北史

巻四十六 列傳第三十四

列傳第三十四

孫紹、張普惠、成淹、范紹、劉桃符、鹿悆、張耀、劉道斌、董紹、馮元興

孫紹は、字を世慶といい、昌黎の人である。若くして学問を好み、経書や史書に広く通じていた。初め校書郎となり、やがて給事中に昇進し、後に門下録事となった。得失を論じることを好み、常景と共に律令を修訂した。延昌年間、孫紹は上表して ことば うには、

臣が聞くところによれば、国を建てるに計略があれば、たとえ危険でも必ず安泰となり、教化を施すに調和があれば、たとえ少なくても必ず盛んになる。政治が人倫の道理に背けば、たとえ合致しても必ず離反し、行動が機会を失えば、たとえ成功しても必ず失敗する。これは古今を通じて同じであり、歴代の君主の定まった法則である。今、二虢と京門には、まったく厳重な防備がなく、南北の二つの中央には、また堅固な守りが欠けている。長安と 鄴城 ぎょうじょう は、股肱としての任を託すべき地であり、穰城と上党は、腹背として頼るべき所である。四軍・五校の制度、領軍・護軍が職務を分掌する方式、兵を徴し糧を蓄える要諦、舟車や水陸の資材、山河の要害を制する権衡、緩急に応じて往来する用務、公平を保って救援に赴く方法、費用を節約して時宜に応ずる法度は、特に整備設置すべきであり、以て堂堂たる基盤を固めるべきである。満ち足りた状態を保つ根本を、どうして軽視できようか。しかも法は清濁を分かつが、清濁は公平でなく、停滞を申し立て望みを理するが、卑賤で貧寒な者も免れている。士人も庶民も共に悲しみ、兵士や徒卒は怨みを抱いている。中正は下里で声望を売り、主案は上臺で筆を舞わせ、真偽が混淆し、知りながら糾弾せず、得る者は喜ばず、失う者は倍の怨みを持つ。門地が同じで身分が等しいのに涇と渭のように大きく異なり、同様に労役に応ずべきなのに苦楽が懸け離れている。士人が官職に就いても、栄誉とは思わず、兵士の労役が苦しければ、必ず乱を忘れない。それゆえ、競って本籍を捨て、他郷に漂い隠れる者がある。あるいは偽名を託して養子となり、人々の中に散り隠れ、あるいは山沢に亡命し、漁猟を以て命をつなぎ、あるいは強豪に杖を投じて、衣食に命を託す。また、移住すべき戸は、諸州の楽しみを追い求め、留まるべき者は、寒さを避けて暖かい所に帰る。職人の子弟は、栄誉に従って浮遊し、南北東西、住居を占って定まらない。関所の禁令が整わず、意のままに適所を取る。このような輩は、数え切れないほどである。爪牙はもはや用を為さず、百工は争ってその業を捨てる。統一の計略は、事実上欠如しており、考課の方法は、責めて成し遂げる日がなく、流浪の徒は、必ず厳密に査定しなければならない。今、強敵は時機を窺い、辺境の民は隙を狙い、国内の人は不平で、長く戍守する者は怨みを抱いている。戦国の勢いであり、ひそかに危ういと考える。必ず禍の源を造る者は、北辺の鎮戍の人々である。もし統一の時代に、公平を用いるのは、大道の計略である。乱離の時期に、縦横に振る舞うのは、権謀の勢いである。それゆえ、道は長く続かず、文質を以て人情を換えねばならず、権謀は恒久的ではなく、盛衰に従って万物を治める。文質が世に応じれば、道の形は自ずから安泰となり、盛衰が中道を得れば、権勢もまた成功する。然らば王者が法の趣旨を計り、万物を化育する規矩は、円方(天地)がその境域を得、人物がその地を失わないことである。また先帝の時、律と令を共に審議したが、律はまもなく施行され、令だけは出されず、十数年になる。臣が思うに、令という体裁は、すなわち帝王の身であり、百官の儀礼を分かち処し、九服の節度を安置するものであり、これこそ有為の枢機、世の法の大本である。然るに令を修訂する人々も皆、古に博く通じ、古制に依って撰び置いたもので、大体 あらわ るべきものがあり、以前の令と比べれば、精粗の所在がある。ただ、主たる議定を行う家柄は、大いに古制を用いる。もし令が古制に依るならば、高祖(孝文帝)の法は、また昇降を要し、誰が意を措いて是非を敢えて言えようか。この争いのゆえに、長く廃棄され処理されない。然るに律と令は互いに必要とし、偏って用いることはできない。今、律は頒布され令は止まり、事柄は甚だ停滞している。もし令が頒布されなければ、典法がなく、臣下が職務を執るに、何に依って行えばよいのか。臣らが律を修訂するのに、勤めを止めなかったわけではないが、署名して下す日に、臣は名がなかった。これは農夫が力を尽くし、他人がその秋の実りを食うようなものであり、功名の所在について、実に鬱屈した思いを抱いている。

正光初年、中書侍郎を兼ねた。孫紹の性質は剛直で、毎度封事を上奏するに、常に懇切を極め、犯顔することを憚らなかった。ただ天性が疎放で、言うことが急に高下し、当時の人々は彼を軽んじ、採用して顧みられなかった。孫紹の兄の世元は箏を弾くのが上手かったが、早世した。孫紹は後に箏の音を聞くと、涙を流して嗚咽し、それを捨てて去った。後に太府少卿となり、かつて朝見の際、霊太后が言うには、「卿は年がやや老いたな。」孫紹は言った、「臣の年齢は老いておりますが、臣の卿(官位)は若うございます。」太后は笑った。右将軍・太中大夫に転じた。

孫紹はかつて百官と共に朝に赴いたが、東掖門が開かず、門を守って夜明けを待った。孫紹は群衆の中で吏部郎中の辛雄を群衆の外に引き寄せ、ひそかに言った、「ここにいる者たちは、まもなく皆死に絶えるであろう。ただ私と卿だけが、なお富貴を享受するであろう。」間もなく、河陰の難が起こった。孫紹は禄命を推すのが巧みで、事が験を呈することが多く、知る者はこれを異とした。

永安年間、太府卿に任ぜられ、以前に『正光壬子暦』の参議を務めた功により、新昌子の爵位を賜った。後に右光禄大夫の任で死去し、尚書左僕射を追贈され、諡を宣といった。子の伯元が爵位を襲った。

張普惠は、字を洪賑といい、常山郡九門県の人である。身長八尺、容貌魁偉で、『三礼』に精通し、兼ねて『春秋』や百家の説に通じていた。太和十九年、主書となり、制局監を帯び、孝文帝にかなり知られた。尚書都令史に転じた。任城王の澄はその学業を重んじ、その名声を高めた。澄が雍州刺史となった時、張普惠を府録事参軍とするよう上奏し、まもなく 馮翊郡 ひょうよくぐん の事務を代行させた。

澄は功衰(父の喪)の身でありながら、七月七日に文武の官を集めて北園で馬射を行おうとした。張普惠は澄に奏記して言うには、

ひそかに聞くところによれば、三殺九親は、親疎の序列を区別し、五服六術は、喪服の心を等しくする。皆、事に因って情を飾り、変易しない道である。然らば、これ以上の痛みは、終身の外に深くあり、書策に記す哀しみは、喪期の内に除かれる。外なるものは節度なくてはならず、故に三年を以て断ち、内なるものは直ちに除くことはできず、故に日月を以て厚くする。ましてや『礼』によれば、大練の日には、素琴を鼓す、これは吉事に就くことを推し進めるためである。小功以上の喪服では、虞祭・祔祭・練祭・除服を経なければ沐浴しない、これは制度によって拘束するのである。曾子が問うて言う、「知人に喪服がある場合、祭りに参与できますか。」孔子は言う、「緦麻の喪服では祭りに参与しない、ましてや他人を助けることなど。」祭りに参与しない以上、宴席で食事する道理はないと疑われる。また言う、「喪服を廃すれば、饋奠の事に参与できますか。」子(孔子)は言う、「喪服を脱いで奠に参与するのは、礼ではない。」注に云う、「哀しみを忘れて病むことをいう。」愚かにも考えるに、喪が除け始めて、饋奠に参与しないのであれば、小功の喪服の内に、どうして射礼を見物できようか。『雑記』に云う、「大功以下の喪服では、葬儀が済んだ後、他人の所に行き、その人が食事を供する。その一族であれば食事を供するが、一族でなければ供しない。」食事でさえ人を選ぶのであるから、馬射を行うことはおそらく適切ではない。伏して拝見するに、明らかな教令として、射会の期限を定め、二七(七月七日)の良辰を以て、城中の文武を集めて北園で武芸を習わせ、その中で揖譲を行おうとされている。時は大閲兵の秋ではなく、景況は農事を妨げる季節に及び、国家は縞衣と禫祭を終えたばかりであり、殿下は功衰をなお襲っている。喪服を脱いで楽しみを行い、以て百姓を訓えることは、すなわち先王の典教を易え、哀戚の情を忘れることであり、おそらく令徳を昭かにし、子孫に示すべきことではない。射儀を案ずるに、射者は礼楽を根本とし、これを忘れて事に従事するのは、礼とは言えず、鐘鼓を設けなければ、楽とは言えない。この二事を捨てて、何のために射を行うのか。また、七日(七月七日)の遊戯は、今の制度にはなく、労をねぎらって施すことは、事体に違う慮りがあり、府庫は空虚であるから、新たな調達を待つべきである。九月まで待つことを乞う。飾りを整え行い尽くした後、然る後に『狸首』の章を奏で、矍相の命を宣べ、軒懸の楽を響かせ、雲鉦を建て、神も人もこの時に欣び暢ぶのである。

張澄はその言を受け入れる意向を示し、辞任を口実に自ら退こうとしたが、答えて言うには、「今は公の制度ではないが、この州は以前からこの方式を承け継いでいる。また、文を修め武を習うのは人の常の技芸である。常の技芸の間に、必ず令制を要するであろうか。《礼記》には、兄弟は内で除喪する、とあり、哀しみは既に減殺されることを明らかにしている。小功の喪では、客が来ても主人は楽を絶たない。楽を聴くことは許されるのに、武を観ることがどうして傷つけようか。ただ事の縁故により止めねばならず、先に令によって停止し、ようやくこの請願を得たのであり、深く来意を具えている。」

張澄が揚州に転任すると、普惠を羽林監として鎮南大将軍開府主簿を兼ねさせた。普惠は既に張澄に知られており、二つの藩国を補佐し、甚だ名声があった。朝廷に戻り、依然として羽林監であった。

張澄が太妃の喪に遭うと、臣僚が碑を立てて頌しようとし、碑題に「康王元妃之碑」としようとした。張澄が普惠に諮ると、普惠は答えて言うには、「謹んで朝典を尋ねますと、ただ王妃があるのみで、元の字はありません。魯の夫人孟子を元妃と称するのは、下の継室の声子と相対させようとするためです。今、烈懿太妃は先王に嫁ぎ、更に声子・仲子のような嫌疑はありません。窃かに思うに、元の字を借りて名位を区別する必要はないと存じます。また、氏を姓に配するのは、 なま 前の称であると愚考します。故に《春秋》に『夫人姜氏、斉より至る』とあります。葬られた後は、諡を姓に配します。故に経文に『我が小君文姜を葬る』と書き、また『来たりて夫人成風の襚を帰す』と言い、皆諡を姓に配しています。古より婦人は夫の諡に従います。今、烈懿太妃は徳が一世に冠たり、故に特に褒賞を蒙り、これは万代の高き事柄です。どうして定名の重きにおいて、『烈懿』と称さないことがありましょうか。」張澄はこれに従った。

後に步兵 校尉 こうい となり、本官のまま河南尹丞を兼ねた。宣武帝が崩御すると、甄楷らと酒を飲み交遊したことで連座し、免官された。故事によれば、免官された者は三年の後、一階降格して叙任されるが、才能優れた者は抜擢任用され、この制限に拘られない。熙平年間、吏部尚書李韶が普惠に文学があると上奏した。才能優れた者の例に依り、詔により寧遠将軍・ 司空 しくう 倉曹参軍に任じられた。朝議は降階しないことを栄誉とした。当時、任城王澄が 司空 しくう であり、表議や書記は多く普惠の手によるものであった。

広陵王恭と北海王顥が、生みの祖母の服喪期間を一年とするか三年とするか疑い、詔により群僚に会議させた。普惠の議は次の通りである。

謹んで案ずるに、二王の祖母は皆先朝より命を受け、二国の太妃となされた。これは天子より命を受け、始封の母と言えよう。《喪服》に「慈母は母の如し」とあり、三年の章にある。伝に曰く、「父の命を貴ぶなり。」鄭玄の注に云う、「大夫の妾の子は、父在世の時は母に大功、士の妾の子は母に期服。父が卒すれば、皆伸びて三年を得る。」これは大夫がその妾の子に命じて、母として慈しむ者と為すもので、なお父の命を貴ぶと言い、そのために三年とする。ましてや天子がその子を列国の王と為し、その生みの母を国の太妃と命じるのに、反って自ら公子が母に練冠や大功を着けるのと同じにすることはない。《伝》に曰く、「始封の君は、諸父昆弟を臣とせず。」とあれば、則ちその親服を服すべきである。もし魯・衛の列国が互いに期服を着けるならば、疑い無きことを判じる。どうしてこれを明らかにするか。《喪服》に「君は姑・姉妹・女子子で国君に嫁いだ者のために」とある。《伝》に曰く、「どうして大功か。尊同じきなり。尊同じければ、則ちその親服を服し得る。諸侯の子を公子と称し、公子は先君を禰とすることは得ない。」然らば兄弟は一体であり、位は諸侯に列し、自ら尊同じきを以て、互いに服し得るのであり、還って公子を基準とし、遠く天王を厭うことはできない。故に降服には四品あり、君・大夫は尊によって降し、公子・大夫の子は厭によって降す。名例が同じでないのに、どうして乱すことができよう。《礼》では、大夫の妾の子は、父の命によって慈しまれたことを以て、その三年を伸ばす。太妃は既に先帝より命を受け、一国に光を昭かす。二王は土茅の社を胙けられ、大邦を顕かに賜る。尊同じきの高き拠り所を捨てて、禰とせざる公子に附するのは、たとえ許・蔡が位を失うようなことがあっても、これに過ぎることはない。《服問》に曰く、「軽きに従いて重きとする有り、公子の妻はその皇姑のために。」公子は厭されるが、妻は尚ほ申し得る。ましてや広陵・北海は、封君を論ずれば封君の子であり、妃を語れば命妃の孫である。妃を承け重きを纂ぎ、先皇と遠く別れ、更に先後の正統を以て、その生みの祖嫡を厭うのは、皇姑に比べて、遥かではないか。今既にその服を申すことを許しながら、復た期服に限るのは、慈母に比べて、爽やかでないか。《経》に曰く、「君の祖父母・父母・妻・長子のために」、《伝》に曰く、「どうして期服か。父母長子は君が斬衰を服す。妻は則ち小君。父卒して、然る後に祖を後とする者は斬衰を服す。」今、祖は献文皇帝であり、諸侯はこれを祖とすることはできない。母は太妃である。これが二王の三年の証である。議者は近く正経に背き、非類に附し、毫毛を差すも、失う所は遠い。且つ天子は尊ければ則ち天に配し、臣妾でない者はない。どうして国母と命じながら、子がその親服を着けることを聴かないのか。《記》に曰く、「従服する者は、従う所の者亡ければ則ち已む。」又曰く、「君母の党のために服さざれば、則ちその母の党のために服す。」今、従う所の者既に亡いのに、親服を以てその生みの者に服さないならば、則ち属従の服は何れの所に施すべきか。もし諸王が入って公卿となることを以て、便ち大夫と同じとするならば、則ち当今の議は皆国を言う必要はない。今の諸王は自ら列国と同じく、国に赴かずとも、別に臣僚を置き、一方に玉食する。どうして諸侯と言わないことがあろうか。

敢えて《周礼》に拠り、 すなわ ち三年に同じくす。

当時の議者にも、同異があった。国子博士李郁は議が罷まった後、書を以て普惠を難じたが、普惠は《礼》に拠り還答し、鄭重に三度反論し、李郁の議は遂に屈した。諫議大夫に転じ、張澄は普惠に言うには、「君が諫議を得たことを喜ばず、唯だ諫議が君を得たことを喜ぶ。」

当時、霊太后の父である 司徒 しと 胡国珍が薨じ、相国・太上秦公を追贈された。普惠は前世において後父に太上の号が無いことを以て、闕に詣で上疏し、その不可を陳べた。左右は畏懼し、敢えて通じる者はいなかった。ちょうど胡家が墳墓を穿ち下ろす際に磐石があったと聞き、密かに上表して言うには、「窃かに見るに、故侍中・ 司徒 しと 胡公は、道を懐き霊を含み、実に聖后を誕せしめ、近枢に克く允の寄を惟り、槐位に居て論道の明を体せり。故に功余りて九錫を加え、鸞纛を褒め仮し、深く聖上の加隆を極め、慈後の至愛を極め、天下に憲章す、亦た可ならずや。然るに太上の号は、窃かに未だ衷からずと謂う。何となれば、《礼記》に曰く、『天に二日無く、土に二王無し、嘗禘郊社、尊に二上無し。』窃かに謂うに、高祖は献文皇帝より禅を受けられた故に、仰ぎ尊んで太上皇と為す。これは上上によって名を生ずる所以である。皇太后は令を称して以て敕下に系ぐ。蓋し三従の道を取り、遠く文母に同じくし、十乱に列する。則ち 司徒 しと を太上と為すは、恐らく系敕の意に乖く。《易》に曰く、『上に困る者は、必ず下に反る。』比して吉兆を定めて克つも、浅きを以て改めて卜す。群心悲惋す。亦た或いは天地の神霊の以て至戒を垂れ、聖情を啓く所以か。伏して願わくは、 司徒 しと の逼同の号を停め、卑下にして逾えざる称に従わんことを。則ち天下幸甚なり。」

太后は表を覧て、自ら国珍の邸宅に至り、五品以上の者を召集して広くこの事を議させた。任城王澄・太傅清河王懌・侍中崔光・御史中尉元匡・尚書崔亮らは皆同様に難色を示したが、普惠はことごとく理をもってこれを正し、屈するところがなかった。廷尉少卿袁翻が言うには、『周官に云う、上公は九命、上大夫は四命、命数は異なるといえども、同じく上と名づく、必ずしも上なるものは皆極尊である必要はない』と。普惠は声を厲して袁翻を呵りて曰く、『礼には下卿・上士あり、何ぞ大夫と公に止まらん。ただ今行われんとする所は、乙太に加うるを以てし、二名を双挙する、極尊でないとは言えぬ。彫虫の小技は、微かに相許すところあれども、この処に至っては、豈に卿の及ぶ所ならんや』と。袁翻は甚だ慚色あり、黙して復言わず。議する者皆、太后が朝に当たり、志を同じくして党順するを以てし、遂に奏して曰く、『張普惠の辞は屈せざるといえども、然れども臣等の同じくする所に非ず。渙汗已に流る、前詔に依ることを請う』と。太后はまた元叉・賈璨を遣わし、令を宣べて普惠に謂いて曰く、『朕の行う所は、孝子の志なり。卿の陳ぶる所は、忠臣の道なり。群公已に成議あり、卿苦しみて朕が懐を奪うべからず。後に見る所あらば、難言することを得ず』と。

初め、普惠が召された時、詔を伝える者が驊騮馬を馳せて来て、甚だ迅速であり、佇立して去ることを催した。普惠の諸子は憂怖して涕泗した。普惠はこれに謂いて曰く、『我れ休明の朝に当たり、諫議の任を掌る。もし言い難きを言わず、諫め難きを諫めずんば、これ唯唯たるのみ、官を曠くし禄を屍すなり。人生に死あり、死その所を得れば、また何をか恨みん。然れども朝廷に道あらば、汝輩憂うる勿れ』と。議が罷みて後、旨を労して邸宅に還り、親故はその幸甚を賀した。

時に中山の杜弼が普惠に書を遺して曰く、『明侯は深儒碩学、身に大才を負い、この公方なるを執り、来たりて諫職に居る。謇謇たること、諤諤たること。一昨、胡 司徒 しと 弟に在りて承るに、当庭面諍し、問難鋒至るといえども、応対響出づ。宋城の帯始めて縈き、魯門の柝裁りて警め、終に群後をして逡巡せしめ、庶僚をして拱默せしむ。一時に見用せられざるといえども、固より已に百代に美を伝う。風を聞きて快然たり、敬みて此の白を裁す』と。普惠はこの書を美とし、毎度口実と為した。

普惠は天下の人調、幅度が長広なるを以てし、尚書が計奏して、復た綿麻を徴するは、人の命に堪えざるを恐る。上疏して曰く、『伏して聞く、尚書が綿麻の調を復するを奏し、先皇の軌を遵うと。夙宵に惟度し、欣戦交集す。仰ぎ惟うに、高祖は大斗を廃し、長尺を去り、重秤を改め、以て万姓を愛し、薄賦に従う。軍国に綿麻の用を須うるを知り、故に幅度の間に云う、億兆応に綿麻の利有るべし、故に絹上に綿八両を税し、布上に麻十五斤を税す。万姓は大斗を廃し、長尺を去り、重秤を改め、軽賦の饒を荷い、綿麻に適するのみに非ず。故に歌舞を以て其の賦に供え、奔走を以て其の勤に役す。信上に行わるれば、則ち億兆下に輸するを楽む。此れより已降、漸く長闊し、百姓嗟怨し、朝野に聞こゆ。伏して惟うに、皇太后未だ朝に臨まざる前、陛下諒暗に居ます日、宰輔其の本を尋ねず、天下の綿麻を怨むを知りて、其の幅広・度長・秤重・斗大なるを察せず、其の弊を革め、存すべきを存し、而して特ち綿麻の調を放ち、以て天下の心を悦ばす。此れ悦ぶに道を以てせざるを謂い、愚臣の以て未だ悦ばざる所以なり』と。

普惠はまた表して朝直の日に、時に奉見を聴くことを乞う。此れより後、月に一度陛見す。また孝明が親しく朝を視ず、過ぎて仏法を崇め、郊廟の事、多く有司に委ぬるを以てし、上疏して曰く、『伏して惟うに、陛下重暉を纂統し、欽明文思、天地心に属し、百神望みに佇つ。伏して願わくは躬を致して郊廟の虔を尽くし、親しく紆りて朔望の沢を垂れ、成均に釈奠し、千畝に心を竭くし、明発寐ず、潔誠を以て禋祼し、孝弟は以て神明に通じ、徳教は以て四海を光らしめん。然る後に三宝に精進し、信心如来に如く。道は化に由りて深く、故に諸漏尽くすべく、法は礼に随いて積み、故に彼岸登るべし。量りて僧寺不急の華を撤し、還た百官久折の秩を復せ。已に興せる構えは、務めて簡成に従い、将来の造りは、権りに停息せしめよ。但だ旧貫に なお らば、亦た何ぞ必ずしも改作せん。庶幾くは節用愛人し、法俗俱に頼らん』と。尋いで別勅を付して外に議し、釈奠の礼を議す。

時に史官が日蝕を克ち、予め勅して朝を罷む。普惠は逆に廃するは礼に非ずとし、上疏してこれを陳ぶ。また表して時政の得失を論ず。一には法度を審かにし、斗尺を平らげ、租調は務めて軽く、賦役は務めて省く。二には輿言を聴き、怨訟を察し、先皇の旧事に政に便ならざる有れば、悉く追改を請う。三には忠謇を進め、不肖を退け、賢を任するに貳せず、邪を去るに疑わず。四には滅国を興し、絶世を継ぎ、勳親の胤は、収叙すべき所なり。書奏す、孝明・霊太后は普惠を宣光殿に引き、事に随いて難詰す。延対移時し、太后曰く、『小小の細務、一一翻動し、更に煩擾と成る』と。普惠曰く、『聖上の庶物を養うは、慈母の赤子を養うが若し。今赤子幾ばくか危壑に臨み、将に水火に赴かんとす。煩労を以てして救わざれば、豈に赤子の慈母に望む所ならんや』と。太后曰く、『天下の蒼生、寧くんぞかくの如き苦事有らんや』と。普惠曰く、『天下の親懿、太師彭城王より重きは莫し。然れども遂に枉死を免れず。微細の苦しみ、何ぞ得て無からんや』と。太后曰く、『彭城の苦しみ、吾已に其の三子を封ず、何ぞ復た言うに足らん』と。普惠曰く、『聖後彭城の三子を封ずるは、天下忻いて至徳を知り、慈母の上に在るを知る。臣の重ねて陳ぶ所以は、凡そ此の如き枉を、乞うらくは聖察を垂れん』と。太后曰く、『卿雲う興滅継絶、意復た誰か是なる』と。普惠曰く、『昔淮南逆終すも、漢文其の四子を封ず。蓋し骨肉の棄つべからざるは、親親なる故なり。窃かに見るに、咸陽・京兆は乃ち皇子皇孫、一徳の虧くや、自ら悔戾を貽す。幽壤に沈淪し、緬焉として収めず、豈に是れ興滅継絶の意ならんや』と。太后曰く、『卿の言理有り、当に公卿をして博議せしめん』と。

任城王澄が薨ずると、普惠は其の恩待を荷い、朔望に奔赴し、禫除に至るまで、寒暑風雨といえども必ず至らざるはなかった。初め、澄は普惠を嘉賞し、薨ずるに臨み啓して尚書右丞と為す。霊太后は既に澄を深く悼み、啓を覧てこれに従う。詔行わるる後、尚書諸郎は普惠の地寒なるを以て、便ち管轄に居るべからずとし、相与に約し、並びて上省を放たんと欲し、紛紜すること多日にして乃ち息む。

正光二年、詔して楊鈞を遣わし蠕蠕主阿那瑰を還国せしむ。普惠はこれを遣わすは後患を貽すと謂い、上疏して極言し其の不可を論ず。表奏従わず。魏子建が益州刺史と為り、贓罪有り、普惠は使わされてこれを験す、事遂に釈るを得、故に子建父子甚だこれを徳とす。時に梁の西豊侯正德が詐りて降款を称し、朝廷頗る当に迎うべき事を為す。普惠は揚州に付し、蕭氏に移還するを請う、従わず。俄にして正德果たして逃げ還る。後に光禄大夫を除かれ、右丞は元の如し。

先に、仇池武興郡の氐がたびたび反乱を起こし、西辺の郡の戍では租税が長らく途絶えていた。詔により普惠は本官のまま持節・西道行台に任じられ、秦・岐・涇・華・雍・豳・東秦の七州の兵武三万人を与えられ、その召募・発動を委ねられた。南秦・東益の二州の兵租を送り、諸戍に分けて交付した。その配下の将帥は、関西の牧守の中から随時召し遣わすことを許された。軍資や板印の類は、すべて自ら携帯させた。事が終わって朝廷に戻ると、絹布一百段を賜った。時に詔して冤屈を尋ね求めると、普惠は上疏し、多くを陳述論議した。出向して東 州刺史に任じられた。淮南の九戍十三郡は、なお梁の以前の弊害により、別郡異県の人が錯雑して居住していた。普惠は順序に従って調査・統合し、郡県を省減し、上表して状況を陳述すると、詔はこれを許した。宰守はこれにより、統轄に方策があり、奸盗は起こらず、人々は便利であると思った。

普惠は財産を営まず、人を推挙することを好み、故旧を厚くした。冀州の人侯堅固は若い時に共に遊学したが、早くに亡くなった。その子の長瑜に対し、普惠は四季ごとに俸禄を請う度に、必ず分け与えて衣食を給した。 州刺史となると、長瑜が官に就くよう取り計らい、その一家を連れて救済し給与した。州で卒去し、諡を宣恭といった。

成淹は、字を季文といい、上谷郡居庸県の人である。文学を好み、気概と節操があった。宋に仕えて員外郎となり、領軍主を兼ね、東陽・歴城を救援した。皇興年間(467-471年)、慕容白曜に降り、朝廷に赴き、兼著作佐郎を授けられた。時に献文帝が仲冬の月に漠北を巡行しようとすると、朝臣は寒さが甚だしいと強く諫めたが、聞き入れられなかった。淹が『接輿釈遊論』を上奏すると、帝はこれを見て、尚書李䐶に詔して言った、「卿ら諸人は成淹の論に及ばず、人の意をよく理解している」。そこで行幸を停止するよう命じた。

太和年間(477-499年)、文明太后が崩御すると、斉はその 散騎常侍 さんきじょうじ 裴昭明・散騎侍郎謝竣らを派遣して弔問に来たが、朝服で行事を行おうとした。主客が許さないと、昭明らは志を変えなかった。孝文帝は尚書李沖に命じて学識ある者を選び、さらに論争させることとした。沖は成淹を派遣するよう奏上した。昭明が言うには、「朝服で礼を行わせないのは、いかなる典拠によるのか」。淹は言う、「玄冠(礼服の冠)を着けて弔問しないことは、子供でも知っている。昔、季孫が行く際に、喪に遭った時の礼を問うたことは、千年の後になってもなお称えられている。卿が今『いかなる典拠によるか』と言うのは、なんと異なることか」。昭明が言う、「斉の高帝が崩御した時、魏は李彪を派遣して弔問させたが、初めから喪服ではなかった。斉朝も疑わなかった」。淹は言う、「彪が弔問した日、朝廷の命令で喪服を携行していた。そちら(斉)が高宗(孝文帝)の遠きを追慕する心に従わず、かえって一ヶ月で吉服に戻った。斉の君臣は皆、すでに鳴玉(礼服の玉飾り)を庭に響かせていた。彪は使者である、どうして一人だけ衰服(喪服)を着て衣冠の列の中にいることができようか。我が皇帝は諒闇(喪中)にあって以来、百官は塚宰(宰相)に聴いている。卿はどうしてこれを以てあちらと比べることができようか」。昭明は膝を揺すりながら言った、「三皇も礼は同じでない。どうして得失の帰するところを知ることができようか」。淹は言う、「もし卿の言う通りなら、卿は虞舜や高宗を非とするのか」。昭明は顔を見合わせて笑いながら言った、「孝でない者については、宣尼(孔子)にすでに成責(定まった責め)がある。使者もまた敢えて言わない。我々は袴褶(騎馬服)しか持参しておらず、弔問には使えない。幸いにも衣冠を借りて、国命を遂げたい。今、魏朝に迫られて、南に帰った日には、必ず本朝で罪を得るだろう」。淹は言う、「そちらに君子がいれば、卿は使命を折衷して遂げ、南に帰った日には、高い賞を受けるべきである。もし君子がいなければ、ただ国に光栄ある誉れをもたらすことを命じられ、道理に合わぬ罪を得たとしても、また何を嫌おうか。南史や董狐が、自ら直筆するであろう」。やがて詔して衣冠を昭明らに与え、翌朝に引見し、皆に文武の礼を尽くして哀悼させた。後に正佐郎となった。

その後、斉はその 散騎常侍 さんきじょうじ 庾蓽・散騎侍郎何憲・主書邢宗慶らを派遣して来聘した。孝文帝は成淹に命じて外館で応接させた。宗慶が成淹に言うには、「南北が連和して久しいのに、近ごろ信義を捨て友好を絶ち、利のために動くのは、大国たる善隣の義であろうか」。淹は言う、「王者たる者は小さな節に拘らず、どうして尾生の信(愚直な信義)にこだわり守ることができようか。かつて斉の先主(蕭道成)は宋朝に歴事したが、当然そのように欺き奪うべきであったのか」。宗慶・庾蓽および従者は皆顔を見合わせて色を失った。何憲は成淹がかつて南朝から来たことを知り、手で目を覆って言った、「卿はなぜ于禁にならずに魯肅になったのか」。淹は言う、「私は逆に背き順に效し、陳平・韓信を追跡しようとしたのだ。于禁のどこがあろうか」。憲もまた答えなかった。

王肅が到着し、皇帝の行幸があった。肅は多く扈従し、詔により成淹が案内役となり、もし古跡があれば、皆に知らせた。朝歌に行き着くと、肅が問うた、「これは何という城か」。淹は言う、「紂の都、朝歌城である」。肅は言う、「さすれば殷の頑民(殷の遺民で周に従わない者)がいるはずだ」。淹は言う、「昔、武王が紂を滅ぼした時、皆河洛の地に居住した。中頃に劉氏・石氏が華夏を乱し、やがて司馬氏に従って東に渡った」。肅は成淹が青州に寓居していたことを知り、笑って言った、「青州にもその余種がいるに違いない」。淹は肅が元は徐州に属していたことを引き合いに出し、「もし青州と言うなら、それは本来その地ではない。徐州の者が今日重ねて来たとしても、知るところではない」。肅は遂に馬上に伏して口を押さえて笑い、侍御史張思寧を顧みて言った、「さっきはただ戯れに言っただけなのに、遂に言い負かされてしまった」。思寧が馬を馳せて報告すると、孝文帝は大いに喜び、彭城王勰に言った、「成淹のこの段は、制勝に足る」。車駕が洛陽に至ると、肅は侍宴の席で、帝が肅に戯れて言った、「近ごろ行幸の途次、朝歌で成淹が卿と大いにやり取りしたと聞く。卿、試みにまたそれを語ってみよ」。肅は言う、「臣は朝歌で失言しました。一度ですら甚だしいのに、どうして再び言えましょう」。遂に大笑いした。肅はまた成淹の才学と弁舌を称え、叙進すべきであると言った。帝は言う、「もしこれによって成淹を進めるなら、卿が辱められることがかえって甚だしくなる恐れがある」。肅は言う、「臣が己を屈して人を達せしめるのは、正に臣の美を顕わすことができます」。帝は言う、「卿が人に屈せられるのに、己を屈した名を求めようとするのは、また卿にとって大いに優遇されたことだ」。肅は言う、「淹が既に進められれば、臣は己を屈して人を申し立てることができます。これはいわゆる、陛下が恵みを与えても費用がかからないということです」。遂に酣笑して止んだ。成淹に龍廄の上馬一匹と、鞍勒などの馬具一式、朝服一襲を賜った。謁者僕射に転じた。

時に遷都があり、帝は成淹の家が貧しいのを慮り、給事力(労役者)を与えるよう命じ、洛陽まで送らせ、家族と共に行かせた。車駕が淮河を渡る時、成淹を召し出せと命じた。淹は路傍で拝謁を請い、言った、「敵を侮ってはなりません。願わくば聖明なる陛下に万全の策を保たれますように。伏して聞くに、洛陽を発って以来、諫言する者は皆、官を解かれ職を奪われたと。これは聖明なる陛下が臣下の意見を受け入れる義ではないかと恐れます」。帝は寛大に受け容れた。

帝が徐州に行幸した時、成淹と閭龍駒に命じて専ら舟楫を主管させ、泗水から黄河に入り、流れを遡って洛陽に還ろうとした。軍が磝碻に駐屯すると、淹は黄河が深く流れが急なのを慮り、転覆の危険があると考え、上疏して諫めた。帝は成淹に詔して言った、「朕は恒州・代州に運漕の路がないため、京邑の人が貧しいと考えた。今、伊水・洛水の地に遷都し、四方に運路を通じさせたい。黄河は流れが急で、人は皆渡るのが難しい。我はこの行幸によって流れに乗り、以て百姓の心を開こうとするのだ。卿の誠意が至っているが、受け入れることができないことを知っている」。驊騮馬一匹と衣冠一襲を賜った。羽林監・主客令に任じられた。

当時、宮殿が築かれ始め、材木を運ぶ日量は万を数えた。伊水・洛水には流氷があり、渡るのに苦労した。淹は上奏して都水に命じて浮橋を造らせるよう求めた。帝はこれを賞賛して受け入れ、衆人の前で成淹を栄誉ある者にしようとした。朔旦(月の初めの朝)に朝賀を受ける時、百官が在位する中で、帛百匹を賜い、左右二都水の事務を管掌させた。景明三年(502年)、出向して平陽太守となった。朝廷に戻り、病没した。光州刺史を追贈され、諡を定といった。

子の宵は、字を景鸞といい、文詠を好んだが、坦率で多く鄙俗であり、河東の姜質らと朋遊して親しくし、詩賦をしばしば作ったが、知音の士から共に嗤笑された。書侍御史の任で卒去した。

范紹は、字を始孫といい、燉煌郡の龍勒県の人である。幼少より聡明であった。十二歳の時、父の命で学問に就き、崔光に師事した。父の喪のため学業を廃した。母はまたこれを戒めて言うには、「汝の父が亡くなった日に、汝を遠く崔生の許に就かせ、稀に成り立つことを望んだ。今は既に期を過ぎている。宜しく成命に従うべし」と。范紹は還って学に赴いた。太和の初め、太学生に充てられ、算生に転じ、経史に広く渉った。孝文帝は彼を選んで門下通事令史とし、録事に遷し、奏上文書を掌らせた。帝はこれを善しとし、また侍中の李沖・黄門の崔光に知られた。帝はかつて近臣に謂って言うには、「崔光が従容たるは、范紹の力である」と。後に朝廷に南討の計画があり、河北数州の田兵を発し、淮水沿いの戍兵を通じて合わせて五万余人とし、広く屯田を開いた。八座は范紹を西道六州営田大使とし、歩兵 校尉 こうい を加えることを奏上した。范紹は勧課に勤め、連年大いに収穫を得た。また詔により 都督 ととく ・中山王の元英と共に鐘離攻略を論じた。范紹はその城塁を観察し、陥とすべからざるを恐れ、班師を勧めたが、元英は従わなかった。范紹は還り、詳しく状況を奏上した。間もなく元英は敗れた。後に歴任して へい 州刺史・太常卿となった。孝荘帝の初め、河陰で害に遇った。

劉桃符は、中山国盧奴県の人である。生まれて父を知らず、九歳で母を喪った。性質は恭謹で、学問を好んだ。孝廉に挙げられ、射策で甲科となった。雑職を歴任し、累遷して中書舎人となった。勤勉明察で知られ、久しく職を遷さなかった。宣武帝は彼に言うには、「揚子雲(揚雄)が黄門となって、頓に三世を歴た。卿がこの任に居ること始めて十年、辞すに足らぬ」と。東 州刺史の田益宗は辺境に居て貪婪汚穢であり、宣武帝は頻りに詔して劉桃符に慰諭させた。劉桃符は還り、田益宗が老耄であり、その諸子が道理に非ざる処物であると詳しく称した。宣武帝は後に彼を代えようとしたが、その背叛を恐れ、劉桃符を東 州刺史に拝し、後将軍の李世哲と共に衆を率いて田益宗を襲わせた。語りは『益宗伝』にある。劉桃符は蛮左を善く恤れ、人吏に懐かれた。久しくして、召し還された。病没し、洛州刺史を追贈された。

鹿悆は、字を永吉といい、済陰郡乗氏県の人である。祖父の寿興は、沮渠氏の庫部郎であった。父の生は、再び済南太守となり、政績があった。献文帝はその能を嘉し、特に召して季秋の馬射に赴かせ、驄馬を賜い、青服を加えて、その廉潔を顕わした。時に三斉は始めて附き、人は いやしく 且を懐き、蒲博に終日し、農業を頗る廃した。生は制を立ててこれを断ち、聞く者は善しと嘆いた。後に淮陽太守の任で卒し、兗州刺史を追贈された。悆は兵書・陰陽・釈氏の学を好み、彭城王の元勰が召して館客とした。かつて徐州に詣でる時、馬が疲れ、船に附して大梁に至った。夜に眠り、従者が上岸し、禾四束を窃んで馬に飼った。船が数里行き、悆が覚め、直ちに船を停めて禾を取った処に至り、縑三丈を禾束の下に置いて返った。

初め真定公の子直の国中尉となり、常に忠廉の節を以て勧めた。かつて五言詩を賦して言うには、「嶧山の万丈の樹、雕鏤して琵琶と作す、此の材の高遠に由り、絃響は中華に藹たり」と。また言うには、「琴を援げて何の調を起す?幽蘭と白雪と、絲管の韻未だ成らず、絃響を絶えしむる莫れ!」と。子直は少より令聞があり、悆はその善終を欲し、故に以て諷したのである。後に子直に随って梁州を鎮め、州に兵糧の和糴があり、和糴する者は屋を潤さざるはなく、悆は独り取らなかった。子直が強いても、終に従わなかった。

孝荘帝が御史中尉となると、悆は殿中侍御史を兼ね、臨淮王の元彧の軍を監した。時に梁がその 章王の蕭綜を遣わして徐州を拠らせたが、蕭綜は密信を元彧に通じ、帰款せんと欲すと云った。衆議は然らずと謂ったが、悆は遂に行くことを請い、言うには、「蕭綜が誠心ならば、之と盟約せん。其の詐りならば、豈に一人の命を惜しまんや!」と。時に徐州は始めて陥ち、辺方は騒擾し、蕭綜の部将の成景俊・胡龍牙は並びに強兵を総べ、内外厳固であった。悆は遂に単馬で間道より出で、径ちに彭城に向かった。未だ至らざる間に、蕭綜の軍主の程兵潤に止められた。其の来たる状を問う。悆は言うには、「我は臨淮王に使わされた者なり」と。兵潤は人を遣わして龍牙らに告げた。蕭綜は既に誠心あり、悆が捕えられたと聞き、景俊らに語って言うには、「我は毎に元略が城を叛かんと規るを疑い、将に虚実を験さんとし、且つ左右を元略の使と為し、魏軍中に入れて彼の一人を喚ばしむ。其の使果たして至らば、人をして詐りに略の身と作り、一の深室に在り、患状を托け、使を戸外に呼び、人をして伝語せしむべし」と。時に元略は始めて梁の武帝に追還されたばかりであった。蕭綜はまた腹心の人梁話を遣わして悆を迎えさせ、密かに意状を語り、善く酬答せしむるを令した。悆を引いて龍牙の所に詣らせた。龍牙は悆に語って言うには、「元中山(元略)は甚だ相見えんと欲す、故に卿を喚ばしむ」と。また言うには、「安豊・臨淮は、将少なく卒弱く、此の城を規復せんとす、容るべくして得んや?」と。悆は言うには、「彭城は魏の東鄙、勢い必争に在り、可否は天に在り、人の測る所に非ず」と。龍牙は言うには、「卿の言う如くすべし」と。また景俊の住所に詣で、悆を外門に停め、久しくして未だ入らず。時に夜は既に深く、蕭綜の軍主の薑桃が来て悆と言い、謂って言うには、「元法僧は魏の微子、城を抜きて梁に帰す、梁主は物を待つに道あり」と。乃ち上を指して言うには、「今歳星は斗に在り、呉の分野なり、君何ぞ梁国に帰らざる?」と。悆は答えて言うには、「法僧は莒僕の流れ、而るに梁は之を納る、季孫に愧じること有らんや!今月は鶉首を建て、斗牛は破れを受く、歳星は木なり、逆に之を克つ、呉国敗喪すること久からず。且つ衣錦して夜に遊ぶは、識有る者は許さず」と。言未だ尽きず、乃ち引入れて景俊に見えしむ。景俊は良久くして謂って言うには、「卿は刺客に非ざるか?」と。答えて言うには、「今者は使と為り、本朝に命を反さんと欲す、相刺の事は、更に後図を卜せん」と。食を設け、悆は強いて飲み多く食し、敵数人に向かい、微かに自ら誇矜した。諸人相謂って言うには、「壮なるかな!」と。乃ち元略の所に向かわせ、一人が引入れて戸に至り、床を指して坐を令す。一人別に室中より出で、悆に謂って言うには、「中山王に教え有り:'我昔より南に向かうこと有り、且つ相喚ばしめ、卿に事を問わんと欲す。晚来患動し、相見うることを獲ず。'」と。遂に辞して退く。須臾にして天曉け、蕭綜の軍主の范勖・景俊の司馬の楊暼票ら、競いて北朝の士馬の多少を問う。悆は士馬の盛んなるを陳ぶ。尋いで梁話と盟契を訖える。十日と経たず、蕭綜は降りて詔し、悆を定陶県子に封じ、員外 散騎常侍 さんきじょうじ を除した。永安年中、右将軍・給事黄門侍郎となり、爵を進めて侯と為す。任は通顕に居れども、志は謙退に在り、親賓を迎送するに、疇昔に加えたり。而して自ら屋宅無く、常に賃借して居止し、布衣糲食、寒暑変ぜず。孝荘帝はその清潔を嘉し、時に復た銭帛を賜う。

及び東徐州の城人呂文欣が刺史の元大賓を殺し、南して梁人を引きいれると、詔して悆を使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・安東将軍として六州大使とし、行台の樊子鵠と共に討ち破らしめた。悆はまた購を懸けて文欣を斬らしめた。還り、金紫光禄大夫を拝し、尚書右僕射・東南道三徐行台を兼ねた。 都督 ととく の賀抜勝らと共に爾朱仲遠を拒ぐが、軍敗れて京に還る。

天平年中、梁州刺史を除された。時に 滎陽 けいよう の人鄭栄業が反し、州城を囲んだ。城は降り、栄業は悆を関西に送った。

張耀は、字を景世といい、自ら雲うには南陽郡西鄂県の人である。魏に仕え、累遷して歩兵 校尉 こうい となった。永寧寺塔が大いに興り、経営務めて広し。霊太后はかつて作所に幸し、凡そ顧問有るに、耀は敷陳指画し、遺闕する所無く、太后は之を善しとした。後に別将となり、軍功を以て長平男に封ぜられた。岐州刺史・東荊州刺史を歴任した。

天平の初め、鄴に遷都し草創の際、右僕射高隆之・吏部尚書元世俊が奏上して言うには、「南京(洛陽)の宮殿を撤去して都に運送し、筏を連ねて河を下り、首尾大いに至る。賢明なる一人をして専ら受納を委ねざれば、則ち材木の耗損を恐れ、経構(宮殿造営)に関わる。張耀は清直素より著しく、一時に称えられる。臣等は輒ち大将に挙げる。」詔してこれに従う。耀はその事に勤め、尋いで営構左都將に転ず。興和の初め、衛大將軍を加えられる。宮殿成り、東徐州刺史を除く。州において卒す。 司空 しくう 公を贈られ、諡して懿という。

劉道斌は、武邑郡灌津県の人である。器量と幹才あり、腰帶十圍(太い)、鬚髯甚だ美し。初め校書郎に拝され、主書に転じ、頗る孝文帝に知られる。南陽に従征し、還りて積射將軍・給事中を加えられる。帝、黄門郎邢巒に謂いて曰く、「道斌はこの行(出征)、便ち儕流(同輩)と異なる。」宣武帝即位し、謁者僕射に遷る。後に恒農太守・岐州刺史を歴任し、所在に清貞の称あり。州において卒す。諡して康という。道斌は恒農において、学館を修立し、孔子廟堂を建て、形像を図画す。郡を去った後、故吏そのことを追思し、復た道斌の形を孔像の西に立てて拜謁す。

董紹は、字は興遠、新蔡郡鮦陽県の人である。少より学を好み、頗る文義あり。四門博士より起家し、累遷して兼中書舍人となり、宣武帝に賞せられる。 州の城人白早生が城南を以て叛く。詔して紹を慰労せしむ。賊に鎖禁され江東に送られる。梁の領軍呂僧珍、暫く紹と言を交わし、便ち相器重す。梁武帝これを聞き、使を遣わして紹を労い云う、「忠臣孝子は之無くすべからず。今まさに卿をして還国せしめん。」紹曰く、「老母洛に在り、復た方寸(心)無し。既に恩貸を奉ずれば、実に更生の若し。」乃ち引見して之に謂いて曰く、「戦争多年、人物塗炭す。是を以て先言を恥とせず、魏朝と通好せんと欲す。卿宜しく此の意を備え申すべし。若し通好を欲せば、今宿 を以て彼に還し、彼まさに漢中を以て見し帰すべし。」紹の還るに及び、和計を陳説すと雖も、朝廷許さず。後に洛州刺史を除く。紹は小恵を行なうを好み、頗る人情を得る。蕭寶夤、長安に反す。紹上書して之を撃たんことを求め、云う、「臣まさに瞎巴三千を出だし、生に蜀子を啖わん。」孝明帝、黄門徐紇に謂いて曰く、「此の巴は真に瞎なるか。」紇答えて曰く、「此は紹の壮辞なり。巴人の勁勇なるを云い、敵を見て畏るる所無きを、実に瞎なるに非ずと。」帝大笑し、紹に速やかに行かんことを敕す。寶夤を拒ぐ功により、新蔡県男を賞される。爾朱天光、関右大行台と為り、啓して大行台從事・兼吏部尚書と為す。天光敗れ、賀拔岳復た紹を請いて其の開府諮議参軍と為す。岳後に紹を携えて高平に馬を牧す。紹悲しみて詩を賦して曰く、「走馬 山の阿、馬渴いて黄河を飲む。 なん ぞ胡関の下に謂えん、復た楚客の歌を聞かんとは!」岳死し、周文帝も亦之を重んず。孝武帝西遷に及び、御史中丞を除く。其の好む所に非ず。鬱鬱として志を得ず、或いは街衢を行き戲れ、或いは少年と游聚し、自ら拘持せず、頗る性を失えるに類す。孝武帝崩じ、周文と百官推奉して文帝とし、表を上りて勸進す。呂思禮・薛憕に表を作らしむ。前後再び奏す。帝尚た謙沖を執りて許さず。周文曰く、「文を為して能く至尊を動かすは、唯だ董公のみ。」乃ち紹をして第三の表を為さしむ。筆を操れば便ち成る。表奏し、周文曰く、「人の意を開進するは、かくの如くならざるべけんや。」登祚に及び、方に之を用いんとす。而るに紹朝廷を議論し、死を賜う。孫嗣ぐ。

馮元興は、字は子盛、東魏郡肥郷県の人である。少より操尚あり。秀才に挙げられ、中尉王顯召して檢校御史と為し、殿中御史に遷る。 司徒 しと 江陽王元繼召して記室参軍と為し、遂に元叉に知られる。叉朝政を執り、引いて尚書殿中郎と為し、中書舍人を領し、仍御史たり、時事に預かり聞く。身を卑しく己を克し、人恨むこと無し。家素より貧約、食客恒に数十人、其の饑飽を同じくし、時人歎尚す。太保崔光臨薨、元興を薦めて侍讀と為し、尚書賈思伯を侍講と為し、孝明帝に《杜氏春秋》を授く。元興常に擿句を為し、儒者之を榮しむ。叉既に死を賜わり、元興も亦廢せらる。乃ち《浮萍詩》を為して以て自ら喻して曰く、「草有り碧池に生え、根無く水上に ただよ う。脆弱風波を にく み、危微驚浪に苦しむ。」普泰の初め、光祿大夫・領中書舍人と為る。太昌の初め、家に卒す。齊州刺史を贈られる。元興世寒し、元叉の勢いに因り、其の交道に托し、相用いて州主簿と為る。論者以て倫に非ずと為す。

時に濟郡の曹昂有り。学識有り、秀才に挙げらる。永安年中、太學博士・兼尚書郎を除く。常に徒步にて省に上り、以て清貧を示す。忽ち盗に遇い、大いに綾縑を失う。時人其の矯詐を鄙しむ。

論じて曰く、孫紹は関左の士にして、又能く時務を指論す。張普惠は典故に明達し、強直に官に従い、侃然として たわ まず、其れ王臣の風有り。成淹・范紹・劉桃符・鹿悆・張耀・劉道斌・董紹・馮元興等、身遭際會し、俱に其の能を效うるを得たり。苟も才に非ずと曰わば、亦何ぞ能く此に致さんや。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻046