北史

卷十九 列傳第七

文成五王

文成皇帝に七男あり。孝元皇后は献文皇帝を生む。李夫人は安楽厲王長楽を生む。曹夫人は広川莊王略を生む。沮渠夫人は斉郡順王簡を生む。乙夫人は河間孝王若を生む。悦夫人は安豊匡王猛を生む。玄夫人は韓哀王安平を生む。早く薨じ、伝なし。

安楽王長楽は、皇興四年に建昌王に封ぜられ、後に安楽王に改封された。長楽は性質重厚にして、献文は器重し愛した。承明元年、太尉に拝され、出て定州刺史となる。衣冠の士を辱め、多く法を奉ぜず、百姓が闕に詣でてこれを訟う。孝文は杖三十の罰を加う。貪暴ますます甚だしく、罪により京師に召し詣らしむ。後に不軌を謀り、事発し、家にて死を賜う。王礼をもって葬り、諡して厲という。子の詮、字は搜賢、襲封す。宣武の初め、涼州刺史となる。州にあって貪穢、政は賄をもって成る。後に定州刺史を除く。及びて京兆王愉の反するや、国変ありと詐言す。北州の鎮に在りて、咸に朝廷に舋ありと疑い、使者を遣わして詮の動静を観る。詮は具に状を以て告げ、州鎮は帖然たり。愉は信都に奔る。詮は李平・高殖等を以て四面より攻め焼き、愉は門を突いて出づ。尋いで侍中を除き、兼ねて首告の功を以て、尚書左僕射を除く。薨じ、諡して武康という。

子の鑒、字は長文、襲封す。後に相州刺史・北討大 都督 ととく となり、葛栄を討つ。なお尚書左僕射・北道行台 尚書令 しょうしょれい を兼ね、 都督 ととく 裴衍と共に信都を攻む。鑒は既に庸才にして、天下多事なるを見、遂に謀反し、葛栄に降り附く。 都督 ととく 源子邕と裴衍と合囲して鑒を斬り、首を洛陽に伝う。詔して姓を元氏に改めしむ。莊帝の初め、本族に復することを許し、又特に鑒の王爵を復し、 司空 しくう を贈る。

鑒の弟斌之、字は子爽、性質険にして行いなし。鑒と反するに及び、敗れて葛栄に奔る。栄滅びて、還り得る。孝武帝の時、潁川郡王に封ぜられ、腹心の任に委ねらる。帝関に入り、斌之は梁に奔る。大統二年、長安に還り、位は 尚書令 しょうしょれい 。薨じ、太尉を贈られ、諡して武襄という。

広川王略は、延興二年に封ぜられ、位は中都大官。性質明敏にして、獄を鞫くに平なりと称せらる。太和四年、薨ず。諡して莊という。

子の諧、字は仲和、襲封す。十九年、薨ず。詔して曰く、「古は大臣の喪に三臨の礼あり。これは三公已上のことなり。漢已降、多くこの礼なし。仰いで古典に遵い、哀感情に従わしめんとす。尊卑によりて降伏すと雖も、私痛寧く爽からんや。親王に期親ある者をしてこれに三臨せしめ、大功親ある者をして再臨せしめ、小功緦麻ある者をして一臨せしめんと欲す。広川王は朕に大功たり。必ず再臨せんと欲するは、大斂の日に親臨して哀を尽くし、成服の後、緦衰して弔わんと欲するなり。既に殯の緦麻は、理に疑いなし。大斂の臨は、当否如何。柩を始喪に撫するを須いんか。哀を闔柩に尽くすに応ぜんか」と。黄門侍郎崔光・宋弁・通直常侍劉芳・典命下大夫李元凱・中書侍郎高聰等議して曰く、「三臨の事は、乃ち古礼なり。爰に漢・魏に及び、行う者稀なり。陛下方に前軌に遵わんとす。臣等以為らく、若し期親三臨ならば、大功は宜しく再たるべし。始喪の初めは、哀の至極、既に情を以て降す、宜しく始喪に従うべし。大斂の臨は、伏して聖旨の如し」と。詔して曰く、「魏・ しん 已来、親臨多く闕く。戚臣に至りては、必ず東堂にてこれを哭す。頃に大司馬安定王薨ず。朕既に臨みし後、慰めを東堂に受く。今日の事、応に更に哭すべきか否や」と。光等議して曰く、「東堂の哭は、蓋し臨まざる故なり。今陛下躬親撫視し、群臣駕に従う。臣等議して、復た哭すべからずと為す」と。詔して曰く、「若し大司馬は戚尊位重ければ、必ず東堂にて哭すべし。而して広川は既に諸王の子、又年位尚お幼し。卿等これを議せよ。朕異なること無し」と。諧将に大斂せんとす。帝素委貌深衣してこれを哭し、室に入り哀慟し、屍を撫でて出づ。

有司奏す、「広川王妃は代京にて薨ず。審らかにせず、新尊を以て卑旧に従うべきか、卑旧をして新尊に来就せしむべきか」と。詔して曰く、「洛に遷るの人は、茲より厥の後、悉く骸を芒嶺に帰すべく、皆塋に恆・代に就くことを得ず。其れ夫先に北に葬り、婦今南に喪する有らば、婦人は夫に従う、宜しく代に還り葬るべし。若し父を移して母に就かんと欲するも、亦たこれを任すことを得。其れ妻の墳を恆・代にし、夫洛に死する有らば、尊を以て卑に就くことを得ず。母を移して父に就かんと欲するは、宜しく亦たこれに従うべし。若し異葬するも、亦たこれに従うべし。若し葬限に在らず、身代に在りて喪するは、葬ること彼此、皆これを任することを得。其れ戸は恆・燕に属し、身官は京洛に在るは、去留の宜しきは、亦た従う所の択ぶべし。其れ諸州に属する者は、各任意を得」と。詔して諧に武衛将軍を贈り、諡して剛という。及び葬るに、帝親臨してこれを送る。子の霊道襲封す。卒し、諡して悼王という。

斉郡王簡は字を叔亮といい、太和五年に封ぜられ、位は中都大官。簡の母は、沮渠牧犍の女なり。簡の性質容貌は特に外祖に類す。後に内都大官となる。孝文嘗て簡と俱に朝して文明太后の皇信堂に至る。簡は帝の右に居り、家人の礼を行ふ。太保に遷る。孝文仁孝にして、諸父零落し、存する者は唯だ簡のみなるを以て、毎に見れば、立ってこれを待ち、坐を俟ちて起居を致敬問し、簡の拝伏を停む。簡は酒を好む性質にして、公私の事を理むること能わず。妻の常氏は、燕郡公常喜の女なり。文明太后これを簡に賜う。家事を幹綜し、頗る簡の酒を節す。乃ち窃盗に至り、婢侍を求乞すとも、卒いに禁ずる能わず。薨ずる時、孝文 せず。詔して曰く、「叔父薨背す。痛慕摧絶、自ら勝任せず。但だ虚しく床枕に頓す。未だ奉赴に堪えず。力疾して哀を発すべし」と。諡して霊王という。宣武の時、諡を改めて順という。

子の祐、字は伯授。母の常氏、孝文は礼を以て納れざるを以て、其の妃たることを許さず。宣武は母は子に従いて貴しと為すを以て、詔して特ちに斉国太妃に拝することを許す。祐の位は涇州刺史。薨じ、諡して敬という。

河間王若は字を叔儒といい、未だ封ぜられずして薨ず。追封して河間とし、諡して孝という。詔して京兆康王の子太安を後と為す。太安は若より従弟たり。相後するの義に非ざれば、これを廃す。斉郡王の子琛を以て継がしむ。

琛は字を曇寶といい、幼くして敏慧、孝文これ愛す。宣武の時、定州刺史に拝せらる。琛の妃は、宣武の舅の女、高皇后の妹なり。琛は内外を恃み、州にあって貪婪なり。朝に還るに及び、霊太后詔して曰く、「琛は定州に在りて、唯だ中山宮を将い来らざるのみ。自餘のものは至らざる無し。何ぞ叙用すべけんや」と。ここによりて家に廃せらる。琛は明帝の学を始むるに、金字の『孝経』を献ず。又自ら達する方無く、乃ち劉騰と養息を為し、騰に金寶巨万の計を賂る。騰の言を為し、乃ち都官尚書を兼ぬることを得。出でて秦州刺史となり、州にあって聚斂し、百姓籲嗟す。東益・南秦二州の氐反す。詔して琛を行台と為し、仍て 都督 ととく を充て、還りて州事を摂せしむ。既に軍省を総べ、求むる所厭うこと無し。進みて氐・羌を討ち、大いに摧破せらる。内に劉騰を恃み、畏憚する所無し。中尉の弾糾を受け、赦に会い、名を除かる。尋いで王爵を復す。後に鮮于修礼を討ち、敗れて官爵を免ぜらる。後に汾晋の胡・蜀を討ち、軍に卒す。王爵を追復す。

