先王は天下を区画統治し、民を司牧するに、刑法をもってその奸を禁じ、礼教をもってその欲を防ぐ。徳をもって政を行うと雖も、その理は実に道を異にし、百の思慮も一致する所は、ここにあるのみである。《書経》に「人を知るは則ち哲なり」と云い、また「庶官を 曠 しうすることなかれ」と云う。その人に非ざる者は空官であるというのである。聡明な君主の後には、必ずや清明の臣を得る。昏乱の朝には、多く貪残の吏がある。嗜欲の招く所、影響これに従う。故に五帝三王は、人を易えずして化を成し、皆その化する所の由りて之を為すのみである。およそ無能の吏はあれども、御すべからざる人は無いのである。侯を罷めて守を置いて以来、年歴久しく、方牧をもって統べ、世を重ねて相循り、寛猛を用いて、人を庇い俗を調える所以となった。但し廉平なる常の行跡は、名声高まること難く、時に適い務めに応ずれば、響きを招くこと必ず速い。是の故に搏撃を侯と為す者は、起るや踵を 旋 らす間もなく、懦弱にして咎を 遺 す者は、録用される時無し。これは既に前世において然りであった。後世の吏たる者、世と沈浮し、末世は人情薄く、奸巧多く緒を成し、官に居り職に蒞む道、各々同じからず。故に往籍はその賢能を述べて、懲め勧むるの道を彰わすのである。
案ずるに、魏は『良吏伝』を立て、張恂、鹿生、張膺、宋世景、路邕、閻慶胤、明亮、杜纂、裴佗、竇瑗、羊敦、蘇淑あり。齊は『循吏伝』を立て、張華原、宋世良、郎基、孟業、崔伯謙、蘇瓊、房豹、路去病あり。『周書』はこの篇を立てず。隋の『循吏伝』に梁彥光、樊叔略、趙軌、房恭懿、公孫景茂、辛公義、柳儉、劉曠、王伽、魏德深あり。そのうち張恂、鹿生、宋世景、裴佗、羊敦、宋世良、郎基、崔伯謙、房豹、趙軌、房恭懿は、各々その家伝に附し、その余は皆時代に依って編緝し、以て『循吏篇』を備うる。
張膺は、何許の人なるかを知らず。延興年中、魯郡太守となる。履行貞素にして、妻女は樵採して自ら供給す。孝文帝深く之を嘉す。京兆太守に遷り、清白なること称され、吏人の忻心を得たり。
路邕は、陽平の人なり。宣武帝の時、東魏郡太守に除される。政に蒞み清勤なり。凶作の年、家の粟を出だし、貧窮を賑恤す。霊太后詔を下して褒美し、龍廄の馬一匹、衣一襲、被褥一具を賜う。稍々南青州刺史に遷り、卒す。
閻慶胤は、何許の人なるかを知らず。東秦州敷城太守となる。頻年にわたり饑饉ありしも、慶胤は歳ごとに常に家粟千石を以て、貧窮を賑恤し、人はこれに頼りて救わる。部民の陽宝龍ら一千余人、美政を頌して申す。有司以て聞くも、霊太后遂に褒賞無し。
明亮、字は文德、平原高昌の人なり。識見と才幹あり、員外常侍を歴任す。延昌年中、宣武帝朝堂に臨み、自ら黜陟し、亮に勇武将軍を授く。亮進みて曰く、「臣の本官は常侍、これは第三の清官なり。今臣に勇武を授く、その号は至って濁り。且つ文武また異なり、請うらくは改めて授けられんことを」と。帝曰く、「九流の内、人皆君子なり。卿独り衆に背き、妄りに清濁を相い、請う所未だ可ならず」と。亮曰く、「今江左未だ賓服せず、書軌宜しく一にすべし。方に陛下の為に命を投げ打ち前駆となり、呉会を拓定せんとす。官爵は、陛下の軽しと為す所。賤命は、微臣の重しと為す所なり。陛下方に重しと為す所を収めんとす、何ぞ軽しと為す所を惜しまんや」と。因りて平遠将軍に改授を請う。帝曰く、「運籌し武を用い、然る後に遠人始めて平らぐ。卿但だ武を用いて之を平らげよ、何ぞ平遠を得ざるを患えんや」と。亮乃ち陳謝して退く。陽平太守に除される。清白にして人を愛し、甚だ恵政あり。汲郡太守に転じ、政を為すこと前に如く、その善政は遠近に宣べらる。卒す。二郡の人吏、今に至るも追思す。
杜纂、字は榮孫、常山九門の人なり。少より清苦を以て自ら立つ。時に県令の齊羅喪亡し、親属収殮する者無く、纂は私財を以て殯葬す。ここにより郡県その門閭を標す。後に父の喪に居り礼を尽くす。郡、孝廉に挙げ、稍々積弩将軍に除され、新野征討に従う。南陽平定に及び、功により爵を井陘男と賜う。帛五百匹を賞され、数日の内に、之を知友に散じ、時人これを称す。武都、漢陽二郡太守を歴任し、並びに清白を以て名有り。明帝の初め、清河内史に拝せらる。性倹約にして、特に貧老を愛し、人の疾苦を問い、至ってはこれに対し泣涕すること有り。農桑を勧督し、自ら検視し、勤なる者には物帛を以て賞し、惰なる者には罪譴を加う。死を弔い生を問い、甚だ恩紀有り。東益州刺史に除されるも、辺境を防禦する威略無く、群氐反叛し、人和を失いしを以て徴還さる。太中大夫に遷る。正光の末、清河の人房通ら三百人、纂の徳政を頌し、重ねて郡に臨まんことを乞う。詔してこれを許す。孝昌年中、葛栄に囲逼せらる。郡を以て降り、栄はこれをもって常山太守と為す。栄滅び、家に卒す。
李纂が歴任した官職においては、小恩小恵を施すことを好み、粗食に粗衣と、多くは虚偽と偽善に及んだ。しかし財を軽んじて己を清くし、終始贈り物を受け取ることはなく、民衆に慕われ、良き太守と称された。天平年間に、定州刺史を追贈された。
竇瑗は、字を世珍といい、遼西郡陽洛県の人である。自ら言うには、本貫は扶風郡平陵県であり、漢の大將軍竇武の曾孫の竇崇が遼西太守となり、そこで家を構えたという。曾祖父の竇堪は、慕容氏の漁陽太守であった。祖父の竇表は、馮弘の城周太守となり、後に北魏に入った。父の竇冏は、秀才に挙げられたが、早くに亡くなった。普泰初年、竇瑗は自身の官位階級を以て父への追贈を請う上奏をし、詔により平州刺史を追贈された。竇瑗は十七歳の時、早くも書物を背負って師に従い、十年間遊学し、ようやく御史となった。後に太常博士を兼ね、太原王爾朱栄の官に任命されたが、爾朱栄は彼を留めて北道大行台左丞とした。爾朱栄の官に任じられた功により、新昌男の爵位を賜った。爾朱栄に従って東進し葛栄を平定し、容城県伯に封ぜられた。竇瑗は容城伯の爵位を兄の叔珍に譲ることを請い、詔はこれを許し、新昌男の爵位を転じて叔珍に授けることとした。叔珍はこれにより太山太守の位に至った。爾朱世隆らが長広王元曄を君主として立て、南へ洛陽に向かった。東郭の外に至った時、世隆らは竇瑗を遣わして元曄を廃するよう奏上させた。竇瑗は鞭を執って単身で禁中に入り、堯や舜が行ったような譲位の実行を願い出て奏上し、元曄は遂に広陵王(孝武帝元脩)に禅譲した。これにより給事黄門侍郎に任ぜられた。
孝武帝の時、廷尉卿となった。釈奠が行われ講義が開かれると、竇瑗は温子升、魏季景、李業興と共に擿句(講義の要点を摘出すること)を担当した。天平年間、広宗太守に任ぜられ、政治に清廉潔白の称があった。広宗の人情は凶暴で、歴代の太守は皆訴訟を起こされた。ただ竇瑗一人だけが、終始清廉潔白を全うした。中山太守に転じ、名声は非常に良く、官吏や民衆に慕われた。斉の神武帝(高歓)が州郡に文書を発布した際、竇瑗の政績を称え、励みとするよう示した。後に平州刺史を授けられたが、州での政治は郡を治める時と同様であった。また神武帝の丞相府右長史となった。竇瑗には軍府の事務を裁断する才能がなく、あまり職務に適っていなかった。また晋州の事務を代行した。鄴に戻ると、上表して言うには、「臣が謹んで『麟趾新制』を拝読しますと、三公曹第六十六條に、『母がその父を殺した場合、子は告発してはならず、告発した者は死罪とする』とあります。三度繰り返し考えましたが、その趣旨が理解できません。なぜでしょうか。律を調べますと、『子孫が父母、祖父母を告発した者は、死罪とする』とあります。また漢の宣帝は、『子が父を、孫が大父母(祖父母)を匿うのは、いずれも論罪しない』とおっしゃいました。これはおそらく、父母や祖父母が小さい罪(例えば羊を盗む)から甚だしい罪(殺害など)を犯した場合、恩情により互いに隠すべきであり、律は敢えて言及していない、法理はこのようである、ということであり、十分にその道理は見て取れます。必ずしも母が父を殺した場合に、子が言わないことを指しているわけではないでしょう。今、母が父を殺したのに子が告発しないならば、それは母を知って父を知らず、識見は野人に等しく、道義は禽獣に近いものです。かつ母にとって父は、結ばれて天となる存在です。既に己の天を殺し、さらに子の天を殺したのです。二つの天が瞬時に毀たれたのに、どうして黙っていられましょうか。この母の罪は、道理上赦すべきではありません。手を下したその日、母としての恩情は既に離れています。それでもなお母としての道理を以て告発しないというのは、臣のような浅はかな者が困惑する所以です。もしこのような事態があれば、臨機応変に罪を議すればよいのであって、どうして予めこの條文を制定し、訓誡とする必要がありましょうか。千年の後、論者が喧嘩することを恐れます。明らかなる大朝(当朝)に、母を尊び父を卑しむ議論があると。臣の管見では、実に取るべきことではありません」。詔により尚書省に付議された。三公郎の封君義が判決文を立てて云うには、「母がその父を殺し、子が再び母を告発すれば、母は告発により死罪となり、それは子が殺したことになる。天下に母のいない国はない。この子は、いずこに行こうとするのか。既に法に違背せず、事を害するものでもない。これを有司に宣布し、改めるべきではないと謂う」。竇瑗は再び難問して云う、「局判(封君義の判決)に『母は告発により死罪となり、それは子が殺したことになる。天下に母のいない国はない。この子は、いずこに行こうとするのか』とある。竇瑗が典律を調べるに、母がその父を殺した場合に子が母を隠すべき道理があるとは聞かない。母を告発しないならば、それは父を殺すのと同じである。天下に父のいない国があろうか。この子だけが行く所があるというのか」。事は一旦棚上げにされた。大宗正卿に任ぜられた。宗室やその寒門の士人は、相い集って彼を軽んじたが、竇瑗は法に基づいて正しく推問したため、甚だしく憎まれた。官位は通顕であったが、貧窮は初めの如くであり、清廉で高尚な操行は、当時に重んじられた。本州の大中正を兼ね、廷尉卿を兼任し、官のまま逝去した。太僕卿、済州刺史を追贈され、諡を明といった。
蘇淑は、字を仲和といい、武邑郡の人である。兄の蘇寿興は、事件に連座して宦官となったが、後に河間太守に任ぜられ、 晉 陽男の爵位を賜った。寿興が亡くなろうとした時、遂に養子として蘇淑を届け出た。蘇淑は熙平年間にその爵位を継承した。後に楽陵内史に任ぜられ、郡において民を安撫し、多くの人々から称賛された。後に病を理由に辞任を請うと、詔はこれを許したが、官吏や民衆の老若が蘇淑の留任を訴え請う者は非常に多かった。後に 滎陽 、中山の二郡の太守を歴任し、逝去した。
蘇淑は心を清くして下を愛し、歴任した三郡はいずれも官吏や民衆に慕われ、当時良二千石と称された。武定初年、 衞 大将軍、都官尚書、瀛州刺史を追贈され、諡を懿といった。斉の神武帝(高歓)はその清廉な操行を追慕して称え、羊敦と共に優れた賞賜を受けた。
張華原は、字を国満といい、代郡の人である。若くして聡明で機敏、器量と度量があった。初め斉の神武帝(高歓)の驃騎府法曹参軍となり、新城伯の爵位を賜い、 累 進して大丞相府属となった。深く親しく遇され、しばしば三軍に号令する際、常に彼に命じてその意図を宣布させた。まもなく 散騎常侍 に任ぜられた。周の文帝(宇文泰)が雍州を占拠し始めた時、神武帝は華原を関中に入れて説得させた。周の文帝は彼に言った、「もしここで驥の足を屈してくれるなら、共に富貴を分かち合おう。そうでなければ、命は今日に懸かっている」。華原は言った、「首を落とされるだけです。お命を承ることはできません」。周の文帝はその誠実で正しい態度を賞賛し、東へ帰還させた。まもなく後悔し、追わせたが及ばなかった。神武帝は華原が久しく帰らないので、常に嘆き惜しんでいたが、彼が帰って来たと聞くと、喜びを顔色に表した。後に相府右長史に任ぜられ、驃騎大将軍、特進に昇進し、爵位は公に進み、さらに新安に転封された。後に兗州刺史となった。華原には才幹と謀略があり、政体に通じていた。州に至ると、広く耳目を張り巡らせ、威厳と禁令を以て臨んだ。境内の大賊および隣州からの逃亡者三百余人が、皆華原のもとに赴き帰順した。皆恩情と信義をもって慰撫し、田舎に帰らせた。これにより人々は感銘して帰附し、賊や盗賊は静まった。州の監獄には以前より千余人の囚人が拘束されていたが、華原は軽重を分類し、事に応じて判決し釈放した。年の暮れには、重罪を犯した者数十人だけが残った。華原は各々に五日間の休暇を与え、「期限が来たら速やかに戻れ」と言った。囚人らは言った、「このような君がいるのに、どうして背けようか」。期日通りに皆戻って来た。以前より、州内ではしばしば猛獣が暴れていた。華原が政治を執り行ってから、州の東北七十里の甑山中に、突然六駮(伝説の獣)が現れて猛獣を食い、皆が教化の感応によるものだと考えた。官のまま逝去すると、州の人は大小を問わず号泣して慕い、碑を立て祠を建て、四季に祭祀を行った。 司空 公、尚書左僕射を追贈された。子の張宰均が後を嗣いだ。
孟業は、字を敬業といい、钜鹿郡安国県の人である。家は元々寒微で、若くして州の吏員となり、性質は廉潔で謹直であった。同僚の者たちが官の絹を横領し、その三十匹を孟業に分け与えようとしたが、拒んで受け取らなかった。行台郎中の郭秀は礼を以て接遇し、まさに推薦しようとしたが、郭秀が逝去したため果たせなかった。
魏の彭城王元韶は、斉の神武帝の婿である。定州刺史に拝され、孟業を典籤に任じた。長史劉仁之が業に謂うには、「我は外に処し、君は内に居る。心を同じくし力を戮し、庶幾くば済わんか」と。未だ幾ばくもせず、仁之は中書令として入朝することとなり、路に臨んで韶に啓して云う、「殿下の左右に信任すべき者は、唯だ孟業のみ。願わくは専ら之を任じ、余人は信ずべからず」と。また業と別れ、手を執って曰く、「今我が出都すれば、君は便ち援を失う。恐らくは君の後、自ら保全せざらん。唯だ正と直と、願わくは君自ら勉めよ」と。業は唯だ一馬有り、痩せて死す。韶は業の貧しきを以て、州府の官人に令し、同じく馬肉を食わしめ、厚く相酬償せしめんと欲す。業は固く辞して敢えて受けず。韶乃ち業に戯れて曰く、「卿は名を邀うる人なり」と。対えて曰く、「業は典籤たり。州中の要職なり。諸人の相い賄贍せんと欲するは、只だ方便無きを患うるのみ。今肉を喚ばしむるは、恐らくは聚斂を致し、声名を損なわん。是を以て明教に仰ぎ違う」と。後、旬日に満たず、韶の左右の王四徳・董惟金並びに馬の死を以て肉に托け、長史裴英起の密啓する所と為る。神武帝、韶に書を有り、大いに誚譲す。業、尋に譖せられ、外に出でて県事を行ふ。後、神武帝、韶を責むる書に云う、「典籤姓孟の者は、極めて能く心を用う。何ぞ乃ち外に出ださしむるや」と。韶の代わり下るに及び、業も亦た随ひて還る。贈送は一も受けざる所あり。仁之、後に西兗州刺史と為り、臨別に吏部郎中崔暹に謂ひて曰く、「貴州の人士は、唯だ孟業のみ。銓挙の次に、忘るべからず」と。暹、業に問ひて曰く、「君、往きて定州に在りし時、何の政有りて、劉西兗をしてかくの如く欽歎せしむるや」と。業答えて曰く、「唯だ自修を知るのみ」と。韶、 并 州刺史と為り、業復た典籤と為り、仍ひて長史を兼ぬ。
斉の天保初め、清河王高岳、司州牧に拝され、召して法曹と為す。業は形貌短小にして、謁見に及び、岳は心に其の眇小を鄙み、笑ひて言はず。後に業の断決する処を尋ね、謂ひて曰く、「卿の断決の明らかなるは、軀貌の用に過ぐると謂ふべし」と。河間王国郎中令を補す。清貧自ら守り、未だ嘗て失ふこと有らず。文宣帝、侍中裴英起に謂ひて曰く、「卿は河間王郎中孟業を識るや。一昨其の国司の文案を見るに、是れ好人に似たり」と。対えて曰く、「昔、臣と魏の彭城王元韶に同事せり。其の人清忠正直、世に稀有なり」と。帝曰く、「公の言の如きは、比来大なる屈なり」と。中書舎人を除す。文宣帝、初め唯だ姓名を得たるのみ。奏事に因るに及び、其の羸老なるを見、又質性敦樸にして、升降の容無く、之に平緩を加へ、方便に寡し。一の道士、由吾道栄、術芸を以て迎へられ、将に内に入らんとす。業、其の為に名を通ず。忽ち衆中に於いて声を抗して奏す、「由吾道士は五穀を食はず」と。帝、命じて之を推し下さしむ。又た百官を点検せしめ、敷奏失する所有り。帝、人を遣わして馬鞭を以て業の頭を撃たしめ、流血に至らしむ。然れども亦た其の衰老を体し、力の堪ふる所に非ざるを知る。
皇建二年、累遷して東郡太守と為り、寛恵を以て著名なり。其の年夏、五官張凝、出使に因りて、麦一莖五穂を得、其の余は或は三穂四穂一莖を共にする者有り。合郡咸く政化の感ずる所と為し、因りて即ち上申す。秋に至り、復た東燕県人班映祖有りて、嘉禾一莖九穂を送る。河清三年、勅して人間に驢を養はしめ、買ひを催すこと甚だ切なり。業曰く、「吾既に人の父母と為る。豈に坐して此の急を見るべけんや。令宜しく庫銭を権に出だし、人に貸して取辦せしむべし。後日に罪有らば、吾自ら之を当つ」と。後に憲司の劾する所と為る。摂せらるるの日、郡人皆泣きて之に随ひ、迭り相ひ吊慰す。業を送りて関を度る者、数百人有り、黎陽郡西に至りて、方に辞決を得。攀援号哭し、悲しみ行路を動かす。闕に詣でて冤を訴ふる者一人に非ず。勅して乃ち放ち還さしむ。郡中の父老、河に扣きて迎接す。
武成帝、親しく戎し、洛より鄴に還る。道、東郡に由る。業、牛酒を具へ、人吏を率ゐて路傍に拝謁し、自ら称して曰く、「糞土の臣孟業、伏して惟ふに聖駕親しく行かば、征有りて戦無からん。謹んで微礼を上る」と。便ち人吏と俱に万歳を唱へ、導引して前に入る。帝大いに之を嘉す。後に広平太守を除す。年既に老ひ、政を理むること東郡に在りし時に如かず。武平九年、太中大夫と為り、衛将軍を加へ、尋で卒す。
業は志を質素に守り、浮華を尚ばず。子の為に結婚し、朝の肺腑たる吒羅氏に娶す。其の子、廕を以て平原王段孝先の相府行参軍と為るを得。乃ち令して今世の服飾たる綺の襦・紈の袴を作らしむ。吒羅の家は又た姻婭を恃み、炫曜矜誇す。業、知りて而も禁ぜず。素望頗る貶せらる。
蘇瓊、字は珍之、長楽武強の人なり。父備は、魏に仕へ、衛尉少卿に至る。瓊幼時に父に随ひて辺に在り、嘗て東荊州刺史曹芝を謁す。芝戯れて問ひて曰く、「卿は官を欲すや」と。対えて曰く、「官を設けて人を求む。人官を求むるに非ず」と。芝其の対に異なり、署して府の長流参軍と為す。斉の文襄帝、儀同開府を以て、引いて刑獄参軍と為し、毎に勉労を加ふ。 并 州嘗て強盗有り。長流参軍張龍其の事を推す。疑はるる賊徒は並びに已に拷伏し、失物の家は並びに識認す。唯だ盗贓を獲ず。文襄帝、瓊に付し、更に窮審せしむ。乃ち別に推して元景融等十余人を得、並びに贓験を獲る。文襄帝大笑ひ、前に妄りに賊を引けし者に語りて曰く、「爾輩若し我が好参軍に遇はざれば、幾くんぞ枉死に致らん」と。南清河太守を除す。郡に盗賊多し。瓊の至るに及び、奸盗止息す。或は外境の奸非、輒ち界中より行過する者は、捉へ送らざる無し。零陵県人魏双成、住処は畿内の武城と交錯し、牛を失ふ。其の村人魏子賓を疑ひ、列して郡に送る。一たび窮問を経て、賓の盗に非ざるを知り、而して便ち之を放つ。双成云く、「府君賊を放ち去らしむ。百姓の牛何の処にか得べけん」と。瓊其の語を理せず、密かに遣はして盗者を訪ひ獲しむ。此れより畜牧を収めず、云く、「但だ府君を存す」と。其の隣郡の富家、財物を寄せ置くこと界内に以て盗を避く。冀州繹幕県人成氏大富、賊の攻むる急なるに為り、告げて曰く、「我が物は已に蘇公に寄せり」と。賊遂に去る。平原郡に妖賊劉黒苟有り、徒侶を構結し、滄海に通ず。瓊の部する人、村居を連接すれども、相染累する無し。隣邑此に於いて其の徳績を伏す。郡中の旧賊一百余人、悉く左右に充つ。人間の善悪及び長吏の人の一杯の酒を飲むこと、即ち知らざる無し。
蘇瓊は清廉で慎み深く、私信を開封することはなかった。道人の道研は済州の沙門統(僧官)であり、資産は巨富で、郡内で多くの利息を生む貸付を行い、常に郡県に徴収を依頼していた。蘇瓊に面会を求めた際、その意図を推し量り、会うたびに玄理(深遠な道理)について談論し質問した。道研は借金の件で数度来訪したが、口を開く機会を得られなかった。その弟子がその理由を尋ねると、道研は言った、「府君(蘇瓊)に会うたび、いきなり我々を青雲の間に引き上げられるので、どうして地上の事(俗事)を論じることができようか。」師弟は帰還し、ついに債権証書を焼却した。郡人の趙潁は、官は楽陵太守に至り、八十歳を超え、致事(退官)して帰郷していた。五月中、新瓜一対を得て、自ら奉った。趙潁は年老いを恃み、苦しく請うたので、ついに留めることとした。そしてそれを査事(役所の事務室)の梁の上に置き、ついに切ることはなかった。人々は趙潁が瓜を贈ったと聞き、新果を献上しようと門に至ったが、趙潁の瓜がまだあると知り、顔を見合わせて去った。百姓の乙普明という者がおり、兄弟が田を争い、積年断絶せず、互いに証拠を引き合い、ついに百人に及んだ。蘇瓊は普明兄弟を召し、衆人を前に諭して言った、「天下で得難きは兄弟、求め易きは田地である。仮に田地を得て兄弟の心を失うとしたら、どうか。」 それゆえ涙を流すと、諸証人もみな涙を流した。普明兄弟は叩頭し、外でさらに考えることを乞い、分かれて十年を経て、ついに同居に戻った。
毎年春、大儒の 衞 覬隆・田元鳳らを総集して郡学で講義させ、朝吏(郡の役人)は文案の暇があるごとに、ことごとく書を学ぶことを命じた。当時の人は吏曹(役人部屋)を学生屋と呼んだ。淫祠(不当な祠)を禁断し、婚姻・喪葬は、ことごとく教令により倹約でありながら礼に適うようにした。また養蚕の月には、あらかじめ綿絹の尺度の見本を部内に下し、その兵賦(兵役と租税)の順序は、ともに明らかな様式を立てた。調役(税と労役)に至っては、事は必ず先に整えられ、郡県の吏長は、常に十杖(刑罰)による遅滞や過失はなかった。当時、州郡はみな人をその境に遣わし、その政術を訪ねた。
天保年間、郡界に大水があり、人災となり、食糧が絶えた者が千余家に及んだ。蘇瓊は広く郡中の粟を持つ家を集め、自ら粟を借り受け、ことごとく飢えた者に給付した。州は戸数に基づき租を徴収し、さらにその貸し付けた粟についても推計(徴収)しようとした。綱紀(主簿)が蘇瓊に言った、「飢えを哀れむのはよいが、府君に罪が累なることを恐れます。」蘇瓊は言った、「一身が罪を得て千室を生きさせることができるなら、何を怨むことがあろうか。」 ついに上表して状況を陳べ、検査させて皆を免じさせ、人戸は安堵した。このような者たちは互いに子を撫でて、みな言った、「府君が汝を生んだのだ。」 郡に在ること六年、人庶は彼を慕い、ついに一人も州に訴える者はなかった。前後四度の上表があり、特に最上と列せられた。憂いに遭い解職した時、故人の贈り物は、一切受け取らなかった。まもなく起用されて司直・廷尉正となり、朝士はその不遇を嘆いたが、尚書の辛術は言った、「直でありかつ正である。名は体を定めるもので、伸びないことを慮るには及ばない。」 初め、蘇瓊が清河太守を任じた時、裴献伯は済州刺史であった。献伯は法の適用に厳しく、蘇瓊は人を養うことに恩恵を施した。房延祐が楽陵郡に赴任する際、済州を通った。裴が外部の評判を尋ねると、延祐は言った、「ただ太守が善く、刺史が悪いと聞くのみ。」 裴は言った、「人の称賛を得る者は至公ではない。」 答えて言った、「もしそうなら、黄霸・襲遂(漢の名太守)は、君の罪人である。」 後に詔があり、州ごとに清廉有能な者を挙げることとなった。裴は以前の発言ゆえ、蘇瓊に陥れられることを恐れたが、蘇瓊はその冤屈や滞りを申し立て、議者はその公平を尊んだ。畢儀雲が御史中丞となり、猛暴をもって職務を執り、理官(司法官)は忌憚し、敢えて違う者はなかった。蘇瓊は推察し務めて実情を得ることにあり、冤罪を晴らす者は甚だ多かった。寺(大理寺)が台(御史台)の案件を扱うことは、蘇瓊に始まる。三公郎中に遷った。趙州及び清河・南中で頻繁に謀反の告発があり、前後みな蘇瓊に推問検査を付され、事多くは冤罪を晴らした。尚書の崔昂が蘇瓊に言った、「もし功名を立てようとするなら、他の道理をさらに考えるべきだ。それでもなおしばしば反逆者の冤罪を晴らすとは、身命を何と軽んじるのか。」 蘇瓊は顔色を正して言った、「晴らすのは冤枉であり、反逆者を放免するのではない。」 崔昂は大いに慚じた。京師では彼について語って言った、「断決に疑い無きは蘇珍之(瓊の字)なり。」
皇建年間、安定県男の爵位と徐州行台左丞を賜り、徐州の事務を執り行った。徐州城中の五級寺で、突然百体の銅像が盗まれた。有司が検査を徴したが、四隣の防宿(警備)や跡形から疑わしい者数十人を逮捕拘束した。蘇瓊は一時的に全員を放免した。寺僧は怨み訴えて、賊を推問しないと非難した。蘇瓊は僧を遣わし、謝して言った、「ただ寺に還り、像を得たら自ら送るように。」 その後十日、賊徒の姓名と贓物の在所を書き出し、直ちに収捕したところ、悉く実証を得た。賊徒は罪を認め、道俗(僧俗)は嘆服した。旧制では、淮河の禁令により商販が勝手に渡ることを許さなかった。淮南が凶作の年、淮北から買い入れすることを聴くよう上奏した。後に淮北で人が飢えると、再び淮南との通商買い入れを請うた。ついに商人が往来し、互いに助け合い、水陸の利は河北に通じた。
後に大理卿となったが、斉が滅亡し、周に仕え、博陵太守となった。隋の開皇初年に卒した。
路去病は、陽平の人である。風神は疏朗(おおらかで明るく)、儀表は瑰異(優れて異なる)。北斉の河清初年、殿中侍御史となり、貴戚を避けずに弾劾し、正直をもって知られた。詔により士人を県宰に任用することとなり、路去病を定州饒陽県令とした。去病は時務に明るく通暁し、性は頗る厳毅であり、人は欺くことを敢えず、しかも至って廉平であり、吏人に嘆服された。武平四年、成安県令となった。都下には鄴・臨漳・成安の三県があり、輦轂の下(天子の近く)は、旧来より治め難いとされた。政乱時艱(政が乱れ時世が艱難)が重なり、綱紀は立たず、近臣内戚の請託は百端に及んだ。去病は事の宜しきを斟酌し、道理をもって抗弁答申した。勢要の徒は、たとえ賤しい下僕であっても、その風格を憚らずにはおらず、また嫌悪怨恨に至ることもなかった。鄴に遷都して以来、三県令の政術の中で、去病のみが称賛の首とされた。周の武帝が斉を平定し、その能官を重んじ、済陰郡守の公孫景茂と二人は交代を免れ、詔を発して褒め称えられた。去病は後に尉遅迥の乱の事に連座した。隋の大業初年、冀氏県令の任上で卒した。
梁彥光は、字を脩芝といい、安定郡烏氏県の人である。祖父の梁茂は、北魏の秦・華二州刺史であった。父の梁顯は、北周の荊州刺史であった。彥光は幼少より聡明で、至性(誠実な天性)があり、その父は常に親しい者に言った、「この児は風骨あり、我が宗族を興すであろう。」 七歳の時、父が篤い病に罹り、医者が「五石(五種の鉱物性薬石)を服用すれば治癒する」と言った。当時紫石英を求めたが得られず、彥光は憂い憔悴し、どうすべきか分からなかった。突然園中で一つの物を見つけ、彥光の知らないものであったが、怪しんで持ち帰ると、それは紫石英であった。親族はみなこれを異とし、至孝の心が感じ通じたのだと考えた。西魏の大統末年、学に入り、経史を略く渉猟し、規律と節度があり、慌ただしい時も必ず礼に則った。秘書郎として初任官した。北周が禅譲を受けると、舍人上士に遷った。武帝の時、累遷して小馭下大夫となった。母の喪で職を去り、衰弱やつれ過礼に及んだ。間もなく起用されて職務を見るよう命じられ、帝はその衰弱の甚だしいのを見て、長く嘆息した。後に御正下大夫となり、帝に従って斉を平定し、功により開府・陽城県公を授かった。宣帝が即位すると、華州刺史に拝され、華陰郡公に進封され、陽城公の爵位は一子に転封された。後に柱国・青州刺史に拝された。帝の崩御に属し、その官に赴かなかった。
隋の文帝が禅譲を受けると、彼を岐州刺史とし、宮監を兼ねさせた。大いに善政を施し、嘉禾や連理の木が州境に現れた。帝はその才能を賞賛し、詔を下して褒め称え、粟五百斛、物三百段、御傘一枚を賜り、清廉公正を励ました。後に相州刺史に転じた。彦光は以前岐州にいた時、その風俗は甚だ質朴であり、静かに鎮撫して、全境が大いに安寧となり、考課の上奏は連続して最上となり、天下第一とされた。相部に居るに及んでは、岐州の法の如くした。鄴都は雑多な風俗で、人々は多く変詐に長け、彼のために歌を作り、政務を治められないと称した。帝はこれを聞いて譴責し、ついに罪に坐して免官となった。一年余りして、趙州刺史に任じられた。彦光は言う、「臣は以前相州に待罪の身でありました時、百姓は臣を戴帽餳(帽子をかぶった飴)と呼びました。臣は自ら廃黜されるものと分かっており、再び衣冠を望むことはありませんでした。天恩が再び収録を垂れ給うとは思いませんでした。どうか再び相州刺史とならせてください。弦を改め調を易え、その風俗を変えることができましょう」と。帝はこれに従い、再び相州刺史とした。豪猾の者どもは彦光が自ら来ることを請うたと聞き、嘲笑しない者はなかった。彦光が着任すると、奸悪隠れたることを摘発し、神明の如くであり、狡猾な者はひそかに逃げ去らずといえず、全境は大いに驚いた。初め、斉が滅亡した後、衣冠の士人は多く関内に移り、ただ技巧・商販及び楽戸の家のみが州城に移り住んで実をなした。これにより人情は険詖となり、妄りに風謡を起こし、官人を訴訟すること、万端千変であった。彦光はその弊を革めんと欲し、秩俸の物を用いて、山東の大儒を招致し、毎郷に学を立て、聖哲の書でなければ教授させなかった。常に季月にこれらを召集し、自ら臨んで策試した。勤学で異等、聡明で令聞ある者は、堂に昇らせて饌を設け、その余は並んで廊下に坐らせた。諍訟を好み業に惰り成すことなき者は、庭中に坐らせ、粗末な食器を設けた。大成して挙げられるに当たっては、賓貢の礼を行い、また郊外で祖道し、併せて財物を資した。これにより人々は皆克励し、風俗は大いに改まった。
滏陽の人焦通という者がいた。性、酒に酔い、親に事える礼を欠き、従弟に訴訟された。彦光は彼を罪にせず、州学に連れて行き、孔子廟の中の、韓伯瑜が母の杖が痛くなく、母の力が衰えたことを哀しみ、母に向かって悲泣する像を見せた。通は遂に感ずるところあり悟り、悲しみ愧じて容れる所なきが如くなった。彦光は訓戒して諭し遣わした。後に過ちを改め行いを励まし、ついに善士となった。吏人は感悦し、諍訟は全くなかった。官に卒し、冀・定・瀛・青の四州刺史を追贈され、諡して襄といった。
子の文謙が嗣ぎ、弘雅にして父の風があった。上柱国の世子として、例により儀同を授けられた。上州・饒州の二州刺史を歴任し、鄱陽太守に遷り、天下第一と称された。戸部侍郎に召されて任じられた。遼東の役では、武賁郎将を領し、盧龍道軍副となった。楊玄感が乱を起こすと、その弟の武賁郎将玄縦は先に文謙に隷属していたが、玄感の反間が未だ至らないうちに玄縦が逃走し、文謙はこれを覚らなかった。これに坐し、桂林に配防されて卒した。
末子の文譲は、初め陽城県公に封ぜられ、後に鷹揚郎将となった。衛玄に従って東都で楊玄感を撃ち、力戦して死んだ。通議大夫を追贈された。
樊叔略は陳留の人である。父の観は魏に仕え、南兗州刺史・河陽侯となり、高氏に誅殺された。叔略は腐刑に処せられ、殿省に給使した。身長九尺、志気があった。甚だ忌み嫌われ、内に自ら安んぜず、遂に関西に奔った。周の文帝(宇文泰)は彼を器とし、左右に引き置き、 都督 を授け、侯の爵を襲封させた。大塚宰宇文護が政を執ると、中尉に引き立てた。次第に委任信任され、内外を兼ねて督し、位は開府儀同三司となった。宇文護が誅されると、斉王憲が園苑監に引き立てた。数々兵謀を進言し、憲は甚だこれを奇とした。武帝に従って斉を平定し、功により上開府を加えられ、清郷県公に封ぜられ、汴州刺史に任じられ、明決と号された。宣帝が東都を営建するに当たり、叔略に巧思があるとして、営構監に任じた。宮室の制度は皆叔略の定めるところであった。尉遅迥の乱の時、大梁を鎮め、軍功により大将軍に任じられ、再び汴州刺史となった。隋の文帝が禅譲を受けると、位上大将軍を加えられ、安定郡公に爵を進めた。州に数年おり、甚だ名声があった。相州刺史に遷り、政績は当時第一であった。帝は璽書を降してこれを褒め称え、粟帛を賜り、天下に示した。百姓は彼のために語って言う、「智は窮まり無し、清郷公;上下正し、樊安定」。司農卿に召されて任じられ、吏人は涙を流さぬ者なく、互いに碑を立てて徳を頌した。司農となって以来、凡そ種植する所は、叔略は別に条制があり、皆人の意表に出た。朝廷に疑滞があり、公卿が決することができぬ時は、叔略は常に評理した。学術は無かったが、拠る所があり、然しながら師心独見で、暗に理に合っていた。甚だ帝に親任され、高熲・楊素も礼遇した。叔略は司農であったが、往々にして九卿の事を参督した。性、甚だ豪侈で、毎食方丈を並べ、水陸の珍味を備えた。十四年、泰山の祠に従った。洛陽に至り、帝は囚徒を録することを命じた。奏上せんとして、朝に獄門に至り、馬上で急死した。帝は久しく嗟悼した。亳州刺史を追贈し、諡して襄といった。
公孫景茂は、字を元蔚といい、河間阜城の人である。容貌魁偉、少くして学を好み、経史に広く渉った。魏において、孝廉に察挙され、射策甲科となった。稍々太常博士に遷り、多く損益するところがあり、時人は書庫と称した。高唐令・大理正を歴任し、皆能名があった。斉が滅び、周の武帝はこれを聞き召し出して会見し、語り合って器とし、済北太守を授けた。母の憂いにより職を去った。開皇初年、召されて汝南太守に任じられた。郡が廃止されると、曹州司馬となり、息州刺史に遷った。法令清静で、徳化が大いに行われた。平陳の役に属し、征人が路で病む者があれば、景茂は俸禄を減じて饘粥や湯薬とし、方々振り済まし、頼って全活する者は千数に及んだ。帝はこれを聞き嘉し、詔して天下に宣示させた。十五年、帝が洛陽に幸すると、景茂は謁見した。時に七十七歳、帝は命じて殿に昇らせ坐らせた。その年齢を問い、その老いを哀れみ、久しく嗟歎した。景茂は再拝して言う、「呂望は八十で文王に遇い、臣は七十を逾えて陛下に逢う」と。帝は甚だ悦び、詔を下してこれを褒め称え、上儀同三司、伊州刺史を加えた。明年、疾のために召還されると、吏人は道で号泣した。疾が癒えると、再び骸骨を乞うたが、また許さなかった。道州刺史に転じた。悉く秩俸をもって牛犢・鶏・豚を買い、孤弱で自ら存し得ぬ者に恵み散らした。好んで単騎で人々を巡り、家に至り戸に入り、百姓の産業を閲視した。修め治める者があれば、都会の時に至って、褒揚し称述し、もし過悪があれば、直ちに訓導したが、顕わにはしなかった。これにより人々は義譲を行い、有無均しく通じた。男子は相助けて耕耘し、婦女は相従って紡織し、大村は数百戸あっても、皆一家の務めの如くであった。その後、致仕を請うと、帝は優詔を以てこれを聴した。仁寿年中、上明公楊紀が河北に使いし、景茂の神力衰えざるを見て、帰ってその状を奏した。ここにおいて就いて淄州刺史に任じ、馬輦を賜り、便道のまま官に赴かせた。前後歴職し、皆徳政があり、論者は良牧と称した。大業初年、官に卒した。年八十七、諡して康といった。身死の日、諸州の人吏で喪に赴く者数千人。葬に及ばぬ者も、皆墳を望んで慟哭し、野祭して去った。
辛公義は隴西狄道の人である。祖父の徽は、北魏の徐州刺史であった。父の季慶は、青州刺史であった。公義は早く孤児となり、母方の一族に養われ、親から『書経』・『伝記』を授けられた。北周の天和年間、良家の子を選抜して太学生に任じた。武帝の時、召されて露門学に入り、道義を学ばせ、毎月御前に集めて、大儒と講論させた。帝はしばしば感嘆し、当時の人々は彼を慕った。建徳初年、宣納中士を授けられた。斉を平定に従軍し、累進して掌治上士・掃寇将軍となった。隋の文帝が宰相となると、内史上士を授けられ、機要に参与した。開皇元年、主客侍郎に任じられ、内史舎人を兼任し、安陽県男の爵位を賜った。駕部侍郎に転じ、諸馬牧の勾検を命じられ、得た馬は十余万匹に及んだ。帝は喜んで言った、「ただ我が公義のみが、国に奉じて心を尽くす」と。
軍に従って陳を平定し、功により岷州刺史に任じられた。土地の風俗は病気を恐れ、もし一人が病を得れば、即ち全家がこれを避け、父子夫妻といえども互いに看病せず、孝義の道は絶えていた。これにより病者は多く死んだ。公義はこれを憂い、その風俗を変えようとした。そこで役人を分遣して、管内を巡検させ、凡そ疾病ある者は皆、寝台や輿で運ばせ、役所に安置した。暑い月の疫病の時、病人は時に数百に至り、役所の廊下は満ちた。公義は自ら一つの榻を設け、独りその中に坐り、終日連夜、彼らに向かって政事を処理した。得た俸禄は全て薬を買うのに用い、医を迎えて治療し、自らその飲食を勧めた。そこで皆癒えた。ようやくその親戚を呼び集めて諭して言った、「死生は命によるもので、互いに接触することに関わるものではない。以前お前たちが彼らを棄てたので、死んだのである。今私が病者を集め、その中に坐臥しているが、もし互いに感染するというなら、どうして死なないのか?病んだ者たちはまた癒えた。お前たちは再びそれを信じてはならない」と。諸病家の子孫は、恥じて謝し去った。後に病気にかかる者があると、争って刺史(使君)のもとに赴き、その家の親属は、固く留めて養った。初めて互いに慈愛し、この風俗は遂に改まり、管内全体で、彼を慈母と呼んだ。
後に 并 州刺史に転じた。任地に着くと、先ず獄中に至り、牢の傍らに露坐して、自ら審問した。十余日の間に、判決は全て終わった。ようやく役所に戻り、新たな訴訟を受け付けた。皆文案を作らず、当直の佐僚一人を遣わし、傍らに坐らせて訊問させた。事が尽くされず、拘禁すべき者があると、公義は即ち役所に宿直し、終に官舎に戻らなかった。或る人が諫めて言った、「この事には手順があり、使君は何故自ら苦しむのですか」と。答えて言った、「刺史に徳がなくて人を導くことができず、なおも百姓を牢獄につなぐことになる。どうして人を獄に禁じながら、心自ら安んじることがあろうか」と。罪人たちはこれを聞き、皆自ら服罪した。後に争訟しようとする者があると、郷里の父老が急いで互いに諭して言った、「これは些細な事だ、どうして使君を煩わせることができようか」と。訴訟する者は多く互いに譲って止んだ。時に山東で長雨が降り、陳・汝から滄海に至るまで、皆水害に苦しんだ。管内だけは犬牙のごとく入り組んでいても、ただ損害がなかった。山から黄銀が出たので、獲て献上した。詔により水部郎の婁崱が公義のもとで祈祷すると、空から金石絲竹の音が聞こえた。
仁寿元年、追って揚州道黜陟大使を充てられた。 豫 章王楊暕は、その管内の官僚が法を犯すことを恐れ、州境に入る前に、予め使者に属するよう命じた。公義は答えて言った、「私心を持つことは致しません」と。揚州に至ると、皆何も容赦せず、暕はこれを恨んだ。煬帝が即位すると、揚州長史の王弘が入朝して黄門郎となり、公義の短所を言上したため、ついに官を免じられた。官吏や民衆が宮門を守って冤罪を訴え、相継いで絶えなかった。後数年して、帝は悟り、内史侍郎に任じた。母の喪に服したが、間もなく起用されて司隸大夫となり、検校右御 衞 武賁郎将を兼ねた。征戦に従って柳城郡に至り、卒去した。子に融がいる。
柳儉は、字を道約といい、河東解の人である。祖父の元璋は、北魏の司州大中正・相・華二州刺史であった。父の裕は、北周の聞喜県令であった。儉は器量があり、行いを立てて清貧に努め、州里で敬われ、たとえ最も親しい間柄でも、敢えて侮る者はなかった。北周に仕え、宣納上士・畿伯大夫を歴任した。隋の文帝が禅譲を受けると、抜擢されて水部侍郎に任じられ、率道県伯に封じられた。間もなく、出向して広漢太守となり、甚だ有能な名声があった。間もなく郡が廃止された。時に帝は精励して政治に思いを致し、良能の吏を妙に選抜し、地方長官として出させた。儉は仁明で著名であったため、抜擢されて蓬州刺史に任じられた。訴訟する者は庭で判決して遣わし、佐吏は悠々としているだけで、獄に繋がれた囚人はいなかった。蜀王楊秀が当時益州を鎮守し、その事績を上奏した。邛州刺史に転じた。在職十余年、民衆や夷族は喜んで服した。蜀王秀が罪を得た時、儉は彼と交際した罪に連座して免職された。郷里に帰ると、妻子の衣食も足りず、見る者は皆感嘆した。煬帝が位を継ぐと、彼を召し出した。当時、多くは功臣が職に就き、州牧や郡守を領する者は皆軍功の資歴を帯びていたが、ただ儉のみが良吏から起用された。帝はその実績を嘉し、特に朝散大夫を授け、弘化太守に任じた。儉の清節はますます励んだ。大業五年、入朝した。郡国の長官が全て集まった。帝は納言の蘇威・吏部尚書の牛弘に言った、「その中で清名天下第一の者は誰か」と。威らは儉と答えた。帝がまた次を問うと、威は涿郡贊務の郭絢、潁川贊務の敬肅の二人を答えた。帝は儉に帛二百匹を賜い、絢・肅には各々百匹を賜い、天下の朝集使に命じて郡邸まで送らせ、これを表彰した。論者はこれを称えた。大業末年に至り、盗賊が蜂起し、幾度も攻撃された。儉は人々や夷族を慰撫し結びつけ、遂に離反する者はなく、ついに保全した。義兵が長安に至り、恭帝を尊立すると、儉は留守の李粲と共に喪服を着て、州の南に向かって慟哭した。既にして京師に帰ると、相国(李淵)は儉に物三百段を賜い、そのまま上大将軍に任じた。一年余りして、家で卒去した。時に八十九歳であった。
郭絢は、河東安邑の人で、家柄は寒微であった。初め 尚書令 史となり、後に軍功により儀同を授けられ、数州の司馬・長史を歴任し、皆有能な名声があった。大業初年、刑部尚書の宇文幹が河北を巡省する時、絢を引き立てて副使とした。煬帝が遼東に出兵しようとし、涿郡が要衝であるため、任に堪える者を訪ねた。絢に幹才があると聞き、涿郡贊務に任じた。官吏や民衆は喜んで服した。数年して、通守に転じ、兼ねて留守を領した。山東で盗賊が起こると、絢はこれを追捕し、多くを撃破し捕獲した。当時諸郡に再び無事な所はなく、ただ涿郡のみが全うした。後に兵を率いて河間で竇建徳を撃ったが、戦死した。人々や官吏は彼を哭し、数ヶ月止まなかった。
敬肅は、字を敬儉といい、河東蒲阪の人である。若くして貞介で知られ、初めて州主簿に任じられた。開皇初年、安陵県令となり、有能な名声があった。抜擢されて秦州司馬に任じられ、幽州長史に転じた。仁寿年間、 衞 州司馬となり、共に優れた実績があった。煬帝が位を継ぐと、潁川郡贊務に転じた。大業五年、東都に朝した。帝は司隸大夫の薛道衡に命じて天下の郡官の評状を作らせ、肅について「心は鉄石の如く、老いてますます篤い」と称した。時左翊 衞 大将軍の宇文述が権勢を握り、その所領が潁州にあった。毎度手紙を送って肅に依頼したが、肅は未だ封を開けず、直ちに使者に持たせて返した。述の賓客に放縦な者がいると、法をもってこれを糾し、少しも寛容しなかった。これにより述はこれを恨んだ。八年、涿郡に朝した。帝はその年老いて、有能な名声があるため、太守に抜擢しようと幾度もしたが、毎度述に誹謗され、実現しなかった。大業末、致仕を願い出て、優詔で許された。官を去る日、家に余財はなかった。一年余りして、家で終わった。
劉曠は、何処の者であるか知られていないが、性格は謹み深く篤実で、常に誠実と寛恕をもって物事に対応した。開皇の初め、平郷県令となり、単騎で任地に赴いた。争訟のある者があれば、丁寧に義理を説き明かし、刑罰を加えず、各自が自ら過ちを認めて去った。得た俸禄は、貧窮困乏の者に施し与えた。百姓はその徳化に感じ、互いに篤く励まし合って言うには、「このような君があるのに、どうして悪事を働くことができようか」と。在職七年、風俗教化は大いに和合し、獄中に繋がれた囚人はなく、争訟は絶えて止み、牢獄には皆草が生え、庭には網を張ることができた。官を去る時には、役人や民衆は老若を問わず号泣し、沿道で見送り、数百里にわたって絶えることがなかった。臨潁県令に転じ、清廉な名声と善政は天下第一であった。尚書左僕射の高熲がその状況を上奏すると、皇帝(文帝)は彼を召し出した。引見された時、労って言うには、「天下の県令は固より多いが、卿のみが衆と異なり、まことに賞賛に値する」と。侍臣に向かって言うには、「もし特別な賞を与えなければ、どうして人を勧めることができようか」と。そこで優詔を下し、莒州刺史に抜擢した。
王伽は、河間郡章武県の者である。開皇の末、斉州参軍となった。初めは称すべきところがなかったが、後に州の使者として流刑囚の李参ら七十余人を京師に送ることになった。当時の制度では、流人は皆枷をはめ鎖でつなぎ伝送された。 滎陽 に至った時、その辛苦を憫れみ、皆を呼び集めて言うには、「卿らは既に国法を犯し、名教を損なったので、身に縲絏をまとうのは当然のことであろう。今さらに護送の兵卒を煩わせるのは、ただ心に愧じるところがないのか」と。李参らは謝罪した。王伽は言うには、「汝らは憲法を犯したとはいえ、枷鎖もまた大いに苦しい。私は汝らとこれを外し、京師に至って総集するが、期日に違わずに来られるか」と。皆は拝礼して謝し、「必ずや違わない」と言った。王伽はそこで枷を全て外し、護送の兵卒を止め、期日を約して言うには、「某日に京師に至るべし。もし遅れたり早まったりすれば、私は汝らのために死を受けよう」と。彼らを解放して去った。流人らは感激し、期日通りに到着し、一人も離反する者はなかった。皇帝はこれを聞いて驚異し、王伽を召し出して語り、久しく善しと称えた。そこで流人らを悉く召し出し、妻子を連れて共に入ることを許し、殿庭で宴を賜って赦免した。そして詔を下して言うには、「凡そ生きとし生けるものは、霊を宿し性を稟け、皆好悪を知り、是非を識る。もし至誠をもって臨み、明らかに勧導を加えれば、俗は必ずや化に従い、人は皆善に遷るであろう。かつては海内が乱離し、徳教が廃絶し、官吏に慈愛の心がなく、兆民が奸詐の意を抱いたので、獄訟が絶えず、人情が薄く治め難かった。朕は上天より命を受け、万姓を安養し、聖法を導き、徳をもって人を化さんと考える。朝夕孜々とする、その意は本来ここにある。而して王伽は深く朕の意を識り、誠心をもって宣導した。李参らは感ずるところを得て悟り、自ら憲司に赴いた。明らかに率土の人は、教え難きにあらず、まことに官吏が示し教えを加えず、罪に陥らせるに至り、自ら新たになる由もなかったのである。もし官吏が皆王伽の類であり、人が皆李参の輩であれば、刑措(刑罰を置かず)にして用いず、それ遠からんや」と。そこで王伽を雍県令に抜擢し、政務に能ある名声があった。
魏徳深は、本来鉅鹿の者である。祖父の沖は、周に仕え、刑部大夫・建州刺史となり、弘農に家を定めた。父の毗は、郁林県令であった。徳深は初め隋文帝の挽郎となり、後に 馮翊郡 書佐、武陽郡司戸・書佐を歴任し、才能によって貴郷県長に遷った。政務は清静で、厳しくなくとも整然としていた。遼東の役が起こると、徴税は百方に及び、使者が往来し、郡県に責め立てた。当時は王綱が弛緩紊乱し、官吏の多くは贓賄に走り、所在で徴斂し、人は命に堪えなかった。ただ徳深の一県のみが、有無相通じ、その力を尽くさず、求められるものは皆供給し、百姓は煩わされなかった。当時盗賊が群起し、武陽の諸城は多く陥落したが、ただ貴郷のみが全うされた。郡丞の元宝蔵は詔を受けて盗賊を追捕したが、戦いに利あらず、器械が必ず尽きると、すぐに人々から徴発し、動くに軍法をもって事とし、このようなことが数度あった。隣県では営造が、皆役所に集められ、役人は互いに督責し、昼夜喧騒しても、なお成し遂げられなかった。徳深はそれぞれにその望むところを問い、随意に修営するに任せ、官府は寂然として、常に何事もないかのようであった。ただ長吏に制約して、修めるものは余りの県を過度に勝る必要はなく、百姓を労苦させないようにした。然るに下の者は各自心を尽くし、常に諸県の最であった。まもなく館陶県長に転じると、貴郷の役人や民衆はこれを聞き、互いにそのことを語り、皆すすり泣き涙を流し、声を成さなかった。赴任する時には、城を傾けて見送り、号泣の声は、道路上絶えることがなかった。
館陶に到着すると、全境の老幼は、皆その父母に会うかのようであった。狡猾な役人である員外郎の趙君実がおり、郡丞の元宝蔵と深く交結し、前後の県令・県長で、その指麾を受けない者はなかった。徳深が県に至ってから、君実は室内に引き籠もり、敢えて門を出ることはなかった。逃げ隠れしていた者たちは、市の如く帰ってきた。貴郷の父老は、艱難危険を冒して、朝廷に赴き徳深の留任を請い、詔によって許された。館陶の父老もまた郡に赴き訴訟し、貴郷の文書は偽りであるとした。郡は決断できなかった。折しも持節使者の韋霽・杜整らが到着し、両県は使者に訴訟し、貴郷に従うと裁定された。貴郷の役人や民衆は、歌い呼び満道に満ち、互いに慶賀し合った。館陶の衆庶は、全境悲泣し、それに従って居住する者が数百家に及んだ。
宝蔵はその才能を深く妬んだ。折しも越王侗が郡に徴兵を求めると、宝蔵は徳深に兵千人を率いて東都に赴かせた。やがて宝蔵は武陽を挙げて李密に帰順した。徳深が率いる兵は皆武陽の者であり、故郷が賊に従ったので、親戚を思い、都門を出て、東に向かって慟哭して戻った。ある人が彼らに言うには、「李密の兵馬は、近く金墉にあり、ここから二十余里である。汝らが必ず帰りたいなら、誰が禁じることができようか。どうしてこのように自ら苦しむのか」と。その者らは皆涙を流して言うには、「我らは魏明府と共に来たので、棄て去るに忍びない。どうして道路の艱難のためであろうか」と。その人心を得ることこのようであった。後に賊と戦い、陣中に没した。貴郷・館陶の人々は、今に至るも彼を懐かしんでいる。
論ずるに、政を為す道は、寛と猛とが相い済まし、寒暑が代わるが如く、共に歳功を成すものである。然しながら簡素で長久なることを保つには、必ず寛平を藉りる。大なるは鼓腹の歓を致し、小なるは息肩の恵がある。故に『詩経』に曰く、「徳無くとも汝と共に、式歌い且つ舞う」と。張膺らは皆寛仁の心を持ち、至誠をもって物に臨み、教化はその所属に行き渡り、愛は人心を結んだ。故に去る所では思われ、居る所では化されることを得たのである。『詩経』に所謂「愷悌たる君子は、人の父母」とは、豈に徒然ならんや。
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