北史

卷五十四 列傳第四十二

孫騰、高隆之、司馬子如(子に消難)、裴藻(兄の子に膺之)、竇泰、尉景、婁昭(兄の子に睿)、厙狄幹(孫に士文)、韓軌、段榮(子に韶、孝言)、斛律金(子に光、羨)

孫騰

孫騰は、字を龍雀といい、咸陽郡石安県の人である。祖父の通は沮渠氏に仕え、中書舎人となった。沮渠氏が滅びると、これにより北辺に移り住んだ。孫騰が貴顕になると、魏朝は 司徒 しと を追贈した。父の機は、太尉を追贈された。孫騰は若い頃から質朴で率直であり、吏事に明るく理解していた。魏の正光年間、北方が擾乱すると、爾朱栄に帰順した。まもなく斉の神武帝(高歓)の 都督 ととく 長史となった。神武帝が晋州刺史となると、またも長史に抜擢し、石安県伯に封じた。信都において挙兵した時には、常に誠実な心をもって謀策に参与した。累進して郡公となり、朝廷に入って侍中となり、まもなく尚書左僕射を兼ねた。当時、魏の京兆王愉の娘である平原公主が寡婦となっており、孫騰はこれを娶りたいと願ったが、公主は侍中の封隆之を望んだ。孫騰は隆之を妬み、遂に互いに讒言し合うようになった。神武帝は孫騰の官を免ずるよう上奏したが、間もなく復職させた。斛斯椿と共に機密を掌握し、隆之は忌避され禍を慮って、晋陽に奔った。神武帝が椿を討伐するために出陣すると、孫騰を留めて へい 州の事務を行わせた。朝廷に入って尚書左僕射となり、内外の事柄は、孫騰がことごとくこれを知った。 司空 しくう を兼ね、侍中を除かれ、 尚書令 しょうしょれい を兼ねた。当時、西魏が南袞州を攻撃したので、詔により孫騰は諸将を率いてこれを討伐した。孫騰の性質は臆病で威略がなく、不利なまま帰還した。また 司徒 しと を除かれ、その他の官職はもとのままとした。初め北境が乱れた時、孫騰は一人の娘を失った。貴顕になってから、探し求めたが見つからず、人の婢となっているのではないかと疑った。 司徒 しと となった時、奴婢で良民であることを訴える者は皆これを免じ、千人を免ずることを願い、その中に娘を得ることを期待した。神武帝はこれを知って大いに怒り、 司徒 しと を解任した。まもなく尚書左僕射・太保となり、引き続き侍中を務め、太傅に遷った。

初め、博陵の崔孝芬が貧家の子である賈氏を養女に取った。孝芬が死ぬと、その妻の元氏は更に鄭伯猷に再嫁し、賈氏を鄭氏に連れて行った。賈氏は容色があり、孫騰はこれを妾に納れた。その妻の袁氏が死ぬと、孫騰は賈氏に子があるため、正妻とし、詔により丹陽郡君に封じた。また袁氏の爵位をその娘に回授するよう請うた。その礼に背き情に任せる行為は、多くこの類いであった。

孫騰は早くから神武帝に依り、神武帝は深く信頼してこれを遇し、魏朝に置いて心腹として託した。そこで志気が驕慢になり、与奪を己の思いのままにした。賄賂を受け取ること限度を知らず、官職の贈与は財貨によらなければ行われなかった。肴蔵(宮中の食料庫)の銀器を盗んで家の物とし、小人を親しく近づけ、専ら収斂に努めた。高岳・高隆之・司馬子如とともに、四貴と号された。法に非ず専横に振る舞う中で、孫騰が最も甚だしかった。神武帝・文襄帝(高澄)は、たびたび譴責したが、終いに改めず、朝野で深く非難・嘲笑された。武定六年に薨じ、太師・開府・録尚書事を追贈され、諡して文といった。天保初年、孫騰が創業を輔佐した功により、詔してその墓に祭告させた。皇建年間、神武帝の廟庭に配饗された。

子の鳳珍が嗣ぎ、性質は凡庸で暗愚であり、儀同三司の任にある時に卒した。

高隆之

高隆之は、字を延興といい、洛陽の人である。宦官の徐成の養子となった。若い頃は、賃し上げ(人夫として雇われること)を生業としていた。ある説では、父の幹が姑の婿である高氏に養われたため、その姓に従ったという。隆之は後に参定の功績があった。神武帝は弟とするよう命じ、なおも勃海郡蓚県の人であるとした。幹は 司徒 しと 公を追贈された。隆之は身長八尺、美しい鬚髯を持ち、沈着で志気があった。初め、行台の于暉が郎中に抜擢し、神武帝と深く結び付いた。後に山東において挙兵に従い、累進して へい 州刺史となり、朝廷に入って尚書右僕射となった。当時、初めて人に田を与えることとなり、権貴は皆良田美地を占め、貧弱な者は皆瘠せた土地を受けたので、隆之は神武帝に上奏して、更に均平にした。また営構大将を領し、十万の民夫をもって洛陽の宮殿を撤去し、鄴に運び、構営の制度は、全て隆之に委ねられた。南城を増築し、周囲二十五里とした。漳水が帝城に近いため、長堤を築いて氾濫を防いだ。また渠を穿ち漳水を引き、城郭の周囲を流れさせ、水碾磑(水車を用いた製粉施設)を造り、いずれも当時に利があった。

魏は孝昌年間以後、天下多く難事があった。刺史・太守は皆その管轄区域の 都督 ととく を兼ね、兵事がなくても、皆佐僚を置き、その所在は甚だ煩わしかった。隆之は、実際に辺境の要地でなく、兵馬を有する者でない限り、全てこれを断つよう請うた。また朝廷の貴人で常侍を仮授されて貂蟬の飾りを得る者が多かったので、隆之は自ら侍中を解くことを上表し、併せて諸々の仮に侍中の服を着る者のことも陳べて、これもまた罷めるよう請うた。詔は全て表の通りとした。軍国多事となって以来、名を冒し官を窃む者は数え切れず、隆之は検括を奏請し、十日間で五万余人を捕らえた。しかし群小が喧噪したので、隆之は恐れて止めた。詔により起居事を監し、位を進めて 司徒 しと となった。武定年間、 尚書令 しょうしょれい を除かれ、太保に遷った。文襄帝が宰相となると、風俗は粛清された。隆之は時に収賄があり、文襄帝は尚書省で大いに責め譴責した。斉が禅譲を受けると、爵位を進めて王となった。まもなく本官のまま録尚書事となり、大宗正卿を領し、国史を監修した。隆之は性質上、細工を好み、公家の羽儀(儀仗)や百戯の服制に至るまで、時に改易し、典故に従わなかった。当時の論議はこれを非とした。射堋(的場)の土の上に三人の像を立て、壮勇の勢いとしていた。文宣帝(高洋)がかつて東山に行った時、弓を射ながら、隆之に言った。「堋の上には猛獣を作るべきで、古義を存するためである。どうして終日人を射るのか?」隆之は答える言葉がなかった。

先に、文襄帝は崔暹・崔季舒らを任用した。文襄帝が崩ずると、隆之は文宣帝に上奏し、併せて彼らを害そうとしたが、許されなかった。文宣帝は隆之を旧臣として、政事を委ねた。隆之の子が楊遵彦(楊愔)の前妻(帝の妹である)と淫通したので、故に遵彦の讒言と誹毀が日々に至った。崔季舒らはなお以前のわだかまりにより、讒言して言った。「隆之は訴訟者を見るごとに、哀れみの意を加え、裁断できるのは己の力ではないと示しています。」文宣帝は、彼が任を受けて久しく、冤状があることを知りながら、便宜を図って申し開きすべきであったのに、どうして過ちを犯して名声を求めようとするのか、大臣の義ではない、と考えた。天保五年、尚書省に禁錮された。隆之はかつて元昶と宴し、昶に言った。「王と交遊するならば、死生を共にしても背かないべきである。」これを密かに言上する者があった。また帝が即位する前、隆之の心中は常に帝を侮っていた。帝が禅譲を受けようとした時、大臣は皆未だ可ならずと言い、隆之もまたその中にいた。帝は深くこれを恨んだ。これにより大いに怒り、罵って言った。「徐家の老爺め!」壮士に命じて百余り拳で打たせ、放逐した。喉が渇き、水を飲もうとしたが、人が止めた。隆之は言った。「今日どうなろうと!」遂にこれを飲んだ。これにより従駕し、路中で死んだ。太尉・太保・陽夏王を追贈されたが、ついに諡を得られなかった。

隆之は学問に広く通じていなかったが、文雅を欽尚し、搢紳の名流には必ず礼をもって接した。寡婦の姉が尼となったが、母のように仕えた。諸子を訓督するには、必ず文義を先にした。世間はこれをもって彼を称えた。

文宣帝の末年は、猜疑と害意が多く、隆之を追って憤り、その子の 司徒 しと 中兵である慧登ら二十人を前に捕らえた。慧登が命乞いを言うと、帝は言った。「やむを得ない。」鞭で鞍を叩くと、たちまち首が絶え、全て漳水に投げ込んだ。隆之の塚を発き、屍を出すと、その容貌は朽ちていなかった。骸骨を斬り焚やし、漳水の流れに棄てた。天下の人はこれを冤とした。隆之の後嗣は遂に絶えた。乾明年間、詔してその兄の子である子遠を隆之の後継ぎとし、陽夏王の爵を襲封させ、その財産を返還させた。

隆之は神武帝に信頼されたが、性質は陰険で毒々しく、儀同三司の崔孝芬は婚姻を結ぼうとして果たせず、太僕卿の任集は共に営構を知りながら、甚だ相違し、瀛州刺史の元晏は請托が遂げられなかった。これら全てを罪に構成し、誅害したため、終いに家門は滅亡に至った。論ずる者は報応があると言う。

司馬子如

司馬子如、字は遵業、自ら云うには河内郡温県の人であるが、雲中に移り住み、そこで家を構えた。子如は初め懐朔鎮の省事となり、斉の神武帝(高歓)と結び付き、義理人情の交わりは甚だ深かった。孝昌年間(525-527年)、北州が陥落すると、子如は南に奔って肆州に至り、爾朱栄に礼遇され、平遙子に封ぜられ、次第に昇進して大行台郎となった。爾朱栄が死ぬと、爾朱栄の妻子に随従して爾朱世隆らと共に京城を脱出した。節閔帝が立つと、前後の功績により、爵位を進めて陽平郡公となった。神武帝が洛陽に入ると、大行台尚書に任じ、朝夕側近に侍り、軍国政務に参与して知った。天平初年(534年)、尚書左僕射・開府を拝命し、高岳・孫騰・高隆之らと共に朝政を執り、甚だ信頼され重用された。神武帝が晋陽に鎮すると、子如は時折謁見に赴いた。帰還する際には、神武帝と武明皇后(婁昭君)が共に贈り物を賜い、常例となった。

子如の性格は豪放磊落であり、かつての恩寵を恃むところがあり、文書事務においては、与奪を気の向くままに行い、公然と賄賂を受け取った。興和年間(539-542年)、北道行台として諸州の守令以下の巡察に当たり、定州に至って深沢県令を斬り、冀州に至って東光県令を斬った。いずれも時間の遅滞を理由に、極刑に処したのである。挙措が少しでも意に合わぬ者があれば、直ちに武士に命じて引き倒させ、白刃を頸に臨ませた。士人庶民は恐れ慄き、どうしてよいか分からなかった。転じて 尚書令 しょうしょれい となった。文襄帝(高澄)が政務を補佐するようになると、収賄の罪で御史中尉崔暹に弾劾され、獄に一晩いるだけで髪が皆白くなった。供述して言うには、「司馬子如はもと夏州から一本の杖を頼りに相王(高歓)に投じ、王は露車一乗と、角の曲がった牝牛の子牛を下さった。子牛は道中で死に、曲がった角だけが残った。これ以外のものは、全て人から得たものである」。神武帝は文襄帝に詔書を下して言った、「馬令(司馬子如)は我が旧友である。汝は寛大に処すべきだ」。文襄帝は街中で馬を止め、子如を出獄させ、その枷を外した。子如は恐れて言った、「事を起こさないのか?」。ここにおいて官爵を削除された。神武帝が後に彼に会い、その憔悴ぶりを哀れみ、膝を以てその頭を支え、自ら虱を選り分け、酒百瓶、羊五百頭、粳米五百石を賜った。子如は言った、「何もない時でさえ囚われてほとんど死ぬところだった。もしこれを受け取れば、生きる道があろうか」。間もなく、冀州の事務を代行するよう起用され、自ら改めて励み、甚だ名声があった。詔により官爵を回復し、別に野王県男に封ぜられた。斉が禅譲を受けると、補佐の功績により、別に須昌県公に封ぜられた。まもなく 司空 しくう を拝命した。

子如の性格は滑稽であり、行いを慎むことなく、言葉の戯れは卑猥で、識者はこれを非難した。しかし姉に仕えるには礼を尽くし、諸兄の子を撫育するには慈愛篤く、当時の名士は皆これを敬愛し、またこの点をもって称えられた。しかし元来剛直さがなく、公平な道理をもって物事を処することができなかった。文襄帝の時代、中尉崔暹と黄門郎崔季舒が共に任用された。文襄帝が崩御すると、崔暹らは晋陽に赴いたが、子如は彼らを糾弾した因縁から、文宣帝(高洋)に上奏し、その罪を述べて帝に誅殺を勧めた。後に子如が馬で関所を通過したことが、役人に奏上された。文宣帝は彼を責めて言った、「崔暹と崔季舒は朕の先帝に仕えた。何の大罪があって、卿は朕に彼らを殺せと言うのか!」。これにより免官となった。久しくして、なお先帝の旧臣であることを以て、太尉に任ぜられた。まもなく病気で薨去した。太師・太尉を追贈され、諡して文明といった。長男の消難が後を嗣いだ。

長男 消難

消難、字は道融。幼少より聡明で、経史に少し通じ、風采があり、好んで自らを飾り立て、名誉を求めた。子如が朝廷で貴盛であったので、消難もまた賓客を愛し、邢子才・王元景・魏収・陸仰・崔瞻らが皆その門に遊んだ。次第に昇進して光禄卿となり、出向して北 州刺史となった。

文宣帝の末年、昏虐が甚だしくなると、消難は常に身の安全を図る謀り事を持ち、意を曲げて人々を慰撫し受け入れ、頗る百姓の支持を得た。廉潔ではなかったため、御史に弾劾された。また公主を娶ったが、仲が睦まじくなく、公主がこれを訴えた。折しも文宣帝が へい 州におり、駅伝で上党王高煥を召し出した。高煥は害されることを恐れ、使者を斬って東に奔り、鄴中は大いに騒然となったが、後に済州で遂に捕らえられた。高煥が逃走した当初、朝士は成皋に赴いたのではないかと疑い、言うには、「もし司馬(消難)の北 州と謀りを合わせれば、必ずや国の禍いとなろう」。この言葉が文宣帝に達し、大いに疑われた。消難は恐れ、密かに親しい者である河東の裴藻に命じて間道より関中に入らせ、降伏を請わせた。

周に入り、 滎陽 けいよう 郡公に封ぜられ、累進して大司寇となった。武帝に従って東征し、帰還後梁州総管を拝命した。大象初年(579年)、大後丞に転じ、娘が静帝の后となった。まもなく出向して雲阝州総管となった。隋の文帝が政務を補佐するに及んで、消難は蜀公尉遅回と合流して兵を挙げ、その子の永を陳に人質として送り、援軍を求めた。隋の文帝は襄州総管王誼に命じてこれを討たせ、消難は陳に奔った。 司空 しくう の位、随郡公に至った。

初め、隋の武元帝(楊忠)が消難を迎えた時、兄弟の契りを結び、情誼は甚だ篤く、隋の文帝(楊堅)は常に叔父の礼をもって彼に仕えた。陳が平定され、消難が捕らえられると、特に死罪を免じて楽戸に配され、二十日で赦免された。なお旧恩により、特に引見された。まもなく家で卒去した。

消難の性格は貪欲で淫らであり、去就が軽率であった。故に世間で反覆常なき者を言う時は、皆彼に譬えた。その妻の高氏は、斉の神武帝の娘であるが、鄴では極めて礼を尽くして敬ったが、関中に入るとすぐに疎んじ軽んじた。𨝽州に赴く際、妻と三人の子を京師に残した。妻は文帝(楊堅)に言った、「 滎陽 けいよう 公は寵愛する者を連れて行きます。必ずや妻子は顧みません。どうかご用心ください」。消難が陳に入ると、高氏母子はこのために難を免れた。子の譚は、即ち高氏が生んだ子で、消難の功績により儀同大将軍に任ぜられたが、消難の罪に連座して除名された。

裴藻、字は文芳。若くして機知に富み弁舌さわやかで、束縛されない志を持ち、子如の太傅主簿となった。消難が北 州を鎮守すると、また中兵参軍に任じた。周に入り、聞喜県男に封ぜられ、晋州刺史を拝命した。

子如の兄に纂がいる。纂の長男世雲は、軽薄で険悪、品行が良くなかった。累進して潁州刺史となったが、ほしいままに奸悪汚穢な行いをした。弾劾されようとして恐れ、侯景に従った。文襄帝はなお子如の旧恩を以て、その諸弟の死罪を免じ、北辺に移住させた。世雲は侯景が渦陽で敗れた時、また異心を抱き、侯景に殺された。世雲の弟に膺之がいる。

膺之は字を仲慶という。美しい鬚髯を有し、風貌があり、学問を好み、自らを厳しく鍛え、神気甚だ高し。中書・黄門侍郎を歴任す。天平年間、叔父子如が政権を執る。膺之は既に宰相の甥であり、兼ねて自ら名望有り、交遊する者は、尽く当代の名流なり。邢子才・王景等と、並びに莫逆の交わりを為す。兄世雲が逆乱に陥りし時、期親は皆誅殺に応ずべきところ、膺之及び諸弟は並びに人材有り、朝廷に惜しまれ、文襄は特に死を減じて近鎮に徒す。文宣が業を嗣ぎ、還るを得たり。斉が禅を受けると、子如は別に須昌県公に封ぜられ、之を回授して膺之に授く。子如は撫愛甚だ慈しみ、膺之の昆季は、之に事うること父の如し。性質方古にして、俗旧に会わず。楊愔と共に黄門郎となる。愔が 尚書令 しょうしょれい となるに至りても、抗礼は初めの如し。愔嘗て従姉の惨事有りし時、尚書卿尹は皆跪いて弔うも、膺之は手を執って出でたり。曾て路にて愔に逢う、威儀道引す、乃ち樹下に於いて側に避く。愔車中より望見し、呼ばしめて謂いて曰く「兄何の意か弟を避く」と。膺之曰く「我自ら赤棒を避く、本より卿を避くに非ず」と。愔甚だ之を重んず。然れども其の疏簡傲物を以て、竟に天保年間、淪滯して歯せられず。乾明中、衛尉少卿を除かれ、国子祭酒に遷る。河清末、金紫光禄大夫拝さる。泄痢を患い、積年起たず。武平中、家に就いて儀同三司拝さる。班台の貴きは、近世専ら勳勤を賞するに以てす、膺之は猥雑と為すも、名器猶お重し。初め、 司徒 しと 趙彦深は孤微より起り、子如の管記と為りし時、膺之甚だ相忽略し、礼を為さず。彦深が宰相と為り、朝士輻湊すに及び、膺之自ら思い、故に延請せらるるも、永く門に至らず、毎に相見ゆるに、袂を捧ぐのみ。太常卿段孝言は、左丞相孝先の弟なり、位望甚だ隆く、嘗て其の弟幼之を詣う、挙座傾敬す。膺之時に疾を牽き、外齋に在りて几に馮りて坐し、動容せず。直言して「我痢を患うこと久し、太常怪しむを得ず」と。黄門郎陸杳は、貴遊の後進なり、膺之嘗て之と棋を打つ。杳忽ち後至し、寒温のみにて、棋遂に輟む。園宅閑素にして、門に雑客無く、性酒を飲まず、而して賓遊を愛重せず。病久しく、復た書を読むに堪えず、或いは奕棋を以て永日を過ごす。名士に素懐有る者は、時相尋ね候う。雑言無く、唯経史を論ず。『太玄経』を読むを好み、又揚雄の『蜀都賦』に注す。毎に云う「我揚子雲と周旋せんと欲す」と。痢を患うこと十七年、竟に愈えず。斉亡の歳、痢疾を以て終わる。

膺之の弟の子瑞は、御史中丞と為り、正色して挙察し、朝廷に許さる。疾を以て職を去り、就いて祠部尚書拝さる。卒し、儀同三司・瀛州刺史を贈られ、諡して文節と曰う。子瑞の妻は、陸令萱の妹なり。令萱が後主に寵を得るに及び、重ねて子瑞に開府儀同三司・ 中書監 ちゅうしょかん ・温県伯を贈る。諸子も亦並びに顕職に居る:同游は給事黄門侍郎、同回は太常少卿、同憲は通直常侍。同遊終に佳吏と為り、随の開皇中、尚書戸部侍郎と為り、遂州刺史に卒す。

子瑞の弟幼之は、清貞にして行い有り。武平末、大理卿と為る。開皇中、眉州刺史に卒す。

竇泰

竇泰は、字を世寧といい、太安捍殊の人なり。本は清河観津の胄より出づ。祖の羅は、魏の統万鎮将、因りて北辺に居る。父の樂は、魏末破六韓拔陵乱を為し、鎮将楊鈞と共に固守し、害に遇う。泰貴くして、 司徒 しと を追贈さる。初め、泰の母は夢に風雷暴起し、雨の状有るが若しと見る。庭に出でて之を観るに、電光目を奪い、駛雨沾灑するを見る。寤めて驚汗し、遂に娠す。期して産まず、大いに懼る。巫有りて曰く「河を渡りて裙を湔げば、子を産むこと必ず易し」と。便ち水所に向かう。忽ち一人有りて曰く「当に貴子を生むべし、徙りて南せよ」と。泰の母之に従い、俄にして泰を生む。長ずるに及び、騎射に善くし、勇略有り。泰の父兄は鎮に於いて戦歿し、泰身に骸骨を負いて爾朱栄に帰る。邢杲を討つに従う功を以て、爵を賜い広阿子と為す。神武が晋州と為る時、泰を請いて鎮城 都督 ととく と為し、軍事に参謀せしむ。累遷して侍中・京畿大 都督 ととく 、尋いで御史中尉を領す。泰は勲戚を以て台に居り、多く糾挙すること無きも、而して百僚畏懼す。天平三年、神武西討し、泰をして潼関より入らしむ。四年、泰小関に至り、周文帝に襲われ、衆尽く没し、泰自殺す。初め、泰将に鄴を発せんとする時、鄴に惠化尼有り、謡して云く「竇行台、去りて回らず」と。未だ行かざる前夜、三更、忽ち硃衣冠幘の者数千人台に入り、云く竇中尉を収むと。宿直の兵吏皆驚く。其の人数屋に入る。俄頃にして去る。旦に關鍵を視るに異ならず、方に人に非ざるを知り、皆其の必ず敗るるを知る。大司馬・太尉・録尚書事を贈られ、諡して武貞と曰う。

泰の妻は、武明婁后の妹なり。泰は親を以て見待せらるるも、而して功名自ら建つ。斉禅を受くると、其の墓に祭告す。皇建初、神武廟庭に配享す。子の孝敬嗣ぎ、位は儀同三司。

尉景

尉景は、字を士真といい、善無の人である。秦・漢の時代に尉堠の官を置いたが、その先祖にこの職に就いた者がおり、それによって氏とした。尉景の性格は温厚で、かなり侠気があった。北魏の孝昌年間、北鎮が反乱を起こすと、尉景は神武帝とともに杜洛周の陣中に入り、やがて共に爾朱栄に帰順した。軍功により、博野県伯に封ぜられた。後に神武帝に従って信都で挙兵した。韓陵の戦いでは、尉景の統率する部隊のみが敗北した。神武帝が洛陽に入ると、尉景を留めて鄴を鎮守させた。まもなく進んで公に封ぜられた。尉景の妻は常山君で、神武帝の姉である。勲戚として、軍事があるたびに、厙狄幹とともに常に重用された。しかし財利を忘れられず、神武帝はしばしば彼を嫌って責めた。冀州刺史に転じると、また大いに賄賂を受け取り、人夫を徴発して狩猟を行い、死者三百人を出した。厙狄幹と尉景が神武帝の座に侍っていたとき、厙狄幹が御史中尉になることを請うた。神武帝が「どうして下って卑官を求めるのか」と言うと、厙狄幹は「尉景を捕らえたいからです」と答えた。神武帝は大笑いし、俳優の石董桶に彼をからかわせた。董桶は尉景の衣服を剥ぎ取り、「公は百姓を剥ぐ、董桶はどうして公を剥がぬことがあろうか」と言った。神武帝は尉景を戒めて「貪ることはない」と言った。尉景は「お前とどちらが生計を多く立てているか考えてみよ、私は人々の上から取るだけだが、お前は天子の調(租税)を割いているのだ」と言った。神武帝は笑って答えなかった。長楽郡公に改封され、太保・太傅の位を歴任した。亡命者を匿った罪で、禁錮に処せられた。崔暹を使いに出して文襄帝に言わせた。「阿惠(文襄帝の小字)に伝えよ、子供が富貴になったからといって、私を殺そうというのか」と。神武帝はこれを聞いて泣き、宮廷に赴いて「臣は尉景がいなければ今日に至ることはできませんでした」と言った。三度請うて、帝はようやく許した。そこで驃騎大将軍・開府儀同三司に左遷された。神武帝が尉景を訪ねると、尉景は憤って臥したまま動かず、叫んで「私を殺す時が早まったのか」と言った。常山君が神武帝に「老人は死に近いのに、どうしてここまで苛め苦しめることができましょう」と言い、また「私はあなたのために水を汲み、手に胼胝ができた」と言って、その掌を見せた。神武帝は尉景をなだめ、彼のために膝を屈した。以前、尉景には果下馬がいたが、文襄帝がそれを求めると、尉景は与えず、「土は支え合って牆となり、人は助け合って王となる。一頭の馬さえ飼っておけず、求められるというのか」と言った。神武帝は尉景と常山君の前で文襄帝を責めて杖で打った。常山君が泣いて救うと、尉景は「子供は慣れっこだ、腹心に使うなら、どうしてわざわざ涙を流して泣き、打つのを止めさせねばならぬのか」と言った。まもなく青州刺史に任ぜられ、操行はかなり改まり、百姓は安んじた。召されて大司馬に任ぜられたが、病気にかかり、州で薨去した。太師・ 尚書令 しょうしょれい を追贈された。北斉が禅譲を受けると、尉景は元勲として、詔によりその墓に祭告が行われた。皇建初年、神武帝の廟庭に配享され、長楽王を追封された。

子の尉粲は、若くして顕職を歴任し、性質は粗暴で武勇に長じた。天保初年、厙狄幹らが王に封ぜられたが、尉粲は父が王爵に預からなかったことを大いに恨み、十数日間門を閉ざして朝参しなかった。帝は怪しみ、使者をその邸に遣わして問わせた。尉粲は門を隔てて使者に「天子が粲の父を王に封じないなら、粲は死んだ方がましだ」と言った。使者が「門を開けて勅命を受けねばならぬ」と言うと、尉粲は弓を引いて門越しに射かけた。使者がその様子を報告すると、文宣帝は段韶を遣わして旨を諭させた。尉粲は段韶に会うと、ただ胸を撫でて大声で泣くだけで、一言も答えなかった。文宣帝が自らその邸を訪れて慰めると、ようやく再び朝請した。まもなく尉景を追封して長楽王とし、尉粲が爵を襲った。 司徒 しと ・太傅の位に至り、薨去した。

子の尉世辨が嗣いだ。北周の軍が鄴に入ろうとしたとき、尉世辨に千余騎を率いて偵察させた。滏口を出て、高い丘に登って西を望むと、遥かに群鳥が飛び立つのを見て、西軍の旗幟だと思い、すぐに駆け戻った。紫陌橋に至るころには、振り返ることさえできなかった。隋の開皇年間、浙州刺史の任で卒した。

婁昭

婁昭は、字を菩薩といい、代郡平城の人で、武明皇后の同母弟である。祖父の婁提は雄傑で識度があり、家僮は数千、牛馬は穀物で量るほどであった。性質は施しを好み、多くの士人が帰附した。北魏の太武帝の時、功により真定侯に封ぜられた。父の婁内幹は武力があったが、仕官せずに卒した。婁昭が貴くなると、魏朝は 司徒 しと を追贈した。北斉が禅譲を受けると、太原王を追封された。婁昭は方正雅量で正直、大度深謀あり、腰帯八尺、弓馬は当世に冠たった。神武帝は若い頃から彼を親しく重んじ、婁昭も早くから人傑を見抜き、礼敬を尽くした。しばしば神武帝に従って狩猟したが、そのたびに請うて、危険を冒すべきでないと言った。神武帝が信都から出撃しようとしたとき、婁昭は大策を賛成し、すぐに中軍大 都督 ととく に任ぜられた。広阿で爾朱兆を破り、安喜県伯に封ぜられ、済北公に改封、さらに濮陽郡公に移封され、領軍将軍を授かった。北魏の孝武帝が神武帝に離反しようとしたとき、婁昭は病気を理由に辞して晋陽に帰った。後に神武帝に従って洛陽に入った。兗州刺史の樊子鵠が反乱を起こすと、婁昭を東道大 都督 ととく として討伐させた。樊子鵠が死ぬと、諸将は婁昭にその一味をことごとく捕らえて誅殺するよう勧めた。婁昭は「この州は無様にも横に残賊を被った。怨むべきは賊であって、その人々に何の罪があろうか」と言い、遂に皆赦した。後に大司馬に転じ、引き続き領軍を兼ねた。 司徒 しと に遷り、出て定州刺史となった。婁昭は酒を好み、晩年に偏風(中風)にかかり、治った後もなお劇務を処理できなかった。州にあっては、事務を僚属に委ね、婁昭はその大綱を挙げるだけであった。州で薨去し、仮黄鉞・太師・太尉を追贈され、諡を武といった。北斉が禅譲を受けると、詔によりその墓に祭告が行われ、太原王に封ぜられた。皇建初年、神武帝の廟庭に配享された。

長子の婁仲達が嗣ぎ、濮陽王に改封された。

次子の婁定遠は、若くして顕職を歴任した。外戚の中で、特に武成帝に寵愛され親しまれ、別に臨淮郡王に封ぜられた。武成帝が危篤に陥ると、趙郡王らとともに顧命を受け、 司空 しくう の位に至った。趙郡王が和士開を罷免するよう奏上したとき、婁定遠はその謀議に加わった。しかし和士開の賄賂を受け取り、趙郡王の禍を成してしまった。その貪欲卑劣さはこのようなものであった。まもなく瀛州刺史に任ぜられた。初め、婁定遠の弟の婁季略がいたが、穆提婆がその伎妾を求め、婁定遠は許さなかった。高思好が乱を起こすと、提婆は臨淮国の郎中である金造遠に命じて密かに高思好と通じさせた。後主は開府段暢に三千騎を率いて急襲させ、侍御史趙秀通を州に遣わし、贓貨(賄賂)の事で婁定遠を弾劾させた。婁定遠は変事があると疑い、遂に縊死した。

婁昭の兄の子に婁睿がいる。婁睿は字を仏仁という。父の婁抜は、北魏の南部尚書であった。婁睿は幼くして孤児となり、叔父の婁昭に養われた。神武帝の帳内 都督 ととく となり、掖県子に封ぜられた。累遷して光州刺史となった。在任中は貪欲で放縦であり、文襄帝に深く責められた。後に九門県公に改封された。北斉が禅譲を受けると、領軍将軍に任ぜられ、別に安定侯に封ぜられた。婁睿には他に器量や才能はなく、外戚として貴寵を受け、財色に情を恣にした。瀛州刺史として、飽くことなく収奪した。皇建初年、東安王に封ぜられた。大寧元年、 司空 しくう に進んだ。冀州で高帰彦を平定し、帰還して 司徒 しと に任ぜられた。河清三年、人を濫りに殺し、尚書左丞宋仲羨に弾劾されたが、赦令によって免ぜられた。まもなく太尉となり、軍功により大司馬に進んだ。武成帝が河陽に至ると、引き続き偏師を総べさせて県瓠に赴かせた。婁睿は 州の境にあり、百余日も留まり停頓し、専ら非法を行った。詔により官を免ぜられ、王として邸に帰った。まもなく太尉に任ぜられ、薨去し、大司馬を追贈された。

子の婁子産が嗣ぎ、開府儀同三司の位に至った。

厙狄幹

厙狄幹は善無の人である。曾祖父の越豆眷は、北魏の道武帝の時に功績により善無の西の臘汗山地方百里を割き与えられて居住した。後に部落を率いて北に遷り、朔方に家を構えた。幹は剛直で口数少なく、武芸に優れていた。北魏の正光初年、逆党を掃討し、将軍に任じられ、内廷で宿衛した。家が寒郷にあるため酷暑に耐え難く、冬は京師に入り、夏は郷里に帰った。孝昌元年、北辺が擾乱すると、雲中に奔り、刺史の費穆によって爾朱栄のもとに送られた。軍主として爾朱栄に従い洛陽に入った。後に神武帝(高歓)の起兵に従い、韓陵で四胡を破り、広平県公に封ぜられ、まもなく郡公に進んだ。河陰の役では、諸将は大勝したが、幹の軍のみが退却した。神武帝はその旧功を重んじ、ついに責めず左遷もしなかった。まもなく太保・太傅に転じた。高仲密が武牢で叛くと、神武帝はこれを討ち、幹を大 都督 ととく として前鋒とした。幹は出発に際し家に寄らず、侯景に会い、食事する暇もなく、侯景は騎兵を遣わして食糧を追送させた。時に西魏の文帝(宇文泰)自ら兵を率いて洛陽に至り、軍容は甚だ盛んであった。諸将は南渡を欲しなかったが、幹は決断して黄河を渡り、神武帝の大軍が続いて至り、遂にこれを大破した。帰還して定州刺史となった。吏事に通ぜず、事多く煩雑であったが、清廉倹約を旨とし、吏民に患いとされることはなかった。太師に遷った。天平初年、幹が元勲として創業を輔佐した功により、章武郡王に封ぜられ、太宰に転じた。幹は神武帝の妹の楽陵長公主を娶り、親族として遇された。勤王に参与して以来、常に大軍を統率し、威望の重さは諸将の敬服するところであった。そして最も厳格で峻烈であった。かつて京師に赴いた時、北魏の譙王元孝友が公門で戯れの言葉が度を過ぎ、面と向かって諫める者もいなかったが、幹は厳しい顔色でこれを責め、孝友は大いに慚じ、当時の人はこれを称賛した。薨去し、仮黄鉞・太宰を追贈され、轀輬車を賜り、諡して景烈といった。

幹は書を学ばず、署名する時「幹」の字を、逆さに上から画を書いた。当時の人はこれを「穿錘」と呼んだ。また武将の王周という者がおり、署名は先に「吉」と書き、その後で外側を成した。二人とも孫の代になって初めて書を学んだ。幹は、皇建初年に神武帝の廟庭に配享された。

子の伏敬は、位は儀同三司で卒し、子の士文が嗣いだ。

孫 士文

士文の性格は孤高で直情径行であり、隣人や近親といえども、親しく交わる者はなかった。北斉において、章武郡王の爵位を襲封し、領軍将軍の位にあった。北周の武帝が北斉を平定すると、山東の士大夫の多くは迎えに出たが、士文のみは門を閉ざして自らを守った。帝はこれを奇異に思い、開府儀同三司・随州刺史に任じた。隋の文帝が禅譲を受けると、上開府を加えられ、湖陂県子に封ぜられ、まもなく貝州刺史に任ぜられた。性質は清廉で質素、公の俸料を受け取らず、家に余財はなかった。その子が一度、官厨の餅を食べたことがあり、士文はこれを枷につけて獄に数日間入れ、二百回杖打ちし、歩いて京に送り返した。僮僕や隷属は門を出ることを敢えてしなかった。買う塩や野菜は、必ず他州のものであった。出入りする度に、門に封印を施し、親戚や旧知は絶え、慶弔の交わりもなかった。法令は厳粛で、役人は股を震わせ、道に落ちた物を拾う者もなかった。些細な過失でも、必ず法律文を深く解釈して罪に陥れた。かつて朝廷に入った時、帝が公卿に左蔵庫に入り、好きなだけ取ることを許したことがあった。人々は皆極めて重い荷を負ったが、士文だけは口に絹一匹をくわえ、両手にそれぞれ一匹ずつ持った。帝がその理由を問うと、士文は言った。「臣の口と手は既に満ち足りております。他に必要なものはございません。」帝はこれを異とし、別に賞を与えて送り出した。

士文は州に着任すると、奸悪や諂諛の徒を摘発し、長吏の尺布や斗粟に至るまでの贓物も、一切容赦しなかった。千人を捕らえ、上奏して、全て嶺南の防戍に配流した。親戚が送別する際、哭声が州境に満ちた。嶺南に至って瘴癘に遭い、死者は十のうち八九に及んだ。そこで父母妻子は、ただ士文を哭いた。士文はこれを聞き、人を捕らえさせ、前に鞭打ちの刑具を並べても哭く声はますます激しかった。司馬の京兆韋焜、清河令の河東趙達、この二人は共に苛刻であったが、長史のみは善政を行った。当時の人は言った。「刺史は人を捕らえる政治、司馬は蝮蛇の睨み、長史は笑みを含んで判決し、清河令は人を生きたまま食う。」帝はこれを聞き、嘆いて言った。「士文の暴虐は毒獣よりも甚だしい!」ついに罪に坐して免官された。間もなく、雍州長史となった。人に言った。「私は以前から法を厳格に運用し、貴人や要人の機嫌を窺うことができない。この官に就けば必ず死ぬのではないか!」任地に着くと、法を執り行うこと厳正で、貴戚をも避けず、賓客は門に至ることを敢えず、人々は多く怨みの目を向けた。

士文の従妹は北斉の後宮に入り、美色であった。北斉滅亡後、薛公の長孫覧に賜られた。覧の妻の鄭氏が嫉妬し、文献皇后(独孤伽羅)に讒言して、覧に離縁させた。士文はこれを恥じ、彼女と会おうとしなかった。後に応州刺史の唐君明が母の喪に服している時に、彼女を妻として聘った。このため君明と士文は共に御史の弾劾を受けた。士文の性格は剛直で、獄中に数日いて、憤慨し恨んで死んだ。家に余財はなく、三人の子がおり、朝夕の糧にも事欠き、親戚や賓客で養ってくれる者はいなかった。

韓軌

韓軌は、字を伯年といい、太安の狄那人である。若い時から志操があり、深沈で、喜怒を顔色に表さなかった。神武帝が しん 州を鎮守した時、召し出されて鎮城 都督 ととく とした。信都で起兵すると、軌は大計の達成を助けた。広阿で爾朱兆を破るのに従い、また韓陵の戦陣に従い、平昌県侯に封ぜられた。引き続き中軍を督し、赤谼嶺で爾朱兆を破るのに従った。再び秦州刺史に遷り、辺境の和合を大いに得た。神武帝が秦州を巡行した時、軌を連れ帰ろうとし、併せて城の住民に戸別に絹布二匹を賜ろうとしたが、州人の田昭ら七千戸は皆辞退して受け取らず、ただ軌の留任を乞うた。神武帝は嘉賞して嘆息し、そこで留任させた。しばしば軍功により、安德郡公に進封され、瀛州刺史に遷った。州において収奪を行い、御史の糾弾を受け、官爵を削除された。間もなく、その安德郡公の爵位を回復した。中書令・ 司徒 しと を歴任した。北斉が禅譲を受けると、安德郡王に封ぜられた。

軌の妹は神武帝に娶られ、上党王の高渙を生んだ。軌はまた勲功により、朝廷の重職に登り、常に謙虚で恭しい態度で自らを処し、富貴を以て人に驕ることはなかった。後に大司馬に任ぜられ、文宣帝(高洋)に従って蠕蠕を征討したが、軍中で急病に倒れ、薨去した。仮黄鉞・太宰・太師を追贈され、諡して肅武といった。皇建初年に、文襄帝(高澄)の廟庭に配享された。

子の しん 明が嗣いだ。天統年間、東萊王に改封された。 しん 明には任侠の気風があり、諸勲貴の子孫の中で、最も学問に心を留めた。酒を好み、放縦であった。賓客を招き寄せ、一席の費用は、万錢に及ぶこともあり、なお質素であることを恨んだ。朝廷が彼を貴重な要職に就けようとすると、必ず病気を理由に辞退し、人に告げて言った。「廃人は美酒を飲み、名勝の地を対面する。どうして刀筆の吏となり、反故紙を披くことができようか。」武平末年、尚書左僕射に任ぜられたが、百余日で、病と称して官を解いた。

段榮

段榮は、字を子茂といい、姑臧武威の人である。祖父の信は沮渠氏に仕えた。後に北魏に入り、豪族として北辺に移住し、やがて五原郡に家を定めた。父の連は安北府司馬であった。榮は若い頃から暦術を好み、星象に専心した。正光年間(520-525年)に人に言うには、「私は今、天象を観察し、人事を察するに、十年を待たずして乱が起こるであろう。乱はこの地から起こり、天下はこれによって混乱し、避けることはできない」と。間もなくその言う通りとなった。榮は初め杜洛周に身を寄せたが、やがて爾朱榮のもとに奔った。神武帝(高歓)が兵を起こすと、榮はこれを支持した。神武帝が南征して鄴を討つ際、榮を信都に留めて守らせ、定州刺史を授けた。当時、鄴を攻めて未だ落とせず、榮は兵糧輸送を欠かさなかった。神武帝が洛陽に入ると、功績により姑臧県侯に封ぜられ、瀛州刺史に転じた。榮の妻は武明皇后(高歓の妻婁昭君)の姉であったが、榮は神武帝が私的な縁故を重用するという非難を招くことを恐れ、固く諸将に譲り、ついにその州には赴かなかった。まもなく相州、済州、秦州の三州刺史を歴任し、赴任先の民衆から慕われた。神武帝が関右(関中)を図ろうとした時、榮は未だ可ならずと称した。渭曲で敗れた後、神武帝は言った、「段榮の言を用いなかったが故に、ここに至ったのだ」と。まもなく山東大行台に任ぜられ、本州の流民の大 都督 ととく を兼ね、民情を大いに得た。死去すると、太尉を追贈され、諡は昭景といった。皇建初年(560年)、神武帝の廟庭に配享された。二年(561年)、重ねて大司馬、 尚書令 しょうしょれい 、武威王を追贈された。長子の韶が後を嗣いだ。

長子 韶

韶は字を孝先といい、若い頃から騎射に巧みで、将帥としての才略があった。武明皇后の甥であったため、神武帝はますます彼を重んじ愛し、常に側近に置き、腹心として親信 都督 ととく を領せしめた。

神武帝が広阿で爾朱兆を迎え撃った時、兆の兵の多さを恐れた。韶は言った、「いわゆる衆とは、人々の死力を得ることであり、いわゆる強とは、天下の人心を得ることです。爾朱氏は冠を裂き冕を毀ち、根本を抜き源を塞ぎました。芒山の会盟では、搢紳(官僚)たちに何の罪がありましょうか?主君を殺し君を立てることも、十日一月も経たぬうちでした。天下は乱に従い、十室に九室までがそうなのです。大王(高歓)はみずから徳義を明らかにし、君側の悪を誅するのですから、どこへ行って勝たれないことがありましょうか!」神武帝は言った、「私は順をもって逆を討つとはいえ、天命がないのではないかと恐れる」。韶は言った、「小が大に敵し、小の道が大の淫に勝つと聞きます。皇天は親しむところなく、ただ徳を輔けるのみです。今、爾朱氏は外では天下を賊とし、内では善人を失い、智者は謀らず、勇者は闘わず。不肖の者が職を失い、賢者がこれを取るのです。また何を疑うことがありましょうか!」遂に挑戦し、これを破った。たびたび軍功により、下洛県男に封ぜられ、後に父の爵である姑臧県侯を賜った。芒山の戦いでは、賀抜勝に追い詰められたが、韶は傍らから馳せ来り、返し射ちしてその馬を斃し、追撃の騎兵は進むことを敢えず、こうして難を免れた。鞍と下馬、および金を賜り、爵位を公に進めた。玉壁を征討した時、城を攻めて落とせず、神武帝は病に伏した。大司馬の斛律金、 司徒 しと の韓軌、左衛将軍の劉豊らに言った、「私は常に孝先(段韶)と兵を論じ、特に英邁な才略があると思っていた。もし近頃その謀を用いていたならば、今日のような苦労はなかったであろう。私は危篤の患いがあり、鄴の事を孝先に委ねたいと思うが、どうか?」金らは皆言った、「臣を知るは君に若くはなく、確かに孝先より優れた者はいません」。そこで韶に文宣帝(高洋)に従って鄴を鎮守させ、文襄帝(高澄)を軍中に召して遺命を伝えさせた。文襄帝は孝先を頼みとし、軍旅の大事はすべて彼と相談するよう命じた。神武帝が崩ずると、侯景が反乱を起こし、文襄帝は鄴に戻り、韶を留めて しん 陽を守らせ、軍事を委ねた。驃騎大将軍、開府儀同三司を加えられた。文宣帝が禅譲を受けると、尚書右僕射に任ぜられ、冀州刺史に遷った。

天保四年(553年)、梁の将軍東方白額が密かに宿 に至った。韶に討伐を命じた。到着すると、ちょうど梁の将軍厳超達らの軍が涇州に迫り、陳霸先が広陵を攻めようとし、尹令思が盱眙を襲おうと謀り、三軍は皆恐れた。韶は諸将に言った、「梁氏が喪乱して以来、国に定まった主がなく、人は去就を心に抱いている。霸先は外では同徳を装い、内には離心がある。私はこれをよく推し量っている」。そこで儀同三司の敬顯俊らを留めて宿 を包囲させ、自らは倍道で涇州へ向かった。途中、盱眙を通過すると、令思は大軍の突然の到来を予期せず、旗を見て逃げた。進軍して超達の軍を破った。引き返して広陵へ向かうと、霸先は逃げ去った。軍を返して宿 に戻り、弁士を遣わして白額を説得させた。白額は城門を開いて盟を請うた。盟約を結んだ後、白額は結局用いるに足りないと判断し、彼とその弟たちを斬り、首を京師に伝送した。平原郡王に封ぜられ、 司空 しくう 司徒 しと 、大将軍、 尚書令 しょうしょれい 、太子太師を歴任した。継母の喪に服し、職を去った。まもなく大司馬として起用され、引き続き 尚書令 しょうしょれい となり、録尚書事、 へい 州刺史に遷った。後に東安王婁睿と共に高帰彥を平定し、太傅に遷り、引き続き へい 州を治めた。政治は細かい点にこだわらず、人心を大いに得た。周の文帝(宇文泰)が将を遣わし、羌夷と突厥の連合軍を率いて しん 陽に迫った。武成帝(高湛)は鄴から倍道でこれに向かった。時は大雪で、諸将の中には迎え撃とうとする者もいたが、韶は言った、「陣を敷いて待つに如かず。彼は労し、我は逸す。必ずこれを破れよう」。遂にこれを大破した。太師に進位した。

周の塚宰宇文護の母閻氏は、先に中山宮に配されていたが、護は彼女がなお存命であると聞き、そこで国境を介して文書を送り、その母の返還を請うとともに、隣国との友好を通じさせようとした。段韶は、護は外見上は宰相を称しているが、実質は王であると考えた。母のために和を請うのに、一人の使者も通わせず、文書を送ってくるのは、弱みを見せようとしている恐れがある。また、外ではこれを許すふりをし、通和の往復を待ってから返還しても遅くはない、と述べた。聞き入れられず、遂に使者を遣わし礼をもって護の母を送り届けた。護は母を得ると、やはり将軍の尉遅迥らを遣わして洛陽を襲撃させた。詔により蘭陵王長恭と大将軍斛律光がこれを撃った。軍は芒山の麓に駐屯したが、逗留して進まなかった。武成帝は段韶を召し出し、洛陽の包囲に赴かせようとしたが、ただ突厥のことを憂慮していた。段韶は言った、「北虜が辺境を侵すことは、疥癬のようなものである。西羌(北周)が窺い迫ることは、膏肓の病である。」帝はやはり段韶に精騎一千を督させて晋陽から出発させ、五日で黄河を渡った。大和谷で周軍と遭遇し、諸将と共に陣を布いてこれを待った。段韶は左軍、蘭陵王は中軍、斛律光は右軍となった。山に登って逆襲し、段韶はしばらく退却して誘い、敵の力が衰えるのを待って下馬して撃ち、周軍は大いに潰走した。洛城の包囲軍もまたすぐに逃げ去った。太宰に任じられ、霊武県公に封ぜられた。天統三年、左丞相に任じられた。四年、別に永昌郡公に封ぜられた。滄州の幹を食邑とした。武平二年、晋州道から出撃し、定隴に到着し、威敵・平寇の二城を築いて帰還した。二月、周軍が侵攻してきたので、段韶を右丞相斛律光・太尉蘭陵王長恭と共に派遣した。西境に到着した時、柏穀城という、敵の絶険の地があり、諸将は誰も攻囲しようとしなかった。段韶は言った、「汾北・河東は、情勢上国家の所有となっている。もし柏穀を除かなければ、事は痼疾と同じである。敵は南道で兵を集めるだろうと推測する。今その要路を断てば、援軍は来られない。城の地勢は高いが、内部は非常に狭い。火矢を射かければ、一日で殲滅できる。」そこでこれを攻撃し、城は陥落した。引き続き華穀に城を築き、戍を置いて帰還した。広平郡公に封ぜられた。この月、周がまた将軍を遣わして辺境を攻撃したので、斛律光が先に軍を率いて防ぎ、段韶もまた従軍を請うた。五月、服秦城に到着した。西人(北周軍)は姚襄城の南にさらに城鎮を築いていた。段韶は壮士を選び出して北からこれを襲撃し、人を遣わし密かに黄河を渡って姚襄城内に告げさせ、内外相応じて進撃し、これを大破した。諸将は皆その新城を攻撃しようとしたが、段韶は言った、「この城は一方が黄河に面し、三方は地勢が険しい。攻撃すべきではない。むしろもう一城を築き、その要道を塞ぐのがよい。服秦を破り、力を合わせてこれを図ろう。」これに従った。六月、包囲を定陽に移した。七月、その外城を屠った。この時、段韶は軍中で病に臥せっており、蘭陵王に言った、「この城は三面が深い澗で、逃げ道は全くない。ただ東面の一か所を憂慮するのみである。賊が包囲を突破すれば、必ずここから出てくるだろう。」長恭はそこで伏兵を設けた。その夜、果たして策の通りとなり、伏兵がこれを撃ち、大いに潰走させた。段韶はついに病のために薨去した。温明の秘器と轀輬車を賜った。軍校の兵士たちが、陣列を整えて平恩の墓所まで送り、兵卒を発して塚を築かせた。仮黄鉞・相国・太尉・録尚書事を追贈され、諡は忠武といった。

段韶は外では軍旅を統率し、内では帷幄に参じて機密を預かり、功績が高い上に、婚姻の縁故も重なったため、その声望は朝野を傾けた。また計略に長け、衆を御するのに巧みで、将士の心を得た。また、温厚で慎重な雅な性質を持ち、宰相の風格があった。子弟を教え諭し、家門は和やかで整っており、後母に仕えることは孝行として知られた。斉代の勲貴の家で、これに及ぶものは稀であった。しかし、好色に偏っており、要職にありながらも、微服でひそかに外出した。魏の黄門郎元瑀の妻皇甫氏は、元瑀の謀反に連座して官に没収されていた。段韶は彼女の美しさを気に入り、上啓して固く請い、文襄帝がこれを賜った。別宅に住まわせ、礼は正嫡と同じくした。特に財貨に吝嗇で、親戚や故旧にも、ほとんど施しを与えなかった。その子の段深が公主を娶った時、並省の丞郎が家に来て十数日間事務を補佐し、事が終わって辞去する際、人々にただ一杯の酒を賜っただけであった。

元妃(正妻)の生んだ三子、段懿・段深・段亮は、皆官途に達した。

段懿は字を徳猷といい、潁川長公主を娶り、駙馬都尉に任じられ、平原王の爵位を襲封した。行台右僕射の位に至り、殿中尚書を兼ね、卒去した。子の段宝鼎は、中山長公主を娶った。隋の開皇年間、開府儀同三司となった。大業初年、饒州刺史の任上で卒去した。

段深は字を徳深といい、容貌が美しく、寛大で謹厳、父の風格があった。天保年間、父の封爵である姑臧県公を受けた。東安公主を娶り、侍中の位に至った。段韶が病篤い時、詔により段深を済北王に封じ、その心を慰めた。北周に入り、大将軍・郡公に任じられたが、事に坐して死んだ。

段亮は字を徳堪という。隋の大業初年、汴州刺史の位に至った。汝南郡守の任上で卒去した。

段韶の弟、段孝言。

段韶の弟の段孝言は、若い頃から機敏で、風采が良かった。斉が禅譲を受けると、その兄の段韶が別封の覇城県侯の爵位を彼に授けた。中書黄門侍郎を歴任し、機密を掌った。また秘書監・度支尚書・清都尹を歴任した。

段孝言は本来、勲戚として高位に至ったが、驕慢で奢侈、畏れるところがなかった。かつて夜分にその客の宋孝王の家を通り過ぎた時、坊の人を呼んで護衛させたが、すぐに来なかったので、遂に拷問して殺した。また、諸々の淫婦と密かに遊興した。その夫が気づくと、またも拷問して死なせた。当時、苑内に果樹が必要となり、民間や僧寺に課して供出させたが、孝言はそれを全て自分の私宅に分取して植えさせた。また、殿内や園中に石材が必要となり、車を差し向けて漳河から運搬させたが、また車を分けて戻らせて取らせた。事が発覚し、海州刺史として出された。累進して吏部尚書となった。祖珽が政権を執ると、趙彦深を廃そうとして、孝言を引き入れて助力とし、侍中を加官した。孝言は人に対する扱いが公平でなく、抜擢は賄賂によるか旧知によるかのいずれかであった。将作丞の崔成が衆人の前で声を張り上げて言った、「尚書は天下の尚書であって、どうして段家だけの尚書でしょうか!」孝言は返答する言葉がなく、ただ厳しい顔色で下がらせた。まもなく 中書監 ちゅうしょかん に任じられ、特進を加えられた。また韓長鸞に頼んで共に祖珽の短所をでっち上げた。祖珽が外任された後、孝言は尚書右僕射に任じられ、やはり選挙を掌った。思いのままに任用・罷免を行い、請託が大いに横行した。勅命で京城の北隍を浚渫することになり、孝言がその工事を監督した。儀同三司崔士順・将作大匠元士将・太府少卿酈孝裕・尚書左戸郎中薛叔昭・司州中從事崔龍子・清都尹丞李道隆・鄴県令尉長卿・臨漳令崔象・成安令高子徹らが、皆孝言の部下として工事を掌った。毎日別に酒宴を設けて大いに会し、諸人は膝行して跪き伏し、杯を捧げて寿を祝い、ある者は自らの不遇を訴え、さらに官職の転任を請うた。孝言は得意満面で、自らの責務と思い、皆事に応じて返答し、加官増禄を約束した。富商大賈は多く選抜され、進用した人士は、皆危険で放縦な輩であった。まもなく左僕射に遷り、特進・侍中はもとの通りであった。孝言は富貴で豪奢を極め、特に女色を好んだ。後に婁定遠の妾の董氏を娶り、大いに溺愛した。このため内輪もめが起こり、互いに罪状をあげつらった。また晋陽で工事を監督した時、事に坐して除名され、光州に流された。隆化主(後主)が敗れた後、勅命で追還された。

段孝言は、財貨を貪り飽くことを知らず、酒色に身を任せたが、しかし挙措は風流であった。名士を招き寄せた。美景良辰を、むなしく過ごすことはなく、詩を賦し伎楽を奏で、歓楽を尽くした。草莽の士であっても、文芸に少しでも通じていれば、多く賓館に引き入れ、共に興に乗じて賞玩した。その貧窮している者には、時折施しを与えることもあった。当時の論はまたこの点をもって彼を称えた。斉が滅んで北周に入り、上開府の位に至った。

斛律金。

斛律金、字は阿六敦、朔州の敕勒部の人である。高祖の倍侯利は、魏の道武帝の時に内附し、位は大羽真に至り、爵を孟都公と賜う。祖父の幡地斤は、殿中尚書。父の那瑰は、光禄大夫。 司空 しくう を追贈される。金は性質が敦厚で直く、騎射を善くし、行兵は匈奴の法を用い、塵を見て馬歩の多少を知り、地を嗅いで軍の度る遠近を知る。初め軍主となり、懐朔鎮将の楊鈞と共に蠕蠕の主阿那環を送る。環は金の猟射を見て、その巧みさに歎じた。及んで破六韓抜陵が逆を構えるや、金は衆を擁してこれに属し、金を署して王とした。金は陵の終に敗るるを度り、乃ち統ぶる所の部を率いて陵に叛き、雲州に詣る。魏は除して第二領人酋長と為し、秋には京師に朝し、春には部落に還り、号して雁臣と曰う。仍って稍々南に出でて黄瓜堆に至るも、杜洛周に破られる。兄の平と二人身を脱して爾朱栄に帰し、別将と為る。孝莊帝立つや、爵を阜城男と賜う。位は金紫光禄大夫。神武は密かに匡復を懐き、金は大謀の成就を賛す。太昌の初め、汾州刺史と為り、爵を進めて侯と為る。神武に従い紇豆陵を河西に破る。沙苑の役、神武は地の厄なるを以て少しく却くも、軍は西師に乗ぜられ、遂に乱る。張華原は簿帳を以て営を歴り兵を点ずるも、応ずる者莫し。神武将に兵を集めて便ち戦わんとす、金曰く「衆散じ将離る、其の勢用いるべからず、宜しく急ぎ河東に向うべし」と。神武は鞍に据えて未だ動かず、金は鞭を以て馬を拂う、神武乃ち還る。ここにおいて大いに崩れ、甲士八万を喪う。侯景はこれを斂む。西魏の力人、大棒を持ちて河橋を守り、衣甲厚く、これを射るも入らず。賀抜仁その転面するを候い、射て、一発にしてこれを斃す。是の役、金の先んじて還るを請わざれば、幾ばくか危うきに至らんとす。及んで高仲密西に叛き、周文洛陽を攻むるに、神武に従いこれを破る。還りて、大司馬を除し、改めて石城郡公に封ぜらる。

金は性質直にして、文字を識らず。本名は敦、其の難署を苦しみ、名を改めて金と為し、其の便易に従うも、猶以て難しと為す。司馬子如、金字を教え、屋を作りて之に況う、其の字乃ち就く。神武は其の古質を重んじ、毎に文襄に誡めて曰く「爾の使う所多く漢人なり、此人を讒る者有らば、これを信ずるなかれ」と。及んで文襄事を嗣ぐに及び、肆州刺史と為る。文宣禅を受くると、咸陽郡王に封ぜらる。天保三年、就いて太師を除す。四年、州を解き、太師として晋陽に還る。車駕その第に幸し、六宮及び諸王尽く従い、酒を置き極夜にして方罷む。帝欣び甚だしく、詔して金の第二子豊楽を武衛大将軍と為し、帛五千匹を賜う。謂いて曰く「公は元勳として命に佐け、父子忠誠、朕まさに婚姻を結び、永く籓衛と為さん」と。仍って詔して金の孫武都に義寧公主を尚ばしむ。成礼の日、帝は皇太后に従い金の宅に幸し、皇后・太子・諸王皆従う。其の見待されること此の如し。後、蠕蠕突厥に破られ散ず、其の塞を犯すを慮り、詔して金に兵を白道に屯せしめて以てこれを備う。多く俘獲すること有り、並びに表して虜の取り得べき状を陳ぶ。文宣乃ち金と共にこれを討つ。位を進めて右丞相と為し、斉州の幹を食む。左丞相に遷る。帝晚年に徳を敗り、嘗て槊を持ちて馬を走らせ、以て金の胸に擬すること三たびす、金立ちて動かず、ここにおいて物千段を賜う。

孝昭践阼し、其の孫女を納れて皇太子妃と為す。詔して金の朝見を聴し、歩輓車に乗じて階に至るを許す。武成即位し、礼遇弥だ重く、又其の孫女を納れて太子妃と為す。金曾て人を遣わして食を献ず、中書舎人李若誤って奏し、云く金自ら来たりと。武成は昭陽殿を出で、勅して侍中高文遙に羊車を将いてこれを引かしむ。若は事の誤れるを知り、更に敢えて出でて廊下に映らず。文遙還りて覆奏す、帝は若を罵りて云く「空頭漢、殺すに合う!」と。亦罪を加えず。

金の長子光は、大将軍。次子羨及び孫の武都は、並びに開府儀同三司、方嶽に出でて鎮む。其の余の子孫は、皆封侯して貴達す。一門に一皇后、二太子妃、三公主、尊寵当時に比ぶる莫し。金嘗て光に謂いて曰く「我は書を読まざれども、古来外戚の梁冀等、傾滅せざるは無しと聞く。女若し寵有らば、諸貴人妒む。女若し寵無からば、天子これを嫌う。我家は直ちに勲を立て忠を抱きて富貴を致す、豈に女を藉らんや?」と。辞するも免れず、常に以て憂いと為す。天統三年に薨ず、年八十、仮黄鉞・相国・太尉公を贈られ、銭百万を贈る。諡して武と曰う。子の光嗣ぐ。

長子 光

光、字は明月、馬面に彪身、神爽雄傑、少言笑、騎射に工む。初め侯景の部下に為り、彭楽高敖曹に謂いて曰く「斛律家の小児、三度将行すべからず、後人名を奪わん」と。庫直を以て文襄に事う。従って野に出で、雁双び飛来るを見る、文襄光に馳せてこれを射しむ、二矢を以て倶に落つ。後に金に従い西征し、周の文帝の長史莫孝暉行間に在り、光年十七、馳馬してこれを射ち中つ、因りて陣にこれを禽す。神武即ち擢んで 都督 ととく を授け、永楽子に封ず。嘗て文襄に従い洹橋に於いて校猟す。雲表に一大鳥を見る、これを射て正に其の頸に中つ、形は車輪の如く、旋転して下る、乃ち雕なり。丞相属の邢子高歎じて曰く「此れ射雕の手なり」と。当時号して落雕 都督 ととく と曰う。斉禅を受くると、別に西安県子に封ぜらる。皇建元年、爵を進めて钜鹿郡公と為す。時に楽陵王百年皇太子と為り、妃を求む。孝昭は光の世に醇謹を載せるを以て、其の長女を納れて太子妃と為す。歴位して太子太保・ 尚書令 しょうしょれい 司空 しくう 司徒 しと 。河清三年、周の大司馬尉遅迥・斉公憲・庸公王雄等衆十万洛陽を攻む。光騎五万を率いて馳せ往き、芒山に戦い、迥等大敗す。光親しく雄を射てこれを殺し、迥・憲僅かにして免るることを獲る。仍って京観を築く。武成洛陽に幸して勲を策し、太尉に遷る。

初め、文宣帝の時、周人は常に斉の兵が西に渡ることを懼れ、恒に冬月に河を守り氷を砕いた。帝が即位すると、朝政は次第に紊れ、斉人は氷を砕き、周兵の逼迫を懼れた。光は憂えて曰く、「国家は常に関・隴を併呑する志があり、今日ここに至りて、唯だ声色を玩ぶのみ」と。先に、武成帝が光の第二女を納れて太子妃とし、天統元年、皇后に拝し、光は転じて大将軍となった。三年六月、父の喪に服し官を去る。その月、詔して光及び弟の羨を起用し、並びに位に復す。秋、太保を除き、爵を襲い咸陽王となり、遷って太傅となる。十二月、周軍が洛陽を囲み、糧道を壅絶す。武平元年正月、詔して光に歩騎三万を率いてこれを防がしむ。鋒刃交錯し、周の将宇文桀の衆大いに潰え、直ちに宜陽に到る。軍還り、周の斉王憲等を撃ち、衆大いに潰ゆ。詔して右丞相・ へい 州刺史を加う。その年冬、光はまた歩騎五万を率いて玉壁に華谷・龍門の二城を築き、憲と相持し、憲敢えて動かず。二年、衆を率いて平隴等の鎮戍十三所を築く。周の柱国 枹罕 ほうかん 公普屯威・柱国韋孝寬等来たりて平隴を逼る。光と汾水に戦い、これを大破す。周はその柱国紇幹広略を遣わして宜陽を囲む。光は歩騎五万を率いてこれに赴き、城下に戦う。周の建安等四戍を取る。千余人を捕えて還る。軍は未だ鄴に至らざるに、勅令して便ち兵を放ち散ぜしむ。光は功勳ある者未だ慰労を得ず、若し散ぜば恩沢施さずとす。乃ち密かに表し、使いをして旨を宣せしめ、軍は仍お且く進まんことを請う。朝廷使いを発するも遅留す。軍還り将に紫陌に至らんとす。光は営に駐まり使いを待つ。帝、光の軍営已に逼るを聞き、心甚だこれを悪む。急に舍人をして光を追い入見せしめ、然る後に宣労して兵を散ず。左丞相を拝し、別に清河郡公に封ぜらる。

光は嘗て朝堂に在りて、簾を垂れて坐す。祖珽知らず、馬に乗りてその前を過ぐ。光怒り、人に謂ひて曰く、「此人乃ち敢えてかくの如くす」と。後に珽、内省に在りて、言声高く慢し。光過ぎてこれを聞き、また怒る。珽、光の忿れるを知り、その従奴に賂して頭を搕かしむ。曰く、「公事を用うるより以来、相王は毎夜膝を抱きて歎きて曰く、『盲人権を用うれば、国必ず破れん』と」と。珽の省事褚士達、人に倚りて戸に詩を授くるを夢みる。曰く、「九升八合の粟、角斗定めて真に非ず、堰を却けて津中の水、将に何れの処の人を留めん」と。以て珽に告ぐ。珽これを占ひて曰く、「角斗は斛の字、津水を却くれば、何れの人を留めん、律の字を合成す。真に非ずとは、斛律の我に於ける実ならざるを解す」と。士達また夢みし状を言へば、乃ちその父の形なり。珽ここより懼る。また穆提婆、光の庶女を娶らんことを求む。許さず。帝、提婆に晋陽の田を賜ふ。光、朝に言ひて曰く、「この田は、神武帝以来、常に禾を種ゑて馬に飼ひ、以て寇難に擬す。今賜ふは、軍務を闕くに無からんや」と。帝また鄴の清風園を以て提婆に賜ひてこれを賃貸せしむ。ここに於て官菜無く、人に賒買し、銭三百万を負ふ。その人訴ふ。光曰く、「この菜園を提婆に賜へば、是一家足る。若し提婆に賜はざれば、便ち百官足る」と。ここより祖・穆怨を積む。周の将韋孝寬、光を懼れ、乃ち謡言を作り、間諜をしてこれを鄴に漏らさしむ。曰く、「百斗天に飛び、明月長安を照らす」と。また曰く、「高山推さずして自ら崩れ、槲樹扶けずして自ら豎つ」と。珽これを読みて曰く、「盲老公背の上に大斧を下し、饒舌老母語るを得ず」と。小児をしてこれを路に歌はしむ。提婆聞き、以てその母に告ぐ。令萱、饒舌を以て己を斥くるとし、盲老公は祖珽を謂ふとす。遂に謀を協へ、謡言を以て帝に啓して曰く、「斛律累世の大将、明月の声は関西に震ひ、豊楽の威は突厥に行はれ、女は皇后となり、男は公主を尚ぶ。謡言畏るべし」と。帝、韓長鸞に問ふ。鸞は以て不可とす。事寝る。光また嘗て人に謂ひて曰く、「今軍人皆褌袴無し。後宮内参、一たび賜ふに数万匹、府蔵稍く空し。これは何の理ぞ」と。賜はるる者これを聞き、皆曰く、「天子自ら我に賜ふ。相王に何事か関はる」と。珽また啓を通じて見えんことを求む。帝、庫車を以て載せて入らしむ。珽因りて間を請ふ。唯だ何洪珍側に在り。帝曰く、「前に公の啓を得て、即ち施行せんと欲す。長鸞は以てこの理無しとし、未だ可ならず」と。珽未だ対へず。洪珍進みて曰く、「若し本より意無ければ、則ち可なり。既にこの意有りて、決して行はざれば、万一事泄れ、如何」と。帝、洪珍の言を然りとす。而れども猶預して未だ決せず。珽、武都の妾の兄顔玄をして、光の謀りて軌を為さざらんとするを告げしむ。また曹魏祖をして奏せしめ、上将星盛んなり、誅せざれば、恐らく災禍有らんと言はしむ。先に天狗西に流る。占ひて曰く秦の地と。案ずるに秦は即ち咸陽なり。太廟より光の宅に及び、並びに血を見る。先に三日、鼠常に昼に光の寝室に見ゆ。常に食を投げてこれに与ふ。一朝に三鼠倶に死す。また床下に二物有りて黒猪の如く、地より出で走る。その穴膩滑なり。大蛇屡く見ゆ。屋脊に声有りて、弾丸の落つるが如し。また大門の横木自ら焚く。擣衣石自ら移る。既にして丞相府佐封士讓、密かに啓して云く、「光前に西討して還り、勅令して便ち兵を放ち散ぜしむ。光、軍をして帝京を逼らしめ、将に軌を為さざらんとす。果たさずして止む。家に弩甲を蔵し、奴僮千数、毎に豊楽・武都の処に使いし、陰謀往来す。若し早く図らざれば、恐らく事測るべからず」と。帝、何洪珍に謂ひて曰く、「人心も亦大いに聖なり。我前にその反を欲するを疑へり。果たして然り」と。帝の性怯懦、即ち変有らんことを恐れ、洪珍をして馳せて祖珽を召し告げしむ。また光を追ふも命に従はざらんことを恐る。珽因りてその一駿馬を賜はり、明日東山に乗り至りて遊観せしめ、その来謝するを須ち、因りてこれを執らんことを請ふ。帝その言の如くす。光将に馬に上らんとす。頭眩む。及び至りて、涼風堂に引入る。劉桃枝後よりこれを撲つ。倒れず。光曰く、「桃枝は常にこの如き事を作す。我は国家に負かず」と。桃枝、力士三人と、弓弦を以てその頸を肙ひ、遂に拉ぎ殺す。年五十八。血地に流る。剗するも跡終に滅せず。ここに於て詔を下し、その反を称し、族滅す。

二千石郎邢祖信をしてその家の簿籍を掌らしむ。珽、都省に於て得たる物を問ふ。祖信曰く、「弓十五張を得、宴射の箭一百、貝刀七口、賜はりし槊二張を得たり」と。珽また厲声して曰く、「更に何の物を得たりや」と。曰く、「棗子枝二十束を得たり。奴僕の人と鬥ふる者に擬し、曲直を問はず、即ち以てこれに杖を一百す」と。珽大いに慚じ、乃ち声を下して曰く、「朝廷已に重刑を加ふ。郎中何ぞ分雪せん」と。及び出づるに、人その抗直を尤む。祖信慨然として曰く、「好宰相尚ほ死す。我何ぞ余生を惜しまんや」と。祖信少年の時、父遜、李庶に卿せらる。因りて庶に詣り、庶に謂ひて曰く、「暫く来りて卿を見、還りて卿に辞して去らん」と。庶の父諧、庶を杖ちて謝す。

光は家内を厳粛に治め、子弟を見るに君臣の如くであった。極めて貴盛であったが、性質は倹約を旨とし、声色を簡素にし、財利を営まず、饋餩を杜絶した。門には賓客なく、朝士と交言すること稀で、政事に預かることを肯んじなかった。会議の度に常に独り後れて言い、言うことは理に適っていた。表疏を上奏する際には、人に筆を執らせ、口述して筆記させ、務めて簡実に従った。行兵には匈奴の卜法を用い、吉凶は当たらざるはなかった。軍営が未だ定まらざれば、終に幕に入らず、或いは終日坐さなかった。身に介冑を脱がず、常に士卒に先んじた。罪ある者には、唯だ大杖で背を撻つだけで、妄りに殺すことはなかった。衆は皆争ってそのために死した。宜陽の役において、周人に謂って曰く、「我が七年の人を帰せ、然らずば爾の十倍を取らん」と。周人は即ちこれを帰した。西境において定誇諸城を築き、馬上にて鞭を以て指画し、取る所の地は皆その言う如くであり、地を五百里拓いたが未だ功を伐たなかった。板築の役においては、人士を鞭撻し、頗るその厳しさを称された。結髪して戎に従うより以来、未だ律を失うことなく、深く隣敵に憚られた。罪既に顕れざるに、一朝にして屠滅せられ、朝野これを惜しんだ。周の武帝は光の死を聞き、その境内を赦した。後に鄴に入り、上柱国・崇国公を追贈した。詔書を指して曰く、「此人若し在らば、朕豈に鄴に至るを得んや」と。

長子の武都は、位は特進・開府儀同三司・梁・袞二州刺史に至り、在任する所では唯だ聚斂を事とした。光が死ぬと、使いを州に遣わしてこれを斬らせた。

末子の鐘は、年齢僅か数歳で、難を免れた。周朝において崇国公の封を襲いだ。隋の開皇年間に、車騎將軍の任にて卒した。

羨は字を豊楽といい、少より機警にして、騎射に善かった。河清三年、 都督 ととく ・幽州刺史となった。その年、突厥十余万が州境を寇し、羨は諸将を総べてこれを防いだ。突厥は軍容の斉整なるを見て、遂に戦わず、使いを遣わして款附を求めた。天統元年五月、突厥の可汗が使いを遣わして朝貢を請い、これより歳時絶えることなく、羨の力による所があった。詔して行台僕射を加えられた。羨は虜が屡々辺塞を犯すを以て、庫推戍より東は海に至るまで、二千余里の間に、凡そ険要ある所には、或いは山を斬って城を築き、谷を断って障を起し、併せて戍邏五十余所を置立した。又、高梁水を導き、北は易京に合し、東は潞に会し、因って以て田を灌漑し、公私利益を得た。州において馬二千匹を養い、部曲三千を有し、以て辺備に充てた。突厥はこれを南面可汗と称した。四年、行台 尚書令 しょうしょれい に遣わされ、別に高城県侯に封ぜられた。

羨は数帝に歴事し、謹直を以て称され、極めて栄寵を受けながらも、自ら矜尚しなかった。合門貴盛なるを以て、深く憂いとした。武平元年、乃ち上書して推譲し、所職を解くことを乞うた。詔して許さず。その年の秋、爵を進めて荊山郡王となった。羨は禍を慮り、人に騎快騾をさせて鄴に迎えさせ、一日として音問を得ざる日はなかった。後二日、鄴の使い至らず、家人は乞養してこれを憂えた。又、枷鎖を著る夢を見、豊楽に速やかに突厥に奔ることを勧めたが、羨は従わなかった。その夢を占わせると曰く、「枷は官を加うる、鎖は鎖鎖吉利なり」と。光が誅せられた時、中領軍賀抜伏恩ら十余人に勅して駅伝を馳せてこれを捕らえさせ、領軍大将軍鮮于桃枝・洛州行台僕射独孤永業を遣わして定州の騎卒を発し続進させた。伏恩ら既に至り、門者が羨に白して曰く、「使い人は衷甲し馬汗す、宜しく城門を閉ずべし」と。羨曰く、「勅使豈に疑拒すべきや」と。出て迎え、遂に捕らえられ、長史の査事にて死した。その妻に謂って曰く、「太后に啓せよ、臣兄弟の死は自ら知るべし」と。刑に臨み歎いて曰く、「富貴此の如く、女は皇后となり、公主家に満ち、常に三百の兵を使う、何ぞ敗れざらんや」と。併せて五子を害し、年十五以下の者は宥した。羨が未だ誅せられざる前、忽ちその州に在る諸子五六人をして、鎖頸して驢に乗り城を出さしめ、闔家泣いてこれを送り閣に至り、日暮れて帰った。吏人は驚異せざるはなかった。行燕郡守の馬嗣明は、道術の士であり、羨に欽ぜられ、窃かにこれを問うと、答えて云う、「須らく厭勝有るべし」と。数日にして此の変有り。

羨及び光は共に騎射に巧みであった。少時、狩猟にて、父の金が子孫を命じて会射させて之を観、泣いて曰く、「明月(光)、豊楽(羨)は弓を用いること我に及ばず、諸孫は又明月・豊楽に及ばず、世衰えたり」と。毎日、田に出ることを令し、還れば即ち獲たる所を献上させた。光の獲る所少なけれども、必ず亀甲(的の中心)を麗し腋に達す。羨の獲る所多くと雖も、要害の所に非ざりき。光は恒に賞せられ、羨は或いは捶たれた。人其の故を問うと、云う、「明月は必ず背上に箭を著け、豊楽は随処に即ち下手す、数多くと雖も、兄を去ること遠し」と。聞く者其の言に服した。

金の兄の平は、少より弓馬に便であった。神武の起つに及び、 都督 ととく として従った。皇建初め、定陽郡公に封ぜられた。後に青州刺史となった。卒し、太尉を贈られた。

論ずるに、斉の神武帝は晋陽を戎馬の地とし、覇業の図る所と定め、兵を練り旅を訓え、遥かに朝権を制し、鄴都の機務は、情を寄せて深遠なり。孫騰・高隆之・司馬子如らは、皆清貞をもって道を守り、乱を康んずるを懐うこと能わず、しかして厚く貨財を斂め、彼の谿壑を填む。昔、蕭何の関中を鎮むる、荀彧の許下に居る、是に異ならざらんや。文襄の輔に入るに頼り、驕縱を責め、崔暹を厚く遇し、其の霜簡を奮わしむ。然らずんば、則ち君子の厭うに属し、豈に聞き易からんや。子如は徒に少しく相親重にし、情深く昵狎す。義は草昧に非ず、恩は寵私に結ぶ。勲徳聞こゆる莫く、坐して台輔を致す。消難は斉を去り周に帰す。義は国に殉ずるに非ず、向背已まず。晩に又陳に奔る。一たるを謂うも甚だし、胡ぞ再びせん。膺の風素は重んずべく、幼之の清簡自立は、称すべきこと足る。竇泰・尉景・婁昭・厙狄幹・韓軌らは、並びに外戚近親を以てし、雲雷の挙に属し、位は寵進に非ず、功は勢成に籍る。翼に附き鱗に攀じ、鬱として佐命の首と為る。定遠は常人の才を以てし、而して趙郡の忠正に因り、将に志を以て朝の蠹を除き、謀を以て佞臣を逐わんとす。而して奸凶を信納し、反って其の乱を受く。遂に庸豎をして毒を肆わしめ、賢戚誅せらる。政を敗り時を害する、此より大なるは莫し。鄙語に曰く「利は以て智を昏ます」と。況んや定遠は智者に非ずや。段栄は姻戚の重きを以てし、時来の会に遇い、功伐の地、亦た称すべきこと足る。韶は七君を光輔し、門業を克隆す。毎に出でて閫外に当たり、或いは留台に任処す。猜忌の朝に、其の眉寿を終う。亭候多警に属し、有斉の上将と為る。豈に其れ然らんや。将に志を以て功を矜るを謝し、名実を渝えず、威権を以て物を禦えず、智数を以て時を要せず。覆餗を求めんと欲す、其れ得べけんや。《礼》に云う「性に率うを之れ道と謂う」と。此れ其の効か。斛律金は神武の撥乱の始めに、王業の翼成を以てし、忠款の至り、此の大功を成す。故に能く遐年を終享し、位百辟に高し。其の盈満の戒を視る、動の微なり。才に後嗣に及び、遂に誅夷に至る。既に威権の重きに処る、蓋し道家の忌む所に符す。光は上将の子を以てし、沈毅の姿有り。戦将の兵権、暗に韜略に同じ。敵に臨み勝を制す、変化方無し。関・河の分隔より、年将に四紀に及ぶ。高氏の霸王の期を以てし、宇文の草創の日に属す。軍を出して薄伐し、屡々兵威を挫く。而して大寧已還、東鄰浸弱す。関西は前に 巴蜀 はしょく を収め、又江陵を殄す。葉建瓴にして武を用い、併吞の壮志を成す。光は毎に戎に臨み衆に誓い、式に辺鄙を遏む。戦えば則ち前完陣無く、攻めれば則ち全城有ること罕なり。斉氏は必ず拘原の師を致し、秦人は復た関を啓くの策無からん。而して世乱れ讒勝ち、詐りて震主の威を以てす。主暗く時艱しく、自ら藩籬の固きを毀つ。昔、李牧の趙の将と為るや、北に胡冠を翦り、西に秦軍を卻く。郭開之を譖す。牧死し趙滅ぶ。其の光を誅するを議する者、豈に秦の反間か。何ぞ術同じくして亡うること同じきや。内に諸将をして解体せしめ、外に強隣の為に仇を滅す。嗚呼、後の君子、深く戒むべき者か。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻054