北史

巻四十四 列傳第三十二

列傳第三十二

崔光(子の劼、弟子の鴻)、崔亮(從弟の光韶、叔祖の道固)

崔光は、清河の人である。本名は孝伯、字は長仁といい、孝文帝が名を賜わった。祖父の曠は、慕 まさ 徳に従って南に黄河を渡り、青州の時水に居住した。慕容氏が滅びると、宋に仕えて楽陵太守となった。河南に冀州を立て郡県を置いた際、即ち東清河郡の鄃県の人となった。県の分割変更により、後に南平原郡の貝丘県の人となった。父の霊延は、宋の長広太守であり、宋の冀州刺史崔道固と共に魏軍に抵抗した。慕容白曜が三斉を平定した時、崔光は十七歳で、父に従って代に移住した。家は貧しかったが学問を好み、昼は耕作し夜は誦読し、書を傭って父母を養った。

太和六年、中書博士・著作郎に任ぜられ、秘書丞の李彪と共に国史の編纂に参与し、再び給事黄門侍郎に転じた。大いに孝文帝に知遇され、常に「孝伯の才は浩浩として黄河の東に注ぐが如く、まさに今日の文宗である」と言われた。遷都の謀議に参賛した功により、爵位を朝陽子と賜わった。 散騎常侍 さんきじょうじ に任ぜられ、著作の職は元のままとし、兼ねて太子少傅を務めた。また本官のまま侍中・使持節を兼ね、陝西大使として巡察し、地方を視察した。経過した地で古事を述べ、詩三十八篇を賦した。帰還後も依然として侍中を兼ねた。謀議の功により、爵位を伯に進めた。崔光は若い時から大度であり、喜怒は色に現れなかった。自分を誹謗悪罵する者があれば、必ず善言をもって報い、誣告誹謗されても、終に自ら曲直を申し立てなかった。皇興の初め、同郡の二人が共に捕らえられ奴婢となったが、後に崔光のもとに来て哀願した。崔光は二人の身代金を出して解放した。孝文帝はこれを聞いて賞賛した。機密に近い地位にあっても、文書案牘に心を留めることはなく、ただ従容として議論し、大政を参賛するのみであった。孝文帝はしばしば群臣に対し「崔光の高才大量をもってすれば、もし意外の咎譴がなければ、二十年後には 司空 しくう となるであろう」と言った。そのように重んぜられたのである。

宣武帝が即位すると、正式に侍中に任ぜられた。初め、崔光は李彪と共に国史を撰していたが、太和の末、李彪が著作の職を解かれると、史事は専ら崔光に委ねられた。李彪はまもなく罪を得て免官となった。宣武帝が諒闇(喪中)にあった時、李彪は上表して『魏書』完成を求め、詔によって許された。李彪は白衣の身分で秘書省において著述した。崔光は史官を領していたが、李彪が専功を意とするのを慮り、上表して侍中・著作の職を解き、李彪に譲ろうとした。宣武帝は許さなかった。太常卿に転じ、斉州大中正を領した。

正始元年夏、典事の史元顕が四足四翼の鶏を献上した。詔により散騎侍郎の趙邕が崔光に意見を問うた。崔光は上表して言った。

臣が謹んで案ずるに、『漢書』五行志に、宣帝の黄龍元年、未央殿の路軨中で雌鶏が雄に化し、羽毛は変わったが鳴かず、群れを率いず、距もなかったとある。元帝の初元年中、丞相府の史の家で雌鶏が子を孵していたが、次第に雄に化し、冠と距が生え、鳴き、群れを率いた。永光年中、雄鶏が角を生やして献上されたことがあった。劉向は、鶏は小畜であり、時を司り起居を主るもの、小臣が政事を執る象であると考えた。小臣が君主の威を乗じて政事を害することを言い、石顕のような者であるとした。竟寧元年、石顕が罪に伏したのは、この効験である。霊帝の光和元年、南宮寺の雌鶏が雄に化そうとし、全身は雄のようであったが、頭の冠だけは変わらなかった。詔して議郎の蔡邕に問うた。蔡邕は答えて言った。「貌が恭しからなければ、則ち鶏禍がある。臣が窃かに推すに、頭は元首であり、人君の象である。今、鶏の全身は既に変わったが、頭に至るまでは変わっておらず、しかも上(君主)がこれを知っている。これは事が起こりそうであるが、遂に成し遂げられない象である。もし政を改めなければ、頭の冠も完成し、患いはますます大きくなるであろう。」その後、張角が乱を起こし、黄巾賊と称し、遂に四方を破壊し、賦役に疲弊して多くの者が叛いた。上(君主)が政を改めなかったため、遂に天下は大乱に至った。今の鶏の形状は異なるが、その応ずるところは甚だ類似している。劉向・蔡邕は共に博達の士であり、物を考へ事を験し、信ずるに足る証拠がある。誠に畏るべきである。臣が蔡邕の言葉を推すに、翅や足が多いこともまた、群下が相扇ぎ助ける象である。雛でありまだ大きくなく、腳や羽がやや小さいことも、その勢いが尚微かで、制禦し易いことを示している。

臣は聞く。災異の現れるは、皆吉凶を示すためである。明君はこれを見て懼れ、乃ち福を招くことができ、暗主はこれを見てますます怠慢となり、用いて禍を致す。『詩』『書』『春秋』、秦・漢の事跡は多い。これらは皆、陛下がご覧になるところである。今、或いは賤しきより貴きに至り、政事に関与する者がいる。これは恐らく前代の君房(石顕)の匹敵する者であろう。近頃、南境では死者が千を数え、白骨が野に横たわり、生き残った者には酷い恨みの痛みがあり、死んだ者は怨傷の魂となっている。義陽に駐屯する軍は、盛夏になっても未だ帰還せず、荊蛮は狡猾で、征人は長く留まっている。東州からの輸送は、多くは往くだけで還らず、百姓は困窮し、絞縊して死ぬ者さえいる。北方では霜が降り、蚕を飼う婦人は仕事を止める。衆生の憔悴は、今より甚だしいことはない。これもまた賈誼が哭歎し、穀永が切諫した時節である。司寇が刑戮を行えば、君は酒宴を挙げず、陛下は人の父母として、矜み恤れむべきである。国は戦争を重んじ、兵を用いるは猶ほ火の如し、内外に怨み弊え、乱離し易い。陛下は仮に天下を忽せにしようと欲しても、豈に太祖がこれを取る艱難、先帝が経営した労苦を仰ぎ思わぬことがあろうか。誠に願わくは、陛下には聡明の鑑を留め、天地の意に警め、左右を礼遇し、その貴越を節すること。往昔の鄧通・董賢の盛んなりしは、愛するが故に却ってこれを害したのである。また、自ら饗宴を挙げることが稀で、宗族を宴することを欠くことがある。時に応じて親しく郊廟を享け、諸父を延いて敬うべきである。四方を検訪し、務めて休息を加え、慈旨を発して、貧しき者や病める者を撫で振るうこと。山池の費用を簡素にし、声楽飲宴を減撤し、昼は政道を存し、夜は身を安んずること。芻蕘(草刈りや薪取り、転じて卑賤の者の意見)を博く採り、賢を進め佞を退けるならば、兆民は幸甚であり、妖は消え慶びが進み、禎祥が集まるであろう。

帝はこれを覧めて大いに喜んだ。数日後、茹皓らが皆罪を得て法に伏し、これにより崔光を礼遇することますます重くなった。

二年八月、崔光は上表して言った。「去る二十八日、物が太朽(太廟の倉庫か)の西序より出でました。勅をもって臣に示されました。臣がその形状を案ずるに、即ち『荘子』に所謂『蒸して菌と成る』ものであります。また『朝菌は晦朔を終えず』とも云います。雍門周の称する所の『蕭斧を磨いて朝菌を伐つ』とは、蒸気が鬱然として長ずることを指し言い、根種があるのではなく、柔脆の質は、凋ち殞ち易く、旬月を延ばさず、蕭斧に擬するに足らぬものです。また多くは墟落の穢れた湿った地に生じ、殿堂の高く華やかな所に起こることは稀です。今、極宇は崇麗で、壇築は工密であり、朽ちた翼も加わらず、沾濡も及ばないのに、この菌が忽然と構え、その状は扶疏(枝葉が茂るさま)で、誠に異とすべきです。野木が朝廷に生じ、野鳥が宗廟に入ることは、古人は敗亡の象と為しました。然しながら災を懼れて徳を修めれば、皆休慶を致し、所謂家が利あれば怪が先立ち、国が興れば妖が予め現れるものです。故に桑穀が庭に拱き、太戊は以て昌え、雊雉が鼎に集まり、武丁は以て熙(栄)えたのであります。近頃、鴟鵲が廟殿に巣くい、梟 ふく が宮寢で鳴き、菌が賓階や軒坐の正面に生じることは、往昔の記録に準えれば、信じて誡めと為すべきです。且つ東南は未だ静かならず、兵革は止まず、郊甸の内は大旱が時を跨ぎ、人は労し物は悴み、これより甚だしいことはありません。天子の養育を承ける者は矜み恤れむべきです。伏して願わくは、陛下には殷の二宗(太戊・武丁)が変異を感ずるの意を追い、躬を側め誠を聳やかし、聖道を惟新し、夜飲の忻(喜び)を節し、朝禦の膳を強め、方に富める年を養い、金玉の性を保たれますように。然らば魏の祚は永く隆盛と為し、皇寿は山嶽に等しくなるでしょう。」

四年、中書舎人に任ぜられる。永平元年秋、元愉の妾李氏を誅せんとし、群官に敢えて言う者なし。詔を光に作らしむるを敕す。光は逡巡して作らず、奏して曰く、「伏して聞く、元愉の妾李を刑せんとし、屠割を加えんとすと。妖惑して乱を扇ぎしは、誠に此の罪に合う。但だ外人窃かに云う、李は今妊を懐き、例として産を分つを待つと。且つ臣、諸の旧典を尋ね、兼ねて近事を推すに、戮して刳胎に至るは、之を虐刑と謂い、桀・紂の主にして、乃ち斯の事を行えり。君の挙は必ず書し、義として隠諱無し。酷にして法に乖けば、何を以て後に示さん。陛下の春秋既に長し、未だ儲体無く、皇子繈褓にて、夭失するに至る。臣の愚識、知りて言わざる無し。李の獄を停め、以て育孕を俟たんことを乞う」と。帝之を納る。

延昌元年、 中書監 ちゅうしょかん に遷り、侍中は故の如し。二年、宣武帝東宮に幸し、光と黄門の甄琛・広陽王深等を召し並びに坐を賜い、光に詔して曰く、「卿は朕が西台の大臣なり、当に太子の師傅と為すべし」と。光起ちて拝し固く辞す。詔して許さず。即ち明帝を出ださしめ、従者十余人、光を傅と為すの意を以て敕し、明帝に光を拝せしむ。光又拝して辞し、太子の拝を受くべからずとす。復た許さるることを蒙らず。明帝遂に南面して再拝す。詹事王顕、太子に従い拝せんことを啓請す。ここにおいて宮臣畢く拝す。光北面に立ち、敢えて答拝せず、唯だ西面して拝謝して出づ。ここにおいて光に繍采一百匹を賜い、琛・深各差有り。尋いで太子少傅を授け、右光禄大夫に遷り、侍中・監は故の如し。

四年正月、宣武帝夜に崩ず。光と侍中・領軍将軍于忠、明帝を東宮に迎え、内外を安撫す。光力有り。帝崩後の二日、広平王懐、疾を扶けて入臨し、母弟の親を以て、径ちに太極西廡に至り、禁内に哀慟す。侍中・黄門・領軍二衛を呼び、身殿に上り大行を哭さんと欲し、又須らく主上に入見せんと云う。諸人皆愕然として相視い、敢えて抗対する者無し。光独り衰を攘ぎ杖を振い、漢の光武初めて崩じ、太尉趙熹剣を横たえて階に当たり、親王を推し下げし故事を引き、辞色甚だ し。聞く者称善せざる莫く、光の理義に据え有るを壮とす。懐声泪俱に止み、曰く、「侍中古事を以て我を裁く、我敢えて服せざる無し」と。ここにおいて遂に還り、頻りに左右を遣わして致謝す。

初め、永平四年、黄門郎孫恵蔚を以て光に代わり著作を領せしむ。恵蔚首尾五年、措く懐う所無し。ここに至り、 尚書令 しょうしょれい ・任城王澄、表して光宜しく史任に還るべしとす。ここにおいて詔して光に還り著作を領せしめ、特進に遷す。明帝を奉迎しし功を以て、博平県公に封ぜられ、国子祭酒を領す。詔して 歩挽 ほばん に乗じ雲龍門に出入するを許す。尋いで車騎大将軍・儀同三司に遷る。霊太后朝に臨みて後、光累表して位を遜る。于忠権を ほしいまま にす。光之に依附す。忠 やや く疏黜せらるるに及び、光並びに章綬冠服茅土を送り、表十餘上に至る。霊太后優詔を以て答え許さず。有司、于忠及び光の封邑を追うことを奏す。熙平元年二月、太師・高陽王雍等、挙げて光に明帝の経を授けしむるを奏す。初め、光、霊太后に徳有り。四月、更に光を平恩県侯に封じ、朝陽伯を以て第三子勖に転授す。其の月、敕して羊車一乗を賜う。

時に霊太后朝に臨み、毎に後園に於いて親しく弓矢を執る。光乃ち表を上し中古婦人の文章を以て、因りて以て諫め致す。是の秋、霊太后頻りに王公の第宅に幸す。光表を上し諫めて曰く、「『礼記』に云う、諸侯疾を問い喪を弔うに非ざれば、諸臣の家に入る、之を君臣謔を為すと謂う。王后夫人を言わざるは、臣家に適するの義無きを明らかにす。夫人父母在れば、時に帰寧有り。親没すれば、卿大夫をして聘せしむ。『春秋』陳・宋・斉の女を紀し並びに周王后と為すも、本国に適する事無し。是の制は士大夫に深し。許嫁して兄を唁うは、又義を得ず。衛の女帰らんと思うも、礼を以て自ら抑う。『載馳』・『竹竿』の為に作る所なり。漢の上官皇后将に昌邑を廃せんとし、霍光外祖なり、親しく宰輔と為すも、後猶お武帷を禦えて以て群臣に接し、男女の別を示す。国の大節なり。伯姬姆を待ち、安んじて炎燎に就く。樊薑命を候い、忍びて洪流に赴く。『伝』皆綴集し、以て来訓を垂る。昨軒駕頻りに出で、馮翊君・任城王の第に幸す。漸く中秋と雖も、餘熱尚お蒸す。衡蓋往還し、聖躬煩倦す。左右僕侍、衆千百を過ぎ、扶衛跋渉し、袍鉀身に在り。昔人、陛下甚だ楽しく、臣等至って苦しと称するは、或いは其の事ならん。但だ帝族方に衍り、勲貴増遷し、祗請遂に多し、将に彝式と成らんとす。陛下前王に遵酌し、厥の後矩を貽し、天下を公と為し、億兆己が任とす。専ら郊廟に薦め、止めて大政を決し、神を輔け和を養い、遊幸を簡息せば、則ち率土頼むに属し、生を令して仰ぎ悦ばしめん」と。

神亀元年、光表して曰く、「石経の作を尋ぬるに、炎劉より起る。昔来屡たび戎乱を経ると雖も、未だ大いに崩侵せず。聞く所に往くに、刺史州に臨み、多く図寺を構え、官私顕隠、漸く加えて肅撤す。ここに由りて経石弥く減じ、文字缺を増す。今国子博士一人、 もと 事に堪うる者を遣わし求め、専ら主として周視せしめ、田牧を駆禁し、其の践穢を制し、碑牒の失いし次第を料閲し、厥の補綴を量らんことを乞う」と。詔して曰く、「此れ乃ち学者の根原、不朽の永格なり。便ち可く一に公の表に依るべし」と。光乃ち国子博士李郁と助教韓神固・劉燮等に令し石経を勘校せしむ。其の残缺する、石功を計料し、並びに字の多少を以て、補修せんと欲す。後霊太后廃せられ、遂に寝す。

二年八月、霊太后永寧寺に幸し、躬く九層の仏図に登る。光表を上し諫めて曰く、「伏して見るに、親しく上級に升り、蹕を佇めて表刹の下にし、祗心図構す。誠に福善と為すべし。聖躬の玉趾、践陟すべき所に非ず。臣庶恇惶し、窃かに未だ可ならずと謂う」と。九月、霊太后嵩山の仏寺に幸す。光表を上し諫むも、従わず。

正光元年冬、光に几杖衣服を賜う。二年春、明帝親しく国学に釈奠す。光経を執りて南面し、百寮陪列す。 司徒 しと ・京兆王継頻りに表を上し以て位を光に譲る。四月、光を以て 司徒 しと と為し、侍中・国子祭酒・著作を領すること故の如し。光表を上し固く辞し、歴年終に肯て受けず。

八月、宮中に 禿鶖 とくしう を獲たり、詔して光に示す。光表して曰く、「此れ即ち《詩》に所謂『鶖有り梁に在り』。解に云う『禿鶖なり』と。貪悪の鳥、野沢に育つ、殿廷に入るべからず。昔、魏氏の黄初年中、 鵜鶘 ていこ の霊芝池に集まる有り、文帝詔を下し、曹恭公の君子を遠ざけ小人に近づくを以て、賢俊を博く求め、太尉華歆此れによりて位を遜りて管寧に譲る者なり。臣聞く、野物舎に入るは、古人以て不善と為す。是を以て 張臶 ちょうせん 任呖 じんれき を悪み、賈誼は鵩を忌む。鵜鶘暫く集まりて去るも、前王猶お至誠と為す、況んや今親しく宮禁に入り、人の為に獲られ、方に畜養せられ、晏然として懼れを為さず。往義に准うれば、信に殊有り。 饕餮 とうてつ の禽、必ず魚肉に資り、菽麦稻粱、時に或いは 飡啄 さんたく す、一食の費、容に 斤鎰 きんいつ を過ぐべし。 今春夏陽旱 ようかん し、 穀糴 こくてき 稍貴し、窮窘の家、時に菜色有り。陛下人の父母と為り、之を撫するに傷の如くす、豈に人を棄てて鳥を養い、醜形悪声に留意せんや!衛侯鶴を好み、曹伯雁を愛す、身死し国滅ぶ、以て寒心すべし。願わくは遠く殷宗に師い、近く魏祖に法り、徳を修め賢を進め、災を消し慶を集め、無用の物を放ち、之を川沢に委ね、琴書に楽を取り、神性を 頤養 いよう せんことを。」明帝表を覧めて大いに悦び、即ち之を池沢に棄つ。

冬、詔して光と安豊王延明に服章を議定せしむ。三年六月、詔して光に歩挽に乗りて東西上閣に至らしむ。九月、位を進めて太保と為す、光又固く辞す。 光年耆 としよ りて務多し、 病疾稍 やや 増す。而して自ら強いて已まず、常に著作に在り、疾篤くして帰らず。四年十月、帝親しく光の疾に臨み、詔して賓客を断ち、中使相望み、声楽を止め、諸の遊眺を罷め、長子励を斉州刺史に拝す。十一月、疾甚だし、子侄等に勅して曰く、「吾先帝の厚恩を荷い、位此に至る、史功成らず、歿して遺恨有り。汝等速やかに我を送りて還宅せしむべし。」気力微なりと雖も、神明乱れず、第に至りて薨ず、年七十三。明帝聞きて悲泣し、中使相尋ね、詔して東園の温明秘器・朝服一具・衣一襲・銭六十万・布一千匹・蠟百斤を給し、大鴻臶に喪事を監護せしむ。車駕親しく臨み、屍を撫して慟哭し、御輦還宮し、路に涕を流し、常膳を減じ、言えば則ち追傷し、光の坐して講読するの処に至る毎に、未だ嘗て容を改めずして淒悼せざること無し。太傅を贈り、 尚書令 しょうしょれい ・驃騎大将軍・開府・冀州刺史を領し、侍中は故の如し。又勅して後部鼓吹・班剣を加え、太保広陽王の故事に依らしむ。諡して文宣と曰う。明帝喪を建春門外に祖し、 を望みて哀感し、儒者之を栄とす。

初め、光太和年中に宮商角徴羽の本音に依りて五韻詩を為し、以て李彪に贈る。彪十二次詩を為して以て光に報ず。光又百三郡国詩を為して以て之に答う。国別に巻と為し、百三巻と為す。

光寛和慈善にして、物に さから わず、進退沈浮、自得するのみ。常に胡広・黄瓊の為人を慕い、故に気概を為す者に重かられず。始め領軍于忠、光の旧徳を以て、之に事う。元叉も光に於いて深く宗敬す。郭祚・裴植の殺され、清河王懌の禍に遇うに及び、光時随い俯仰し、竟に匡救せず、是に於いて天下之を譏る。貴達するより此れより、申薦すること罕なり、曾て其の女婿彭城劉敬徽を啓し、敬徽を云う、荊州五隴戍主と為り、女夫に随いて行き、常に寇抄を慮い、南北分張す、徐州長兼別駕を乞い、暫く京師に集まらんことを。明帝之を許す。時人之を張禹に比す。光初め黄門と為りて則ち宋弁に譲り、 中書監 ちゅうしょかん と為りて汝南王悦に譲り、太常と為りて劉芳に譲り、少傅と為りて元暉・穆紹・甄琛に譲り、国子祭酒と為りて清河王懌・任城王澄に譲り、車騎・儀同と為りて江陽王継に譲り、又霊太后の父胡国珍に譲る。皆時情を顧望し、議者矯飾と為す。

仏法を崇信し、礼拝読誦し、老いて いよい よ甚だし。 終日怡怡 いい として、未だ嘗て 恚忿 きふん せず。曾て門下省に於いて晝坐して経を読み、鴿の膝前に飛び集まり、遂に懐に入る有り。臂に縁りて肩に上り、久しくして乃ち去る。道俗詩頌を贊詠する者数十人。毎に沙門・朝貴の為に《維摩》・《十地経》を請い講じ、聴く者常に数百人。即ち二経の義疏三十余巻を為し、識者其の疏略なるを知る。凡そ為す所の詩賦銘贊誄頌表啓数百篇、五十余巻、別に集有り。

光の子励、字は彦徳。器学才徳、最も父風有り。秀才に挙げられ、中軍彭城王参軍・秘書郎中、父光著作を為すを以て、固く拝せず。後に中書侍郎を除く。領軍将軍元叉明堂大将と為り、励を以て長史と為す。従兄鴻と俱に世に名有り。父光疾甚だしきに、征虜将軍・斉州刺史を拝す。父の疾に侍し、衣帯を解かず、及び薨ずるに及び、孝明毎に存慰を加う。光本郷に葬る、詔して主書張文伯を遣わし弔を宣す。孝昌元年、太尉長史を除き、父の爵を襲う。建義初、河陰に遇害す。侍中・衛将軍・青州刺史を贈る。励の弟劼。

劼字は彦玄、少くして清虚寡欲、好学家風有り。魏末、累遷して中書侍郎。興和三年、通直 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ね、梁に使す。天保初、禅代を議するを以て、給事黄門侍郎を除き、国子祭酒を加え、内省に直し、機密を典す。清儉勤慎、甚だ斉の文宣に知らる。南青州刺史を拝し、政績有り。入りて秘書監・斉州大中正と為り、遷りて並省度支尚書、俄に京省を授かる。尋いで五兵尚書に転じ、国史を監す。台閣の中、簡正と称せらる。武成の将に後主に禅せんとし、先ず以て劼に問う、劼諫めて以て不可と為す。此れによりて意に忤い、出でて南兗州刺史と為る。代わり還り、重ねて度支尚書・儀同三司と為り、文登県の幹を食む。尋いで中書令を除き、開府を加え、文林館に待詔し、新書の撰修を監す。卒す、斉州刺史・尚書左僕射を贈り、諡して文貞と曰う。

初め、和士開朝に擅にして、曲く物誉を求め、諸公此れによりて頗る子弟の為に祿を幹む。世門の胄、多く京官に処る。而るに劼の二子拱・捴並びに外任と為る。弟廓之従容として劼に謂いて曰く、「拱幸いに凡ならず、何ぞ省府中の清華の所に在らずして、並びに外籓に出づるや?」劼曰く、「身を立つる来り、言を以て自ら達するを恥ず。今若し児を進めば、身と何ぞ異ならん!」卒に求むる所無し。聞く者嘆服せざる莫し。劼常に魏収の書を恨み、更に編年紀を作らんと欲す。而して才思竟に能わず。

光の弟敬友、本州の從事。頗る受納有り、御史之を案ず。乃ち守者と俱に逃る。後に梁郡太守を除かる。会い所生の憂に遭い、拝せず。敬友仏道に精心し、晝夜経を誦し、喪免れたる後、遂に菜食終身す。恭寬下に接し、身を修め節を厲ぐ。景明已降、頻歳登らず、饑寒請丐する者、皆足を取りて去る。又逆旅を肅然山南大路の北に置き、食を設けて以て行者に供す。家に卒す。弟子鴻。

崔鴻は字を彦鸞といい、若くして書を読むことを好み、経史を広く総合し、やがて尚書都兵郎中に昇進した。詔により太師・彭城王元勰以下、公卿・朝士のうち儒学に通じ才明なる者三十人が尚書上省において律令を議定することとなり、崔鴻と崔光はともにその中に加えられ、当時の論評はこれを栄誉とした。後に三公郎中となり、員外 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。

延昌二年、百官を大いに考課しようとした際、崔鴻は考課令が体例に通じないとして、建議して言うには、「思うに、昔は官に人材を求め、人を器に合わせて用い、幽明を黜陟し、清濁を揚激した。ゆえに績効を挙げて官に能くし、才が必ず位に称する者は、朝に昇り夕に進み、どうして一階半級に拘るものがあろうか。二漢以降、太和以前においては、もし必ず官がこの人を必要とし、人がこの職に称するならば、あるいは超騰して昇陟し、数年で公卿に至り、あるいは長兼・試守として称允し、遷進に当たる者は、巻を披けば人々皆そうであり、目を挙げれば朝貴皆然りであった。故に時に多士の誉れを収め、国は豊賢の美を称えられたのである。窃かに見るに、景明以来の考課の格は、三年で一考を成し、一考で一階を転ずる。貴賤内外、一万余人、罪を犯すのでなければ、賢愚を問わず、上中でない者はなく、才ある者と不肖の者が比肩して同じく転ずる。たとえ黄・龔のような善政があろうと、王・鄭のような儒学があろうと、班・馬のような才史があろうと、張・蔡のような文章があろうと、一分一寸を得れば、必ず常流に攀じられ、選曹も一概に抑えて、かつて甄別したことがない。琴瑟調わずんば、改めて更張すべし。たとえ明旨既に行われていても、なお宜しく消息すべきである」。武帝は従わなかった。

三年、崔鴻は父の喪により解任されたが、甘露がその廬舎の前の樹に降った。十一月、宣武帝は本官のまま崔鴻を召し出した。四年、また甘露がその京兆の宅の庭樹に降った。後に中散大夫・高陽王友に遷り、なお郎中を領した。正光元年、前将軍を加えられ、孝文帝・宣武帝の『起居注』を修撰した。

崔光が魏史を撰したが、ただ巻目があるだけで、初め考正せず、欠略が特に多かった。常に言うには、「この史書は決して我が世に成るものではない。ただ時事を記録して、後人を待つべきである」と。臨終に際し、孝明帝に崔鴻のことを言上した。五年、詔により崔鴻は本官のまま国史を修緝することとなった。孝昌初年、給事黄門侍郎に拝され、まもなく 散騎常侍 さんきじょうじ ・斉州大中正を加えられた。崔鴻が史職についてまだ間もなく、成すところがなかった。まもなく卒し、鎮東将軍・度支尚書・青州刺史を追贈された。

崔鴻は弱冠にしてすでに著述の志があった。晋・魏以前の史書を見ると、皆一家を成しており、意を措くところがなかった。劉元海・石勒・慕容儁・苻健・慕容垂・姚萇・慕容徳・赫連屈孑・張軌・李雄・呂光・乞伏国仁・禿髪烏孤・李暠・沮渠蒙遜・馮跋らがみな世の変故に乗じ、一方に跨って僭称し、それぞれ国書を持っていたが、統一されたものがなかった。そこで崔鴻は『十六国春秋』を撰し、百巻に勒成した。その旧記に因り、時に増損褒貶を加えた。崔鴻の二世が江左に仕えたので、僭晋・劉氏・蕭氏の書は収録せず、また識者に責められることを恐れ、敢えて外に出行させなかった。宣武帝はその撰録を聞き、 散騎常侍 さんきじょうじ 趙邕を遣わして崔鴻に詔して言うには、「卿が諸史を撰定し、甚だ条貫があると聞く。成ったものから随時送るがよい。朕は機務の暇にこれを覧よう」と。崔鴻はその書が国初に関わる内容を持ち、言葉多く体を失うところがあり、かつ既に完成していたが、奏聞しなかった。後に崔鴻が起居を典することとなり、妄りにその上表文を載せた。

臣聞く、帝王の興るや、図籙に応ずるとはいえ、必ず駆除有り、蓋し彼の厭政を翦り、此の楽推を成す所以なり、と。故に戦国紛紜、年十紀を過ぎ、漢祖群豪を夷殄し、四百の業を開く。文・景の蛮夏を懐柔し、世宗の威武を奮揚するを歴て、始めて涼・朔文を同じくし、䍧・越軌を一にす。ここにおいて談・遷漢徳の盛んなるに感じ、諸史の放絶を痛み、乃ち旧書を鈐括し、『太史』を著成す。所謂く、茲の人事を緝め、彼の天時の義を光らす、これなり。

昔、晋恵帝競わず、華戎乱起り、三帝は奸臣に制せられ、二皇は非所に晏駕し、五都蕭条、鞠て煨燼と化す。趙・燕既に長蛇と為り、遼海緬て殊域を成し、中原主無く、八十余年。遺晋僻遠、勢略孤微、人兵革に残され、帰控する所無し。皇魏幽・代に龍潜し、内に徳政を修め、外に諸偽に抗し、 へい ・冀の人、宝を懐くの士、繈負して至る者日月相尋う。太祖道武皇帝は神武の姿を以て、金行の運に接し、天に応じ人に順い、龍飛して命を受く。太宗は必世重光し、業玄黙に隆る。世祖は雄才叡略を以て、威霊を闡曜し、農戦兼修、氛穢を掃清す。歳四紀を垂れ、而して寰宇一同、百姓始めて陶然蘇息し、堯・舜の代を欣ぶ。

晋の永寧以後より、所在兵を称するも、競って自ら尊樹し、而して能く邦を建て氏を命じ、戦国と為る者、十六家有り。善悪興滅の形、用兵乖会の道、亦た以て将来に垂れ、昭明に勧戒すべきに足る。但だ諸史残缺、体例全く虧け、編録紛謬、繁略所を失い、宜しく同異を審正し、一書と定むべし。誠に知る、敏は允南に謝し、才は承祚に非ざるも、然れども『国志』・『史考』の美、窃かに亦た輒ち庶幾す。景明の初めより始め、諸国の旧史を搜集す。遷京甫爾に属し、率多く分散し、諸れを公私に求め、数歳を駆馳す。及び臣家貧禄微、唯だ孤力を任じ、書写の資に至りては、毎に周接せず。正始元年に至り、写し乃ち向うに備わる。謹みて吏案の暇に、此の書を草構し、時事を区分し、各本録に系く。長暦を以て稽え、諸の旧志を考へ、差謬を刪正し、実録と定め、大略を商較し、『春秋』百篇を著す。三年の末に至り、草九十五巻を成す。唯だ常璩の撰する李雄父子の蜀に拠る時の書、尋訪して獲ず、所以に未だ善成に及ばず。筆を輟みて私に求め、七載今に於る。此の書本江南の撰録、恐らくは中国に無からん、臣が私力の能く終に得る所に非ず。其の兵を起し号を僭する、事の始末、乃ち亦た頗る有り、但だ此の書を得ざれば、簡略成らざるを懼る。久しく陳奏を思い、縁辺に求采せしむるを乞うも、但だ愚賤因無く、敢えて軽輟せず。 散騎常侍 さんきじょうじ ・太常少卿・荊州大中正趙邕忽ち明旨を宣べ、臣に送呈を敕す。九皋の微志、乃ち上聞するを得んとは悟らず。敕を奉りて欣惶し、慶懼兼ね至る。今謹みて訖れる所を以て臣邕に附し呈奏す。

臣又別に『序例』一巻・『年志』一巻を作り、仰いでは皇朝の大義を統括するを表し、俯しては愚臣の著録する微体を明らかにす。徒らに窃かに古人の立言の美意を慕い、文致疏鄙、一も観る可き無く、簡禦の日、伏して深く慚悸す。

崔鴻の意はこの如し。正光以前は、敢えてその書を顕かに行わなかった。その後、その伯父の崔光が当朝で貴重とされ、時人がその事を発明できぬことを知り、乃ち頗る伝読させた。然れども崔鴻の経綜広く、違謬多し。道武帝の天興二年に至り、姚興が号を鴻始と改めたのに、崔鴻は元年に改めたと為し、明元帝の永興二年、慕容超が広固に禽えられたのに、崔鴻は又元年に在りと為し、太常二年、姚泓が長安に敗れたのに、崔鴻も亦た滅びを元年と為す。此の如きの失、多く考正せず。

子の子元は秘書郎であった。後に永安年間に至り、父の書を上奏して言うには、「臣の亡き父、 散騎常侍 さんきじょうじ ・黄門侍郎・前将軍・斉州大中正の崔鴻は、正始の末、記言の任に属し、撰輯の余暇に、趙・燕・秦・夏・西涼・乞伏・西蜀等の遺載を刊行し、それに賛序を加え、褒貶評論を施しました。先朝の日、草稿は全て完成し、ただ李雄の蜀書のみが捜索しても得られず、この一国を欠き、完成が遅れておりました。正光三年に去り、購訪してようやく得、討論がちょうど終わったところで、先臣は世を去りました。凡そ十六国、名を『春秋』とし、一百二巻、近代の事柄で最も詳備しております。未だ奏上したことがなく、敢えて広めることは致しませんでした。今、一本を繕写し、仰いで呈上し、秘閣に蔵することを乞い、異家を広めたいと存じます」と。子元は後に謀反を企て、事が発覚して逃げ隠れたが、赦令に会って免罪され、間もなくその叔父の崔鶤に殺された。

崔光の従祖弟の長文は、字を景翰という。幼少の頃も代都に移住し、聡明で学識があった。永安年間に累進して平州刺史となり、老齢のため家に帰り、専ら仏経を読み、世事に関わらなかった。卒去し、斉州刺史を追贈され、諡を貞といった。子の懋は、字を德林といい、徐州征東府長史となった。

長文の従弟の庠は、字を文序といい、実務の才幹があった。東郡太守となり、元顥が郡界に侵攻して来た時、庠は従うことを拒み、郡を棄てて郷里に逃げ帰った。孝荘帝が宮中に還ると、平原伯の爵位を賜り、潁川太守に任じられ、頗る政績があった。永熙初年に東徐州刺史に任ぜられた。二年、城民の王早・蘭宝らに害された。後に驃騎将軍・吏部尚書・斉州刺史を追贈された。子の罕が爵位を襲い、斉が禅譲を受けると、例により降格された。

崔光の族弟の栄先は、字を隆祖という。経史を広く学び、州から主簿に辟召された。子の鐸は文才があり、位は中散大夫であった。鐸の弟の覲は、羽林監となった。

崔亮は、字を敬儒といい、清河郡東武城県の人で、魏の中尉崔琰の後裔である。高祖の崔瓊は、慕容垂の車騎属となった。曾祖の崔輯は、南に移って青州に至り、宋に仕えて泰山太守となった。祖父の崔修之は、清河太守となった。父の崔元孫は、尚書郎であった。青州刺史沈文秀が叛くと、宋の明帝は元孫にこれを討たせたが、文秀に害された。崔亮の母の房氏は亮を連れて、その叔祖の冀州刺史崔道固を頼って歴城に寄寓した。慕容白曜が三斉を平定すると、内徙して桑乾に移され、平斉民となった。時に十歳、常に季父の幼孫に頼った。貧しい中に住み、書写を傭って自ら生計を立てた。

時に隴西の李沖が朝廷で権勢を握っていた。崔亮の族兄の崔光が彼のもとに身を寄せ、亮に言った。「どうして長く筆硯に仕えたままで、李公のもとに託されようとしないのか。あの家には書物が豊富で、それによって学ぶことができる」と。亮は言った。「弟妹が飢え寒さに苦しんでいるのに、どうして私一人が満腹していられようか。自ら市で書物を見ることはできても、どうして他人の顔色を窺うことができようか」と。崔光が李沖にこのことを話すと、沖は亮を召して語り、ついでに言った。「近頃、卿の先人の『相命論』を見たが、人の胸中に再び恐れ迫る念を抱かせない。今、原本は失われてしまったが、卿はそれを記憶していないか」と。亮は即座にそれを誦し、涙が交えて流れ落ちたが、声韻は以前と変わらなかった。沖は大いにこれを奇とし、迎えて館客とした。沖はその兄の子の李彦に言った。「大崔生(崔光)は寛和で篤実雅量がある、汝は彼と友たるべし。小崔生(崔亮)は峻厳で整然とし清く澄んでいる、汝は彼を敬うべし。二人は終に大いに至るであろう」と。沖は彼を推薦して中書博士とし、議郎に転じ、間もなく尚書二千石に遷った。孝文帝が洛陽におられた時、旧制を改革し、百官を選任しようとされ、群臣に言われた。「朕のために一人の吏部郎を推挙せよ。必ず才能と声望を兼ね備えた者でなければならぬ。卿らに三日の暇を与える」と。また一日経って、孝文帝は言われた。「朕は既に得た。卿らを煩わせるには及ばぬ」と。駅伝で崔亮を召し、吏部郎を兼ねさせた。間もなく太子中舎人となり、中書侍郎に遷り、尚書左丞を兼ねた。亮は顕職を歴任したが、その妻は自ら穀物を搗くことを免れなかった。孝文帝はこれを聞き、その清貧を嘉し、詔を下して野王県令を帯びさせた。

孝明帝が親政されると、給事黄門侍郎に遷り、引き続き吏部郎を兼ね、青州大中正を領した。亮が選事に参与してから、ほぼ十年に及び、廉潔で慎重、明察果断であり、尚書の郭祚に信頼され、常に言った。「崔郎中でなければ選事は成し遂げられぬ」と。間もなく 散騎常侍 さんきじょうじ に任ぜられ、引き続き黄門侍郎を務めた。度支尚書に遷り、御史中尉を領した。遷都以来、四方を経略し、また洛邑を営むなど、費用が甚だ広大であった。亮が度支に在任中、別に条格を立て、毎年億単位の費用を節減した。また汴渠・蔡渠の三渠を修築して辺境への輸送を通じさせることを議し、公私ともにこれを頼みとした。

侍中・広平王元懐は、母弟の親として、左右の者が憲法に従わなかったので、詔により崔亮に推究させた。宣武帝は元懐を禁じ、長く賓客と通じることを許さなかった。後に宴席の機会に、元懐は親しい者を使わせて怒らせ、亮を陵辱しようとした。亮は厳しい顔色で彼を責め、即座に宣武帝の前で冠を脱ぎ謝罪を請い、ついで拝礼して退出しようとした。宣武帝は言われた。「広平王は粗忽で、先ほどまた酔っていた。卿の知るところである。どうしてこのようなことをするのか」と。遂に詔して亮に再び座らせ、元懐に謝罪させた。亮は外見は方正であったが、内心では時流に迎合することもあった。宣武帝の側近の郭神安は頗る宣武帝に認められ遇されており、弟を亮に託した。亮は彼を引き立てて御史とした。神安が失脚した後、禁中に参集した折、宣武帝は兼侍中の盧昶に命じて旨を宣し、亮を責めて言わせた。「法官の職にありながら、どうして側近の請託を受けたのか」と。亮はただ拝礼して謝罪するだけで、これに答える言葉がなかった。都官尚書に転じ、また七兵尚書に転じ、廷尉卿を領し、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。徐州刺史の元昞が撫禦を失和させたので、詔により亮は駅伝で急行して安撫に当たった。亮が到着すると、元昞を弾劾して大辟の刑に処し、労をねぎらい慰撫して、百姓は平穏となった。

安西将軍・雍州刺史に任ぜられた。城北の渭水は浅く船が通じず、行路が困難であった。亮は僚佐に言った。「昔、杜預は河梁を造った。ましてここは長河とは異なり、かつ魏・晋の時代にも既に橋があった。我は今、必ずこれを営造しようと決心した」と。皆が言った。「水が浅く、浮橋は造れません。水かさの増減が一定せず、また柱を立てることもできません。恐らく完成は難しいでしょう」と。亮は言った。「昔、秦が咸陽に居を構えた時、横橋を渭水に渡し、閣道に模した。これは柱を用いて橋としたのである。今、ただ長い柱が得られないことを憂うのみである」と。ちょうど大雨が降り、山水が暴漲して、長い木材が数百本浮き出た。これを用材として、橋は遂に完成した。百姓はその利便を享受し、今に至るも崔公橋と名付けられている。亮の性質は公正清廉で、判断決断に敏速であり、任地では皆その職務に適うと称えられ、三輔はその德政に服した。宣武帝はこれを嘉し、詔を下して衣服・馬・被褥を賜った。後にその娘を九嬪に納れ、亮を召して太常卿とし、吏部の事務を摂行させた。

孝明帝の初め、定州刺史として出向した。梁の左遊撃将軍趙祖悦が軍勢を率いて硤石を占拠したので、詔により亮は鎮南将軍を仮授され、斉王蕭宝夤は鎮東将軍、章武王元融は安南将軍とされ、皆使持節を加えられ、諸軍を督してこれを討伐することとなった。霊太后は亮らを労って送り出し、戎服や雑物を賜った。亮が硤石に到着すると、祖悦は城を出て迎撃したが、亮はこれを大破した。祖悦はまた城外に二つの柵を設置して、軍を防ごうとしたが、亮は焼き討ちしてこれを破った。亮は李崇と水陸から同時に攻撃する期日を定め、日々進攻したが、李崇は到着しなかった。李平が到着してから、李崇はようやく進軍し、共に硤石を平定した。

霊太后は亮に璽書を賜って曰く、「硤石既に平らぎ、大勢全く挙がり、淮堰孤危にして、自ずから将に奔遁せんとす。若し仍敢えて遊魂せば、此れ当に易くして以て計を立てるべし。蟻徒を禽翦するは、応に旦夕に在るべし。将軍推轂の馮る所、親しく其の事に対し、処分経略は、宜しく共に協斉すべく、必ず令して掃蕩の理を得しめ、彼の遺燼を尽くすべし。便に随い守禦し、及び分度掠截し、其の咽喉を扼し、走路を防塞し、期して全獲を期し、漏逸せしむる無からしむべし。若し威を畏れて降首する者は、自ら蠲宥を加え、仁を以て本と為し、之を雅算に任すべし。」功を以て鎮北将軍に進号す。

李平は諸軍を部分し、将に水陸兼ねて進み、以て堰賊を討たんとす。亮は平の節度に違ひ、疾を以て還るを請ひ、表に随ひて発す。平は表して亮の輒ち京に還るを言ひ、乗勝の機を失ひ、水陸の会を闕く、今亮を死に処すべしと上議す。霊太后令して曰く、「亮の去留自ら擅にするは、我が経略に違ひ、小捷有りと雖も、豈に大咎を免れんや。但だ吾万機を摂禦し、茲に悪殺を庶う、特に聴して以て功を以て過を補はしむべし。」及び平至るに及び、亮と禁中に功を争ひ、声色に形はる。

尋いで殿中尚書を除かれ、吏部尚書に遷る。時に羽林は新たに張彝を害したる後、霊太后は武官に資に依りて選に入るを得しむ。官員既に少なく、応選者多し。前尚書李韶は常に循ひて人を擢げ、百姓大いに怨む。亮乃ち奏して格制を為し、士の賢愚を問はず、専ら停解の日月を以て断と為し、復た官須らく此の人と雖も、停日の後なる者は終に得ず。庸才下品、年月久しき者は灼然として先ず用ふ。沈滞する者は皆其の能を称す。亮の外甥 司空 しくう 諮義劉景安、書を以て亮を規めて曰く、「殷・周は郷塾を以て士を貢し、両漢は州郡に由りて才を薦め、魏・晋は因循し、又た中正を置く。諦観するに在昔、挙を審にせざる莫く、未だ尽く美しからずと雖も、足らくして十に六七を応ずべし。而るに朝廷才を貢するは、止だ其の文を求め、其の理を取らず。孝廉を察するは唯だ章句を論じ、治道に及ばず。中正を立つるは人才行業を考へず、空しく氏姓の高下を弁ず。取士の途溥からず、沙汰の理未だ精ならざるに至る。而るに舅は銓衡に当たり、宜しく改張易調を須ふべし。如何ぞ反って停年格を以て之を限り、天下の士子誰か復た名行を修厲せんや。」亮、書に答へて曰く。

汝の言ふ所は乃ち深致有り。吾は時に乗じて徼幸し、吏部尚書と為るを得たり。其の壮なる時に当たりて、尚ほ人に如かず、況んや今朽老して、帝難の任に居らんや。常に同升挙直を思ひ、以て明主の恩に報いんとし、忠を尽くし力を竭し、貽厥の累と為らざらんとす。昨此の格を為せしは、由有りて然るなり。今已に汝の怪む所と為る。千載の後、誰か我を知らんや。静かに吾が言を念へ、当に汝の為に之を論ぜん。

吾は兼ねて正六を以て吏部郎と為り、三たび尚書と為り、銓衡の宜き所、頗る之を知れり。但だ古今同じからず、時宜須らく異なる。何者ぞ。昔は中正有りて其の才第を品し、之を尚書に上す。尚書は状に拠り、人を量り職を授く。此れ乃ち天下の群賢と共に人に爵するなり。吾謂ふ、当に爾の時、遺才無く、濫挙無かりしと。而るに当に猶雲ふ、十に六七を収むと。況んや今日の選は、専ら尚書に帰し、一人の鑒を以て、天下を照察せんとす。劉毅の雲ふ所、一吏部・両郎中にして人物を究鏡せんと欲するは、何ぞ管を以て天を窺ひて其の博を求むるに異ならんや。今勲人甚だ多く、又た羽林選に入る。武夫崛起し、書計を解せず、唯だ弩を彍ひて前駆し、蹤を指して捕 ぜい するのみ可なり。忽ちに組を垂れ軒に乗せ、其の烹鮮の効を求めしむ。未だ嘗て刀を操らずして、専ら割らしむ。又た武人至って多く、官員少なきに至り、周溥す可からず。設令十人一官を共にせしむるとも、猶ほ官を授くる可き無く、況んや一人一官を望まば、何に由りて怨まざる可けんや。吾近く面して執り、宜しく武人をして選に入らしむべからずとし、其の爵を賜ひ、其の祿を厚くせんことを請ふ。既に見従せられず、是を以て権に此の格を立て、停年を以て限るのみ。

昔、子産は刑書を鑄して以て敝を救ひ、叔向は之を譏して以て法を正す。何ぞ汝が古礼を以て権宜を難ずるに異ならんや。仲尼雲ふ、「我を徳する者は《春秋》、我を罪する者も亦た《春秋》なり。」吾が此の指、其れ是に由るなり。但だ当来の君子に、吾が意を知らしめよ。

後に甄琛・元修義・城陽王徽相継いで吏部尚書と為り、其の己に便なるを利し、踵を接して之を行ふ。此より賢愚同貫し、涇・渭別無し。魏の才を失ふは、亮より始まる。

侍中・太常卿・左光禄大夫・尚書右僕射を歴任す。時に劉騰権を擅にす。亮は妻劉氏を托し、身を傾けて之に事ふ。故に頻年の中、名位隆赫たり。識有る者之を譏る。転じて尚書僕射、 散騎常侍 さんきじょうじ を加へらる。疽背に発す。明帝、舍人を遣して疾を問はしむ。亮、表を上りて僕射を解くを乞ふ。詔して許さず。尋いで卒す。詔して東園秘器を給し、車騎大将軍・儀同三司を贈り、諡して貞烈と曰ふ。

亮、雍州に在りし時、《杜預伝》を読み、其の八磨を為すを見て、其の時用に済ふ有るを嘉し、遂に人を教えて碾を為さしむ。及び僕射と為り、張方橋東に谷水を堰き、磑磨数十区を造るを奏す。其の利十倍し、国用之に便す。亮に三子有り、士安・士和・士泰、並びに強士にして、当世に善し。

士安は尚書北部郎を歴任し、諫議大夫にて卒す。左将軍・光州刺史を贈らる。子無し。弟士和、子乾亨を以て継がしむ。乾亨は武定中、尚書都兵郎中。

士和は初め 司空 しくう 主簿と為る。蕭宝夤の関中に在りし時、寮佐を高選し、以て 都督 ととく 府長史と為す。時に莫折念生、使を遣して詐降す。宝夤は表して士和に度支尚書を兼ねて隴右行台と為し、秦に入りて撫慰せしむ。念生に害せらる。

士泰は給事中・ 司空 しくう 従事中郎・諫議大夫・ 司空 しくう 司馬を歴任す。明帝末、荊蛮侵斥す。士泰を以て龍驤将軍・征蛮別将と為す。事平ぎ、功を以て爵五等男を賜ふ。建義初、河陰に於て害せらる。 都督 ととく ・青州刺史を贈られ、諡して文肅と曰ふ。子肇師、爵を襲ぐ。

肇師は少時疏放なりしも、長じて遂に節を変へ、更に謹厚を成す。経史に渉猟し、頗る文思有り。天平初、通直散騎侍郎を以て尉労青州使と為り、斉州界に至り、土賊崔迦葉等に拘へられ、逼りて同事せんとす。肇師は志を執りて動かず、禍福を以て諭す。賊遂に之を捨つ。仍ひて青部を巡慰して還る。肇師は従弟乾亨と同居し、伯母に事ふること甚だ謹み有り。斉の文襄嘗て肇師誅すべしと言ふ。左右其の故を問ふ。曰く、「崔鴻《十六国春秋》は諸の僭偽を述べて江東に及ばず。」左右曰く、「肇師は鴻と別族なり。」乃ち止む。天保初、渾代の礼儀を参定するを以て、襄城県男に封ぜられ、仍ひて中書侍郎を兼ね、卒す。初め鄴下に薛生と云ふ者有り、相人する能く、趙彦琛当に大貴すべしと言ふ。肇師因りて己を問ふ。答へて曰く、「公門望雖だ高し、爵位趙に及ばず。」終に其の言の如し。

亮の弟敬默、奉朝請、征虜長史にて卒す。南陽太守を贈らる。子思韶。亮に従ひて硤石を征し、軍功を以て爵武城子を賜はり、冀州別駕と為る。

敬默の弟敬遠、其の賤出を以て、殊に経紀せず。論者之を譏る。

光韶は、亮の従父の弟である。父は幼孫、太原太守であった。光韶は親に孝悌をもって仕えた。初め奉朝請に任ぜられた時、光韶は弟の光伯と孿生であり、操業も等しく、特に友愛が篤かったので、ついに吏部尚書李沖を経て、官を光伯に譲り、その言辞と表情は懇切であった。沖がこれを奏上すると、孝文帝は嘉してこれを許された。太和二十年、光韶を 司空 しくう 行参軍としたが、また従叔の和に譲ることを請うて言うには、「臣は誠に微賤にして、譲りの品に登っておりませんが、皇朝に遇い、譲りの徳なきを恥じます」と。和もまた謙退して、辞して当たらなかった。孝文帝はこれを善しとし、ついで和を広陵王国の常侍とした。まもなく光韶を秘書郎に任じ、華林の御書を校掌させた。累遷して青州中従事となった。後に 司空 しくう 騎兵参軍となり、また 司徒 しと 戸曹を兼ねた。出て済州輔国府司馬となり、刺史の高植は彼を大いに知って、政事の多くを委ねて諮問した。青州平東府長史に遷った。府が解かれると、州事を知ることを命ぜられた。光韶は清直明断で、吏人は畏敬し愛した。入って 司空 しくう 従事中郎となったが、母が老いたので官を解いて帰養し、詩を賦して意を述べると、朝士でこれに和した者は数十人に及んだ。久しくして、 司徒 しと 諮議に徴されたが、固辞して拝さなかった。

光韶の性格は厳しく、声韻は抗烈で、人と平談するにも、常に震厲のようであった。兄弟で議論するに至っては、外聞では忿怒していると思われたが、しかし兄弟仲は雍睦で、人に及ぶ者は少なかった。孝荘帝の初め、河間の邢杲が河北の流民十余万を率いて州郡を攻め逼った時、刺史の元俊は憂えて自ら安んぜず、州人は光韶を長史としてこれを鎮めることを乞うた。時に陽平の路回が斉の地に寓居し、邢杲とひそかに相呼応し、賊を城郭に引き入れたが、光韶は機に臨んで処分し、難中にあって確然としていた。賊が退いた後、刺史は光韶の忠毅を上表し、朝廷はこれを嘉して使者を発し慰労した。まもなく東道軍司となった。元顥が洛に入ると、河以南は風靡しない所はなかった。刺史の広陵王欣は文武を集めて従うべき方を議したが、座中の人はみな色を失った。光韶ひとり抗言して言うには、「元顥は梁国に制せられ、本朝に兵を称するは、乱臣賊子、曠代に比類少ない。何ぞただ大王の家事のみならん、まさに切歯すべきである。われらは等しく朝眷を荷い、仰いで従うことを敢えてせず」と。長史の崔景茂、前瀛州刺史の張烈、前 郢州 えいしゅう 刺史の房叔祖、征士の張僧皓ら皆、「軍司の議は是なり」と言った。欣はついに元顥の使者を斬った。

まもなく輔国将軍に徴され、再遷して廷尉卿となった。秘書監の祖瑩が贓罪で弾劾された時、光韶は必ずや彼を重法に致さんとし、太尉の城陽王徽、 尚書令 しょうしょれい の臨淮王彧、吏部尚書の李神俊、侍中の李彧らは皆、当時の勢望ある者で、みな祖瑩のために寛大を求めた。光韶は正色して言うには、「朝賢執事、舜の功について、その一を聞かず、いかにして反って罪人のために言うのか」と。その執意が回らぬこと、このようであった。永安の乱に遭い、ついに郷里に帰った。

光韶は博学強弁で、特に理論を好み、人倫名教に至っては、得失の間を榷衡して論じ、一毫も物に仮さなかった。家は財に足りていたが、性格は倹吝で、衣馬は敝瘦、食味は粗薄であった。初め光韶が都にいた時、同里の王蔓が夜に盗賊に遇い、二人の子を害された。孝荘帝は黄門の高道穆に詔して、検捕を加えるよう命じ、一坊の内、家ごとに搜索した。光韶の宅に至ると、綾絹銭布が匱篋に充積していた。議者はその矯嗇を譏った。その家の資産は、皆光伯が営んだものであった。光伯が亡くなると、その契券を悉く焼いた。河間の邢子才がかつて数万の銭を借り、後に送り返してきたが、光韶は言うには、「これは亡弟が貸したもので、僕は知らない」と。ついに受け取らなかった。

刺史の元弼の前妻は、光韶の継室の兄の娘であった。元弼は貪婪で不法であり、光韶は親情によりしばしば非難責めたので、元弼はこれを恨んだ。時に恥翔が州界で反乱を起こすと、元弼は光韶の子が賊と連結していると誣告し、その一家を囚え、理不尽に拷掠した。しかし光韶は彼と弁争し、言葉と表情は屈しなかった。ちょうど樊子鵠が東道大使となって、その枉げられたことを知り、理によってこれを出した。時に人は樊に詣でて陳謝するよう勧めたが、光韶は言うには、「羊舌大夫には既に成事あり、何ぞ往く労を煩わさんや」と。子鵠もまた彼を尚び歎じた。後に刺史の侯深が交代で下向し、疑懼して不軌を謀った。夜に光韶を劫し、兵で脅して謀略を責めた。光韶は言うには、「およそ兵を起こすには名義を須いる。使君今日の挙動は、直ちに賊を作すのみ。また何の計略を知らんや」と。侯深はこれを恨んだが、敬して害することを敢えなかった。まもなく征東将軍、金紫光禄大夫に任ぜられたが、起たなかった。

光韶は世道が屯邅し、朝廷が屡々変わるのを見て、門を閉ざし掃き清め、吉凶を断絶した。子孫に誡めて言うには、「吾は自ら立身に古烈に慚じざると謂う。ただ禄命に限りあるのみで、世に希って進取することを容れず。官に在って以来、一級も冒さず、官は達せずとも、経て九卿となった。また吾が平生素業は、汝らに遺すに足り、官閥また何ぞ言うに足らんや。吾は既に運薄く、便ち三度娶りしが、汝らの兄弟は各々同じ生まれにあらず。合葬は古にあらず、吾百年の後、合するを須いず。然れども贈諡の及ぶは、君恩より出づ。豈に子孫自らこれを求むるを容れんや。贈りを求むるを須いず。もし吾が志に違わば、神霊あらば、汝らの祀りを享けず。吾兄弟は幼より老いに至るまで、衣服飲食一片たりとも同じからざるはなく、児女の官婚、栄利の事に至っては、未だ嘗て先ず弟に推さざるはなかった。弟は頃に横禍に遭い、権りに松櫬を作せり。また吾がために松棺を作らしめ、吾をしてこれを見せしめよ」と。卒す。年七十一。孝静帝の初め、侍中の賈思申が啓して光韶を称述し、詔して 散騎常侍 さんきじょうじ 、驃騎将軍、青州刺史を贈った。

光韶の弟、光伯。青州別駕となり、後に族弟の休が州を臨むに及び、牒を申して解任を求めた。尚書が奏上して言うには、「案ずるに『礼』に云う、始封の君は諸父・昆弟を臣とせず、封君の子は昆弟を臣とすれども諸父を臣とせず、封君の孫は尽く臣とす、と。計うるに始封の君は即ち世継の祖なり。尚お臣とすべからず。況んや今の刺史は世継に非ずして、臣吏の節を行い、笏を執り名を称するを得んや。光伯の解を請うるを検するに、礼に率いて愆らず。許して遂げるべしと謂う」と。霊太后は令してこれに従わせた。まもなく北海太守に任ぜられ、有司がその任期満了により、例に依って代わることを奏上した。明帝は詔して言うには、「光伯は海沂に蒞るより、清風遠く著わり、兼ねてその兄の光韶また能く栄を辞して侍養す。兄弟忠孝、宜しく甄録有るべし。更に三年を申し、以て風化を広むべし」と。後に太傅諮議参軍を歴任した。

節閔帝の時、崔祖螭、張僧皓が反逆を起こし、東陽を攻め、旬日の間に、衆十余万となった。刺史の東萊王貴平は光伯をして城を出て慰労させようとした。兄の光韶が争って言うには、「下官の観る所では、慰諭して止むべからざるものなり」と。貴平がこれを逼り、已むを得ず、光伯はついに城を出た。未だ曉諭するに及ばず、飛天の矢に中り、卒した。青州刺史を贈られた。子の滔、武定末に殷州別駕。修之の弟、道固。

道固は字を季堅といい、その母は卑賤であったため、嫡母の兄である攸之や目連らが彼を軽侮した。父の輯は攸之に言った、「この児の姿と識見は、あるいは家門を興すことができるであろう、汝らはどうして軽んずるのか」と。攸之らは彼を遇することますます薄かった。輯はそこで道固に資給し、彼に南の朝廷に仕えさせた。時に宋の孝武帝が徐・兗二州刺史となっており、道固を従事とした。道固は容貌が美しく、挙措に優れ、武事を習い、孝武帝は彼を嘉した。ちょうど青州刺史が新任となり、彭城を過ぎた時、孝武帝は彼に言った、「崔道固の人物はこのようである、どうして寒士とすることができようか。しかるに世人は彼が庶子であることを以て侮る、嘆息すべきことである」と。刺史は州に至り、彼を主簿に辟召した。後に宋の諸王の参軍となり、青州に人を募るために派遣されると、長史以下が皆道固のもとに詣でた。道固の諸兄らは彼の生母に迫り、自ら客の前で酒や炙り肉を運ばせた。道固は驚いて立ち上がり受け取ると、客に言った、「家に人手がなく、老いた親が自ら労苦を執っているのです」と。諸客は皆その兄の仕業であることを知り、咸にその母に拝礼した。母は道固に言った、「私は賤しい身で、貴賓に報いるに足りない、汝は答拝すべきである」と。諸客は皆道固母子を嘆美し、その諸兄を賤しんだ。後に冀州刺史となり、歴城を鎮守した。

宋の明帝が立つと、徐州刺史薛安都は道固らと共に廃帝子業の弟である子勲を立てたが、敗れて魏に帰順した。献文帝は彼を南冀州刺史・清河公とした。宋の明帝は人を遣わして道固を説得し、徐州刺史とし、再び宋に帰した。

皇興の初め、献文帝は詔して征南大将軍慕容白曜に道固を討たせた。道固は面縛して罪を請うた。白曜は彼を都に送り、詔してその死を恕した。そこで斉の地の名望で道固と共に城を守った者数百家を桑乾に移し、平城の西北、北新城に平斉郡を立て、道固を太守とし、臨淄子の爵を賜った。まもなく京師の西南二百余里の旧除館の西に移り住んだ。延興年間に卒去し、子の景徽が爵を襲った。

初め、道固が客邸にいた時、薛安都・畢衆敬と館が隣り合っており、時に公の集まりで相見えた。元より同じく武勲によって顕達したので、僚友として旧交を結んだ。時に安都は志すところすでに衰朽しており、道固には疎略であったが、衆敬は常に殷勤を尽くした。道固は劉休賓・房法壽に言った、「古人が言う、「我が族類にあらざれば、その心必ず異なる」と。安都の人を見る様は、甚だ自ら蕭索たるものがあるが、畢は固より依依たるものがある」と。景徽は字を文睿といい、平州刺史の任で卒去し、諡して定といった。子の休纂が爵を襲った。

道固の兄の目連の子に僧祐がいた。僧深は兄の僧祐が沙門法秀と謀反を図ったことに連座し、薄骨律鎮に流された。後に南青州刺史の位に至った。先妻の房氏は子の伯驎・伯驥を生んだ。後に房氏を疎んじ、平原の杜氏を娶り、共に流徙した。四子を生み、伯鳳・祖龍・祖螭・祖虯といった。僧深が還された後、房氏と絶縁し、遂に杜氏及び四子と共に青州に寓居した。伯驎・伯驥は母の房氏と冀州に住み、父のもとを往来したが、心は母方にあり、孝慈の道は、頓に一門に阻まれた。僧深が卒すると、伯驎は駆けつけたが、家に入ることを敢えず、寺の門に寄って哭した。祖龍は剛躁で、兄の伯驎と嫡庶を争訟し、共に刀剣で自衛し、苦しみ怨み憎んだ。祖螭は小字を社客といい、普泰の初めに反乱を起こし、爾朱仲遠が討って斬った。祖虯は、若くして学を好み、競争に駆けず。

僧深の従弟に和がおり、平昌太守の位に至った。家は巨富であったが性吝嗇で、銭数百斛を埋め、その母の李が春に堇を欲しがっても、銭を惜しんで買わなかった。子の軌は字を啓則といい、銭百万を盗み、和に背いて逃亡した。後に儀同・開府鎧曹参軍に至ったが、貪汚偽りの罪に坐し、晋陽で賜死された。

論じて言う。崔光は風素虚遠にして、学業深長、孝文帝はその才博を認め、その大成を許した。明主は固より臣を知るのである。三朝に歴事し、少主の師訓となり、宮省を出ずして、台傅の位に至った。これも近世に稀有なものである。ただ大雅を顧みて、中庸に跡を託し、その容身の譏りについては、これは胡広の免れざるところである。崔鴻は古今を博綜し、立言を事とし、これも才志の士であろう。崔亮は既に明達して事に従い、動けば名跡あり、断年の選においては、失うこと愈遠く、弊を救うことを聞かず、終に国蠹となり、苟もなくして已む、そのこのようであるか。光韶は雅に居り正を仗し、国士の風があった。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻044