袁翻、字は景翔、陳郡項の人である。父の宣は、宋の青州刺史沈文秀の府主簿となり、文秀に従って魏に入った。時に大将軍劉昶は、宣が自分の外祖父の袁淑の近親であると言い、彼に府の諮議参軍袁済と同宗たることを命じた。宣は当時孤寒であり、甚だ互いに依附した。袁翻兄弟が官位顕赫となるに及んで、袁済の子の洸・演と各々競い争うようになり、洸らは遂に公府に訴えて、互いに排斥し合った。翻は若くして東観に入り、徐紇に推挙され、李彪が引き立てて著作佐郎を兼ねさせ、史事に参与した。後に尚書殿中郎に任ぜられた。正始初年、詔により尚書・門下の官が金墉の中書外省において律令を考論することとなり、翻は門下録事常景・孫紹、廷尉監張彪、律博士侯堅固、書侍御史高綽、前将軍邢苗、奉車都尉程霊虯、羽林監王元亀、尚書郎祖瑩・宋世景、員外郎李琰之、太楽令公孫崇らと共に議事の範囲に加えられた。また詔して太師彭城王勰、司州牧高陽王雍、 中書監 京兆王愉、青州刺史劉芳、左衛将軍元麗、将作大匠を兼ねる李韶、国子祭酒鄭道昭、廷尉少卿王顕らをしてその事に参与させた。後に 豫 州中正を除かれた。
この時、明堂・辟雍を修築することとなり、翻は議して言うには、
謹んで按ずるに、明堂の意義については、今古の諸儒が論じ尽くしている。およそ唐・虞以上は、事柄が該悉し難く、夏・殷以降は、比較して知ることができる。按ずるに『周官考工記』の記すところは、皆その時の事を記し、夏・殷の名称制度を具に論じており、どうして誤謬があろうか。これにより明堂五室の制は、三代同じであることを知り、帝を配し行を象る意義は、明らかである。『淮南子』・『呂氏春秋』と『礼記月令』とは同じ文であり、政を布き時を班けることに、堂と個の区別はあるが、その本体を推し求めるならば、九室の証拠はない。
既に正義は残り隠れ、妄説が盛んとなる。明堂九室の説は、『大戴礼』に著わされており、その端緒を探り源を求めても、その出所を知る由もない。しかるに漢代はこれに因り、自ら一代の法と為さんとした。故に鄭玄は云う、「周人の明堂五室は、これ五帝の一室であり、五行の数に合致する。『周礼』は数に依り、以て室を為す」と。本来の制度が著わされて存するのは、周が五室であることの証である。今と異なるのは、漢が周と異なることである。漢が九室としたことは、略々知ることができる。しかしこの制度に就いても、なお不明な点がある。何となれば、張衡の『東京賦』に云う、「乃ち三宮を営み、教を布き常を班け、廟を復へ屋を重ね、八達九房なり」と。これは明堂についての文である。しかるに薛綜の注に云う、「房は室なり。堂の後に九室有りと謂う」と。堂の後に九室有るという制度は、甚だ異なるのではないか。裴頠もまた云う、「漢代は四維の個を作り、各々その辰に拠らしめることができず、仮にその像を図すことができたとしても、その居用の礼を通ずることはできない。これは虚器を設けることである」と。漢代がただ周の典を削滅し、旧章を棄て、物を改め制を創り、故に再び載 籍 に拘束されなかったことを、よく知っている。かつ鄭玄が『三礼』を詁訓し、及び『五経異義』を釈するに当たり、思慮を尽くし神妙を窮め、周公の旧法に墜ちることはなかった。蔡邕(伯喈)が漢制を損益し、章句が繁雑となり、既に古に違ひ新に背き、また鄭玄の妙を易えることもできなかった。魏・晋の書紀にも、明堂で五帝を祀る文はあるが、その経始の制度を記さず、また坦然として準拠すべきものもない。今の基趾を見るに、なお彷彿たるものがあり、高卑広狭は、『大戴礼』と頗る異なる。どうして意のままに心を抑え、便りに九室と明言できようか。かつ三雍(明堂・辟雍・霊台)が異なる場所にあることは、また盧植・蔡邕の説にも背き、進退拠る所なく、どうして経典を通じさせることができよう。晋朝もまた穿鑿して明らかにし難いことを以て、故に一屋の論があり、いずれも経典の正義ではなく、皆意のままに妄作したものであり、これが不典たる所以である。学者の常談は、以て時を範とし世を軌とすに足りない。皇代既に乾統を乗り暦を御し、一を得て宸を禦するに至った。自ら古に稽え天に則り、文武を憲章し、周孔を追跡し、述べて作さざるべきである。どうして虚しく子氏(孔子)の放篇の浮説を追い、徒らに経紀雅誥の遺訓を損ない、支離たる横義を以て、妄りに図を指画し、宇宙を儀刑して来葉に貽すことを許容できようか。
また北京(平城)の制置は、求むる所皆允怗し、繕修は草創であり、意による所が甚だ多かった。事は移り化は変じ、存するもの幾ばくもなく、理として革むべきならば、何ぞ必ずしも旧に仍らん。かつ遷都の始め、日は遑給せず、先朝の規度は、事毎に古に循った。これにより数年の中に、悛換すること一にあらず、永き法と為すは難く、数え改むるは易きを良しとしたのである。何ぞ宮室府庫は多く故跡に因りながら、明堂辟雍のみこの制に遵うのか。建立の時は、また未だ知るべからず。既に猥りに訪い逮うることを班けられたれば、軽率なる瞽言を輒ちす。明堂五室は、周制と同じくすることを請い、郊に三雍を建つるは、故き所に依ることを求む。経誥に会すること有り、典刑を失わざることを庶幾う。
臣は聞く、両漢は西北に警め、魏・晋は東南に備えたり。これにより辺を鎮め塞を守るには、必ず威重を寄せ、叛を伐ち服を柔ぐには、実に温良に頼る。故に田叔・魏尚は、声は沙漠に高く、当陽(杜預)・鉅平(羊祜)は、績は江漢に流る。紀籍は以て美談と為し、今古は以て盛徳と為す。皇上が睿明を以て御し継がれて以来、風清く化遠く、威は秋霜の如く 厲 しく、恵は春露の如く沾う。故に能く淮海に誠を輸せしめ、華陽に即序せしめ、連城は面を革め、比屋は仁に帰す。県車剣閣は、豈に曩載のみならんや。鼓噪金陵は、復た茲の日に在り。然れども荊・揚の牧は、宜しく一時の才望を尽くすべく、梁・郢の君は、尤も須らく当今の秀異を以てすべし。
近頃より、辺境に接する州郡では、官に至れば便ち登用し、疆場を統べ戍を守るには、階級相当であれば即ち任用する。或いは穢徳の凡人に逢い、或いは貪家の悪子に遇い、人を温恤する方策を知らず、唯だ重役残忍の法を知るのみである。戍邏を広く開き、帥領を多く置き、或いはその左右の姻親を用い、或いは人の貨財請属を受け、皆寇を防ぎ賊を禦するの心無く、唯だ商を通じ斂を聚むるの意有り。その勇力の兵は、駆り集めて抄掠し、若し強敵に遇えば、即ち奴虜と為り、若し執獲有れば、奪いて己が富と為す。その羸弱老小の輩は、微かに金鉄の工を解し、少しく草木の作に閑けば、営を捜し壘を窮めて苦役せざるは無く、百端の労役に苦しむ。その余は或いは高山に木を伐り、或いは平陸に草を芸し、貨を販して往還し、道路に相望む。此等の者は禄既に多くなく、資も亦た限り有り、皆その実絹を収め、その虚粟を与う。その力を窮め、その衣を薄くし、その工を用い、その食を節し、冬を綿ぎ夏を歴て、之に疾苦を加うれば、溝瀆に死する者常に十の七八に及ぶ。これにより呉・楚は間隙を伺い、この虚実を審らかにし、皆糧匱く兵疲ると云い、容易に乗じて擾すべしと。故に犬羊を駆率し、屡々疆場を犯す。頻年以来、甲冑には蟣を生じ、十万の兵は郊に在り、千金の費は日に消ゆ。弊の深きこと、一に此に至る。皆辺任に其人を得ざるによりて、故に若斯の患を 延 ばすのである。賈生の痛哭する所以、良く以て有りと為す。
流れを清くせんと欲する者はその源を清くし、末を整えんと欲する者はその本を正す。既に始めに失うところあれば、どうして止むことができようか。愚かにも思うに、今後は、荊・揚・徐・ 豫 ・梁・益の諸蕃及びその統轄する郡県府の佐官・統軍から戍主に至るまで、皆、朝臣王公以下に各々知る者を挙げさせ、必ずその才能を選び、階級に拘わらぬようにすべきである。もし統御に方策があり、清く高潔で特に顕著であり、威厳は軍に臨むに足り、信義は遠方を懐柔するに足り、将士を慰撫し、その歓心を得、私利を営まず、ひたすら公利を修める者があれば、すなわち爵賞を加え、その任に長く在らせ、時に応じて褒賞を与え、その忠誠を励ます。挙げた人もまた優れた待遇を与え、得士を褒め、その誠節を嘉する。もし一心に公に奉ずることができず、才能が防衛に適さず、貪婪で日々富み、経略の聞こえるところなく、人に徳を見せず、兵士がその労役に倦む者があれば、直ちに顕戮を加え、その罪を明らかにする。挙げた人は、事に随って免官・降格させ、その誤った推薦を責め、その偽り薄きを罰する。このようにすれば、挙人はその私心を挟むことができず、任を受けた者はその挙げられたことを孤立させることがない。善悪が既に審らかになれば、阻止と勧奨もまた明らかとなる。辺境の患いが永く消え、非難の声も止むであろう。
母の喪に遭い職を去る。熙平の初め、廷尉少卿に除され、頗る不平の論があり、霊太后に責められる。陽平太守として出され、甚だ自得せず、遂に『思帰賦』を作る。
神龜の末、涼州刺史に遷る。時に蠕蠕の主阿那瑰・後主婆羅門、共に国乱により来降し、朝廷はその安置の計を問う。翻、表を上りて曰く。
今、蠕蠕は内では高車に討滅され、外では大国の威霊に依拠し、両主は身を投じ、一期にして至り、百姓は誠を帰し、万里に相連なる。然れども夷は華を乱さず、前の鑑は遠からず、覆車は劉・石に在り、毀れた轍は固より尋ねるべからず。今、蠕蠕は主が上に奔るも、人は下に散るも、而して余党は実に多く、部落は猶お衆く、高車もまた一時に併せ兼ね、尽く率いて附かしめることはできぬ。又、高車の士馬は衆しといえども、主は甚だ愚弱で、上は下を制せず、下は上に奉ぜず、唯だ掠盗を資とし、陵奪を業とするのみ。而して河西の強敵を捍禦するは、唯だ涼州・敦煌のみである。涼州は土広く人稀で、糧食・兵器は平素より欠乏し、敦煌・酒泉は空虚尤も甚だしい。若し蠕蠕が再び立ち上がることがなければ、高車に独り北辺を擅にせしめれば、則ち西を顧みる憂いは、旦夕に非ず。
愚かにも思うに、蠕蠕の二主は、共にこれを存すべきである。阿那瑰を東の辺りに居らせ、婆羅門を西の辺境に処す。その降人を分け、各々帰属すべき所を有たしむ。那瑰の住所は、経見した所でなく、その中の事勢は、軽々しく陳べるべからず。婆羅門には西海の故城を修めさせてこれを安処せしめることを請う。西海郡は本来涼州に属し、今は酒泉に在り、張掖の西北千二百里に直抵し、高車の住む金山より千余里を去る。正に北虜の往来する要衝、漢家の行軍する旧道であり、土地は沃衍で、大いに耕殖に宜しい。ただ今、婆羅門を処するに便であるのみならず、即ち永く重戍と為し、西北を鎮防することができる。外は蠕蠕を署する声を為すも、内は実に高車を防ぐ策である。一二年の後、食足り兵足り、これ固より辺を安んじ塞を保つ長計である。若し婆羅門が自ら克厲し、余燼をして心を帰せしめ、離散を収め聚め、その国を復興する者あれば、乃ち漸く北転せしめ、流沙を徙り度らせ、即ち是れ我が外藩、高車の勍敵となり、西北の憂いは、過慮する無かるべし。若しその奸回反覆、恩を孤にし徳に背く者あれば、これは逋逃の寇に過ぎず、我に何の損かあらん。今早く図らざれば、戎心一旦啓き、 脱 先んじて西河を占拠し、我が険要を奪わば、則ち酒泉・張掖は自然孤危となり、長河已西は、終に国有に非ざるべし。その始めを図らずして、その終わりの憂いを求めば、臍を 噬 む恨み、悔いて何ぞ及ばん。
愚見が允とせられば、大使を遣わして涼州敦煌及び西海に往き、山谷の要害の所を躬行し、亭障の遠近の宜しきを親閲し、士馬を商量し、糧食・兵器を校練し、部分を見定め、処置を所を得せしむることを乞う。春に入れば、西海の間で、即ち播種せしめ、秋に至り、一年の食を収め、転輸の労を復た労せざらしむるのである。且つ西の徼・北の辺は、即ち大磧であり、野獣の聚まる所、千百を群と為し、正に蠕蠕の射猟する処である。田を殖えて自ら供え、獣を籍えて自ら給す。彼此相資し、以て自ら固むるに足る。今の予度は、小損の如く見ゆるも、歳終の大計、その利実に多し。高車の豺狼の心、何ぞ専ら信ぜん。仮令臣と称し款を致すとも、正に外は優納を加うべく、而して内は復た備えを深くす、所謂、先んずる人は人の心を奪う所以の者である。
時に朝議はこれを是とする。還り、吏部郎中を拝す。斉州刺史に遷るも、政績多く無し。孝昌の中、安南将軍・中書令を除され、給事黄門侍郎を領し、徐紇と共に門下に在り、並びに文翰を掌る。翻は既に才学名重く、又善く附会し、亦た霊太后に信待される。是の時、蛮賊が充満し、六軍将親しくこれを討たんとす。翻は乃ち表を上りて諫め止む。後、蕭宝夤が関西に大敗す。翻は表を上り、西軍の死亡将士の為に挙哀し、生きて還る者には並びに 賑 賚を加うることを請う。後に度支尚書を拝し、尋いで都官に転ず。翻は表を上り、安南・尚書を以て一つの金紫と換えんことを願う。時に天下多事、翻は外は閑秩を請うも、内には求進の心有り、識者はこれを怪しむ。ここに於いて撫軍将軍を加えられる。明帝・霊太后、曾て華林園に燕し、觴を挙げて群臣に謂いて曰く、「袁尚書は朕の杜預なり。此の杯を以て元凱に敬属せんと欲す。今、これを尽くせ。」侍坐する者、羨仰せざる無し。
翻は名位共に重く、当時の賢達は咸く推して之に与す。然れども独りその身を善くし、何ら奨抜する所無く、後進を排抑す。論者はこれを鄙しむ。建義の初め、河陰に遇害す。著す所の文筆百余篇、世に行わる。使持節・侍中・車騎将軍・儀同三司・青州刺史を贈られる。嫡子宝首、武定の中、 司徒 記室参軍事。翻の弟躍。
躍、字は景騰、博学俊才、性は俗を矯めず、交友に篤し。翻は毎に人に謂いて曰く、「躍は我が家の千里駒と謂うべし」と。歴位して尚書都兵郎中、員外 散騎常侍 を加えられる。明堂を立たんとす。躍は乃ち議を上り、当時その博洽を称す。蠕蠕の主阿那 環 、亡破して来奔す。朝廷これを矜み、送ってその国を復せしむ。既にして毎に朝貢せしむるも、辞旨頗る礼を尽くさず。躍、朝臣の為に書を環に与え、禍福を以て陳べ、言辞甚だ美なり。後に車騎将軍太 傅 清河王懌の文学に遷り、雅く懌に愛賞される。懌の文表は、多く躍より出づ。卒す。冠軍将軍・吏部郎中を贈られる。制する所の文集、世に行わる。子無し。兄の翻、子の聿脩を以て継がしむ。
聿脩、字は叔徳。七歳で喪に遭い、居処の礼は成人の如し。九歳、州より主簿に辟される。性は深沈、鑒識有り、清靖寡欲、物と競わず。姨丈人尚書崔休の深く知賞されるところとなる。年十八、本州中正を領し、尚書度支郎中を兼ぬ。斉の天保の初め、太子庶子を除され、本官を以て博陵太守を行い、大いに声績有り、遠近これを称す。累遷して 司徒 左長史、兼御史中丞を領す。 司徒 録事参軍盧思道、私かに庫銭三十万を貸し、太原王乂の女を娉して妻と為さんとす。而して王氏は先に陸孔文の礼娉を納めて定めと為す。聿脩は首僚たり、又た国の司憲たり。知りながら劾せず、中丞を免ぜられる。尋いで秘書監に遷る。
天統年間、詔により趙郡王高叡らと共に三禮を議定する。信州刺史として出向し、それはその本郷であった。当時久しくその例がなく、誰もが栄誉と感じた。政治は清廉で静か、言葉を発さずして教化が行き渡り、長史以下から、鰥寡孤幼に至るまで、皆その歓心を得た。武平初年、御史が広く出向し、諸州を巡って悉く挙劾を行ったが、ただ信州には至らなかった。都に戻る際、人々や道俗が道に満ちて列をなし、ある者は酒や脯を持ち、涙を流して留まり、競って遠くまで送ろうとした。時は盛夏であり、その労苦を恐れ、しばしば馬を止めて、軽く一杯酌み交わし、その心遣いを受け取ったことを示し、礼を述べて帰らせた。戻った後、州人鄭播宗ら七百余人が碑を立てることを請い、縑布数百匹を集め、中書侍郎李德林に文を依頼して、功徳を記録させた。詔勅がこれを許した。まもなく都官尚書に任じられた。聿脩は若い頃から平和で温厚、素流の中で最も規律正しく、名家の子として清華の官を歴任し、当時の声望ある人々は多く彼を器重し、その人物鑑識眼を認めた。郎署に在った頃、趙彦深が水部郎中であり、同じ院にいたため、交友を結んだ。彦深が後に沙汰に遭い私邸に閉じこもると、門生は粗末な食事をしていたが、聿脩はなお旧情により音信を交わした。彦深が任用されると、その恩を深く銘記し、その人材が恥じないものであったとはいえ、彦深の引き立てによる所もあった。吏部尚書になって以後、自らは人望によって得たものと思っていた。
初め、馮子琮が僕射として選事を代行した時、婚姻が相次いだ。聿脩は常にこれを非難し笑い、人に語って「馮公は婚姻を営み、日も暇がない」と言った。自ら選曹に居るようになると、やはり免れず、当時の論評は地位がそうさせるのだと思った。素品の孤高な官人たちは、かなり怨嗟の声を上げた。しかし在官中は廉潔で謹直、当時匹敵する者が少なかった。魏、斉の世、台郎は多く贈収賄の交際を免れなかった。初め、聿脩が尚書郎であった十年間、一升の酒の贈り物も受け取らなかった。尚書の邢邵は聿脩と旧知であり、省中で語り戯れる時、常に聿脩を清郎と呼んだ。大寧初年、聿脩は太常少卿として出使し巡省し、併せて官人の得失を考校することを命じられた。袞州を経た時、邢邵が刺史であり、別れ際に白槹を送って信とした。聿脩は受け取らず、邢邵に書を送って「今日仰ぎ過ぎるものがあり、常の行いとは異なる。瓜田李下、古人の慎む所、この心を得んことを願い、厚き責めを遺さざらん」と言った。邵も欣然として理解し、返書に「老夫忽々として、意ここに及ばず。敬って来旨を受け、吾これに間然とすることなし。弟昔は清郎たり、今日また清卿を作す」と報じた。吏部に在った時、政衰え道喪われ、もし要勢に逆らえば禍は踵を返す間もなく、清白を以て自ら守るも、なお請謁の累を免れなかった。
周に入り、儀同大將軍、吏部下大夫、東京司宗中大夫の位に就く。隋の開皇初年、上儀同を加えられ、東京都官尚書に遷る。東京が廃されると、朝廷に入り、都官尚書に任じられる。二年、熊州刺史として出向し、卒す。子の知礼は、大業初年に太子内舍人として卒す。
躍の弟、颺。
躍の弟の颺は、 豫 州冠軍府司馬の任で卒す。颺の弟の昇は、正員郎の位に至る。颺の死後、昇はその妻と私通した。翻は憤り、これがために発病したが、昇は終に止めず、当時の人々はこれを卑しみ穢れたこととした。彼もまた河陰で害された。左將軍、齊州刺史を追贈された。
陽尼。
陽尼、字は景文、北平郡無終県の人である。累世慕容氏に仕えた。尼は若くして学を好み、群籍に博通し、上谷の侯天護、頓丘の李彪と志を同じくして齊名した。幽州刺史の胡泥が上表して推薦し、秘書著作郎に徴された。中書学が国子学に改められた時、 中書監 の高閭、侍中の李沖らは尼の碩学を以て、国子祭酒に推挙した。後に幽州中正を兼ねた。孝文帝が軒に臨み、諸州の中正に各々知る所を挙げさせた時、尼と齊州大中正の房千秋は各々自分の子を挙げた。帝は「昔に一祁あり、名は往史に垂れり。今に二奚あり、来牒に聞くべし」と言った。幽州平北府長史として出向し、漁陽太守を帯びたが、拝命せず、中正であった時に郷人の賄賂を受け取った罪で免官となった。常に自らを傷んで「吾れ昔仕えざりし時、人を羨むこと曾てせず。今日官を失うも、本と何の異なることか。然れども吾が宿志に非ず、命や如何」と言った。やがて家に帰り、数千巻の書物があった。著した『字釈』数十篇は、完成せずして卒した。その従孫の太学博士承慶がこれを撰して『字統』二十巻とし、世に行われた。承慶の従弟が固である。
尼の従孫、固。
固、字は敬安、性質は倜儻で小節に拘らず、若くして任侠を好み、剣客を好み、生業に従わなかった。二十六歳にして初めて節を折り好学し、篇籍を博覧し、文才があった。太和年間、大将軍、宋王劉昶に従い義陽を征し、板授により府法曹行参軍となった。昶の性質は厳暴で、三軍は戦慄し、敢えて言う者はいなかった。固は諫言を啓上し、併せて事柄を面陳した。昶は大いに怒り、斬ろうとしたが、攻道の監視をさせた。固は軍中で勇決し、意志は閑雅で、少しも懼色がなく、昶は大いにこれを奇とした。軍が戻ると、孝文帝にこれを言上した。三十余歳にして初めて大将軍府参軍事に辟召され、累遷して書侍御史となり、多く弾劾上奏した。
宣武帝が広く得失を訪ねると、固は讜言の表を上って言った。「当今の務めは、早く東宮を正し、師傅を立てて保護し、官司を立てて防 衞 し、以て蒼生の心を繋ぐべし。権衡を攬り、宗室に親しみ、 幹 を強くし枝を弱くし、以て万世の計を立てるべし。賢良を挙げ、不肖を黜き、以て野に遺才無く、朝に素餐無からしむべし。孜孜として万機に励み、躬ら庶政に勤め、以て人に謗讟の響き無からしむべし。徭役を省き、賦斂を薄くし、学宮を修め、旧章に遵い、農桑を貴び、工賈を賤し、談虚窮微の論を絶ち、桑門無用の費を簡略にし、以て饑寒の苦を救うべし。然る後に器械を備え、甲兵を修め、水戦を習い、呉会を滅ぼし、封禅の礼を撰び、軒・唐の軌を襲い、豈に茂ならざらんや」。
初め、帝は群下に委任し、あまり親しく覧ず、桑門の法を好んだ。 尚書令 の高肇は外戚として権寵を振るい、朝事を専決した。また咸陽王元禧らに皆過失があったため、宗室大臣は互いに疎遠となり、王畿の人庶は、労弊がますます甚だしくなった。固はそこで『南北二都賦』を作り、恆代の田猟・声楽・侈靡の事を称えつつ、中京の礼儀の式で節度し、因って諷諫とした。
宣武帝の末、中尉の王顯が邸宅を建て終え、僚属を集めて饗宴した。酒酣の時、固に問うて「この宅はどうか」と言った。固は「晏嬰の宅は湫隘なりと、流称は今に至る。豊屋は災を生ずと、『周易』に著わる。これは伝舎と同じく、ただ有徳の者こそ終わり得る。公の勉められることを願う」と言った。顯は黙然とした。他日また固に言った。「吾れ太府卿となり、府庫充実す。卿はどう思うか」。固は答えて「公は百官の禄の四分の一を収め、州郡の贓贖を悉く京蔵に入れ、これを以て府を充たす。未だ多しと為すに足らず。且つ聚斂の臣有り、寧ろ盗臣有らんや。豈に戒めざらんや」と言った。顯は大いに悦ばず、これによって固を恨んだ。ある者が顯に固を讒言したため、固が米麦を余分に請うたと奏上し、固を免官とした。固は遂に門を閉ざして自ら守り、『演賾賦』を著して幽微通塞の事を明らかにした。また『刺讒疾嬖幸詩』二首を作り、曰く。
巧佞なるものよ、讒言は盛んになる。営営として習習たり、青蠅の如し。白を以て黒となす、汝が口にあり。汝は蝮蠆に非ず、毒何ぞ厚き。巧巧佞佞、何ぞ一も工なる。閑を司り忿を司り、言必ず従う。朋黨噂栎遝として、自ら相同ず。浸潤の譖、人の墉を傾く。人の美を成すは、君子の責む所。人の悪を攻むるは、君子の恥ずる所。汝は何なる人ぞ、譖毀日々に繁し?子実に罪無く、何ぞ汝が言を騁す?番番緝緝たり、讒言側入す、君子讒を好む、或は及ばざるが如し。天は讒説を疾む、汝其れ至れり、無妄の禍、行将に及ばんとす。泛泛たる遊鳧、制せられず拘わられず、行蔵の徒、或は智或は愚。余が小子、未だ茲の理を明らかにせず、毀は行と倶にし、言は釁と起る。我其れ懲めん、我其れ悔いん、豈に人を求むるか、忠恕は己に在り。
彼の諂諛なるものは、人の蠹なり。刺促として昔粟たり、恥辱を顧みず、以て媚を求む。邪幹側入し、恐らくは及ばざるが如く、以て自ら容る。志行褊小にして、不道を習うを好む。朝には其の車を挾み、夕には其の輿を承け、或いは騎し或いは徒し、載奔し載趨す。或いは言い或いは笑い、曲事して親要す。正路由らず、邪径是れ蹈む。大猷を識らず、話言を知らず、其の朋其の党、其の徒実に繁し。詭なる其の行有り、佞なる其の音有り、籧篨戚施、邪媚是れ欽む、既に詭にして且つ妒み、以て其の心を通ず。是を信じ是を任じ、其の敗るる以て多し、始め慎まざるに非ず、末之を如何ともすべからず。習習たる宰嚭、営営として極まり無し。梁丘は寡智、王鮒は浅識、伊戾・息夫、異世同力、江充・趙高、甘言は直に似たり、豎刁・上官、擅に羽翼を生ず。乃ち如き之人、其の徳を僭爽す、豈徒に邦を喪うのみならず、又亦た国を覆す。嗟爾中下、其の親其の昵。其の非を謂わず、其の失を覚えず、之を好むこと年有り、之を寵すること日有り。我古人を思う、心焉に苦疾す。凡百の君子、宜しく其れ慎むべし、覆車其れ鑒、近く信ずべし。言既に備わり、事既に至る、是に反して思わざれば、維れ塵及ばん。
明帝即位し、尚書考功郎中を除す。諸の秀孝で考中第する者の叙を聴くことを奏し、固より始まる。大軍硤石を征し、僕射李平の行台七兵郎を為すことを敕す。平は固の勇敢を奇とし、軍中の大事、悉く之と謀る。又固に命じて水軍を節度せしむ。固は奇計を設け、期に先んじて賊に乗じ、其の外城を獲る。後、太傅・清河王懌、固を挙げ、歩兵 校尉 を除し、汝南王悦の郎中令を領す。時に悦は年少にして、行い多く法に不法、固は疏を上りて悦を諫め、悦は甚だ之を敬憚す。懌は大いに悦び、以て挙げて其人を得たりと為す。洛陽令を除し、県に在りて甚だ威風有り。母憂に丁し、号慕して疾を毀し、杖して能く起ち、練禫の後、酒肉進まず。時に固は年五十を逾え、而して喪哀に過ぎ、鄕党親族咸な嘆服す。清河王懌、太尉を領し、固を辟きて從事中郎と為す。属に懌害せられ、奏せず。懌の害せらるるに遇い、元叉政を執り、朝野震悚し、懌の諸子及び門生僚吏、禍を慮わざる莫く、隠避して出でず。固は嘗て辟命を被りしを以て、遂に独り喪の所に詣り、哀を尽くして慟哭し、良久にして乃ち還る。僕射游肇聞きて歎じて曰く、「欒布・王脩と雖も、何を以て尚ばん?君子なるかな若人!」及汝南王悦、太尉と為り、選挙多く其人に非ず、又軽肆に撾撻す。固は以前元卿と為りしを以て、国を離るるも、猶上疏して切に諫め、事は『悦伝』に在り。後、悦、固を辟きて從事中郎と為さんとす、就かず。京兆王継、 司徒 と為り、官僚を高選し、固を辟きて從事中郎と為す。府解け、前軍將軍を除し、又揚州の勲賞を典科す。初め、硤石の役、固に先登の功有り、而して朝賞未だ及ばず、是に至り、 尚書令 李崇と勲を訟え、更に相表す。崇は貴盛と雖も、固は理に拠りて撓まず、談者之を称す。卒し、輔国將軍・太常少卿を贈られ、諡して文と曰う。
固は剛直雅正にして、強禦を畏れず、官に居りて清潔、家に余財無く、終に没するの日、室徒に四壁、以て喪を供うる無く、親故其が為に棺斂す。初め、固『終制』一篇を著し、務めて儉約に従う。臨終、又諸子に勅して一に先制に遵わしむ。五子、長子は休之。
休之、字は子烈、俊爽にして風概有り、学を好み、文藻を愛し、時人之が為に語して曰く、「賦能くし詩能くす陽休之。」初め州主簿と為る。孝昌中、杜洛周薊城を陥し、休之は宗室と南に章武に奔り、転じて青州に至る。葛栄寇乱し、河北の流人、多く青州に湊る。休之将に変有らんことを知り、其の族叔伯彦等に請うて潜かに京師に帰り之を避けんとす、多く従う能わず。休之涕を垂れて別れ去る。俄にして葛栄・邢杲乱を作し、伯彦等咸な土人の為に殺され、諸陽死者数十人、唯休之兄弟免る。
莊帝立ち、累遷して太尉記室参軍。李神俊起居注を監し、休之を啟し、河東の裴伯茂・范陽の盧元伯・河間の邢子才と倶に入り撰次す。普泰中、太保長孫承業の府属と為る。尋で勅して魏收・李同軌等と国史を修む。後、行台賀拔勝樊沔を経略し、南道軍司を請う。俄にして魏武帝関に入り、勝は休之に令して表を奉じ長安に詣り参謁せしむ。時に斉の神武も亦た休之の太常少卿を除するを啟す。尋で勝の南奔に属し、仍って勝に随いて江南に至る。休之、神武の静帝を推奉するを聞き、乃ち勝に白し梁武に啟して還を求め、文襄之を大行台郎中と為す。神武汾陽の天池に幸し、池辺に一石を得、其上に隱起の字有り、文に曰く「六王三川」。休之に問うて曰く、「此の文字何の義ぞ?」対えて曰く、「'六'は、大王の字。河・洛・伊を三川と為す、大王若し天命を受けば、終に関右を統ぶるに応ず。」神武曰く、「世人常に我が反せんと欲すと道う、今若し此を聞かば、更に紛紜を致さん、慎んで妄言する莫れ。」元象初、荊州の軍功を録し、新泰県伯に封ず。
武定二年、中書侍郎に任ぜられる。先に、中書は専ら綸誥(詔勅)を主りしが、魏の宣武帝以来、事は門下に移されていた。ここに至り詔を発して旧に復し、任遇甚だ顕著なり。時に魏收は 散騎常侍 となり、兼侍郎を領し、休之と詔命を参掌す。世論は以て中興と為す。或る人士休之を戯れ嘲りて云う、「藩に触るる羝羊有り、連銭の驄馬に乗り、晋陽より鄴に向かい、属書を懐いて盈把たり」と。左丞盧斐、その文書を以て請謁せしめ、神武帝に啓して禁止せしむ。赦に会い問わず。尚食典御、太子中庶子、給事黄門侍郎、中軍将軍、幽州大中正を歴任し、侍中を兼ね、節を持ち璽書を奉じて 并 州に詣で、文宣が相国・斉王となるを敦諭す。時に将に魏の禅を受けんとし、晋陽より発して平陽郡に至るも、人心未だ一ならず、且つ 并 州に還り、漏泄を恐れ、仍って行人を断つ。休之性疏放にして、使より還り、遂にその事を説き、鄴中悉く知る。後、高徳正以て聞こえしむ。文宣之を忿るも未だ発せず。斉、禅を受け、 散騎常侍 に除し、起居注を監修す。頃之、詔書脱誤に坐し、 驍 騎将軍に左遷せらる。その前事を積むなり。文宣天を郊祀す。百僚咸く従う。休之両襠甲を衣、手に白棓を持つ。時に魏收は中書令たり。之を嘲りて曰く、「義真(休之の字)服せずや」と。休之曰く、「我昔常伯たりし時は、首に蟬冕を戴き、今 驍 遊に処るに、身に衫甲を被る。允文允武、何ぞ必ずしも卿に減ぜんや」と。談笑晏然たり。議者その夷曠に服す。禅譲の際、礼儀を参定するに因り、別に始平県男を封ぜらる。後、中山太守に除す。先に、韋道建・宋欽道代わりて定州長史となり、中山太守を帯び、並びに制を立て、監臨の官出行するに、百姓の飲食を過ぐるを得ず。有る者は、即ち数銭を以て之に酬う。休之常に以て非と為す。郡に至るに及び、復相因循す。或る人其の故を問う。休之曰く、「吾が昔之を非とせしは、其の仁義を失うが為なり。今日之を行うは、自ら嫌疑を避けんと欲するが為なり。豈に夙心ならんや、直に処世難きのみ」と。郡に在ること三年、再び甘露の瑞を致す。
文宣崩ず。休之を徴して晋陽に至らしめ、喪礼を経紀せしむ。魏收と倶に至る。 尚書令 楊遵彦、休之等と款狎し、中書省に相遇い、喪事に言及す。収は涙を掩い声を失い、休之は眉を顰めるのみ。他日遵彦謂いて曰く、「昨諱(帝崩)を聞くに、魏少傅(魏收)は悲しみ自勝えず。卿何ぞ容れんや都て涕を流さざる」と。休之曰く、「天保の世、魏侯(魏收)は時遇甚だ深し。鄙夫(自分)は以て眾人に見待たる。佞哀詐泣は、実に本懐に非ず」と。
皇建初、度支尚書を兼ぬ。昭帝政道に心を留め、政術を以て訪う。休之明賞罰、慎官方、淫侈を禁じ、人患を恤むを以て答う。政教の先と為す。帝深く之を納る。大寧中、都官・七兵・祠部の三尚書を歴任す。河清三年、西袞州刺史として出づ。天統初、光禄卿に徴せられ、国史を監す。尋いで吏部尚書に除す。休之故事を多く識り、氏族に諳悉す。凡そ選用する所、才地倶に允ならざる莫し。前国子助教熊安生、当時の碩儒、喪に因り職を解き、久しくして調を見ず。休之之を引いて国子博士と為す。儒者此を以て之に帰す。簡率にして煩職を楽しまず。典選稍く久しく、其の好む所に非ず。毎に人に謂いて曰く、「此の官実に自ら清華なれども、但だ煩劇にして、吾が賞適を妨ぐ。直に是れ樊籠なり」と。武成崩後のち、頻りに閑に就くを乞う。武平初、 中書監 ・尚書右僕射に除す。三年、位を加えて特進と為し、朝士と『聖寿堂御覧』を撰す。六年、正しく尚書左僕射に除され、 中書監 を領す。
休之早く才名を得、人物の傾服する所と為る。外は疏放の如く、内は実に謹厚なり。少年頗る峻急を以て累と為し、晩節は通美を以て称せらる。衿期を重んじ、遊賞を好む。太常卿盧元明、人地華重にして、交接する所罕なり。一時の名士に非ざれば、之と遊ぶを得ず。休之始めて行台郎と為り、便ち坦然分に投じ、文酒会同し、相得甚だ款し。郷曲の人士企羨せざる莫し。太子中庶子平原の明少遐、風流の名士なり。梁亡びて鄴に奔る。昔聘を通ずるに因り、休之と同遊す。少遐卒するに及び、其の妻窮敝す。休之経紀振恤し、恩分甚だ厚し。尚書僕射崔暹、文襄に親任せられ、勢朝列を傾く。休之未だ嘗て請謁せず。暹の子達拏、幼くして聡敏、年十余にして已に五言詩を作す。時に梁国通和し、聘使館に在り。暹達拏の数首の詩を持し、諸朝士の才学有る者に示し、又た梁客に示さんと欲す。余人暹を畏れ、皆宜に随い応対す。休之独り正言して曰く、「郎子聡明、方に偉器を成さんとす。但だ小児の文藻、未だ以て遠人に示すべからざるを恐る」と。其の方直此の如し。元景(元休之)毎に云う、「当今直諫するは、陽子烈(休之の字)其れ有りや」と。
晩節、祖珽を説きて『御覧』を撰せしむ。書成りて特進を加え、其の子辟強をして『御覧』の書を預け修めしむ。及び珽黜せらるるや、便ち朝廷に言を布き、先に隙有りと云う。及び鄧長顒・顔之推文林館を立てるを奏す。之推本意、耆旧貴人の之に居るを令めざらんと欲し、便ち相附会し、少年の朝請・参軍の徒と、同しく入りて詔を待つ。時論之を貶す。魏收史を監するの日、『神武本紀』を立て、西胡を平らげしの歳を取って斉の元と為す。収斉州に在り、史官其の志を改奪せんことを恐れ、表を上りて之を論ず。及び収朝に還り、勅して朝賢を集め其の事を議せしむ。休之議を立て天保を以て限断と為すに従う。魏收存日の猶両議未だ決せず。収死し、便ち内外に諷動し、詔を発して其の議に従う。後 中書監 を領し、人に謂いて云く、「我已に三たび 中書監 と為る。此を用いて何を為さん」と。隆化(後主の年号)鄴に還る。挙朝多く遷授有り。休之を封じて燕郡王と為す。乃ち親しき所に謂いて曰く、「我は蛮奴に非ず。何ぞ忽ち此の授くや」と。凡そ此の諸事、識者の譏る所と為る。学を好み倦まず、経史を博綜す。文章華靡ならざれども、亦た典正なり。魏收日の在りし時、深く収に軽せらる。魏(魏收)殂したる後、先達を以て推せらる。位望高しと雖も、虚懐物に接し、搢紳の愛重する所と為る。
周の武帝斉を平らぐ。吏部尚書袁聿脩・衛尉卿李祖欽・度支尚書元脩伯・大理卿司馬幼之・司農卿崔達拏・秘書監源宗・ 散騎常侍 兼中書侍郎李若・ 散騎常侍 兼給事黄門侍郎李孝貞・給事黄門侍郎盧思道・給事黄門侍郎顔之推・通直 散騎常侍 兼中書侍郎李徳林・通直 散騎常侍 兼中書舎人陸乂・中書侍郎薛道衡・中書舎人元行恭・辛徳源・王邵・陸開明の十八人と同徴せられ、駕後に随い長安に赴くを令す。尋いで開府儀同に除し、例に依り臨沢県男を封ぜらる。納言中大夫・太子少保を歴任し、位上開府に進み、和州刺史に除す。随の開皇二年任を罷め、洛陽に終わる。著する所文集四十巻有り。又た『幽州人物志』を撰す。並びに行わる世に。
初めに、休之が洛陽に在った時、官途に就かんとして、夜に夢を見た。黄河の北の駅道の上を、東から西へと行く。道の南に一つの塚があり、極めて高大であった。休之は歩いて塚の頭に登り、一本の銅柱を見た。柱の台座は蓮花の形をなしていた。休之は西北から一つの柱礎に登り、手で一本の柱を掴むと、柱は遂に右へと回転した。休之は呪文を唱えて言った、「柱が三たび回れば、我は三公に至らん」。柱は遂に三たび回って止まった。休之はやがて目覚め、その様子はあたかも 鄴城 の東南にあるかのようであり、その夢は竟に験があったという。
子の辟強、字は君大、性質は粗略で締まりがなく、また芸能も無かったが、休之も彼を文林館に引き入れ、当時の人々に嗤笑され軽蔑された。武平の末、尚書水部郎中となった。
休之の弟、綝之。
休之の弟の綝之は、天平年間に関中に入った。次に俊之、位は通直常侍を兼ね、陳への使者の副使、尚書郎となった。文襄帝(高澄)の時代に、多く六言の歌辞を作り、淫蕩で拙劣であったが、世俗に流布し、名づけて『陽五伴侶』といい、書き写して売り、市で絶えることがなかった。俊之がかつて市を通りかかり、それを取って改め、その字に誤りがあると言った。書を売る者が言うには、「陽五は古の賢人で、この『伴侶』を作られた。貴方は何を知っておられよう、軽々しく議論なさるとは!」。俊之は大いに喜んだ。後に文林館で待詔となり、自ら言うには、「文集十巻があるが、家兄も私が才士であることを知らないのである」と。
固の従兄、藻。
固の従兄の藻。藻は字を景德といい、幼くして孤となり、雅なる志があり、経史に広く渉猟した。位は中書博士となり、詔により礼官を兼ね、長安において燕宣王の廟を拝した。帰還し、爵を魏昌男と賜う。累進して瀛州安東府長史となり、年老いて家に帰ったが、賊の杜洛周に囚われ、病を発して卒した。永熙年間、幽州刺史を追贈された。子に斐。
藻の子、斐。
斐は字を叔鸞といい、魏の孝荘帝の時、西袞州において流民を督護して功績があり、爵を方城伯と賜う。歴任して広平王開府中郎、起居注を修める。起部郎中に除され、通直 散騎常侍 を兼ね、梁に聘問した。梁の尚書羊侃は、魏の叛臣であり、斐とは旧知であったが、斐を自宅に招こうとし、三度書を送ったが、斐は答えなかった。梁人が言うには、「羊侃が来てから久しく、貴朝の遷革を経て、李(諧)や盧(元明)もまたその邸宅を訪れて会見した。卿はどうして難くするのか」。斐は言った、「柳下恵ならばよいが、私はできない」。梁の武帝もまた親しく斐に言った、「侃は極めて会見を願っている。今二国は和好しているのだから、どうしてまた彼此を論じることがあろうか」。斐は終に辞退した。帰還し、廷尉少卿に除される。石斉河が氾濫し、橋が壊れたので、斐は渡し場を白馬に移し、川中に石の洲を築き、両岸に関城を造り、数年をかけてようやく完成した。東郡太守の陸士佩は、黎陽関の山河の形勝を以て、山や谷を利用して公家の苑囿としようとした。斐は書を答えて、国運がようやく康らかになり、民の労苦が未だ止まない、誠に徭役を軽くし税を薄くし、民の苦しみを勤めて恤れむべきであり、と述べたが、聞き入れられなかった。天保年間、都水使者に除される。詔により斐に長城の築造を監督させる。累進して殿中尚書となり、本官のまま瀛州の事務を監督し、儀同三司を拝する。卒し、 中書監 、北 豫 州刺史を追贈され、諡して簡といった。子に師孝。
固の従弟、昭。
中書舎人固の従弟の昭。昭は字を元景といい、学問は史伝に渉猟し、特に案牘(文書事務)に熟達した。斉の文襄帝(高澄)の府の墨曹参軍となり、甚だ親しく委ねられ、陳元康、崔暹らと共に機密を参画した。崔甗が崔暹に告発された時、元景がその獄を劾して成し遂げ、邢子才の証言によって白状したことで免れたが、当時は元景が告げて上意に順ったとされた。初め、文襄帝は日を選んで魏の禅譲を受けようとし、元景らに儀注を定めさせ、詔冊を草し、併せて官職を授けようとしたが、未だ終わらないうちに文襄帝が崩じ、府は罷められた。天保初年、給事黄門侍郎に除される。後に中風の病が長引き、近侍に堪えられず、出されて青州高陽内史となり、郡で卒した。文集十巻。
昭の子、靜立。
子の靜立、性質は淳朴で孝行であり、操行は清廉方正、言葉は美しく、尺牘(手紙文)を善くした。斉に仕え、位は三公郎中。隋の開皇初年、州主簿。
賈思伯。
賈思伯、字は仕休、斉郡益都の人である。その先祖は武威からここに移り住んだ。世父の元寿は、中書侍郎となり、学問と行いがあり、当時に称えられた。思伯は奉朝請から累進して中書侍郎となり、孝文帝に頗る知られた。任城王澄が鐘離を包囲した時、思伯を持節としてその軍司とした。澄が敗北した時、思伯は後衛を務めた。澄は彼が儒者であるから、必ず死ぬだろうと思った。帰還すると、大いに喜んで言った、「仁者には必ず勇あり、常に虚談であると言っていたが、今軍司においてそれを見た!」。思伯は道に迷ったことを理由に、その功績を誇らず、当時の論は彼を長者と称えた。累進して南青州刺史となる。初め、思伯は弟の思同と共に北海の陰鳳に師事し、学業が終わっても、謝礼を払う資が無く、鳳は遂に彼らの衣服を質に入れた。当時の人はこのことを言って、「陰生の読書は癡を免れず、双鳳が人衣を脱ぐことを識らず」といった。思伯が任地に赴く時、縑百匹を鳳に贈り、車馬を整えて迎えようとしたが、鳳は恥じて行かなかった。当時の人はこれを称え歎じた。昭帝(元詡)の時、涼州刺史を拝するよう命じられたが、思伯は辺境が遠いことを望まず、男女が未婚であることを理由に辞退した。霊太后は許さず、舎人の徐紇の言葉によって停めることを乞い得た。後に廷尉卿に除され、自ら儒素を業とし、法律を好まず、事を言うことを希った。間もなく衛尉卿に転じた。
当時、明堂を建てる議論があり、多くの異同があった。思伯が上議して言うには:
『周礼』を考うるに、夏后氏の世室、殷の重屋、周の明堂は、皆五室である。鄭玄の注に云う、「此の三者は或いは宗廟を挙げ、或いは王の寝殿を挙げ、或いは明堂を挙げ、互いに言う以て其の制同じきを明らかにする」と。若し然らば、則ち夏・殷の世既に明堂有り。唐・虞以前は、其の事未だ聞かず。戴徳の『礼記』に云う、「明堂は凡そ九室十二堂」と。蔡邕は云う、「明堂とは、天子の太廟なり。功を饗し、老を養い、教学を行い、士を選ぶは皆其の中に於いてす、九室十二堂」と。案ずるに戴徳が撰したる『記』は、世に行われず。且つ九室十二堂は、其の規制に於いて、恐らく厥の中を得難からん。『周礼』に、国を営むに、左に祖を、右に社を置き、明堂は国の陽に在り。則ち天子の太廟に非ざる明らかなり。然らば則ち『礼記月令』の四堂及び太室皆之を廟と謂うは、当に天子暫く五帝に配享する故なるべし。又『王制』に云う、「周人は国老を東膠に養う」と。鄭注に云う、「東膠は即ち辟雍なり、王宮の東に在り」と。又『詩・大雅』に云う、「邕邕として宮に在り、肅肅として廟に在り」と。鄭注に云う、「宮は辟雍宮を謂うなり、以て王を助け、老を養うには則ち和を尚び、祭を助くるには則ち敬を尚ぶ」と。又明堂に在らざるの験なり。案ずるに『孟子』に斉の宣王、孟子に謂いて曰く、「吾れ明堂を毀たんと欲す」と。若し明堂が廟ならば、則ち毀つべきの問有るべからず。且つ蔡邕、明堂の制を論じて云う、「堂方百四十尺、坤の策に象る。屋円径二百一十六尺、乾の策に象る。方六丈、径九丈、陰陽九六の数に象る。九室以て九州に象る。屋高八十一尺、黄鐘九九の数に象る。二十八柱以て宿に象る。外広二十四丈以て気に象る」と。案ずるに此れ皆天地陰陽気数を以て法と為すに、而して室独り九州に象るは、何ぞや。若し五室を立て以て五行に象らば、豈に快からざらんや。此くの如く、蔡邕の論は、通典と為すに非ず。九室の言は、或いは従うべからず。
窃 に『考工記』を尋ぬるに、是れ闕を補うの書と雖も、相承くること久しく、諸儒の注述、非とする言無し。後の作に方ぶるに、亦た優れずや。其の『孝経援神契』、『五経要義』、旧『礼図』は皆五室を作り、及び徐邈・劉芳の論、『考工』に同じきを謂うこと多し。朝廷若し独り今古を絶ち、自ら一代の製作者と為さば、則ち願う所なり。若し猶ほ旧章を祖述し、前事を規摹せば、殷・周の成法を捨て、近代の妄作を襲うべからず。且つ損益の極は、三王に極まり、後来の疑議は、准信し難し。鄭玄云う、「周人の明堂五室は、是れ帝各々一室有るなり、五行の数に合し、『周礼』数に依りて之が室を為す。今に施行するに、同じからざる有りと雖も、時の説然り」と。鄭の此の論を尋ぬれば、当たらずと為すに非ず。案ずるに『月令』にも亦た九室の文無く、其の制置を原れば、五室に乖かず。其の青陽右個は即ち明堂左個、明堂右個は即ち総章左個、総章右個は即ち玄堂左個、玄堂右個は即ち青陽左個なり。此くの如く、則ち室猶ほ是れ五にして、政を布くこと十二。五室の理、按ずるべしと謂う。其の方円高広は自ら時に依りて量る。戴氏の九室の言、蔡子の廟学の議、子幹の霊台の説、裴逸の一屋の論、及び諸家の紛紜、並びに取る無し。
学者其の義を善しとす。後に都官尚書と為る。時に崔光疾甚だしく、表を上りて思伯の侍講を薦め、中書舎人馮元興を侍読と為す。思伯遂に明帝に杜氏の『春秋』を授く。思伯少くは明経と雖も、官に従いて業を廃し、是に至り更に儒生を延き、夜に講じ昼に授く。性謙和にして、身を傾けて士を礼し、街途に在りと雖も、車を停め馬を下り、接誘すること恂恂として、曾て倦色無し。客有り謂う、「公今貴重なり、寧くか驕らざる能わんや」と。思伯曰く、「衰至れば便ち驕る、何の常か之れ有らん」と。当世以て雅言と為す。思伯と元興は事を同じくし、大いに相友昵し、元興時に元叉の寵を受く、論者其の趨勢を譏る。卒し、青州刺史を贈られ、又た尚書左僕射を贈られ、諡して文貞と曰う。
子の彦始、武定中淮陽太守。
思伯の弟思同、字は仕明、少くより志行を励まし、雅く経史を好み、兄思伯と、年少時に俱に郷里に重んぜらる。累遷して襄州刺史と為り、明察の誉れ無きと雖も、百姓之に安んず。元顥の乱に、思同は広州刺史鄭光護と並びに降らず。荘帝宮に還り、営陵県男を封ぜらる。後に国子祭酒韓子熙と並びに侍講と為り、静帝に杜氏の『春秋』を授く。 散騎常侍 を加えられ、七兵尚書を兼ね、尋いで侍中に拝せらる。卒し、尚書右僕射・ 司徒 公を贈られ、諡して文献と曰う。
初め、思同が青州別駕と為りし時、清河の崔光韶先ず中従事と為り、資地を恃み、其の下に居るを恥じ、思同の郷に還るを聞き、遂に便ち職を去る。州里の人物、思同の為に之を恨む。光韶の亡きに及び、遺誡して子侄に贈を求めしめず。思同遂に表を上りて光韶の操業を訟え、特だ贈諡を蒙る。論者之を歎尚す。
思同の侍講たるや、国子博士遼西の 衞 冀隆は服氏の学に精しく、上書して杜氏の『春秋』六十三事を難ず。思同復た冀隆の乖錯する者十余条を駁し、互いに是非を為し、積みて十巻と成る。詔を下して国学に、諸儒を集めて之を考わしむ。事未だ竟わざるに思同卒す。後、魏郡の姚文安・楽陵の秦道静復た思同の意を述ぶ。冀隆も亦た尋いで物故し、浮陽の劉休和又た冀隆の説を持す。竟に裁正する能わず。
祖瑩、字は元珍、范陽郡遒県の人である。曾祖父の敏は、慕容垂に仕えて平原太守となった。道武帝が中山を平定すると、安固子の爵位を賜り、尚書左丞に任じられた。没後、 并 州刺史を追贈された。祖父の嶷、字は元達、平原征討に従軍した功績により爵位を進められ侯となり、馮翊太守の位に至り、没後幽州刺史を追贈された。父の季真は、先人の言行に通暁し、中書侍郎・钜鹿太守の位にあった。瑩は八歳にして詩書を誦することができ、十二歳で中書学生となり、書物に耽溺した。父母は病気になることを恐れ、禁じたが止めることができなかった。常に灰の中に火種を密かに隠し、童僕を追い払い、父母が寝静まった後に、火を灯して読書し、衣や布団で窓戸を塞ぎ、光が漏れて家人に気付かれるのを恐れた。これにより名声は大いに高まり、内外の親族は彼を聖小児と呼んだ。特に文章を綴ることを好み、 中書監 の高允はしばしば嘆じて言った、「この子の才器は、諸生の及ぶところではなく、必ずや遠大なところに至るであろう」。時に中書博士の張天龍が『尚書』を講じ、瑩が都講に選ばれた。生徒が皆集まった。瑩は夜通し読書して疲労し、夜が明けたことに気付かず、講義の催促が切迫していたため、誤って同室の趙郡の李孝怡の『曲礼』の巻を取って座に着いた。博士は厳格で、取りに戻ることもできず、『礼』の書を前に置き、『尚書』三篇を誦し、一字も遺さなかった。孝文帝はこれを聞き、召し入れて、『五経』の章句を誦させ、また大義を述べさせた。帝は盧昶に戯れて言った、「昔、共工を幽州に流したが、北辺の地にどうして突然このような子がいるのか」。昶は答えて言った、「まさに才が世のために生まれたのでしょう」。才名により太学博士に任じられた。召されて 司徒 彭城王勰の法曹行参軍に補された。帝は勰を顧みて言った、「蕭賾は王元長を子良の法曹としたが、今、汝が祖瑩を用いるのは、まさに匹敵するものではないか」。勅命により勰の書記を掌らせた。瑩は陳郡の袁翻と並び称され優れており、当時の人々は彼らのために語った、「京師に楚楚たる袁と祖、洛中に翩翩たる祖と袁」。再び尚書三公郎中に遷った。 尚書令 の王肅がかつて省中で『悲平城詩』を詠じて云った、「悲平城、馬を駆って雲中に入る。陰山には常に雪晦み、荒松には風罷まず」。彭城王勰はその美しさを大いに嘆賞し、肅にさらに詠ませようとして、誤って言った、「公はさらに『悲彭城詩』を誦すべきである」。肅はそこで勰をからかって言った、「どうして『悲平城』を『悲彭城』と呼ぶのか」。勰は恥じ入った様子を見せた。瑩が座にいたが、すぐに言った、「悲彭城、王公はまだご覧になっていない」。肅が言った、「誦してくれよ」。瑩は声に応じて云った、「悲彭城、楚歌四面より起こる。屍は石梁亭に積み、血は睢水の裏に流る」。蕭(肅)は大いに嘆賞した。勰も大いに喜び、退出して瑩に言った、「卿はまさしく神口である。今日、卿がいなければ、ほとんど呉子(王肅)に屈するところであった」。
冀州鎮東府長史となり、賄賂の事件が発覚し、除名された。後に侍中の崔光が推挙して国子博士とし、なお尚書左戸郎を領した。李崇が 都督 として北討した時、瑩を長史に引き立てたが、軍資を横領した罪で除名された。間もなく、散騎侍郎となった。孝昌年間、広平王の邸宅で古い玉印が掘り出され、勅命により瑩と黄門侍郎の李琰之を召してこれを鑑別させた。瑩は言った、「これは于闐国王が晋の太康年間に献上したものである」。そこで墨を塗って字を見ると、果たして瑩の言う通りであり、当時の人々は彼を博物と称した。累進して国子祭酒となり、給事黄門侍郎・幽州大中正を領し、起居事を監し、また議事を監した。
元顥が洛陽に入ると、瑩を殿中尚書とした。荘帝が宮中に還ると、顥のために詔書を作って爾朱栄の罪状を述べたことで連座し、官を免じられた。後に秘書監に任じられ、中正の職は元の通りであった。律暦の制定に参与した功績により、容城県子の爵位を賜った。事件に連座して廷尉に囚われた。ちょうど爾朱兆が入城し、楽署を焼き払い、鐘磬や管弦楽器がほとんど残らなかった。勅命により瑩と録尚書事の長孫承業・侍中の元孚が金石雅楽の制作を主管し、三年で完成した。車騎大将軍に遷った。孝武帝が即位すると、瑩は太常として礼を行い、文安県子に封じられた。天平初年、鄴に遷都しようとした時、斉の神武帝が困って瑩を召してこれを諮問し、功績により爵位を伯に進めた。没後、尚書左僕射・ 司徒 公を追贈された。
瑩は文学をもって重んじられ、常に人に語って言った、「文章は自ら機杼を出して一家の風骨を成すべきであり、どうして他人と同じ生活を共にできようか」。これは世の人が他人の文を窃用して己れのものとするのを好むことを諷刺したものである。そして瑩の筆札にも天才の乏しいところはなかったが、均整が取れず、玉と石が混じっており、その制裁(文章の体裁)は袁翻・常景に劣った。性質は豪快で侠気があり、節義があり、士で困窮している者がいれば、命を預けて来れば、必ず救済したので、当時もまたこのことで彼を称えた。その文集は世に行われた。子の珽が爵位を襲った。
珽、字は孝徵、神情は機敏で、詞藻は雄健で優雅、若くして令誉を馳せ、当世に推重された。初め秘書郎に起家し、対策で高第となり、尚書儀曹郎中となり、儀注を主管した。かつて冀州刺史の万俟受洛のために『清徳頌』を撰し、その文は典雅で麗しく、これにより斉の神武帝に聞こえた。時に文宣帝が 并 州刺史であり、珽を開府倉曹参軍に補した。神武帝は珽に三十六事を口授し、退出してこれを書き記させたが、一つも遺すところなく、大いに同僚たちに賞賛された。時に神武帝が魏の蘭陵公主を蠕蠕に嫁がせるため塞外に送り出した時、魏収が『出塞』及び『公主遠嫁詩』二首を賦し、珽は皆これに和し、大いに当時の人々に伝誦された。
珽の性質は粗略で軽率、廉潔慎重に道を守ることができなかった。倉曹は州の役所とは言え、山東からの租税輸送を受け取る際、これにより大いに収賄し、財産を豊かにした。また自ら琵琶を弾くことを解し、新曲を作ることができ、都市の若者を招き、歌舞を楽しみとし、諸々の娼家に遊び集い、陳元康・穆子容・任胄・元士亮らと声色の遊びをした。諸人がかつて珽の宿所に寄ると、山東産の大文綾や連珠孔雀羅など百余匹を出し、老女たちに樗蒲をさせて賭けさせ、戯れ楽しみとした。参軍の元景献は、故 尚書令 の元世俊の子である。その妻は司馬慶雲の娘で、これは魏の孝静帝の故博陵長公主の生んだところである。珽は突然、景献の妻を宴席に迎え、諸人と順番に寝所を共にしたが、これもまた財物によってもたらされたものである。その豪放で淫逸な様はこのようなものであった。常に言った、「丈夫たるもの一生、身を負かすことはない」。
文宣帝が州を廃止すると、祖珽は例に従って府に随従すべきところ、倉局の間を図り、陳元康に請願した。元康がこれを取り次ぎ、これにより倉曹に復帰した。祖珽はまた参軍事に身を委ねて付き従い、典簽の陸子先を代理として取り込み、計略を画策し、糧食を請う際に、子先に命じて教令を宣し、倉粟十車を出させた。僚官に捕らえられて送致された。神武帝が自ら尋問すると、祖珽は自分は署名していないと述べ、罪を子先に帰した。神武帝は信じて彼を釈放した。祖珽が出て言うには、「これは丞相の天縁明鑑によるものだが、実は孝徴(祖珽の字)の仕業である」と。性は束縛されず、放縦であった。かつて膠州刺史の司馬世雲の家で酒を飲み、そこで銅の重ね皿二枚を隠し、厨人が諸客を捜索するよう請うと、果たして祖珽の懐中から見つかった。見た者はこれを深く恥じた。乗っていた老馬を、常に騮駒(黒い駿馬)と称した。また寡婦の王氏と姦通し、人前で互いに往来を知らせ合った。裴譲之は祖珽と早くから親しく、衆人の前で祖珽を嘲って言うには、「卿はどうしてこのように奇怪なのか、老馬が十歳になってもなお騮駒と号し、姦通相手が耳順(六十歳)になっても尚娘子と称するとは」と。当時喧しく伝えられた。後に神武帝の中外府功曹となった。神武帝が僚属を宴すると、座中で金の酒杯を失い、竇泰が飲酒する者に皆脱帽させると、祖珽の髻の上から見つかった。神武帝は罪に問うことができなかった。後に秘書丞となり、舍人を兼ね、文襄帝に仕えた。州の客が来て、『華林遍略』を売ることを請うた。文襄帝は多くの書写人を集め、一日一夜で書き終え、その原本を返して「必要ない」と言った。祖珽は『遍略』数帙を質入れして金を賭け、文襄帝は彼を四十回杖打った。また令史の李双、倉督の成祖らと共に 晉 州の啓文を作り、粟三千石を請い、功曹参軍の趙彦深に代わって神武帝の教令を宣し、城局参軍に給与するよう求めた。事が典簽の高景略を通ると、景略はその不実を疑い、密かに彦深に問うた。彦深は全て事実無しと答えたため、推問を受けた。祖珽は直ちに服罪した。神武帝は大いに怒り、鞭二百回の刑を決し、 甲坊 に配属し、鉗(首枷)と刓(足枷)を加え、その穀物は倍額で徴収することとした。刑が執行される前に、 并 州の定国寺が完成し、神武帝が陳元康、温子升に言うには、「昔、芒山寺碑文を作った時、妙絶と称された。今、定国寺碑は誰に詞を作らせるべきか」と。元康は祖珽の才学と鮮卑語の理解を推薦した。そこで筆と紙を与え、禁所で草稿を作らせると、二日以内に完成し、その文は甚だ麗しかった。神武帝はその巧みさと速さにより、特に赦して問わず、しかしなお免官とし、相府に散参させた。
文襄帝が後を継ぐと、功曹参軍とした。文襄帝が害に遭うと、元康は傷が重く、祖珽に書状を作るよう頼み、家の累(家族)の事を託し、また「祖喜の辺りに少々の物がある。早く取り立てるべきだ」と言った。祖珽はこの書状を通さず、祖喜を呼び出して私的に問い、金二十五挺を得たが、祖喜に二挺を与えただけで、残りは全て自分のものとし、また元康の家の書数千巻を盗んだ。祖喜は恨みを抱き、遂に元康の二弟の叔諶、季璩らに告げた。叔諶が楊愔に話すと、愔は眉をひそめて答え、「亡き者に益することは恐らくない」と言った。これにより事は止んだ。
文宣帝が宰相となると、祖珽は令史十余人を補充することを企て、皆に収賄し、また教判を諮り取り、さらに官の『遍略』一部を盗んだ。当時また祖珽を秘書丞に任じ、兼ねて中書舍人とした。鄴に戻った後、これらの事が全て発覚した。文宣帝は事を従事中郎の王士闕に付して推問させ、また平陽公の高淹に書を送り、祖珽を捕らえて禁中に付し、逃げさせないよう命じた。淹は田曹参軍の孫子寛を遣わして呼び出させた。祖珽は命を受けると、すぐに私的に逃亡した。黄門郎の高徳正が留台事を副任し、謀って言うには、「祖珽は自ら罪があると知り、驚いて逃げるのは常である。ただ秘書省に向かって一命を宣し、 并 州の制約に奉じ、『五経』三部が必要であり、丞が親しく検校し催促して送るよう仰せ、と言えばよい。そうすれば祖珽の心は安らぎ、夜には宅に戻るであろう。それから捕らえるのだ」と。祖珽は果たして徳正の図った通り、宅に戻り、夕方頃、家に押し入って捕らえ、祖珽を縛って廷尉に送った。枉法の罪により絞刑に処すべきところ、文宣帝は祖珽が先代に仕えたことを考慮し、所司に示唆して、特にその罰を寛大にするよう命じ、遂に上奏して死罪を免じて除名した。天保元年、再び召し出されて従駕し、除免の例に依り、 晉 陽に参じた。
祖珽は天性聡明で、事で学ぶに難いものはなく、あらゆる技芸に心を留めないものはなかった。文章の外に、また音律に善く、四夷の語と陰陽占候を解した。医薬の術は特にその長じるところであった。帝はその度々刑憲を犯すのを嫌ったが、その才技を愛し、中書省に直らせて詔誥を掌らせた。祖珽は密状を通し、中書侍郎の陸元規を列挙して弾劾し、勅令で裴英に推問させた。元規は応対が旨に逆らい、甲坊に配された。祖珽を尚薬丞に任じ、まもなく典禦に選んだ。また胡桃油を作ることを奏上し、再び蔵物を割いて免官された。文宣帝は彼を見るたびに、常に賊と呼んだ。文宣帝が崩御すると、広く旧労を選び、章武太守に任じた。楊愔らが誅殺されたため、任地には赴かなかった。著作郎を授けられた。数度密啓を上奏し、孝昭帝の憤りを買い、勅令で中書、門下の二省に祖珽の奏事を断たせた。
祖珽は胡桃油を作って塗画に用いることを善くし、長広王に進上し、ついでに言うには、「殿下には並々ならぬ骨法があり、孝徴は殿下が龍に乗って天に昇る夢を見ました」と。王は言うには、「もしそうなら、兄を大富貴にさせるであろう」と。即位すると、これが武成皇帝であり、抜擢して中書侍郎に拝した。帝は後園で祖珽に琵琶を弾かせ、和士開に胡舞を舞わせ、それぞれ物百段を賞賜した。士開は彼を忌み、安德太守に出し、齊郡太守に転じた。母が老いていることを理由に帰還して侍養を乞うと、詔許された。ちょうど南方の使者が聘問に来たため、申労使となった。まもなく太常少卿、 散騎常侍 、仮儀同三司となり、詔誥を掌った。
初め、祖珽は乾明、皇建の時、武成帝が密かに大志を抱いていることを知り、深く自ら結び付き、曲げて奉じた。武成帝は天保年間に頻繁に責められ、心に常にこれを恨んでいた。祖珽はこの時、旨に迎合し、上書して太祖献武皇帝を追尊して神武とし、高祖文宣皇帝を威宗景烈皇帝と改めることを請い、武成帝を喜ばせた。武成帝はこれに従った。
当時、皇后は少子の東平王高儼を愛し、後継としたいと願ったが、武成帝は後主が嫡子として長であり、変えるのは難しいと考えた。祖珽は私的に士開に言うには、「君の寵幸は、古を振るっても二つとない。宮車(帝の崩御)が一日遅くとも、どうして終わりを全うできようか」と。士開はそこで策を求めた。祖珽は言うには、「主上に説くべきは、襄帝、宣帝、昭帝の子は皆立つことができず、今は皇太子に早く大位を践ませて、君臣の分を定めるべきだ、と。もし事が成れば、中宮(皇后)も少主(太子)も皆君に徳を感じる。これは万全の計である。君はまず微かに説き、主上に理解させよ。珽が自ら外から表を上って論じよう」と。士開は承諾した。時に彗星が出現し、太史が除旧布新の徴と奏上した。祖珽はそこで上書し、言うには、「陛下は天子であられるが、未だ極貴ではない。『春秋元命苞』に云う、『乙酉の歳、旧を除き政を革む』と。今年の太歳は乙酉である。東宮に位を伝え、君臣の分を早く定めるべきである。かつ上って天道に応ずるためである」と。併せて魏の献文帝が子に禅譲した故事を上った。帝はこれに従った。これにより秘書監に拝し、儀同三司を加えられ、大いに親寵を受けた。
既に二宮(皇太子と皇帝)に重用されると、遂に宰相の地位を志す。先ず黄門侍郎劉逖と親しく交わり、侍中 尚書令 趙彦深、侍中左僕射元文遙、侍中和士開の罪状を列挙し、劉逖に上奏させた。劉逖は恐れて敢えて通さず、その事は頗る漏れた。趙彦深らは先に帝の許へ赴き自ら陳述した。帝は大いに怒り、祖珽を捕らえて詰問して言うには、「何故に我が士開を誹謗するのか」。祖珽はそこで声を厲して言うには、「臣は士開によって進用を得たので、本来彼を誹謗する心はありません。陛下が今既に臣にお尋ねになるので、臣は敢えて実情をもって答えざるを得ません。士開、文遙、彦深らは専ら威権を弄び、朝廷を制御し、吏部尚書尉瑾と内外で通じ合い、共に表裏を為し、官を売り獄を 鬻 ぎ、政治は賄賂によって成り立ち、天下に歌謡が流れております。もしこれを有識の者が知れば、どうして四方の辺境にまで聞こえさせることができましょうか。陛下がこれを意に留められなければ、臣は大斉の業が廃れることを恐れます」。帝は言う、「お前は我を誹謗するのか」。祖珽は言う、「敢えて誹謗は致しません。陛下は人の娘を取られました」。帝は言う、「私は彼女が貧しく飢えていたので、故に養い取ったのだ」。祖珽は言う、「何故倉を開いて賑給せず、買い取って後宮に入れたのですか」。帝はますます怒り、刀の環で口を突き、鞭や杖を乱れ打ちし、撲殺せんとした。祖珽は大声で叫んで言うには、「臣を殺さなければ、陛下は名を得られます。臣を殺せば、臣が名を得ます。もし名を得たいのであれば、臣を殺さず、陛下のために金丹を合わせさせてください」。そこで少し寛大に許された。祖珽はまた言う、「陛下には一人の范増がおられるのに用いられず、どうしようもありません」。帝はまた怒って言う、「お前が自ら范増となり、私を項羽とするのか」。祖珽は言う、「項羽の人物もどうして及ぶことができましょう、ただ天命が至らなかっただけです。項羽は布衣の身から、烏合の衆を率い、五年で霸王の業を成しました。陛下は父兄の資財を 藉 りてここまで至られたのです。臣は項羽を軽んじ易いとは申しません。臣は何ぞただ范増に比するのみでしょうか。仮に張良に 擬 えても、及びません。張良は身をもって太子に傅き、なお 四皓 に因って、初めて漢の 嗣 ぎを定めました。臣の位は 輔弼 ではなく、疎外された者です。力を尽くし忠を尽くし、陛下に禅位を勧め、陛下を尊んで太上と為し、子を 宸扆 に居らせ、己と子の双方に 休祚 を保たしめます。取るに足りない張良など、何ぞ数えるに足りましょう」。帝は 愈 怒り、土でその口を塞がせよと命じた。祖珽は吐きながらも言い、少しも 屈撓 しなかった。そこで鞭二百を打ち、甲坊に配流した。間もなく光州に移された。刺史李祖勳は彼を厚く遇した。別駕張奉礼は大臣の意を迎え、上言して祖珽は流囚であるのに常に刺史と対座していると言った。詔勅が「 牢掌 せよ」と報じた。奉礼は言う、「牢とは地牢のことである」。そこで深い穴を掘り、彼をその中に置き、苦しく防禁を加え、 桎梏 をその身から離さず、家人親戚も臨視することを許さず、夜中に 蕪菁 の種を 燭 として眼を 熏 り、このために失明した。
武成帝が崩御すると、後主は彼を思い出し、そのまま海州刺史に任じた。この時、陸令萱が外朝の政務を掌握し、その子穆提婆が寵愛されていた。祖珽はそこで陸媼(令萱)の弟の悉達に手紙を送って言うには、「趙彦深は心腹陰沈で、伊尹・霍光のごとき事を行おうとしており、儀同(穆提婆)の姉弟はどうして平安でいられましょうか。何故早く智士を用いないのですか」。和士開もまた祖珽が大事を決断できると見て、彼を謀主としようとし、故に旧怨を棄てて、虚心に彼を待った。陸媼と共に帝に言うには、「襄帝・宣帝・昭帝(文襄帝・文宣帝・孝昭帝)の三帝は、その子が皆立つことができず、至尊(陛下)のみが帝位におられるのは、実に祖孝徴(祖珽)によるものです。また大功があり、重く報いるべきです。孝徴の心行は薄いとはいえ、奇略は人に優れ、緩急の際には真に頼りになります。かつその両眼は盲目で、必ずや反逆の心はありません。呼び出して、その謀計を問うてください」。帝はこれに従った。入朝して銀青光禄大夫・秘書監となり、開府儀同三司を加えられた。
和士開が死んだ後、なお陸媼に説いて趙彦深を出させ、祖珽を侍中とした。晋陽で密啓を通じ、琅邪王(高儼)の誅殺を請うた。その計略が実行されると、次第に任用され遇された。また霊太后(胡氏)が幽閉された時、祖珽は陸媼を太后にしようと企て、魏帝(北魏)の皇太后の故事を撰び、太姫(陸令萱)に言上した。人に謂って言うには、「太姫は婦人とは云え、実に雄傑であり、女媧以来いまだかつてない存在である」。太姫もまた祖珽を「国師」「国宝」と称した。これによって尚書左僕射に拝され、国史を監修し、特進を加えられ、文林館に入り、撰書を総監し、燕郡公に封ぜられ、太原郡の幹を食邑とし、兵七十人を与えられた。住まう宅は義井坊にあり、傍らの隣家を拓き、大いに修築した。陸媼は自ら往って巡行し、その勢いは朝野を傾けた。
斛律光は彼を甚だ憎み、遠くから見て窃かに罵って言うには、「多事な乞食小人め、何の計略を企てているのか」。嘗て諸将に謂って言うには、「辺境の消息や兵馬の処分については、趙令(趙彦深)は常に我らと参論した。盲人が機密を掌って以来、全く我らと語らず、ただ彼が国家の事を誤るのを恐れるのみだ」。また祖珽はその言葉を頗る聞き及び、その娘(斛律氏)が皇后として寵愛されていないのを機に、謡言を上聞して言うには、「百升(斛)天に飛び、明月(光の字)長安を照らす」。その妻の兄の鄭道蓋に奏上させた。帝が祖珽に問うと、祖珽は事実であると証言した。また謡を説いて言うには、「高山崩れ、槲樹挙がり、盲老公背の上に大斧を下し、多事老母語るを得ず」。祖珽は併せて言うには、「盲老公は臣です」と、自ら国と憂戚を同じくすると云い、帝に実行を勧め、語って「その多事老母は、女侍中陸氏に似ている」と言った。帝は韓長鸞・穆提婆に問い、併せて高元海・段士良に密議させたが、衆人は従わなかった。そこで斛律光の府参軍封士讓が光の謀反を啓告したことを因として、遂にその一族を滅ぼした。
祖珽はまた陸媼に附き、領軍となることを求め、後主はこれを許した。詔は覆述(再審議)を要し、侍中斛律孝卿に署名を取った。孝卿は密かに高元海に告げ、元海は侯呂芬・穆提婆に言うには、「孝徴(祖珽)は漢児であり、両眼もまた物を見えず、どうして領軍に相応しいと言えましょうか」。翌朝、面奏して、祖珽が相応しくない様子を具に陳べ、併せて祖珽が広寧王孝珩と交結し、大臣の体を為さないことを書上した。祖珽もまた面見を求め、帝は引き入れることを命じた。祖珽は自ら弁明し、併せて言うには、「元海とは元来嫌いがあり、必ずや元海が臣を讒言したのです」。帝は気が弱く、隠すことができず、言うには、「その通りだ」。
祖珽は高元海が司農卿尹子華・太府少卿李叔元・平準令張叔略らと共に朋党を結び樹てたことを列挙した。そこで尹子華を仁州刺史に、李叔元を襄城郡守に、張叔略を南営州録事参軍に任じた。陸媼もまたこれに唱和し、また高元海を鄭州刺史に任じた。
祖珽はこれより機衡(枢機)を専ら主管し、騎兵・外兵の事を総べて知った。内外の親戚は皆、顕位を得た。後主もまた中要(宮中の要人)数人に扶侍させ出入りさせ、紗帽を着けて永巷まで直行し、万春門を出て聖寿堂に向かい、 毎度御榻 を同じくし、政事を論決し、委任の重さは群臣の比する者無かった。和士開が執事して以来、政体は廃壊していたが、祖珽は高望(声望高い者)を推挙し、官人はその職に称し、内外から称賛された。また政務を増損し、人物を沙汰しようとした。始め京畿府を罷めて領軍に併せ、事が百姓に連なるものは皆郡県に帰属させ、宿衛 都督 等の号位は旧官名に従い、文武の服章は併せて故事に依らせると奏上した。また諸閹豎(宦官)及び群小輩を罷め、誠意を推して士を延き、安寧を致す方策としようとした。
陸媼と穆提婆は議論してしばしば意見が異なった。祖珽は御史中丞麗伯律にほのめかし、主書王子沖が賄賂を受け取ったことを弾劾させ、その事が提婆に連なることを知り、贓罪を関連づけ、これによって罪に落とし、陸媼にも及ぼそうとした。なお後主が側近に溺愛されることを恐れ、皇后の一族を後ろ盾としようと、皇后の兄胡君瑜を侍中・中領軍とするよう請い、また君瑜の兄で梁州刺史の胡君璧を召し出し、御史中丞にしようとした。陸媼はこれを聞いて怒りを抱き、あらゆる手段で排斥・中傷し、すぐに君瑜を金紫光禄大夫に左遷し、中領軍を解任し、君璧を梁州に帰鎮させた。皇后の廃立も、かなりこれが原因であった。王子沖は釈放して問わなかった。祖珽は日増しに疎遠となり、また諸宦官が更に共に讒言・中傷し、至らぬところはなかった。後主が太姫(後主の乳母で陸媼)に問うと、憫然として黙り、答えなかった。三度問うと、床から下りて拝礼して言うには、「老婢は死ぬべきです。もとより和士開が孝徴(祖珽の字)は才多く博学で、善人であると言ったので、推挙しました。近頃見ると、極めて罪過が多く、人は実に容れ難く、老婢は死ぬべきです」。後主は韓鳳に調査させ、彼が詔勅を偽って賜物を受けた十余件の事を得た。以前に彼と重く誓って殺さないと約束していたので、遂に祖珽の侍中・僕射を解任し、北徐州刺史として出させた。
祖珽は面会して弁明を求めたが、韓長鸞(韓鳳の字)は祖珽に積もる恨みがあり、人を遣わして柏閣から押し出させた。祖珽は固く面会を求め、座って動こうとしなかった。長鸞は軍士に牽引・引きずり出させ、祖珽を朝堂に立たせ、大いに誚り責めた。出発した後、また追い返させ、その開府儀同三司・郡公を解き、単なる刺史とした。
州に至ると、ちょうど陳の侵寇があり、百姓の多くが反乱した。祖珽は城門を閉ざさず、城壁を守る者を皆下城して静かに座らせ、街巷では人の通行を禁断し、鶏犬の鳴き声もさせなかった。賊は何も聞こえず見えず、その所以を測り知れなかった。あるいは人が逃げて城が空になったかと疑い、警備を設けなかった。夜になると、祖珽は突然大声で叫ばせ、鼓噪して天を騒がせた。賊衆は大いに驚き、たちまち散り散りに逃げ去った。後、再び陣を組んで城に向かうと、祖珽は自ら馬に乗って出て、録事参軍王君植に兵馬を率いさせ、なおも親臨して戦った。賊は先に彼が盲目であると聞き、抵抗できないと思っていたが、突然彼が軍中に親しくいるのを見、弓を引き絞って矢を放つと、互いに驚き怪しみ、畏れて退いた。時に提婆は彼を恨んでやまず、城を陥落させ賊に没させようとし、危急と知りながらも、救援を遣わさなかった。祖珽は守りながら戦うこと十余日、賊は遂に奔走し、城はついに保全された。州において卒した。
子の君信は、書史に渉猟し、多くの雑芸に通暁した。位は通直 散騎常侍 を兼ね、陳への使節副使、中書郎となった。祖珽が失脚すると、彼もまた廃免された。
君信の弟君彦は、容貌が短小で、言辞は訥弁であったが、若くして才学があった。隋の大業年間、位は東平郡書佐に至った。郡が翟譲に陥落すると、李密に得られた。密は甚だ礼遇し、記室に任じ、軍書や羽檄は皆その手で成した。密が敗れると、王世充に殺された。
祖珽の弟孝隱もまた文学があり、早くから名を知られた。詞章は兄には及ばないが、機警で口弁があり、音律にも通じていた。魏末に兼 散騎常侍 となり、梁の使節を迎えた。時に徐君房・庾信が来聘し、名声が甚だ高く、魏朝は聞いて重んじた。応対する者は多く一時の俊秀を選び、盧元景の徒は皆階を降りて職を摂り、更に代わる代わる賓客を司った。孝隱は年少ながらその中にあり、世間の評判は称賛した。
孝隱の従父弟の茂は、かなり文辞と情があったが、酒を好み性質が率直で、当時に重んじられなかった。大寧年間、経学をもって本郷に推薦され、給事に任じられたが、病気を理由に辞し、なおも再び仕えなかった。祖珽が重任を委ねられると、茂を呼ばせたが、茂はやむを得ず、暫く来てこれに就いた。祖珽が官に奏上しようとすると、茂は逃げ去った。
祖珽の族弟崇儒は、学に渉り文辞があり、若くして幹局をもって名を知られた。武平末、位は司州別駕・通直常侍となった。周に入り、容昌郡太守となった。隋の開皇初年、宕州長史で終わった。
論じて言う。袁翻兄弟は、一時の才秀と言えよう。聿修の行いと業績もまた家風を墜とさなかった。景文の学義は称賛され、敬安は正しい情をもって自ら立った。休之はこれに藻思を加え、徳を載せる者と言えよう。思伯は経に明らかで行いを修め、まさに家柄の素質である。祖瑩は幹能と芸用があり、実に時の良臣と言う。孝徴は俊才多くとも、まさに国を敗るに足りた。叔鸞は器量・胸襟が清峻で、元景は才幹をもって名を知られ、共に斉の初めを匡佐し、一時に推重された。美しいことかな。
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