北史

巻三十二 列傳第二十

列傳第二十

崔鑒(兄の孫は伯謙)、崔辯(孫は士謙、士謙の子は彭、士謙の弟は説、説の子は弘度)

崔挺(子は孝芬、孫は宣猷、曾孫は仲方、仲方の從叔は昂)、挺の從子は季舒、挺の族孫は暹

崔鑒は、字を神具といい、博陵郡安平県の人である。六世の祖の崔贊は、魏の尚書僕射であった。五世の祖の崔洪は、晋の吏部尚書であった。曾祖の崔懿は、字を世茂といい、燕に仕えて秘書監の位にあった。祖の崔遭は、字を景遇といい、鉅鹿県令の位にあった。父の崔綽は、幼くして孤となり、学問と行いを修めて明らかにし、世に名を知られた。范陽の盧玄、勃海の高允、趙郡の李霊らとともに召し出されたが、まもなく母が年老いていることを理由に固辞した。後に郡の功曹となり、卒した。鑒は文学に優れ、中書博士から侍郎に転じ、桐廬県子の爵位を賜った。出て東徐州刺史となった。鑒は新たに帰附した者を安んじようとし、年長の者がいる者には、守令の職を仮に与えるよう上表して請うた。詔はこれに従った。また州内の銅の鉱山で農具を作り、兵士や民に利益を得させた。卒し、青州刺史・安平侯を追贈され、諡を康といった。子の崔合は、字を貴和といい、若くして時誉があり、桐廬子の爵位を襲い、ついに常山太守の位に至った。

崔合の弟の崔秉は、若くして志気があり、陽平王元順が定州にいた時、秉は衛軍府の録事となり、毋極県令を兼ねた。時に甄琛が長史であったが、公事のため言い争っているうちに、拳で琛を打ち床から落とした。琛は本県の長であることを理由に、笑って論じなかった。その豪放な率直さはこのようなものであった。彭城王元勰が寿春に行った時、秉は従行し、壮士や侠客を招き寄せて部下とした。勰は彼を見て、左右に言った、「我は胆気をこの人に託そう」と。累遷して広平内史となり、多額の財貨を受け取ったため、清議に卑しまれた。後に燕州刺史となり、杜洛周に攻め囲まれたが、一年余り堅守した。朝廷が 都督 ととく の元譚を派遣して救援に向かわせたが、譚は敗れ、秉は定州に奔り、官を免ぜられた。太昌年間、驃騎大将軍・儀同三司に任ぜられた。たびたび老病を理由に解任を求め、永熙三年、職を去った。薨じ、 尚書令 しょうしょれい 司徒 しと 公を追贈され、諡を靖穆といった。

長子の崔忻は、字を伯悅といい、世務を処理する才 おさ があった。鄭儼の甥であったため、累遷して尚書左丞を兼ねた。孝荘帝の初め、河陰で害に遇い、殺害された。殿中尚書・冀州刺史を追贈された。

崔忻の弟の仲哲は、早くに実母を失い、祖母の宋氏に養われた。六歳の時、宋が亡くなると、泣いて慕い止まなかったので、見る者を悲しませた。性格は寛大で、常に将帥の謀略を自任した。軍功により安平県男の爵位を賜った。父の崔秉が燕州で包囲された時、朝廷に泣いて訴え、別将に任ぜられ、 都督 ととく の元譚とともに救援に向かい、戦死した。子の長瑜は、開府中兵参軍の位に至った。

長瑜の子の子樞は、学問に広く通じ文詞を好み、経書に通じ弁論に才幹があった。斉に仕え、考功郎中の位にあり、五礼の制定に参与し、文林館で待詔した。 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ね、周に聘使として赴いた。使節から戻り、通直 散騎常侍 さんきじょうじ に任ぜられ、度支の事務を兼ねて管掌した。子樞は世務に明るく理解があり、任じられた職で称職とされた。度支の職務で収賄の風聞があったため、御史に弾劾されたが、赦令に遇って免罪された。周に仕え、上士の位に至った。尉遅迥の乱に連座し、誅殺された。

子樞の次弟の子端もまた才幹があり、文芸に優れていた。殿中侍御史を歴任し、通直散騎侍郎の任で卒した。子端の弟の子博は、武平末年、河陽道行台郎となった。隋の開皇末年、泗州刺史の任で卒した。

子博の弟の子発は、文才があり、武平末年、秘書郎となり起居注を修めた。隋に仕えて秦王文学となり、国子博士の任で卒した。

長瑜の弟の叔瓚は、学識がかなりあり、性格は直言を好んだ。その妻は斉の昭信皇后の姉であったため、文宣帝に抜擢されて魏尹丞となった。蝗害が災いとなった時、帝が叔瓚に問うた。答えて言うには、「『漢書五行志』を調べますと、'土功を時に合わせず、蝗虫が害をなす'とあります。当今、外には長城を築き、内には三台を興しています。故にこの災いを招いたのです」と。帝は大いに怒り、左右に命じて彼を殴打させ、またその髪を掴んで引き抜き、溷(便所)の汁をその頭に注ぎ、引きずり出させた。これにより長く廃人同然となった。後に陽平太守の任で卒し、本州刺史を追贈された。

仲弟の叔彥は、撫軍の位にあった。

叔彥の弟の季通は、司農少卿の位にあった。季通の子の徳立は、学問を好み、文章を綴ることを愛し、『御覧』の編纂に参与し、済州別駕の位にあった。

季通の弟季良は、風采と声望が優雅で、太学博士の位にあり、征討の功により蒲陰県子の爵位を賜り、累進して太尉長史となった。康が東へ帰郷するに及んで、季良もまた職を去り帰養した。後に中軍将軍・光禄大夫の位にあり、康に先んじて家で卒し、尚書右僕射を追贈され、諡して簡といった。康の弟習は、字を貴礼といい、世に用いられる才能があり、河東太守の任で卒し、 へい 州刺史を追贈された。

鑒の兄㯹は、字を洛祖といい、博陵太守を代行した。㯹の子文業は、中書郎・鉅鹿太守となった。文業の子が伯謙である。

伯謙は字を士遜といい、貧しく暮らしながら母を養った。斉の神武帝が召し補って相府兼功曹とし、これを称えて言うには、「崔伯謙は清廉正直で公に奉じ、真に良き補佐である」と。七兵・殿中・左戸の三曹郎中に転じた。弟の仲譲が北 州司馬となり、高慎とともに反逆した。これに連座して官を免ぜられた。後に瀛州別駕・京畿司馬を歴任した。文襄が晋陽へ赴かんとする時、これを労って言うには、「卿は瀛部に足を聘わせ、すでに康歌を著わした。督府の務は総べるもの、これをもって卿に授く」と。別れに臨み、また馬上で手を執って言うには、「子の手を執り、子と偕に老いん、卿は深くこの情を体すべし」と。族弟の暹は当時寵遇を受け要職にあったが、伯謙は彼と旧僚同門でありながら、吉凶の事なければ未だ謁見を請うたことがなく、雅道をもって自ら処した。

天保の初め、済北太守に任ぜられ、恩信が大いに行われ、富める者にはその奢侈を禁じ、貧しき者には勧課して周済を与えた。県の公田は多く肥沃な地であったが、伯謙はことごとくこれを人に与えるべく換えた。また鞭を改め、熟皮を用いてこれを作り、血を見るに忍びず、恥を示すのみとした。朝貴が郡境を行き過ぎる時、人に問うて太守の政は如何かと。答えて言うには、「府君の恩化は、古の者にも無き所なり」と。人を誦して歌を作らせて言うには、「崔府君、能く政に臨む。田を退け鞭を易えて威徳を布き、人争い無し」と。客が言うには、「既に恩化と称するに、何の因ってまた威なるや」と。答えて言うには、「長吏はその威厳を憚り、人庶はその恩恵に蒙る、故に兼ねてこれを言うなり」と。相府の旧僚たるをもって、例として加授あり、鄴に征し赴かんとした。百姓は号泣して道を遮り、数日も前に進むことができなかった。

弟の仲譲が関中にいるため、再び内任に居らず、南鉅鹿太守に任ぜられた。着任して礼譲をもって導き、豪族は皆心を改めて整然と肅した。事の大小を問わず、必ず自ら親しく覧た。県において貧弱で未だ理せられざる者あれば、皆言うには「我自ら白し須らく公に、決せられざるを慮らず」と。郡において七年、獄に停囚無し。毎度大使が巡察する時、常に上第に処せられた。征されて銀青光禄大夫に拝された。

伯謙は少時に経・史を読み、晚年は『老子』・『荘子』を好み、容止は厳然として慍色無く、親賓至れば、則ち酒を置き相い娯しんだ。清言は俗事に及ばず、士大夫はこれをもって儀表とした。卒し、南充州刺史を追贈され、諡して懿といった。伯謙の弟仲譲は、西魏に仕え、位は鴻臚少卿に至った。

崔辯は、字を神通といい、鑒の従祖弟である。祖父の琨は、字を景龍といい、本郡太守を代行した。父の経は、兗州刺史を追贈された。辯は学問が経史に渉り、風儀は整い峻厳で、献文帝が征して中書博士・武邑太守に拝した。政事の余暇には、専ら勧学に努めた。卒し、安南将軍・定州刺史を追贈され、諡して恭といった。

長子の景俊は、鯁直で高風あり、古を好み博く渉猟し、経明行修をもって、征されて中書博士に拝された。侍御史・主文中散を歴任した。孝文帝は名を逸と賜った。後に員外散騎侍郎となり、著作郎韓興宗とともに朝儀を参定した。雅く孝文帝に知られ重んぜられ、国子博士に遷った。公事ある毎に、逸は常に詔を受けて独り進み、博士が特命されるのは逸に始まる。通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・廷尉少卿に転じ、卒した。

子の巨倫は、字を孝宗といい、幼くして孤となった。長ずるに及び、経史を歴渉し、文学武芸あり。叔父の楷が殷州にあった時、巨倫は引き続き長史・北道別将となった。州において賊に陥り、存亡を斂恤し、賊に義とされた。葛栄はその才名を聞き、黄門郎に用いんとしたが、巨倫は心においてこれを悪んだ。五月五日に至り、官寮を会集し、巨倫に詩を贈らせた。巨倫は乃ち言うには、「五月五日時、天気已に大熱、狗便ち呀きて死せんと欲し、牛復た喘ぎて舌を吐く」と。これをもって自ら晦まし、免れることを得た。死士を結び、夜中に南走し、賊に逢い、皆恐れて成らざらんとす。巨倫は言うには、「寧ろ南に死すとも一寸、豈に北に生きんや一尺!」と。便ち賊を欺いて言うには、「吾は勅を受けて行く」と。賊は火を爇して勅を観ようとし、火未だ然えず。巨倫は手ずから賊十余人を刃し、賊は乃ち四散し、馬数匹を得た。夜陰に道を失い、唯だ仏塔の戸を見て行く。洛陽に到り、持節別将として北討した。初め、楷の喪の始め、巨倫は収殯を倉卒に行い、事周固ならず。ここに至って遂に路を偷みて改葬し、併せて家口を窃んで帰った。尋いで国子博士を授けられた。

荘帝が即位すると、東濮陽太守に任ぜられた。当時河北は紛擾し、人賊を避けて多く郡界に入った。歳は凶作で饑乏し、巨倫は資を傾けて贍恤し、務めて相い全済せしめた。時に類してこれを高しとした。元顥が洛に入り、郡を拠えて従わず、荘帝が宮に還ると、漁陽県男に封ぜられた。後に光禄大夫に任ぜられた。卒し、子の子武が襲封した。

初め、巨倫に姉あり、明慧で才行あり。眇一目を患うに因り、内外の親族、求むる者無し。その家議してこれを下嫁せんと欲す。巨倫の しゅうとめ 、趙国李叔胤の妻、聞いて悲感し言うには、「吾が兄盛徳、不幸にして早世す、豈にこの女をして、卑族に屈事せしめんや」と。乃ち子の翼のためにこれを納れた。時に人はその義識を歎じた。

逸の弟模は、字を叔軌という。身長八尺、囲もまたこれの如し。叔父の後を出で、雅く志度あり。蕭宝夤が関・隴を討つに当たり、引いて西征別将とし、屡々戦功あり、槐里県伯に封ぜられた。後に岐州事を行い、賊を撃ち、陣に歿した。永熙年中、驃騎大将軍・儀同三司・ 都督 ととく ・相州刺史を追贈された。模の弟が楷である。

楷は字を季則といい、広平王懐の文学となった。正始年中、王国の官はその人に非ざるを以て、多く戮せられたが、唯だ楷と楊昱のみは数え諫諍したことにより免れることを得た。後に太子中舎人・左中郎将となった。高肇に党附したことを以て、中尉に劾せられた。事は『高聡伝』にある。楷の性質は厳烈で、能く豪強を摧挫し、時に人の語るところに曰く、「莫れ鋋(鬱買反)彳解(孤楷反)せしむ、崔楷に付すべし」と。時に冀・定数州は頻りに水害に遭い、楷はこれを疏導する便宜を上疏し、事遂に行われた。

孝昌の初め、殷州を置き、楷を刺史とし、後将軍を加えた。楷が州に赴かんとする時、人皆勧めて単身で職を述べよと。楷は言うには、「単身で赴任すれば、朝廷は吾に進退の計有りと謂い、将士また誰か肯て志を固くせんや」と。遂に一家を挙げて州に赴いた。賊勢已に逼り、或いは勧めて弱小を減らしてこれを避けよと。乃ち第四女・第三男を夜に出ださせた。既にして言うには、「一朝にして児女を送免せば、将に吾が心固からずと謂わん」と。遂に命じて追い還らせた。賊の来攻するに及び、楷は力を率いて拒抗し、争わざる者無く、皆称して崔公尚お百口を惜しまず、吾等何ぞ一身を愛せんやと。力竭きて城陥ち、楷は節を執って屈せず、賊遂にこれを害した。楷兄弟父子並びに王事に死し、朝野傷み歎じた。侍中・鎮軍将軍・定州刺史を追贈された。永熙年中、また特に驃騎大将軍・儀同三司・ 都督 ととく ・冀州刺史を追贈された。

長子の士元は、沈雅で学尚あり。州陥ち、戦没し、平州刺史を追贈された。

子は育王、若くして器量と才幹を称され、斉に仕えて起部郎に至る。子は文豹、字は蔚、若くして文才あり、本州の大中正となる。士元の弟は士謙。

士謙は、孝昌の初めに著作佐郎として初任官する。後に賀抜勝が荊州を出鎮するに及び、士謙を行台左丞とする。孝武帝が西遷すると、士謙は勝に倍道兼行して関右の帝に謁するよう勧めたが、勝は用いなかった。州人劉誕が侯景の軍を引きいて急に至り、勝はこれと戦って敗れ、遂に梁に奔った。士謙は共に行く。梁に至ってからは、しばしば援軍を請うた。梁の武帝は軍を出さなかったが、勝らの志節を嘉して、共にその帰国を許した。そこで士謙を先に帰らせ、且つ隣好を通じさせた。周の文帝はその名を聞いており、甚だ礼遇し、千乗県男の爵を賜う。勝が至ると、太師長史に任じ、功により爵を子に進め、尚書右丞に任ずる。周の文帝に従って洛陽の包囲を解き、河橋の戦いを経て、定州大中正・瀛州刺史を加えられる。また随郡において柳仲礼を破り、魏興において李遷哲を討ち、共に功あり、驃騎大將軍・開府儀同三司・直州刺史に進む。宇文氏の姓を賜う。恭帝の初め、利州刺史に転ずる。

士謙の性格は明らかで悟りが深く、政術に通暁し、吏民は畏れてこれを愛した。周の保定二年、総管・安州刺史に遷り、大将軍を加えられ、武康郡公に爵を進める。天和の中、江陵総管・荊州刺史を授かる。州は統轄が遠く長く、風俗は夷夏を兼ね、また南は陳の境に接し、東は斉の敵に隣接する。士謙は外には強敵を防ぎ、内には軍人を撫で、風化が大いに行われ、良牧と称された。毎年の考課成績は、常に天下の最上となり、しばしば詔をもって褒め称えられた。士謙が賀抜勝に従って荊州にいた時は、親遇されていたが名位は未だ顕れず、その位に就くと、朝野は栄誉と見なした。州において卒し、全境が痛惜し、祠堂を立て、四時に祭饗した。子の曠が嗣ぐ。

士謙は性、至孝であり、弟の説と特に友愛し、年齢と地位共に高くなっても、資産は全て私せずに分け合った。家に居ては厳粛であり、曠及び説の子の弘度は共にその遺訓を奉じたという。

曠は若くして温雅であった。大象の末、開府儀同大将軍・浙州刺史の位に至る。曠の弟は彭。

彭は字を子彭といい、幼くして孤となり、母に事えて孝で知られた。性は剛毅で、武略あり、騎射に巧みで、『周官』・『尚書』に通じ、大義を略通した。周に仕え、累遷して門正上士となる。隋の文帝が丞相となった時、周の陳王純が斉州を鎮守していた。帝はその変を恐れ、彭を二騎で純を征し入朝させようと遣わす。彭は斉州に至る三十里手前で、病と偽って伝舎に止まり、人を遣わして純を召した。純は変ありと疑い、多くの従騎を率いて彭の所に至る。彭は暇を請い、騎士に目配せして純を捕らえ鎖した。そして大声で言うには、「陳王に罪あり、詔をもって入朝を征す、左右は軽々しく動くべからず」と。左右は愕然として去った。都に至り、上儀同に任ずる。帝が践祚すると、監門郎将に遷り、右衛長史を兼領し、安陽県男の爵を賜う。再び驃騎将軍に遷り、常に宿衛を司る。性は謹密で、省闥に二十余年、当直の時は仗中で終日危坐し、一度もだらけた容態を見せなかった。上は常に言うには、「卿が当直の日は、我が寝処も自ら安し」と。また嘗て言うには、「卿の弓馬は固より人に絶えるが、少しは学を知るか」と。彭は言う、「臣は少より『周礼』・『尚書』を愛し、休沐の暇も、敢えて廃さず」と。上は言う、「試みに我が為にこれを言え」と。彭は因って君臣戒慎の義を説き、上は善しと称した。見る者はこれを知言と為した。後に上開府を加えられ、備身将軍に遷る。

上は嘗て武徳殿において達頭可汗の使者を宴し、梁の上に鳩が鳴いた。彭に命じてこれを射させると、命中し、上は大いに悦び、銭一万を賜うた。使者が帰ると、可汗はまた使者を遣わして崔将軍と一度相見えることを請うた。上は言う、「これは必ずや善射が虜庭に聞こえたのだ」と。遂にこれを遣わす。至ると、可汗は善射者数十人を召し、肉を野に投げて飛鳶を集め、その善射者に射させたが、多くは命中しなかった。彭は連発して数矢を放つと、皆弦に応じて落ちた。突厥は嘆服しない者はなかった。仁寿の末、安陽県公に爵を進める。煬帝が即位すると、左領軍大将軍に遷る。時に漢王諒が初めて平定された時、彭に山東を鎮遏させ、また慈州の事を領させる。卒し、大将軍を贈られ、諡して肅といった。子の宝徳が嗣ぐ。

士謙の弟は説。説は本名を士約といった。若くして気概あり、膂力人に過ぎ、特に騎射に巧みであった。賀抜勝が荊州を牧すると、仮節・冠軍将軍・防城 都督 ととく とする。また梁に奔るに従う。再び梁より西魏に帰る。武衛将軍・ 都督 ととく を授かり、安昌県子に封ぜられる。周の文帝に従って弘農を回復し、沙苑に戦い、皆功あり、侯に爵を進め、京兆郡守を除される。累遷して都官尚書・定州大中正となり、安固県侯に改封される。宇文の姓を賜い、並びに名を説と賜う。驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、侍中を加えられ、万年県公に爵を進める。再び総管・涼州刺史に遷る。説は政に臨み強毅で、百姓はこれを畏れた。後に使持節・能和中三州・崇徳等十三防諸軍事を除かれ、大将軍を加授され、安平県公に改封される。建徳四年、卒し、廓・延等五州刺史を贈られ、諡して壯といった。子は弘度。

弘度は字を摩訶衍という。膂力人に絶え、儀貌魁岸で、鬚面甚だ偉く、性は厳酷である。十七歳の時、周の大塚宰宇文護が親信に引き、累転して大 都督 ととく となる。時に護の子の中山公訓が蒲州刺史となり、弘度を従えさせた。嘗て訓と楼に登り、上層に至り、地を去ること四五丈、これを俯瞰する。訓は言う、「恐るべし」と。弘度は言う、「これ何ぞ畏るるに足らん」と。忽ちに投げ下り、地に至って損なう所なく、訓は大いにこれを奇とした。後に戦功により儀同を授かる。斉平定に従い、上開府・鄴県公に進む。尋で汝南公宇文神挙に従って范陽において盧昌期を破り、鄖公韋孝寬の淮南経略に従う。前後の勲により上大将軍に位を進める。父の爵安平県公を襲ぐ。

尉遅迥が反すると、弘度は行軍総管として韋孝寬に従ってこれを討ち、当たる所靡かざるはなかった。弘度の妹は先に迥の子に嫁いでいた。 鄴城 ぎょうじょう を破り、迥が窮迫して楼に昇ると、弘度は直ちに龍尾を上ってこれを追う。迥は弘度を射んとしたが、弘度は兜鍪を脱いで言うには、「今日は各々国事を図る、私を顧みるを得ず。事既に此の如し、早く身の計りを為せ、何をか待たんとする」と。迥は弓を地に擲ち、大丞相を口を極めて罵り、自殺した。弘度は弟の弘升を顧みて、迥の首を取らせる。上柱国に位を進める。時に行軍総管は例として国公に封ぜられるが、弘度は時に迥を殺さず、悪言を致すに任せたため、これにより爵一等を降じて武郷郡公とする。

開皇の初め、行軍総管として原州において突厥を拒ぐ。還り、華州刺史に拝される。妹を秦孝王の妃に納れる。尋で襄州総管に遷る。

弘度は平素より貴く、下を禦するに厳急で、所在において令行禁止、盗賊は跡を屏う。梁主蕭琮が来朝して止められると、弘度を江陵総管とし、荊州を鎮守させる。陳人はこれを憚り、境を窺わなかった。行軍総管として秦孝王に従って陳を平らげ、物五千段を賜う。高智慧らが乱を起こすと、また行軍総管として楊素に隷属する。弘度と素は品は同じだが、年は素より長く、素は常に屈して下ったが、一朝にして素に隷属するは、意甚だ平らかでなかった。素もまたこれを優容した。還ると、行軍総管として原州の事を検校し、胡に備える。虜無くして還る。上は甚だ礼遇し、またその弟弘升の女を河南王の妃とする。仁寿の中、太府卿を検校する。

自ら一門に二妃を出だすを以て、降下する所なし。常に其の寮吏を誡めて曰く、「人は誠恕あるべし、欺誑するを得ず」と。皆曰く、「諾」と。後に嘗て鱉を食す、侍者八九人。弘度之に問うて曰く、「鱉は美しきか」と。人懼れて、皆曰く、「美し」と。弘度大罵して曰く、「傭奴!何ぞ敢えて我を誑かさんや?汝等初め鱉を食せず、安んぞ其の美しきを知らん」と。俱に之を杖つこと八十。官属百工之を見て、汗流れざる莫く、敢えて欺隠する者無し。時に屈突蓋有りて武候車騎と為り、亦厳刻なり。長安之が為に語りて曰く、「三斗の醋を飲むとも、崔弘度を見ず;三斗の艾を炙すとも、屈突蓋に逢わず」と。然れども弘度家に居るや、子弟班白なりとも、動もすれば捶楚を行い、閨門整肅にして、当世に称せらる。未幾にして秦王妃罪を以て誅せられ、河南王妃復た廃せらる。弘度憂恚し、病を謝して家に在り。諸弟乃ち之と別居し、弥々志を得ず。煬帝即位し、河南王太子と為る。帝将に復た崔妃を立てんとし、中使を遣わして第に就き宣旨す。使者弘升の家に詣る、弘度之を知らず。使者反り、帝曰く、「弘度何か言有りや」と。使者曰く、「弘度疾を称して起たず」と。帝默然たり、其の事竟に寢す。弘度憂憤し、未幾にして卒す。

弘升、字は上客、周に在りて右侍上士と為る。尉遲迥を平らぐに従い、功を以て上儀同を拝す。尋ねて上開府を加えられ、黄台県侯に封ぜらる。隋文禅を受け、爵を進めて公と為し、驃騎將軍を授く。慈鄭二州刺史・襄州総管を歴任す。戚属の故を以て、待遇隆重なり。及んで河南王妃罪を以て廃せらるるに及び、弘升亦た官を免ぜらる。煬帝即位し、冀州刺史・信都太守を歴任し、位は金紫光禄大夫、転じて涿郡太守と為る。遼東の役、左武衛大將軍事を検校し、平壤を指す。宇文述等と同く敗れ、奔り還り、病を発して卒す。

崔挺、字は雙根、辯の從父弟なり。父郁、位は濮陽太守。挺幼くして孤と為り、喪に居りて礼を尽くし、少しく学を敦む。五代同居す、後頻年に饑え、家始めて分析す。挺弟振と田宅旧資を推譲し、唯だ墓田を守るのみ。家徒壁立すれども、兄弟怡然として、手巻を釋かず。郷人贍遺有り、挺辞して後に受け、仍亦之を散ず。秀才に挙げられ、射策高第。中書博士を拝し、侍郎に転ず。書を工にするを以て、勅を長安に受け文明太后の父燕宣王の碑を書き、爵を秦昌子に賜う。登聞令に転じ、典属国下大夫に遷る。律令を参議するを以て、帛・穀・馬・牛等を賜う。尚書李沖甚だ之を重んず。孝文挺の女を以て嬪と為す。宋王劉昶南に彭城を鎮むるに、詔して挺を長史と為さんとす、疾を以て辞し免る。乃ち王肅を以て長史と為す、其の遇わるること此の如し。後に昭武將軍・光州刺史を拝し、風化大に行わる。

車駕兗州に幸するに及び、挺を行在所に赴かせ召し、臨邊の略を以て問い、因りて文章に及ぶ。帝甚だ悦び、謂いて曰く、「卿を別つ以来、倏焉として二載。吾の綴る文、以て一集を成す、今当に卿に副本を給すべし」と。侍臣を顧みて曰く、「旄を擁する者皆此の如くならば、何ぞ憂えんや」と。復た州に還る。 散騎常侍 さんきじょうじ 張彝風俗を行い巡るに及び、謂いて曰く、「彝使を受け方に巡り、謡訟を采察す。境に入り政を観るに、実に清使の名を愧づ」と。州旧掖城の西北数里に斧山有り、峰嶺高峻なり。北は滄海に臨み、南は岱嶽を望む。挺頂上に於いて観宇を営まんと欲す。故老曰く、「此の嶺上、秋夏の際、常に暴雨有り。相伝えて云う、是れ龍道なりと。恐らく此の観は久しく立つ可からず」と。挺曰く、「人龍相去ること、何ぞ遠きこと有らん。虯龍倏忽たり、豈に一路のみならんや」と。遂に之を営む。数年の間、果たして風雨の異無し。挺既に代わり、即ち風雨の為に毀され、遂に立つ能わず。衆以て善化の感ずる所と為す。時に犯罪を以て辺に配する者多く逃越有り、遂に重制を立て、一人犯罪して逋亡すれば、闔門役に充つ。挺上書し、以爲く『周書』に父子の罪は相及ばず、一人の犯罪を以て、闔門に延ぶは、豈に哀しまざらんや、と。辞甚だ雅にして切なり、帝之を納る。

是に先立ち、州内鉄少なく、器用皆他境に之を求む。挺表を上して鉄官を復し、公私頼む有り。孝文将に天下の氏族を辨ぜんとし、仍亦訪い定め、乃ち遥かに挺を本州大中正に授く。掖県に人有り、年九十を踰え、板輿に乗りて州に造る。自ら称して少く曾て林邑に使し充てり、一の美玉を得、方尺四寸、甚だ光采有り、之を海島に蔵し、垂ること六十歳、忻んで明政に逢い、今願わくは之を奉らんとす、と。挺曰く、「吾雖も徳古人に謝す、未だ玉を以て宝と為す能わず」と。船を遣わし随い取りしに、光潤果たして然り。終に肯て受けず、乃ち表して都に送る。景明初め、代えらるるを見る。老幼涕泣し追随し、縑帛を送り贈るも、悉く納れず。

散騎常侍 さんきじょうじ 趙修宣武に幸せらる。挺同じ州壤と雖も、未だ嘗て門に詣らず。北海王詳 司徒 しと ・録尚書事と為り、挺を以て司馬と為さんとす。固く辞すれども免れず。世人皆其の屈するを歎くも、挺之に処するに夷然たり。詳選を摂り、衆人競いに考第を称し、以て遷叙を求め、挺終に言無し。詳曰く、「崔光州の考級並びに未だ加授せず、宜しく一牒を投じ、当に申請すべし。蘧伯玉独り君子と為るを恥ず、亦何の故ぞ默然たるや」と。挺曰く、「階級は聖朝の大例、考課も亦た国の恆典、自ら炫きて進を求むるに至りては、窃に之を羞ず」と。詳大いに相称歎す。其の司馬と為るや、詳未だ嘗て名を呼ばず、常に州号を称し、以て優礼を示す。卒す。輔国將軍・幽州刺史を贈られ、諡して景と曰う。光州の故吏凶問を聞き、悲感せざる莫く、共に八尺の銅象を鑄り、城東の広固寺に於いて八関斎に赴き、冥福を追奉す。

初め、崔光貧賤、挺衣食を贍遺し、常に親しく敬す。又た邢巒・宋弁を童幼に識り、世其の人を知るを称す。官を歴ること三十余年、家資益さず、食重味せず、室に綺羅無く、閨門の内、雍雍如たり。諸子に恭敬廉譲せしめんと欲し、因りて孝を以て字と為す。葬らるるに及び、親故多く贈賵有り、諸子挺の素志を推し、一も受けざる所無し。子六人有り、長子孝芬。

孝芬、字は恭梓。早くより才識有り、博学にして文章を好む。孝文召し見て、甚だ之を嗟賞す。李彪挺に謂いて曰く、「比に賢子の帝に謁するを見るに、旨喻殊に優れり。今当に絶群と為すべし」と。挺曰く、「卿自ら人父子の間に善く処せんと欲す、然れども斯の言吾敢えて聞かず」と。後に父の爵を襲い、累遷して 司空 しくう 属・定州大中正と為る。剖判に長じ、甚だ能名有り、府主任城王澄雅に之を重んず。澄地制八条を奏す、孝芬の参定する所なり。廷尉少卿に遷る。孝昌初め、梁の将裴邃等淮南を寇す。詔して行台酈道元・ 都督 ととく 河間王榮をして之を討たしむ。孝芬に勅して節を持ち令を催し赴接せしむ。賊退きて還る。荊州刺史に遷り、尚書・南道行台を兼ね、軍司を領し、諸将を率いて神俊を援け、因りて之に代わる。孝芬遂に恆農道より南に入る。敵便ち奔散し、人還り安堵す。明帝之を嘉労す。

後に元叉の党として、盧同・李奨らと共に除名され、召還された。また孝芬を廷尉に任じた。章武王元融が贓貨により弾劾されると、孝芬は重法をもってこれを断じた。元融が 都督 ととく となり、鮮于修礼を討つため北征した時、孝芬の弟孝演が宗従を率いて博陵に在り、賊に攻め落とされ、害された。元融は密かに孝演が賊に降り逆を為したと上奏し、孝芬は捕らえられた。一家は梁に奔り、赦令に遇って初めて帰還した。後に梁の将成景俊が彭城を脅かすと、孝芬は尚書右丞を兼ね、徐州行台となった。孝芬が出発せんとする時、入朝して辞した。霊太后は言った、「卿の娘は今我が子に仕え、卿とは親戚である。どうして裏切り、元叉の車内に頭を入れて、『この おうな は始末せねばならぬ』などと言ったのか」。孝芬は言った、「臣は国より厚恩を蒙り、道理でそのような言葉を言うはずがない。仮にそのような言葉があったとしても、誰が聞くことができようか。もしそれを聞いた者がいるとすれば、その者は元叉と親密であり、臣よりはるかに近い者です。その者と対面を乞い、虚実を弁じさせてください」。太后は恥じ入る色があった。孝芬が到着すると、景俊らは力尽きて退却した。孝芬を尚書を兼ねさせ、徐・兗二州行台とした。

建義初年、太山太守羊侃が郡に拠って反し、南賊を引き連れて兗州行台を包囲した。孝芬を 散騎常侍 さんきじょうじ ・鎮東将軍・金紫光禄大夫に任じ、引き続き尚書・東道行台を兼ねさせ、大 都督 ととく 刁宣と共に救援に向かわせた。行台の于侃と時を同じくして到着した。到着するとすぐに包囲し、羊侃は包囲を突破して梁に奔った。永安年間、西兗州刺史を授かったが、孝芬は外任を倦み、固辞して行かず、太常卿となった。太昌初年、殿中尚書を兼ね、後に儀同三司を加えられ、吏部尚書を兼ねた。孝武帝が関中に入ると、斉の神武帝(高歓)が洛陽に至り、孝芬は尚書辛雄・劉廞らと共に誅殺された。その家族は没官されたが、天平年間になって赦免された。

孝芬は博聞で弁舌に優れ、談論を善くし、後進を愛好して、終日欣然としていた。古今を商榷し、時に嘲謔を交え、聞く者は疲れを忘れた。文筆数十篇がある。子は八人いた。

長子の勉は、字を宣祖といい、史伝に広く通じていた。普泰年間、尚書右丞を兼ねた。勉は付会を善くし、世論は浮競であるとこれを譏った。 尚書令 しょうしょれい 爾朱世隆に親しく遇されたが、尚書郎魏季景は特に世隆に知られており、勉と季景は内々に甚だ不仲であった。季景が世隆に右丞を求め、勉の兼務を奪った。世隆は季景を任用し、勉は遂に失望落胆した。太昌初年、 散騎常侍 さんきじょうじ ・征東将軍・金紫光禄大夫・定州大中正に任じられ、左右廂への出入りを許された。その家が収監された際、逃れて難を免れた。後に斉の神武帝(高歓)に謁し、労い慰撫された。天平初年、勉は勲貴の妻子を定州に送ることを命じられ、それによって帰還することができた。母李氏の喪に遭い、勉は哀哭が過ぎて体を損ない、病を得て卒した。子がなく、弟の宣度が子の龍子を後嗣とした。勉の弟に猷がいる。

猷は字を宣猷という。若くして学を好み、風度は閑雅であった。性質は鯁直で、軍国を籌策する才略があった。普泰初年、累遷して 司徒 しと 従事中郎となった。家難に遭った後、遂に間道を通って関中に入った。魏の孝武帝に謁すると、その哀痛は左右を動かした。帝はそのために顔色を改め、目を送って言った、「忠孝の道、この一門に集まる」。即座に本官のまま門下の事を奏上させた。大統初年、給事黄門郎を兼ね、平原県伯に封じられた。二年、黄門の正官となる。行軍して竇泰を擒え、弘農を回復し、沙苑で破るなど、猷は常に本官のまま軍に従い文翰を司った。五年、 司徒 しと 左長史に任じられ、驃騎将軍を加えられた。当時太廟が完成したばかりで、四時の祭祀にまだ俳優や角抵の戯れを設けていた。また郊廟の祭官には、多く仮官や兼官があった。猷は上疏して諫めた。上奏され、その意見は容れられた。京兆尹に遷った。当時、婚姻や礼嫁の聚宴の際に、多く音楽を挙行した。また市街の富家では、衣服が奢侈で、織成の文繡を用いる者さえあった。猷は禁断を請い、その事は全て施行された。盧辯らと共に六官の創修に当たった。十二年、浙州刺史に任じられた。十四年、侯景が河南に拠って帰順を申し出ると、行台王思政を派遣してこれに赴かせた。周の文帝(宇文泰)は思政に書を送り、「崔宣猷は智略が明らかで豊かであり、応変の才がある。もし疑わしいことがあれば、彼と量り可否を論ずるがよい」と言った。思政は初め襄城に兵を駐め、後に潁川に行台を置き、いずれも猷に書を送った。猷は返書して言った、「襄城は京洛を控え帯び、実に当今の要地であり、もし動静があれば、容易に応接し合える。潁川は既に寇境に隣接し、また山川の険固もない。賊が潜来すれば、直ちに城下に至るであろう。兵を襄城に駐め、行台の所在地とするに如くはない。潁川には州を置き、郭賢を遣わして守らせる。そうすれば表裏膠固となり、人心も安んじ易く、仮に不慮の事があっても、どうして患いとなろうか」。使者が周の文帝に会い、その旨を啓上した。周の文帝は猷の策に従うよう命じた。思政は重ねて上奏し、朝廷と約を立てたいと求め、賊が水攻めした場合は一週間を期限とし、陸攻めした場合は三年を期限とし、期限内に事があっても援軍を煩わせず、それを過ぎてからは朝廷の裁量に任せると請うた。文帝はこれを許した。後に潁川が陥落すると、周の文帝は深く追悔した。猷は病により職を去ったが、大軍の東征に際し、周の文帝は馬を賜い、軍に随行して籌略を諮問した。十七年、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・本州大中正に進み、宇文の姓を賜った。

恭帝元年、周の文帝は梁・漢の旧路を開こうとし、猷に命じて儀同劉道通ら五人を督させ、車路を開通させ、山を鑿ち谷を埋めて五百余里、梁州に至らしめた。即座に猷を 都督 ととく ・梁州刺史とした。周の文帝が崩御すると、始・利・沙・興などの諸州が兵を阻んで逆を為し、信・合・開・楚の四州も叛いたが、梁州の境内のみは、人に二心がなかった。利州刺史崔士謙が援軍を請うと、猷は兵六千を派遣した。信州が糧食尽きると、猷は米四千斛を送った。これによって二鎮は全きを得た。猷の第二女は、帝が養女とし、富平公主に封じた。

周の明帝が即位すると、召されて禦正中大夫に任じられた。当時は『周礼』に依って天王と称し、また年号を建てなかった。猷は、世に澆淳があるので、帝王はそれによって沿革するのだと考えた。今、天子が王と称するのは、天下を威するに足りない。秦漢に従い、皇帝と称し、年号を建てることを請うた。朝議はこれに従った。司会中大夫に任じられ、禦正の職は元の通りとした。明帝が崩御し、遺詔して武帝を立てた。晋公宇文護が猷に言った、「今、遺旨を奉じて遵おうとしている。君はどう思うか」。対えて言った、「殷の道は尊尊、周の道は親親です。今、朝廷は既に『周礼』を遵んでいる以上、みだりにこの義に違うことはできません」。採用されなかったが、当時はその正を守ることを称えられた。

陳の将軍蔡皎が帰順して来ると、晋公宇文護が南伐を議し、公卿は敢えて言う者もなかった。猷のみが進み出て言った、「前年東征し、死傷は半ばを過ぎた。その後、慰撫を加えたとはいえ、創痍はまだ回復していない。近ごろ長星が災いをなしたのは、上天が垂れ示す戒めである。どうして兵を窮め武を極めて、その譴責を重ねることができようか」。議は容れられなかった。後に水軍は果たして敗れ、裨将の元定らは遂に江南で没した。建徳六年、少 司徒 しと に任じられ、上開府儀同大将軍を加えられた。隋の文帝が禅を受け、猷を前代の旧臣として、大将軍を授け、汲郡公に爵を進めた。

開皇四年、卒去。諡して明といった。子の仲方が嗣いだ。

仲方は字を不齊という。幼少より書を読むことを好み、文武の才略を有していた。十五歳の時、周の文帝(宇文泰)がこれを見て異とし、諸子と共に学ばせた。隋の文帝(楊堅)もその中に在った。これにより帝と幼少より親密に交わった。後に明経をもって しん 公宇文護の参軍となり、記室に転じ、司正大夫に遷り、斛斯征・柳敏らと共に礼律を修定した。後に軍功により平東将軍・銀青光禄大夫を授けられ、石城県男の爵を賜った。時に武帝(宇文邕)は密かに斉を滅ぼす志を有し、仲方は二十の策を献じ、帝は大いにこれを奇とした。また少内史の趙芬と共に格式を刪定した。まもなく帝に従って しん 州を攻め落とし、また仲方に翼城等の四城を説き下すことを命じ、儀同を授けられ、范陽県侯に進爵した。後に行軍長史として郯国公王軌に従い、呂梁において陳の将軍呉明徹を捕らえ、仲方の献策が多かった。宣帝(宇文贇)が位を嗣ぐと、少内史となった。

時に帝が崩御し、隋の文帝が丞相となると、仲方と相見え、手を握って極めて歓び、仲方もまた心を帰した。その夜に便宜十八事を上奏し、帝はことごとく嘉してこれを納れた。また帝に応天受命を勧め、これに従った。禅譲を受けるに及び、上は仲方を召して高熲と正朔服色の事を議せしめた。仲方は言う、「 しん は金行であり、後魏は水であり、周は木である。皇家は火をもって木徳の統を承く。また聖躬が誕生された初めに、赤光の瑞があった。車服旗牲は、並びに赤を用いるべきである」と。また上に六官を除き、漢魏の旧に依ることを勧め、ことごとく従われた。上開府に進位し、司農少卿を授けられ、固安県公に進爵した。朔方・霊武において丁三万人を徴発して長城を築かせ、東は黄河に至り、西は綏州に拒み、南は勃出嶺に至り、七百里に綿歴した。翌年、また仲方に丁十万人を徴発させ、朔方より以東の辺境の険要に沿って数十城を築き、以て胡寇を遏えしめた。父の喪に遭い、職を去った。喪期に満たず、起用されて虢州刺史となった。上書して陳を取る策を論じて曰く、

臣謹んで案ずるに、 しん の太康元年は歳庚子に在り、 しん の武帝が呉を平らげた。今の開皇六年に至り、歳次は丙午、合わせて三百七年である。『春秋宝乾図』に云う、「王者は三百年に一度法を ゆる す」と。今三百の期は、至りと言うべし。陳氏の草窃は丙子より起こり、今の丙午に至る。また子午は沖たり、陰陽の忌である。昔、史趙が言うに、「陳は顓頊の族、水である。故に歳が鶉火に在って滅ぶ」と。また云う、「周の武王が商を克ち、胡公満を陳に封ず」と。魯の昭公九年に至り、陳に災あり、裨灶が曰く、「歳五たび鶉火に及びて後に陳亡び、楚これを克つ」と。楚は祝融の後なり、火正たり。故にまた陳を滅ぼす。陳は舜の後を承け、舜は顓頊を承く。太歳は左行し、歳星は右転す。鶉火の歳、陳族再び亡び、戊午の年、媯虞の運尽きん。語の跡は異なるも、事を考うるに別なし。皇朝の五運は相承して火徳を感ず。而して国号は隋と為す。隋は楚と分を同じくし、楚は火正たり。午は鶉火、未は鶉首、申は実沈、酉は大梁たり。既に周・秦・ しん ・趙の分に当たり、若し此の分に当たって兵を発せば、将に歳の助けを得ん。今を以て古を量るに、陳の滅ぶは疑いなし。臣は午・未・申・酉は並びに其の数極まれりと謂う。蓋し聞く、天時は地利に如かず、地利は人和に如かずと。況んや主は聖にして臣は良く、兵は強く国は富めり。陳は既に上に主昏く、下に 人讟 うら み、険に百二の固き無く、衆は九国の師に非ず。独り此の島夷にして、天討を とど めんや。伏して朝廷を度るに、自ら宏謨有らん。 皞蕪 こうじょう の見る所、冀くは 螢爝 けいしゃく を申さん。今は唯だ武昌より以下、蘄・和・徐・方・吳・海等の州に、更に精兵を帖し、密かに渡りの計を営み;益・信・襄・荊・基・郢等の州に、速やかに舟楫を造り、形勢を多く張り、水戦の具と為すを須いん。蜀・漢の二江は、是れ其の上流、水路の沖要、必ず争う所なり。賊は流頭・荊門・延洲・公安・巴陵・隠磯・夏口・盆城に船を置くも、然れども終に漢口・峡口に聚まり、以て水戦火決せん。若し賊必ずや上流に軍有りとして、精兵を令して赴援せしむる者は、下流の諸将、即ち須らく便を択びて横度すべし。若し衆を擁して自衛せば、上江水軍、鼓行して以前せん。九江五湖の険を恃むと雖も、徳無くんば以て固と為す無く;徒に三呉百越の兵有りと雖も、恩無くんば能く自立すべからず。

上はこれを覧て、大いに悦んだ。基州刺史に転じ、朝に征された。仲方は因りて経略を陳べ、上はこれを善とし、御袍褲並びに羅雑彩五百段を賜い、開府に進位した。大挙して陳を伐つに及び、仲方を以て行軍総管と為し、秦王(楊俊)と会した。陳が平らぐと、事に坐して免官された。未だ幾ばくもせず、復位した。

後数年を経て、会州総管を授けられた。時に諸羌は未だ賓附せず、詔して仲方にこれを撃たしめ、賊と三十余戦し、紫祖・四鄰・望方・涉題・幹碉・小鉄囲山・白男・弱水等の赭都諸賊を悉く平らげた。奴婢一百二十口・黄金三十斤を賜った。代州総管に遷った。総べて征されて朝に入る。時に文帝が崩御し、漢王(楊諒)の余党が呂州を拠して下らざるに会した。煬帝は周羅碶を遣わしてこれを攻めさせたが、流れ矢に中って卒した。及びち仲方に命じて其の衆を代総せしめ、これを抜き、大将軍に進位した。戸部・礼部尚書を歴任し、事に坐して免官された。尋いで国子祭酒となり、太常卿に転じた。朝廷は其の衰老を以て、上郡太守として出させた。母の憂いに職を去り、歳余りして起用されて信都太守となった。後に骸骨を乞い、優詔してこれを許し、家に卒した。子の燾は、定陶令の位に至った。宣猷の弟の宣度は、斉王開府司馬・恒農太守の位に至った。宣度の弟の宣軌は、頗る才学有り、尚書考功郎中の位に至り、弟の宣質・宣静・宣略と並びに早く卒した。

孝芬の弟の孝偉は、趙郡太守となった。郡は葛栄の離乱を経た後、人皆児女を売り ひさ ぎし。夏の じん 大いに熟し、孝偉は戸人に多くこれを収むるを勧め、郡内乃ち安んず。其の人に種殖を教え、遺散を招撫し、先ず恩後れに威を加え、一周の後、流戸大いに至る。学校を興立し、親しく勧厲を加え、百姓これに頼った。郡に卒し、瀛州刺史を贈られ、諡して簡といった。朝議は未だ申さずと謂い、また安北将軍・定州刺史を贈った。一子に昂あり。

昂は字を懐遠といい、七歳にして孤となり、母に事えて孝を以て聞こえた。伯父の吏部尚書孝芬は嘗て親友に謂って曰く、「此の児終に遠く至るべし、是れ吾が家の千里駒なり」と。

昂は性端直にして、頗る文詞を綜べた。天平二年、文襄(高澄)はこれを引いて記室参軍と為し、腹心の任を委ねた。国政を輔くるに及び、開府長史に召され、並びに京畿長史の事を摂った。時に勲将の親族賓客は、多く行い軌を逸し、孫騰・司馬子如の門は特に甚だしかり。昂は文襄の密旨を受け、法を以てこれを糺した。未だ幾ばくもせず間もなく、内外斉しく粛然とした。尋いで 司徒 しと 右長史に遷った。時に左府に陽平の人呉賓が妄りに継嗣を認むる事有り、訴え ひら きて久しく経る。長史の王昕・郎中の鄭憑・掾の盧斐・属の王敬宝等は其の獄を窮め、始末積年、鞫掠して実を獲ず。 司徒 しと の婁昭は昂に付して推問せしめ、即日に根緒を詰め、其の真状を獲た。昭は歎じて曰く、「左府の都官数人、右府の一長史に如かず」と。昕・憑は甚だ以て愧じた。

武定年間、文襄帝は内外に広く得失を極言するよう命じた。崔昂は上書して言うには、「屯田の設置は、その由来が古い。曹魏が蜀を破ったのは、屯田によって軍を興したからである。馬 しん が呉を平定したのも、兵糧をそれによって供給したからである。朝廷は近ごろ懐・洛の両邑が辺境に隣接し、わずかな屯田で豊作となり、糧食の備蓄がすでに充足している。これを基準として論ずれば、鑑戒は遠くない。その幽・安の二州は、奚賊や蠕蠕を抑えつなぎ、徐・揚・兗・ の諸州は、呉越の強隣と接している。実に輸送の資力を頼りとし、常に私的な買い入れの費用に苦労している。諸道ごとに別に使者を派遣してこれを営ませ、その勤惰を毎回考査すれば、人はみな励まされ、倉庫は充実し、軍を供給し国を助けるのは、実にここにあると言えよう。次に、法獄の重さは、人命がかかっている。近ごろ官司の糾察は、多くは審査・練達せず、浅いことから深く追及することを聞き、大きなことを小さく雪ぐことはなく、みな嫌疑を畏れ避け、互いに残虐に刻みつけている。例えば銭・絹・粟・麦などは、その形状が区別し難く、ただちに贓物と指摘し、罪はここから定まる。群司に命じて、必ず実情を得ることに努めさせてほしい。このようにすれば、将来の冤罪を止め、必ずや枉げられ濫りに陥ることはないであろう。」文襄帝はこれを採用した。後に尚書左丞に任じられ、その年、度支尚書を兼ねた。左丞が尚書を兼ねるのは、近代にはなく、朝野はこれを栄誉とした。度支の水運・陸運について、崔昂は輸送の相互融通の差等を設け、新旧の支給法を定め、人々に有利であったため、ついに常法となった。右僕射の崔暹が海沂での塩の煮沸を奏請し、軍国に有利であるとした。文襄帝が崔昂に問うと、崔昂は言った、「官が煮るとなれば、必ず民の竈を断たねばならず、官の力は多くとも、民の広さには及ばない。関市の例に準じて、薄く竈税を課し、私的な製塩所には官が給与し、互いに適宜とするのがよい。」朝廷はこれに従った。

武定六年、甘露が宮闕に降り、文武の官が共に祝賀した。魏帝が右僕射の崔暹、尚書の楊愔、崔甗、邢邵、 散騎常侍 さんきじょうじ の魏収、御史中丞の陸操、国子祭酒の李渾に、「それぞれ徳績が感応して招いた由来を述べよ」と言った。次に崔昂に至ると、崔昂は言った、「吉凶の二門は、符瑞によるものではなく、故に桑雉の戒めが、実に中興を開いた。小さな鳥が大きなものを孕んでも、福の感応とは聞かない。願わくは陛下、たとえ休祥があっても休むことなく、天意に誠実にお応えください。」帝は顔を引き締めた。後に都官尚書を摂行し、田事を勧める七条を上奏した。まもなく太府卿を兼ねた。斉が禅譲を受けると、 散騎常侍 さんきじょうじ に改め、大司農卿を兼ねた。二寺の管掌するものは、世に繁劇と号されていたが、崔昂は校理に術があり、下に奸偽がなかった。また横市の妄費に関する事三十四条を奏上した。その年、太子少師の邢邵と共に国初の礼式を議定し、引き続き華陽県男に封じられた。また律令を刪定し、礼楽を損益するよう詔が下り、尚書右僕射の琡ら四十三人に領軍府で議定させた。帝はまもなく しん 陽に行幸した。出発に際し、互いに遵奉し率いるよう勅し、従わない者は崔昂に報告させよと命じた。崔昂は科条を区分し、今古を校正し、自ら増減したところ、十のうち七八に及んだ。廷尉卿に転じた。

崔昂は深文(法を厳しく適用すること)を号し、世論は平恕をもって評価しなかった。また尚書の盧斐と共に、別に京畿の詔獄を主管し、ともに残虐な名声があった。しかし大事を推究するにあたっては、理をもって是非を明言でき、冤酷に至ることはなかった。濮陽子の沈子遐という者が、侯景の鉄券を持ち、徐州 都督 ととく 府長史の畢義緒が期日を定めて挙兵し侯景に応じようとしていると告発した。また衛尉卿の杜弼の門生である郝子寬が、杜弼が誹謗し、元子雄と共に謀反を企てていると告発した。帝は大いに怒り、崔昂に窮極まで取り調べさせた。崔昂はいずれも公正に執り行って冤罪を雪ぎ、告発者は妄りを引き出して罪を得た。天保三年、度支尚書に任じられた。当時、肴蔵の小吏が内臣を通じて書を投じて事を告げ、また別に飛書で事を告げる者がおり、ともに崔昂に窮めて検査させた。崔昂は談笑の間に、ことごとく実情を得、告発者は言葉に窮し、ともに嫌疑の状を引き出した。ここにおいて飛書は遂に絶えた。都官尚書に転じ、引き続き都官の事を兼ね、済州北郡の幹禄を食んだ。

文宣帝が東山に行幸し、彼に言った、「旧臣の多くは出て州官となっているが、卿を令僕に用いるべきで、刺史の職は望むな。卿が六十歳を過ぎたら、卿の本州を与えよう。それまでは、州は得られない。」後に九卿以上の者が東宮に陪集した時、帝は崔昂と尉瑾、司馬子瑞を指して皇太子に言った、「これらは国家の名臣である。汝は覚えておくがよい。」間もなく、また金鳳台で宴に侍し、諸人を歴数して、みな罪過があったが、崔昂に至っては言った、「崔昂は直臣、魏収は才士、婦人の兄は妹の夫(崔昂の妹は魏収の妻)、ともに罪過を省みよ。」十年、兼右僕射に任じられ、数日後、ただちに正員に拝され、間もなくまた兼官に戻された。楊愔は若い頃崔昂と仲が悪く、文宣帝が崩御した後、ついに崔昂の右僕射を免じ、儀同三司・光禄勲に任じた。皇建元年、太常卿に転じた。河清元年、御史中丞を兼ね、太常卿はもとのままとした。

崔昂の従甥の李公統が高帰彦の事件に連座して誅殺された。律によれば、婦人で六十歳以上は宮刑への配流を免れる。当時、公統の母は年齢が五十余りであったが六十歳と称し、公統の舅の宣宝が吏に求めてその姉を免れさせようとした。崔昂は知らず、録尚書・彭城王の高浟がこの事を発覚させ、ついに連座して除名された。三年、五兵尚書に復し、祠部尚書に遷った。天統元年、卒去し、趙州刺史を追贈された。

崔昂は風調と才識があり、堅正剛直の名を奮い立てた。しかし上意を推し量ることを好み、時の主君に感激し、時に便宜を陳べて免除・簡素化を求め、時に陰私の罪過を列挙した。深く文宣帝に知遇され賞賛され、朝廷の大事は多く彼に委ねられた。性情は厳猛を尚び、鞭撻を行うごとに、苦痛が万端であっても、それに対し自若としていた。以前は崔暹・季舒が親しい後援となり、後には高徳正が中表の親戚であり、常に恃むところがあり、意気色は矜り高かった。このため名流に帰服されなかった。五人の子があった。第三子の崔液は、字を君洽といい、よく文藻に習い、学識があり、風儀と器量は当時の論評で称賛された。奉朝請として文林館に待詔した。隋の開皇年間、中書侍郎となった。

孝偉の弟の孝演は、字は則伯、伯父の後を継いだ。性質は通達で率直、美しい鬚髯を持ち、姿貌は魁傑で、若い頃から官途への志がなく、郷里に沈浮した。位は瀛州安西府外兵参軍に至ったが、罷免されて帰った。鮮于修礼が反逆を起こした時、遇害した。子がなく、弟の孝直が子の士遊を後嗣とした。

孝直は字を叔広といい、身長八尺、眉目は疏朗で、早くから志尚があった。次第に直閣将軍・通直 散騎常侍 さんきじょうじ に遷った。爾朱兆が洛陽に入ると、孝直は天下が未だ寧かでないとして、職を去り郷里に帰った。太昌年間、衛将軍・右光禄大夫に任じられたが、辞して赴任しなかった。家で卒去し、諸子に誡めて言った、「我が才は疎く効は薄く、国に対して功績がない。もし朝廷がさらに贈諡を加えるならば、我が意に従い、ただ受け取るだけでよい。もし求めて干渉するならば、我が意ではない。」子の士順は、太府卿の位に至った。

孝直の弟の孝政は、字を季讓という。十歳で父が亡くなると、号哭して絶えず、見る者これを悲慘とした。志尚は貞固で確立し、経史に博学で、特に辞賦を雅好した。喪の礼儀には特に心を留め、衣服の制度は、自ら手で作り上げることができた。位は太尉汝南王元悦の行参軍に至った。

孝芬兄弟は孝義に篤く慈愛深く、弟の孝演・孝政が先に亡くなると、孝芬らは慟哭して悲しみ、肉食を絶ち菜食にし、容貌は憔悴し痩せ衰え、見る者をして哀れませた。孝偉らは孝芬に仕えて恭順の礼を尽くし、座るにも食事するにも進退するにも、孝芬が命じなければ敢えてしなかった。鶏鳴と共に起き、朝には顔色を和らげ、一銭一尺の布帛も私室に入れず、吉凶の用事があれば、集めて対面し分け与えた。諸婦も互いに親しみ愛し、有無を共にした。初め挺の兄弟は同居し、孝芬の叔父の振が亡くなった後、孝芬らは叔母の李氏を承け奉り、実の母に事えるが如くであった。朝夕には温凊の礼を尽くし、出入りには必ず告げ謁し、家事の大小を問わず、全て李氏に諮って決した。兄弟が出かける度に、財物を得れば、尺寸以上は全て李氏の庫に入れ、四季に分けて与える時は、李氏自ら裁断した。このようにして二十余年が過ぎた。従弟の宣伯・子朗を撫育するには、同腹の兄弟の如くであった。挺の弟に振がいる。

振は字を延根という。若くして学問と行いがあり、家にあっては孝行で、宗族から称賛された。秘書中散となり、内廷にあって謹直で、孝文帝に知られた。孝文帝が南征する時、高陽内史から征召されて尚書左丞を兼ね、京師に留まった。振は才幹によって抜擢され、当時の人々は栄誉と見なした。太子庶子に転じた。景明初年、長兼廷尉少卿に任じられた。振は公明な裁断を持ち、明察をもって称された。河内太守の陸琇が咸陽王禧と共に謀反を企て、禧が敗れて事が発覚すると、振は徹底的に取り調べた。当時、琇の内外の親族や朝廷の貴顕が皆、彼のために弁解したが、振は厳しく詮索し、終に緩めることなく、遂に獄中で死なせた。その法を奉ずる姿勢はこのようなものであった。肆州刺史に任じられ、在任中に政績があった。河東太守の任で卒去し、南兗州刺史を追贈され、諡を定といった。

振は官歴四十余年に及び、考課は常に称職とされ、議論する者はこれを良しとした。子の子朗は容貌が美しく、経史に広く通じ、若い頃から温厚で、風格があった。侍御史の位に至り、平東将軍を加えられて卒去した。挺の従父子に瑜がおり、字は仲璉、幼くして孤となり、学業があり、鴻臚少卿の位に至り、高邑男に封ぜられ、瀛州刺史を追贈された。子の孟舒は字を長才といい、父の爵を襲い、広平太守の位に至った。卒去し、殷州刺史・鎮東将軍を追贈され、諡を康といった。孟舒の弟の仲舒は鄴県令の位に至った。仲舒の弟の季舒が最も有名である。

季舒は字を叔正という。幼くして孤となり、性質は聡明で機敏、経史に広く通じ、尺牘(書簡文)に長け、当世の才幹を備えていた。十七歳で州主簿となった。大将軍・趙郡公の琛に重んじられ、斉の神武帝に推薦された。神武帝が自ら丞郎を選抜した時、季舒を大行台都官郎中に補任した。文襄帝が政務を補佐すると、大将軍中兵参軍に転じ、大いに親愛寵遇された。魏帝の側近に腹心を置く必要から、中書侍郎に抜擢された。文襄帝が 中書監 ちゅうしょかん となると、門下省の機密事務を中書省に移し、総て中書省に帰属させた。また季舒は音楽に巧みであったので、内廷の伎楽もまた中書省に属させた。内伎が中書省に属するのは季舒から始まった。文襄帝が魏帝に上書する度に、諫言や請願があり、文詞が繁雑な時は、季舒が常に修飾して通訳し、勧戒の意が伝わるようにした。静帝が霸府(高氏)に返答する時は、常に季舒と議論し、「崔中書は我が乳母である」と言った。給事黄門侍郎に転じ、主衣都統を兼任した。表面上は魏朝に仕えながらも、心は霸府に帰し、密謀や大計策は皆、参与して聞くことができた。ここにおいて賓客が輻湊し、身を傾けて礼を尽くし、大いに名誉を得て、その勢いは崔暹を凌いだ。暹はかつて朝堂で人を退けて彼に拝礼し、「暹がもし僕射になれたならば、全て叔父の御恩である」と言った。その権勢の重さはこのようなものであった。

当時、勲貴たちは多く法を守らず、文襄帝は一切容赦しなかったが、外部の議論では季舒と崔暹らの仕業とされ、甚だしく怨み憎まれた。文襄帝が難に遭うと、文宣帝が晋陽へ赴かんとした時、黄門郎の陽休之が季舒に従うよう勧め、「一日朝廷を離れれば、その間に刃が容れられる(隙が生じる)」と言った。季舒は性質として声色を愛し、閑放な生活を望んでいたので、遂に従行を請わず、行楽を恣にしようとした。司馬子如が宿怨に乗じ、尚食典禦の陳山提らと共に彼の過失を列挙して上奏した。これにより季舒と暹は各々鞭二百を打たれ、北辺に流された。天保初年、文宣帝は彼に罪がないことを知り、将作大匠に追任した。再び侍中に遷り、間もなく尚書左僕射・儀同三司を兼ね、大いに恩遇を受けた。乾明初年、楊愔が文宣帝の遺旨により、彼の僕射を停免した。母の喪に遭い解任された。喪が明けると、光禄勲に任じられ、中兵尚書を兼ねた。斉州刺史として出向した。人を遣わして淮を渡り交易させた罪、また贓賄の事があり、御史に弾劾されたが、赦令に遇って問われなかった。武成帝が藩王であった時、病にかかり、文宣帝が季舒に治療させると、心力を尽くした。大寧初年、召還され、引見されて慰労激励された。累遷して度支尚書・開府儀同三司となった。昭陽殿を営造する時、監造を命じられ、判事の方式を定めた。胡長仁に密かに短所を言われ、西兗州刺史として出された。吏部に典签を推薦したことで、責められて免官された。また広寧王の邸宅に赴いたことで、韋の鞭数十回を決せられた。武成帝が崩御した時は、哭泣に参与することを許されなかった。久しくして、膠州刺史に任じられ、侍中・開府に遷り、新安・河陰二郡の幹禄を食んだ。左光禄大夫を加えられ、文林館に待詔し、『御覧』の監撰を務めた。特進を加えられ、国史の監修を務めた。

季舒は元来図書を好み、晚年には一層精勤し、併せて人士を推薦し、文学を奨励したので、評判が一致し、遠近に称賛された。祖珽が委任を受けると、季舒に内作(宮中工事)の総監を奏上した。珽が左遷されると、韓長鸞は彼を珽の党と見なし、また出そうとした。折しも車駕が晋陽に行幸せんとする時、季舒は張雕と議し、寿春が包囲され、大軍が出撃して防ぎ、使者の往来には節度を稟る必要があると考えた。兼ねて道中の小人(庶民)が、あるいは驚き恐れ、大駕が へい 州に向かうのは南寇(陳)を恐れて避けるのだと噂し、もし諫めなければ、必ず人心が動揺すると考えた。そこで従駕の文官と連名で進諫した。当時、貴臣の趙彦深・唐邕・段孝言らも初めは同心であったが、臨時に疑い心変わりし、季舒と争ったが決着しなかった。長鸞は遂に「漢児の文官が連名で総署し、声は へい 州行幸を諫止すると言いながら、実際は反逆しないとも限らない。誅戮すべきである」と上奏した。帝は直ちに既に署名した表文の官人を含章殿に集め、季舒・張雕・劉逖・封孝琰・裴澤・郭遵らを首謀者とし、共に殿庭で斬った。長鸞はその屍を漳水に棄てるよう命じた。その他の連署者は、鞭打ちを加えようとしたが、趙彦深が執り成して諫めたため免れた。季舒らの家属の男女は北辺に流され、妻女と子の妻は奚官に配され、幼い男子は蚕室に下され、財産は没収された。

季舒は元来医術を好み、天保年間に流刑地で無事であったので、一層意を鋭くして研究に精を出し、遂に名手となり、多く人を救済した。位望が高くなるにつれても、未だ懈怠せず、貧賤の下僕であっても、治療看護した。

庶子の長君は尚書右外兵郎中となった。次男の鏡玄は著作佐郎となった。共に長城に流された。間もなく、季舒ら六人の妻は、年老いているとして放出された。後に南安王思好が再び朝廷の罪悪を称し、季舒らが殺害されたことを口実に、六人の兄弟子姪を悉く召し出して軍に従わせ晋陽に向かった。事が敗れると、長君らは皆、殺戮に従った。六人の妻は、また追って官に没入された。周の武帝が斉を滅ぼすと、詔を下して斛律光と季舒ら六人に同じく優れた追贈を行い、季舒には開府儀同大將軍・定州刺史を追贈した。

挺の従祖弟に敬邕がおり、性質は長者風で、左中郎将となり、軍功により臨淄男の爵を賜り、営州刺史の位に至った。庫莫奚国に馬数百匹が風に乗って国境に入った時、敬邕は全て送還させたので、夷人は感服して帰附した。太中大夫の任で卒去し、済州刺史を追贈され、諡を恭といった。

敬邕の従弟の接は、字を願賓という。容貌魁偉にして、放邁自高、拘檢を顧みず。中書博士・楽陵内史となった。雅く任城王澄に礼遇され、澄が本部となると、接は澄に人王としての敬意を欠いたが、王は欣然としてこれを容れ下した。後に楽陵太守となり、郷里に帰って卒した。

挺の族子の纂は、字を叔則という。博学にして文才あり、時に知られざるを以て、乃ち『無談子論』を著す。尋いで廷尉正となり、大獄ある毎に、多くは根拠を明らかにし、当官の誉れ有り。時に太原の王静が廷尉監より少卿に遷ると、纂はその下に居るを恥じ、乃ち静に書を送り、辞気抑揚、上下の礼無し。啓して解位を求む。後に洛陽令となり、卒し、 司徒 しと 左長史を贈られた。

纂の兄の穆は、字を子和といい、雅に度量有り、州より主簿に辟せられ、卒す。穆の子は暹。

暹は字を季倫という。少くして書生たり、勃海に避地し、高乾に依り、妹をその弟の慎に妻せしむ。慎後に滄・光二州を臨み、暹を啓して工史とし、職事を委ぬ。趙郡公の琛が定州を鎮むると、辟して開府諮議とし、琛に随い晋陽に往く。神武、語らいて之を悦び、以て丞相長史を兼ねしむ。神武、兵を挙げて洛に入らんとし、暹を留めて琛を佐けしめ、凡そ百の後事、一に暹に属せしめ、手を握り殷勤、三・四に至る。琛後に罪を以て責められ、暹も亦黜免せらる。尉景が へい 州となると、暹を起して別駕とす。文襄、景に代わり、暹を転じて開府諮議とし、仍って別駕の事を行わしむ。文襄に従い鄴都を鎮撫し、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、左丞・吏部郎に遷り、定州大中正を領し、『麟趾格』の議を主る。暹の親遇日々に隆く、好んで人士を薦め、邢邵は親重すべしと言う。言論の際、邵遂に暹を毀る。文襄悦ばず、暹に謂いて曰く「卿は子才の長を説く、子才は専ら卿の短を言う、此れ痴人なり」と。暹曰く「子才は暹の短を言い、暹は子才の長を説く、皆実事なり、痴と為さず」と。高慎の叛、偽りて暹と隙を為し、神武後に之を知り、其の事を発して暹を殺さんと欲すれども、文襄苦しく救いて止むを得しむ。御史中尉に遷る。畢義雲・盧潜・宋欽道・李愔・崔贍・杜蕤・嵇曄・酈伯偉・崔子武・李広を選び皆御史と為し、世其の人を知るを称す。文襄、暹の威勢を借りんと欲し、諸公坐朝するに、暹をして後に通名せしめ、因りて殊礼を以て待つ。暹乃ち高視徐歩、兩人裾を擎げて入り、文襄分庭対揖す。暹席を譲らずして坐し、觴再行するや、便ち辞退す。文襄曰く「下官薄く蔬食有り、公少しく留まれ」と。暹曰く「適に勅を受け、台に在りて検校す」と。遂に食を待たずして去り、文襄降りて之を送る。旬日の後、文襄諸公と出でて東山に之く、暹が道に在るに遇い、前駆赤棒に撃たれ、文襄馬を回らして之を避く。

暹は前後して表を上り 尚書令 しょうしょれい 司馬子如及び尚書元羨・殷州刺史慕容献を弾劾し、又た太師司州牧咸陽王恆・ へい 州刺史可朱渾道元・冀州刺史韓軌を弾劾し、罪を鄴下の諸貴と論じ、極言して褒美し、且つ属に誡む。是に先立ち僧尼猥濫す、暹奏して科条篇を設け、沙門法上を昭玄都と為して以て之を検約せしむ。

神武鄴に如く、群官紫陌に迎う。神武暹の手を握り労いて曰く「小児任重くして才軽し、中尉に非ざれば何ぞ今日有らんや。栄華富貴、直に是中尉自ら取る所、高歓父子以て相報ゆる無し」と。暹に馬を賜い、之を騎せしめて従わしめ、且つ行き且つ語る。暹下拜す、馬驚き走る、神武親しく之を擁して轡を授く。魏帝華林園に宴し、神武に謂いて曰く「頃より所在の百司、多く貪暴有り。朝廷中に用心公平、直言弾劾し、親戚を避けざる者有り、王酒を勧むべし」と。神武階を降り跪きて言う「唯だ御史中尉崔暹一人のみ、謹んで明旨を奉じ、敢えて酒を以て勧め、並びに臣の射たる所の賜物千段、回賜を乞う」と。帝又た之を褒美す。ここに於いて文襄も亦暹に酒を催し、神武親しく之が為に抃す。文襄退き、暹に謂いて曰く「我尚お畏羨す、況んや余人をや」と。神武将に晋陽に還らんとし、又た乗する所の馬に彩物を加えて暹に賜う。ここに由りて威名日々に盛んにし、内外畏服せざる莫し。

神武崩ず、未だ喪を発せず、文襄暹を以て度支尚書・国史監・右僕射を兼ねしめ、心腹の寄を委ね、仍って魏帝の侍読と為す。暹は国を憂うること家の如く、天下を以て己が任と為す。文襄王昭儀を盛寵し、正室に立たんと欲す。暹諫めて曰く「天命未だ改まらず、魏室尚存す、公主罪無く、棄辱を容れず」と。文襄意悦ばず、苦しく請うて乃ち之に従う。文襄の車服度を過ぎ、誅戮常を変じ、言談進止、或いは虧失有り。暹毎に厲色極言し、文襄も亦之が為に止む。臨淮王孝友は文襄に狎愛せられ、数たび歌舞戲謔を前にすれども、顧みて暹を見れば、輒ち容を斂めて止む。獄囚数百有り、文襄尽く之を誅せんと欲し、毎に文帳を催すも、暹故らに之を緩め、時に進めず、文襄意釋れ、竟に免る。司州別駕司馬仲粲・中従事陸士佩並びに文襄に毆撃せられ、獄に付し将に餓殺せんとす、暹食薬を送り、言を致して之を釈く。

出身して官に従うより、常に日晏くして乃ち帰る。暁を侵すと則ち兄弟と跪きて母の起居を問い、暮るると則ち食を嘗め寝を視、然る後に外斎に至り、親賓に対し事を論じ、或いは沙門と玄理を弁じ、夜久くして乃ち寝に還る。一生家産を問わず、魏・梁通和し、要貴皆人を遣わし聘使に随いて交易すれども、暹は唯だ仏経を寄求す。梁武帝之を聞き、繕写し、幡花宝蓋を以て贊唄し館に送る。

然れども大言を好み、調戲に節無し。嘗て密かに沙門明蔵に令し『仏論』を著わして己が名を署せしめ、江表に伝う。子の達拏、年十三、儒者権会に令し其に『周易』の両字を解かしめ、乃ち朝貴名流を集め、達拏をして高坐し開講せしむ。同郡の眭仲讓陽に之に屈服す、暹仲讓を用いて 司徒 しと 中郎と為す。鄴下之が為に語りて曰く「講義両行して中郎を得」と。仲讓官右丞に至る。此れ皆暹の短なり。

文宣初めに霸業を嗣ぎ、司馬子如・韓軌等旧怨を挟み、暹の罪重しと言う。高隆之も亦政網を寛くし、糾察法官を去り、崔暹を黜くべしと言い、則ち遠近の人意を得べしと、文宣之に従う。践阼に及び、譖毀する者猶息まず、帝 都督 ととく 陳山提・舎人独孤永業に令し暹の家を搜さしむ。甚だ貧匱にして、神武・文襄の暹に与うる書千余紙を得、多く軍国大事を論ず。帝嗟賞す。仍って衆口を免れず、暹を馬城に流す。昼は則ち土を負い役に供し、夜は則ち諸れ地牢に置く。歳余、奴暹の謀反を告ぐ、鎖し晋陽に赴き、窮めて験うるも実無し。

先に、文襄(高澄)は文宣(高洋)が愚かさを装っているのではないかと疑い、後に変事があることを憂慮し、密かにこれを除こうと図り、崔暹に問うた。崔暹は言う、「かつて二郎(高洋)と共に行列に居り、試みに手板でその背中を打ったが、彼は怒らず、かえって犀角の手板を私の竹の手板と取り替え、自ら拭き清めて弄び見つめていた。これによって彼が本当に愚かであることを知った。憂慮するに足りません」。帝(文宣帝高洋)は崔暹を拘束すると、かつて背中を打ったことを責めた。崔暹はかつて文襄に答えた言葉を述べ、自分の功績を明らかにして死罪を贖おうとした。帝は悟って言う、「我が禍を免れたのは、崔暹の力である」。彼を釈放して労い、太原郡の事務を行わせ、後に太常卿に昇進させた。群臣に言う、「崔暹は清廉公正で、天下に並ぶ者がない。卿らは及ばない」。初め、文襄は最も末の妹を崔暹の子・達拏に嫁がせようとしたが、崩御に遭い、遂に取りやめとなった。この時、宣光殿で宴が催され、群臣が多く居合わせた。文宣は崔暹に言う、「賢子・達拏は甚だ才学がある。亡兄(高澄)の長女・楽安公主は、魏の皇帝の外甥であり、朕の諸妹に勝る。大兄(高澄)の宿志を成し遂げたいと思うので、婚姻を結ばせたい」。そこで公主を達拏に降嫁させた。崔暹はまもなく 中書監 ちゅうしょかん に転じ、兼ねて へい 省右僕射を務めた。この時、法網は既に厳しく、官司は判決を下し難く、獄に繋がれた者は千余人に及んだ。崔暹が初めて省(尚書省)に上ると、直ちに大規模に囚人を記録・審理し、十日余りの間に、判決して雪冤することほぼ尽きた。文襄の時、崔暹を封じようとし、神武帝(高歓)もまた封じようとしたが、崔暹は共に固く辞した。文宣はしばしば出遊し、多くは崔暹の邸宅に至り、崔暹の娘を皇太子の妃にしようとしたが、李后が認めず、止んだ。天保八年、尚書右僕射・儀同三司に転じた。当時、絹を調べるのに七丈を一匹としていたが、崔暹がこれを言上し、旧例に戻した。帝は側近に言う、「崔暹は我が余りに酒を多く過ぎると諫めるが、我が酒を飲むことに何の妨げがあろうか」。常山王(高演)はひそかに崔暹に言う、「至尊(皇帝)は威厳があり、多く酔っておられる。太后でさえ言葉を致すことができず、我ら兄弟は口を閉ざしている。僕射(崔暹)のみが敢えて顔色を犯して諫める。内外共に深く感愧している」。十年、卒去した。帝はその霊を撫でて哭し、開府儀同三司・尚書左僕射・定州刺史を追贈し、諡して貞節といった。

達拏は温良で廉潔謹直、識見と学問があった。位は儀同三司・司農卿、周の禦府大夫に至った。大象年中、鄴に使いし、尉遅迥が兵を起こした時に属し、総管司馬に任じられた。尉遅迥が平定されると、誅殺された。初め、文宣はかつて楽安公主に問うた、「達拏はお前にどうか」。答えて言う、「甚だ敬っております。ただ、姑だけが私を憎んでおります」。文宣は宮人に命じて達拏の母を召し入れて殺し、漳水に投げ込ませた。斉が滅びると、達拏は公主を殺して復讐した。崔暹の兄は崔謀開である。

崔纂の従祖の弟・崔游は、字を延叔といい、若い時より風概があった。東郡太守となった。郡には塩戸があり、常に州郡のために兵役を供し、子孫は丁(成年男子)を見るごとに役に従っていた。その労苦を哀れみ、上表して聞かせ、交替を許すよう請願し、郡内の人々はこれを感激した。太学は旧く城内にあったが、崔游はこれを城南の閑敞な地に移し、自ら経典を講義した。当時の学者は誰もが励まされ、良守と称された。正光年中、南秦州刺史に任じられた。

先に、州の人・楊松柏・洛德兄弟がたびたび反乱を起こしていた。崔游は深く招き慰撫し、兄弟は共に来降した。松柏は既に郡の豪帥であり、恩を感じて奨励の言葉を受け、郡の賊徒は皆来て帰順した。また、過ちは前の政にあり、自ら疑うことはなかった。崔游はそこで宴会の機会に乗じ、一時に皆を斬殺した。これにより、外の者はその信義なきを以て、全境が皆反乱した。正光五年、秦州の城人が刺史・李彦を殺して叛逆した。数日後、崔游は必ず安泰でないことを知り、外に出ようと謀ったが、まもなく城人・韓祖香らに攻撃された。崔游は事態が切迫し楼に登り、慷慨悲歎し、遂に幼い娘を楼から突き落として殺し、義として群小の辱めを受けることなく、祖香らに害された。永安年中、 散騎常侍 さんきじょうじ ・鎮北将軍・定州刺史を追贈された。子に崔伏護がいる。

論じて言う。崔鑒は文業を以て利用の時に応じ、世々家に業あり、余慶止まず、人と位が軌を継ぎ、また盛んなことよ。崔辯は器量と業績が著しく聞こえたが、位は遠くまで至らなかった。崔逸は徳は優れていたが官は薄く、世々これを恨んだ。崔模は雄壮の烈しさ、崔楷は忠貞の操、身を殺して義を成し、難に臨んで帰するが如し。大丈夫でなくして何ぞ能く此の如くならんや。崔士謙兄弟は武毅として重んぜられたのみならず、忠公と称されることもまた嘉すに足る。崔挺兄弟は風操高く亮く、文を懐き質を抱き、歴事して著しく聞こえ、朝野に重んぜられ、世を継ぎ家を承け、門族共に著しい。市朝は変わり得るも、人焉んぞ絶えん。宣猷(崔昂)が朝廷に入り務めを賛するに至っては、則ち嘉謀屡々陳べ、出でて撫し条を宣ぶるには、則ち威恩具に挙がる。崔仲方は文武を兼ね備え、謀算に雅く長け、陳を伐つ策は、信じるに深遠たり。奕世(代々)徳を載せる、夫れ豈に徒然ならんや。崔昂は智は功を立てるに足り、能は事を幹めるに足り、覇朝(北斉)の委遇、良く以て然り有り。然るに彼の仁心を謝し、此の苛政に安んず。晩途に躓きに遭う、理其れ宜なり。崔季舒は龍逢の節に蹈み、崔季倫(崔暹)は分庭の遇を受け、雖も遭逢異なる日、得喪同じからずと雖も、其の遺跡を考うるに、而して栄名は一なり。蓋し所謂、彼に人ありと謂うべきか。

目次へ戻る

※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻032