およそ国家の体をなすものに四つあり。一に仁義、二に礼制、三に法令、四に刑罰という。仁義と礼制は教化の根本であり、法令と刑罰は教化の末節である。根本なくしては立たず、末節なくしては成らない。しかし教化は遠く、刑罰は近く、教化を助けることはできても専ら行うことはできず、威厳を立てることはできても頻繁に用いることはできない。老子は言う、「その政察察たれば、その人缺缺たり」と。また言う、「法令滋く章なれば、盗賊多くあり」と。されば、法令の煩瑣苛酷、官吏の厳酷は、教化を導くことはできず、百世を経ても知ることができる。前代の記録を考察すれば、時に用いられたことはある。
昔、秦は獄吏を任用し、赭衣(赤い囚人服)が道に満ちた。漢はその風習を改め、 枉 げを 矯 めて過正に及び、禁網(法網)が疎闊であったため、遂には舟を呑むほどの大魚(大悪人)をも漏らした。故に大奸巨猾が、義に背き礼に悖る。郅都・甯成の類は、猛気奮発して凶邪を摧拉し、一切を以て時弊を救った。教化の義には背くが、取るべきところはある。于洛侯の徒は、前の書(『魏書』)が『酷吏伝』に編した。ある者は前人の余緒により、ある者は微功によって、時運に遭遇し、忝くも高位を窃んだ。その褊狭な性を恣にして、多く無礼を行い、君子も小人も皆その毒に罹った。その職に臨む所は、凛然としないことはなかった。その下に居る者は、これを蛇や 虺 の如く見なし、その境を過ぐる者は、これを賊や仇の如く逃げる。人に恩を施すも、心は善を好むにあらず。人に罪を加えるも、事は悪を疾むにあらず。その笞打ち辱しめる所は、多くは無辜にある。その行いを察すれば、豺狼にも及ばぬ。その奸を禁じ猾を除くことは、殆ど郅都・甯成の類とは異なる。君子はこれを賤しむ。故に『酷吏』に編する。
魏には于洛侯・胡泥・李洪之・高遵・張赦提・羊祉・崔暹・酈道元・穀楷がいる。斉には邸珍・宋游道・盧斐・畢義雲がいる。『周書』はこの篇を立てない。『隋書』には庫狄士文・田式・燕榮・趙仲卿・崔弘度・元弘嗣・王文同がいる。今、高遵・羊祉・酈道元・谷楷・宋游道・盧斐・畢義雲・庫狄士文・趙仲卿・崔弘度はそれぞれその家伝に従い、その余は並べてここに列する。
于洛侯は、代人である。秦州刺史となり、貪婪で残酷、安んじて残忍であった。部民の富熾が、人の呂勝から脛纏(すね巻き)一具を奪った。洛侯は直ちに富熾を百回鞭打ち、その右腕を切断した。百姓の王隴客が、王羌奴・王愈の二人を刺殺した。律に依れば死罪である。ところが洛侯は生きたまま隴客の舌を抜き、その舌の付け根を刺し、さらに胸腹を二十余箇所刺した。隴客は苦痛に耐えられず、刀に合わせて震え動いた。そこで四本の柱を立て、その手足を磔にした。命が絶えようとする時になって初めてその首を斬り、四肢を切り離し、分けて道路に懸け示した。見る者は傷み悲しみ驚愕しない者はなかった。百姓の王元寿らが一時に反乱を起こした。有司が糾弾し、孝文帝は使者に命じて州の常に人を刑する場所で、兵士たちに宣告させた後、洛侯を斬って百姓に謝罪させた。
胡泥は、代人である。歴官して司衛監に至り、爵を永成侯に賜わる。泥は禁中を統率し、豪族貴族をも憚らなかった。殿中尚書の叔孫侯頭は内直すべきところ一時的に欠けたので、泥は法をもってこれを糾した。侯頭は寵を恃み、遂に口論となった。孝文帝はこれを聞いて賞賛し、泥に衣服一襲を賜い、幽州刺史として出向させ、范陽公を仮授した。北平の陽尼が碩学であることを以て、遂に上表して推薦した。定州刺史に転じた。暴虐で、刑罰が酷く濫り、賄賂を受け取ったため、召還されて誅殺された。法に就かんとする時、孝文帝は太華殿に臨んで引見し、侍臣を遣わして詔を宣し責めさせ、遂にその家で自尽を賜った。
李洪之は、本名を文通といい、恒農の人である。若くして沙門となったが、晩年に還俗した。真君年間(440-451)、狄道護軍となり、爵を安陽男に賜わる。永昌王拓跋仁が太武帝に従い南征した際、元后(後の文成元皇后李氏)の姉妹二人を得た。洪之は密かに贈り物をして兄弟の契りを結び、遂に親族の如くになった。元后の南方にいる兄弟の名をかなり知り得て、名を洪之と改めた。やがて仁が罪に坐して誅されると、元后は宮中に入り、文成帝の寵愛を得て献文帝を生んだ。元后が臨終に際し、太后(文成文明皇后馮氏)がその親族を尋ねると、洪之を兄であると述べた。洪之と一日中別れの言葉を交わし、南方の諸兄である珍之らについて詳しく条列し、手ずから洪之に託した。遂に献文帝の親舅と号された。太安年間(455-459)、珍之ら兄弟が都に至り、洪之と相見え、元后の平生の故事を語り、年長幼少を計って兄弟とした。外戚として河内太守となり、爵を進めて任城侯とされ、威儀は刺史と同一であった。河内は北は上党に連なり、南は武牢に接し、地は険しく人は 悍 く、しばしば劫略害悪があり、長吏はこれを禁じ得なかった。洪之が郡に至ると、厳しく科防を設け、賊を斬る者を募り、直ちに重賞を加え、勤めて本務(農業)を勧めたため、盗賊は止み息んだ。奸党を誅鋤するに、酷虐に過ぎた。後に懐州刺史となり、漢郡公に封ぜられ、召されて内都大官に拝された。河西の羌胡が部落を率いて反乱すると、献文帝は親征し、洪之に侍中・東郡王陸定と共に諸軍を総統することを命じた。輿駕が 并 州に至ると、詔して洪之を河西都將とし、山胡を討たせた。賊は皆険要を守って戦いを拒んだので、洪之は石楼の南の白雞原に堡塁を築いてこれに対した。当時、諸将は皆進攻を欲したが、洪之は大いなる信義を開示し、その生業に復することを聴許した。胡人は遂に降伏した。献文帝はこれを嘉した。尚書・外都大官に遷任された。
後に使持節・安南將軍・秦益二州刺史となった。任に至ると、奸を禁ずる制度を設けた。刃物を帯びて歩く者は、劫盗と同罪とした。軽重の等級には、それぞれ条章があった。そこで州中の豪傑長老を大いに饗応し、法制を示した。そして夜密かに騎兵を分遣して諸要路を覆い、禁を犯す者があれば、直ちに捉えて州に送り、宣告して斬決した。その中で冤罪で殺害された者は、百数に至った。赤葩渴郎羌は深く山谷に居し、羈縻(間接統治)はされていても、朝廷の使者は滅多に到らなかった。洪之は山を切り開いて道とし、広さ十余歩とし、軍勢が行く勢いを示した。そして軍を興してその境に臨むと、山の民は驚愕した。洪之は数十騎を率いてその村里に至り、その妻子を撫で、苦しみを問い、資財を贈った。羌の衆は喜び、編戸と課税を求め、収入は常の十倍となった。洪之は戎夷を統御するに巧みで、頗る威厳と恩恵があったが、刻薄で害をなす名声は、朝野に聞こえた。
初め、洪之が微賤の時の妻張氏も、聡明で強い婦人であり、貧賤から富貴に至るまで、多く補益するところがあり、男女数十人を産んだ。洪之は後に劉芳の従姉を得て、これを重んじ、張氏を疎んじた。劉氏も多く子を産んだ。二つの宅に別居させ、劉の室を偏って厚遇した。これにより二妻は嫉み競い、二つの宅の母子は、往来すること仇の如くであった。西州(秦益二州)に臨むに及んで、劉氏を従えた。
洪之は元来清廉ではなく、しばしば収賄があった。時に孝文帝が禄制を創建し始め、法禁が厳峻であったため、遂に洪之を鎖して京に赴かせ、自ら太華殿に臨み、群臣を庭に集めてその罪を数え上げた。大臣であることを以て、家で自裁することを聴許した。洪之の志性は慷慨で、多く耐え忍ぶところがあった。皮膚病の灸治療で、艾炷の囲みが二寸ほど、頭から足まで十余箇所、一時に下ろしたが、言笑自若で、賓客との応対を絶やさなかった。臨終に際しては、沐浴し衣冠を整え、看守の兵士に扶持され、出入りして家庭を遍く巡り、これを再三し、泣き歎くこと久しく、そして臥して毒薬を飲んだ。
初め、洪之は元后の兄と称して、公私にわたり外戚と同様に振る舞った。ここに至り后の罪を問うと、孝文帝はようやく百官に対しその誣妄を弁明した。しかし諸李はなお互いに親しく見守り、恩情は実の親族の如くであった。洪之が初めて元后に会った時、年齢を計算して兄と称した。珍之らが至ると、洪之は元后が既に長幼を定めているとして、その呼びかけ・拝礼・座席など、皆家族同様であった。晩年、しばしば彼らを招いて宴飲を催した。酔いが酣になった後、時には身の上話に及ぶこともあり、洪之は起立して敬意を加え、談笑は平然としていた。富貴は赫奕として、母方の親戚の家であった。遂に本宗を棄て、専ら珍之らに附いた。後には本属を多少は救済したが、なお明らかではなかった。劉氏には四子があった。
子に神あり。
長子の神は、若くして胆略があり、気概を尚ぶことで名を知られた。軍功により長楽県男に封ぜられ、累進して平東将軍・太中大夫となった。孝昌年中、行相州事を務め、まもなく正式に撫軍将軍を加えられた。葛栄が全力を挙げて攻めたが、長く陥落させることができなかった。葛栄が捕らえられたのに合わせ、功により爵を公に進めた。元顥が洛陽に入り、荘帝が北巡した時、神は侍中に任ぜられた。また殿中尚書に除され、引き続き行相州事を務めた。車駕が宮中に還ると、安康郡公に改封された。普泰元年、驃騎大将軍・儀同三司・相州大中正に進んだ。薨じ、 司徒 公、冀州刺史を追贈された。子に士䋤あり。斉が禅を受けると、例により爵位を降格された。
張赦提は、中山安喜の人である。性質雄武にして、計画性があった。初め武卉中郎となった。当時、京畿の盗賊の首魁は、豹子・彪子と称し、共に弓馬に長け、霊丘・応門の間に集まって劫略の害をなした。ついには人の首を斬り、その口を射、人の臍を刺し、腸を引き出して樹に巻きつけ、共にこれを射て、戯笑とした。その暴虐酷薄はこのようなものであった。軍騎が急襲捕縛したが、長く獲ることができず、通行者はこれを患った。赦提が逐賊軍将となると、間もなく彪子・豹子及びその党与を捕らえ、ことごとく京師に送り、闕下で斬った。これより清静となった。その霊丘の羅思祖は、宗門豪溢にして、家は険阻な地にあり、多く亡命者を匿い、彼らと共に劫略を働いた。献文帝はこれを怒り、その家族を誅戮した。しかし思祖の家の党与は、相率いて寇盗となった。赦提は募って捕逐を求めた。赦提を遊徼軍将とし、前後して擒獲し、殺戮することほぼ尽くした。このため、濫りに屠害を加え、特に残忍酷薄であった。既に前の称賛を頼みとし、またこの功績を藉口して、幽州刺史に除され、安喜侯を仮された。赦提は己を克し節制を励んだので、清名があった。後には頗る妻の段氏を放任し、多く収賄を受けた。僧尼に命じて事に因り請託を通じさせ、貪虐の評判が流布した。中散の李真香が幽州に使いし、牧守の政績を採訪した。真香がその罪を検案すると、赦提は死を恐れて逃亡しようとした。その妻の姑は太尉・東陽王丕の妻であり、丕の親貴を恃み、自ら進んで丕に申訴して助力を求め、赦提に言うには、「必ず訴え理を申し立て、幸いに冤罪を晴らすことができよう。憂いを緩め、異なる計らいをしないでほしい」と。赦提はこれにより、やや自ら慰解した。段氏は陳列して言うには、真香はかつて仮の用事で幽州を過ぎた時、赦提が良牛を持つことを知り、これを求めても果たせなかった。今、台使は前の事を挟んで、故意に部下を威逼し、拷問を過度に行い、無辜を枉げて、誣告の罪を立証したのだ、と。執事は恐らく不十分があるとして、駕部令の趙秦州を重ねて往かせて究明させたが、事状は前の通りであり、赦提に大辟を処した。孝文帝は詔して第において死を賜うた。将に尽きんとする時、妻を呼んで責めて言うには、「貪濁して我を穢したのは卿である。また我を安んじながら禍を免れることができなかった。九泉の下で、必ず仇敵となろう」と。
また華山太守の趙霸あり。酷暴で道理に外れていた。大使の崔光が趙霸を上奏して言うには、「憲度に従わず、威虐を思いのままにし、ついには手ずから吏人を撃ち、僚属は奔走する。君主として民を治め、軌物に納めることはできない。直ちに州において禁止すべきである」と。詔して居官を免じた。
崔暹は、字を元欽といい、元は雲の清河東武城の人であったが、代々 滎陽 ・潁川の間に家を構えていた。性質は猛酷で、仁恕に乏しく、奸猾で利を好み、勢家に仕えることができた。初め秀才として累進し南袞州刺史となったが、官瓦を盗用し、贓汚狼籍として、御史中尉李平に糾弾され、免官された。後に行 豫 州事を務め、まもなく正式に刺史となった。子を遣わして戸籍を分け、三県に隷属させ、広く田宅を占め、官奴を隠匿し、陂池の葦を囲い込んで吝み、公私を侵盗し、御史中尉王顯に弾劾され、免官された。後、累進して瀛州刺史となった。貪暴で安んじて残忍であり、人庶はこれを患った。かつて州の北に出猟し、単騎で人の村に至った。水を汲む婦人がいたので、暹は馬に水を飲ませるよう命じ、因みに問うて言うには、「崔瀛州はどうか」と。婦人はこれが暹であると知らず、答えて言うには、「百姓は何の罪があって、このような癩児刺史に遭わねばならないのか」と。暹は黙然として去った。不称職により解任されて還京した。武川鎮が反すると、詔して暹を 都督 とし、李崇がこれを討った。崇の節度に違反し、賊に敗れて、単騎で潜かに還った。廷尉に禁錮され、女妓と園田を元叉に賄って免罪を得た。建義初め、河陰で遇害した。 司徒 公・冀州刺史を追贈され、武津県公に追封された。
子の瓚は、字を祖珍といい、尚書左丞を兼ねて位にあり、卒した。瓚の妻は荘帝の姉であり、後には襄城長公主に封ぜられたので、特に瓚に冀州刺史を追贈した。子の茂は、字を祖昂といい、祖父の爵を襲った。
邸珍は、字を安宝といい、元は中山上曲陽の人であったが、魏の太和年中、武州鎮に徙居した。孝昌年中、六鎮の兵が起こると、珍は遂に杜洛周の賊に従った。洛周が葛栄に併呑されると、珍は栄の軍に入った。栄が爾朱栄に撃破されると、珍はその余党と共に、並州に徙された。斉の神武帝に従って山東に出た。神武が信都で義兵を起こすと、珍を長史に拝し、上曲県侯に封じ、殷州刺史に除した。珍は求めて取ること厭わず、大いに州人の疾苦となった。後、尚書右僕射・大行台を兼ね、諸軍事を節度し、梁州の将成景攜らを撃ち、東行の包囲を解き、軍を回して彭城に至った。珍は部下を統御するに残酷で、士衆は離心し、ついには土人の豪族に対しても無礼に遇したため、遂に州人に害された。後、定州刺史・ 司空 公を追贈された。
田式は、字を顯標といい、馮翊下邽の人である。祖父の安興、父の長樂は、魏に仕え、ともに本郡の太守となった。田式の性格は剛毅果断で、武芸に優れ、拳勇は人に絶していた。周に仕え、渭南太守の位にあり、政治は厳猛を尚び、吏民は重ね足して立ち、敢えて法に違える者はいなかった。本郡の太守に遷り、親戚故旧は影を潜め、請託は行われなかった。周の武帝はこれを聞いて善しとし、位を儀同三司に進め、信都縣公の爵を賜り、抜擢されて延州刺史に拝された。北斉平定に従い、功により上開府を授かり、建州刺史に転じ、梁泉縣公に改封された。後に韋孝寬に従って尉遲迥を討ち、功により大将軍に拝され、武山郡公に爵位を進めた。隋の文帝が禅譲を受けると、襄州総管に拝された。専ら威を立てることを務めとし、外で政務を見る毎に、必ず盛んな気勢でこれに臨んだ。その下の官属は、股が震えて敢えて仰ぎ見る者もなかった。禁を犯す者がいれば、たとえ最も親しい者であっても、容赦するところがなかった。その女婿の京兆の杜寧が長安から見舞いに来たが、田式は杜寧に外出するなと戒めた。杜寧は長く帰れず、ひそかに北楼に上り、旅愁を晴らそうとした。田式はこれを知り、杜寧を五十回杖打った。その愛する奴隷が、かつて田式に用件を申し上げに来た時、虫がその衣の衿に上ったので、袖を振って払い落とした。田式はこれを己を侮ったと思い、直ちに棒で打ち殺した。あるいは僚吏が奸悪な収賄をし、管内で強盗があれば、軽重を問わず、全て地中の穴に閉じ込め、糞尿の中で寝起きさせ、苦痛を与えた。自ら死なない限り、終に出ることはできなかった。赦書が州に届く毎に、田式は読む暇もなく、まず獄卒を召して重罪の囚人を殺させ、それから百姓に示した。その苛酷暴虐はこのようなものであった。このために上から譴責を受け、除名された。田式は恥じ憤って食事をとらず、妻子がその居所に来ると直ちに怒り、ただ二人の侍僮だけが左右に給仕した。家の中から山椒を求め、自殺しようとしたが、家人は与えなかった。ひそかに侍僮を遣わして市で毒薬を買わせたが、妻子がまた奪い棄てた。田式は憤って臥せっていた。その子の田信は当時儀同の位にあり、田式の前に来て涙を流して言った。「父上は朝廷の重臣であり、また大過もないのに、近頃公卿が免職や辱めを受ける者は多いが、すぐにまた外任されることが多い。父上はどうして長くこのままでいられましょうか。ましてやこのようなことまでなさるとは!」田式は突然起き上がって刀を抜き田信を斬りつけた。田信は避け、刃は門に当たった。上はこれを知り、田式が己を責めることが深いとして、その官爵を復し、まもなく広州総管に拝し、官のまま死去した。
燕榮は、字を貴公といい、華陰弘農の人である。父の燕侃は、周の大将軍である。燕榮の性格は剛毅厳格で、武芸があった。周に仕え、内侍上士となった。武帝に従って北斉を伐ち、功により開府儀同三司を授かり、高邑縣公に封ぜられた。隋の文帝が禅譲を受けると、位を大将軍に進め、落叢郡公に進封され、 晉 州刺史に拝された。まもなく河間王楊弘に従って突厥を撃ち、功により上柱国に拝され、青州総管に遷った。州にあって、非常に力の強い者を選んで伍伯とした。吏民で過ちを犯す者があれば、必ず詰問し、直ちに鞭打ちし、傷口は骨が見えるほどであった。奸悪な盗賊は影を潜め、管内は粛然とした。他の州県の人がその境界を通る者は、賊の如く恐れ、休息することもできなかった。後に朝廷に参内した際、特に恩遇を加えられた。燕榮は母が老齢であることを理由に、毎年朝廷に入ることを請うた。上はこれを許した。
陳討伐の役において、行軍総管とされ、水軍を率いて東萊から海に沿って太湖に入り、呉郡を取った。丹陽を破った後、呉人は共に蕭瓛を立てたが、宇文述に敗れ、包山に退いて守った。燕榮は精鋭の甲兵を率いてこれを追撃し、蕭瓛は敗走し、燕榮に捕らえられた。事が平定されると、檢校揚州総管となった。まもなく武候將軍に召され、後に幽州総管に除かれた。
燕榮の性格は厳酷で、威厳のある容貌があり、長吏で会う者は、みな恐れおののき我を失った。范陽の盧氏は、代々名門の姓であったが、燕榮は皆を吏卒に任命し、屈辱を与えた。左右の者を鞭打つこと、動けば千回に及び、血が前に溢れても、飲食は平然としていた。かつて管内を巡察した時、道端に叢生した荊を見て、鞭の材料になると、命じて取らせ、直ちに人を試した。ある人が自ら過ちがないと申し立てると、燕榮は言った。「後に罪があれば、免じてやろう。」後に些細な過失を犯し、打とうとすると、その人は言った。「先日杖罰を受けましたが、罪があれば許すとおっしゃいました。」燕榮は言った。「過ちがない時でさえああなのだ、ましてや過ちがあればどうだ!」以前と同様に鞭打った。燕榮は管内を巡省する毎に、人吏の妻に美色があると聞けば、直ちにその家に宿泊してこれを犯し、貪暴放縱は日増しに甚だしくなった。時に元弘嗣が幽州長史に除せられたが、辱められることを恐れ、固辞した。上はこれを知り、燕榮に勅して言った。「弘嗣を十杖以上罰する罪は、全て奏聞せよ。」燕榮は憤って言った。「小僧めがどうして私を弄ぶことができようか!」そして元弘嗣を遣わして倉の穀物の納入を監督させ、糠や秕が一つでも舞い上がれば罰し、毎回の鞭打ちは十回に満たなかったが、一日の中に三度にも及ぶことがあった。このように数年を経て、怨みの溝は日々深まった。燕榮は遂に元弘嗣を捕らえて獄に下し、糧食を絶った。元弘嗣は飢え、衣の綿を抜き取って水と共に飲み下した。その妻が朝廷に赴いて冤罪を訴えた。上は考功侍郎の劉士龍を駅馬で馳せさせて審問させた。上奏によれば燕榮は毒虐であり、また贓物で狼藉であった。そこで召還して京に帰し、死を賜った。これに先立ち、燕榮の家の寝室で、理由もなく数斛の蛆が地から盛り上がって出た。まもなく、燕榮は蛆の出た場所で死んだ。子に燕詢がいた。
元弘嗣は、河南洛陽の人である。祖父の元剛は、魏の漁陽王である。父の元経は、周の漁陽郡公である。元弘嗣は若くして爵を襲い、十八歳で左親衛となった。開皇元年、 晉 王(楊広)に従って陳を平定し、功により上儀同を授かった。後に観州長史に除かれ、厳峻に職務を執り行い、州人は多くこれを怨んだ。幽州に転じた。時に総管の燕榮が元弘嗣に対して暴虐をふるい、毎度鞭打ち辱めた。元弘嗣は心服せず、遂に監禁された。燕榮が誅殺されると、元弘嗣が政務を執り、その酷さはさらに甚だしかった。囚人を審問する毎に、多くは酢を鼻に注ぎ、あるいはその下の穴に楔を打ち込んだ。敢えて真情を隠す者もなく、奸偽は息を潜めた。仁寿末年、木工監を授かり、東都の造営を修めた。大業初年、煬帝はひそかに遼東征伐の意思があり、元弘嗣を東萊の海口に遣わして船の建造を監督させた。諸州の役丁はその鞭打ちに苦しみ、役人は作業に当たり、昼夜を問わず水中に立ち、少しも休息せず、腰から下は蛆が生えない者はなく、死者は十のうち三四に及んだ。まもなく黄門侍郎に遷り、殿中少監に転じた。遼東の役において、位を金紫光禄大夫に進めた。後に奴賊が隴西を寇したため、詔により元弘嗣がこれを撃った。楊玄感が反乱を起こすと、元弘嗣は安定に兵を屯した。ある者が元弘嗣が楊玄感に応じようと謀っていると告げた。代王楊侑は彼を捕らえて行在所に送らせた。反逆の証拠がないとして釈放された。帝はこれを疑い、除名して日南に流し、道中で死んだ。子に元仁観がいた。
王文同は、京兆頻陽の人である。性格は明晰弁舌で、実務の才幹があった。開皇年間、軍功により儀同に拝され、桂州司馬を授かった。煬帝が位を嗣ぐと、光禄少卿となった。上意に逆らったため、出されて恆山郡贊務となった。ある豪族で狡猾な者がおり、毎度長吏の長短を握り、前後の守令は皆これを恐れた。王文同が着任すると、その名を聞いてこれを責めた。そこで木を削って大きな杭を作り、庭に埋め、一尺余り出し、四面にそれぞれ小さな杭を埋め、その人に木の杭の上に胸を伏せさせ、四肢を小さな杭に縛り付け、棒でその背中を打たせると、たちまち爛れた。郡中大いに驚き、吏民は息を殺した。帝が遼東を征する時、王文同に河北諸郡を巡察させた。王文同は沙門で斎戒して菜食する者を見て、妖妄であるとして、皆捕らえて拘禁した。北は河間に至り、郡の官人を召集した。少しでも遅れ違う者があれば、直ちに地面に顔を伏せて打ち殺した。沙門が集まって講論する者や長老が共に仏会を行う者数百人を求め、王文同は徒党を組んで衆を惑わすとして、皆斬った。また僧尼を全て裸にし、淫行の形跡がある者や童貞・処女でない者数千人を検査し、また殺そうとした。郡中の士女は、路上で号哭し、諸郡は驚愕し、それぞれその事を上奏した。帝は聞いて大いに怒り、使者の達奚善意を遣わして駅馬で馳せさせて鎖で縛らせ、河間で斬り、もって百姓に謝罪させた。仇敵はその棺を割き、その肉を細かく切り取って食らい、あっという間に全て尽きた。
論ずるに、士が名を立てるには、その道は一つではなく、あるいは循良(善良な行い)によって進み、あるいは厳酷さによって顕れる。故に寛容と厳峻は互いに助け合い、徳と刑罰は互いに設けられる。しかし、厳しくせずして教化することを、君子は先んずる。于洛侯らは悪を行うことは異なるも、同じく残酷に帰し、その毒螫(毒牙)をほしいままにし、多く残忍な行いを行う。人の肌膚を軽んじて、木石と同じくし、人の性命を軽んじて、芻狗(藁で作った犬、祭祀に用いて後に棄てる)よりも甚だしい。悪を長じて悔い改めず、及ばざる者は少ない。故に或いは身に罪戮を蒙り、或いは憂いと憤りとともに殞ち、異なる術も皆斃れ、各々その宜しきを得たのである。凡そ百の君子、以て天道有りと為す。
目次へ戻る※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。