兵と騎兵を率いさせて陣営から出て対陣させた。休範は兵を分けて陣営の東を攻撃し、短兵で戦闘が始まり、巳の刻から午の刻まで続き、兵士たちは皆顔色を失った。太祖(蕭道成)は言った。「賊は多いが乱れている。まもなく打ち破られるだろう。」楊運長が三斉の射手七百人を率い、強弓を引いて命中させたので、賊は城に迫ることができなかった。未の刻、張敬兒が休範の首を斬った。太祖は隊主の陳霊宝に命じてその首を朝廷に送らせたが、霊宝は途中で賊軍に遭遇し、首を道端に埋めた。朝廷軍は休範の首を見られず、ますます疑い恐れた。賊軍も休範がすでに死んだことを知らず、別の将である杜黒蠡が陣営の東を急攻し、司空主簿の蕭恵朗が数百人を率いて東門に突入し、叫び騒ぎながら堂下まで来たので、城上の守門兵は退却した。太祖は身を挺して馬に乗り、数百人を率いて出戦した。賊は皆楯を押し立てて前進し、数丈の距離で兵を分けて横から射かけ、太祖は弓を引き絞って発射しようとした。側近の将である戴仲緒が楯を挙げて防いだので、矢は手に応じて羽を飲み込み、百余人を傷つけた。賊は死に物狂いで戦ったが支えきれず、ついに退却した。諸軍は再び城を守ることができ、黒蠡と対峙して戦い、申の刻から翌朝まで、矢と石が絶えなかった。その夜は大雨で、太鼓や叫び声も互いに聞こえず、将兵は何日も寝食ができず、軍中の馬は夜驚きし、城内では乱れて走り回った。太祖は燭を手に持って正座し、声を荒げてこれを制止し、このようなことが数回あった。

原文休範乘肩輿率眾至壘南,上遣寧朔將軍黃回、馬軍主周盤龍將步騎出壘對陣。休範分兵攻壘東,短兵接戰,自巳至午,眾皆失色。太祖曰:「賊雖多而亂,尋破也。」楊運長領三齊射手七百人,引彊命中,故賊不得逼城。未時,張敬兒斬休範首。太祖遣隊主陳靈寶送首還臺,靈寶路中遇賊軍,埋首道側。臺軍不見休範首,愈疑懼。賊眾亦不知休範已死,別率杜黑蠡急攻壘東,司空主簿蕭惠朗數百人突入東門,叫噪至堂下,城上守門兵披退。太祖挺身上馬,率數百人出戰,賊皆推楯而前,相去數丈,分兵橫射,太祖引滿將發,左右將戴仲緒舉楯扞之,箭應手飲羽,傷百餘人,賊死戰不能當,乃卻。眾軍復得保城,與黑蠡拒戰,自晡達明旦,矢石不息。其夜大雨,皷叫不復相聞,將士積日不得寢食,軍中馬夜驚,城內亂走,太祖秉燭正坐,厲聲呵止之,如此者數四。

賊の将帥である丁文豪が皁莢橋で伏兵を設けて朝廷軍を破り、朱雀桁まで進んだ。劉勔は桁を開けようとしたが、王道隆が従わず、勔と道隆はともに戦死した。初め、劉勔はその志を高く掲げ、園宅を造ることに託けて「東山」と名付け、世の務めをかなり軽んじていた。太祖は彼に言った。「将軍は顧命の重責を負い、内外を兼ねて任に当たっている。主上は年若く、諸王も皆幼少であり、上流の評判は遠近に聞こえている。これは将軍にとって困難な時であるのに、将軍は深くゆったりとした態度を尊び、羽翼を廃し省いている。一朝事が起こったならば、たとえ後悔してもどうして追いつけようか。」勔は結局受け入れなかった。

原文賊帥丁文豪設伏破臺軍於皁莢橋,直至朱雀桁,劉勔欲開桁,王道隆不從,勔及道隆竝戰沒。初,勔高尚其意,託造園宅,名為「東山」,頗忽世務。太祖謂之曰:「將軍以顧命之重,任兼內外,主上春秋未幾,諸王竝幼沖,上流聲議,遐邇所聞,此是將軍艱難之日,而將軍深尚從容,廢省羽翼,一朝事至,雖悔(可)〔何〕追。」勔竟不納。

賊は杜姥宅まで進み、車騎典籤の茅恬が東府を開いて賊を迎え入れ、冠軍将軍の沈懐明は石頭から敗走し、張永は白下で潰走し、宮内では新亭も陥落したと伝えられ、太后は蒼梧王の手を取って泣いて言った。「天下は敗れた!」太祖は軍主の陳顕達、任農夫、張敬児、周盤龍らを派遣し、石頭から淮水を渡り、間道から承明門に入って宮闕を守護させた。

原文賊進至杜姥宅,車騎典籤茅恬開東府納賊,冠軍將軍沈懷明於石頭奔散,張永潰於白下,宮內傳新亭亦陷,太后執蒼梧王手泣曰:「天下敗矣!」太祖遣軍主陳顯達、任農夫、張敬兒、周盤龍等,從石頭濟淮,閒道從承明門入衞宮闕。

休範が死ぬと、典籤の許公与が休範が新亭にいると偽って言い、士民は慌て惑い、陣営に名を投じてくる者が数千人に及んだ。太祖は得るやいなやそれを焼き捨て、兵を並べて城北に登り、言った。「劉休範父子は先日すでに皆誅殺され、屍は南岡の下にある。私は蕭平南(蕭道成)である。諸君はよく見よ!君たちの名はすでに焼き捨てた。恐れることはない。」朝廷は軍勢を分遣して杜姥宅、宣陽門の諸賊を攻撃し、皆これを打ち破って平定した。太祖は軍を整えて凱旋して入城すると、民衆は道端に集まって見物し、言った。「国家を全うしたのはこの公だ。」

原文休範既死,典籤許公與詐稱休範在新亭,士庶惶惑,詣壘投名者千數,太祖隨得輒燒之,乃列兵登城北,謂曰:「劉休範父子先昨皆已即戮,屍在南岡下,身是蕭平南,諸君善見觀!君等名皆已焚除,勿有懼也。」臺分遣眾軍擊杜姥宅、宣陽門諸賊,皆破平之。太祖振旅凱入,百姓緣道聚觀,曰:「全國家者此公也。」

太祖は袁粲、褚淵、劉秉とともに引責して辞職を申し出たが、許されなかった。散騎常侍、中領軍、都督南兗徐兖青冀五州諸軍事、鎮軍将軍、南兖州刺史に転じ、持節はもとの通りとした。爵位を公に進め、封邑を二千戸増やした。太祖はその功績を分かちたいと考え、袁粲らの封邑を増やすよう請い、さらに日を改めて宮中に入り政事を決裁し、「四貴」と称された。秦の時代に太后、穣侯、涇陽君、高陵君があり、「四貴」と称されたが、この時に至って再びこれがあったのである。四年、太祖に尚書左僕射を加え、本官はもとの通りとした。

原文太祖與袁粲、褚淵、劉秉引咎解職,不許。遷散騎常侍、中領軍、都督南兖徐兖青冀五州軍事、鎮軍將軍、南兖州刺史,持節如故。進爵為公,增邑二千戶。太祖欲分其功,請益粲等戶,更日入直決事,號為「四貴」。秦時有太后、穰侯、涇陽、高陵君,稱為「四貴」,至是乃復有焉。四年,加太祖尚書左僕射,本官如故。

休範平定後、蒼梧王は次第に凶暴な行いをするようになり、南徐州刺史の建平王劉景素は若い頃から良い評判があり、朝野の人心を集めていた。景素もひそかに身を全うする計略をめぐらし、太祖に誠意を示したが、太祖は拒絶して受け入れなかった。七月、羽林監の袁祗が景素のもとに奔り、すぐに挙兵した。太祖は出陣して玄武湖に駐屯し、諸軍を派遣して北討させ、事態が平定されてから帰還した。

原文休範平後,蒼梧王漸行凶暴,南徐州刺史建平王景素少有令譽,朝野歸心。景素亦潛為自全之計,布款誠於太祖,太祖拒而不納。七月,羽林監袁祗奔景素,便舉兵,太祖出屯玄武湖,遣眾軍北討,事平乃還。

太祖の威名が重くなるにつれ、蒼梧王は深く猜疑し忌み嫌い、危うく大禍を加えるところであった。陳太妃が彼を罵って言った。「蕭道成は国に功績がある。今もし彼を害すれば、後で誰がまたお前に力を尽くすというのか。」そこでやめた。

原文太祖威名既重,蒼梧王深相猜忌,幾加大禍。陳太妃罵之曰:「蕭道成有功於國,今若害之,後誰復為汝著力者?」乃止。

太祖は密かに廃立を謀った。五年七月戊子の日、帝(蒼梧王)は微行して北湖に出た。いつも単騎で先に走り、儀仗や禁衛が後を追ったが、堤防で互いに踏みつけ合い、側近の張互児の馬が湖に落ちた。帝は怒り、その馬を光明亭の前に置き、自ら馬を走らせてこれを刺し殺し、それから共に屠り切り裂き、側近とともに羌胡の伎楽をして楽しんだ。また蛮岡で跳躍を賭けた。夕方になって仁寿殿東の阿の氈屋の中で寝た。側近の楊玉夫に言った。「織女が渡るのを見計らって、私に報告せよ。」当時は殺害が常軌を逸し、人は皆危惧を抱いていた。玉夫はその仲間の陳奉伯ら二十五人と共謀し、氈屋の中で千牛刀を取り出して蒼梧王を殺し、詔勅と称して、廂下で伎楽を奏させ、その首を持ち出して王敬則に渡し、敬則は太祖に送った。太祖は夜、承明門から常に乗っていた赤い馬に乗って入城すると、殿内は驚き恐れたが、蒼梧王の死を知ると、皆万歳を称した。太祖が即位すると、この馬を「龍驤将軍」と号し、世間では「龍驤赤」と呼んだ。

原文太祖密謀廢立。五年七月戊子,帝微行出北湖,常單馬先走,羽儀禁衞隨後追之,於堤塘相蹈藉,左右張互兒馬墜湖,帝怒,取馬置光明亭前,自馳騎刺殺之,因共屠割,與左右作羌胡伎為樂。又於蠻岡賭跳。際夕乃還仁壽殿東阿氈屋中寢。語左右楊玉夫:「伺織女度,報我。」時殺害無常,人懷危懼。玉夫與其黨陳奉伯等二十五人同謀,於氈屋中取千牛刀殺蒼梧王,稱敕,使廂下奏伎,因將首出與王敬則,敬則送太祖。太祖夜從承明門乘常所騎赤馬入,殿內驚怖,既知蒼梧王死,咸稱萬歲。及太祖踐阼,號此馬為「龍驤將軍」,世謂為「龍驤赤」。

翌日、太祖は軍服を着て殿庭の槐の木の下に出て、四貴を召集して会議した。太祖は劉秉に言った。「丹陽(尹)は国家の重い外戚である。今日のことは、帰属すべきところがある。」秉は自分には当たらないと辞退した。太祖は次に袁粲に譲ったが、粲もまた受けなかった。太祖はそこで議を下し、法駕を整えて東城に行き、順帝を迎え立てた。このとき長刀を持った者が袁粲、劉秉らを遮り、彼らはそれぞれ顔色を失って去った。甲午の日、太祖は東府に移って鎮守し、袁粲、褚淵、劉秉とともにそれぞれ甲冑と武器を持った兵五十人を連れて殿中に入った。丙申の日、侍中、司空、録尚書事、驃騎大将軍に進位し、持節、都督、刺史はもとの通りとし、竟陵郡公に封じられ、封邑五千戸を与えられ、油幢絡車と班剣三十人を賜った。太祖は固辞して上臺(三公の位)を辞し、驃騎大将軍、開府儀同三司となった。庚戌の日、南徐州刺史を都督することを加えられた。楊玉夫ら二十五人に爵位と封邑をそれぞれ差等をつけて与えた。十月戊辰の日、さらに豫州、司州の二州を都督することを加えられた。

原文明日,太祖戎服出殿庭槐樹下,召四貴集議。太祖謂劉秉曰:「丹陽國家重戚,今日之事,屬有所歸。」秉讓不當。太祖次讓袁粲,粲又不受。太祖乃下議,備法駕詣東城,迎立順帝。於是長刀遮粲、秉等,各失色而去。甲午,太祖移鎮東府,與袁粲、褚淵、劉秉各甲仗五十人入殿。丙申,進位侍中、司空、錄尚書事、驃騎大將軍,持節、都督、刺史如故,封竟陵郡公,邑五千戶,給油幢絡車,班劍三十人。太祖固辭上台,即驃騎大將軍、開府儀同三司。庚戌,進督南徐州刺史。封楊玉夫等二十五人爵邑各有差。十月戊辰,又進督豫、司二州。

初め、荊州刺史の沈攸之は太祖と景和年間に同じく殿省に仕え、親しく交わり、長女の義興公主を攸之の三男の元和に嫁がせた。攸之が郢州にいた時、明帝の晩年に当たり、ひそかに異心を抱いていた。郢州から荊州に転じると、兵力を集め、将吏が逃亡すると、すぐに隣接する伍を人質に取って討った。飼育する馬は二千余匹に及び、皆これらを戍邏の将兵に分け与え、耕田させて自ら食わせ、倉庫の財物はすべて倉庫に満たした。荊州の作部は毎年数千人分の武器を送っていたが、攸之はこれを切り取って留め、帳簿上は四山の蛮討伐に供するとした。数百千艘の戦艦を建造修理し、霊溪裏に沈め、銭帛や器械は巨大に積み上げられ、朝廷はこれを畏れた。高道慶の家は華容にあり、休暇で帰郷する途中江陵に立ち寄った。道慶はもともと馬術に長けていたので、攸之は宴飲を催し、庁事の前で馬と槊を合わせた。道慶の槊が攸之の馬鞍を破ったので、攸之は怒り、刃のついた槊を求め、道慶は馬を走らせて逃げ出した。都に戻ると、攸之の反逆の様子を述べ、三千人で襲撃することを請うたが、朝廷の議論はその事が成功し難いと考え、太祖もまたこれを支持して許さなかった。太祖が廃立を成し遂げると、攸之の子で司徒左長史の元琰を派遣し、蒼梧王の諸々の虐害の器物を持たせて攸之に見せた。攸之はすぐには挙兵できず、上表して慶賀を称し、また太祖に書を送って功績を推した。

原文初,荊州刺史沈攸之與太祖於景和世同直殿省,申以歡好,以長女義興公主妻攸之第三子元和。攸之為郢州,值明帝晚運,陰有異圖。自郢州遷為荊州,聚斂兵力,將吏逃亡,輒討質隣伍。養馬至二千餘匹,皆分賦戍邏將士,使耕田而食,廩財悉充倉儲。荊州作部歲送數千人仗,攸之割留,簿上供討四山蠻。裝治戰艦數百千艘,沈之靈溪裏,錢帛器械巨積,朝廷畏之。高道慶家在華容,假還過江陵,道慶素便馬,攸之與宴飲,於聽事前合馬槊,道慶槊中破攸之馬鞍,攸之怒,索刃槊,道慶馳馬而出。還都,說攸之反狀,請三千人襲之,朝議慮其事難濟,太祖又保持不許。太祖既廢立,遣攸之子司徒左長史元琰賫蒼梧王諸虐害器物示之,攸之未得即起兵,乃上表稱慶,并與太祖書推功。

沈攸之は十数行の白絹の書状を持っており、常に裲襠の角に隠し持っていて、これは明帝が自分と交わした誓約の文書であると言っていた。十二月、ついに挙兵した。彼の妾の崔氏と許氏が沈攸之を諫めて言った。「貴方はもう年を取られています。どうして一族のことを考えないのですか!」沈攸之は裲襠の角を指さして示し、太后の命令で自分を都に召還するのだと言った。都は恐怖に陥った。乙卯の日、太祖(蕭道成)は朝堂に入り、諸将に西征を命じ、平西将軍の黄回を都督の先鋒とした。

原文攸之有素書十數行,常韜在裲襠角,云是明帝與己約誓。十二月,遂舉兵。其妾崔氏、許氏諫攸之曰:「官年已老,那不為百口計!」攸之指裲襠角示之,稱太后令召己下都。京師恐懼。乙卯,太祖入居朝堂,命諸將西討,平西將軍黃回為都督前驅。

前湘州刺史の王蘊は、太后の兄の子であり、若い頃から胆力があり、父の王楷が名声と官位で成功しなかったため、将軍の道で自ら奮起しようとした。いつも刀を撫でて言った。「龍淵、太阿よ、お前たちは私を知っている。」叔父の王景文が戒めて言った。「阿答(王蘊の幼名)よ、お前は我が家門を滅ぼすつもりか!」王蘊は言った。「答(自分)と童烏(王絢の幼名)とでは、貴賤が違うと感じます。」童烏は王景文の子の王絢の幼名であり、答は王蘊の幼名である。王蘊は母の喪に服して職を辞し、巴陵に戻る途中、船を一ヶ月停泊させ、毎日沈攸之と密かに連絡を取り合った。当時、沈攸之はすぐには挙兵できなかったので、王蘊は下って郢州に赴いた。世祖(蕭賾)が郢州長史であった時、王蘊は世祖が弔問に出るのを待ち、それに乗じて乱を起こし郢城を占拠しようとしたが、世祖はそれを察知して出なかった。王蘊は東府の前に戻り、また太祖が出るのを待ったが、太祖もまた弔問に出なかった。二度の計画が失敗し、外部での謀略はますます固くなった。

原文前湘州刺史王蘊,太后兄子,少有膽力,以父揩名宦不達,欲以將途自奮。每撫刀曰:「龍淵、太阿,汝知我者。」叔父景文誡之曰:「阿答,汝滅我門戶!」蘊曰:「答與童烏貴賤覺異。」童烏,景文子絢小字;答,蘊小字也。蘊遭母喪罷任,還至巴陵,停舟一月,日與攸之密相交構。時攸之未便舉兵,蘊乃下達郢州。世祖為郢州長史,蘊期世祖出弔,因作亂據郢城,世祖知之,不出。蘊還至東府前,又期太祖出,太祖又不出弔,再計不行,外謀愈固。

司徒の袁粲と尚書令の劉秉は、太祖の威勢と権力が次第に盛んになるのを見て、自らの安泰を憂慮し、王蘊や黄回らと結託して挙兵を計画した。殿内の宿衛の主帥たちは、皆これに協力した。沈攸之の反乱の報せが初めて届いた時、太祖は石頭城に行って袁粲と協議しようとしたが、袁粲は病気と称して会おうとしなかった。壬申の夜に決起して石頭城を占拠することに決め、劉秉は臆病で、午後三時から五時ごろ、丹陽郡から婦女子を車に乗せて石頭城に入り、朝廷はこれを知らなかった。その夜、丹陽丞の王遜が変事を報告し、劉秉の従弟で領軍将軍の劉韞と直閤将軍の卜伯興らが厳重に兵を整えて内応しようとした。太祖は王敬則に命じて宮中で彼らを誅殺させた。諸将を派遣して石頭城を攻撃させると、王蘊は数百の精鋭を率いて鎧を着て袁粲のもとへ駆けつけたが、城門はすでに閉ざされ、官軍もまた到着したため、散り散りになった。諸軍が石頭城を攻撃し、袁粲を斬り、劉秉は雒檐湖へ逃げ、王蘊は鬪場へ逃げたが、ともに捕らえられ斬られた。

原文司徒袁粲、尚書令劉秉見太祖威權稍盛,慮不自安,與蘊及黃回等相結舉事,殿內宿衞主帥,無不協同。攸之反問初至,太祖往石頭與粲謀議,粲稱疾不相見。剋壬申夜起兵據石頭,劉秉恇怯,晡時,從丹陽郡載婦女入石頭,朝廷不知也。其夜,丹陽丞王遜告變,秉從弟領軍(韜)〔韞〕及直閤將軍卜伯興等嚴兵為內應。太祖命王敬則於宮內誅之。遣諸將攻石頭,王蘊將數百精手帶甲赴粲,城門已閉,官軍又至,乃散。眾軍攻石頭,斬粲,劉秉走雒檐湖,蘊逃鬪場,並禽斬之。

袁粲は地位と任務が重かったが、世を治める方策はなく、おおらかで酒を好み、白楊の生い茂る郊野を散策し、道で士大夫に出会うと、すぐに呼び止めて痛飲した。翌日、その人は知己を得たと思い、門を訪れて面会を求めたが、袁粲は言った。「昨日は酒の相手がいなかったので、ただ誘っただけだ。」結局、会おうとしなかった。かつて五言詩を作り、「跡を訪うるは中宇に雖も、寄る所を循るは乃ち滄州なり」と詠んだ。これが彼の志であった。

原文粲位任雖重,無經世之略,踈放好酒,步屧白楊郊野閒,道遇一士大夫,便呼與酣飲。明日,此人謂被知顧,到門求通,粲曰:「昨飲酒無偶,聊相要耳。」竟不與相見。嘗作五言詩云:「訪迹雖中宇,循寄乃滄州。」蓋其志也。

劉秉は若い頃、宗室として清廉で慎み深いことで知られ、孝武帝の時代、劉秉の弟の劉遐が嫡母の殷氏の養女と密通した罪に坐り、殷氏が亡くなった時、口から血を流したため、人々は毒殺を疑い、孝武帝は劉秉の従弟の劉祗に命じて劉秉にこの事実を証言するよう上奏させるよう促した。劉秉は言った。「道行く人でさえ、そんなことをすべきではない。まして今日、一族を共に滅ぼすことなどできません。詔勅に従うわけにはいきません。」人々はこれをもって彼を称賛した。ゆえに明帝に任用された。蒼梧王(廃帝劉昱)が廃されると、劉秉は会議に出るため外出し、道で弟の劉韞に出会った。劉韞は車の窓を開けて劉秉を迎え、尋ねた。「今日の事態は、やはり兄上に帰するべきでしょうか?」劉秉は言った。「我々はすでに領軍(蕭道成)に譲ったのだ。」劉韞は胸を叩いて言った。「貴方の肉の中に血があるだろうか!(情けがない)」

原文劉秉少以宗室清謹見知,孝武世,秉弟遐坐通嫡母殷氏養女,殷亡口中血出,眾疑行毒害,孝武使秉從弟祗諷秉啟證其事。秉曰:「行路之人,尚不應爾,今日迺可一門同盡,無容奉敕。」眾以此稱之。故為明帝所任。蒼梧廢,秉出集議,於路逢弟韞,韞開車迎問秉曰:「今日之事,固當歸兄邪?」秉曰:「吾等已讓領軍矣。」韞槌胷曰:「君肉中詎有血!」

袁粲の典籤である莫嗣祖は袁粲の謀議ぼうぎを知っていた。太祖は莫嗣祖を召し出して問いただした。「袁粲が謀反を企てたのに、なぜ報告しなかったのか?」莫嗣祖は言った。「主君に仕える者として二心はなく、たとえ死んでも漏らすことはできませんでした。」王蘊の寵愛する者である張承伯は王蘊を匿った。太祖はともに赦免して任用した。黄回は新亭に駐屯していたが、石頭城で騒ぎの声がするのを聞き、兵を率いて駆けつけようとした。朱雀航には守備軍がいて、命令を受けなければ夜間の通行を許さなかったが、ちょうど石頭城が平定されたため、救援と称した。太祖は知っていながらも口に出さず、かえって厚く慰撫し、黄回を西上させ、涙を流して別れを告げた。

原文粲典籤莫嗣祖知粲謀,太祖召問嗣祖:「袁謀反,何不啟聞?」嗣祖曰:「事主義無二心,雖死不敢泄也。」蘊嬖人張承伯藏匿蘊。太祖竝赦而用之。黃回頓新亭,聞石頭鼓噪,率兵來赴之,朱雀𦨵有戍軍,受節度,不聽夜過,會石頭已平,因稱救援。太祖知而不言,撫之愈厚,遣回西上,流涕告別。

太祖は閲武堂に駐屯し、急いで軍を編成した。閏月辛丑の日、詔により黄鉞を仮授され、大軍を率いて新亭の中興堂に出て駐屯し、厳重に塁を築いた。教令を発して言った。「河南(の王)が慈愛と称されるのは、確かに屍を埋葬したからであり、広漢(の太守)が仁愛を広めたのは、朽ちた遺体を葬ったからである。近ごろこの陣営を造営し、堀を深くし塹を掘ったが、古い墟や昔の墓道は、時に埋もれ移動し、深く茂った松や草は、あるいは切り払われることもある。軒に寄りかかって思いを巡らせ、堀の周りを巡れば悲しみが増す。ともに収容して改葬し、併せて薄い祭祀を設けるべきである。」

原文太祖屯閱武堂,馳結軍旅。閏月辛丑,詔假黃鉞,率大眾出屯新亭中興堂,治嚴築壘。教曰:「河南稱慈,諒由掩胔,廣漢流仁,實存殯朽。近袤製茲營,崇溝浚塹,古墟曩隧,時有湮移,深松茂草,或致刊薙。憑軒動懷,巡隍增愴。宜竝為收改葬,并設薄祀。」

二年(昇明二年、478年)正月、沈攸之は郢城を攻めたが陥落させられず、軍は潰走し、自ら首を吊って死んだ。首は都に送られた。丙子の日、太祖は東府に戻って鎮守した。二月癸未の日、太祖を太尉に進め、封邑を三千戸増やし、南徐・南兗・徐・兗・青・冀・司・豫・荊・雍・湘・郢・梁・益・広・越の十六州諸軍事を都督するよう命じた。太祖は驃騎将軍の位を辞し、都督も辞退したが、許されず、黄鉞を返上する上表をした。三月己酉の日、班剣を四十人に増やし、甲仗百人が殿中に入ることを許された。丙子の日、羽葆鼓吹を加えられ、その他の官職は以前のままとした。

原文二年正月,沈攸之攻郢城不剋,眾潰,自經死,傳首京邑。丙子,太祖旋鎮東府。二月癸未,進太祖太尉,增封三千戶,都督南徐、南兖、徐、兖、青、冀、司、豫、荊、雍、湘、郢、梁、益、廣、越十六州諸軍事。太祖解驃騎,辭都督,不許,乃表送黃鉞。三月己酉,增班劍為四十人、甲仗百人入殿。丙子,加羽葆鼓吹,餘竝如故。

辛卯の日、太祖は鎮北将軍の黄回を誅殺した。

原文辛卯,太祖誅鎮北將軍黃回。

大明(孝武帝年号)・泰始(明帝年号)以来、奢侈が受け継がれ、百姓の風俗となっていた。太祖が政務を補佐すると、御府を廃止し、二尚方の諸々の装飾品や玩物を削減した。この時さらに上表して、民間の華美で虚偽の雑物を禁止した。金銀で箔を作ってはならない、馬具に金銀を施してはならない、織成の刺繍入り裙を織ってはならない、道路で錦の履を履いてはならない、赤色で幡蓋や衣服を作ってはならない、彩帛を切って雑花を作ってはならない、綾で雑多な服飾を作ってはならない、鹿行錦や局脚の檉柏床、牙の箱籠雑物、彩帛の屏風や障子、錦の縁取りの薦席を作ってはならない、私的に武器を作ってはならない、七宝で楽器やその他の雑多な漆器を飾ってはならない、また金銀で花や獣の形を作ってはならない、みだりに金銅を鋳造して像を作ってはならない。これらはすべて墨勅(皇帝の直筆命令)が必要で、全部で十七条である。中宮(皇后)および諸王の服用については、旧例に従うとはいえ、慎重に検討するよう請うた。

原文大明泰始以來,相承奢侈,百姓成俗。太祖輔政,罷御府,省二尚方諸飾玩。至是又上表禁民閒華偽雜物:不得以金銀為箔,馬乘具不得金銀度,不得織成繡裙,道路不得著錦履,不得用紅色為幡蓋衣服,不得翦綵帛為雜花,不得以綾作雜服飾,不得作鹿行錦及局腳檉柏床、牙箱籠雜物、綵帛作屏鄣、錦緣薦席,不得私作器仗,不得以七寶飾樂器又諸雜漆物,不得以金銀為花獸,不得輒鑄金銅為像。皆須墨敕,凡十七條。其中宮及諸王服用,雖依舊例,亦請詳衷。

九月丙午の日、位を進めて黄鉞を仮授され、中外諸軍事を都督し、太傅・揚州牧を兼任し、剣を帯び履を履いたまま殿上に上がり、朝廷に入る時は小走りせず、拝礼時に名を唱えられない特権を与えられた。左右の長史・司馬・從事中郎・掾・属をそれぞれ四人ずつ置き、使持節・太尉・驃騎大将軍・録尚書・南徐州刺史は以前のままとした。固辞したが、詔を遣わして強く勧められたため、黄鉞のみを受け、特別な礼遇は辞退した。甲寅の日、三望車を与えられた。

原文九月丙午,進位假黃鉞、都督中外諸軍事、太傅、領揚州牧,劍履上殿,入朝不趨,贊拜不名。置左右長史、司馬、從事中郎、掾、屬各四人,使持節、太尉、驃騎大將軍、錄尚書、南徐州刺史如故。固辭,詔遣敦勸,乃受黃鉞,辭殊禮。甲寅,給三望車。

三年(昇明三年、479年)正月乙巳の日、太祖は上表して百姓の未納の租税を免除するよう請うた。丙辰の日、前部の羽葆鼓吹を加えられた。丁巳の日、太傅府が旧例通り辟召(自ら人材を召し出すこと)を行うことを命じられた。丁卯の日、太祖に甲仗五百人を与え、殿省の出入りを許された。甲午の日、前の命令を重ねて下し、剣を帯び履を履いたまま殿上に上がり、朝廷に入る時は小走りせず、拝礼時に名を唱えられない特権を認めた。三月甲辰の日、詔により位を相国に進め、百揆(すべての政務)を総覧し、十郡を封じて斉公とし、九錫の礼を備え、璽綬じじゅと遠遊冠を加えられ、位は諸侯王の上とし、相国として緑綟綬を加えられ、驃騎大将軍・揚州牧・南徐州刺史は以前のままとした。太祖は三度辞退したが、公卿が強く勧めて固く請うたため、ついに受けた。甲寅の日、相国斉公に策命を下した。

原文三年正月乙巳,太祖表蠲百姓逋負。丙辰,加前部羽葆鼓吹。丁巳,命太傅府依舊辟召。丁卯,給太祖甲仗五百人,出入殿省。甲午,重申前命,劍履上殿,入朝不趨,贊拜不名。三月甲辰,詔進位相國,總百揆,封十郡為齊公,備九錫之禮,加璽紱遠遊冠,位在諸侯王上,加相國綠綟綬,其驃騎大將軍、揚州牧、南徐州刺史如故。太祖三讓,公卿敦勸固請,乃受。甲寅,策相國齊公曰:

太祖は三度辞退したが、公卿が強く勧めて固く請うたため、ついにそれを受けた。

原文太祖三讓,公卿敦勸固請,乃受之。

丁巳の日、国内の殊死しゅし以下の罪人を赦す命令を下し、今月十五日の夜明け前までの罪はすべて赦免し、鰥寡孤独で自活できない者には穀物五斛こくを賜い、府州が管轄する者も同様にすべて赦免するとした。

原文丁巳,下令赦國內殊死以下,今月十五日昧爽以前,一皆原赦,鰥寡孤獨不能自存者,賜穀五斛,府州所領,亦同蕩然。

宋の皇帝は詔を下し、斉公に十郡の外は適宜に任用することを許した。斉国が初めて建てられたので、銭五百万、布五千匹、絹五千匹を与えた。四月癸酉、詔を下して斉公の爵位を王に進め、豫州の南梁・陳郡・潁川・陳留、南兗州の盱眙・山陽・秦郡・広陵・海陵・南沛の十郡を加えて封土とした。使持節・司空・衛将軍の褚淵に命じて策書と璽綬を授けさせ、金虎符第一から第五の左符、竹使符第一から第十の左符を与え、この黒土を賜り、白茅で包み、王の社稷を改めて立てさせた。相国・揚州牧・驃騎大将軍・南徐州刺史の官職は従前の通りとした。丙戌、斉王に十二旒の冕冠を戴かせ、天子の旌旗を立て、出入りには警蹕を行わせ、金根車に乗り、六頭の馬を駕し、五時の副車を備えさせ、旄頭と雲罕を設け、楽舞は八佾を用い、鍾虡を宮懸に設けさせた。王の世子を太子とし、王の娘や王孫の爵位と任命はすべて旧来の儀式に従った。

原文宋帝詔齊公十郡之外,隨宜除用。以齊國初建,給錢五百萬,布五千匹,絹五千匹。四月癸酉,詔進齊公爵為王,以豫州之南梁、陳郡、潁川、陳留,南兖州之盱眙、山陽、秦郡、廣陵、海陵、南沛十郡增封。使持節、司空、衞將軍褚淵奉策授璽紱,金虎符第一至第五左,竹使符第一至第十左,錫茲玄土,苴白茅,改立王社。相國、揚州牧、驃騎大將軍、南徐州刺史如故。丙戌,命齊王冕十有二旒,建天子旌旗,出警入蹕,乘金根車,駕六馬,備五時副車,置旄頭雲罕,樂儛八佾,設鍾虡宮縣。王世子為太子,王女王孫爵命一如舊儀。

辛卯の日、宋の皇帝が位を譲り、詔を下して言った。

原文辛卯,宋帝禪位,下詔曰:

この日、宋の皇帝は東邸に退位し、羽儀を整え、画輪車に乗って東掖門を出たが、「今日はなぜ鼓吹を奏しないのか」と問うと、左右の者に答える者はなかった。

原文是日宋帝遜于東邸,備羽儀,乘畫輪車,出東掖門,問今日何不奏鼓吹,左右莫有答者。

壬辰の日、詔書を下して斉王に命じて言うには:

原文壬辰,策命齊王曰:

再び璽書を下して言うには:

原文再命璽書曰:

太祖は三度辞退したが、宋の帝王や公卿以下が固く請願した。兼太史令・将作匠の陳文建が符命を奏上して言った。「六は、亢の位です。後漢は建武から建安二十五年まで百九十六年で魏に禅譲し、魏は黄初から咸熙二年まで四十六年で晋に禅譲し、晋は太始から元熙二年まで百五十六年で宋に禅譲し、宋は永初元年から昇明三年まで、合わせて六十年です。いずれも六で終わり、六で受け継がれています。六は、亢の位です。過去を検証し現在を推し量ると、このように明らかです。職責を担う者として、管穴の見解を備えて申し上げます。どうか天の時に従い、符瑞に応じてください。」二朝の百官もまた固く請願した。尚書右僕射の王儉が奏上した。「宋の詔により位を譲られました。臣らが参議したところ、期日を定めて輿駕が禅譲を受け、儀注を撰定し立てるのが適当です。」太祖はようやくこれを許した。

原文太祖三辭,宋帝王公以下固請。兼太史令、將作匠陳文建奏符命曰:「六,亢位也。後漢自建武至建安二十五年,一百九十六年而禪魏;〔魏〕自黃初至咸熙二年,四十六年而禪晉;晉自太始至元熙二年,一百五十六年而禪宋;宋自永初元年至昇明三年,凡六十年:咸以六終六受。六,亢位也。驗往揆今,若斯昭著。敢以職任,備陳管穴。伏願順天時,膺符瑞。」二朝百辟又固請。尚書右僕射王儉奏:「被宋詔遜位。臣等參議,宜剋日輿駕受禪,撰立儀注。」太祖乃許焉。

史臣が言う。太一九宮占を調べて漢の高祖五年を推すと、太一は四宮にあり、主人と客ともに吉を得て、先に事を起こす者が勝つと計られ、この年に高祖は楚を破った。晋の元興二年、太一は七宮にあり、太一が帝となり、天目が輔佐となって、太一を迫脅し、この年に安帝は桓玄に迫られて宮を出た。大将は一宮にあり、参相は三宮にあり、太一を格した。経に格とは、すでに政事を立てて、上下がこれを格し、為すに利あらず、安居の世には、挙動に利あらずとある。元興三年、太一は七宮にあり、宋の武帝が桓玄を破った。元嘉元年、太一は六宮にあり、為すに利あらず、徐羨之・傅亮が営陽王を廃した。七年、太一は八宮にあり、関囚の悪歳で、大小将ともに立つことを得ず、この年に到彦之が北伐し、初めは勝ち後に敗れ、客主ともに利あらず。十八年、太一は二宮にあり、客主ともに利あらず、この年に氐の楊難当が梁・益を寇し、来年に仇池が破れた。十九年、大小将ともに関に見えて立たず、凶、この年に裴方明が仇池を伐ち、百頃を克ち、明年にこれを失った。泰始元年、太一は二宮にあり、大小将に奄撃され、この年に景和帝が廃された。二年、太一は三宮にあり、先に起こるに利あらず、主人が勝ち、この年に晋安王子勛が反した。元徽二年、太一は六宮にあり、先に起こる者が敗れ、この年に桂陽王休範が反し、ともに誅殺された。四年、太一は七宮にあり、先に起こる者は客となり、西北に走り、この年に建平王景素が敗れた。昇明元年、太一は七宮にあり、客となるに利あらず、安居の世には、事を挙げる者が主人となり、応じて発する者が客となる、袁粲・沈攸之らが反し、誅殺された。この年、太一は杜門にあり、八宮に臨み、宋の帝が位を禅じ、客となるに利あらず、安居の世には、事を挙げる者が主人となり、禅代の応である。

原文史臣曰:案太一九宮占推漢高五年,太一在四宮,主人與客俱得吉,計先舉事者勝,是歲高祖破楚。晉元興二年,太一在七宮,太一為帝,天目為輔佐,迫脅太一,是年安帝為桓玄所逼出宮。大將在一宮,參相在三宮,格太一。經言格者,已立政事,上下格之,不利有為,安居之世,不利舉動。元興三年,太一在七宮,宋武破桓玄。元嘉元年,太一在六宮,不利有為,徐、傅廢營陽王。七年,太一在八宮,關囚惡歲,大小將皆不得立,其年到彥之北伐,初勝後敗,客主俱不利。十八年,太一在二宮,客主俱不利,是歲氐楊難當寇梁、益,來年仇池破。十九年,大小將皆見關不立,凶,其年裴方明伐仇池,剋百頃,明年失之。泰始元年,太一在二宮,為大小將奄擊之,其年景和廢。二年,太一在三宮,不利先起,主人勝,其年晉安王子勛反。元徽二年,太一在六宮,先起敗,是歲桂陽王休範反,竝伏誅。四年,太一在七宮,先起者客,西北走,其年建平王景素敗。昇明元年,太一在七宮,不利為客,安居之世,舉事為主人,應發為客,袁粲、沈攸之等反,伏誅。是歲太一在杜門,臨八宮,宋帝禪位,不利為客,安居之世,舉事為主人,禪代之應也。