神武下
天平元年正月壬辰、神武は西伐して費也頭の虜 紇豆陵伊利 を河西において討ち、これを滅ぼし、その部族を河東に移した。
二月、永寧寺の九層浮図 (仏塔) が災 (火災) に遭う。やがて東萊から来た者があり、海上の人々が皆これを海中に見たと言い、間もなく霧が立ちこめて消えた。説く者は天意が次のように言うものと考える。永寧が災に見舞われたのは、魏が安寧でないこと。東海に飛び去ったのは、 渤海 (高氏) が応ずることである。
魏帝は既に異なる企図を抱き、時に侍中 封隆之 が 孫騰 に私語した。隆之は妻を失っており、魏帝は妹を娶らせようとした。騰も未だ信じず、内心隆之を妬み、その言葉を 斛斯椿 に漏らした。椿はこれを魏帝に報告した。また孫騰は武器を帯びて省中に入り、勝手に御史を殺した。二人は共に逃亡して来奔した。魏帝が舎人梁續を面前で打ち、光祿少卿元子幹が腕まくりしてこれを撃ち、騰に「お前の高王に伝えよ、元家の児の拳は正にこのようだ」と言ったと称した。領軍婁昭は病気を理由に辞して 晉 陽に帰った。魏帝はこれにより斛斯椿に領軍を兼ねさせ、督将及び河南・関西の諸刺史を分置した。華山王鷙は徐州におり、神武は邸珍を遣わしてその管籥 (鍵) を奪わせた。建州刺史韓賢・濟州刺史 蔡儁 は皆神武と同心の者であり、魏帝はこれを忌んだ。故に建州を省 (廃止) して賢を去らせ、御史中尉綦儁に儁の罪を察させ、開府 賈顯智 を濟州とした。儁はこれを拒んだので、魏帝はますます怒った。
五月、詔を下し、句呉を征伐すると称し、河南諸州の兵を発し、宿衛を増やし、河橋を守らせた。六月丁巳、魏帝は密かに神武に詔して言う。「宇文黒獺は秦・隴を平定して以来、多く分を越えた要求をし、もし変詐があれば、事は経略を要する。しかし表啓は未だ全く背戾しておらず、進討の事は慌ただしく関わる。そこで群臣を召し、その可否を議した。皆が南伐を仮称し、内外戒厳すべしと言う。一つは黒獺の不慮を防ぎ、二つには呉楚を威圧できる。」時に魏帝は神武を討伐しようとし、神武が将帥を部署していたので、疑われるのを慮り、故にこの詔があった。神武は表して言う。「荊州は蛮左と繋がり、畿服に密接している。関隴は遠さを恃み、逆図を抱くであろう。臣は今ひそかに兵馬三万を整え、河東から渡河しようとしている。また恒州刺史厙狄干・瀛州刺史郭瓊・汾州刺史斛律金・前武衛將軍彭樂に兵四万を整えさせ、来違津から渡河させる。領軍將軍婁昭・相州刺史 竇泰 ・前瀛州刺史堯雄・ 幷州 刺史高隆之に兵五万を整えさせ、以て荊州を討たせる。冀州刺史尉景・前冀州刺史高敖曹・濟州刺史蔡俊・前侍中封隆之に山東の兵七万・突騎五万を整えさせ、以て江左を征伐させる。皆その部を約し、処分を伏して聴く。」魏帝はその変を知り覚り、神武の表を出して、群官にこれを議させ、神武の諸軍を止めようとした。神武は州の僚佐を集め、博議させ、表を以て聞かせた。なお信誓を以て自ら忠 款 を明らかにして言う。「臣は嬖佞の者に間を入れられ、陛下一旦疑いを賜う。今の猖狂の罪は、尒朱の時に討たれた。臣もし誠を尽くし節を竭くさず、敢えて陛下に背くならば、身に天殃を受け、子孫絶滅すべし。陛下もし赤心を信じて垂れ、干戈を動かさず、佞臣一二人を斟酌して廃出することを願う。」辛未、帝はまた在京の文武の議意を録して神武に答えさせ、舎人溫子昇に勅を草させた。子昇は逡巡して敢えて作らず、帝は胡床に据わり、剣を抜いて色をなした。子昇は乃ち勅を作って言う。
先に心血を持ち、遠く以て王に示し、深く彼此共に相体悉することを冀ったが、不良の徒が坐して間 貳 を生じた。近く孫騰が倉卒に彼方に向かい、致して聞く者に異謀有りと疑わせた。故に御史中尉綦儁を遣わし、朕が懐きを具に申させた。今王の啓を得るに、言誓懇惻、反覆これを思うも、猶いまだ解せざる所あり。朕の眇身を以て、王の武略に遇い、尺刃を労せず、坐して天子となる。我を生む者は父母、我を貴くする者は高王という。今もし事無くして王に背き、攻討を図るならば、身及び子孫をして、還って王の誓いの如くならしむ。皇天后土、実に此言を聞く。
近く宇文の乱を為すを慮り、 賀拔勝 これに応ずるを以て、故に厳を 纂 (整) え、王と俱に声援たらんと欲した。宇文は今日使者相望み、その為す所を観るに、更に異跡無し。賀拔は南に在り、辺境を開拓し、国の為に功を立て、責むべき無きを念う。君もし分討せんと欲すれば、何を以て辞と為すか。東南は賓せず、日の久しきこと既に久しく、先朝以来、これを度外に置く。今天下の戸口半減し、未だ兵を窮め武を極むべからず。
朕は既に暗昧にして、佞人が誰なるかを知らず、その姓名を列挙し、朕に知らしむべし。聞くところによれば、厙狄干が王に語りて云う。「本より懦弱なる者を取りて主と為さんと欲し、王は事無くしてこの長君を立て、その駕御すべからざるに至らしむ。今ただ十五日の行いを為し、自らこれを廃し、余り者を更に立てん。」このような議 論 は、自ら王の間の勲人より出ず、豈に佞臣の口より出でんや。去年封隆之は背叛し、今年孫騰は逃走す。罪せず送らず、誰か王を怪しまざらん。騰は既に禍の始めを為し、曾て愧懼無し。王もし君に事えて誠を尽くすならば、何ぞ二つの首を斬りて送らざる。王は西去の図を啓すと雖も、四道俱に進み、或いは南度して洛陽に至らんと欲し、或いは東臨して江左に至らんと欲す。これを言う者は猶お自ら怪しむべく、これを聞く者は寧くも疑わざらんや。王もし誠を守りて貳せず、晏然として北に居るならば、此処に百万の衆有ると雖も、終に彼を図るの心無し。王もし邪を信じ義を棄て、旗を挙げて南を指すならば、匹馬隻輪無きと雖も、猶お空拳を奮って死を争わんと欲す。朕は本より寡徳、王已にこれを立て、百姓無知、或いは実に可なりと謂う。もし他の者に図られれば、則ち朕の悪を彰わし、仮令還って王に殺され、幽辱され齏粉と為り、了て遺恨無からん。何となれば、王は既に徳を以て推され、義を以て挙げられ、一朝に徳を背き義を捨てれば、便ち過ち帰する所有らん。本より君臣一体、符契を合するが如からんことを望み、今日に分疏ここに至るを図らず。古語に云う。「越人我を射れば、笑いてこれを道う。吾が兄我を射れば、泣いてこれを道う。」朕は既に王に親しみ、情兄弟の如し。所以に筆を投じ膺を拊し、覚えず歔欷す。
初めに、神武 (高歓) は京師 (洛陽) より北に向かわんとするに当たり、洛陽は久しく喪乱を経て、王気衰え尽き、山河の険固あるも、土地は褊狭なり、 鄴 に如かずと以為い、遷都を請う。魏帝 (孝武帝) 曰く、「高祖 (孝文帝) は河洛に鼎を定め、永永の基と為し、制度を経営し、世宗 (宣武帝) に至りて乃ち畢る。王既に功は社稷に在り、宜しく太和の旧事に遵うべし。」神武詔を奉ず。是に至りて復た謀る。三千騎を遣わして 建興 を鎮め、河東及び済州の兵を益し、白溝に於いて虜船をして洛に向かうことを聴かず、諸州の和糴粟を 鄴城 に運入す。魏帝又た神武に勅して曰く、「王若し人情を厭伏し、物議を杜絶せんと欲せば、唯だ河東の兵を帰し、建興の戍を罷め、相州の粟を送り、済州の軍を追い、蔡儁に代を受けしめ、邸珍をして徐を出さしめ、戈を止め馬を散じ、各々家業に事えしむるに在り。 脱 糧廩を須いば、別に転輸を遣わす。然らば則ち讒人舌を結び、疑悔生ぜず。王は太原に高枕し、朕は京洛に垂拱し、終に足を挙げて河を渡り、干戈を以て相い指すこと無からん。王若し馬首を南に向かい、鼎の軽重を問わば、朕武無きも、止めんと欲して能わず、必ず社稷宗廟の為に万死の策を出さん。決するは王に在り、朕の能く定むる所に非ず。山を為して簣を止む、相い之を惜しむ。」魏帝時に任祥を以て兼尚書左僕射と為し、開府を加う。祥官を棄てて走り河北に至り、郡を拠りて神武を待つ。魏帝乃ち文武の官北来する者に去留を任せしめ、詔を下して神武を罪状し、北伐を経営す。神武亦た馬を勒めて宣告して曰く、「孤尓朱 (栄) の権を擅にするに遇い、大義を四海に挙げ、主上を奉戴し、義幽明に貫く。横に斛斯椿の讒構を為し、誠節を以て逆首と為す。昔趙鞅晋陽の甲を興し、君側の悪人を誅す。今者南に邁り、椿を誅するのみ。」 高昂 を以て前鋒と為し、曰く、「若し 司空 ( 高乾 ) の言を用いば、豈に今日の挙有らんや!」 司馬子如 神武に答えて曰く、「本より小なる者を立てんと欲するは、正に此の為の耳。」
魏帝関右に兵を徴し、賀抜勝を行在所に赴かしめ、大行台長孫承業・大 都督 潁川王斌之・斛斯椿を遣わし共に武牢を鎮め、汝陽王暹をして石済を鎮めしめ、行台長孫子彦をして前恒農 太守 元洪略を率いしめて陝を鎮めしめ、賈顯智をして 豫 州刺史斛斯元寿に蔡儁を伐たしむ。神武竇泰と左廂大 都督 莫多婁貸文をして顯智を逆わしめ、韓賢をして暹を逆わしむ。元寿の軍降る。泰・貸文は顯智と長寿津に遇う。顯智陰に降るを約し、軍を引いて退く。軍司元玄之を覚り、馳せて還る。師を益すを請う。魏帝大 都督 侯幾紹を遣わして之に赴かしむ。 滑台 の東に戦う。顯智軍を以て降る。紹之に死す。
七月、 魏帝躬 ら大衆を率い河橋に屯す。神武河北十余里に至り、再び口を以て誠款を申すも、魏帝報えず。神武乃ち軍を引いて河を渡る。魏帝群臣に計を問う。或いは南に賀抜勝に依れと云い、或いは西に関中に就けと云い、或いは洛口を守り死戦せよと云う。未だ決せず。而して元斌之と斛斯椿権を争い睦まず、斌之椿を棄て径ちに還り、帝を 紿 きて云く、「神武兵至る。」即日、魏帝長安に遜る。己酉、神武洛陽に入り、永寧寺に停まる。
八月甲寅、百官を召集し、謂いて曰く、「臣と為りて主を奉じ、危乱を匡救するに、処に諫争せず、出に陪随せず、緩なれば則ち寵に耽り栄を争い、急なれば便ち逃竄す、臣節安くにか在るや?」遂に開府儀同三司叱列延慶・兼尚書左僕射辛雄・兼吏部尚書崔孝芬・都官尚書劉廞・兼度支尚書楊機・ 散騎常侍 元士弼 を収め並びに之を殺し、其の貳を誅す。士弼は家口を籍没す。神武万機曠廃すべからずと以て、乃ち百僚と議して清河王亶を以て大司馬と為し、尚書の下舎に居りて制を承り事を決せしむ。王警蹕を称す。神武之を 醜 む。神武尋いで恒農に至り、遂に西して潼関を剋し、毛洪賓を執る。進みて長城に軍し、龍門 都督 薛崇禮降る。神武退きて河東に舎し、行台尚書長史薛瑜に命じて潼関を守らしめ、大 都督 庫狄温に封陵を守らしむ。蒲津の西岸に城を築き、華州を守り、薛紹宗を刺史と為し、高昂に 豫 州の事を行わしむ。神武自ら晋陽を発し、此に至るまで凡そ四十啓す。魏帝皆答えず。
九月庚寅、神武還りて洛陽に於いて、乃ち僧道栄を遣わし表を関中に奉らしむ。又た答えず。乃ち百僚四門の耆老を集め、推し立てる所を議す。孝昌の喪乱より以来、国統中絶し、神主依る 所靡 く、昭穆序を失うと以為う。永安 (孝荘帝) は孝文を伯考と為し、 永熙 (孝武帝) は孝明を夾室に遷す。業喪え祚短きは、 職 ら此の由と為す。遂に議りて清河王の世子善見を立てんとす。議定まり、清河王に白す。王曰く、「天子父無し。 苟 も児を立てしめば、余生を惜しまず。」乃ち之を立て、是を孝静帝と為す。魏是に於いて始めて二つに分かる。
神武孝武既に西すを以て、崤・陝に逼るを恐れ、洛陽復た河外に在り、梁境に接近し、晋陽に向かうも、形勢相接すること能わずと為し、乃ち鄴に遷るを議い、護軍祖瑩之に賛す。詔下ること三日、車駕便ち発す。戸四十万狼狽として道に就く。神武洛陽に留まり部分し、事畢わりて晋陽に還る。是より軍国の政務、皆相府に帰す。先ず是れ童謠有りて曰く、「憐れむべし青雀子、飛び来たり 鄴城 裏、羽翮垂れんと欲して成り、化して鸚鵡子と作る。」好事者窃かに言う、雀子は魏帝清河王の子を謂い、鸚鵡は神武を謂うと。
初め、孝昌中、山胡の劉螽升自ら天子と称し、年号を神嘉とし、雲陽谷に居る。西土歳々其の寇を被り、之を胡荒と謂う。
二年正月、 西魏 の渭州刺史可朱渾道元衆を擁して内属す。神武迎え之を納る。壬戌、神武劉螽升を襲撃し、大いに之を破る。己巳、魏帝詔を褒め、神武を以て相国と為し、黄鉞を仮し、剣履上殿し、朝に入り趨らず。神武固く辞す。
三月、神武女を以て蠡升の太子に妻せんと欲し、其の設備せざるを候い、辛酉、潜師して之を襲う。其の北部王蠡升の首を斬りて送る。其の衆復た其の子南海王を立てる。神武進みて之を撃ち、又た南海王及び其の弟西海王・北海王・皇后公卿已下四百余人、胡・魏五万戸を獲る。壬申、神武鄴に朝す。
四月、神武遷人の廩を給するに各差有らんことを請う。
九月甲寅、神武州郡県の官多く法に乖くを以て、使を出して人の疾苦を問わんことを請う。
三年正月甲子、神武庫狄干等万騎を帥いて西魏の夏州を襲い、身火食せず、四日にして至る。槊を縛りて梯と為し、夜其の城に入り、其の刺史費也頭の斛抜俄弥突を 禽 え、因りて之を用う。 都督 張瓊を留めて以て鎮守せしめ、其の部落五千戸を遷して以て帰る。西魏の霊州刺史曹泥と其の婿涼州刺史劉豊、使を遣わして内属を請う。周文 (宇文泰) 泥を囲み、水を以て其の城を灌ぐ。没せざる者四尺。神武 阿至羅 に命じて騎三万を発し径ちに霊州を度り、西軍の後を繞り出で、馬五十匹を獲る。西師乃ち退く。神武騎を率いて泥・豊生を迎え、其の遺戸五千を抜きて以て帰り、泥の官爵を復す。魏帝詔して神武に九錫を加う。固く譲りて乃ち止む。
二月、神武阿至羅をして西魏の秦州刺史建忠王万俟普撥を逼らしめ、神武衆を以て之に応ず。六月甲午、普撥其の子太宰受洛干・豳州刺史叱干宝楽・右衛将軍破六韓常及び督将三百余人と部を擁して来降す。
八月丁亥、神武は斗尺を均一にすることを請い、天下に公布した。
九月辛亥、汾州の胡人王迢觸・曹貳龍が衆を集めて反し、百官を立て、年号を平都とした。神武はこれを討って平定した。
十二月丁丑、神武は晋陽より西征し、兼僕射行台汝陽王暹・ 司徒 高昂らを遣わして上洛に向かわせ、大 都督 竇泰を潼関より進入させた。
四年正月癸丑、竇泰の軍は敗れて自殺した。神武は蒲津に駐屯したが、氷が薄く救援に赴くことができず、ついに軍を返した。高昂は上洛を攻略した。
二月乙酉、神武は幷・肆・汾・建・ 晉 ・東雍・南汾・泰・陝の九州が霜害と旱魃に見舞われ、人々が飢えて離散していることを理由に、各地で倉を開いて賑給することを請うた。
六月壬申、神武が天池に赴き、瑞石を得た。その表面に「六王三川」の文字が浮き出ていた。
十月壬辰、神武は西征し、蒲津から黄河を渡り、軍勢は二十万であった。周文は沙苑に軍を布いた。神武は地勢が険しく狭隘なため少し後退すると、西軍は鬨の声を上げて進撃し、軍は大いに乱れ、兵器と甲冑を十八万も捨てた。神武は駱駝に跨り、船を待って帰還した。
元象元年三月辛酉、神武は固く丞相の職を解くことを請い、魏帝はこれを許した。
四月庚寅、神武は鄴に参朝し、壬辰に晋陽に帰還した。酒禁を解くことと、宿衛武官を賑恤することを請うた。
七月壬午、行台 侯景 ・ 司徒 高昂が金墉において西魏の将軍獨孤信を包囲した。西魏帝と周文がともに救援に赴いた。大 都督 厙狄干が諸将を率いて先鋒となり、神武は総軍を率いて続いて進んだ。八月辛卯、河陰で戦い、西魏軍を大破し、数万を捕虜とした。 司徒 高昂・大 都督 李猛・宋顯がこの戦いで死んだ。西軍の敗北に際し、獨孤信は先に関中に入り、周文はその 都督 長孫子彦を留めて金墉を守らせ、ついに営を焼いて遁走した。神武は兵を遣わして追撃させたが、崤に至り、追いつかずに帰還した。初め、神武は西軍が侵攻して来ることを知り、晋陽より軍を率いて馳せ赴き、孟津に至ったが、渡河しないうちに、戦況には勝敗があった。やがて神武が黄河を渡ると、子彦もまた城を棄てて逃走した。神武はついに金墉を破壊して帰還した。
十一月庚午、神武は京師に参朝した。十二月壬辰、晋陽に帰還した。
興和元年七月丁丑、魏帝は神武を相国・録尚書事に進めたが、固く辞退したので取りやめになった。
十一月乙丑、神武は新宮が完成したので、鄴に参朝した。魏帝は神武と宴射を行い、神武は階を降りて賀し、また渤海王及び 都督 中外諸軍事の職を辞したが、詔は許さなかった。十二月戊戌、神武は晋陽に帰還した。
二年十二月、阿至羅の別部が使者を遣わして降伏を請うた。神武は衆を率いてこれを迎えに出たが、武州塞を出ても彼らに会えず、大規模な狩猟を行って帰還した。
三年五月、神武は北境を巡行し、使者を遣わして蠕蠕と通好した。
四年 (武定四年) 五月辛巳の日、神武帝は鄴に参朝し、百官に毎月面会して政事を敷陳させ、側陋 (隠れた人材) を明らかに揚げ、諫言を納れ邪佞を退け、自ら獄訟を理め、勤怠を褒貶すること;牧守に過失あれば、節級 (等級) に従って相坐 (連座) させること;椒掖 (後宮) の内では、進御 (寵愛) を順序に従わせること;後園の鷹犬は全てこれを棄てることを請うた。六月甲辰の日、神武帝は 晉 陽に還った。
九月、神武帝は西征した。十月己亥の日、西魏の儀同三司 王思政 を玉壁城に包囲し、敵を誘い出そうとしたが、西魏軍は敢えて出撃しなかった。十一月癸未の日、神武帝は大雪により士卒多く死んだため、ついに軍を返した。
武定元年二月壬申の日、北 豫 州刺史高慎が武牢を拠り西叛した。三月壬辰の日、周文帝 (宇文泰) が衆を率いて高慎を救援し、河橋南城を包囲した。戊申の日、神武帝は芒山においてこれを大破し、西魏の督将以下四百余人を擒え、捕虜斬首は六万に計上された。この時、軍士に驢を盗み殺した者がおり、軍令では死罪に当たったが、神武帝は殺さず、幷州に至って決しようとした。翌日再び戦い、その者は西魏軍に奔り、神武帝の所在を告げた。西魏軍は精鋭を尽くして攻め来たり、衆は潰え、神武帝は馬を失い、赫連陽順が下馬して神武帝に授け、蒼頭の馮文洛と共に扶えて上らせ、従う者は歩騎六七人であった。追騎が至り、 親 信都 督 の尉興慶が言うには、「王は去れ。興慶の腰辺に百の箭あり、百人を殺すに足る」と。神武帝はこれを励まして言うには、「事が成れば、汝を懐州刺史とする。もし死ねば、汝の子を用いよう」と。興慶は言う、「子は幼い。願わくは兄を用いられよ」と。許された。興慶は戦い、矢尽きて死んだ。西魏の太師賀拔勝が十三騎を以て神武帝を追い、河州刺史劉洪徽がそのうち二騎を射当てた。勝の矟 (矛) が神武帝に中らんとした時、段孝先 (段韶) が横から勝の馬を射て斃し、こうして免れた。 豫 州・洛州の二州が平定された。神武帝は劉豊に追撃させ、地を拓いて弘農に至り還った。
七月、神武帝は周文帝に書を送り、孝武帝 (元脩) を殺した罪を責めた。
八月辛未の日、魏帝 ( 東魏 孝静帝) は詔して神武帝を相国・録尚書事・大行台とし、その他の官は元の如くとしたが、固辞したので止めた。この月、神武帝は肆州の北山に城を築くことを命じ、西は馬陵戍より、東は士隥に至るまで、四十日で罷めた。
十二月己卯の日、神武帝は京師 (鄴) に参朝し、庚辰の日、 晉 陽に還った。
二年三月癸巳の日、神武帝は冀州・定州の二州を巡行し、ついで京師に参朝した。冬春の亢旱 (大旱) により、懸債 (未納租税) の免除、窮乏の賑済、死罪以下の赦免を請うた。また老人に板職 (名誉職) を授けること、それぞれ差等あることを請うた。四月丙辰の日、神武帝は 晉 陽に還った。
十一月、神武帝は山胡を討ち、これを破り平定し、俘獲一万余戸を諸州に分配した。
三年正月甲午の日、開府儀同三司尒朱文暢・開府司馬任胄・ 都督 鄭仲禮・中府主簿李世林・前開府参軍房子遠らが神武帝を害そうと謀り、十五日の夜の打簇 (毬戯の一種) に因り、刃を懐いて入ろうとしたが、その党の薛季孝が告発したため、皆誅殺された。丁未の日、神武帝は幷州に 晉 陽宮を置き、配口 (配流された者や捕虜の家族) を処置することを請うた。
三月乙未の日、神武帝は鄴に参朝し、丙午の日、 晉 陽に還った。
十月丁卯の日、神武帝は上言し、幽州・安州・定州の三州は北で奚・蠕蠕と接するので、険要の地に城戍を修築してこれを防ぎ、自ら臨んで検分し、厳固でないものはなかった。乙未の日、神武帝は芒山の俘虜の桎梏を解き、民間の寡婦に配することを請うた。
四年八月癸巳の日、神武帝は西伐せんとし、鄴より 晉 陽に兵を会した。殿中將軍曹魏祖が言うには、「不可です。今八月は西方王 (酉の月) であり、死気をもって生気に逆らい、客軍 (攻め手) には不利、主人 (守り手) には可です。兵を果たして行かば、大將軍を傷つけましょう」と。神武帝は従わなかった。東魏・西魏が兵を構えて以来、鄴の下では毎度先に黄蟻と黒蟻の陣が戦い、占う者は黄は東魏の戎衣の色、黒は西魏の戎衣の色とし、人はこれによって勝負を占った。この時、黄蟻が尽く死んだ。九月、神武帝は玉壁を包囲して西魏軍を挑んだが、敢えて応じなかった。西魏の 晉 州刺史韋孝寬が玉壁を守り、城中より鉄面 (仮面) を出したので、神武帝は元盗にこれを射させると、毎度その目に中てた。李業興の孤虚術を用い、その北に軍を集めた。北は天険である。そこで土山を築き、十道を鑿ち、また東面に二十一道を鑿って攻めた。城中に水がなく、汾水から汲んでいた。神武帝は汾水の流れを移させ、一夜にして完了した。孝寬は土山を奪い占拠し、軍を五旬頓挫させ、城は抜けず、死者七万人、これを聚めて一塚とした。星が神武帝の営に墜ち、衆驢並びに鳴き、士卒皆慴懼した。神武帝に疾あり。十一月庚子の日、輿に乗り病を抱えて軍を返した。庚戌の日、太原公 高洋 を鄴に鎮守させた。辛亥の日、世子 高澄 を徵して 晉 陽に至らせた。悪烏が亭樹に集まったので、世子は斛律光に射殺させた。己卯の日、神武帝は功無きを以て、 都督 中外諸軍事の職を解くことを上表し、魏帝は優詔を以てこれを許した。この時、西魏では神武帝が弩に中ったと伝え、神武帝はこれを聞き、ついに努めて坐って諸貴族に会い、斛律金に『勑勒歌』を作らせ、神武帝自らこれに和し、哀感に流涕した。
侯景は平素より世子を軽んじ、嘗て司馬子如に謂って言った、「王 (神武帝) がいる間は、私は異心を抱かぬ。王が亡くなれば、 鮮卑 の小児 (世子高澄) と共に事を為すことはできぬ」と。子如はその口を掩った。この時至り、世子は神武帝の書を作って侯景を召した。侯景は先に神武帝と約束していた:書を得たら、書の背に微かに点を打てば、来る、と。書が至ったが、点が無く、侯景は至らなかった。また神武帝の疾を聞き、ついに兵を擁して自ら固めた。神武帝は世子に謂って言った、「我は疾あれど、汝の面には更に余りの憂色がある。何故か」と。世子は答えなかった。また問うて言った、「豈に侯景の叛くを憂うるにあらずや」と。曰く、「然り」と。神武帝は言った、「侯景は河南を専制すること十四年、常に飛揚跋扈の志あり。顧みるに我が養えるを以てのことで、豈に汝が駕御するためであろうか。今四方未だ定まらず、急いで哀しみを発するな。厙狄干は鮮卑の老公、斛律金は勑勒の老公、共に性質遒直にして、終に汝を負かぬ。可朱渾道元・劉豊生は遠来して我に投じ、必ず異心無からん。賀拔焉過兒は朴実にして罪過無し。潘樂は元は道人 (僧) として作り、心和厚く、汝兄弟必ずその力を得ん。韓軌は少々戇直なり、宜しくこれを寛借すべし。彭樂は心腹たるを得難し、宜しくこれを防護すべし。少しく侯景に敵し得る者は唯だ 慕容 紹宗 のみ。我は故にこれを貴ばず、留めて汝に与う。宜しく深く殊礼を加え、経略を委ねよ」と。
五年正月朔、日蝕あり。神武帝は言った、「日蝕は我のためか。死すとも何の恨みかあらん」と。丙午の日、魏帝に啓を陳べた。この日、 晉 陽にて崩じ、時に年五十二。秘して喪を発さず。六月壬午の日、魏帝は東堂にて哀を挙げ、三日間、緦衰の喪服を着けた。詔して凶礼は漢の大將軍霍光・東平王蒼の故事に依るべしとし、仮黄鉞・使持節・相国・ 都督 中外諸軍事・斉王の璽紱を贈り、轀輬車・黄屋・左纛・前後羽葆・鼓吹・軽車・介士を備え、兼ねて九錫の殊礼を備え、諡して献武王と曰う。八月甲申の日、鄴西北の 漳水 の西に葬り、魏帝は 紫陌 に臨送した。天保初年、追崇して献武帝とし、廟号を太祖、陵を義平と曰う。天統元年、改めて諡して神武皇帝とし、廟号を高祖とす。
神武帝 (高歓) の性格は深沈にして峻厳、終日厳然として、人は測り知ることができなかった。機略と権謀の際には、変化すること神の如しであった。軍国大計に至っては、独自に胸中を運営し、文武の将吏がこれに関与することは稀であった。軍衆を統御するには法令厳粛、敵に臨んで勝利を制するには、策謀は定まった方途がなかった。訴訟を聴き裁断するには明察で、欺き犯すことはできなかった。人を知り士を好み、勲旧をことごとく保護した。性格は行き届き、文書による教令があるごとに、常に懇切で詳細を尽くし、事を指し心を論じて、綺麗な飾りを尚ばなかった。人を抜擢し任を授けるには、才能を得ることにあり、もしその堪えるところがあれば、賤しい者からも抜擢し、虚名だけで実のない者は、任用されることが稀であった。諸将が出征するとき、奉行する方略は、ことごとく勝利を収め、指示に違背し失うときは、多く敗走することになった。質素を雅尚し、刀剣や鞍・勒に金玉の飾りはなかった。若い頃は大酒を飲むことができたが、大任を担うようになってからは、三爵を超えることはなかった。家に居ても官にいるようであった。仁恕で士を愛した。初め、范陽の盧景裕は明経をもって称され、魯郡の韓毅は書に巧みで顕著であったが、ともに謀逆の罪で捕らえられ、恩恵を受けて邸宅に置かれ、諸子を教授した。文武の士でその事に節を尽くし、捕らえられても罪に問われなかった者は甚だ多かった。故に遠近帰心し、皆力を尽くそうと思った。南では梁国を威圧し、北では蠕蠕 (柔然) を懐柔し、吐谷渾・阿至羅をことごとく招き入れ、その力を用い、遠大な方略を図った。
【論】
論じて曰く、昔、魏氏が統御を失い、中原は動揺離散した。齊の神武帝は晋州の地より起こり、冀州の地に大号を揚げた。屡戦して凶徒を滅ぼし、一麾して京洛を清めた。主を尊び国を匡し、功は天下を済わした。既にして魏の武帝 (孝武帝) は権威の逼迫を避けようと図り、天命が既に尽きたので、かえって関中と河東の分離を速めることになった。
校