安豊王猛は字を季烈といい、太和五年に封ぜられ、侍中を加えられた。出向して鎮都大将・営州刺史となった。猛は寛仁で雄毅であり、甚だ威略があり、戎夷はこれを畏れ愛した。州において薨じ、太尉を追贈され、諡して匡といった。

子の延明が襲封した。宣武帝の時、太中大夫を授けられた。延昌の初め、歳は大いに飢え、延明は家財を減らして賓客数十人を救い、併せてその家を養った。明帝の初めに至り、 州刺史となり、甚だ政績があった。累遷して給事黄門侍郎となった。延明は既に群書を博く極め、文藻を兼ね、図籍を鳩集すること一万余巻に及んだ。性は清儉で、産業を営まなかった。中山王熙及び弟の臨淮王彧らと共に文学と令望を以て、世に名があった。風流造次においては熙・彧に及ばないが、稽古淳篤においては彼らを超えていた。侍中に遷り、詔により侍中崔光と共に服制を撰定した。後に尚書右僕射を兼ねた。延明の博識多聞を以て、勅して金石事を監せしめた。

元法僧が反すると、詔により東道行台・徐州大 都督 ととく となり、諸軍事を節度した。 都督 ととく 臨淮王彧・尚書李憲らと共に法僧を討った。梁はその 章王綜を派遣して徐州を鎮守させた。延明は先に徐方を牧したことがあり、甚だ人誉を得ていた。旧土を招懐すると、遠近これに帰した。綜が降ると、延明は軍を以てこれに乗じた。東南の境を回復し、宿・ に至って還った。 都督 ととく ・徐州刺史に遷った。頻りに師旅を経て、人物は凋弊していた。延明は新旧を招携し、人皆安業し、百姓悉く附した。

荘帝の時、大司馬を兼ねた。元顥が洛に入ると、延明は顥の委寄を受けた。顥が敗れると、梁に奔り、江南にて死んだ。荘帝の末、喪は還った。孝武帝の初め、太保を追贈され、王は元の如く、諡して文宣といった。

著した詩賦讃頌銘誄三百余篇。また『五経宗略』・『詩礼別義』を撰した。『帝王世紀』及び『列仙伝』に注した。また河間の人信都芳は算図に巧みであったので、『器准』九篇を集め、芳は別にこれに注し、皆世に行われた。

孫の長儒は、孝静帝の時に祖の爵を襲った。

献文六王

献文皇帝に七男あり:思皇后は孝文皇帝を生む。封昭儀は咸陽王禧を生む。韓貴人は趙郡霊王幹・高陽文穆王雍を生む。孟椒房は広陵慧王羽を生む。潘貴人は彭城武宣王勰を生む。高椒房は北海王詳を生む。

咸陽王禧は字を思永といい、太和九年に封ぜられ、侍中・驃騎大将軍・中都大官を加えられた。文明太后は皇子皇孫のために静所に別に学を置き、忠信博聞の士を選んでその師傅とし、以て匠成せしめることを命じた。孝文帝は諸弟に三都の職を典せしめ、禧に謂って曰く、「弟等は皆幼年にして重任を負う。三都の獄を折るには、特に心を用いるべし。未だ刀を操る能わずして錦を割らしむるは、錦を傷つけること尤もなるに非ず、実に刀を授くるの責なり」と。文明太后も亦誡勖を致した。出向して使持節・開府・冀州刺史となり、孝文帝は南郊で餞別した。また済陽王鬱の枉法により賜死したことを以て禧に遣告し、因ってこれを誡めた。後に禧が京師に朝すると、詔して廷尉卿李沖を禧の師とせしめた。

時に王国の舍人は八族及び清修の門を取るべきところ、禧は任城王の隷戸を取ってこれとし、深く帝に責められた。帝は諸王の婚が多く猥濫なるを以て、ここに禧のために故潁川太守隴西李輔の女を娉し、河南王幹には故中散代郡穆明楽の女を娉し、広陵王羽には驃騎諮議参軍 滎陽 けいよう 鄭平城の女を娉し、潁川王雍には故中書博士范陽盧神宝の女を娉し、始平王勰には廷尉卿隴西李沖の女を娉し、北海王詳には吏部郎中 滎陽 けいよう 鄭懿の女を娉した。

有司が奏して、「冀州の人蘇僧瓘ら三千人が禧の清明なるを称え、恵政ありとし、冀州を世に胙せんことを請う」と。詔して曰く、「画野は君に由る。理は下請に非ず」と。入朝して司州牧を除かれた。詔して禧を元弟の重きを以て、食邑三千戸とし、自余の五王は皆食邑二千戸とした。

孝文帝は朝臣を引見し、詔して北語を断ち、一に正音に従わしめんとし、禧はこの事を賛成した。ここに詔して、「年三十以上は、習性已久しく、あるいは卒に革め難し。三十以下で、朝廷に在る人の語音は、旧に仍ることを聴かず。もし故為する有らば、当に爵を降し官を黜すべし。もし旧俗に仍らば、恐らくは数世の後、伊洛の下、復た被髪の人と成らん。朕嘗て李沖と此を論じ、沖言う、'四方の語、竟に誰是なるかを知る。帝者の言う、即ち正と為る。何ぞ必ずしも旧を改めて新に従わんや'と。沖の此言は、応に死罪に合う」と。乃ち沖に謂って曰く、「卿は実に社稷に負う」と。沖は冠を免じて陳謝した。また留京の官を責めて曰く、「昨、婦女の服を見るに、仍って夾領小袖たり。何を為してか前詔に違うや」と。禧対えて曰く、「陛下は聖、堯・舜に過ぎ、光化中原す。舛違の罪は、実に刑に処すべし」と。孝文帝曰く、「若し朕の言非ならば、卿等は当に奮臂して廷論すべし。如何ぞ入りては順旨し、退きて従わざる有らん。昔、舜、禹に語りて曰く、'汝面従すること無かれ、退きて後言有ること無かれ'と。卿等の謂うか」と。

尋いで禧を長兼太尉公とした。後に帝が禧の第に幸すると、 司空 しくう 穆亮・僕射李沖に謂って曰く、「元弟禧は皇極に戚連し、且つ長兼太尉たり。以て鼎を和飪す。朕は恒に君に空授の名有り、臣に彼己の刺を貽すを恐る。今その宅に幸するも、徒らに二賓を屈するのみ。良に以て愧と為す」と。帝は兄弟に篤く、禧を次長とし、礼遇優隆であった。然れども亦その性の貪なるを知り、毎に切誡を加うるも、終に操を改めず。後に侍中を加え、太尉を正とした。

帝が崩ずると、禧は遺詔を受けて輔政した。宰輔の首と為りながら、潜かに賄賂を受け、姫妾数十人も意未だ已まず、猶お遠く簡娉有らんことを欲し、以てその情を恣にせんとした。宣武帝は頗るこれを悪んだ。景明二年春、禧らを召して光極殿に入り、詔して曰く、「恪(宣武帝)は比来尪疾に纏わり、実に諸父に憑る。今便ち親しく百揆を摂る。且つ府司に還り、当に別に処分せん」と。尋いで詔して位を進めて太保とし、太尉を領せしめた。

帝が既に政を覧むと、禧は意安からず、遂にその妃の兄で兼給事黄門侍郎の李伯尚と謀反した。帝は時に小平に幸し、禧は城西の小宅に在り。初め兵を勒して直ちに金墉に入らんと欲したが、衆は沮異を懐き、禧の心も因って緩やかとなり、旦より晡に至るまで計決せず。遂に泄らさざることを約して散じた。直寝の符承祖・薛魏孫は禧と将に帝を害せんとした。この日、帝は芒山に息み、浮図の陰下に止まり、少時睡臥す。魏孫は便ち赴いて害せんと欲した。承祖は魏孫に私に言う、「吾聞く、天子を殺す者は身当に癩すと」と。魏孫は暫く止まる。帝は尋いで覚悟す。俄かに武興王楊集始が出で、便ち馳せて告ぐ。而るに禧は疑わず、乃ち臣妾と共に洪池別墅に向かい、その斎帥劉小苟を遣わして啓を奉らしめ、田牧を行い検すと云わしめた。小苟が芒嶺に至ると、既に軍人に逢い、小苟の赤衣を怪しみ、将に殺害せんとす。小苟は反を告げんと欲すと言う。乃ちこれを緩めた。

咸陽王元禧はその夜洪池に宿泊し、事が露見したことを知らなかった。その夜、将兵たちが各所で元禧を追い、元禧は洪池から東南へ逃走し、左右で元禧に従った者は兼防閣の尹龍武のみであった。元禧は憂慮して追い詰められ、言うには、「試しに一つの謎を作れ、解くことを考え、毒々しい煩悶を解消しよう」と。尹龍武は突然旧謎を思い出し、「眠るときは共に眠り、起きるときは共に起き、貪ること豺狼の如く、贓物は己に入らず」と言った。全く規諫する意図はなかったのである。元禧もまた己を諷刺したとは思わず、解いて言うには、「これは眼である」と。しかし尹龍武はそれは箸であると言った。洛水を渡り、柏塢に至り、顧みて尹龍武に言うには、「汝は心を励まして太尉公(禧自身)と共に死ぬ計らいをせよ」と。尹龍武は言う、「もし殿下と運命を共にすれば、死んでも生きるが如し」と。間もなく元禧は捕らえられ、華林都亭に送られ、千斤の鎖をかけられ、尹龍武は羽林が監視した。時に暑さ甚だしく、元禧は渇き悶えて死に瀕し、勅命により水漿を断たれた。侍中崔光が左右に命じて酪漿一升余りを送らせると、元禧は一気に飲み干した。初め、孝文帝が観台の星宿に逆謀の気配を見て、元禧に言った、「玄象が変ずる。汝は終に逆謀を為し、成就することはなく、ただ悪名を受けるのみである」と。ここに至り、果たしてその言葉の通りとなった。

元禧は臨終に際し、畏怖と逼迫により志気を喪い、諸妹や公主らと訣別し、一二の愛妾のことに言及した。公主は泣きながら罵り、言うには、「多くこの婢らを娶ったために、財物を貪り追い求めて、今日の事態を招いたのに、どうしてまたこのような者らを気にかけて問うのか!」と。元禧は恥じて言葉がなかった。遂に私第で死を賜り、その諸子の属籍を絶った。元禧の諸女には、僅かに資産と奴婢を与えた。その他の家財は全て高肇と趙修の二家に賜り、残りは内外の百官に下賜され、流外に至るまで、多い者は百匹、少ない者は十匹ずつ与えられた。その蓄積はこのようなものであった。その宮人が彼のために歌った、「哀れなるかな咸陽王、何事を為すに誤れるや?金の床玉の几も眠るを得ず、夜は霜と露を踏む。洛水湛湛として岸長く、行人いずくんぞ度るを得ん!」と。その歌は遂に江表(江南)にまで流布した。北人で南に在る者は、富貴であっても、弦管でこれを奏でるのを聞けば、涙を流さぬ者はなかった。

元禧に八人の子があった。長子の元通、字は曇和、密かに河内太守陸琇の家に逃げ込んだ。初め元通と親交があったが、元禧の敗北を聞くと、彼を殺した。

元通の弟の元翼、字は仲和、後に赦令に遇い、闕に詣でて上書し、父の埋葬を求めた。許されず、そこで二人の弟の元昌、元曄と共に梁に奔った。正光年中、詔して咸陽王・京兆王の諸子を並びに属籍に附することを聴した。後に元禧の王爵を復し、王礼で葬り、詔して元曄の弟の元坦に襲封させた。

元翼と元昌は申屠氏の出であり、元曄は李妃の出である。元翼は容貌魁偉で風格に優れ、梁の武帝は大いにこれを重んじ、咸陽王に封じた。元翼は嫡弟の元曄に譲ろうとしたが、梁武帝は許さなかった。後に青州・冀州の二州刺史となり、郁州を鎮守した。元翼は州を挙げて魏に帰順しようと謀ったが、梁武帝に殺された。

元翼の弟の元樹、字は秀和、一家で独立していた。姿形が美しく、吐納(導引術)を善くし、兼ねて将略を有した。位は宗正卿。後にも梁に奔った。梁武帝は特にこれを器とし、魏郡王に封じ、後に鄴王に改封した。数度将領となり、辺境を窺った。爾朱栄が百官を害した時、元樹は時に 郢州 えいしゅう 刺史であり、爾朱栄を討つことを請うた。梁武帝は兵馬を資し、国境を侵擾させた。孝武帝の初め、御史中尉樊子鵠が行台となり、徐州刺史杜德、舍人李昭らを率いてこれを討った。元樹は城を守って下らなかったので、子鵠は金紫光禄大夫張安期を遣わして説得させた。元樹は城を委ねて南に帰ることを請い、子鵠はこれを許し、白馬を殺して盟を結んだ。元樹は誓いを頼み、戦備を整えなかった。杜德と別れ、南に帰ろうとした。杜德は許さず、洛陽に送り、景明寺に置いた。元樹は十五歳で南に奔り、富貴に及ぶ前に終わった。嵩山の雲が南に向かうのを見る度に、未だ嘗て首を伸ばして嘆息しなかったことはない。初めて梁を発つ時、愛する姝(美女)の玉児を見て、金の指輪を与えて別れ、元樹は常にこれを着けていた。これを託して梁に送り返し、必ず還る旨を表した。朝廷はこれを知り、間もなく死を賜った。間もなく、杜德は突然狂病を得て、「元樹が私を打つのが止まない」と言った。死ぬまで、この驚きは絶えなかった。舍人李昭は間もなく秦州への使者を奉じ、潼関の駅に至り、夜に夢で元樹が言うには、「我已に天帝に訴えたり。卿が隴に至るを待ち、終に相放たじ」と。李昭は覚醒し、これを忌み嫌った。隴口に至った時、賀抜岳に殺された。樊子鵠は間もなく達野拔に殺された。

孝静帝の時、その子の元貞が建業から、聘使の崔長謙に随って鄴に赴き元樹を葬ることを求め、梁武帝はこれを許した。詔して元樹に太師・ 司徒 しと 尚書令 しょうしょれい を追贈した。元貞は埋葬を終えると、江南に還り、位は太子舎人となった。侯景が南に奔った時、梁武帝は元貞を咸陽王とした。侯景を送り、魏主とさせようとした。間もなく、侯景は反逆した。

元曄、字は世茂、梁より桑乾王に封ぜられ、南で卒した。

元坦、一名は穆、字は延和。傲慢で凶暴粗暴であり、酒に酔った機に乗じて、洛橋の左右で行人を辱め打擲し、道路の患いとなった。従叔の安豊王元延明は毎度厳しく責めて言った、「汝の凶暴で道理に悖る性質は身と共に成長する。昔、宋に東海王劉禕がおり、志性凡劣で、当時の人は驢王と号した。我が汝の所為を熟視するに、亦た恐らく驢の称号を免れまい」と。当時聞いた者は「驢王」と号した。元禧が誅された後、元坦の兄の元翼・元樹ら五人が相次いで南に奔ったため、元坦が襲封することができた。敷城王に改封された。永安の初め、本来の封である咸陽郡王に復した。累遷して侍中となった。荘帝がゆったりと語って言うには、「王の才は荀彧・蔡謨に非ず、中年に屡々昇進したのは、少時より朕の家で育った故に、超授があったのであろう」と。初め、元禧の死後、諸子は貧窮し、元坦兄弟は彭城王元勰に養育されたため、この言葉があったのである。

孝武帝の初め、その兄の元樹が捕らえられた。元坦は元樹が既に年長で且つ賢明であるのを見て、己に代わることを慮り、密かに朝廷に勧めて法によりこれを除かせようとした。元樹はこれを知り、泣いて元坦に言うには、「我は往時家難により、死ぬことも逃亡することもできず、江湖に寄食し、その爵命を受けた。今ここに来たのは、義によって至ったのではなく、生き延びることを求めたのみで、どうして栄華を望もうか。汝はどうしてその猜忌を恣にし、在原(兄弟)の義を忘れるのか!腰背は雄偉であれど、善く称すべきところ無し」と。元坦は色をなして去った。元樹が死ぬと、遂に臨哭しなかった。

後に 司徒 しと ・太尉・太傅を歴任し、侍中・太師・録尚書事・宗師・司州牧を加えられた。禄厚く位尊いにも拘わらず、貪求はますます甚だしく、獄を売り官を鬻ぎ、限度を知らなかった。御史に弾劾され、官を免ぜられ、王として邸に帰った。間もなく起用されて特進となり、出向して冀州刺史となった。専らまた聚斂に励み、百姓が賦を納める毎に、常例の他に先ず絹五匹を徴収し、その後で受け取った。性来、狩猟と漁撈を好み、一日も出ない日はなかった。秋冬は雉や兎を狩り、春夏は魚や蟹を捕り、鷹や犬は常に数百頭いた。自ら言うには、「寧ろ三日食わずとも、一日狩らずにはいられない」と。入朝して太傅となった。

北斉の天保の初め、例に準じて爵位を降格され、新豊県公に封ぜられ、特進・開府儀同三司を授けられた。子の元世宝が通直散騎侍郎彭貴平と酒酔いの上で誹謗し、妄りに図讖を説いた罪に連座し、有司が死に当たると奏上した。詔して並びにこれを宥した。元坦は北営州に配流され、配所で死んだ。

趙郡王元幹は字を思直といい、太和九年に河南王に封ぜられ、大将軍の位にあった。孝文帝は諸弟を深く愛し、元幹が別軍を統率するにあたり、戒めて言うには、「 司空 しくう 穆亮は年齢と器量において師とすべきであり、 散騎常侍 さんきじょうじ 盧陽烏は才能をもって諮問に堪える。汝は彼らを師とせよ。」と。洛陽に遷都すると、趙郡王に改封された。 都督 ととく ・冀州刺史に任ぜられた。帝はみずから郊外で餞別し、戒めて言うには、「刑獄の理は、先哲にとっても難しい。しかしすでに邦国がある以上、自ら励まざるを得ない。」と。詔して李憑を長史とし、唐茂を司馬とし、盧尚之を諮議参軍として、彼を補佐させた。しかし李憑らが諫めても、元幹はまったく受け入れなかった。州が盗馬人を斬ると上表したが、律令より過重であり、尚書は元幹が初めて任地に臨んだことを考慮して、これを放任し弾劾しなかった。詔して言うには、「尚書は朕の意を曲げて おもね り、実に皇度を傷つけた。元幹は政理に暗く、律外の重刑を加えた。ともに推問せよ。」と。後に特進・司州牧に転じた。車駕が南征するにあたり、詔して元幹に中外諸軍事を 都督 ととく させ、鼓吹一部と甲士三百人を与え、殿門への出入りを許した。

元幹は貪欲で淫らであり、政典に従わなかった。御史中尉李彪がこれを糾弾しようとしたところ、たまたま尚書の下舎で元幹に会い、左右を退けて戒めたが、元幹は悠然として意に介さなかった。李彪は上表して弾劾した。詔して元幹を北海王元詳とともに太子に随従させ行在所に赴かせた。到着すると、密かに左右に命じてその様子を観察させたが、憂い悔いる色がなかった。そこでみずからその過ちを数え上げ、杖罰一百を加え、居官を免じて王爵のまま邸宅に帰らせた。薨去し、諡して霊王といった。長陵に陪葬された。

子の元謐が封を襲いだ。元幹の妃穆氏が上表して、元謐および元謐の母趙氏らが礼に背き常道を失っていると訴えた。詔して言うには、「妾が女君(正妃)に対しては、まるで婦が 姑舅 しゅうと に仕えるがごとくであり、妾の子が君母(父の正妃)に対しては、礼において子としての恭しさを加える。どうして我が風猷を汚すことができようか。宗正に付して礼に従って罪を正させよ。」と。元謐は母の喪中に、音楽を聴き酒宴を催し、御史中尉李平に弾劾された。赦令に遇い、再び封を受けた。後に岐州刺史となった。

元謐は性質暴虐であった。明帝の初め、台使の元延がその州界に到着し、駅逓と巡邏に兵士がいないのを見て、将帥を召し出して検査した。隊主の高保願が列をなして言上した。「所有の兵士は、王がみな私的に使役しております。」と。元謐はこれを聞いて大いに怒り、高保願ら五人をそれぞれ二百回鞭打った。数日のうちに、元謐は近隣の州から人夫を召集し、四門を閉ざし内外を厳重に固め、城中の人々を捜索して掩襲し、鞭打ち拷問をことごとく加えた。また理由なく六人を斬り、城中はみな兇暴に恐れおののいた。ついに衆は大呼し、門に屯集した。元謐は恐れ、楼に登って梯子を壊し自らを守った。士人は散り散りに逃げ、城人は四門を分かって守った。霊太后は遊撃将軍王竫を駅伝で急行させて諭させた。城人はすでに王竫が到着したのを見て、門を開き謝罪した。そこで元謐の州刺史を罷免し、大司農卿に任じた。後に幽州刺史に転じた。元謐の妃胡氏は、霊太后の 従姪 いとこ の娘である。出発せず、妃を殴打した罪に坐し、官を免ぜられた。後に都官尚書に任ぜられた。車駕が円丘を拝礼に出たとき、元謐は妃とともに赤馬に乗って鹵簿(儀仗の列)を犯し、御史に弾劾されたが、霊太后は特に問わなかった。薨去すると、高陽王元雍(元幹の同母弟)が上奏して元謐を論じ、仮侍中・司州牧を追贈され、諡して貞景といった。

元謐の兄の元諶は、字を興伯といい、性質は平穏温和で、都官尚書の位にあった。爾朱栄が洛陽に入ったとき、孝荘帝に上奏して都を晋陽に遷そうとした。帝は元諶に意見を問うと、争って不可であると論じた。爾朱栄は怒って言うには、「何で君に関わることであって、かくも固く執るのか。かつて河陰の役のとき、君はそれに応じたではないか。」と。元諶は言うには、「天下の事は天下の人が論ずる。どうして河陰の残酷なことを以て元諶を恐れさせようとするのか。宗室の戚属として、常伯の位にあり、生きていても益なく、死んでも何の損があろう。たとえ今日、首を砕き腸を流すとも、何も恐れることはない。」と。爾朱栄は大いに怒り、元諶を罪に処そうとした。その従弟の爾朱世隆が固く諫めたので、やっと止めた。見る者はみな震え恐れたが、元諶の顔色は平然としていた。数日後、帝と爾朱栄が宮闕の壮麗さと並木の整然たる様を見て、ついに歎息して言うには、「臣が先日の愚かな考えで、遷都の意を抱いたが、今、皇居の壮観を見るに、どうして河洛を去って晋陽に就く必要があろうか。臣は元尚書の言葉を熟考し、深く変えがたいと知った。」と。これによって遷都の議は取りやめとなった。永安元年、尚書左僕射に任ぜられ、魏郡王に封ぜられた。元諶は本来年長であり、王封を襲ぐべきであったが、その父の霊王が弟の元謐を愛し、世子としたためであった。孝荘帝は詔して元諶に趙郡王の封を回復させた。 司空 しくう ・太保・太尉・録尚書事を歴任した。孝静帝の初め、大司馬に任ぜられた。薨去し、諡して孝懿といった。元諶には他に才識がなく、歴任した官位は重かったが、当時の人々は軽んじた。

元謐の弟の元譚は、頗る強く自立し、若くして宗室から推重され、秦州刺史の任中に卒した。

元譚の弟の元讞は、貪欲で暴虐、礼儀を知らなかった。太中大夫の位にあり、平郷男に封ぜられた。河陰で害に遇った。

広陵王元羽は字を叔翻といい、太和九年に封ぜられ、侍中を加えられ、外都大官となった。元羽は若くして聡明で慧く、訴訟を裁断する名声があった。後に三都が廃止されると、元羽を大理とし、京師の獄訟を裁決することを掌らせた。特進・尚書右僕射に転じ、また太子太保・録尚書事となった。孝文帝が南征しようとしたとき、元羽を使持節として六鎮を安撫させた。その突騎を徴発し、夷夏ともに安堵して喜んだ。帰還して廷尉卿を領した。車駕が出発するにあたり、元羽は太尉元丕とともに留守を任された。帝は諸弟を友愛し、別れに臨み、早く分かれるに忍びず、詔して元羽に雁門まで従わせた。そして元羽に帰還を命じるにあたり、その功績を称えることを望み、故に如意を賜って心を表した。

太和十八年、元羽は上表して廷尉の職を辞したが、許されなかった。元羽は上奏して言うには、「外官考課の令文によれば、毎年終わりに、州鎮は牧守の成績状況を列挙する。そして再考の時、その品第に従って、昇進・降格を明らかにする。外官にはすでに成令があるが、内官の令はまだ頒布されていない。内外の考察は、理において同等であるべきである。臣は敢えて外考を推し準えて、京官の績行を定めたい。」と。詔して言うには、「考課を論ずることは、理において軽んずべきではなく、績を問う方法は、朕の耳に達すべきである。軽々しく発言するとは、甚だ躁急である。今は夏の初めである。しばらく秋まで待て。」と。後に孝文帝が朝堂で群臣を考課したとき、振り返って元羽に言うには、「上下の二等は三品とし、中等はただ一品とする。そうする所以は、上下は黜陟の科条であり、故に絲髪ほどの美も表彰する。中等は本を守るものであり、事は大いに通ずるからである。」と。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻019